2019/03/30

セイラーボブの教えを理解する難しさについて

Living Realityの中で、セイラーボブは、彼の教えを理解するには、7~8回彼の話を聞けば十分理解できる話だと言う一方で、ジェームズ・ブラハの質問に答える形で、彼の教えを最後まで理解した人の数はそれほど多くないと語る場面が出てきます。何度が拾い読みしましたが、具体的なページが出てこないので、アマゾンの書籍閲覧サイトから以下を抜粋しました。これはボブ自身の発言ではなく、ジェームズ・ブラハが書いているものです。

For examplemonths after Bob went home, I asked him how many had fully grasped his message and was stunned when he replied, A few.”said, “You mean a few, as in five or ten, over nearly thirty years of teaching?” He said that plenty of people had gotten some benefits from his message, but only a few had grasped it fully. Only a few had gone “beyond the need for further help,” as Nisargadatta puts itHe added quite happily that the number was increasing because of his recent ・・・

確かにボブは、この本の中で、どれぐらいの人が彼の教えを完全に理解するのかというブラハの質問に答えて、”A few."と答えています。解釈はいろいろですが、「少しはいる」程度に受け止めればいいのかなと思います。

重要なのは、ジェームズ・ブラハがボブに会ったのは2004年だということです。当時、おそらくボブの本はまだ一冊(What's wrong with right now unless you think about it.)しか出版されていなかったはずです。それに、インターネットも今のようには普及しておらず、ネット経由の情報はほとんど無かった頃だと思います。

当時、ボブの家に話を聞きに来た人は、ほとんど予備知識無しでやって来たはずです。多くの人は口コミや、ニサルガダッタやラメッシからボブの存在を聞いてやって来た人たちだったと思われます。そのため、当時はボブの教えをすぐに理解するのが難しかったのではないかと思います。でも今は状況が全く違います。本も何冊か出ていますし、ネットを検索すればたくさんのボブ情報が入手できます。ミーティングのライブ中継も見ることができます。

ボブのミーティングへ何年も通い続けている人もいます。30年以上通っている人もいます。でも、彼らはボブの教えを理解していないから来るのではなく、ボブの教えが好きだから通っているのだと思います。(参考:ボブのHP推薦文)

私の場合は完全に理解するのに四年かかりましたが、その理由は、「何かが起きるはずだ」という条件付けがあまりにも強かったからです。エンライトメント、覚醒、目覚め、特別な理解なんて無いということを何度聞いても納得できませんでした。

セイラーボブの教えを理解すれば、心理的な苦悩から解放されます。そういう意味では何かが起きるのですが、それはあくまでも理解を通して起きるのであって、エンライトメント、覚醒、目覚め、特別な理解を体験するわけではありません。

セイラーボブが教えているのは、今ここにある意識です。それに気づいていても気づいていなくても、理解していても理解していなくても、ずっと前から、そしてこれからもずっと変わらずにある今ここにある意識です。何かになることや、何かが起きることではありません。

私は今でも毎週日曜日に Facebook 経由でボブのミーティングを見ていますが、参加者のほとんどが、ボブの教えを正確に理解していると思います。そんなに難しい教えではありません。ポイントは、教えに対して確信が持てるかどうかです。
確信が持てなければ、機が熟していないだけのことです。確信があっても無くても何の違いもありません。

セイラーボブの教えを理解するための材料はこのブログ内に十分な量があります。 確信、理解、実感をあちこち探し回らないで、「汝それなり」をしっかり受け止めて、機が熟すのを待つだけです。

当ブログを一通り読んでいただければ、セイラーボブの教えは理解できると思っていますが、一通り読んでも理解できないという方で、私に質問したいという方は、「連絡フォーム」から質問してください。このブログに書いたこと以上のことはお答えできないかもしれませんが、何かのお役に立てるかもしれません。

また、何かコメントしたいという方も、「連絡フォーム」からコメントしてください。
質問、コメントに対する回答や返事は、このブログ上で回答、返事させていただきます。なお、非公開、個人的に返事を希望される方はその旨記載してください。
質問、コメントをいただいた方のメールアドレスを公開することはありません。

私は今のところ、今後もセイラーボブ、アドヴァイタ、非二元を中心としてこのブログを書いていくつもりです。今までのように硬い内容のものばかりではなく、もう少しくだけたものや個人的なことも書いていきます。

2019/03/27

The Spiel ⑯ (2019.8.3公開)あなたは完璧そのものです。



You are that Totality - Sailor Bob Adamosn interview episode 5, final pointers

もしあなたが自身に向かって、それは誰に起こっているのかと尋ねる時、自分という存在を信じているために、その自分という存在が実在かどうかを調べようとするでしょう。

何かが起こって、それは誰に起こっているのか?とあなたは尋ねるのですが、明確な答えとしては、それは私、ボブ、自己の中心、イメージに起こっていると答えるでしょう。
そしてあなたは、ではこの私とは誰なのか?と尋ねます。どうしたらいいでしょうか?

あなたは、答えはマインドの中にはないということを理解するでしょう。なぜなら、あなたは何年もマインドの中を探したからです。マインドの性質は振動することです。それは振動し続けます。

マインドの外に出るにはどうしたらいいでしょうか?
あなたは生涯にわたりマインドの中を探し、答えはマインドの中にはないと気づき始めました。なぜならマインドは振動し続けるからです。

どこを探したらいいでしょうか?どこを探しても、それはマインドの中です。マインドから外へ出るにはどうしたらいいでしょうか?
そしてあなたは気づき始めるでしょう。マインドから出る唯一の方法は全停止です。

停止してください。
マインドに続けさせないで。その先へ行かないで。
マインドなしで何を言うことができますか?
マインドが停止していて何を言うことができますか?

そこに何かがあると言うことができますか?
ほんの一瞬停止することができるだけで、おしゃべりはまた始まります。
でもその停止しているほんの一瞬かそこらのうちに、見る働きは停止していないことに気づくでしょう。

聞く働きも停止していません。
呼吸も止まっていません。
機能、生命の本質はそのまま働いています。でも、思考は止まっていました。

毎晩眠りに落ちる時に起きることは、「私はある」という思考を手放すことです。
もしあなたが、その思考だったとしたら・・・。あなたは、自分はその思考ではないということを知っています。

あなたがその思考なら、あなたは道に迷ってしまうはずですが、あなたは毎晩喜んでその思考を手放して眠ります。何のためらいもなく、喜んで眠ります。
ですから、あなたはその思考ではありません。

そしてあなたは経験します。
もし今そのことを考えなかったら、何が問題だというのか?

もう一度言ってください。車が通りました。

もし今そのことを考えなかったら、何が問題だというのか?

もう一度言うと、
思考なしで、そこには何があるかを見てください。
思考を超えて見てみてください。

そして言うでしょう。
「私は思考なしで見ています」
それはまた別の思考です。そしてそれも捨てます。

次は何ですか?
私は思考を捨てた。それも思考です。
くそ、すべて捨てなくてはいけない。

それも思考です。
あなたは突然それも手放すことを理解するでしょう。
自分は概念、もしくは思考で理解しょうとしていて、それはいつも別の思考をもたらしていたということを。

もしあなたが思考なしで見ると、そこにはわずかな中断、隙間があります。そしてその隙間がだんだん長くなっていきます。
思考はやって来続けます。でももしあなたがそれを見抜いたなら、もうそれを二度と信じることはできません。

信じることができなければ、信じるエネルギーはそこに留まることはありません。
それは動いていきます。それは必ず動いていきます。それは一時的なものです。
思考や信念がそれをそこに留めているにすぎません。

数日、数週間、時には数年の間、身につけた概念上のイメージがそこに残ります。
それは条件付けと呼ばれています。

心理的な苦悩は取り除くことができる、心理的苦悩、心配、不安、怒りはもはや不要であるというのは本当ですか?

そのとおりです。
それはまたやってくるでしょう。以前なら、それは数日、数週間は留まっていました。
なぜなら、あなたはそれと葛藤していたからです。それをものごとに関連づけ、取り除こうとして、それをそのままにしておきませんでした。

そこには葛藤、抵抗がありました。
どんな抵抗も葛藤です。そしてどんな葛藤も不安(un-easy-ness)、すなわち病気(dis-ease)です。
病気は心配であり、恐怖であり、不幸であり、憂鬱です。これらはすべて病気(dis-ease)です。

それでも、それは現れます。それを「苦悩」と呼ばなければ、それは消えていくのですか?

いいえ。それは、しばらくはそこに留まるでしょう。
でももしあなたが、もっとその正体を見抜くようになると、それがあなたを悩ますことはもっと少なくなっていくでしょう。なぜならあなたはもうそれを信じることはできないからです。

もしあなたが、何かを偽ものだと見抜いたら・・・、あなたはもう地球が平であるとは信じることはできません。あなたはそれが嘘だと見抜いたのです。
あなたは、もう海の水は青いと言うことはできません。あなたはそれを見抜いたのです。

あなたは、海と空の出会う場所が地の終わりだとは決して言いません。なぜですか?
それはそのように見えます。そのように見えても、あなたは真実を知っています。
あなたはもはやそれを信じることはできず、それがあなたを長く悩ますことはありません。
あなたが、青い海に騙されることはありません。

あなたは、朝、雲が太陽を覆っているのを見て、太陽が空から去ったということはありません。あなたはもはやそう信じることができません。なぜなら、たとえ太陽が見えなくても、そこに太陽がいつもあるということをちゃんと知っているからです。

たとえ見ための上では個人がいるように見えても、それが真実ではないとあなたは知っているのですか?

そうです。もしそれが嘘だと見抜いたら、どうしてそれを信じることができるでしょうか? もしそれが真実でなかったら、どうしてそれを信じつづけることができるでしょうか? あなたは信じ続けることができますか?

もし信じ続けなかったら、それは去っていきます。
そこには執着することのないアウエアネス。それがあるだけです。

言われているように、完全に五感を広く開いて目覚めていてください。
あなたが五感を開いている時、見る働き、聞く働き、味覚の働き、触覚の働き、嗅覚の働き、思考・・・すべての感覚が働いていて、あなたは完全に目覚めています。

でも、「私」として機能している時は自己の中心から機能しています。
その場合は、ただ単にどれか一つしか機能していません。
それが何であれ、見る働き、聞く働き、味覚の働き、触覚の働きのどれか一つだけ。
たとえ今、他の働きが進行中であるとわかっていても。

今、車が走っているのが聞こえますか?

ええ。

それが背景にあります。
それでもあなたは、私と私が言うことに注意を向けています。

はい。

風に揺れる洗濯ロープの洗濯物を見てください。
私たちはそれを見ていますが、それは背景にあって、気に留めることはありません。
風を肌で感じることができますが、少しも気に留めません。

五感を完全に開いてという意味は、他の働きを背景に追いやらないで、すべての働きを同じように働かせるということです。
見る働きと同じように、聞く働き、味覚の働き、触覚の働き、嗅覚の働きも。
何かに焦点を合わせることなく、五感を完全に開いてください。

どれか一つに焦点を合わせるのではなく、起こるがままに任せて、それぞれの感覚とともにあってください。
もし必要なら、見る働きをそのまま背景に残したままにして、聞く働きや、他の動きに焦点を当てます。

静止した状態から動いているものを見るためには、動いている対象に注意を移す必要があります。でもあなたはその対象に執着することなく、完全性の中を動いていきます。
あなたは、その完全性です。

あなたは、「私は全体を一つにまとめて完全にしなければならない」「私は覚醒するつもりだ」と言う小さな分離した存在ではありません。
そうしたことをするためには時間が必要です。

時間という概念のために・・・。
時間は継続であり、そのようなものは存在しません。

個人がいる余地はないのですか?

ありません。あなたは理解しています。
人々は何年にわたって、あれやこれやと試みます。
でも、個人という存在を信じていようがいまいが何の違いもありません。

やがてパターンは崩壊し、姿形は分解していきます。
それでも人々は不必要な心理的苦悩にとらわれてしまいます。

あなたが今それを認識していようがいまいが、私はもうすでにそれなのだ、という事実から始めてください。

それを知っていようといまいと、あなたはもうすでにそれなのだ、という事実から始めてください。「私はある(I am)」に何を付け加えることができるでしょうか?

概念を付け加えることなしに、「私はある」に何を付け加えることができるでしょうか?
その時あなたは、山上のモーゼのごとくとなります。
山上のモーゼはユダヤ人たちの面倒をみなければなりませんでしたが、それをするための人がいませんでした。

彼はあらゆる種類のトラブルに会い、言いました。
「彼らを救い出すために何かしなければならない」
そして、その時そこで、内在する知性から、生きていくための一連の規則がやってきました。彼は一組の十戒の石版を授かり、言いました。

私は今これを持ち帰って人々に告げなくてはならない。
彼らに伝えるためにはどうすればいいのか。
誰が彼らに伝えるために私を遣わしたのか?
彼はそれを「私」からとして伝えるつもりはありませんでした。

その時ふたたび内側の声がしました。
「私はある(I am)」が、あなたを遣わしたのだと彼らに言いなさい。
「私はある(I am)」が私の名である。

そしてモーゼは理解しました。
くそ!私がその「私がある」なのか。(I am that I am.)
私はずっとその「私はある(I am)」だった。

そして彼は、その時その場で自らの本質を理解しました。

くそ! 私がその「私がある」なのか。(I am that I am.)

(2人笑う)

くそ! その「私がある」ではないものは何ですか? すべてがそれです!

ええ。すべてが「私はある」です。(Yes, everything is that I-am-ness.)
それがニサルガダッタが言っていることです。
彼は「私はある」とともに留まりなさい、と言っています。

思考のことではありません。
存在の感覚、それがあなたなのですが、その知る働きがマインドを通じて翻訳されて、思考の「私はある」となって現れます。
そして偉大なマントラでは「私はそれなり(I am that.)」と言います。
私がその本質です。それが思考として翻訳されます。でも、思考や言葉は物ではありません。

それは本当に本質ですか? それは本当に一つのものですか?
それともそれは空ですか? それとも何もないものですか?

いいえ。あなたはそれにどんなラベルも貼り付けることはできません。それは物ではありません(no-thing)。それは常に物ではありません(no-thing)。

この顕現に現れるすべてのパターン、姿形はすべて単なる物にすぎません。
では、物が何もないところから生まれることがあるでしょうか?
すべての物は空の空間に現れています。

空間は空です。それは概念化されません。
それは永遠の静寂、静止、空です。
その認識する空が振動して様々なパターンや姿形となって現れますが、それはすべて空の中にあらわれた物です。

物が無(nothing)から生まれることがあるでしょうか? ありません。
ということは、そうしたパターンや姿形でさえ、何もないもの(no-thing)が現れたものであり、見ための上では物のように見えているにすぎません。

ということは、一つの本質でさえも一つではないのですか?

ええ。

それをマインドで理解することはできません。マインドが理解できるのは物だけです。

そのとおりです。何もありません。
一つの本質がパターンとなり、姿形となって現れ、すべての物となります。
あなたもおそらく、それ以外のものではありえません。

ということは、あなたは体でもマインドでもありません。
あなたが、「我はそれなり」と言う時、自分は人間だという考えを抱いていませんか?
あなたは完璧そのものです。
それがすべてです。私はその本質であるということから離れないでください。

でも、私たちがそのことをマインドでは理解できないのに、どうして私たちが探す道具はマインドしかないのでしょうか?

ええ。それを使います。マインドはとても役に立つ道具です。
考える能力はとても役に立ちます。

顕現の世界であなたがこうしたものすべてを手に入れ、私がそれを築き上げたと言います。
私がその絵を描いた。私がそれをやった。私がこれをやった。私があの本を書いた。
そしてもう一度言います。生命の本質を体から取り去ったら、それでもマインドや心臓、その他のこともそこにはありますが、あなたは生命の本質なしでマインドで本を書くことができますか?

生命の本質なしで家を建てることができますか?
生命の本質なしで思考、感覚、感情を持つことができますか?
何がそれをやっているのですか?
個人という存在は何もしていません。それは何もできません。

生(life)が人を通じて表現しているのです。
生(life)がその姿形に、考え、感じ、触れ、嗅ぎ、すべてのことを可能にしているのです。
考え、働きかけるという驚くべき能力は、生命の本質(Life-essence)の働きです。
それが、あなたとして、あなたを通して表現し、生きています。
ということは、あなたはその生命の本質に違いありません。

人々は自らを人だと思って過小評価しています。
自らを制限しているラベルを取り除いてください。
もう一度繰り返します。

私は完璧そのものです。
あなたは完璧そのものです。

2019/03/26

The Spiel ⑮ (2019.6.30公開)言葉は物ですか?


Is the word a thing? Sailor Bob Adamosn interview episode 4

マインドとは何ですか? 思考より前に、どんなマインドが存在していますか?
あなたが母親のお腹にいた時、マインドはありましたか?
人生の最初の2、3年の間はどうですか?

考える能力が発達するまで、あなたは何も理解していませんでした。
あなたが物事を表現できるようになるには、考える能力が必要でした。
エネルギーがパターンとなって脳で働くようになることが必要でした。

他の体の器官についても同じです。それには優先順位がありますが、生命の本質なくしては機能しません。

そしてラベル、言葉。もし言葉を習得しなかったら、考える能力は発達しなかったでしょう。
私たちが今まで話した言葉と、これから話すであろう言葉は今までに学んだものです。
学んだという意味は、習得したという意味です。

私たちが生まれた時は言葉を知りませんでした。私たちは成長する過程で言葉を身につけました。
私たちは言葉を身につける必要がありました。周りの人がそうするように仕向けたからです。両親がそう仕向けたからです。
その時、私たちはそのことを疑問に思うことはありませんでした。

私たちは信念を受け取りました。私たちは言葉だと思うようになりました。
私はボブ。オーストラリア人。いいやつ。自分自身に対するラベルを貼りつけました。
疑問に思うこともなく信念を受け取り、それが実在であると思うようになりました。

私たちは自分のことを言葉だと思っているのですか?
そしてそれは言葉を学んだからですか?

ええ、そうです。
聖書を見てください。それは何と言っていますか?

「始めに言葉ありき。言葉は神とともにあった。」

言葉は神でした。すべては神でした。私たちは物事にラベルを貼り、私たちがものごとを支配していると思うようになりました。
言葉無くしては何もできませんでした。

私たちが信じている神、すなわち言葉無くしては何もできませんでした。
すべてのことは彼によって(言葉によって)作られました。
言葉無くしては何も生まれませんでした。

言葉は肉となり、私たちとなって現れました。ということは、私たちは言葉にすぎません。

私たちは世界全体を、名前をつけることによって作り出したのですか?

そうです。

聖書にあるように、アダムとイブは創造物にラベルを貼る仕事を与えられたのですか?

彼らは善悪の知識の木の実を食べたのです。
善悪の知識の木とは何ですか?
それは言葉ではありませんか?

ええ。

食べたものはリンゴとなっていますが、それは例えであり、良い例えです。
彼らは楽園にいたのです。言葉は知りませんでした。
良いも悪いも無く、蛇とか他のことも知りませんでした。

そうしたことは、そこにあったに違いありませんが、そのことについての疑いや疑問や議論はありませんでした。
それはすべてパターンであり、姿形でした。
でも彼らは知識の木の実を食べ、言葉を知りました。
彼らは言葉を知り、使ったのです。

あなたは分離した存在だと誰があなたに言ったのですか?
言葉無しで、あなたは分離した存在ですか? 誰があなたにそう言ったのですか?

でももし頭痛がしても、私がそれを「痛い」と言わなかったら、それは痛くないのですか?

おそらく痛いでしょう。でも、「痛い」という言葉はどこからきたのですか?
それは私たちがそれに貼り付けたラベルではありませんか?
もしあなたがそのラベルを貼り付けなかったら、それは単に他の感覚にすぎません。

私たちの感じるものや感情はすべて感覚です。それに私たちはラベルを貼り付けます。
そして、その言葉に関連した過去の感じや感情と結びつけます。
もしラベル貼りをしなければ、新鮮で新しい感情がやってきます。
もし過去に関連したラベルを貼らなかったら、それは何ですか?
それを調べてみてください。

私たちが古いラベルを貼りつけるやいなや、過去に経験した感じや感覚でいっぱいになって圧倒されてしまいます。
でももしあなたがそれを新鮮で新しいものとして見て、ラベルを貼りつけることなく見るなら、それは他の物事と同じように去っていくでしょう。
概念で留めようとしなければ、それは去っていきます。それは変化していくでしょう。

あなたが今までの人生で経験した感覚を見てください。
そうした感情は、必要以上に長く留まりましたか?
私たちは、自身に条件づけされた言葉を浴びせ、それによって苦しんでいます。
でも、遅かれ早かれそれは去っていきます。

そしてまた別のものがやってきて、古いものと同じ扱いをします。
そしてまたそれに縛られてしまいます。
でも、自然の中で永続するものは何ですか?
時間という概念を貼り付けなかったら、すべてのものは自然発生的です。
すべてのものは常に変化しています。

それはあなたに、顕現は束の間のものだと教えています。
何も留まるものはありません。それは常に変化しています。
その変化の中で生そのものが動いています。

そしてそれが唯一の生です。それがすべてです。
ニサルガダッタは言いました。
「生があるだけだ。そこには生を生きる何物もいない。」

あなたも私も皆、すべての人は生を生きていると思っています。
でもそうではありません。
生があなたを生きているのです。

生命の本質を体から取り除いてみたら、どうなるでしょうか?
あなたは死体です。
死体には目、耳、心臓、肺、声帯、そして他の器官がすべてあります。
でももし生命の本質がなかったら、それはコンピューターのようなものです。

コンピューターの中には素晴らしい情報があります。
でももし電源が入っていなかったら、何を引き出すことができるでしょうか?
何も引き出せません。
もし生命の本質が体になかったら、私たちはどうなるでしょうか?  私たちはただの死体です。それは知性エネルギーのパターンによって分解が始まります。

それはそのままではなく、腐食し始めます。酵素がそれを腐食させ、分解します。
そしてそれはまた生のエッセンスとなり、ミネラルとなり、土に帰っていきます。
土の中には種があり、種はそうしたミネラルを必要としています。
そして少しの水があれば、それは発芽するか、何かが起こります。

水が海へと流れ込み、あなたは再び同じ水を手にすることはありません。
生命は生命を食べて命を繋いでいきます。

ということは、死体も同じ生命の本質なのですか? たとえ死んでいたとしても。

ええ、そうです。
何が起きるでしょうか。それは体の機能を止めます。
それは、体の姿形を保つことを止めます。
そして反対の極へと振動し始めます。
それは反対の極へ振動して、酵素へと形を変えます。

酵素は体を腐敗させる生命の本質です。酵素は体を食べ始めます。
体を腐らせ、分解します。
そして何が残るかといえば、おそらくミネラル、骨、などで、それは土に帰り、土の中ではそれを再利用しようと待っているものがいます。

(ボブが風に揺れる葉を気にする)

何が風を吹かせているのですか?

バイブレーション、エネルギーの働きです。
それが動きとなって風を起こしています。
それは何の中に現れていますか?

空間の外ですか?
それは空間の外に現れていますか?
空(くう)の外ですか?

ということは、同じものが風を吹かせ、体を作り、そして体を死なせ、分解しているのですか?

すべてはバイブレーションの働きです。
始まりと終わりがある単なる動きではありません。
それは自然な顕現です。始まりも終わりもありません。

始まった時にはもう終わっています。
終わった時にはもう始まっています。
そこには定まった地点はありません。

聖書にもあるように、
何物にも静止した地点はありません。
そして、何物にも自己はありません。
それはすべて自然な顕現です。

様々なパターン、姿形へと振動していきます。
それは確かな実体のあるものとなって現れます。
でもそれを顕微鏡で詳しく調べてみてください。どれだけ確固たるものなのかを調べてみてください。

顕微鏡で、体がどれだけ確固たるものなのかを調べてみてください。
そこにはたくさんの隙間、空間があります。
その空間、空は何ですか?

仏陀はそれを、認識する空と言いました。
その空間そのものが認識で満ちています。
認識の別の言い方は、知る働きです。

あなたは今、知る働きです。それは事実ではありませんか?

はい。

あなたは、自身の知る働き、存在を否定することができますか?
存在、知る働き、存在への愛、それがサット・チット・アナンダです。
仏教徒は認識する空と言い、ヒンズー教徒はサット・チット・アナンダと言います。

それは同じことを異なる概念で表しています。
また別の人はそれを究極と言います。それは、大いなる完成と同じ意味です。
それはそう言われてきましたが、私たちはそれを知ろうとしませんでした。
私たちは祖先に従ってきましたが、彼らは言葉が現実のものであると教えてきました。

どうしたら、その純粋な存在を垣間見ることができますか?
マインドはいつも忙しく、様々な気を散らせるものや思考で私を楽しませているように見えます。

もしあなたが、言葉を超えて見ようとするなら・・・。
言葉とは何ですか?
単なる思考ではありませんか?

思考とは何ですか?
思考とは何かを理解することはできますか?

いいえ。

どうやって理解しようとしますか?

別の思考?

別の思考です。思考が思考を理解しようとしています。
そしてあなたは言うでしょう。思考で思考は理解できないと。
それでどうなります?
そうすると、その瞬間に中断が起こります。

その中断の間、あなたは消えましたか?
バラバラになりましたか?
あなたは終わりになりましたか?

起こったことは、思考がほんの一瞬停止したということです。
でも、生は起こっていました。
あなたはそれでも呼吸していました。
考えることなしに、あなたの心臓は脈動していました。

食物は消化され、髪と爪は伸びていました。
食べ物は消化され、こうしたすべてのことは起こっていました。
言葉も思考もなく、起こっていました。
生は続いていました。

言葉を調べてみてください。
言葉は物ではないということを理解してください。
「始めに言葉ありき」
あなたが言葉を覚えるまでは、あなたは始まりませんでした。

あなたが今までに話した言葉はすべて学んだものです。
言葉は物ではありません。言葉は現実ではありません。
水という言葉を考えてみてください。

できるなら、水という言葉を飲んでください。
飲めるなら、言葉を飲んでみてください。
言葉の中を泳いでみてください。溺れてみてください。
できません。

火という言葉があなたの口をやけどさせることができますか?
言葉で体を暖めることはできません。
口をやけどさせることはできません。料理もできません。
ということは、言葉は物ではありません。

あなたが自分だと思って信じている「私」や「私の」という言葉を調べてみると、言葉は物ではありません。言葉はあなたという足場を失います。
考える能力によって言葉は利用され、発達しました。
でも、あなたが自身のことを独立した個人として、実体のないもので責め立てることはできません。

でも言葉は一つだけではありません。感受性、情緒、傷つきやすさ、すべての過去、何千もの言葉がイメージを作っています。

ええ、そうです。でも、それらすべては、貼り付けられたラベルです。
それは何ですか? 可能性あるいは機能?
言葉がなくても、純粋なものはあるのではないですか?

あなたは見ています。
「私は見ている」というラベルなしで、あなたは見ているということを理解してください。
あなたは「私は聞いている」というラベルなしで聞いています。
あなたは「私は考えている」というラベルなしで考えています。
ここにあるすべてのことに、私たちはラベルを貼りつけています。

言葉がなくても、多くのことは起こり続けています。
そして、恐れという感情はあなたが貼り付けたラベルです。
それを、新鮮で新しい感情として見てください。
私たちを困らせる古いラベルを貼るかわりに、新鮮で新しい感情として見てください。

それは過去には決して表現されなかったものです。
もしそれを新鮮で新しい感情と知ったら、それにラベルを貼るでしょうか。いいえ。
それは愛と憎しみ。これは愛しているが、あれは憎んでいる。
何かを憎み続けるのか、それとも新鮮で新しい感情として見るのか。
それとも古いラベルを貼るのか。

彼女が私に先週か去年したこと。
彼女を愛していた。好きだった。そしてあのあばずれを憎んでいる。

それを新鮮で新しい感情として見てください。
そうすれば、条件付けされた信念はどこにも入りこみません。
それが解放です。

あなたは何から自由になったのですか?
あなたは自分自身という束縛から自由になりました。
それが今まであなたを縛っていた唯一の束縛です。
自分自身の束縛とは何ですか?

「私」という信念です。
それを一つの自己(One Self)として見るかわりに、人格を与えてきました。

私たちはそれを自分自身(My Self)と呼んでいます。それを「私」と。
「私」は概念です。実在ではありません。

2019/03/25

The Spiel ⑭ (2019.5.7公開)マインドなどというものがありますか?


Is there a mind? Sailor Bob Adamosn interview episode 3

私たちには考える能力が備わっています。
その能力を使って調べてみてください。
私はこの体なのか?
私はこの分離した個人なのか?
私はこの個人なのか?

調査すると、それは粉々になります。偽物は調査に耐えません。偽物は実在ではありませんが、私たちは調べもしないで実在であると信じています。
真実ではないものを信じていると、それを調べることによって粉々になります。
偽物は調査に耐えません。

どうやって調べればよいのですか?

自分自身に、この「私」とは誰、あるいは 何なのかと自問してください。
私は体なのか? 私はマインドなのか? 私は人なのか? 私はペルソナ、概念上のイメージなのか?
調べてみると、ペルソナは仮面、つまり概念上のイメージです。私は概念上のイメージなのか?

もし私が概念上のイメージだというなら、眠りにつく時に何が起きるでしょうか?
イメージすべてを手放す時に私も終わるはずです。でもそうはなりません。なぜなら、翌朝になればまた目が覚めるからです。

朝、目を覚ますのは誰ですか?

見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことがあなたに始まります。
眠りがあなたから去って、それらのことがあなたに始まります。考える働きがふたたび始まります。それにあわせて、概念化が働き始めます。そこには誰も目を覚ます人はいません。

ただ単に、アウエアネス、つまり本質がうわべ上は不鮮明になっていただけです。意識(consciousness)は、そこに意識があるということに気づきます。あなたが深く眠っている時は、自分の意識に気づいていないだけです。概念なしでは、私はいると言うことはできません。

個人、つまりエゴは目覚めようとして探求を続けていますが、その個人が目覚めるということはないのですか?

ありません。でも、わかり始めるのです。その個人と呼ばれている者は、私が信じているような存在ではないということが。そのことに対する目覚め、つまり、わかり始めるということはあります。

認識するということです。私は体ではない。私はマインドでもない。私はこうした概念でもない。私は個人でもないということを完全に理解するということです。自らの本質、存在を完全に知るということ、私が存在そのものであると理解するということです。私はそれにいくつものラベルを貼りつけていますが、私はそのラベルですらありません。

存在が目覚めるのですか? それとも、アウエアネスが目覚めるのですか?

それは、私たちが実在すると信じこんでいる存在が、実際には実在しないということを認識するということです。自分は間違った方向を探していたということがわかり始めます。私たちはこうした概念を当然のことと受け入れ、信じてきました。それは、両親、学校、社会、その他すべての人によって強化されました。

信じるエネルギーが注がれ、それが現実であると思いました。そしてその信念は見破られました。それが見破られたら、それを信じ続けることができますか? それが真実ではないとわかったら。もう信じることはできません。それが、自然な理解です。あなたはもう信じているようなものではありません。

辞書によれば、信じているという定義は、現実ではないことです。信じていることの定義は、「理由もなく調べもしないで何かを受け入れること」です。それには根拠がありません。「確かな事実や証拠もなく、言われていることを受け入れること」

私たちは生涯、その根拠を探そうともしなかったのではないですか? そしてマインド、概念の中に答えはなかったのではないですか? そして私たちはわかり始めます。おそらく自分は間違った方向を探していたのだと。マインドと呼ばれる場所を生涯探したが、答えはみつからなかったと。おそらく、答えはそこにはない。

マインドの中を調べる時、マインドの外に出る方法は何なのか? そこにはマインドの外に出る方法はありません。どこまで行ってもそれはマインドの中です。マインドの中にいる時、マインドの性質は振動することです。それは二元的に動きます。すべてのバイブレーションがそう動くように。そこに出口はありません。

そして、自分は間違った場所を探しているのだ、どうしたらいいのだろうかと気づき始めます。どうしたらマインドの外に出られるだろうか調べ始めます。思考を一旦停止してみるか、思考ようも前にあるものが何であるかを見ようとします。見る働きの共鳴が起こり、私は思考よりも前に存在する命なのだという理解が起こります。思考よりも前にある。

でも、概念を分析する時は、マインドでじっくりと考えているのではないですか?

ええ。思考を通してです。マインドは思考を活用することができませんでした。「あなたという存在は理解することができない」「あなたは達成しなければならない」「あなたは解放されなければならない」「私は十分ではない」「私は臆病だ」。マインドが今まであなたにこう言ってきた代わりに、今、マインドは活用され、理解されています。

一つの本質、ちょうど太陽が自然に輝き、ひとりでに輝き続けるように、それは自ら輝いています。昼の明かりは自ら輝いています。夜は自ら暗闇となります。それは一つのもの(self)です。それがパターンとなり、姿形となって、すべてのものとなって現れています。そこに分離はありません。概念上のイメージとして展開することもありません。

OK。今それを垣間見ることはできますか?

Yes!

どうやるのですか?

あなたは今、見ていますね?

Yes!

「私は見ている」という思考がやって来る前に、あなたは見ているのではないですか?

Yes!

それはどうやってマインドに翻訳されていますか? 見ることが起こっていて、それが「私は見ている」と翻訳されます。そうではありませんか? あなたが、「私は見ている」という時、あなたは何をしていますか? あなたは、こうした概念すべてを付け加えています。自分自身に抱いている概念上のイメージを付け加えています。「これが私、カット」。その概念上のイメージが見ていると考えています。

今や、その概念上のイメージが見ていると思っています。ビデオや質問、何であれ、カットが見ていると思っています。そうして、カットが主体となりました。あなたが抱いた概念上のイメージのせいで、カットが主体となりました。そして、見られている対象が客体となりました。あなたがラベルを貼って形を与えたからです。

でも、「私は見ている」という思考が実際に見ることはできますか? 思考が見ることができますか?

いいえ。

思考が聞くことができますか?

いいえ。

思考が意識することができますか?

いいえ。

今あなたが、この概念上のイメージを調べてみると、それが見ることはできません。聞くことも意識することも何もできません。選択することはどうですか? できません。
見ることは起こっています。聞くことは起こっています。味覚、触覚、嗅覚、すべての機能は起こっています。

もしそれを思考で主体と客体に翻訳しなければ、それは純粋に自然に起こっていることにすぎません。自然に努力なく起こっています。地球が太陽のまわりを回っているのと同じことです。地球が、「私は太陽のまわりを回っている」と言いますか? 太陽が、「今暗くなった、今は昼間だ」と言いますか? 太陽はそんなことは何も知りません。地球も同じです。

今地球が太陽に表面を向けていれば、それは昼間です。そして地球が回転して反対側になれば夜です。私たちに暗闇がやってきます。でも、暗闇は光のことを何も知りません。光は暗闇のことを何も知りません。それは一つのものの二つの側面です。それは振動して反対へと動きます。

太陽も同じです。太陽は輝くことをやめません。それはいつも輝いています。でも、雲によって見えなくなります。でも太陽はそこにあります。それはいつも新鮮です。それはあなたの本質のようなものです。思考やフィーリング、感情が現れても、それによって不鮮明になることは決してありません。思考やフィーリング、感情はやってきては去っていきます。

どんな名前で呼ぼうと、どんなラベルを貼りつけようと、それは思考であり、あなたはそれを見失います。考える能力はとても役立ちますが、他のものと関連づけてしまうために、思考が反対のものへと分割してしまい、反対のものが現れます。そしてうわべの上で、良いとか悪いとかが起こります。

そこで私は、一方の端しかない棒はない、という表現を使います。どんな棒にも両端があります。良い方の端は丸くてなめらかで、持ちやすく、悪い方の端は先が細くなっていて、黒くなるか、折れてしまうでしょう。それでも一本の棒です。

悪い方が現われと、それが気に入らず、取り除こうとします。それが自然に変化していくことを理解しません。良い方の端は、あなたがどんなにそのままであって欲しいと思っても、そのままではありません。それは自然と同じように変化します。

それは常に反対へと振動します。いつも夏というわけではありません。いつも冬ということもありません。いつも春、いつも秋ということもありません。それらはいつも一時的で、常に変化しています。いつも昼間というわけではなく、いつも夜ということでもありません。

ということは、今でも時々あなたにネガティブな感情や思考がやって来るということですか?

ええそうです。思考はバイブレーションです。それは二元的に振動します。あなたのマインドがどういうふうに機能するかを見てください。良いと悪い。良いことはポジティブと言われ、悪いことはネガティブと言われています。

幸福と悲しみ。幸福は良い事と思われ、悲しみはネガティブだと思われています。喜びと苦痛。喜びは良いこととされ、苦痛はネガティブとされています。マインドを見てください。それはいつも二元的に機能しています。ポジティブとネガティブ。良いと悪い。幸福と悲しみ。愛と憎しみ。

それ以外のやり方では機能しません。どこに中心がありますか? どこが真ん中ですか? ネガティブかポジティブ。私は南極点に行く例えを使うのを好みます。南極点を超えて、どれほど南に行くことができますか? 行けません。次の一歩は北へ向かうはずです。

もしそれでも地球の上にいたいなら、北極点へ行ってください。北極点を超えて、どれほど北へ行くことができますか? 行けません。次の一歩は南へ向かうはずです。さて今、彼らはどこで出会いますか?

彼らは対等(equal)の場所まで戻ってくるはずです。そしてそれを赤道(equator)と呼ぶのではないですか? そしてつり合いがとれた時、もう反対の極へとは機能しません。そのつり合いがとれた時点で、何が良くて何が悪いというのですか? うわべの上ではそれは現われているように見えますが、それを信じることはもはやできず、あたりまえのこととして受け入れることもありません。そしてそれは自然にひとりでに変化していきます。

2019/03/24

The Spiel ⑬(2019.4.12公開) 時間は実在ですか?


Is there a time? Sailor Bob Adamosn interview episode 2

あなたは形あるマスクの下で、自分が空であるという体験をしているのですか?
それとも、姿形はあっても、それが実在ではないと知っているのですか?

知る働き、経験する働き。すべては知る働き、経験する働きの中で起こっています。
しかし私は、物ではありません。
私はパターンでも形でもありません。
私は空です。

見かけの上では物となって現れているにすぎません。
でもそれを調べてみると、すべては言葉です。
言葉を学ぶ前、私は何でしたか?
言葉を学ぶ前、あなたは何でしたか?

自分が生まれた時のことを覚えていますか?
自分は生まれたと言うことができますか?
あなたは自分の生まれた時のことを覚えていません。
なぜなら、言葉を知らなかったからです。

あなたは、どんな言葉も概念も知りませんでした。
どんなラベルも知りませんでした。
関連付けるどんなイメージも知りませんでした。

そこにあったのは、感覚、感情です。
幼い赤ちゃんを見てください。
すべてが自然に起こっているのを見てください。
物事は起こり、去っていきます。

赤ちゃんは、何物にも長く執着しません。
何か他の事が起きると、注意はそちらへ向かいます。
ラベルを貼りつけることなく、次の場所を見ます。
そちらの方がより注意を引くからです。

もし自分が空であると理解したら、日々の生活に興味を無くしてしまうのではありませんか? 例えば、夫を愛せなくなりませんか?

なぜ? どうして? 
それはそのように現れているのです。
あなたの夫を連れてきて、あなたに引き合わせ、一緒にしたのは何ですか?
それは、自然に現れている物事と同じではありませんか?

一つのものが、見かけの上で二つのものになり、二つのものがたくさんのものになりました。
それでもそれは、一つのもののままです。
それは常に一つのものです。

言葉を学んだ時、自分は空以外の何かであると思うようになりました。
それは純粋で自然に起こる働きでしたが、分離した存在となりました。
あなたは、「私」という思考と同化しました。
それは原初の思考です。

言葉を学んだ時に思考が起こりました。
見る働きは起こっています。すべてのことは起こっています。
そしてあなたはこう言います。
「私は考える」「私は感じる」「私は見る」「私は経験する」

あなたは言葉によって主体を作り出しました。
何かを見たり聞いたりして、私はあれやこれを見ているという概念を抱きます。
そしてそれが客体となります。

そしてそれが、見かけの上で、見る働きを分割します。
でも、見る働きなくして、見る人、主体は存在しますか?
見る働きなくして、客体、見られるもの、椅子、テーブルは存在しますか?
見る働きなくしてはありえません。

すべては、見る働きの中で起こっています。
見る働きは、自然でひとりでに起こっている作用です。
聞くこと、味覚、触覚、嗅覚、フィーリング、それは実在です。
そこにつけられている-ingは、この瞬間に実際に起こっている何かということです。

でもそれには実体も独立した性質もありません。それは自然発生的なものであり、そこに分離はありません。
私たちはうわべのものに執着し、それを実際よりも長く心に留めます。

時間を見てください。
時間はいつ始まりましたか?
時間を把握しようとして、「時間は今この瞬間始まった」と言う時、「時間はもう終わった」と言っているのと同じではありませんか。

「時間はもう終わった」と言う時、その瞬間に時間はまた始まっているのではないですか? そしてそれはもう終わっています。
ということは、そこには継続は全くないということです。

一つの部分に執着すればするほど、ああ、私はこれを見ているという時、うわべ上の分割を生み出しているのです。
何かを見ると、うわべ上ではそれが永続しているように見えます。
時間という概念のせいで、継続しているように見えます。
もともとの状態よりも永続しているように見えます。

もし過去のことを考えなかったら、過去は存在するかと自問してみてください。
思考なしで、何を言うことができますか?
思考なしで未来が存在するか考えてみてください。
過去と未来はいつ起こっていますか?

あなたは、今この瞬間から離れたことはありますか?
過去を生きることはできますか?
遡って、昨日を生きてみてください。
明日を生きてみてください。

できません。
過去を生きようと想像、期待、回想することはできます。
昨日、5分前。
でも、実際にさかのぼってそれを生きることはできません。

あなたが想像、期待することは、今この瞬間に起こっています。
あなたは過去に遡ることはできません。
あなたは過去の記憶を思い出し、未来を想像しているにすぎません。
明日何をしようと想像、期待することはできますが、それを生きることはできません。

もしあなたが未来のことを考えなかったら、それはどこにありますか?
あるのは今この瞬間だけです。

過去、未来はどこにあるのですか?

それは記憶です。
あなたは過去を思い出すことはできます。
でも、あなたがそのことでできることは、今この瞬間に思い出すことだけです。
あなたが今この瞬間に思い出せなかったら、
あなたは過去の出来事を覚えていますか?

少し前に言ったことを覚えていますか?
少し前に考えていたことを覚えていますか?
少し前に何をしたか覚えていますか?
あなたが思い出さないかぎり、あなたは覚えていません。

未来に何かをすると期待、想像することは可能です。
でもそれは現実ですか?
それは期待、想像、考え、概念です。
それは見かけ上の未来の時間です。

でもあなたは決してこの瞬間から離れたことはありません。
概念上で離れたにすぎません。
概念や思考の上だけです。それがあなたのマインドの中で起こっています。

時間は単に概念上のものですか?
それはマインドの中にあるだけですか?

そうです。
それが、私たちが理解しなければいけないことです。
あなたの過去の出来事、経験、条件付けはすべて死んだイメージです。
それは過去のものです。

もし今この瞬間に考えなかったら、条件付けはどこにありますか?
もし今この瞬間に考えなかったら、過去はどこにありますか?
それはすべて思考があって成り立っています。
もし期待、想像しなかったら、未来はどこにありますか?

でももし考えなくても、私個人は存在するのではないですか?

本当ですか?
それは、どれほどリアルですか?
それは自然に起こっている現象です。
あなたはそれに個人というラベルを貼りつけています。

人(person)という言葉はどこから来ましたか?
もともとの言葉はペルソナ、マスクです。
人は概念上のマスクを被りました。
それは両親から言葉を学んだ時に起こりました。

2歳かそこら。2歳半。考える能力が発達し始める前は、人(person)ではありませんでした。
そこには人はいませんでした。
それまで物事は自然発生的に起こっていました。
というのも、あなたは言葉に翻訳することができなかったからです。

あなたはどんな言葉も知らなかったからです。
まだ考える能力が十分発達していなかったので考えることができませんでした。
その能力は2歳か2歳半までは発達しません。

人間のその能力は他の動物、鳥、昆虫よりも発達しています。
でも、動物たちは他の能力が発達しています。
鳥は私たちよりよく見ることができます。
鳥は飛ぶことができますが、私たちは普通はできません。

でも私たちは考える能力によって、メガネや双眼鏡を作ることを学びました。
望遠鏡でよく見ることができます。
飛行機、ヘリコプター、気球によって飛ぶことができます。

犬には嗅覚があります。
私たちは犬と同じように嗅ぎ分けることはできません。

あらゆる種類の感覚が起こっています。
私たちはそれを概念化することができます。
動物や昆虫は私たちよりももっと感じることができます。

そして、私たちは分離した存在、個人であるという考えを受け入れました。
それを調査することも、疑問に思うこともありませんでした。

あなたは違った能力について話しています。
あたかも私たち人間が特別ではないかのように。

ええ、無(NO-thing-ness)、純粋な本質、すなわち知性エネルギーの中ではあなたは何であれ、基本的な空間、概念化されない意識の空間、純粋なる知性、貼り付けたければどんなレベルを貼り付けてもかまいませんが、概念なしで、いったい誰があなたより優れているのですか?
概念なしで、一体誰があなたより劣っているのですか?

あなたは自身に対して概念を持ちました。
そして、他の人に対しても概念を持ちました。
そしてその概念を自分だと思うものに結び付けました。
あなたは、自身を他者よりも優れているとか劣っているとか考えます。

概念なしで、誰があなたより優れているのですか? 誰が劣っているのですか?
もしそれがすべて空、認識する空だとしたら。
知る働き、すなわち知性で満ちているとしたら。
一体誰が優れていて、誰が劣っているのですか?

そしてあなたは他者に何を望みますか?
あなたは概念を抱いています。
彼らは私の持っているものを手に入れた。
私は彼らが持っていないものを手に入れた。
だから私は彼らよりも優れている。

彼らは私の持っていないものを手に入れた。
だから彼らの方が優れている。
そうした概念なしで、あなたはどうなりますか?
その平静の中で。概念化されないアウエアネスの中で。

それがまた聖典の中で言われていることです。
根底にある空間、すなわち、大いなる完成は概念化されない意識です。
どんな概念もない意識(アウエアネス)です。
それはすなわち、究極のもの、大いなる完成です。

概念無しで、究極に何を付け足すことができますか?
もしそれができるなら究極ではありません。
そこから何を取り去ることができますか? 何も。
もしそれができるなら、究極ではありません。

大いなる完成についても同じことが言えます。
もし何かを付け足せるなら、それは完成ではありません。
それから何かを取り去ることもできません。
もしそれができるなら完成ではありません。

あなたはそれです。忘れないでください。

2019/03/23

The Spiel ⑫ (2019.4.10公開) Am I this PERSON?


 Am I this PERSON? Sailor Bob Adamosn interview episode 1

どうして人々は苦悩するのでしょうか?

人々は自分に対して、間違った考えやイメージも抱いているからです。自分自身で調べて見ることです。
言葉は、実際にその物ですか?
自分自身に対して抱いている概念、言葉、思考が、本当のあなたですか?

私たちは皆、あなたも私も誰もかれも、自分は人、個人、分離した存在であるという信念から始まっています。
両親、学校、回りのみんなが、その信念を植え付けます。そして、それが自分だと信じて、さらにそれを強化します。

しかし、いにしえの昔から、聖人、救済者、賢者と呼ばれる人たちは、その本質を見抜いてこう指摘しました。
独立した個人、分離した存在というものはいません。
それが偉大な聖典の中に書かれていることです。
一つの本質(エッセンス)がパターンとなり、姿形となり、すべての物となって現れています。

本質(エッセンス)と私たちが呼ぶものでさえ、それは私たちがそれに貼りつけたラベルにすぎません。
それはすべて、知性エネルギーが振動してパターンとなり、すべての顕現として姿形となったものです。

ヒンズー教ではそれを、ナーマルーパ、名前と形と表現します。名前は私たちが付けたラベルです。形はパターン、姿。私たちもそうです。人、体、マインドなどはすべて姿形です。木、雲、その他すべても姿形、パターンです。

どうして私たちは自身のことを姿、すなわち形だと思っているのですか?

私たちが言葉を覚えた時に、そう教えられたからです。2歳から2歳半の頃に、考える能力が発達し、自身のことをこの名前、すなわち自身に貼られたラベルであると信じました。
そしてそれを調べることはなく、それが間違いであるとは知りません。

でも、私には体があり、両目を通してしか見ることができないように感じます。私は(体を通して)痛みを感じます。

でも、それを感じているのは誰なのですか?
それは分離した存在、個人ですか?
それともそれは起こってくる感覚にラベルを貼ったものですか? 他のものすべてにラベルを貼ったように。

私(me)、私のもの(mine)。その二つは概念であり、それが問題となる私(me)、私のもの(mine)です。
もしそこに「私」がいると考えていると、たくさんの概念や考えを受け取ることになります。

これは私のものだ。私、私のもの、は二つの概念であり、それが問題を引き起こします。

どうして私たちは感覚を自分の体と目から受け取るのでしょうか? どうして他の人の体や目を通して受け取ることができないのでしょうか?

パターンはそれぞれ独自の現われだからです。一つの本質がそれぞれ独自のパターンとなって現れ出ています。
それぞれ、無数の違ったやり方で、驚くべき顕現となって現れています。
木として、花として、その他すべてとなって。

でも、木は自分が木であることを知りません。
花は自分が花であることを知りません。
でも、私たちには考える能力があります。考える能力は非常に役に立つ能力ですが、それはまた自己破壊的でもあります。

それはエネルギーの振動であり、二元的に動くからです。善へと動いたあとは悪の方へと動きます。喜びと苦しみ、幸福と悲しみへと動きます。
どうしてそれ自身が自分を認識することができるでしょうか?それは分割できない一つの本質なのです。それについては何も言うことができません。あるのは「それ」だけです。

そしてそれが顕現となって現れた時、もしそれを区別しなかったら、それは何もないもの(no-thing-ness)、静寂、空です。それは今までも、そしてこれからもそうです。
それは自己を認識して表現するために、振動して様々なパターンとなり姿形となって現われます。

仏陀は、空は形であると言いました。空がパターンとなり、すべての形になって現れています。そしてまた、形は空であると言っています。
私たちは、この姿形を本当の自分だと思っています。

どうしたら、自分は形ではないという経験をすることができるでしょうか?

それはできません。なぜなら、自分は形ではないという経験をしようとしているもの(あなた)が形だからです。それが自身を形のないものとして経験しようとしています。

でも、あなたがそれを調べると、共鳴、知る働きとしての真の実在があります。
それがブッダの言う、「空は形であり、形は空に他ならない」ということです。
あなたが、この形を調べて詳しく見る時、実際それにどんな実体、中身があるかがわかります。

体を調べてみてください。あなたは体ですか?
生まれつきあなたは、自分は体ではないと知っています。
なぜなら、あなたは「私の体」と言います。
「私のコート」「私の家」「私の車」と言うように。

あなたはコートですか? あなたは家ですか? あなたは車ですか?
あなたはそれではないと知っています。
だとしたら、おそらくあなたは体でもありません。

では私は一体何ですか?

あなたは一つの本質です。
もしそう呼びたければ。
それが振動して様々なパターン、姿形となって現われています。

概念、言葉や思考は人間という形が持っている考える能力です。
その能力は他の動物、鳥、昆虫よりも発達しています。
その能力で言葉、すなわちラベルを学びました。

私たちはラベルを貼ることができないもの、形のないもの、空にラベル、名前、形を貼りつけました。

私がその空であり、自分自身とその他すべてのものにラベルを貼ったのですか?

そうです。
そしてそれはすべて見せかけであり、そのように見えているだけです。
空が振動してパターンとなり、姿形となって現れています。
形は空に他なりません。
でもそれは現実のよう見えます。
それはいわゆる現象としての顕現です。

現象の定義は、「そのように現れるもの」です。
それが指摘しているのは、パターン、姿形はすべて現われであり、そうように見えているだけであるということです。
私たちは姿形を実在だと思っています。どうして?

概念上のイメージが働いているからです。その概念は見かけ上の人(ペルソナ)から来ています。私たちは概念のマスクを自身に付けています。

あなたは何ですか? もしその概念のマスクを外したら?

2019/03/22

The Spiel ⑪ (2019.2.10)


(2019.2.10)

(名前の紹介など、1:02まで割愛)

あなたに何かを教えることはできないし、何かを告げることもできません。理解すること、最初から理解することがとても大切です。私が指し示すことを調べて、それを理解してください。誰もあなたに何かを教えはしませんし、何かを告げることもありません。それは何も新しいことではありません。何か新しい流行の思想やセクト、何と呼んでもよいのですが、カルトでもありません。それは、すべてのいにしえの伝承の基礎となって指し示されていることです。

例えばそれはヒンズー教では非二元と呼ばれています。彼らは非二元という言葉で、他には何もない一つのもの、二つではないもののことを表わそうとしています。あなたがそれを調べる時、他には何もない一つのものは、一つ以外何もありえないと理解するでしょう。それが根本にある一つのもので、それがすべてです。

たいていの人がそう呼ぶのを好むと思いますが、聖書の中でそれは神と呼ばれています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」仏教徒は・・・。

(マイクを持つ手が震えるのでカタリーナが持つ)

パーキンソン病のせいです。仏教徒は、「大いなる完成は概念化されない意識である」もしくは「概念化されない意識が究極である」と言います。大いなる完成(great perfection)というところに注目してください。完成(perfection)に何を付け足すことができるでしょうか? 何もありません (nothing)完成(perfection)から何を取り去る必要があるでしょうか? 何もありません。

究極(absolute)に何を付け足すことができるでしょうか? 何もありません。何を取り去ることができるでしょうか? 何もありません。それは無(no thing)がもととなっているとわかります。無がすべてとなって現れ、表現しています。仏教徒はそれを「認識する空」と呼びます。私たちが空を認識していると思うかもしれませんが、私たちが認識しているわけではありません。

空(くう)に認識する能力、知る働きがあり、自らを認識しています。そして、空は形であると言います。それは、すべての顕現は、空がパターンとなり、姿形となって、あらゆるものとして現われているということを指摘しています。あなた、私、星、その他すべてのもの。

彼らは、「空は形である」を逆にして、「形は空以外のものではありえない」と言います。私はそこで言われていることの意味をこう認識しています。あなたとこの部屋の物すべては、私が貼ったラベルで、知性エネルギーと呼ぶものがもととなってパターンとなり姿形となったものです。

知性とは知る働きです。この部屋の中にいる人で知る働きがない人はいますか? 知識や何かを知っているという意味ではなく、基本となる知る働き、すなわち存在しているということです。あなたは、私は知らない、私は存在しないと言うことはできるでしょう。でもそう言えたとしてもそれは知る働き、存在がそれを可能にしているのです。

知性エネルギー、私はそういうラベルで呼ぶのを好みますが、知性は知る働き(knowing)です。どんな ing も、今この瞬間に起きています。誰か今この瞬間に、知る働きがある人はいますか? それとも知る働きが今無い人は? 知る働きは進行中の他の活動と同じです。見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐこと、すべての活動が今この直接性の中にあります。

それは時間の無い直接性です。その知る活動やどんな活動もエネルギーです。知性エネルギーという言葉を使いますが、言葉はそのものではありません。さらに見ていくと、言葉は実在ではないとわかります。言葉は物ではありません。言葉は単にラベルにすぎません。

ヒンズー教では、サット・チッタ・アナンダ・ナーマ・ルーパ(sat-chit-ananda nama rupa )は五つの要素だ、と言います。サットは存在。誰か今この瞬間に存在していない人はいますか? チッタは意識。誰か今この瞬間に意識の無い人、気づいていない人はいますか? いいえ。あなたは存在していて、意識があると知っています。

今、誰か今この瞬間存在していて幸福でない人はいますか。サット・チッタ・アナンダ、存在、意識、存在する幸福。誰か今この瞬間に存在する幸福を感じていない人はいますか? 誰か死にたい人は? 

あなたはもうそれであるということを認識、理解してください。マハーヴァキヤの大格言では、我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなりと言います。あなたは生まれつきそれを、あなたの言語で知っています。それは椅子、それはカーペット、それはあなた、それは私、それは誰か、それは星、それは電車、それは惑星。すべてのものに私たちはラベルすなわち概念を貼っています。

あなたは、言葉は物ではないと理解します。言葉はそのものではありません。それを理解してください。水という言葉を見てください。あなたは水という言葉を飲むことができますか? あなたはそのラベルを飲むことができますか?その中で泳ぐことができますか? 言葉で洗濯したり、流したりすることはできますか? できません。

あなたが話す時、火という言葉で口をやけどすることができますか? その言葉で料理をすることができますか? あなたが言葉で何かしようとしてもできません。私たちが信じているこの「私」という言葉はどうですか? それは本当のあなたではないかもしれません。そしてあなたは生まれつきそれを知っています。

なぜなら、言葉は私たちが受け入れ、学んだものだからです。あなたは分離した存在、個人、人(person)であるということを受け入れました。人(person)という言葉はどこから来ていますか? それはいにしえの言葉から来ているのではありませんか? ラテン語かギリシャ語だと思いますが、それはどうでもいいことです。自分で調べてみてください。

ペルソナ(persona)、マスク。私たちはこのマスクを被ることによって、概念を手に入れました。マスクという言葉を私たち自身に貼り付けました。私はボブ、オーストラリア人、いいやつ、私は幸せ、私は憂鬱、怖がり、心配症。こうした概念を、純粋な知性エネルギーである「私」という働きに貼り付け、それがパターンとなり姿形となって、ペルソナ、マスクとなりました。

そこから、私たちのすべての心理的な問題が起こります。それは、自分は分離した存在、個人であると信じていることから起こります。それを調べてみてください。虚偽は調査に耐えません。自分で調べてみてください。私があなたにいろんなことを言うことができます。調べてみてください。人々は、ボブがこう言った、ボブがああ言ったと言います。

また、誰かがこう言った、誰かがああ言ったと言って、あなたはそれが本当だと思います。自分で調べて、それが本当かどうか確認してください。もしペルソナが無かったら、私たちはパターン姿形です。誰があなたに何かを言うことができるでしょうか? 私が言うことは有効なポインターにもなりうるし、破壊的なものにもなります。自分自身で調べてみてください。他の誰にもできません。それがここで起こることのすべてです。

調べて、自分で見てください。なぜなら、虚偽は調査に耐えないからです。間違った考えを受け入れていると、そこにエネルギーが注がれ、絶えず強化され、外見上は強固で実体のあるものとなります。その実体あるものを調査すると、それは落ちていきます。なぜなら、そこには実体はないからです。

聖書を見てください。聖書はあなたに何と言っていますか? もしあなたがクリスチャンなら、 別の見方をします。彼らは三つの言葉を充てています。偏在、全能、全知です。偏在は完全な存在。全能は完全な力です。マインドの力、思考の力、あなたの力、この力、何か他の力というのではなく、完全な力です。マインドの力というものはありません。

もし生命の本質が体を通して機能しなかったら、あなたがマインドを持つことさえありません。あなたが調べてみると、マインドなどというものは存在しません。あるなら私に見せてください。自分で調べてみてください。この体とマインドを自分で調べてみてください。あなたはこの体ですか? 生まれつき、あなたはもうそれを知っています。

あなたは体ではありません。完全に調べるまでは信じられないかもしれませんが。あなたはいつ、私の体と言いますか? あなたは、私のコートと言いませんか? 私の車、私の家、私の靴。あなたはコートですか? あなたは車ですか? あなたは家ですか? あなたは靴ですか? いいえ。それは単に私たちが別々のものに貼ったラベルです。だとすると、あなたは体ではないでしょう。

体が何でできているか調査してください。あなたは、体が構成要素でできていると知るでしょう。それはすべて、土、火、空間、エネルギー、五つの要素、水、火、空間など、体は構成要素でできています。もしあなたは自分が分離した存在、個人、人であると考えているなら、自身を構成要素と分離してみてください。

自分が分離していると言うなら、呼吸を止めて、どれだけ長く自分が空気無しでいられるかやってみてください。できません。水を飲むのをやめてください。どれだけ長く水無しでいられますか? 体の80%は水です。体温、火を取ってください。構成要素無しで、どれだけ長くいられますか? 空間から外へ出てください。空(くう)の外へ出てください。できるものなら。

あなたは奮闘して、空の外へさえも出ようとするでしょう。空間のような意識の外へ出て、どこへ行けるでしょうか? あなたが調べると、それらの構成要素から自分を分離できないとわかります。そして構成要素を分解していくと、原子より小さな粒となり、純粋なスペース、純粋な空(くう)となります。あなたは、パターンや体、すべての顕現は、そこに見みえているようなものではないということを理解します。

経典の中でブッダは、顕現はマーヤーであると言っています。それは幻影です。マーヤーという言葉の意味は幻影です。それは現象として現れた顕現です。辞書で phenomena(現象)を調べてみてください。「そのようにあらわれるもの」です。それはそのように現れているだけです。部屋の後ろの鏡を見てください。たくさんの像がそこに映っています。

近寄って、鏡の中の像を掴むことができるかやってみてください。できません。あなたは、それがそこにないと言うことはできませんが、掴もうとした時には、それがそこにあるとは言えません。あなたがそれを調べると、それは表面に映った像以外ではありえないとわかります。同じことが、この顕現にも言えます。

phenomena(現象)は「そのようにあらわれるもの」です。それは見た目でそう見えるだけです。ですからあなたは、自分が体であると言うことはできません。マインドと呼ばれるものはどうですか? 私のマインド。私はマインドである。では、マインドを見せてください。誰か立ち上がって、これがマインドだと言える人はいますか? 自分だと言える確かな実体のあるものを見せてください。それは実体のあるものですか?

思考以外で、マインドと呼べるものが存在しないとあなたは理解するでしょう。思考とは何ですか? あなたの思考はどうですか? すべての思考はメンタルの構築物です。それは思考、イメージでできています。ニサルガダッタは言いました。(言い直して)シェイクスピアは数百年前に言いました。「良いとか悪いとかは何もない。思考がそうしているだけである」と。

区別して分割しているのは思考です。思考だけが区別し分割します。なぜなら、それはヴァイブレーションだからです。すべての思考はヴァイブレーションです。思考を調べてみてください。それがどう機能するかを見てください。それがいつも対極へと機能することを理解してください。喜びと悲しみ、肯定否定、愛と憎しみ、良いと悪い、快と不快。私たちがその境界を設定しているのは、言葉によってです。そしてそれは学んだものです。

あなたはマインドと呼ばれるものですか? ではマインドと呼ばれるものを見せてください。あなたが調べてみると、思考以外にマインドと呼ばれるものなどないと理解するでしょう。もしマインドが思考でできていて、あなたが自分はマインドであると信じているなら、どの思考があなたですか? あなたはそれは原初の思考だと思うでしょう。

原初の思考とは、「私はいる」です。私たちが言葉を学び始めると、振動したオームの音が、「あたしはいる」と翻訳されてやってきます。もしあなたがその思考なら、もしその思考が無くなったら終わりだと思って、それを見失うことを恐れるでしょう。でも、あなたは毎晩眠りにつく時、喜んでそれを手放します。

日中、あなたが他の思考を考えている時は、「私はいる」はそこにはいません。一日中その思考があるわけではありません。ということはおそらく、私はこの想像上の「私はいる」、ペルソナ、マスクではありません。言葉を調べてみてください。あなたが話す言葉、話した言葉は途中で学んだものです。

あなたはどんな言葉も持たずに生まれてきました。遡って、どんな言葉を持って生まれたか調べてみてください。どんな言葉も途中で身に着け、学んだものです。そしてあなたは言葉を忘れた時など、今でも時々辞書で調べて学んでいるでしょう。まだ辞書には私たちが学んでない言葉もたくさんあります。

そしてあなたが、言葉が現実ではない、水という言葉が現実ではないと理解する時、たくさんのメンタルの構築物を私たちは現実であると思っていることがわかります。そしてあなたは、マインドの中には答えはないと理解するでしょう。なぜなら、概念化して、言葉やイメージにするのがマインドのすることだからです。

シェイクスピアは「良いとか悪いとかは何もない。思考がそうしているだけである」と言いました。ニサルガダッタは同じことを「あなたの想像以外、何もあなたを苦しめることはない」と言いました。これらの恐怖、心配、心理的なストレスや苦悩を見てください。すべては想像からきています。

それを調べてみて、どうしてそんなことをしているのか、どうしてそんなことをやり続けているのか、想像することをやり続ける必要があるのかを理解してください。もちろんそれはとても役に立つものです。芸術家などが何かを生み出す時は想像力を使います。想像する(imagine)は、image と in に分解できます。あなたは想像上、概念上のイメージを生み出し、それを現実であると思っています。

それは単なる言葉なのですが、私たちはそれに様々な意味を付け足すことを学びました。
どうしてそれは起こったのでしょうか? どんな言葉も無い時、あなたはあなたが始まった時に戻ります。聖書では「はじめに言葉ありき」と言います。言葉と共に神がいました。言葉が神でした。

神という言葉は、私たちが原初の知性エネルギーに貼り付けたラベルに他なりません。あなたがどんなラベルでそれを呼んでもかまいませんが、それは私たちが貼り付けた単なるラベルです。私たちはその上に神という言葉を貼り付けました。そして私たちがそれに何を詰め込んできたかを見てください。

どんな伝統、もともと神を持たない伝統でさえ、違った言葉にその意味を与えました。ヒンズー教ではたくさんの言葉に神という意味を与えました、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ。私は何年も前に1000の名前を持つヴィシュヌの名前を使ってマントラの詠唱をやりましたが、ヴィシュヌは神を表す1000の異なる名前を持っています。

仏教徒は神ではなく、本質の原初のものがすべてとなって現れていると言い、ムスリムは唯一の神がいるだけで、アラーがその名前だと言います。彼らはそう名付けました。モーゼが山の上で石板を授かった時、彼と同胞たちが人々の中で幸福に平和に暮らすため、彼はインスピレーションを得ました。彼は人々の前でどう話したらいいだろうかと思った時に、インスピレーションを得てこう言いました。

"I am sent me"「(私はいる)が私を遣わした」。「I am (私はいる)が私の名前である」。そしてモーゼは、I am (私はいる)が私であると理解しました。同じことがあなたにも言えるのではありませんか? あなたは、今ここにある意識です。それは「私はいる」と翻訳されました。そのラベル無しで、あなたはどうやって自分がここにいると言うことができますか? 

あなたは自分の存在を否定することができますか? できません。存在ということに関して言えば、あなたはいつ始まりましたか? あなたは、私は誕生の時に始まったと言うでしょう。でもどうしてそう言えるのですか? あなたは自分が生まれた時のことを覚えていません。誰か自分の誕生を覚えている人はいますか? あなたは覚えていません。なぜならあなたは、それを認識する言葉を持っていなかったからです。

いつあなたは始まりましたか? 私たちはあなたの父親や母親まで遡ることができます。もしあなたが遡って調べようと思えば、好きなだけ遡ることができます。あなたが父と呼ぶパターンの中で、彼が食べた食べ物の本質と呼吸、プラーナによって、知性エネルギーが父親の中に満ち、精子と呼ばれる小さな粒を作りました。あなたがそれを肉眼で見ることはできません。

精子は内在する知性に満ちています。同じように、あなたの母親の中で、内在する知性エネルギーがパターンとなり、姿形となって、卵子と呼ばれる小さな粒を作りました。あなたはそれを肉眼で見ることはできませんが、内在する知性は何をすべきか知っていて、それを子宮内膜に着床させます。それは内在する知性エネルギーに満ちています。

そして精子も何をすべきか知っていて、卵子へと泳ぎ着きます。あなたはその二つの中に知性エネルギー、生命の力を見るでしょう。精子は卵子へ泳いでいき、中へ入ることを知っています。そして二つが一緒になると、内在する知性エネルギーが細胞を二つに分裂させ、さらにもう一度二つに分裂させ、その中にはすべての遺伝子情報があり、小さな胚、胎児を形作ります。それが今日のあなたです。

あなたが、人としてこのショーを仕切っているというのなら、このことに関して、あなたは何をしましたか? あなたは「心臓や肺を成長させなくては」と言いましたか? あなたは脳さえ持っていませんでした。指も足先も持っていませんでした。でも内在する知性はその瞬間あなたに満ちていて、何をすべきか知っていました。

それは命。あなたの生命がその時あって、それが今日のあなたの命であり、それが今も現れています。私たちはそれを見失いました。キリストは言いました。「私が道であり、私が真実であり、私が存在の感覚がマインドを通して現れたものである」。彼は、彼自身のことを言ったのではありません。

人々は彼が何か、正しい、優劣、あなた、私、その他のことについて言ったのだと思いました。人々は、すべては一つの本質がパターンとなり姿形となって現れたものであり、あなたと同じ本質であるということを理解しませんでした。

(少し言葉に詰まって)どこまで話しましたか? 誰もどこまで聞いたか私に言うことができません。(笑い)
私たちはパターン、姿形となって胎児となり、9か月後に生まれました。でもあなたはそれを覚えていません。なぜならあなたは言葉を知らなかったからです。あなたはなぜあなたが言葉を知らなかったかを理解しています。

なぜならあなたは、二歳か二歳半になるまでは言葉を習得しなかったからです。もう少し前まで、あるいはもう少し後までかもしれませんが、そんなことは問題ではありません。正確な統計があるわけではありません。それくらいの頃、純粋な知性エネルギーがあなたの中で機能し始めて言葉を学びます。

その時が始まりです。聖書の中の言葉が、概念や観念によって違った意味を持ち始めます。私が、「始めに言葉ありき」と言うと、あなたは何十億光年か前に自分が始まったのだと考えます。でもそうではありません。なぜなら、時間は存在しないからです。それは任意の機能です。

時間について調べてみてください。時間は任意のものだとわかるでしょう。時間などというものは無く、それは今この瞬間の直接性の中にあるものです。考える能力が人間に発達して、人生が始まります。それは人間が持っている能力であり、動物、鳥、昆虫などは違った形のもっと発達した能力を持っています。

鳥は私やあなたよりもはるかに良い視力を持っています。そして飛ぶ能力を持っています。私たちは普通では飛べません。私たちは鳥ほど良い視力を持っていませんが、考える能力によってメガネを作り、望遠鏡や双眼鏡を作りました。それは良く見えることを可能にしました。

私たちは飛行機、ヘリコプター、気球などを作り、飛ぶことができるようになりました。考える能力はとても役に立つ能力ですが、とても自己破壊的でもあります。考える能力が振動してすべてとなり、それがこう言います。「私は十分ではない」「私は恐ろしい」「私は心配だ」「私は不幸だ」「私は悲しい」「私は落ち込んでいる」「私は自尊心が低い」「誰も私を好きではない」。

すべてのこうした心理的な苦悩の概念的イメージによって、認識する空、存在の感覚、純粋な知性エネルギーが妨げられ、私たちはすべての他のものから分離した存在であると思うことになります。でも実際には私たちはそうではありません。犬は嗅覚を持っています。それは私たちよりもはるかに発達しています。

カメレオンやある種の昆虫は色を変えることができます。自然を見てください。違った能力で、あらゆる種類のことが起こっています。私たちは考える能力を持っています。この考える能力によって、私たちが顕現と呼ぶものを認識しています。でも私たちは、それが自然に起きているものだということを理解しません。

私たちは言われてきたことを信じ込んでいますが、古くから言われてきたことを見落としてはいけません。それは束の間のものです。それは自然に起こってくるものです。仏陀は言いました。「それはマーヤーである。それは幻影である。それは束の間のものである。それは絶えず変化している」と。

顕現は束の間のものです。それは絶えず変化しています。それを自分で調べてみてください。あなたは気づいていないかもしれませんが、あなたの体はこの部屋に入って来た時と同じではありません。どれほど、とあなたは思うかもしれません。調べてみると、数千の細胞が今この瞬間に死んで入れ替わっていることがわかります。

あなたの体を振り返って見てください。例えば、10年前、20年前、あなたが小さな子供だった頃、赤ちゃんだった頃。同じ体ではありません。でも、同じ存在の感覚が体を通して機能しています。知る働き、純粋な知る働き、存在する働き、見る働き、聞く働き、味わう働き、触れる働きはそこにありました。

たくさんの知識を身に着けましたが、見る働きは同じままです。知性エネルギー、自然な生命の本質は変化しませんが、現れる内容は変化します。それは今ここにある見る働きも同じです。あなたは気づいていませんが、今朝起きた時にあった見る働きが今もここにあり、それは昨日も先週も去年もありました。

あなたが思い出せる限り遡っても、同じ見る働きがあり、見る働きは変化しませんが、その内容は変化します。その内容は絶えず変化し、この部屋の中でも変化しています。聞く働きについても同じことが言えます。考える能力がやってきた時、私たちは、自分たちは考える能力がある存在であるという大きな概念上のイメージを作り上げました。

「私はボブ」。周りの人や両親がそう言うから。「幼いジョニー」「あなたはいい子」「あなたは悪い子」「あなたは不幸」「私はオーストラリア人」「いいやつ」「あんまりよくない」「自尊心が低い」「怖がり」「私は不幸だ」。起こった出来事を様々な概念やラベルに貼り付け、それが両親、学校、社会、周りの人すべて、そして自分自身によって強化されます。

なぜならそれは決して調べられることがないからです。でも、時代を遡ってみれば、それに気づいて、それを語り継いだ人たちが少しはいました。当時は私たちが今日持っているような伝達手段はなかったので、村の中の限られた人々に限られていました。また、すべての人がそれを聞きたいと思ったわけでも、実際に聞いたわけでもありませんでした。

それが伝承となり、聖典のもととなり、解釈されました。そして人々はそれに自分たちの信仰や伝承に基づいて勝手な解釈を加え、異なる言語でそれを伝え、それが異なる伝承や宗教となりました。でも、根本は同じものです。そして人々に何が起こったのでしょうか?

人々はそれを指摘した人を、聖人、救済者、聖者、預言者、場合によっては神としてあがめ、そのメッセンジャーを崇拝し、メッセージを見失いました。メッセージはずっと同じで「あなたはそれである、あなたが唯一のものであり、今までもこれからもずっとそうである、そしてそれがすべてであり、他には何もない」です。

私たちは言語よって、それは椅子、それは車、それはあなた、それは私、と、椅子や車や物事に異なるラベルを貼り付けています。存在するという言葉を見てください。存在すること、知ること、存在することを愛すること。あなたはそのラベルを様々なものに貼り付けました。

私は何かにならなくてはいけない。悟る、自己実現する、自己解放する。何かになること(becoming)、being(存在すること・本質)ではありません。何かになることは未来の時を表す概念であり観念です。もしあなたが何かになれるものならやってみてください。あなたは記憶や期待という想像上の概念の中で、できると信じています。

あなたは、できると信じていますが、実際にはできません。あるのはいつもこの瞬間だけです。あなたが神を信じていて、神を呼ぶ時は、至高の存在(supreme being)と呼びませんか? そしてあなたは自分のことを、人間(human being)と呼びませんか? あなたが学んだラベルを取ってください。supreme を取り、human を取る。

この部屋にある存在(beingness)からラベルを取ってください。あれが椅子(That's being a chair.)、あれがあなた(That's being you.)、それが私(That's being me.)。すべてのものが存在(beingness)です。それに私たちは、概念、ラベルを貼りつけています。そして私たちは事実を見失います。存在(beingness)、存在する喜び(lovingness to be)、本質としての存在(existence of being)に概念を貼り付けて概念化しています。

あれが椅子。あれが車。あれがカーペット。そして私たちは本質を見失います。思考は必要な時に起こってきます。それは戻ってきて、自分はもうそれであったということを再認識します。なぜならあなたは今までの人生の中でそれを味わったことがあったからです。そしてあなたは、私はそれを失ったと言うでしょう。

必要なことはすべて起こってきます。それは認識する空(くう)です。仏陀はそう言いました。私たちが認識するのではありません。認識するの別の言葉は、知る働きです。それは私たちが認識するのではありません。認識そのものが、自らを認識します。知性エネルギーそのものが知る働きとして機能します。

知る働きがパターンとなり、姿形となって内容物となります。空間、星、植物、木、花、人間、昆虫などの言葉は、知る働き、純粋な知性がもととなっています。知性無しではパターンもありません。空(くう)が認識しています。空があなたを生きています。ニサルガダッタが指摘したように、そこには命があるだけであるとあなたは理解します。

そこには命を生きている体はありません。命が生きています。命がパターンとなり姿形となって、あなたに呼吸させ、あなたを鼓動させ、あなたの爪や髪の毛を伸ばし、食べ物を消化しています。それを調べてみてください。生命の本質無くして、呼吸をすることができますか? 何かを考えることができますか? あれこれの言葉を聞くことができますか? 

良い例を挙げるなら、コンピューターです。たくさんの情報がコンピューターの中にあります。あなたは好きなだけキーを打つことができますが、電源がオンになっていなければ、何も起こりません。あなたは体とマインドを手に入れました。それはパターンとなり姿形となって現れたものです。それは顕現となって現れ、機能し、表現し、認識しているものです。

死体にも心臓、肺、目、耳、腎臓がありますが、生命の本質が満ちていなければ、機能しません。あなたとは何ですか? 体、マインドには命、機能が必要です。あなたは命がパターンとなり、姿形となって現れたものです。あなたが命であることを認め、活用してください。そうあることを許してください。それが表現することを許してください。

それがあなたを成長させ、パターンとなり姿形となって今日のあなたがいることを認識してください。それは今この瞬間も生きて呼吸をしています。聞く働きは続いています。見る働きは続いています。もし聞く働きが何かに共鳴してベルを鳴らすなら、真実に従って、あなたを連れて行くままに任せてください。

認識する働きを起きるがままに任せてください。それが連れて行くところへ行ってください。あなたは今成人して、おそらく今まで経験したことがなかったことや、何か心を動かされたあらゆる種類のことをやってきたでしょう。マインドの中でそれを解決しようとしました。あらゆる種類の瞑想をやり、あらゆる種類の本を読み、リトリートや、いわゆる精神的探求をやってきたでしょう。

しかしあなたは、決して答えを見つけることはできませんでした。もしあなたが答えを見つけたなら、ここには来ませんでした。あなたは何も学ぶ必要はないし、何かを必要としません。でもあなたは答えを見つけませんでした。あなたはずっと何をしているのですか? あなたはマインドの中に答えを探していました。

次のマントラ、次の本、次の概念、イメージ。あなたはマインドの中に答えを見つけることはないということを理解してください。そしてあなたは、決してマインドの中に平和を見つけることはありません。いにしえの人たちが聖書の中で言っているではありませんか? 平和への道はすべて理解の道であると。理解するという意味はマインドの中で何かを探すということです。純粋な理解とはマインドの中を探すことです。

しかし、平和は、マインドが無い時に理解となってやってきます。そして共鳴が起き、認識します。「ああ、これだったのか」。どうして以前はわからなかったのか。どうして私は見失ったのか。あなたは概念的な理論に陥ったために見失いました。良いとか悪いとかは何もない。思考がそうしているだけです。

あなたの想像以外、あなたを困らせるものは何もない。思考はとても役に立つものですが、破壊的にもなります。何か共鳴するものがあれば、それに従ってください。真実が真実を認識するということを理解してください。聖書の中ではこう言っています。「真実を知れば、真実があなたを自由にする」と。

そこには自由があります。本当のあなたを知るここです。他にもいろんな点から指摘することができます。自己の中心、エゴがやってくるとどうなるかを見てください。考える能力がやってくると、あなたは言葉を覚えます。あなたは自分で調べることなく、「幼いジョニー」「小さなビリー」と誰かが言ったことを信じてしまいます。

ああ、私は幼いジョニー、それが私だ。「私はいい子だ」「私は悪い子だ」「私は幸せだ」「私は怖がりだ」。それは概念であり、それが概念上のイメージとなります。そしてそれを信じて毎日強化します。「私は強情だ」「私はオーストラリア人だ」両親がそう言ったからそう信じている。

その概念上のイメージが今や基準点となりました。自己の中心、エゴ。その三つは同じもの違った表現です。聖典の中では、エゴは取り除かなくてはいけないと言っています。エゴが問題であり。エゴがあなたを殺す。取り除け。見破れ。あれをしろ、これをしろ。カーペットの下に押しやれ。でも、本物の聖典では、エゴというようなものは無いと言います。

あなたは何もする必要はありません。すべてはフィクションであると理解してください。それにはいかなる実体も独立した性質もありません。でも私たちはそれを理解しません。私たちは基準点を手に入れました。すべての物事が基準点に関係するようになりました。すべての問題が、関係性、すなわち結びつきから起こってきます。

関係性は二元性です。結びつきは二元性です。ここで私たちが話しているのは、非二元です。私が指摘していることは、二元性はかってもこれからも決して存在しないということです。それは完全はフィクションです。それを理解して、二元性から自由になってください。何か好きなことがやってきたら、どうなるでしょうか?

どうしてそれがあなたにわかりますか? 私はボブ。基準点。この経験は良かった。何が欲しい。私たちは良い経験をしたい。良い感じを失いたくない。それが束の間のものであることを理解しないで、あなたがどんなにそれが好きでも、どんなにそれをキープしたいと思っても、それは去っていきます。それを調べてみてください。

あなたが愛した人が死ぬこともあります。誰かがあなたから去ることもあります。他の人も去っていきます。あなたのまわりの物事は絶えず変化していきます。現象としての顕現は絶えず変化していきます。私たちは失いたくない。それでどうしますか? 私たちは抵抗して、それをできるだけ留めようとします。

抵抗は葛藤であると理解できますか? どんな葛藤であれ、不幸、心配、恐れ、自己憐憫、怒り、何であれ、それは病気です。抵抗、葛藤、病気、不安は絶えず続きます。これは私がいつも言ってきたことですが、もし、私がこれが嫌いだと言ったら、何が起こりますか? 私はこれが欲しくない、これを取り除きたいと言ったら何が起こりますか? 

「私」は何をしますか? 「私」は抵抗します。ボブ、オーストラリア人はそれを押しのけ、取り除こうとします。私はそれを欲しくない。そしてまた抵抗です。葛藤、病気、不幸。抵抗、葛藤、病気が絶えず続きます。心配、恐れ、落ち込み、不幸。私が好きなことは短期間しか続きません。なぜなら、それは他の物事同様に束の間のものだからです。

すべての物事は変化していきます。でもどうしてあなたは、一方よりももう一方の方を好むのですか。一本の棒には両端があり、コインには裏と表があります。物事には常に二つの面があり、そのどちらかに振動しています。あの偉大な信心銘はこうあなたに教えています。「大いなる道は難しくない。選り好みをせず、愛することも憎むこともなければ、すべてははっきりと明らかになる。だがわずかでも分別をすれば、天と地は遙かに隔たる」。

私たちが言葉によって区別して差別をすれば、言葉を差別の道具として使えば、それが問題となります。私たちは、概念上のイメージを絶えずすべての物事に関連付けてきたために、心理的な苦悩の中にいます。それはいつも「私」に起こります。「私」が原因です。概念上のイメージ、エゴが心理的苦悩の原因です。

その結果が、恐れ、心配、ストレスです。そして私たちはそれを過去にもとづく死んだイメージに付け足しました。死んだイメージは命とは相容れないものです。それがいわゆるカーマと呼ばれるものではありませんか? 原因と結果。でも、もし私が簡単な質問をしたらどうなるでしょうか。

もし、物事を原因に関係付けられなかったら、結果はあるでしょうか? 調べてみてください。もしあなたが、悲しみ、恐れ、憂鬱を原因と関係付けなかったら?それが誰に起こったのか? もしそれを「私」に関係付けなかったら、それはどこにあるのか? それは概念でありイメージです。パターンが純粋な感覚となって現れたものです。概念のラベルを貼らずにおいて、どれだけそれが留まり続けることができるか見てください。

それに対する抵抗がない時、どれだけ長く物事が留まることができるでしょうか。太陽と太陽を遮る雲を見てください。どれだけ長く雲が太陽を遮ることができるでしょうか? 雲が空に張り付いているわけではなく、動いていきます。昨日の思考はどこへ行きましたか? それはあなたの頭に張り付いていますか? 先週の思考、去年の思考はどうですか? 感覚は? 活動は? それらはすべて束の間のものではありませんか?

何が張り付いていて、何が変化しますか? 人々はそれを留めようとしてエネルギーを費やします。それが私たちがやっていることです。私たちは時間を遡って、それを取り戻そうとします。あなたは、「私」がすべての問題の原因であると知るでしょう。この「私」は過去の出来事や経験にもとづく死んだイメージです。

life(命・人生)は続いていて、常に新鮮で新しく、自然にひとりでに起こってきます。ここで続いていることは、何かになること(becoming)ではなく、それは常に在る(being)ものです。今はいつ始まりましたか? 始まりを今この瞬間に掴んで見てください。それを掴まえようとしてもできません。なぜなら、これが始まりだという時、それはもう終わっているからです。

始まりも終わりも過去のものです。では、ちょっと前を生きてみてください。昨日を生きてみてください。先週、去年に遡って、生きてみてください。あなたはそれを思い出すことはできます。でも実際にそれを生きることはできません。あなたができることはただ思い出すだけで、あなたは今思い出しているだけです。

それはもう過ぎたことであり、思い出して認識しているにすぎません。では未来はどうですか? あなたは、この先や来週どうなるかを、期待したり想像したりすることはできます。でもあなたは一瞬先ももっと先も生きることはできません。期待や想像はそのとおりには起きないかもしれません。

人びとはあなたに、今に留まれと言います。私は、今からも出てみなさいと言います。なぜなら、今しかないからです。今ということも概念上のイメージなのですが、いずれにせよ、この直接性、すなわち自然に起こってくる働き、それがすべてなのです。あなたはその外に出たことはありません。

学び、認識し、リラックスして、何が去ってもそれはうわべのものであるという認識を保ってください。また、あなたが自分だと思うものを調べて理解してください。みなさんは今この瞬間見ていますか? みなさんは今この瞬間聞いていますか? それは事実ですか? ええ、私は見ています。私は聞いています。あなたと同じように。

私の目は、「私は見ている」と言いますか? 私の目は私に「ボブ、これを見て」とは言いません。「あれを見て、あれは良い、あれは悪い」とは言いません。見ることは目を通して起こってくることです。そしてそれは生命の本質ゆえに起こっていることであって、「私」、ボブ、何かの存在が見ているからではありません。

見ることは目を通して起こっています。そして思考によって「私は見る」と翻訳されます。そして、「私は見る」はもはや純粋な見る働きではありません。「私」、ボブ、利己的な概念上のイメージを自身に持っている今、思考が見る能力を持っていると思っています。メンタルイメージが、見る能力を持っていると思っています。

聞くことについても同じことが言えます。みなさんは今聞いていますか? あなたが今朝目覚めた時そこには聞く働きがありました。深い眠りについている時誰かに呼ばれれば、聞く働きはどこかへ行っているわけではなく、そこにあります。自身にこう尋ねてみてください。私の耳は私に「私は聞く」と言うでしょうか? 私の耳は私に、「ボブ、これを聞いて、あれを聞いて」「これはくだらない」「これは真実だ」とは言いません。

私の耳は私に何も言いません。それは聞く働きが起こってくる能力を持っていますが、「私が聞く」という思考にはその能力はありません。調べてみてください。その「私は見る」という思考が実際に見ているのかを。目を閉じて部屋の中を見回して、思考で部屋の中を見ることができるか調べてみてください。

あなたは概念のイメージを想像したり考えたりすることはできますが、目を閉じた時に実際に見えるのは自分のまぶたの裏の暗がりだということを理解します。そしてまた少しの間部屋を離れると実際に部屋の中の物を見ることはできません。そしてあなたは思考の「私は見る」は見ることができないということを理解します。

見る働きを「私が見る」が概念やイメージに翻訳していますが、「私は見る」は物を見ることはできません。聞くことも同じです。手で耳をふさいでください。そして思考で聞くことができるかやってみてください。あなたは、「私は聞く」という思考が全く聞くことができないということを理解するでしょう。

今、意識の無い人(not aware)はいますか? いいえ。あなたは今自分の意識が無いということはないと知っています。ということは、あなたは意識があるに違いありません。あなたは今意識があると知っています。では、「私は意識がある」という思考があなたのアウエアネス(意識)ですか? 

「私は意識がある」という思考がいつもあなたにあるわけではありません。ということは、「私は意識がある」という思考はあなたのアウエアネス(意識)ではありません。別の例を挙げると、「私は選ぶ」という思考です。あなたは調べることもなく、「私は選ぶ」という思考が選ぶことができると思うようになりました。

ではどうしてあなたは、不幸で、みじめで、悪い、いやな思考、感覚、感情を選ぶのですか? あなたは、不幸や嫉妬などは欲しくありません。あなたはそれを取り除こうとします。もしあなたが選ぶことができるなら、どうしてそういったものを選ぶのですか? というわけであなたは、それがすべてを行っていると思っている概念上のイメージ、思考は選ぶことができないと理解します。

思考は選ぶことができません。思考は見ることができません。聞くことも、意識することも、選ぶこともできません。生命の本質無くしては何もできません。もし生命の本質が体に無かったら、考えることも見ることも聞くことも触れることも嗅ぐこともできず、あなたは死体も同然です。

そしてその生命の本質には、いわゆる想像された利己的なイメージがありますが、それはフィクションと言った方がいいでしょう。そしてこれが私が指摘して、この線に沿ってあなた自身で調べるように求めていることです。私はたくさんのたわごとを告げますが、調べるまではそれを受け入れてはいけません。聞くだけでは何も良くありません。

他の人は多少違ったやり方で指摘するかもしれません。それを聞き、あなたの中で共鳴が起きるかもしれません。あなたが聞いて共鳴が起こったのなら、自分で調べてみてください。あなたが調べることによって、もっと明晰さ、もっと理解、もっと洞察が言葉を通じてあなたにやってきます。

私はそれであり、ずっとそれだったという理解、認識、自信がそこにはあります。誰もそれをあなたから奪うことはできません。でも、あなたは今ここにいてこれを聞いて世間に帰ると、世界の99.9%は、「私」という基準点からやってきて、あなたを巻き込もうとします。あなたをもとの世界に戻そうとします。

それがあなたが調べることもなく、受け入れてきたものです。そして今あなたは調べて何が真実であるかを認識しました。あなたが脇に避けると、人々はあなたに起こった変化について考え始めます。彼らはまたあなたを巻き込もうとしてあなたに何が起こったかを尋ねに来ます。そして何人かは、あなたが言っていることを理解します。

そうやって、逆にあなたが彼らを巻き込んでいきます。彼らは認識し、共鳴が起こり、真実が彼らを自由にします。そうやって、このメッセージ、理解が伝えられていきます。私は教育を受けていませんから、私よりももっと上手に明快にやる人もいるでしょう。またある人はそれほど明快ではないかもしれません。

もし共鳴が起こったなら、どんなやり方でもかまいませんからそれを受け取って利用してください。そして疑問があったらどうぞためらわないで尋ねてください。それは理解する助けになります。なぜなら、そのためにあなたはここにいるのですから。

自分のストーリーを話すために出かけないでください。あなたが精神分析医や精神科医のところへ出かけていって、ストーリーを話してそれを解決しようとすることはできます。それはある程度は助けになるかもしれません。でも、本当の自分とは何かという真実の理解、共鳴は、あなた自身によってしかできません。

あなたがこれまで学んで、今まで助けになったことに反するかもしれませんし、今まであなたを助けたマントラやなんかを打ち消すことになるかもしれません。私があなたの助けになるとも言えないし、ならないとも言えませんが、あなたが何を得るかを見てみましょう。もしあなたが共鳴するようリスクを取らなければ、あなたは永久にそこへは行けません。ではみなさん、始めてください。

(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)

2019/03/21

The Spiel ⑩ (2018.9.23 話者カタリーナ)


(2018.9.23 話者カタリーナ)

カタリーナ:(ボブに向かって)私がやるのですか? (参加者に向かって)彼(ボブ)は途中で入ってきます。約束します。みなさん名前を言ってください。

(それぞれ名前を言う。省略)

たくさんのトニーがいます。

参加者:一つだけです。

カタリーナ:良い答えですね。(笑い)誰か新しい人はいますか? まだこのことを聞いたことがない人はいますか? (返事なし)それは良かった。というのは、初めて来た人は私たちが観念(idea)について話していると思うからです。例えば、一つしかないという事。(ああ、それは魅力的な観念だ、さてどうやったら分離がないという観念を体験できるだろう)。観念は解りづらくて、まごついてしまいます。

そんなふうに感じられるようにと考えるだけでも勇気が必要です。(ああ、そこには一つのものがあるだけだ。形は空である)や、イエスが言った、(父と私は一つである)とかは、なんて素晴らしい考えなんだと魅せられて、その観念の催眠にかかってしまい、それがすごいものだと感じます。

人々はビジネスをやったり、退屈したりすることすべてに対して観念を持っています。私は、宇宙全体が一つだ、あるいは自分はいないという素晴らしい観念を持っている。それはすごい。私たちは現実にその観念を受け入れようとして、どうやってそれを実現されようかと考えます。それが、私たちがその観念をシェアしようとする理由です。

そして誰か他の人にうるさくしようとします。誰かシェアする友達を見つけて、同じ観念で盛り上がりたいと思います。私はかって女友達とエンライトメントという観念でハイになって、一緒になってそれを大きくしてとても興奮して、まあ、なんてとんでもない考えをしていたのでしょうか。

また、私たちがここで哲学の観念について話していると感じる人もいます。この観念が他の観念よりも優れているとか、宗教やその他の観念について。それはここで行われていることとは全く違います。最初はそんなふうに感じるかもしれませんが、これは、もっと良い観念やもっと大きな観念を抱くことや、ある観念を信奉することとは違います。

それはまた、(床にいる猫に対して)Hey! やめなさい。(笑い)ごめんなさい。そしてそれはまた、この観念を他の人に伝授したりシェアしたりすることとも違います。他の人がこの観念を受け入れたり、信じたりすることは重要ではありません。普通の探求者にとって非二元はそんなふうに始まるのですが、探求というプロセス無しで、自然に真実を受け入れる人々が大勢います。

それは、ある時は長い年月をかけて、ある時はアクシデントや病気などでも起こります。探求者はマインドでその観念を抱いて、またマインドから離れて、まるでそこでぐるぐる回るようなやり方をしています。そういうやり方ではいけません。

時々起きるのは、マインドがウイルスに侵されてしまい、「エンライトメントはある。分離はない。私はこれを広めたい。私はこれをシェアしたい。私はこれを誰かに無理にでも押し付けたい。広告すれば人々がやって来て聞くだろう。なぜなら私はボーディ・サットヴァ(菩薩)だから。私はあなたが苦悩から目覚めるのを助ける」というようなことです。

こうしたことは非二元ではありません。非二元は観念を理解することではありません。それは観念の中に真実を見つけることではありません。それはまったく逆です。観念は、観念を超えて理解されたものの表現、描写です。そしてもし私たちが、言われたことを受け入れようとして、それが真実かどうかと座って沈思黙考するなら、それは基本的には非二元とは逆のことです。

それは、観念が無い時にある真実のことです。例えば、私は分離しているという観念、私は分離していないという観念、そうした観念が無かったらどうなりますか? どんな思考も無かったら、どうなりますか? 観念が無い時、何が真実ですか? 例えば、私は体である、私はマインドである、私は個人である、こういった観念は、私たちが信じるよう条件付けられたことです。

さて今私は、私は体ではない、自己はいない、分離はないという興奮するような観念を習得、身に付けようとしています。それは素敵だ。それはとても新鮮で新しく感じる。でも、これもまた観念です。もし、そうした習慣を落としてしまったらどうなるでしょうか?

例えば、私は知らない、私は体である、私は体ではない、私はマインドである、私はマインドではない、そういった観念、非二元の観念、典型的な条件付けの観念すべてを取り去ったら、私がマインドで表現できる唯一の観念は、私には全然わからない、私は知らない、一緒に見つけましょうと言えるだけです。神、神無し、一つ、一つ無し、そういったどんな種類のイメージ、メンタルイメージも無かったら、一緒に見つけましょうと言えるだけです。

なぜならマインドはそういうふうに動くからです。私たちが、「空間のようなアウエアネス」や「空(そら)のようなコンシャスネス」について話す時でさえマインドは、すぐにそういうふうに動きます。なぜなら、言葉は何かを対象として表すようにできているからです。言葉は客観的なものです。

「空(そら)のようなアウエアネス」のような大きな観念が対象となるやいなや、私たちはそれを探し始めます。「私」がそのアウエアネスを成し遂げようとしたり、アウエアネスの中に留まろうとしたりします。アウエアネスは物ではありません。言葉は観念を表しています。観念はメンタルイメージです。アウエアネスは観念ではありません。

アウエアネスは、そこに観念、言葉、言語が現れ、表現される空間かスクリーンのようなものです。私たちが指し示しているものは、どんな言語、どんな概念、どんな思考よりも前にあるものです。もし私たちがもうすでに思考、マインドのレベルで、真理を理解することや真の自己を見つけること、エゴを無くすことなどに興奮していると、(頭を指して)ここからの見方、理解という視点から、それを見つけようとするのはとても困難になります。実際にはそれは一度も失ってはいないのですが。

それはそうした観念、思考よりも前にあるものです。でも、マインドはそういうふうには設計されていません。マインドの機能するやり方は、対象物を見つけたり、何かを表すためのシンボルとなる言葉を作ったりする時には非常に素晴らしい能力を持っています

でもマインドは、マインドが現れているものを理解することができません。もしマインドが、マインドが現れているバックグラウンドを見ようとしたら、バックグラウンドの外へ出なければいけません。そうするためには、マインドが停止して、バックグラウンドの外に出ないといけません。でも、外に出ても何もないのです。ですからそれは不可能です。

概念である思考で非二元を理解、会得、経験することはできません。非二元の実在を経験できる唯一の方法は思考を止めることです。私たちは思考を止めることができますか? 私が行為者でないのに、私が思考を止めることができますか? できません。

そしてまた、この劇全体のすべてが一つの命であるという観念の中では、命は単に顕現であり、様々なヴァイブレーションのパターンが様々な姿形、体、思考などすべてを形作っています。すべては機能の一部として起こっています。草が生え、鳥が鳴き、思考が現れ、心臓が脈動し、髪の毛が伸びるのと同じように。

ひとりでにすべての形となって現れた生命すべては、概念的な思考の外に出て、顕現として現れた別の対象を見ることが可能です。「空(くう)が振動して形となる」とブッダが言ったように、その空(くう)は自身を、形が現れることを可能にするバックグラウンドであると理解することができます。

目覚めを「私」やマインドに当てはめることはできません。マインドが目覚めることはありません。マインドは一連の思考であり、機械的なものです。それはコンピューターのコード(記号)のようなものです。どうしたらコードが目覚めることができるでしょうか? 機械的な思考が目覚めることはできません。

「私」という存在は、「私はいる」と条件付けされています。それは基本的な思考の流れです。「私」、私は体である、私は年寄りである、若い、醜い、愚かだ、美しい、など何でも、それは観念にすぎません。それが「私」という存在を構成しています。その観念は「私」と同化しています。

この観念、すなわち過去の経験で構成された存在は決して真実を理解することはありません。なぜならそれはもう死んでいる思考だからです。思考は目覚めることはありません。真実を理解するのは、真実自身です。真実そのものが目覚める必要はありません。命は目覚める必要はありません。それは完全にうまく機能しています。

それは、どうやって血液を送り出したらよいかを知っています。それは何をしたらよいのか知っています。それはどうやって見たり聞いたりすればよいのか知っています。それが目覚める必要はありません。思考のベールが落ちて、もう世界は概念的思考で翻訳されることはなくなるでしょう。

そして、思考をありのままに見られるように、世界をあるがままに見るようになります。かつて私が思考や観念を見る時、そこには分離はない、なんと素晴らしいのでしょう、どうやってそれを表現したらいいのでしょう、それはわくわくする、と言っていたものが今は、ああ、それは単に思考だ、それは何でもない、それは思考にすぎない、となります。

命は、この観念を、私は十分ではない、私は愛に値しないといった観念と同じで、具現化させたり、興奮したり、高ぶったりすべきものではないと理解します。それは単に思考です。誰がかもうもんですか。それは単に思考です。これは思考だと認識しているのは思考ではありません。それは純粋な気づき、純粋な知る働きです。

純粋な知る働きが、その内容を認識、意識しています。思考が「私たち」は思考であると認識する時、思考が知る働きを止めることはありません。なぜなら思考は死んだものだからです。思考は執筆のようなものです。言葉やコードを書くようなものです。思考には能力はありません。思考は死んでいると言うことができますが、実際には何も死にません。
すべては命です。命は形となって現れます。でも、指し示すために・・・。

(ボブが外を気にしたので中断)

ボブ:続けて。

カタリーナ:OK.

ボブ:誰かが外で動いていたので・・・。

カタリーナ:OK、ついでに何か話してください。

ボブ:いつも通り始めます。私はあなたに何も教えることはできないし、あなたに何かを告げることもできません。私は単に指摘・・・。(ボブ、言葉が出てこない)

カタリーナ:あなたは誰かに話すわけでも・・・。

ボブ:あなたは体でもなければマインドでもありません。多くの人があなたにくだらない話をたくさんしますが、あなた自身の根本的な真実を調べることにはなりません。この完全性の中で、それが一つのものであるならば、誰もあなたに何も教えることも何かを告げることも、体とマインドに何かを話すこともできません。あなたが体とマインドを調べて理解すれば、それもまた単にパターンが姿形となって現れたものにすぎないと理解するでしょう。

そしてあなたは、探求の無意味さを理解するでしょう。あなたは何者かになることはできないと知るでしょう。あなたはもうそれなのです。探求することが問題です。これは何かになるということではありません。私たちが疑問を持つことなく受け入れ信じているすべての概念や考えなどを捨て去るということです。ほんのいくつか調べるだけで、それは落ちていき、私が本質、自然な状態と呼ぶものが残ります。

それは概念的に想像された考えや体やマインドではない、あるがままの本質。あなたを自然に努力なく機能させているもの。花の中にもあり、空で雲を動かし、自然に機能させているもの。呼吸をさせ心臓を鼓動させ、髪の毛や指の爪を成長させているもの。それはすべての自然の機能です。それは、何かになるとかいう問題ではありません。

それは、あなたが抱いてきたすべての概念、考え、イメージを捨て去るという問題です。それを捨ててください。マインドという考えさえも捨ててください。誰もマインドと呼ばれるものを見せることはできません。あなたが調査をすれば、思考とは別にマインドというようなものはありません。思考を調査すれば、それにはどんな実体も内容もありません。これぐらいでいいでしょう。続けてください。 

カタリーナ:OK。マスク、ペルソナの話はどうですか? あなた以上にはうまくできません。

ボブ:(笑い)誰がマスクの話をすると言うのですか? マスクがマスクについて語るのですか。ペルソナという言葉はいにしえのマスクという言葉からから来ています。ラテン語のマスクからです。わたしたちは自身のアイデンティティーとして概念上のイメージとしてのマスクを被りました。

私たちは純粋な存在意識の上にそれを被せ、うわべ上は孤立した人(persona)がいるように見えるようになりました。そして私たちはこのペルソナ、エゴが実在であると思っています。調べてみてください。それはそんなものではありません。そしてエゴがあなたのすべての問題の原因であることを理解してください。エゴ、自己の中心、私、呼びたければ何と呼んでもいいのですが、それはマインドであり、そのようなものはありません。

マインドと呼ばれるものを見せてください。自分で調べてみてください。私たちは「私のマインド」と言いますが、誰のことを言っているのですか? 私の家、私の車、私のコートと言う時と同じで、誰のマインドのことを言っているのですか? あなたは自分が家や車やコートではないことを知っています。おそらくあなたはマインドでもないでしょう。それを調べて理解する必要があります。

私たちがマインドと呼ぶものは単に振動するエネルギーパターンですが、私たちはマインドにすべてを関連付けました。マインドなどというものはありません。思考、考え、イメージが現れて、私たちがそれを疑うことをせず、それが実在であると受け入れました。この概念上の人(persona)、マスク、マインドは「私」です。どうして完全なものが自己を分割したり、「私」となって現れたりすることができるでしょうか? 

私はどんな体にもどんなマインドにも話しかけていません。あなたに何かを教えることも何かを告げることもありません。どうやったらスクリーン上の映像の人が別の映像の人に話しかけることができるでしょうか? 後ろにある鏡を見てください。そこにはたくさんの像が映っています。その中の一つの像が他の像に向かって、今何を考えているとか尋ねることができますか? 

鏡の中のそれぞれの像は新鮮で新しいものです。鏡の中以外では像でいることができません。鏡の中の反射と外のものとの違いは、それが、私たちが話していることですが、鏡はその外に反射する何かが必要であるということです。そしてそれが、この直接性の中で起こっています。うわべ上、本質が振動して様々なパターン、姿形となります。

パターン、姿形となったものはマーヤーと呼ばれます。様々なテキストや聖典の中で、マーヤーは幻影であると言われます。それは現象としての顕現です。辞書で「現象・phenomena」を調べてみてください。「そのように現れるもの」という意味です。あなた、私、そしてすべては、そのように現れ、もしくは見えているにすぎません。

もしあなたがそのうわべ上実在に見えるものを調べようとするなら、体を顕微鏡で見てください。その中に、一定の位置があるか見てください。すべての細胞には知性エネルギーが満ちています。それがあなたです。私はそう呼び、それもラベルですが・・・。いずれにせよ、これで十分です。

カタリーナ:ありがとう。

ボブ:引き続き続けてください。

カタリーナ:OK。私たちが、世界は実在ではない、それはマーヤー、現象の幻影だ、それは原子でできていて空であるという時、分離した個人、マスク、エゴ、マインド、体という観念は、間違ったものに感じます。しかし、私は存在しないと言う時、それはもっと間違いであるように感じます。なんてナンセンスなんだ、もちろん私は存在する。私は個人として、ペルソナとして、マスクとして、個人のアイデンティティーであるマスクとして、エゴとして、私は実在ではない?  勘弁して、私はとてもリアルに自分自身で「私はいる」と感じる。私は存在すると感じる。

ボブ:それが、私たちがした間違いです。私たちはそれが実在ではないことを知りました。パターンが姿形となって現れたものは実在ではありません。実在は一つの本質がパターン、姿形になって現れたものですが、パターンや姿形は実在ではありません。それは単にスクリーン上の映像にすぎません。スクリーンの上にすべてが現れ、それは一つのものであり本質です。それにはどんな実体も独立した性質もありません。それがすべてです。空間のようなアウエアネスの外には何もありません。すべての顕現は現象としての現れですが、うわべ上はリアルに見えます。その本質は実在ですが、現れはそうではありません。本質は一つです。

カタリーナ:ええ。誰もあなたに、あなたはいないと言おうとはしません。ポインターが指し示そうとしているのは、あなたは自分が考えているようなものではないということです。あなたは自分自身に抱いている一連の思考ではありません。私はエゴである、私は分離した人である、私は体の中にいる、私は体であるというのは観念であり、思考です。

「私」は私が存在するという事実を否定することはできません。私は、誰も打ち倒すことができない・・・。(ボブに聞く)何て言うのでしたか? (笑い) あなたのスピリチュアルアルを打ち倒す・・・。ええ、知っています。ええ、これは信じることではない。これは観念ではない。これは思考ではない。存在の真実は観念ではありません。

それは、私は生きているとか存在するとか、誰かに言われたことではありません。ここにいる、私は存在するという内在する感覚は確かなものであり、それを否定することはできません。その存在の感覚、存在の意識の上に、「私はいる」は究極の真実であるという概念を置きました。

でも、私は体であるというのは嘘です。私は人間というマスクであるというのは嘘です。私は人、エゴ、存在、私はあなたと分離している、私は宇宙から分離しているというのは嘘です。これは興味深い観念を取り上げて考え抜いて具現化しょうとか、経験しようとかいうものではなく、見つけることです。それは観念を落として、思考なしで、私はあれこれであるという観念無しで、何が真実なのか、何が本当なのかを理解することです。

「私はいる」。それは確かです。誰もそれを否定することはできません。否定する場合でも、「私はいない」という前には私がいなければ言えません。「私は存在しない」と言うためには、私が存在しないと言えません。ですから、「私はいる」を否定することはできません。

でも、本当の私はまた別の話です。私たちが概念上のイメージやエゴやマスクについて話している時、私たちは、これは思考の塊 過去の経験の概念と過去の思考である言います。例えば、私は女性である、なぜなら私は女性であると言われたから。私は、かつては少女だったなど。でも、私たちが学んだことはすべて(頭を指して)ここにあるコンピューターのファイルのメモリーに蓄えます。私たちはメモリーに関連付けしますが、メモリーは学んで知ったことであり、概念上のイメージです。

そしてもう一つの構成要素があります。それは感情的な構成要素です。例えば、私は思考の塊というだけではなく、もし私がイメージや体のルックスやマインドを占める好き嫌いを信じているなら、それが構成要素となります。そしてまた私は「私」のストーリーに夢中です。私は「私」のストーリーと同化しています。

「私」のストーリーは他のどんなストーリーよりも重要です。私は時間の90%を「私」のストーリーに使い、あれこれします。そしてもし、自分を思いやる瞬間が来るとすれば、それは自然に、「私」への執着からのほんの休憩として起きる時だけです。「私」への執着は、明日私に何が起きるのだろう、彼らは私をどう思うだろう、もしお金や健康が無くなったら、年を取ったらどうしよう、などというストーリーへの同化です。

ストーリーは思考のかたまりです。概念のイメージは過去の経験、条件付けでできています。ストーリーとの同化は、私が存在することを確かなものにし、私とストーリーを結び付けます。そして私が存在するという確かさは、体と同化します。体は見ること聞くとこ味わうこと触れること嗅ぐことができます。そして今や、私は体であり、私が見ている、私はマインドであり、私が考えています。

自分が存在するという感覚が体とマインドという上着を着て、それが、自分は別のものであると考えています。根底にある生命の存在感覚が自分は他のもの、分離したもの、媒体、私たちとなって現れている媒体だと思っています。でもそれが本当に真実なのでしょうか? 私は他のものなのでしょうか? 私は体なのでしょうか? 私は私の周りのものすべてから自分を分離することができるでしょうか?

できません。なぜなら体は、すべての顕現を作っているのと同じ構成要素でできているからです。私たちは原子と素粒子などついて話すことはできます。すべてのものは原子と素粒子でできていますが、実際それは微粒子でさえありません。それは可能性のフィールドであり、エネルギーの波です。

そして私達は古来のやり方で調べることもできます。それらは構成要素です。体が現われるのは空間です。空間は空気であり、そこで体は生きています。空気無しでは体は生きられません。空気は絶えず行き来しています。二回同じ空気を呼吸することはできません。それは絶えず動いています。この塊(体を指して)の80%は水です。その上水は食べ物、飲み水など様々な形で供給されます。

肉体を構成する物質は原子であると言うことができます。食べたものを、この機械全体(体を指して)が骨や筋肉など様々なものに変えます。ですから、実際には何も分離していないのです。私たちが思っている分離は学習したものです。赤ちゃんはこの世界のすべてを全く分割できないものして見ています。

赤ちゃんが親しい人の顔を認識し始めるには2、3か月かかります。さらに、その顔は意識のフィールドに現れたり消えたりしているのではなく、どこか他の場所にいて、やって来ては去っていくのだということを理解するのにまた2、3か月かかります。脳はそうやって条件付けされます。私たちが世界を認識するやり方は、注意を向けた先からどうやって選び出すか、どうやって別個の対象に焦点を合わせるかという初期の学習からきています。

それは素晴らしいことです。なんと適切なんでしょう。なんと美しい夢なんでしょう。もしそれが無かったら・・・。考えられません。なんと素晴らしいのでしょう。見る能力、別個の対象を見る能力、別個の音を聞く能力、別個の経験を経験する能力。味、触れること、そうしたものがすべての現れの素晴らしさです。

ボブ:もしあなたがその媒体、体を知らなかったら、どうやってそれは現れたでしょうか?

カタリーナ:そのとおりです。あなたは生命として、もしあなたが自分は帰る道を探している分離した物であるという観念を落とすと、あなたは命であり、愛の命、様々な形のbeing(本質・存在)として生まれた愛です。そして自身がbeing(本質・存在)として、他の形のbeingに与え、受け取り、交流します。空間はbeing(本質・存在)です。体はbeing(本質・存在)です。カーテン、カーペットはbeing(本質・存在)です。

そしてすべては一つのbeing(本質・存在)が振動して様々な形となったものです。振動して音となります。光、X線、超音波などすべての波はそれぞれの波長を持っています。それは一つの命、一つの基本的な本質、エネルギーレベルでは一つの可能性のフィールドです。区別はマインドからやってきます。(頭を指して)これは世界を翻訳する機械です。

それはすべてのものにラベルを貼り付けます。ラベル貼りをすることによって、そこに物が存在すると思い込みます。それはそういった物を創造し、受け取ります。それが起こったことです。あなたがその劇を、プレイヤーとしてではなく、空間として理解するなら、自身が生命としてダンスをするのを見るなら、

(映像中断二箇所。文章が繋がらないため割愛)

もしその考えが落ちれば、思考のスペースはきれいになります。そこにはいつもラベル貼りをしていたメンタルノイズはなくなります。そこにはそれを把握したり、理解しようとしたりすることを続けようということはありません。何かをしようとすることのないリラックスしたフィールドで、生活はそのままそのように続いていきます。

そこでは、単に見ることが起こってきます。たくさんの物が見え、見るプロセスがあります。その見る働きの中に分離した形があっても、それを見ている人も分離しているという考えを強化する必要はなくなります。考えることや概念化は不要となります。もし考えることが脇に押しやられると、そこには単に見る働きがあります。

なんという奇跡なんでしょう。誰も見ていません。誰も、命がどうやって見ているのかを理解しません。私たちは装置が働くかを確かめることはできます。同じような機能のカメルを作ることはできますが、命が見るという奇跡をどうやって起こしているのかは全くわかっていません。そしてそれを思考の働きのせいにすることは、奇跡を殺してしまうことになります。

同じことがすべてに起こっています。聞くこと、触れること、味わうこと。もしそういう知覚の働きという奇跡の世界に思考が無かったら。呼吸を止めて、ここにいて、ここが静かになって、この瞬間から逃れようという思考は無く、例えば、こんなやり方はダメだ、次に何をやるか考えなくては、明日何しよう。そういったすべての自己執着が無かったら、命は輝き、生き生きしたものとなります。

命は常に変化します。何も同じままではいません。音は同じ音のままではありません。注意はスムーズに動き、それ自身で自身を見ます。世界は思考無しでそれ自身を取り囲みます。観念がない時、何も変える必要はありません。変化する必要も、何かに取り組む必要もありません。

そこには自然のリラクゼーションがあります。それが自然な状態です。それが、猫があそこのカーペットの上で座っている状態です。(猫を指さす)完全にリラックスして、感覚をオープンにして、耳をオープンにして、長い毛で空気の流れを感じて、全身の皮膚隅々まで意識していて、臭いを感じています。それて私が見ているのを見ています。彼はすべてを感じています。

その感覚的経験、経験するbeing(本質・存在)は、もしそれが概念化によって、曇ったりベールでその上を覆われなかったりしたら、それはとても心地良いものです。何も変える必要はありません。何も変化する必要はありません。他には何も、永遠の至福も必要ありません。なぜなら、このbeing(本質・存在)の心地良さは永遠に新鮮だからです。

それは例えば、OK、私は一度それを感じた、私はそれが何か知っている、さて、今度は何か別のものをください、というものではありません。それは過去には存在しません。それは、今ここにだけに存在します。この瞬間は今ここだけです。この感覚は今この瞬間にだけしかありません。

存在の感覚、本質の存在感は、感覚が現れてくるバックグラウンドです。感覚はこの瞬間の内容物です。見る働きの内容物です。聞く働きの内容物です。味わうこと、触れること、嗅ぐこと、思考、続いている思考もその内容物です。でも、being(存在・本質)の心地良さは、内容物よりも前にあります。

そこにはベールは無く、翻訳は止まっていてマインドは静かで完全で、私は知らない、かまいわしない、ああ、といった感じの自然な状態です。これは自然な状態と呼ばれています。これが、非二元が指摘しているポイントです。それはいつもそこにあり、それは状態ですらなく、状態無き状態。なぜならそれは、練習したり、訓練したりして達成する何かではなく、到着する何かではなく、状態以前にあるものだからです。

それは海の表面のようなもの。それは静かであったり、荒れていたり、波が5メートルだったり15メートルだったり。でも、海の底は静か。それは単に水。それは単に目撃者で、どんな状態が現れても自然な状態です。感情的な種類の混乱、肉体的な楽しみ、知的な熟考、それらは表面です。でも、being(存在・本質)の状態、being(存在・本質)の深みはもうすでにそこにあります。

それを取り去ることはできません。それは「私はいる」を知る働きです。その「私はいる」を知る働きが、非二元が指し示していることです。探求の初期の段階で私たちは高揚した考えを持ちます。「私は非二元(oneness)を経験したい」「私は宇宙との神秘的な融合を経験して、永遠の至福を経験したい」。

ええ、なんて素敵な考えなんでしょう。ドラッグにふけっていなさい。(一同笑い)
それは長続きしないという意味ですよ。(笑い)それは長続きしません。非二元で言っているのは、もしそれがあったとすれば、もちろん楽しい状態でしょう。私の言いたいのは、チョコレートケーキは楽しい状態です、至福、オルガズムは素晴らしい心地良い状態です、それの悪いことは何もありません。でもそれは続きません。それは束の間のもので、やって来ては去っていく、アウエアネスの内容物です。

もし至福などというものがあって、あなたが今それを経験していないのなら、あなたは明日か、10年後か、10秒後かに経験することを期待するでしょう。でも、その価値はありません。なぜなら、それは今ここに無いからです。それはやって来ては去って行きます。もしやって来たなら、去っていきます。それは束の間のものです。

それは単なる花火です。それは単にチョコレートケーキです。それは重要ではありません。それは観念です。私はそういった観念に10年前に引きつけられました。エンライトメントは永遠の至福で神秘的な融合です。だから私はそれを追い求めました。「私」は完全にペルソナ(仮面)で、劣っていると感じていて、内側に空虚を感じて、私はまったく愛するに値しないと感じていました。

私は委縮した痛み、シャイであること、無価値観を解放したいと思っていました。もちろんその反対はエクスタシーです。なぜならそれは苦悩だったからです。それは全く極度の苦悩でした。分離した存在であるという観念。誰かがここ(胸を指して)にいて、体の中に座っていて、体の中に住んでいて采配をふるっていて、見ることや心臓の鼓動や髪の毛を伸ばすスウィッチをオンにしていて、もしここに誰かがいて、それが私だとしたら、もちろん私はいつも自分のことに夢中です。

でももし私が内側を見ると、そこには何もありません。誰も見ている人はいません。誰も考えている人はいません。それは単にアウエアネスの中を漂っている物にすぎません。単に思考がアウエアネスの中を漂っているだけです。(胸を指して)この送受信機はある思考に同調しています。食べ物の好み、音楽の好みを、この(体を指して)一連のパターンに。

でもそれは私の好みではありません。それは、個人というパターンに条件付けられた好みです。でも、私は個人ではありません。(口を指して)これは私のスピーカーです。(目を指して)これは私の双眼鏡、カメラです。これは命が自身を垣間見る方法です。(自分を指して)これは夢の登場人物で、それがあたりを見回し、劇の中、夢の中で人と交流しています。

そしてそれは登場人物としては何もしません。なぜならそれは死んでいるからです。でも、命(life)は命自身を知っています。それは自己の反射を他者の中に見ることによって知っています。空(くう)が形となって反射しています。oneness(非二元・一つであるもの)は、決してそれ自身を知ることができません。one(一つ)はそこから出ることができず、自分が何なのかを知りません。それは他者、基準点がなければ、それを知ることができません。

そのため、知る働き、二元性が戯れとなって現れます。これは play(戯れ・劇)です。これは ride (遊園地の乗り物に乗ること)です。これは単に ride です。ビル・ヒックス、コメディアンがよく言っていました。これは rideです。もしあなたがあまりシリアスにならなければ、あなたは乗り物に乗ることを楽しむことができます。でも、もしあなたがシリアスになると、・・・。(ボブに向かって)何かありますか?

ボブ:書名「Self realization through naked awareness」(むき出しのアウエアネスによる自己実現)。あなたはこの本を読む必要ありません。タイトルを見てください。むき出しのとは何ですか? むき出しの意味は何ですか? 服を着ていない、裸という意味です。あるがままです。このアウエアネスを認識してください。

今、認識していない人(unaware)は誰もこの部屋にはいません。みなさんに意識があります(aware)。それができるとか、できないとは言えません。認識することには何も付け足す必要がありません。

そして、ネイサン・ギル。名前を聞いたことがあるかもしれませんが、彼はすでに亡くなっています。彼が、「ボブ・アダムソンが本を出した。What's wrong with right now? if you don't think about it.(もし今そのことを考えなかったら、何も問題はないじゃないか?)。 本は読む必要はない。すべてはタイトルにある。そのとおりにやりなさい。もしそれを見たら」と言いました。

もう一度、むき出しのアウエアネス。What's wrong with right now? if you don't think about it.(もし今そのことを考えなかったら、何も問題はないじゃないか?)。おびただしい数のテキストが言っています。マインドを止めよ。思考を止めよ。思考が問題である。でももしそれが理解されれば、問題ではありません。あなたは言葉が様々に表現されているにすぎないという事を理解するでしょう。

あなたは好きなだけ考えることができますが、捕らえられことはありません。言葉は実在ではないということを理解してください。描写は描写されるものそのものではありません。地図は土地ではありません。これらのことを理解してください。それはとてもシンプルです。今までも、これからもそうです。

でも私たちは、獲得しようとしたり、何かを手に入れようとしたりして間違えます。なぜなら、いつもすべてを「私」に関係付けるからです。自己は一つのものがパターン、姿形となり、すべてとなって現れたものだということを理解してください。私たちは、私、私自身、私の車、私の体、私のマインドというふうに分割します。あなたがこれらのものを調べると、そんなものは存在しないと理解するでしょう。

カタリーナ:OK。基本的に、認識すべきこと、瞬間瞬間に理解すべきことは、物事をありのままに見ること、思考をありのままに見ることです。私は体であるというのは観念であり、それは真実ではありません。それは実在ではありません。もしそれを聞いても、私は劣っているという観念があるなら、それもまた観念です。それは真実ではありません。

でも、そう感じます。ええ、そんな感じがします。縮こまった感じがします。ええ、それはフィーリングです。フィーリングは思考がフィーリングを感じていると認識できます。私は縮こまっている、私は体の中にいるといったフィーリングは単なるフィーリングです。誰がそのフィーリングを意識しているというのでしょうか? 

誰が、その縮こまった感じのフィーリングを意識しているのでしょうか? それは純粋な命です。瞬間瞬間にアウエアネスが意識しています。命が意識する働きを意識しています。知る働きと同じように。そしてその内容物。何が「私はいる」という観念や経験の背後にやって来ようと、生活上の経験は概念となります。

「私はいる」、それを私は知っている。でももし私がその後ろにどんな概念もくっつけなかったら、「私」とは何ですか? 「私」は体ですか? いいえ、それは概念です。「私」は劣等感ですか? いいえ、それはフィーリングです。私は個人ですか? いいえ、それは観念、メンタルイメージです。「私はいる」。でもそれは何? どこにいますか? 

OK、ここにいる(体を指して)。でもここで終わりですか? もし体の形を受け入れなかったら、ええ、私はいる、私はここにいる。でも、どこで「ここ」は終わりますか? もし私が上を向いて自分の体が見えなかったら、もし目を閉じて自分の体が見えなかったら、体のサイズの観念を完全に取り去ったら、もし私がそういう思考を落としたら、「私はいる」「私はここにいる」という観念には終わりがありません。

それには終わりがありません。それは、私の体が宇宙全体に広がっているという意味です。宇宙というのも観念です。それは観念です。目を閉じて、座って、あなたがどんな観念も持たないとしたら、あなたはどこから始まって、どこで終わりますか? 姿形や距離 を持たず、ただ存在するだけです。

目を閉じると、空間が消えます。遠くや近くを知るためには目を開ける必要があります。これはすべて感覚から来ます。マインドが静かな時、時間は消えます。もし私たちが物事を空間や時間の観念無しで見るなら、外側や内側、遠くや近くとは何ですか? 無です。純粋で明白な存在です。それには始まりも終わりもありません。そして私はその存在です。

目を開けると、メンタルイメージや概念がやって来ます。考え始めると、時間や未来や過去という観念がやって来ます。そしてそれが現実であると強化していきます。でもそれは素晴らしいことです。現実はありのままで、全く愛すべきものであり、感謝すべきものです。それはどれほど現実に見えることでしょうか? それはどんなに壮大でしょうか? 

でもそれは観念、目が空間の感覚を与えている、マインドが時間の感覚を与えている、時間と空間の感覚は、明白な本質の概念による翻訳からやってくると認識されるべきです。それは条件付けからやってきます。それは明白な存在が様々な形の存在に分割されたものです。

それは見えないものではある必要はありません。空間を見ることはすばらしいことです。対象物を見ることは素晴らしいことです。実際には私たちは空間を見るのではなく、対象物を見ています。うわべ上の分割を見ることは素晴らしいことです。そしてそれをそのまま知ってください。

それは私たちが夜に夢を見るようなものです。私たちは眠りの中で体を創造します。夢を見ている体はベッドの上に横たわっていてどこへも行きません。でも、夢の中の体は動き回り、手を振ります。私は通常自分の顔が見えません。何回かは見たことがあるのですが、顔が違っていました。

通常は夢の中の体が動き、時々は飛びます。時々は落ちます。時々は誰かに追いかけられているのに動けない。悪夢です。でもそこには体があり、夢の中の世界があります。私は目を閉じていて、命が脳の中の神経のフラッシュを通して情報を伝えて現実を作り出しています。それは夢の中でしか存在しないが、とてもリアルに感じます。

それは確かなものに感じます。山はそこに数百万年あるように感じます。建物。あなたは建物に登ることができ、それはとてもリアルに見える。そしてあなたが目を覚ますと、それはどこにあるのか? その現実はどこへ消えたのか? 動き回っていた体は消えた。体はベッドの上に横たわっています。

夢の中で私たちは世界を体験します。時々人々は、全員ではないですが、夢を覚えています。一晩に五回、十回夢を見る人もいます。それは、一晩に五つ、十の現実です。生命の本質はなんて創造的なんでしょう。でもそれはすべて無です。それはすべて無でできています。ちょうどこの夢のように。ちょうどこの夢と同じように、それが夢であると認識するのは困難です。

ええ、それは夢だった。でもこれはリアルです。ええ、夢の中で私は、それはリアルだと思っていました。類推してください。眠っている時に夢がどんなにリアルに見えるかを。そして目がさめると、それがどんなに非現実的に見えるかを。同じように、私たちはこの夢から覚めることができません。でも、夢の中へと覚めることはできます。私たちは、これが夢であると理解することはできます。

ここに(自分の体を指して)夢のキャラクターがいて、そこに夢の世界があります。そしてそれに目覚めます。それが何なのかを理解します。それがそれを明るいものにします。それがそれを楽しいものにします。それがそれを易しくします。それは、必ずしも、夢が消えて、私は完全な無であるという意味ではありません。

時々はそうなるでしょう。なぜなら、目を閉じれば夢が簡単に消えるからです。でも、夢はまたやってきます。そして目を閉じれば、また夢から夢の中へと目覚めます。ここで招待していることは、本当のあなたが何なのかを理解することです。もしあなたが、自分はここ(胸を指して)にあるつまらない感覚、存在であり、それは縮こまっていて抵抗していると思うなら、あなたはそれではありません。

それは単に体の中のフィーリングです。なぜなら、私が、私には価値がないという思考を受け入れる時、その思考が体の化学反応を変化させます。体の中の化学物質、ホルモンを分泌させます。コルチゾールを増加させ、ひどく気分が悪くなります。血液が内蔵や手足に流れ、ひどい効果をもたらします。それが、思考を信じることによって肉体レベルに起きることです。

もちろん私が、私は個人であり、私は劣っていると信じていると、感情的な構成要素と肉体的要素ができます。それが体の化学反応を変えてしまいます。もちろんそれは本当だと感じて、見て、これはすべてリアルだと言う時、誰がそのことを知っているのですか? それはアウエアネスの中に内容物です。これは、体、思考、感情的な構成要素と肉体的要素の反応を知る働きです。それは思考の中で体に起こったことです。

そしてこれはすべて、知られています。目撃(witnessed)されています。witness(目撃)は難しい言葉です。なぜなら、witness(目撃)という言葉は、瞑想の間や別の訓練の間に、私たちがもう一人の架空の存在を創造して、それが witness(目撃者)で、その目撃者がエゴや体の内容物を目撃しているように思うからです。

これもまた別のメンタルイメージです。目撃者などというものは存在しません。それは単なるイメージです。しかし、witnessing(目撃する働き)、意識しているというプロセス、気づいていること、知る働きは、代理人を必要としません。それは、誰かそれをする人を必要としません。

見る働き(seeing)にも同じことが言えます。見る働き(seeing)は起こっていることです。それは、見ていると信じている存在を必要としません。誰も見ることはできません。誰もそれがどうやって起こっているのが知りません。人生におけるどんな活動も、媒体(体を指さして)を必要としていません。

そこに誰かいて決定したり、選択したりしているように感じるのですが、実際にそこで起こっているのは、人が決定したり、選択したりしているという観念であり、ここで何かをしている人はいません。小人やサンタクロースが内側にいて糸を引いているわけではありません。

体は何をすべきか知っています。体はどうやって細胞を置き替えるのか、髪の毛を成長させるのか知っています。それをやっている存在はいません。思考を考えている存在はいません。もしいるなら、肯定的で幸福な思考しかないはずです。誰も、私には価値がないなんて考えません。

思考がやって来て、私がそれを考えず、それを止めることができないなら、明らかに思考は私の手の及ぶところにはありません。もし思考が私の手の内にないのなら、どうやって私が決定を下せるでしょうか? 決定は思考に基づいています。もし私が、映画に行きたい、劇に行きたいという二つの思考を持っていて、もし私がそのどちらかを選ぶ場合、実際に選んでいるのは誰ですか?

ある思考はとても強くて興味深くて訴える。もう一つの方はそっけない。選択の余地はありません。起こっていることは明らかです。思考は何をして何をそのままにしておくべきかすべてをすでに含んでいます。それはちょうど、猫がどんな決定や選択も概念化もしないのに似ています。もし猫に二種類のエサをあげても、強く感じる方を食べるだけです。

人生は間に代理人がいない方が簡単になります。すべてのことが命によってありのまま自然に認識されるなら、思考は思考、フィーリングはフィーリング、感情は感情です。肉体の感覚は感覚です。それだけです。それが起こっていることです。内容物の知る働き、アウエアネス、アウエアネスのアウエアネス、知る働きの知る働き。知る働きは続いていて、自らを気づいています。それは自身に気づいています。(ボブが見ているのでマイクを向ける)

ボブ:みなさんに質問するチャンスをあげてください。時間が過ぎています。

カタリーナ:ああ、本当ですか?


(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)

参考:セイラーボブが休んでいた時期(2018年6月)にカタリーナが一人でミーティングを開いていた時期があります。そのYouTubeは、Sailor Kat(YouTube)にあります。