2019/02/27

The Spiel ③ (2015.12.27)


                2015.12.27講話  (著作権者了解済み)

ここではあなたに何も教えはしないし、あなたに何かを知らせるわけでもないということを理解してください。それを理解することが大切です。私がするのは、それを指し示し、あなたが自分でそれを調べるように求めることだけです。

なぜなら、何かを受け取る人も何かを与える人もいないからです。私が指し示すものは決して新しいものではありません。何か新しい考えとかそういったものではありません。いにしえの聖書や聖典、宗教を調べてみると、それが一つの基本、基本的な本質から始まっています。

ヒンズー教ではそれを、アドヴァイタと呼びます。アドヴァイタは非二元と翻訳されます。そして彼らは非二元を「他に何もない一つのもの」と表現します。彼らが、他に何もないと付け加えるのは、一つという考えでさえ、他に何かあることを暗示しかねないからです。

他に何かあった場合はもはや非二元ではありません。それは二元的な考えです。(非二元では)それ以外には何もないと言います。仏教の根本的な本質も同じことを言っています。それは別の言葉で表現されています。彼らはそれを「概念化されない、永遠に新鮮な、いまここにある意識」と言います。

彼らはそれに「ただそれだけ他には何もない」と付け加えて、今ここにある意識を指し示し、今この瞬間、自分の存在に気づいていない人や、今ここにある意識が今この瞬間自分とともにはないという人はいないということを示しています。

頭に中にはあらゆる種類の概念があります。あれやこれやや、あのバカが言ったことなど他全部。(笑い)
これらの概念を打ち消すのは非概念だと彼らは言います。概念がどこに現れるかというと、自然に起こる永遠に新鮮な知る働きの中にであり、それがあなたです。それは自然に起こり、そこには時間がありません。

それが、私があなたに調べてみるように尋ねているものです。時間はメンタルの概念であると自分で調べてみてください。
一つの本質に話を戻すと、それはパターンとなりすべての物となって現われます。それはマハヴァキヤの大格言では偉大なマントラ「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と訳されます。誰かこの「それ」が何か言える人はいますか?

あなたは「それ」に、どんな正面も裏も、高さも深さを適用することも、どんな描写をすることも全くできません。どんなラベルを貼ったらいいでしょうか?
それは椅子、それはカーペット、それはビル、それはあなた、それは私。根底にある本質は「それ」ですが、私たちは「それ」にラベルを貼り付けます。

ラベル、すなわち言葉はそのものではありません。あなたは「水」という言葉を言うことはできます。あなたは言葉を飲むことができますか? それに溺れることはできますか? その中を泳ぐことはできますか? 言葉はそのものではないということを理解してください。火という言葉はあなたが話している時、あなたの口をやけどさせることはできますか?

あなたはそれで料理をすることはできません。あなたはそれで自分をやけどさせることはできません。あなたはそれで自分を暖めることはできません。それが、私が指し示していることです。言葉はそのものではありません。言葉はすべて、学んで獲得したラベルです。それを自分で調べて見てください。

あなたは言葉とともに生まれたわけではありません。誰も言葉とともに生まれては来ませんでした。すべての言葉は学んだもの、すなわち途中で身に付けたものです。それはすべて獲得したものです。ですから、あなたは「それ」を言葉で理解することはできません。でもそうできると考えています。

重要な宗教の伝承の中でもこのことは指摘されています。キリスト教ではこのことについて「偏在、全能、全知」と言います。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面を言っています。偏在とは完全な存在、全能とは完全な力、全知とは完全な知性。一つのものの三つの側面です。すべては実在のことを指しています。

それは現れ、パターンとなり、すべてとなって現われます。それは見かけの上では別々のもののように見えます。あなたは分離した感覚を本当だと思っています。その本質を調べてみてください。偽物は調査に耐えません。

中断(来客)

あなたが自分だと思っているのはその体とマインドですか? 私たちはそれがその人だという概念すなわち考えを抱いています。人(person)という言葉はどこから来ましたか? いにしえの言葉、persona、mask(仮面)からです。私たちはこの自分という仮面、概念上のイメージを被ったことを意味しています。それを私たちはこのパターン、形、姿に付け加え、自身を人、個人、分離した存在だと思っています。

もう少し調べてみましょう。もしあなたが自分はその体だと思っているなら、その体の中にそこからすべてが始まったという場所を見つけることができますか? ここから始まったという場所を。あなたは、ここから始まったというどこか決まった場所を正確に指摘できないことに気づくでしょう。

この体は何でできていますか? あなたはこの体が構成要素からできていると理解します。それは、土、水、空間、まさにあなたのまわりにあるような構成要素でできています。もしあなたが自分のことを分離した存在だと思うなら、自分自身をそれらの構成要素から切り離してみてください。

息を止めて、空気を取り入れるのを止めて、どれだけ長く自分をそれから切り離していられますか? 水を取り出してください。あなたの体は80%が水です。もしできるなら、水を分離してください。火、体温。もし体温がなかったら、低体温症になってしまい、長くは持たないでしょう。

空間から外へ出てください。あなたが調べてみると、あなたは自分が全くその体ではないことを理解するでしょう。この体は構成要素でできています。そしてそれら構成要素はすべて微粒子、純粋なエネルギーへと分解することができます。あなたは、その体はエネルギーのパターンが振動しているものに他ならないと理解するでしょう。

それならあなたはマインドですか? あなたはこのマインドと呼ばれるものですか? 私たちは、自分たちは、体・マインドの統一体だと思っています。もしあなたは自分のことをマインドだと思うなら、そのマインドと呼ばれるものを私に見せることができますか? あなたが調べてみると、あなたはそのマインドと呼ばれるものを全く私に見せることができないことを理解します。

あなたは、思考は別としても、マインドなどというものはないということを理解します。私たちは考えること、すなわち思考をマインドと呼びます。もしあなたがマインドなら、私たちはそう信じていますが、マインドは思考です、どの思考があなたなのですか? そしてあなたは、存在の感覚、自分が何者かという認識が翻訳され、「私はいる」という思考になってマインドに現われるということを理解します。

それゆえ、「私はいる」というのは原初の思考です。もしその思考があなたなら、あなたは自分を見失うことはない。でもあなたは毎晩眠りにつく時に、まったく自然に簡単にそれを手放します。ということは、あなたはその思考ではありえない。それに、あなたが一日中他のことを考えている時は、それはそこにはいない。

あなたがそれを調べる時、あなたがその思考ではありえないことを理解します。微妙なレベルでは結局思考とは何ですか? 考えること、思考とは何ですか? 思考とはバイブレーションではないですか? そしてバイブレーションはエネルギーの動きではありませんか? すべての言葉、思考は体と同じようにエネルギーの振動パターンです。

もう一度、すべてのものの一つの本質に戻ります。この顕現。この顕現を調べてみてください。そうすると、あなたはこの顕現が二元的な顕現であると理解するでしょう。そしてそれはそれ以外ではありえない。昼は夜無くしてあるでしょうか?静寂は音や動き無くしてあるでしょうか? 夏無くして冬は?

あなたは、この顕現はエネルギーのパターンが振動しているにすぎないと理解するでしょう。そしてそれはまた言葉や概念へと分割されます。昼と夜。冬と夏。私たちが充てた言葉が見かけ上の分割を作り出します。それは振動するエネルギーパターンです。いにしえの人たちは何年も前にこれを指摘する時、この顕現はマーヤーだと言っています。それは幻影です。

それには実体も独立した本質もありません。見かけ上、そう見えているにすぎません。別の言い方をすると、それは現象の宇宙です。現象からなる宇宙。現象の定義を辞書で調べると、「そのように現れる(見える)もの」です。それは見かけ上、そのように現われているだけです。現象の反対は実在で、非顕現です。

辞書による実在の定義は、非顕現、物ではない、空(くう)であり、それが実在です。ブッダはそれを、認識する空と言いました。それは私たちが空を認識するということではありません。そうではなくて、その空に満ちた知性が要素を認識し、すべての認識活動をしているということです。

ブッダは、空は形であると言って、その認識する空がパターンとなり、形作られ姿となり、全宇宙とその中のすべてとなり、顕現として現われていることを指摘しました。あなたはこの宇宙とその中のものと分離してはいません。言い方を変えると、形は空(くう)に他ならないとわかるでしょう。あなたがあなたや私と呼ぶ形や、その他の形も実在の世界では無であり、見かけ上は何か固い実体のあるものに見えますが、認識する空に他なりません。

そしてあなたは自分が体とマインドではないと知っています。あなたは「私の体」と言いませんか? あなたはまた、「私の車」「私のコート」「私の家」と言います。あなたはそれを言うのをためらいません。なぜならあなたは自分があなたの車やコートや家ではないと知っているからです。同様に、どうして自分が体だと信じることができるでしょうか? 「私のマインド」の場合も同じです。あなたは、あなたのコートや車や家ではないと知っています。

そしてあなたは「私のマインド」と言います。それは誰のマインドですか? あなたがそれを調べてみる時、どんなにそれが調査に耐えないかを知るでしょう。それゆえ私は、虚偽は調査に耐えないと言うのです。私たちは、私たちの言語の中でも同じことがあることを知っています。そしてそれは昔から人々が指摘してきたことでした。

ニサルガダッタは言っています。「あなたの想像以外、何もあなたを苦しめるものはない」と。あなたはその真実を調べて理解してください。想像(imaging)とは何ですか? imaging-in? それは、私たちが概念のイマージを創造しているという意味です。そしてその本当の本質を理解しないで、そのイメージを実在だと思っています。

あなたが自分はその体とマインドの存在では全くないと調べる時、あなたは自分自身をこの顕現から分離することはできません。それを含んでいます。それはすべてのパターン、すべての姿、すべての形を含んでいます。というわけで私は言うのです。あなたが、それであるということを認識しているかどうかということから始めなさいと。あなたがそれ以外のものであったことなどありません。

そしてあなたは、もう既にあなたがそれである何かを探したり、獲得しようとしたり、それに至る方法を作ろうとしたりする必要はまったくありません。あなたはそれが不可能なことを知るでしょう。私たちが探す時、あらゆる種類の瞑想をします。サットサングに行き、あらゆる種類の実践をします。あなたは何かになろうとします。そして何かになることは(becoming)、在ること(being)ではありません。

あなたは今この瞬間、自身の存在(beingness)を否定することができますか? あなたは、もしあなたが「神」という言葉を使いたければ、至高の存在(Supreme Being)を「神」と呼びます。そしてあなたは自分のことを人間(human being)と呼びます。至高(Supreme)というラベルを取ってください。(human)というラベルを取ってください。ラベル無しで存在(beingness)を分割できるものならやってみてください。

そしてまた同じことは私たちの言語の中にもあります。それは椅子(That's being a chair)。それはカーペット(That's being a carpet)。それがあなた(That's being you)。それが私(That's being me)。それらすべてのラベルを取れば、あなたは存在(beingness)とともに残されます。

誰か自己の存在(beingness)を否定できる人はいますか? この部屋にいる人で、「私はいない」と言える人はいますか? もしそう言うことができたとしても、あなたは、それを言うことができる何かがいるということを認めざるえません。彼らはそれをConsciousness(意識)やAwareness(意識)と呼びます。それで私たちは「アウアネス(意識)」というものがあるという概念を得ます。

そして私たちは「アウエアネス」と呼ばれるものを探し始めます。でも今この部屋の中で今この瞬間、意識のない(unaware)人はいますか? あなたは言うでしょう。いいえ、私は意識がないことはない(No, I am not unaware)、と。もしあなたに意識がないことはないのなら、あなたに意識があるに違いない(You must be aware)。 何かを探すかわりに、あなたはもうすでにそれだということにどうして以前は気づかなかったのか?

そしてあなたは、アウエアネスはずっとあなたとともにあるということを理解します。でもアウエアネスはあなたがラベルを貼って理解したり、パターンや姿形に分割したりできるものではありません。あなたはそれを否定することはできません。この線に沿って調べて、あなたの真の本質を認識してください。

あなたはいつ始まりましたか? あなたは私に「私は生まれた」と言おうとします。でも、誰か自分が生まれた時のことを実際に覚えている人はいますか? そしてあなたは自分が生まれた時のことを覚えていないことに気づきます。あなたは自分が考える能力が発達する二歳か二歳半ぐらいの時点まで遡ることができるだけです。それ以前のことについては覚えていません。

どこであなたは始まりましたか? あなたの父親や母親が生命の本質を生み出すところまで遡ってみてください。知性エネルギーがパターンとなり、形作られ、あなたが父と呼ぶ姿になります。そのパターンが非常に小さな粒を形作り、精子と呼ばれる肉眼では見えないものが作られます。

同じように現れた生命の本質、あなたの母親に宿る知性エネルギーが別の小さな粒、すなわち卵子、パターンを形作る卵を作ります。卵子は他のすべてのパターン同様に、知性に満ちています。なぜならそれは、何をすべきかを知っているからです。それは自分で子宮を出ることを知っています。精子も知性エネルギーに満ちていて、何をすべきかを知っています。

それは泳ぎます。それは知性エネルギーに満ちていることを意味します。その二つが出会った時、精子は卵子の中へ入っていきます。そして細胞は知性を通して二つに分裂し、また二つに分裂します。それで、あなたは分離した存在として何かしましたか? あなたは、手や肺や心臓や脳を成長させなくてはいけない、と言いましたか? あなたはその時まだ脳さえ持っていませんでした。

内在する知性エネルギーは、今日でもあなたが個人として知っていることよりも多くのことを知っていることを理解してください。それは何をすべきか知っています。それは細胞を分裂させることを知っています。あなたを形作る青写真は、二つが出会った時にそこにありました。そしてそれが今日いるあなたです。その青写真はあの本質の中にありました。その本質がそのパターンを作りました。

そしてそれ以来ずっと、「それ」があなたを成長させ、あなたを生き、あなたとなって現われています。そして二歳か二歳半ぐらいの頃、考える能力がその形の中で発達します。ところが一方で、人間が持つその能力を他の動物、鳥、昆虫は人間と同様には持っていません。でも彼らは、私たちが持っていない能力を持っています。

例えば鳥は、私やあなたよりもはるかに良い視力を持っています。鳥は飛ぶ能力を持っています。私たちは通常その能力を持っていません。しかし、私たちは考える能力によって、メガネを作ったり、双眼鏡や望遠鏡など、もっと良く見えるものを作ったりすることを学びました。そしてその考える能力で飛行機、ヘリコプター、カイトやバルーンなど飛ぶことができるもの何でもを作ることを学べました。

犬は嗅覚を持っています。犬は私やあなたよりはるかに良い嗅覚を持っています。トラやレオパードやその類の動物には縞や斑点があり、彼らの毛皮は自然なカモフラージュとなります。そのことが、彼らを優れた捕食動物にします。
内在する知性エネルギーはどんなパターンが必要かを知っていて、そのパターンとなって現れています。

では私たちには何が起こっているのでしょうか? 小さな子供が生まれた時、その小さな子供を見てください。小さな子供は自分が分離した存在だというどんな考えも持っていません。小さな子供は自然に、自発的に、努力することなく機能しています。興味が湧けば手を伸ばし、好きでないなら押しのけます。

悲しければ泣き、幸せなら笑って喉を鳴らします。でも子供はその段階ではどんな言葉や概念も学んでいません。というのも、考える能力がまだ形作られてないからです。二歳か二歳半に考える能力が発達し始める頃、親から言葉を学びます。親はあなたのまわりであれこれ言います。幼いジョニー、かわいいビリー、あなたはいい子ね、おまえは悪い子だ、おまえはあれこれだ、と。

そして子供は「私」「私に」といった言葉を学びます。そして今、あなたのマインドを調べて、それがどういうふうに機能するかを見てください。マインドはそれが機能する時、とても機械的に動くとわかるでしょう。シェイクスピアは言っています。良いも悪いも、快も不快も、幸せも悲しいも、愛も憎しみも、肯定も否定も、いつもそれは互いに関連する反対の極に振れている。そして私たちがそれに与えている境界や限界は、言葉によってです。シェイクスピアは言っています。良いも悪いも人の思考がそうしているにすぎないと。

そこには私たちが貼り付けた境界があります。これがあれで、あれがあれでと。言葉を貼り付けなかったら、それは何なのでしょうか? 自然を見てください。自然は二元的な顕現です。自然は言葉を学びましたか? いいえ。自然は昼と夜を、冬と夏を、良いとか悪いとか心地良いとか悪いとか比較しません。すべてがあるがままで起こるがままです。私たちが絶えず比較しているかどうかにかかわらず。これは良い、あれは悪い、私はそれが好きだ、嫌いだ、心地良い、不快だ、と。

そしてそれはすべて、「私」という思考に関連しています。「私に」。かわいいジョニーは「私」や「私に」といった言葉を学びます。「私」や「私に」の反対は何ですか? それは「私」や「私に」ではないものではないですか。その時、私たちに分離した感覚が起こります。子供に考える能力が発達する前、すなわち言葉を覚える前は、子供はすべてをあるがままに見ていました。

あるがままというのは、変えたり、修正したり、正したりしないということです。すべてそのまま。そして彼は今や言葉を覚えました。そして、「それはかわいいジョニーには合わない」から、それは「私」のはずがないと考えます。「それは私のはずがない」という感覚とともに、分離感がやってきます。その分離感と一緒に、不安や傷つきやすさがやってきます。

私たちは不安や傷つきやすさを理由に探求を始めます。その不安や傷つきやすさで何が起こったか。幼い子供は暖かくて愛情ある家族を好みます。暖かくて愛情ある家族と一緒にいると、より一層安全を感じ、傷つきにくくなります。家族と離れると良い感じがせず、孤立や孤独を感じます。家族が部族となったのは、そうやってかって起こったことではないですか?

部族がより大きくて強いほど、より安全で傷つきにくくなります。それが今日でも続いているのではないですか? 部族が国家となり、国と国がその不安や傷つきやすさのせいで戦争をします。私たちは立ち止まって、私たちは最初から分離した存在ではないと認識したことが今までにありますか?

私たちはこの分離感を受け入れたために、すべてが相対的になりました。私たちはこの「私」をどうすることもできません。それではどうしますか? 私たちはそれに出来事、経験、条件付けを加えます。出来事が私たちに起こると、それを「私」に付け加えます。私はボブ、オーストラリア人、私はいいやつ、あんまりよくない、みんな私が好き、みんな私が嫌い、などなど。これらは全部、「私」に付け加えられた概念です。

そして「私」は今や概念上のイメージを持っています。「私」は、考えや概念や思考でできた自身のイメージを持っています。それは自分に関して起こった出来事や経験、物事にもとづいています。そしてその概念上のイメージを私は基準点と呼びます。それは自己の中心、すなわちエゴです。聖典では、あなたはこのエゴを取り除かなくてはいけない、このエゴが問題である、取り除いて、踏みつぶし、カーペットの下に押しやれと言っています。

ここで私は、もしあなたが調べてみれば、エゴはフィクションであるとわかると告げます。初めからそれは存在しません。それは概念上のイメージにすぎず、信念のエネルギーが「私」に入って、見た目上本当に見えるものです。そうしてすべてのものがその「私」に対して相対的になります。相対性は二元性です。そのため、すべてがそのエゴと関連しています。関係性。

関係性は二元性です。私は最初に、非二元の中には決して二元性は存在しないと指摘しました。それは見かけ上そのように現れているだけです。そこにはどんな二元性もありません。私がいつも言うように、あなたがそれを知っていようがいまいが、あなたはもうすでにそれであるという事実から始めてください。あなたは今までもずっとそれでした。

あなたは分離した存在であるという架空の見地から何かを理解しようとしても意味がありません。それは決してできません。あなたは、やりたければあらゆる瞑想、あらゆるサットサングや訓練などをすることができます。でもそれは決してうまくいきません。なぜならあなたは、その必要のない何かを定着させようとしているからです。

あなたは今まで、そしてこれからも、それです。あなたは自分で調べて、自分は決して分離してはいないと理解すればいいだけです。このエゴ、信じられている存在を認識してください。どう思いますか?私たちはエゴもコントロールしていると思いますか? 私たちはそれを実在だと思っています。幼い子供にはエゴはありませんが、そこへ何かがやってきます。おさない子供が機能するやり方を見てください。

あなたはその子が見て、聞いて、味わって、触って、嗅ぐのを見るでしょう。その子はそれを何にも関連付けていません。子供は何か好きなものに引き付けられ、好きでないものは押しのけます。子供はまったく努力なく、自発的に自然に機能します。今では言葉を知っているので、私たちは自分のことを、内在する知性よりも賢いと思っています。

それは知性エネルギーと呼ばれています。あなたは、それもまた概念だということを理解しなくてはいけませんが、私は「神」という言葉を全く使いません。なぜなら、その言葉を使うと混乱してしまうからです。というのも、私たちは異なる伝統、異なる背景から来ています。ある人は不可知論者で、ある人は無神論者、ある人はクリスチャン、ヒンズー教徒、ムスリム、仏教徒、ユダヤ教徒です。

もし私が「神」について話し始めると、あなたはそれをあなたの条件付けられた信仰と関連付けてしまうでしょう。では何と言いましょうか。私は知性エネルギーという言葉を使います。あなたは、またそれも概念であることを理解しなくてはいけません。それはそのものではありません。それは指し示す方法です。言葉は実在ではないと理解してください。

あなたは言葉を使うことはできますが、それが何か物であるという概念に縛られないでください。そしてあなたは、「私はいる」という概念を身に付けました。あなたは「私はいる」という言葉を学びました。あなたは「私がいる」や「私」という言葉では大したことはできません。私たちはそれに、出来事、経験や条件付けなど、私たちに起こることを、その「私」に付け加えました。

私たちは、うわべ上ではそれに実体を与えます。私はボブ、私はオーストラリア人、私はいいやつ、みんなは私が好き、みんなは私が嫌い、私は不幸、私は憂鬱。これらの概念はすべて、それに付け加えられます。そして信じるエネルギーがそこに入り、うわべ上は本当のように見えます。それは実在で確かな実体のあるもの、私、ボブがここにいるように見えます。

幼い子供は自然に機能して、これらの言葉を学び、同じことが起きます。子供はうわべ上確かな存在を受け入れ、それが自分と関連しているものになります。そして自然な機能はどこかへ行ってしまう。なぜなら、私たちはその内在する知性エネルギーよりももっと賢いと思っているからです。

私が知性エネルギーと言う時、この宇宙を機能させている知性と同じもののことを言っています。この宇宙を見て、それを調べてみてください。銀河は形成され、惑星は動き、地球は太陽の周りを回る。季節がやってきては去り、潮は寄せては引く。そのことは、自然はそれ自体が内在する知性エネルギーに満ちていることを暗示しているのではありませんか?

もしあなたが気に入ればあなたのためにそれをやり、もしあなたが気に入らなければあなたを痛めつける誰か年老いた男が雲の上でひもを引いているわけではありません。それは機能しています。すべては内在する知性エネルギーの中でパターンとなり、形作られ、姿となります。あなたもその自然と同じです。

あなたはその同じ知性エネルギーが心臓を鼓動させていることを理解します。それがあなたに呼吸させています。それがあなたの髪や爪を伸ばし、食べ物を消化します。体の中で細胞を置き換えています。あなたはそれについて何をしていますか? あなたはそれが自発的に自然の起こっていることを理解します。

私たちはそれを見失っています。なぜならこの「私」がやって来るからです。私たちは、「私」がそれをやていると思っています。私が仕切っていると。それが、思考がやって来た時に起こっていることです。それが自然に起こるに任せるかわりに「私」という記憶に関連付けてやっていることです。そして「私はそれが好き」となります。どうしてあなたにそれがわかりますか?

ええ、私には以前にその経験があります、それは良い経験でした。私たちは良い経験を手放したくありません。でも思い出してください。この顕現はマーヤー、すなわち幻影であると言われています。私たちはそれを手放したくありません。

(一部聞き取り不能箇所を割愛しています)

2019/02/24

The Spiel ② (2017.1.1)


                2017.1.1講話   (著作権者了解済み)

みなさん、明けましておめでとう。

実際にはすべての年が新しい年ではなく、すべての瞬間が新しい瞬間、すべての秒が新しい秒、すべての分が新しい分、すべての日が新しい日、すべての月が新しい月、そして新しい年となります。それは、新鮮で新しい。

そしてそれはこう言われています。「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識」。そこに時間はなく、新鮮で自然に起こっています。私たちは、その知性エネルギーの自然発生的なパターンです。私たちの本質は知性エネルギーです。

しかし、パターンは絶えず変化しています。あたかも波や、さざ波が海の上でしぶきとなって絶えず変化するように。それはいつも、そしてこれからも水すなわち海です。

みなさん全員が以前ここへ来たことがあるから知っているように、ここではあなたに何も教えはしないし、あなたに何かを伝えるわけでもありません。

なぜなら、それを教えることができないからです。どうして一つの波が別の波にどうしたらいいか、どうやって波になるかと教えることができるでしょうか? それはできません。同じ海が波となり、その波が消えてまた海に帰っていく。また別の波が現れ、それは新鮮で新しい。それは私たちが我々と呼ぶパターンと同じことです。

私たちは、見かけ上はしばらくの間、あたりをうろついています。でもそれは本当でしょうか? というのは、あなたはこの部屋に入って来た時と同じ体ですか? あなたは、この瞬間にもあなたの体の細胞が死んで入れかわって常に変化していると知っています。五年前、六か月前、十年前と同じ体ではありません。

それは常に一時的なもの。顕現そのものが一時的なものと言われるように、一時的なものです。それは常に変化しています。しかし、それは連続、速い動きの中で見かけ上は連続しているように見えます。その自発生の中で、それは同じ本質の連続に見えます。

でも調べてみると、それは同じ本質で、同じパターンです。あなたが、私が言ったように体と呼ぶパターンを調べてみると、それは全くいつも同じ体ではない。あなたが子供の頃のことを聞かれ、あれが起こった、これが起こったと言うでしょう。「どうしてそれがわかる? あなたは今と同じ体でしたか?」とあなたは聞かれる。いいや、違う。

その時あなたは、今と同じ思考や概念やイメージを持っていましたか? そうではありません。何がそれを知っているのですか? あなたはそこに、思い出すことができる本質的なものが内在することを理解しなければいけません。あなたは、それが起こった時、「私はそこにいた」と言うでしょう。何がそこにいたのですか? それは「私」という思考ですか?

あなたがまだ二歳か二歳半になるまでの、物心つく前の幼いころ、あなたは言葉を全く知らなかった。それでどうして「私はそこにいた」と言うことができるでしょうか? 「あなたは自分が生まれた時のことを覚えていますか?」と聞かれ、自分がそれを覚えていないことに気づくでしょう。しかしそれでもそこには、知る働き(knowing)はありました。それが、私たちが理解しなくてはいけないことです。

顕現は常に変化しています。そしてあなたは、顕現と別のものではなく、分離することもできません。いにしえの聖典ではそれをマーヤー、幻影もしくは現象の現われと言います。現象という言葉の定義を辞書で調べると、「現われ出るもの」です。それは見かけの上だけです。それは見かけの上では、固い実体のある現実的なものに見えます。

でも詳しく見ると、偽物は調査に耐えません。それが本物であれば調査に耐えるでしょう。本物でないものは、あなたが調査すれば、持ちこたえられない。誰が、何が、調査しているのか? それは「私はその時のことを覚えている」「私が子供の時そこにいた」と言って「私」というレベル貼りをしている存在ではありえないでしょう。

それは純粋な知性エネルギー、すなわち知る働きと同じ本質です。そして顕現がどういうふうに機能しているか見てください。銀河、惑星、星、山、川、小川などなど。このことは、顕現が内在する知性に満ちていることを暗示しているのではないでしょうか? 誰か雲の上で、あなたの祈りを受けて、あれやこれやをしてくれる年老いた男がいるわけではないのです。もしあなたが悪事を働けば痛めつけるような。

それはそのようなものでは全くありません。それはすべての微粒子の中に満ちています。そしてあなたはその顕現と別のものではありません。あなたの体のすべての微粒子、細胞も同じです。あなたがそれを、私の、あるいはあなたの体と呼ぼうが、それは表現の一方法ですが、それは内在する知性に満ちています。なぜなら、あなたの体の中で細胞が死んでいます。そして次の細胞が生まれています。もしそれが肝細胞なら、それは心臓、目、耳、肺にはなりません。それは肝臓を再建します。

それは、それが知性に満ちていて、どこを再建するのか、再建が必要なのかどうかを知っているということを意味します。私たちは私たちが分離した存在、個人、人間であるという考えを受け入れていますが、調べてみれば、分離した存在ではありえません。個人ではありえないと知るでしょう。

個人という言葉(individual)でさえ、それは分割できない(undivided)という意味ではありませんか?それでも私たちは個人を分離した存在、人間と考えています。でもそうではありません。今までも、これからも。それが、私がここで指摘していることです。それが、その線に沿ってあなたに自分自身で調べてほしいことです。なぜならすでに述べたように、一つのパターンが別のパターンに向かって何かをしろとは言わないからです。

振り返って鏡を見てください。鏡の中にはたくさんの像が映っています。その像があなたの隣に座って、あなたにあれをしろ、これをしろ、あれになれと言うことができるでしょうか? それは像なので、そんなことはできません。それは固い実体のあるものとして見えているにすぎません。行って掴んでみてください。自分自身で、それがあるのかないのか確かめてみてください。あなたはガラスを掴むだけです。私たちは鏡そのものを実際には見ません。

私たちは決して鏡の表面を見ません。なぜならその鏡は映った像でいっぱいだからです。どんな鏡をのぞき込んでもそうなるでしょう。空間、すなわち空白は空間のように映ります。それは空間を映します。それは何もないガラスのようではありません。でも私たちは調査したので、それが鏡で、その前に何もなかったら何も映らないということを知っています。反射面は像が反射するようにガラスの後ろが塗られています。

このように、ほんのちょっと調べるだけで違いが明らかになります。私たちが自分自身だと信じている体と心の正体を調べることを忘れないでください。あなたは、それは同じもの、同じ生命の本質だと知るでしょう。それがパターンとなり形作られ姿となって現われます。同じ生命の本質が雲となり、太陽の周りで地球を回し、潮の満ち引きを起こし、季節、冬と夏、秋と冬、これらすべての顕現となって現われます。

自然に、絶えず、常に、新鮮で、常に新しい。そしてそれは自ら輝き、自ら意識していて、自ら認識している。私たちは(自己実現)を達成しなければならないとは言えないのではないでしょうか? 私たちは私たちが自己と呼ぶこの存在を自己実現しようと考えるが、その自己実現はそれ自身で自己実現しています。

太陽はそれ自身で輝いています。アウエアネスはそれ自身で意識しています。それは一つの本質が現われてパターンとなり、すべてとなって現れているものです。それがあなたの本質です。あなたはそれです。マハーヴァキヤの大格言では、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言います。その「それ」とは何でしょう。私たちは「それ」を耳にします。「それ」はいい。あなたはその「それ」を調べたことはありますか?

あなたは彼らが何のことを言っているのか、すなわち彼らが五つの独立した要素のことを言っているということを知るでしょう。ヒンズー教の五つの要素。彼らがそれを、サット・チット・アナンダ・ナマ・ルパと呼ぶ時、それは存在、意識、至福、名前、形です。そして名前と形は実在ではありません。それは見せかけです。それは現実のものではありません。それは見せかけだけのものです。

でも、サット・チット・アナンダは実在です。サットは存在、チットは意識、アナンダは至福です。誰か今この瞬間に存在していない人はいますか? 誰かこの瞬間に意識のない人はいますか? 誰かこの瞬間に存在することを愛していない人はいますか? それは至福の別の言い方です。私たちは至福という考えに凝り固まり、取り違えたり見失ったりしています。私たちはそれをそのままの状態で永遠に留まる何か恍惚とした高揚した精神状態のことだと思っています。

しかし、至福とは、あなたが前日ぐっすり眠った時に、至福の眠りだったと言うように、それは平穏すなわち平静です。そこには正しい悪い、高い低い、心地良い悪いはありません。それは単に存在する喜びです。存在の喜び。ただ単に存在への愛です。この瞬間の直接性の中で、自然に起こって常にそこにある。それが彼らの言っていることです。

あなたが、「我はそれなり」と、そして彼らが、「それとして生きる」と言う時、彼らは何のことを言っているのでしょうか。存在として生き、意識として生き、存在する喜びとして生きること。それをまた別の表現で言うと、存在する意識は至福であるということ。サット・チット・アナンダ。存在する愛情のこもった意識。その本質を大切にしてください。自分自身を愛してください。

それを表現するにはたくさんの違った方法があります。意味は同じですが、言い方が違います。もしあなたがそう言いたければ、神の本質という言葉を使ってもいい。
アウエアネス、コンシャスネス(意識)、または自ら知る働きもしくは、目覚めている状態、純粋な存在。すべて異なるラベルが貼られています。自ら認識し、自ら輝く、あらゆる異なるラベルが同じ本質に付けられています。

そして私達は異なる概念を貼り付けた言葉によって見失います。そしてもう一度言うと、自ら輝き、永遠に新鮮で概念化されない意識。仏教徒はそれをある言葉で言いました。彼らはそれをゾクチェンの教えと呼びました。ゾクチェンは「大いなる完成」という意味です。大いなる完成は概念化されない意識です。


どんな概念もラベルも貼られていない意識のことです。そしてそれはまた、私達が今まで、そしてこの先持つであろう唯一の問題は概念化であると指摘しています。概念とは言葉です。私達が頭の中で作り上げたものです。それはとても役に立つものですが、それが私たちの唯一の問題でした。私たちがマインドと呼ぶものを調べると、それは概念です。マインドなどというものはありません。

思考の力、マインドの力、その他の力。たった一つの力があるだけです。全能の完全な力。偏在、直接性、完全な即時性。それはすべての未来、すべての過去の時間だけではありません。それは偏在です。そして全知、完全な知性。それはあなたが明日や昨日のことを知っているということではなく、今この直接性の中、全知の中で起こっているということです。純粋な知性、純粋な知る働きです。

誰か今、その知る働き、すなわち存在、見る働き、聞く働きを否定できる人はいますか? これらのことを調べると、それはすべて、この直接性の現実の中で起こっています。そして私たちはそれを概念化して、過去や未来のことや過去の出来事や経験、概念や想像した未来の出来事に関連付けて話します。

ニサルガダッタは言います。あなたの想像以外、何もあなたを苦しめない。私達がうまくいかない時、何を想像しているのでしょうか。別の言い方をするなら、私達はメンタルイメージを作り出しています。ちょうどあの鏡の中の像のように。そしてあなたは鏡の中の反射、すなわち像が実在ではないことを知っています。

そして壁にかかっている絵や写真。それはイメージであり、実在ではありません。あなたが自分自身に対して抱いている思考や概念がメンタルなイメージだと理解した時、それらの概念はメンタルイメージであると理解した時、あなたはそれを信じ続けますか?

あなたはそれについての真実を知り、それを自由に利用することができます。でも、それが何か現実のものであると考える時、何かを避け、何かに執着しようとします。私達はそのあるがままを変えたり、修正したり正したりしたくなります。そして、ありのままを変えたり、修正したり正したりしたいと思って葛藤し、拒絶します。葛藤と拒絶は不健全な状態です。それは不安、不幸、罪悪感、恥辱、後悔、憂鬱を引き起こします。

これらのことは、いつも私たちに起こっている葛藤によって引き起こされます。そしてそれは、一本の棒の一方の端である良い方にばかりには動きません。それは逆方向にも動きます。両方の端へと動きます。なぜなら、あなたがそれを見る時、そこに何かあなたの好きなものがあれば、あなたはそれをそのままにしておきたいと思います。

そしてそれが行ってしまいそうになると、それに抵抗して、そこに留めようとします。もし何か嫌いなものがあると、あなたはそれを取り除こうとします。そしてまた抵抗します。そうやって絶えず抵抗が続きます。ありのままをそのまま受け入れるかわりに。

二元性のために、それは一時のこと、それは変化するということを理解してください。あなたの体、あなたの命は変化します。あなたの思考、フィーリングと感情、すべては束の間のもので絶えず変化します。でも私たちは手に入れられないものを手に入れようとします。

実在は常に新鮮でいつも存在する本質です。それがあなたです。あなたのありのままの存在を認識し、愛する。それが、私が指摘し、あなたに問うていることです。そのように調べてみてください。もしあなたが調べるためにもっと興味のある方法があれば、今は新しい年の始まりですから、それをしたらどうなるか、どうあなたの生活に影響するのかちょっと振り返ってみてください。それを調べたら何が起こるか。調べなかったら何が起こるかを。

もしあなたがそれをしても何も得られないだろうと、そうすることをためらわないでください。ある人は、こんなことやあんなことを言ったら人があなたのことをどう思うだろうかと恐れるかもしれません。もちろん人はそう思うかもしれません。でも彼らはそのことに対して概念を抱いているだけかもしれません。あなたは彼らが言うことに対して違った概念を抱くでしょう。

ではどちらの概念が正しいでしょうか? あなたは概念の無いのが正しいと知っています。多くの聖典の中ではそう言われています。あなたはもうすでにそれであるという確かな信念を持ってください。確かな信念を。我はそれなり。ただぶつぶつと言うのではなく、私がその実在であり、私がその意識であるということを理解してください。その事実を確信してください。そうすればきっとそれが実在として、認識として、現実として、真実として現れるでしょう。

その認識とともに、あなたはそれから逃れることはできないと理解するでしょう。あなたはそれが思考、フィーリング、感情などによって、見かけ上不鮮明になっているということを知りません。それは見かけ上そう見えているだけです。それは決してそうではなかったし、これからも決してそうではありません。それがそこにあるすべただということを理解してください。すべてのものがそれです。調べてみてください。

それは椅子、それはカーペット、それは虫、それは木、それは花、それはあなた、それは私。「それ」というラベルを私たちは貼りつけます。私達が学んだ、私達が必要な言葉を貼りつけています。それに気づいてください。あなたが今までに使ったすべての言葉やこれから使うために学んだすべての言葉は、あなたが生まれてきた時には知らなかったものです。私達は言葉に概念を加えました。言葉は物ではりません。例えば、水という言葉。もしできるなら、その言葉を飲んでみてください。言葉で洗濯ができるかやってみてください。その中を泳げるか、溺れることができるかやってみてください。できません。

あなたが話す時、火という言葉があなたの口をやけどさせることができるでしょうか? できません。その言葉で料理ができますか? 自分を暖めることができますか? できません。言葉ではできません。では、「私」「私に」という言葉は何ですか? それは私達が自分たちに抱いている概念上のイメージから自動的に来ています。私、ボブ、オーストラリア人、いいやつ、などなど。それは既には死んだイメージです。なぜなら、それは過去の出来事や経験に基づいているからです。それは今この瞬間のそのものに基づいてはいません。

「私」は死んだイメージに関係付けられています。人生をうまくやっていけないのも無理はありません。人生はいつも瞬間的なものです。それは常に変化していて、常に新鮮です。それを認識し、それとともに変化してください。そういうものとして受け入れるのです。絶えざる変化を受け入れるのです。川のように、それは絶えず変化しています。

川からバケツ一杯の水を汲んでみてください。土手に置かれた、そのバケツ一杯の水は死んでいます。それは淀んでいます。それは少しも良くない。それはもう生きていない。私達がマインドと呼ぶものも同じことです。マインドは死んでいます。それにはどんな実体もなく、どんな独立した本質もありません。すべての思考は新鮮で新しい。それは新たな始まりです。古い思考、過去の出来事は死んでいます。それはもう終わっています。

私たちは過去のことを持ち出して生活に関連付けようとします。常にこの瞬間にいて、常に新鮮で永遠に新しい概念、イメージ、考えが絶えず現れるのを許してください。それはどこから現れるのか? あなたは体のどこかにそれを見つけることができるでしょうか? あなたは脳、頭からと言うでしょうか? 生命の本質が体の中をめぐっていなくて、脳はどれだけの思考を利用できるでしょうか?

それは思考がやってくるための装置です。目が見ることが起こってくるため装置であるのと同じです。耳は聞くことが起こってくるための装置です。それらは装置です。でも、生命の本質がなかったら、あなたのコンピューターはあらゆる種類の・・。
半導体とかそういったものは情報伝達の装置です。でも、電気が通ってなかたら、コンピューターは・・・。

生命の本質があなたの体になかったら私たちの体はどうなるでしょう? 昨夜メルボルンで死んだ人全部のことを考えてみてください。人々はその人たちをどうするでしょうか? 回復させるために体を叩いて、命が戻ってくるようにするでしょうか? それとも、彼らは死んだと理解するでしょうか? 私達は死を理解しません。私達は死のあれやこれやや、殺人や起こっている事を心配しています。でも、おそらく200人の人が昨日メルボルンで死んだことを理解してください。

私たちはそんなことを考えもしません。毎晩同じ事が起こっています。翌日書類を受け取ると死亡通知が記載されています。人々はいつも死に、人々はいつも生まれています。数千人の人が災害で死にます。人々は餓死します。時代を遡ってみれば、数百万の人が飢饉、疫病などで死にました。でも、自然、知性エネルギー、生命の本質は何をすればよいか知っています。それは自然にひとりでに回復させます。ひとりでに解決させます。ひとりでに再生させます。永遠に新鮮で永遠に新しい。

16世紀の僧、盤珪 (ばんけい)はそれを「不生の仏心」と呼びました。そのマインドは生まれていない。思考が生まれるマインドがない。マインドは二歳か二歳半ぐらいに、「私はいる」という思考とともにやってきます。その時それが生まれたように見えます。現実の世界にやってくるように。彼は、不生の仏心の中ではすべてが解決されていると言います。言いかえれば、自然はひとりでに解決するということです。

私たちの視点から見れば、自然界はとても無秩序の状態に見えます。全体性から見れば、自然は見事に解決しています。火山が噴火し、津波がやってきて、火災が起こり、高波が押し寄せ、あらゆることが起きています。氷河期やその他の時代があり、自然はいつもひとりでに自然に解決しています。

私たち、この小さな存在はこれを変えようとします。その思考もまた、知性エネルギーがなかったらやってきません。多くの人が世界のいくつかの出来事を変えようとするでしょう。でも、それをやっていると信じている存在はいません。彼らは、それなしではそうした考えを持つことさえできません。

同じように、自然(本質)そのものが、ひとりでにそれをやって、私たちの問題を解決しています。

今日はこんなところです。

受け取ってください。


(一部聞き取り不能箇所を割愛しています)

2019/02/21

The Spiel ① (2014.11.1)


               2014.11.1講話1/3 (著作権者了解済み)
2020.6月追記:リンク先のサビーナのサイトから、セイラーボブ関連の動画が全部削除されてしまいました。そのため、Spiel の中にある数本のYouTube は、訳文のみの掲載となりました。

***

ここではあなたに何も教えはしないし、あなたに何かを伝えるわけでもありません。それを覚えておいてください。あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎません。たとえあなたが何を信じていようが、何を言われていようが、あなたが何かを受け取ることもなければ、誰かがあなたに何かを与えることもありません

それは何も新しいことではありません。詳しく調べれば、すべての偉大な伝承の根底にそれを見ることができます。それは常にそこにあったのですが、おそらく認識されなかったか全く理解されなかったかです。ヒンズー教ではそれをアドヴァイタと呼んでいます。アドヴァイタは非二元と翻訳されます。

彼らは非二元を、他に何もない一つのものといって表現します。なぜなら、一つでさえ、他に何かがあることを暗示しかねないからです。他に何かがあるという考えを完全に打ち消すために、他には何もない一つのものと言います。それはヒンズー教だけではありません。それは仏教にも見られます。仏教で表現する場合は、「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識」です。

そしてさらに付け加えて、「ただそれだけ、他には何もない」と言います。それを詳しく調べてみると、今この瞬間をあなたに指し示すことになります。今この部屋の中で自分が存在するという意識、すなわち今ここにある意識が今この瞬間に無い人はいますか? あらゆる種類の概念がその意識と一緒に動いています。

でもそこに概念が無いならそれは、純粋で普通で平凡な否定することができない、今ここにある意識です。私たちはその非概念の永遠な新鮮さを見失います。私たちはその永遠な新鮮さを何か物と考えて見失います。永遠に新鮮とは何かを調べてみてください。永遠に新鮮とは自然に起こってくるものです。そこに時間はなく、空間もありません。

なぜなら、そうしたものは概念上の考えだからです。あなたがこれを詳しく調べてみると、時間と空間は概念、心理的な概念だとわかります。さらにキリスト教や他の真理、実在や神について語られている伝承を調べてみると、それは偏在、全能、全知と言われています。偏在とは完全な存在です。全農は完全な力。全知は完全な知性です。

私は三つのもののことを言っているのではありません。水と蒸気と氷のように、一つのものの三つの側面のことを言っています。それは一つのものです。そしてこれらすべての根底で、非二元の中にはどんな二元性も全く存在しないと指摘しています。私はここでは、誰かに話しかけているわけではありません。私は誰のマインドにも話しかけていません。私はあなたがあなただと思っている、体・マインドにも話しかけていません。

私はその「私はいる」に話かけています。それが私です。「私はいる」は自己が存在しているという感覚です。その感覚は「私はいる」という思考に翻訳されます。その「私はいる」に話しかけているのがその「私はいる」の私です。ただそれだけ、他には何もありません。

それを個人的なこととして受け取らないでください。私は全くの幻影としての個人に指し示しているのですから。非二元の世界には全く二元性はありません。それは二元的な顕現として現われているにすぎないのですが、現われているのはすべて二元的な顕現です。

二元的な顕現は実在という言葉の定義には当てはまりません。実在の定義は決して変化しないものです。その上、この顕現は束の間のもので、絶えず変化しています。そのためそれは、いにしえの聖典の中でも同じことが言われているのですが、マーヤー、幻影、束の間のものと呼ばれています。

そしてそれは二元的に現れます。二元的に現れなかたら、顕現として現れることはなかったでしょう。それは単に空(くう)、認識する空、知性すなわち知る働きに満ちた空です。私たちが空を認識しているのではありません。ブッダはそれを認識する空と呼びました。

それは、私たちが空を認識するということではありません。空そのものが知性に満ちていて認識する能力、すなわち知る働きを持っています。それが、ブッダが二千年前に言ったことです。彼は、「空は形である」と言いました。彼は指摘しています。空間のような空、知る働きがパターンとなり形作り、姿となる。逆の言い方をすると、形は空に他ならない。

それは見かけ上は実体のある中身のあるものに見えると指摘しています。それでもそれは空に他なりません。あなたは私が指し示すたくさんの例えを知るでしょう。海を見てください。海へ行ってバケツ一杯の青い海を汲んできてくださいと私は言います。あなたは「ばかなことをいわないで」と言うでしょう。なぜならあなたは、海の水が青くはないことを知っているからです。

しかしそれは青く現われ続けます。あなたが海を見るたびに、青く見えます。でもあなたは行ってバケツ一杯の青い水を汲もうとはしません。なぜならあなたは知っているからです。あなたは調べて、その虚偽を知っているからです。または水の蜃気楼や虹。虹を見ると、空に何か確かな実体のあるように見えます。

でも飛び上がって掴もうとしても、そこには何もないと知っています。それは単に太陽の光が霧の中で光っているだけです。光を分析してみると、太陽光線が水晶を通して光る時と同じです。すなわち、光を色に分けています。色には実体や姿形はありません。それはそのような姿形に見えるだけです。しかしそれにはどんな実体もありません。

太陽が水晶を通して光るのを止めたら、それはどこへ行くのでしょうか? それはやって来ては去り、水晶の中に戻って消えるのでしょうか? それはやって来たのではなく、そう見えているだけです。私は非二元の中には二元性はないと指摘します。でも私たちは二元的な世界を経験します。

私たちはまた、私たちは体と心(マインド)の存在であるという考えを持ちます。この人間。私がここで言った他のことなどをあなたが調べれば、虚偽は調査には耐えません。私たちがずっと信じてきたことのいくつかを調べてみてください。そうすればそれは調査によってばらばらになって崩れ落ちるでしょう。

それは調査には絶えないので崩れ落ちるでしょう。私たちは体と心の存在、人間であるという考えを調べてみてください。その人間(person)という言葉の由来は何ですか? それは仮面(persona)、マスクではありませんか? いにしえの人々はその言葉を仮面(persona)、マスクから作りました。

いにしえの人々は、昔私たちが自己を認識するために自分自身にマスクを被ったことを知っていました。ニサルガダッタは同じことを言っています。「あなたではないもののふりをするな。本当の自分を拒絶するな」と彼は言いました。私たちはこの個人、人(person)、分離した存在であるふりをしています。私たちは今までも、そしてこれからもそうではありません。

それはあの知性エネルギーがパターンとなり姿形になったものにすぎません。私たちはふりをして、本当の自分を拒絶しています。本当のあなたは無です。形もなく、姿もなく、始まりも終わりも、いかなる実体もありません。あなたはその本質であり、そのパターンが姿形となり、すべてとなって現れます。そしてまた分解され、それ以外のものとなって現れます。

私たちは、人、個人、分離した存在のふりをしています。でも決してそうではありません。あなたはそれを調べてみる必要があります。それを自分で見て、調べてください。あなたはあなたが自分だと信じていその体と心なのか? 例えばあなたはその体なのか? あなたは「はい、私は体です」と言うでしょう。でもそうですか?

体の中に、そこからあなたが始まったという場所を探してみてください。そこからすべてが始まったという場所を。そしてあなたは、自分がそこから始まったという場所を全く言えないとわかるでしょう。もう少し調べてみましょう。この体は何でできていますか?

あなたはこの体が構成要素でできていると気づくでしょう。それは、空気、土、火、水、空間と、あなたの周りと同じ構成要素でできています。もしあなたが自分は分離した存在だと考えるなら、自分自身をその構成要素から切り離してみてください。

誰か空気を取り出してください。空気無しでどれだけ生きることができるか見てください。体の80%は水です。水を取り出せるかやってみてください。火、体温を取り出してください。空間から出てみてください。地球から出てみてください。あなたは何からも分離できないことを理解します。

そしてその構成要素は何でできていますか? 構成要素は原子よりも小さい微粒子に、さらには純粋なエネルギーに分解することができます。ということはこの体は無であり、エネルギーパターンの振動にすぎないということになります。心(マインド)を調べてみてください。

あなたは、自分はマインドだと思っています。これが私のマインド、あれが私のマインド。マインドを見せてください。誰か私にマインドと呼ばれるものを見せることができますか? 調べても、あなたは何も見つけられません。それはどんな実体や自分で存在するための独立した性質を持っていません。それがマインドです。

調べて、思考以外にそんなものはないと理解してください。考えることを私たちはマインドと呼んでいます。もし自分がマインドと思っているなら、あなたは思考ということになります。ではそれはどんな思考ですか? 存在の感覚がマインドに翻訳されて「私はいる」という思考となります。

それは原初の思考です。ではその思考があなたですか? もしその思考があなたなら、思考を見失うことはないと考えるでしょう。でも、一日のうちで思考がない時もたくさんあります。夜眠っている時には思考はありません。思考はあなたが麻酔にかかっている時や無意識の時にはありません。

思考がなくても生命の本質は機能しています。あなたは自分が思考のはずがないと理解するでしょう。結局のところ、思考とはなんですか? あなたがその体と呼ばれるパターンの中で静かに考えている時や、かすかに動いている時を調べてみてください。あなたが言葉を話す時、今使っている言葉のように、言葉とは何ですか? 言葉とは音です。

音とはなんですか? 音とはヴァイブレーションです。ではヴァイブレーションとは何ですか。それはエネルギーの動きです。体はエネルギーへと分解されます。顕現はエネルギーへと分解されます。思考とマインドはエネルギーに分解されます。エネルギーのヴァイブレーションがなければ、そこには何もありません。

私は神という言葉を使いません。なぜならあなたはその言葉で混乱してしまうかもしれないからです。ただ単に私たちは異なる伝統や背景からやって来ているからです。もし私が「神」について話し始めれば、あなたは無神論者、不可知論者、カトリック、クリスチャン、モスリム、仏教徒かもしれず、あなたは自分の宗教的な信条と関連付けて誤って受け取ってしまいます。

例えば、もし間違った考えや理解から始めれば、それは何か全く大事ではないものになります。そこで私は知性エネルギーと言う言葉を使います。でもあなたは、それもまた概念であることを理解しなくてはいけません。それは表現方法であって、そのものではありません。私が知性エネルギーについて話しをする時、あなたの知性について話しているのではありません。

なぜなら、この部屋の中には様々な程度の知性の人がいるからです。ある人は私とは比べようもないほど賢く、ある人はそれほど賢くないかもしれません。様々な程度の知性の人がこの部屋にはいます。でも私が知性について話しをする時、外の自然を見てごらんなさいと言っているのです。それが、私が指摘している自然な状態です。

外の自然を見てください。あなたは自然を調べて、銀河が形成され、惑星が動き、地球が太陽の周りを回り、季節がやってきては去り、潮が来ては引くのを見ます。そのことは自然が内在する知性で満ちていることを暗示しているのではないですか? 誰か年老いた人が雲の上にいて糸を操っているわけではありません。

もしあなたが彼に祈ると、あなたがこれをできたり、あれができたり、あなたが何か悪事を働いたら、彼があなたを懲らしめるわけではありません。知性エネルギーはどんな小さな粒子にも満ちています。あなたは自然と異なるわけではありません。それはすべての粒子、あなたがあなたと呼ぶ体の中のすべての細胞に満ちています。

それは外の自然だけではありません。あなた関して言えば、その同じ知性エネルギーが今この瞬間あなたの心臓を鼓動させていることを理解してください。それが呼吸をつかさどっています。それがあなたの髪を伸ばし、指の爪を伸ばし、食べ物を消化し、あなたの細胞を全く自然に努力なく入れ替えています。

あなたはこうしたことを考えなければいけませんか? あなたはマインドをとても頼りにしていますが、体の中が思考なしでどれほど機能しているか見てください。あなたはそれが生命の本質だということを理解します。それが多くのことをしています。さらにもう少し調べてみましょう。

あなたは自分のことを、体とマインドであると考えています。ではあなたはいつ始まりましたか? あなたは、生まれた時と言うでしょう。でも誰か自分の生まれた時のことを覚えていますか? 調べてみてください。思い出してみて、自分が二歳か二歳半ぐらいまでしか思い出せないことに気づくでしょう。

それ以上は覚えていません。あなたは全く思い出すことができません。なぜなら、考える力が発達していなかったからです。あなたはまだ全く言葉を知りませんでした。さらにもう少し遡ってみましょう。あなたはいつ始まりましたか? もし父親か母親まで遡ると、知性エネルギーがパターンとなり、姿形となって父というパターンを作り出したことを理解します。そのパターンの中で精子を作ることを可能にしました。

それはとても小さな粒子のパターンなので、肉眼では見ることはできません。あなたの母の生命の本質である同じ知性エネルギーが、母親の中で卵子、卵、また別のパターンであるちいさな粒子を作ることを可能にしました。卵子も知性に満ちています。なぜなら、それは何をすべきか知っているからです。

卵子は自分で子宮の外へ出る方法を見つけます。それは偶然や手当たり次第に動いているわけではありません。そして精子も知性に満ちています。というのも、精子は卵子に泳ぎつくからです。それはどうしたらいいのかを知っています。一つの非常に小さな粒子が。そしてあなたが今日あなた自身であると信じている存在は、このことに関して何かをすることがありませんでした。

そしてその二つが一緒になると、精子はどうやって卵子に入り込むかを知っていました。あなたを形作る青写真はその二つの細胞が一緒になった時に既にそこにありました。その青写真があなたを形作りました。それは何をすべきかを知っていました。私はあなたが何もしなかったとは言いませんが、指や腕や足を成長させようとは言いませんでした。知性エネルギーが何をすべきかを知っていました。

その細胞が二つに分裂して、さらに二つに分裂し、青写真に従って、小さなパターン、胎児を作りました。小さな胎児です。そしてあなたが生まれ出た時、さあ、出てきたぞ、最初の呼吸をするか、とは言いませんでした。あなたは最初にどうやって乳首を探して吸うのかを学びましたか?

あなたを形作った本質は、その時も何をすべきかを知っていました。それ以来、それはあなたを成長させ、あなたを生かしているのです。


                         2014.11.1講話2/3 

すべては自然に努力なく。でも私たちは、人間の体の中で考える能力が発達する二歳か二歳半の頃それを見失います。それは人間というパターンが持つ能力で、ほかの動物や鳥や昆虫はこの特別な能力を、私たちのようには持っていません。

でも彼らは、私たちが持っていない他の能力を持っています。鳥はあなたや私よりもはるかに優れた視力を持っています。鳥は飛ぶ能力を持っています。私たちは飛ぶ能力を持っていませんが、考える能力によって、飛行機、ヘリコプターなどを作ることを学びました。

犬は嗅覚、嗅ぐ能力をもっています。それはあなたや私よりもはるかに優れています。タイガー、レオパードなどの類の動物は毛皮に縞や斑点があります。それは自然のカモフラージュです。彼らはわざわざそうしたと思いますか? 子供のトラが生まれた時、「縞模様を成長させた方がいいな」と言ったと思いますか?

レパードが「斑点を成長させた方がいいな」と言ったでしょうか? それとも内在する知性がパターンとなり形となって現れ、それを通じて表現したのでしょうか。その縞が彼らに自然なカモフラージュとなり、彼らを優秀な捕食者にしていることを理解してください。

カメレオンや昆虫は色を変えます。生命の本質は何をすべきかを知っています。それがパターンを作り、形を作ります。人間の姿をした尊大さは、私たちが主導権を握っていると思っています。内在する知性よりも、よく知っていると思っています。それが、その考える能力に起こっていることです。

私たちは言葉を学び始め、絶えず両親に向かって何かを言ったり、両親があなたに言ったりします。それが始まる前の幼い子供を見てください。幼い子供は、その段階では自分が分離した存在であるという考えはありません。彼は見て、聞いて、味わい、触れ、嗅ぎ、そうした機能は働いています。

でも子供には、自分でそれをやっているという考えはありません。子供は好きなら惹きつけられ、嫌いなら押しのけます。二歳か二歳半の頃、両親のまわりを動き回り、興味を起こし、良心から言葉を学びます。ちょっと前にあなたのマインドを調べてと話したことですが、マインドがどう機能するかを見てください。

マインドはとても役に立つ道具です。それはまた自己破壊的でもあります。私たちがそれを信じ込むと、それが私たちを利用し始めます。マインドがどのように機能するかに注意してください。あなたがマインドを調べると、思考はヴァイブレーションだと知るでしょう。そしてそれはいつも互いに関連する対極へと振動しています。

思考は私たちが学び身につけた言葉によって振動します。それもまた理解しなくてはいけません。あなたが学んで身につけた言葉以外の言葉をあなたは話したことはなく、今後も話すことはありません。あなたが話したすべての言葉はあなたが途中で身につけてきたものです。あなたは言葉とともに生まれてきたわけではありません。

それがどのように機能するかを調べると、それはいつも対極に振動して現われることがわかるでしょう。もしあなたが過去にいないのなら、それは記憶ですが、あなたは未来にいます。未来は期待であり、想像です。その範囲をいつも関連する反対の極へと振動します。

善悪、快不快、幸福と悲しみ、愛と憎しみ、肯定と否定。マインドに注意して、それ以外のやり方でそれが機能するかを見てください。マインドはとても役に立つが、とても限定的で機械的に機能します。そして私たちは自分で学んだ言葉で限界を作ります。良い悪い、快不快、幸福と悲しみ、それは私たちが自ら言葉で作った限界です。

シェイクスピアは数百年前に言いました。「良いも悪いもない。ただ思考がそのように判断しているだけである」。それは私たちが言葉に張り付けたラベル、すなわち名前を見て、それを実在と受け取り、私たち自身に境界と限界を設けていることを指摘しています。小さな子供は両親のまわりを動きまわり、言葉を学び始めます。

子供は言葉を学びます。両親は彼に向って、「かわいいジョニー」「ちいさな良い子」などと言います。彼は「私」や「私に」というような言葉を学び始めます。彼は「私はかわいいジョニー」だと考えます。「私」や「私に」の反対は何ですか? それは「私ではない」ではないですか?

そして子供は外を見始めます。それまではすべてのものを、ありのままに見ていました。何も区別せず、どんな考えもなく。私たちは異なるものや分離したものについていつも語るのですが、子供は、善悪、快不快、あれこれと区別することなく、名前のラベルを貼らず、区別していませんでした。

子供はすべてを単にあるがままに見ていました。それを自然のままにしておきました。それが今や、「私はかわいいジョニーだ」と考えています。そして「それはかわいいジョニーという表現とは一致しない」と思うようになり、ということは、それは私のことではないと考えます。その考えが浮かぶやいなや、彼は自分がそれから分離していると感じます。

それは私ではない。それは何か別のものだ。その分離感と一緒に不安と傷つきやすさがやってきます。特に幼い子供にとって、彼らがまだ小さい時はとても不安で傷つきやすく感じます。その段階ではそれが何なのかを子供は知りません。そういうわけで、子供は暖かくて愛情に満ちた家族を好みます。

もし暖かくて愛情にあふれた家族がいれば、よりいっそう安全な感じを持ちます。かつて家族は部族を形成しました。自分の部族が大きくて強ければ強いほど、より安全で傷つきにくくなります。それが今日でも続いているのではないですか? 国家が形成され、国が国と戦争を起こし、隣の国がしようとしていることを信頼していません。

彼らはオイルを手に入れた、注意しろ、こっちは爆弾を手に入れた。やつらを支配しよう。それがいつも続く。振り返って調べてみようともしない。そうやって、両親、社会、学校、国家などすべてが、私たちは分離しているという信念を強化します。というのも彼らは自分自身を調べてみろとは言わないからです。彼らは外の世界を見るようにと言います。できるものは何でも、この分離した存在に付け足すために獲得し、蓄積し、付け足し、集め、貯めるために。

良い教育、より多くの財産、良い人間関係、良い車、それらのものすべてを、もっと満足するために、この「私」に付け加えるために。それでもあなたは、もう十分持っているという大金持ちを見たことがありません。自分自身に何を付け足そうが、それは間違っています。あなたはもうそれであるのに、何を付け足すことができるでしょうか? あなたはもうあなたが探しているものです。

あなたは純粋な知性エネルギーです。パターンや姿形はそのように現われたり見えたりしていますが、それでもそれは同じ本質が、それ以外のものとして現れているにすぎません。物はそれらのパターンや姿形を通して、それが現れているだけです。どんな物でもその本質は変わっていません。

それはすべて、それに分解することができます。それはいつも、この先も。その一つの本質がすべてとなって現われ見えています。
幼い子供は「私」や「私に」をどうすることもできません。ではどうなるでしょうか? 私たちは「私」に出来事や体験や条件付けなど、起こったことを付け足します。

私はボブ、オーストラリア人、いいやつ、あんまりよくない、自尊心が低い、悪い子、怖がり、心配性。これらの概念が、あなたの経験やあなたの人生に起こったこと、人々があなたに言ったこと、あなたが信じていることをもとにして「私」という思考に張り付けられます。

そうやって、「私」は自分についての概念上のイメージを作り上げます。そのイメージは心理的な概念でできていて、信念のエネルギーがそこへ入り込み、疑うこともなく、毎日強化されます。そして両親、学校、国もまたそれを強化します。それは非常に強固なものとなり、確かなものに見えるようになります。

私はこの強固な、うわべ上実体のあるイメージを自己の中心、基準点、すなわちエゴと呼んでいます。そうしてすべてのことが、この基準点、すなわちエゴに関連するようになります。あなたは様々な表現でそれを耳にします。「エゴが問題だ」「エゴを解体しなければいけない」「やっつけろ」「踏みつけろ」

でも、それをやろうとしているのは、エゴです。そのためそれはうまくいきません。なすべきことは、それに実体があるのかどうかを、あなたが自分で調べて、それは信念のエネルギーがそれに入り込んでうわべ上は本当に見えるために私たちが信じ込んだ偽りの考えであるということを理解することです。

そういうわけで、私はあなたに、自分で調べて理解するように求めています。それが今も機能していること理解してください。幼い子供は人生の最初の二、三年間は自然に行動します。すべては自然に起こります。でもこのエゴという考えが現われた時、どうしてそれをもっとよく知ることができるでしょうか?

私が自分だと思っている「私」は、自然に起こってくる機能よりももっと狡猾です。人生の最初の二、三年間のような自然な行動のかわりに、「私」、エゴ、記憶への関連付けが始まります。以前に私が語ったことを思い出してください。すべての問題、今まで起こった、そしてこれから起こる問題はすべて、関係性の問題です。

関連するすべてがそうです。関係性は二元性です。あなたは二元性からは決して非二元に到達しません。なぜなら二元性は全くのフィクションだからです。二元性は決して非二元であったことはありません。ブッダが言ったように、空は形です。形は空に他なりません。すべてはマーヤー、幻影、エネルギーの振動パターンです。

それには実体やどんな独立した性質もありません。私たちの問題はすべて関係性の問題です。それはすべて「私」に関係しています。何かが起きると、私たちは自然さを忘れてしまいます。幼い子供は「私」や記憶に関連付けます。ああ、そうだ、これは前にも経験した。それは良かった、と。

私たちは良いことを手放したくありません。私たちはそれにしがみつこうとします。私たちはいつも良いことを留めようとし、悪いことには執着しません。しかし、この顕現は二元的な顕現です。二元的な顕現は束の間のもので、絶えず変化しています。すべてのものは絶えず変化しています。

そのため、良いことは長くは留まりません。よく調べてみてください。あなたは何かを手に入れ、夢中になります。しばらくするとそれが普通のことになり、ひどく退屈し始めます。そしてそれを片づけるか忘れるか交換するか無くすかします。そのどれかが起こります。それは長続きしません。

私たちはそれを失いたくありません。それでどうしますか? 私たちは抵抗します。私たちはそれを留めようとします。留めるためにできることは何でもします。そこに抵抗があります。抵抗とは葛藤ではありませんか? どうして抵抗、葛藤するのですか? どんな葛藤であれ、葛藤している間あなたは病んでいます。

あなたが葛藤している間は不安です。それは病気ではありませんか? それはまた、あなたにも現れていませんか? 何か「私」の嫌いなものがやって来て、それが「私」や記憶に関連していて、私はそれを欲しくない、私はそれを取り除きたいとなります。そして再び抵抗します。そしてまた葛藤を生み、病気になります。

どの道を行っても常に葛藤があり、病気になります。それがあなたの人生に起こっていることなのではないか、よく調べてみてください。あなたの人生で起こっているすべての心理的苦悩は葛藤、抵抗などにもとづいています。


                        2014.11.1講話3/3 

私たちはこの葛藤、病気が続くことを嫌って抵抗します。それがいわゆるカルマです。あなたはカルマについてスピリチュアルな世界で何度も聞いていると思いますが、このことです。それは原因と結果です。この「私」という思考がすべての結果の原因です。

「私」だけが恐れを抱く。「私」だけが心配する。「私」だけが自己憐憫を抱き、憤慨し激怒し、不幸になり嫉妬し、憂鬱になる。「私」がすべての問題の原因です。このエゴがすべてのあなたの問題の原因です。その結果が、苦悩、ストレス、自己憐憫などすべてです。そのすべての結果が「私」から起こります。

さて、その原因である「私」を調べて、それはフィクションにすぎず、それには実体のあるものは何もないと理解したらどうなるでしょうか。それはそれだけで独立して存在することはできません。それにはいかなる独自性も独立性ありません。ではお尋ねします。原因なくして結果があるでしょうか?

そしてもし結果が原因に関係付けられないか、裏付けとなる原因がないのなら、そこに結果はあるでしょうか? それを証明するために学者が必要なわけではありません。もしあなたが原因と関係無いのなら、結果は消滅するはずです。それは本当です。それがここで起こっていることです。

何年も何年も何年も、そうした何年もの間、私はそうした結果、自己憐憫、憤慨、怒り、恐怖、嫉妬でいっぱいで、腐ってしまいそうでした。でも今日ではそれはありません。それが無くなってもう何年にもなります。そしてそれはここで私に起こっただけではなく、ここにやって来た多くの人も同じことを言います。

彼らはあなたに私と同じことを言うでしょう。心理的な苦悩は消えます。それはそこにあるべきものではなく、単純に完全消えます。なぜならエゴは全くのフィクションであると理解されるからです。それにはどんな実体も独立した性質もありません。そしてそれが「私」の問題すべての原因です。

それが問題の核心です。あなたは物事に働きかけて、それを取り除こうとする必要はありません。もしあなたが物事を根から取り除けば、それで終わりです。あなたが、雑草の葉、小枝、枝と引き抜いても、またそれは伸びてきます。そうしたやり方は役に立ちません。

でももしあなたが問題の核心に取り組み、このエゴには実体や自立できるような独立した性質があるかを見るなら違います。私はあなたに、こういうやり方で調べてみるよう求めています。あなたは今見ていますか? この部屋の全員が見ているというのは事実ですね? そしてあなたは今聞いていますか?

あなたが今朝目覚めた時、「さあ、私は見ることを始めよう」と言いましたか? そして部屋が少し見えてきて、それから部屋全体が現れて、それから窓の外の光にも気づきましたか? それとも、あなたが目を開けるやいなや、あなたの見える範囲に、すべてがそこにありましたか?

あなたがしっかり調べたことがなければ、理解できないかもしれませんが、あなたはそれと同じ見る働きが今も起こっていることを理解するでしょう。その同じ見る働きは、昨日、先週、去年もありました。見る働きは変化しません。私たちは変化したと思っていますが、常に変化しているのはその内容です。

あなたがその部屋にいた時と、見る働きは変化しましたか? 内容は常に変化していますが、見る働きそのものは変化しません。聞く働きについても同じです。あなたは今聞いていますか? 今朝あなたが目覚めた時、聞く働きはすぐにそこにありました。そしてもし誰かが、あなたが眠っている時に大きな声で呼べば、聞く働きが働き、あなたはそれを聞くでしょう。

それはいつもあなたにある聞く働きと同じものですが、内容は変化しました。見ること、聞くことは起こってくるものです。では自分に問うてみてください。「私の目は私に、私は見ると言うだろうか?」。あなたは目を通して見ています。でも、その目が「ボブ、これを見て。あれを見て」「あれはいい。これは悪い」「あれは要らない。これは欲しい」と言うでしょうか? 

あなたは目が全く何も言えないことを理解します。それはただ単に見ることが目を通して起こっているにすぎません。目は見る働きが起きるための器官です。そしてそれが思考によって「私は見る」と翻訳されます。すべての思考は同じことをしています。すなわちマインドがやっていることは起こったことを「私は見る」という思考に翻訳することです。

そしてそれは見ることそのものの純粋な翻訳ではありません。というのも、すでに私たちが持っている概念的なイメージと結びつけてしまうからです。私たちは概念的なイメージを信じています。私、ボブ、オーストラリア人、そしてその虚偽や感覚などすべてを私たち自身であると。それは概念上のイメージです。

そして今やそれが見る能力を持っています。今やその存在が見る能力があるという信念を抱いています。聞く働きにも同じことが起こっています。あなたは今聞いています。あなたの耳は「あれを聞く、これを聞く」と言いません。耳は、あれは良い音だ、あれはもっと良い音だなどとは、何も言いません。

それは器官です。そしてそれは思考によって、「私は聞く」に翻訳されます。それはマインドによって翻訳されます。この器官によって聞く働きが起こり、思考によって「私は聞く」に翻訳されます。そしてまた、その思考「私は聞く」は、聞くことそのものではありません。

それはこの思考の中にある信じられたものです。すべて私が今までに経験したことから付け加えた概念上のイメージです。そして今や思考は聞く能力を持っています。そして今、概念上のイメージでは、思考が聞く働きであり、思考が見る働き、思考があらゆることをしています。

自問してみてください。「私は聞くという思考が実際に聞くことができますか?」。この思考がすべてを翻訳しています。でもその思考が聞くことができますか? そしてあなたは、「私は聞く」という思考は聞くことができないことを理解します。あなたの手を耳にあてて、思考で何を聞くことができるかやってみてください。自分で確かめてみてください。

思考で何を聞くことができるかやってみてください。あなたは「わたしは聞く」という思考が聞くことができないことを理解します。目を閉じて、何を見ることができるかやってみてください。思考で見てみてください。「私は見る」という思考が実際に見ることができますか? 「私は見る」という思考は見ることができません。

「私は聞く」という思考は聞くことはできません。「私は意識している」という思考はあなたの意識ですか? あなたは、「私は意識している」という思考はあなたの意識ではないと理解します。「私は選ぶ」という思考は選択者のはずがありません。私たちは自分の思考を自分で選んでいると思っています。

でもあなたは思考を選ぶことはできないとわかるでしょう。そしてあなたは、その思考でできた存在が全く何もできないことを理解します。それは自分で立つどんな力も、これらのうちの何をする力も持っていません。自分で存在することさえできません。それにはどんな独自の性質もありません。

あなたは理解するでしょう。もし生命の本質が体の中で機能しなかったら、死体はどれだけの思考を持つことができるでしょうか? 死体には目があり、耳があり、声帯もあります。死体はそれらの器官を持っています。でも、知性エネルギーが生命の本質を発揮しなければ、死体は一片の思考も、感覚も感情も持つことができません。

あなたは、私たちがとても大きなパワーを与えているこの思考でできた存在は、どんな力も持っていないことを理解するでしょう。そしてそれはどんな独立した実体も持っていません。それは自身で存在することはできません。あなたがこの顕現を調べれば、そこにはどんな自己という存在もいないことを理解するでしょう。

ブッダは、どんな自己も存在しないと言いました。この顕現の中には、変化しないものはありません。それはいつも束の間のものであり、常に変化しています。それは自然に起こっています。時間と空間について考えてみてください。あなたはそれが概念上の考えにすぎないことを理解するでしょう。

あなたは、時間や空間などというものは存在しないと理解するでしょう。それらはすべて概念上の産物です。そしてあなたが、今について考えた時、人々は「私は今に留まるつもりだ」言います。できるものなら、そこから出てみてください。今はいつ始まったのですか?

「それは今始まった」という地点をピンポイントで示そうとしても、その言葉が口から出る前に、その時はもう過ぎています。そしてまた、それはもう始まっています。それは自然に起こっていることを意味するのではありませんか? そこにはどんな二元性もありません。時間はいつも二元性ではないですか?

二元性は容積、空間の中で起こっています。あなたは空間の始まりをピンポイントで示すことができますか? あなたは、空間には始まりがあると言えますか? 空間に始まりがありますか? 空間に中心がありますか? 空間に体積がありますか? それはあるように見えますが、時間と同じで、空間にはどんな継続も距離ありません。

そしてもし継続も距離もないのなら、道はありますか? あなたは自分が道の上にいると思っています。どんな距離や長さがその道にはありますか? そしてどんな目的地があるのですか? あなたが何と言おうと、あなたはもうすでにそれであり、いつもそれであり、それだけだった、それ以外にない、という事実から始めてください。

疑うかわりに調べてみてください。自分自身で、それが正しいのかそうでないのか見てください。というのも、あなた以外の誰もそれをすることはできないからです。

(一部聞き取り不能箇所を割愛しています)

2019/02/18

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)㉑ (最終回)

セイラーボブの教え(詳しく)を①から読む方はこちらから

最終回

今回の「詳しく」では以下の点を重点的に何度も書きました。
・エンライトメント(覚醒)はフィクションである。
・セイラーボブの教えを理解しても何かが起きるわけではないし、非二元の世界を体験するわけでもない。
・セイラーボブの教え(アドヴァイタ)は、経験したり体験したりして手に入れることとは関係がなく、「今ここにある意識」を理解することである。
・セイラーボブの教えは未来に起きるエンライトメントではなく、今ここにある意識である。
・「今ここにある意識」だけが実在であり、それがセイラーボブの教えていることである。

ブログを書くためにボブ関連の本をあちこち読んでいて思ったのは、ボブの教えは結局、金太郎飴のようなもので、どこを切り取っても結局は awareness アウエアネス(今ここにある意識)の話になるということです。

それを考えていて、なぜセイラーボブが自分でテキストになるような本を書かないのかがわかった気がしました。ボブの教えていることは、体系化するようなことではないし、言葉で教えるようなことでもないのではないかと思います。

awareness アウエアネスも、私は便宜上、「意識」という訳をあててブログを書きましたが、特定の和訳を与えた時点で、固定化、概念化が始まります。ボブはそれを避けるために、「知性エネルギー」「認識する空」「空間のような意識」など、多様な形で表現します。

もしボブが自分でテキストを書けば、それが固定化され、概念化されて聖典となり、人々が誤解し始めます。それが多くの宗教で起こったことではないでしょうか。
セイラーボブに限らず、多くの非二元、アドヴァイタの師たちが、対話形式での伝達を好むのはそのためではないでしょうか。

ボブや他の師たちの教えていることは、概念化できないこと、概念化や固定化された時点で死んでしまうようなことなのではないでしょうか。

私はこのブログで誰かを、「もう助けが要らないところ」まで導けたかどうかには自信がありません。でもおそらく何人かの人はボブの教えを正確に理解されたのではないでしょうか。
そういう方たちにお願したいのは、私がブログで使った言葉や概念を固定させることなく、自らの言葉でセイラーボブの教えを広めていっていただけたらと思います。

ボブは「あなたは理解した、私は理解していない」という言い方を嫌います。「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」という言い方をします。

でもあえて書かせていただくと、私は私のブログだけがボブの教えとしてまかり通るのは健全な姿だとは思いません。ボブの教えの理解にはそれなりの自信を持っていますが、私がブログで使った言葉や説明がそのまま概念化して固定化することを望みません。

そもそも、たった一つのことを言っているだけなので、「教え」という言い方さえもおかしいのではないかと思っています。また、「セイラー・ボブ・アダムソンの教え」という書き方も、図々しいかなと思っています。でもそうしないと、ネット上で検索してもこのサイトにたどり着けない。できるだけたくさんの人にこのブログを読んでもらって、もっとたくさんの人が、「セイラー・ボブ・アダムソンの教え」について書くようになればいいと思います。

もっともっとたくさんセイラーボブの本が翻訳出版されて、もっともっと多くの人がボブに関するサイトを立ち上げて、もっともっと多くの人がセイラーボブの教えについて語って欲しいと考えています。英語の世界ではそれが起こっています。中には、「ボブはネオアドヴァイタだ」「ボブは覚醒してないから十分ではない」という批判もあります。でもネガティブな批判もあるのが健全な姿だと思います。

私は「それ」をセイラーボブという入り口から学びました。でも今回ブログを書いているうちに、まったく同じことを違う表現、違うやり方で説いている非二元・アドヴァイタの師たちが他にもたくさんいるということを再認識しました。このブログがセイラーボブの教えに限らず、非二元・アドヴァイタの教え、さらには禅などに広がっていけばいいなと思っています。

多少の世界観の違いはあっても、言っていることが同じなら構わないと思っていますが、非二元・アドヴァイタなら何でもいいかというとそういうわけではなく、自分なりの基準としてはおおむね次のとおりです。
・エンライトメントはない。
・エンライトメント、目覚めをエサにして客寄せない。
・何かになることではなく、すでにあるものを説いている。
・いまここにある意識がすべてである。
・私も世界も実在ではない。
・込み入った瞑想やメソード、覚醒体験で客寄せしない。
・私は理解した、あなたは理解していないといった上下関係がない。
・グルではなくメッセンジャー。
・メッセンジャーは反社会的ではなく、いわゆる普通の人である。
・メッセンジャーは金や名声に執着しない。

話をセイラーボブに戻します。
セイラーボブの教えは、ただ単に理解して終わりでは何の役にも立ちません。
いくら「私はいない」と思っていても、マインドと体があるかぎり、「私」という基準点は繰り返し戻ってきます。そうしたら、何度も何度もセイラーボブの教えを思い出してください。
それを実践していくうちに、セイラーボブのように「もう何が起こっても大丈夫」となるのだと思います。

「(あなた)が考える(あなた)という存在は幻影です。何か、もしくは分離した誰かとしての(あなた)がいるという考えは、自分の周知のことと関連させて、物事を受け入れたり拒絶したりする原因となります。幻影が自らを欺く話をしています。知る人と知ることというのは、自然な概念化されない知る行為そのもの(knowing)を見かけ上分割した概念にすぎません。(私はいる)という思考を信じることは、絶えず変化し続ける客体としての世界に見せかけの現実味を与えますが、それでもすべては本質においては変化することのない自然な知る行為そのもの(knowing)に他なりません。思い起こし、思い出し、さらに思い出してください。私はそれであり、それが私です( I am That I am.)。それは意識。誰に対してどんな活動、思考、出来事や事件が起こるというのでしょうか。出来事や活動はあたかも草が自然に生えるように、誰が優っているとか劣っているかではなく、そういうふうにしか起こりようがないということを理解してください。自ら働きかける知性エネルギー、まさにそのもの、それ以外のものではありません。自ら輝く今ここにある意識は努力の結果ではありません。その意識が突然そこにあることを期待して何かをする必要があるわけではありません。今ここにある意識はあなたが気づいていなくても、うわべ上見えなくても、いつも今ここにあります。それは作り出したり破壊したりする何かではありません。概念上の思考は雲のようなもので、見かけ上では太陽を見えなくします。概念化されない自然な状態でくつろぐのはいつも今ここにある意識です。何度も何度も何度も思い出してください。何が現われようが消えようが、それを認識することはいつもそうなのです。自ら認識し、自ら輝く。ただそれだけ、他には何もありません」
                               Sailor Bob Adamson

長い間読んでいただきありがとうございました。

私はこの「詳しく」の中で、言葉(英語)の壁がなかったら、ボブの教えをもっと早く理解できたのではないかと書きました。でも、私はボブの教えを完全に理解できるまでの4年の間に、ボブのミーティングに何回も出ましたし、日本に帰ってからもボブの本を何度も読みました。YouTubeも何回も繰り返し見ました。同じ話をそれこそ何十回も聞き、読みました。

ここまでの私のブログを読んで理解したつもりでも、実感が持てないと思ってみえる人は多いのではないでしょうか。私もそうでしたが、セイラーボブの言葉を何度も何度も繰り返し読んでいるうちに機が熟し、何かが共鳴して、確信、理解が起きるのではないかと思います。

そしてそれはエンライトメントや何か特別なことが起きる理解ではなく、普通の自然な理解です。そういう意味を込めて、次回からThe Spiel でセイラーボブの家の居間へご案内します。

2019/02/16

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑳

非二元・アドヴァイタ

この「詳しく」を書くにあたり、非二元やアドヴァイタを全面に出して書くことはしないようにと思っていましたが、セライーボブの教えは非二元の教えでありアドヴァイタの教えであると再認識しましたので、そのあたりのことを少し書いておきます。

セイラーボブ関連の本の中に、現代のアドヴァイタの教師たちが時々出てきます。

ダグラス・ハーディング Presence awareness の中で、「ダグラス・ハーディングは頭さえないと言っている」と引用。
ネイサン・ギル Living Reality の中でジェームズが「clarity」を読んだといったところ、ボブがそれは良いと言った。また、ボブが2018.9.23のミーティングでも言及した。
レオ・ハートン Living Reality の中でジェームズが「Awakening To The Dream」を読んだと言ったところ、ボブが良い本だと言った。
ジョーン・トリフソン  Living Reality の中に、ボブがアメリカで会う予定だと書いてある。実際に会ったかどうかは書いてないが Living Realty の推薦文を書いている。
グレッグ・グッド Living Reality の推薦文を書いている。
鈴木大拙 「Zen Buddhism」の話がLiving Realityの中で関係者から。ギルバートからも聞いたことがある。

私が今まで、ここに書いた人の本で読んだことがあるのはダグラス・ハーディングだけです。それ以外はまったく読んだことはありません。時々参考にさせていただいたヒロさんのブログで、名前ぐらいは見たことはあったのですが、書店に行ってもなるべく読まないようにしていました。というのは、ボブ以外の非二元やアドヴァイタの教えを読むと混乱するのではないかと思っていたからです。

もう十分にセイラーボブの教えを理解した今、もう読んでも混乱することはないだろう、また、セイラーボブの本の中で引用されているなら、どんなことを言っているのか見ておくべきだろうと思って、先日いつも行く名古屋の丸善の精神世界のコーナーで、非二元関連の本を何冊か立ち読みしました。

立ち読みした本
ネイサン・ギル「すでに目覚めている」
トニー・パーソンズ「オープンシークレット」「何でもないものがあらゆるものである」
グレッグ・グッド「ダイレクトパス」
ルパート・スパイラ「プレゼンス」

立ち読みして驚いたことが二つあります。

①非二元関連の本に何が書いてあるのかをはっきりと理解できること。おそらく、これらの本を、セイラーボブの教えを完全に理解する前に読んでいたら、はっきりとは理解できなかったと思います。

②これらの本はセイラーボブが説いていることと同じことを説いているということ。こういう人たちがネオアドヴァイタと呼ばれていることは、ヒロさんのブログで知りました。グレッグ・ウッドの「ダイレクトパス」だけは、いろんな方法が書かれていて、詳しく検討する時間がなく、セイラーボブと同じことを言っているのか、はっきりわかりませんでした。でも、それ以外の人は確実にセイラーボブと同じことを説いています。な~んだ、そういうことだったのか、と思いました。

今私はこのブログをセイラーボブだけに限定して書いています。でも、多くの現代の非二元の教師たちが同じことを言っているなら、セイラーボブに限定しないで、非二元・アドヴァイタというくくりでこのブログを書いていったほうが幅広く学べるし、楽しいのではないかと思います。
説き方は違うだろうし、方法も違うかもしれません。世界観も多少は違うでしょう。でも今なら混乱せずに受け止めることができると思います。

まだ当分はセイラーボブを中心に書いていくつもりですが、もっと視野を広くもって、非二元・アドヴァイタ、可能なら禅などにも広げていく予定です。

現代の非二元の教師たちの情報を入手する有益なサイトを書いておきます。

resonanz360塩人間の海底探検(ヒロさん・古閑博丈さんのブログ)
シンプル道の日々(高木悠鼓さんのブログ)
Advaita 通信 このサイトはアドヴァイタがどういうものかを学ぶのに良いサイトです。特に「ただそれだけ」をおすすめしてくださっているのがうれしい。

日本の非二元・アドヴァイタはまだまだ始まったばかりで、十分な情報がない中、これらのサイトは重要な情報源だと思います。
高木悠鼓さん古閑博丈さんには、もっともっと非二元関連の本を翻訳していただきたいな、できればセイラーボブをもっと翻訳していただきたいなと思っています。

海外のサイト
ギルバート・シュルツのサイトthe urban guru's cafe(非二元論関連) 
セイラーボブの古いHP(linkが参考になる)

これは非二元・アドヴァイタ関連ではないのですが、もう一つ驚いたことがあります。
同じコーナーに、瞑想を何十年もやった人の本があったのでついでに立ち読みしました。
その人は、非二元・アドヴァイタとはまったく関係なく、瞑想を長年することによって、「エンライトメントはない」「瞑想は必要なかった」「今ここにある意識がすべてである」という境地に達したと書いていました。

その人はチベットやオショー(旧名ラジニーシ)アシュラムなどで何十年も瞑想した日本人の方で、最終的に「エンライトメントはない」「瞑想は必要なかった」「今ここにある意識がすべてである」という境地に達したと本に書いてみえました。メモしたわけではないので、表現が多少違うかもしれません。厚い本だったので立ち読みした範囲の理解ですので、書名は書きません。

私はこの本を読んでとても驚きました。というのは、私の考えでは、いくら瞑想しても、エンライトメントはないということを気づく人はいないのではと思っていましたから。瞑想すること事自体がエンライトメントを求めてするものなので、この本には本当に驚きました。

こうなると、どの道を行ったとしても、ちゃんとゴールにたどり着く人はいるのだな、と痛感しました。そしてまた、善意に解釈するなら、エンライトメントを説くマスターの中には、本当はそんなものはないと知りながら、それに気づかせるための方便として瞑想を説くマスターもいるのではないかとも思いました。

というのも、エンライトメントはないのだから瞑想は無駄だと最初から何もしなかったら、この人のような境地にはたどりつけません。
私も、最初から、エンライトメントなんてないのだよ、と言われたら、精神世界になんて興味がなかったかもしれません。私も含めて、メルボルンでボブの周りにいた人たちの多くは、何年も何らかの瞑想や探求をしたことのある人たちでした。瞑想、探求の末にセイラーボブにたどり着いたからこそエンライトメントなんてないというメッセージがどんなに大切なものかが実感できるのだと思います。

そして今、多くの人たちがエンライトメントや「目覚め」はフィクションであると気づき始めたということではないでしょうか。

以下は Living Reality.p.174から

ケリー:ボブ、私があなたにラメッシの教えの話をするなんて何か変ですね。あなたに会いに来て、ほかの師の話をするなんてまったく失礼に思えます。でも私が話す気になったのは、私が彼から学んだことと、あなたから学んだことを結びつける必要があったからです。私はラメッシもあなたも両方尊敬しています。

ボブ:ええ。大切なことは、最終的にあなたは私たち両方ともを後にするということです。ラメッシのもとを去り、私のもとを去る。あなたは自分の二本の足で立つために十分な理解を持っています。私はニサルガダッタの教えを理解したあとは彼を必要としませんでした。一年後に一度だけ彼を訪ねました。そして今もまだ彼のことを考えます。彼は私の根底にあったものすべてを蹴り出したのです。彼は私の概念のすべてを蹴り出しました。そのあと彼は私が彼のまわりをうろつくことを望みませんでした。

2019/02/14

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑲

ビフォーアフターセイラーボブ

私がセイラーボブの教えを完全に理解したと感じたのは、2018年10月末ぐらいで、まだそれほど日がたっていません。教えそのものを理解したのは2014年の年末頃でしたが、教えそのものに確信が持てず、その時点では大きな変化はありませんでした。

エンライトメントはないということはわかったものの、ではどうしたら、ボブの言っていることに実感、確信が持てるだろうかと漠然と思っていました。2018年10月末に完全に理解してからは、いろいろと大きな変化がありました。まだそれほど日が経ってないので、その変化を客観的に見るにはもう少し時間がかかると思うのですが、一応今現在の変化と心境を思いつくままに書いておきます。

私は長年生きているので、人並みに不幸なことはたくさん経験してきました。自然に生きていれば普通の人生だったと思うのですが、人生を何とかコントロールしたいと思った「私」のせいで、あまり普通とは言えない人生を歩いてきました。

ストーリーを語ってもしかたがないので詳しくは書きませんが、メンタルの不調、転職、身内の死、人との別れ、経済的な破綻、パワハラ、介護などなど。
全員がそうだとは言いませんが、スピリチュアルに魅かれる人の多くは何か問題を抱えてそういう世界に入っていくのではないでしょうか。

いろんな出来事が起こって、本当に苦しい時期を過ごした時期もありました。でも不思議なことに、自殺しようと思ったことは一度もありませんでした。自殺する勇気がなかったといえばそれまでですが、それ以上に、いつかエンライトメントが起きれば、すべてがチャラになるだろうという希望があったからです。そういう意味ではエンライトメントは私を長年助けてくれました。そのエンライトメントも最終的にはセイラーボブによって蹴り出されたわけですが。

スピリチュアルなことばかりやって生きてきたわけではないのですが、私の最大の願望はエンライトメントであり、苦しい人生から抜け出すためにそれを得ようと多くの時間やお金を費やして生きてきました。人から見れば、普通に生きているように見えたかもしれませんが。

エンライトメントを求めていたころは、ジェームズ・ブラハと同じで、気持ちよく目覚めたことなど、ほとんどありませんでした。いつも自分は不完全でエンライトメントしないかぎりは幸せになれないと思っていました。

毎日欠かさず瞑想をしていた頃は、何かの都合で瞑想できないと一日中イライラして、何のために瞑想しているのかよくわからない状態でした。エンライトメントを追うことに嫌気がさして、瞑想をしなくなってからは、毎日人生を無駄に生きている感覚が離れませんでした。
当時やっていた仕事は全く生きがいを感じられるようなものではなく、毎日ただ金をもらうためだけに時間と人生を浪費している感覚しかありませんでした。

セイラーボブの教えを理解して一番大きく変化したのは、エンライトメントなんてないと知った解放感です。それを知ってから、人生を無駄に生きているという感じがなくなりました。その感覚は、ボブの教えを完全に理解してから強くなりました。

エンライトメントを得るための焦りや苛立ちというのは完全に無くなりました。今思うと、どれだけそれが自分を苦しめていたのかがわかります。メンタルの面ではずいぶんと楽になりました。

もともと不眠症のような状態でしたが、最近はよく眠れるようになったし、眠らなくても全然気にしなくなりました。以前だったら、眠れないことそのものよりも、眠れないことへのいら立ちの方が大きかったのに、今はそれがありません。

睡眠をコントロールしようという「私」がいないのです。以前だったら、眠るためにはどうしたらいいのか、何時に床につけばいいのか、コーヒーは午後からは飲まない、などあれこれ考えて、それでも眠れないといらいらしていたのですが、今は毎夕食後にコーヒーを飲んでいます。それでも不思議と熟睡できて、仮に眠れなくても全然気になりません。

私もブラハと同じで、朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。何か人生の宿題を終えたような気分で、あとは楽しんで生きていけばいい、今日もまた一日始まるぞ、みたいな気分で起きます。

以前は一日の半分は過去の出来事を後悔して、残りの半分は未来の心配をするような生活で、まったく今ここを生きていませんでしたが、今は過去のことも未来のこともあまり考えません。無理にそうしているわけではなく、過去を悔んだり、責めたりする「私」がいないのです。未来をコントロールしようという「私」もいません。

遠い将来に計画を立てることもなくなりました。少し前までは、もう一度セイラーボブに会いに行って、そのあとあれをしてこれをしてという計画で、がんじがらめだったのに、今は自然に任せています。

以前は私を散々苦しめてきた強迫観念もどこかへ行ってしまいました。抵抗する「私」も、それをなんとかしようとする「私」もいなくなりました。恐怖や恐れが無くなったというのではなく、そういうことを考えるのを忘れてしまったような感じです。恐れる「私」がいないのだから当然なのかもしれません。

以前はあった孤独感がまったくなくなりました。孤独を感じる「私」もいません。そのかわりに、あらゆるものに神が宿っているのを実感するようになりました。今までは何とも思わなかった犬や猫にも自分と同じものが宿っていると実感して、かわいいと思うようになりました。草や木々にも神が宿っているのを感じます。万物に神が宿っているというのはこういうことなのかと思うようになりました。

人に対して抱いていた劣等感も優越感もなくなりました。人のことを好き嫌い、良い悪いで判断していたのが、今はただその人も表れとして現われているだけで、そこに独立した何かが存在するとは思えなくなくなりました。争う必要も見下す必要も卑屈になる必要もなくなりました。

電車に乗って大勢の人込みを歩いても、そこにいる人々は自然に生まれ、自然に死んでいく自然現象の一部にすぎないと思うようになり、何か、いとしい気がします。

以前は白髪を嫌って染めていたのですが、今では、何でそんな無駄なことをしていたんだろう、不自然じゃないかと思うようになりました。汚れた格好をしようとは思いませんが、清潔であれば外見はどうでもよくなりました。人が何と思おうと気にしません。「人」も「私」もいないのですから。

愛想は相変わらず悪いのですが、人に対する受け止め方が以前とはまるで違います。他の人も私と同じように実在ではなく、自分の役割を演じているにすぎず、私と同じものです。争う必要も見下す必要もない。困っていたら助けてあげればいい。

ジョギングを毎日30分欠かさずするようになりました。ただ気持ちいいから。走っていると、景色が鮮明に見えるようになりました。視力が良くなったわけではないと思うのですが、どんな景色もすばらしい一枚の幻影に見えます。その景色の中に犬を散歩させる人がいて、遊んでいる子供たちがいて、彼らは一種の自然現象で、実際にはそこには誰もいない。わけもなく幸せです。

いろんなことを臨機応変にやるようになり、直感を信じて迷わなくなりました。以前は計画して心配して石橋を叩いて、それでいて渡らないみたいなことばかりしていましたが、今は自然に任せています。

嫌な思考や悩み事、心配事も時々やってきますが、そんなに真剣に相手をしなくなり、いつの間にか去っていきます。

今までの人生を振り返ってみると、セイラーボブの言うように、どんな時も、そこには意識がありました。苦しい事や嫌なことはあったけど、それは去って行き、意識(アウエアネス)だけが残っています。

これからもいろんなことが表面上は起こってくるでしょう。でもそれは見せかけであり去って行くものだと知っています。

もう何があっても大丈夫です。

2019/02/12

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑱

1998年アムステルダムでのTVインタビュー


(32秒後に英語でのインタビューが始まります。このビデオは「ただそれだけ」p82に出てくるアムステルダムでのドイツのテレビ局によるインタビューです)

聞き手:ようこそ、ボブ。

ボブ:サンキュウ。

聞き手:あなたは内側の世界だけでなく、世界もまた多少旅してみえるわけですが、それは別にしても、セイラーボブというのは興味深い名前ですね。

ボブ:そうですね。

聞き手:あなたはオーストラリア人ですか?

ボブ:ええ、オーストラリア人です。オーストラリアのメルボルン出身です。

聞き手:オーストラリアは広大な国ですが、そこも旅されましたか?

ボブ:ええ。羊毛刈りの他に・・・。

聞き手:え? あ、羊のことですね。

ボブ:ええ。そして炭鉱でも働きました。

聞き手:きつい仕事ですね。

ボブ:ええ、きつい仕事です。他にもそういった仕事などをしました。

聞き手:私が説明しなくてはいけないことの一つは、あなたはたくさんの探求者を引き付けていますが、探求はあなたのメッセージではなく、あなたのメッセージは、私たちは探求する必要がないということです。

ボブ:そのとおりです。

聞き手:どうして私たちは探求する必要がないのでしょうか?

ボブ:なぜなら、あなたはもうすでにあなたが探しているものだからです。いにしえの聖典は教えています。神は全能、全知・・・、全能であると。そうであれば、その他の人や物に、どういった余地が残されていますか?

聞き手:それは、私たちは神の一部、つまり、私たちは神であるということですね。

ボブ:ええ、私たちは神です。

聞き手:たいていの人にとって、それを理解するのは難しいことです。というのも、私たちはそれほど幸せではないと思っていて、常に物質的な物や愛情、そういったものを求めているからです。あなたの人生において、それはどのように起こったのですか? あなたはまだ、「私は探求者ではない」と偶然にも、ええ、たぶん偶然にだと思いますが、言った時の話をしていません。

ボブ:私の人生では自己破壊的になっていた時期がありました。何年もアルコールの問題がありました。私は若いころから、神、高次の力、何と呼んでもいいのですが、どんな信仰も持っていませんでした。言い方を変えれば、そういった分野は閉ざされていました。でも最終的に、「12ステップ」の集まりに出会いました。

聞き手:それはとてもよく知られているものですね。12ステップとはアルコールや薬物中毒者向けの自己認識プログラムのことで、12ステップと呼んでいるのですね?

ボブ:そうです。そのステップの一つは、自分以外の力を信じなくてはいけないということです。なぜなら、その解決は霊的なものだからです。でも話したように、私には信仰がありませんでした。それでも驚いたことに、この集まりに出会い、私は酒をやめることができました。そして、「Sobriety and Beyond by a Catholic priest(カソリック神父による禁酒と超越)」という本を読みました。そこで、「私たちアルコール中毒者は人生において、もう一度チャンスが与えられている」という短い一節に出会い、それは正しいと思いました。なぜかというと、そのころの私は働くにも適さず、無職で、絶望してどうしようもない状態で、そんな時にその集まりに出会ったからです。なんとか酒はやめたものの、しばらくしてエゴの傲慢さが戻ってきて、また酒に手を出しました。でもこの本を手にして「私たちアルコール中毒者は人生において、もう一度チャンスが与えられている」と読み、なんとなくそれが私に必要・・・。

聞き手:それがあなたに必要だったのですね。

ボブ:それは必要でした。それは、まるでお腹を一蹴りされたようなものでした。根底にあったのは、そのもう一度のチャンスをどうやって活かしたらいいのかという問いでした。私がもう一度のチャンスを与えられたと思った時、私はまだ今日のような状態ではなく、そうなりたいと思っていましたが、それでも酒に手を出し、以前と同じような生活に戻る可能性もありました。というのも、そういう生き方を条件付けられていて、それが唯一の生き方だったからです。

聞き手:率直に言わせてください。あなたは酒をやめた。仕事もなく、収入もなく、やめざるえなかった。そして、12ステップに参加して、酒をやめると決心した。でも実際のところは強制的にそうせざるえなかったのであって、あなたの内側からのものではなかった。

ボブ:ええ。それは全く選択の余地のある行為ではありませんでした。もし選べるなら、また酒に手を出していたでしょう。どうしたら、もう一度のチャンスを活かすことができるだろうという問いがまた私を襲いました。その考えが起こった時思ったのは、そのもう一度のチャンスを活かす唯一の方法でした。そして私は、私にもう一度のチャンスを与えたのは何物なのかを探しました。神というようなものがいるのだろうかと。

聞き手:並外れた力?

ボブ:真実、もしくは実在です。それが調査の始まりです。

聞き手:その時何歳でしたか?

ボブ:まだ32歳でした。

聞き手:あなたはまだ若かったが、いくつかの苦難のために探求者になった。私たちはそう呼ぶのですが。そうでしょう?

ボブ:ええ、今はそれが自分の決断ではなかったとわかるのですが。

聞き手:それは起こったのですね。

ボブ:ええ、そうです。

聞き手:それは起こった。それは多くの人に起こった。私たちの多くは探求者です。そして悲しいことに生涯探求者のままです。私たちはある本から別のグルへ、サードチャーチへ、カルトへと、常に探求しています。今日でさえ新聞を開けば、とても多くの魅力的な見出しに出会います。「これは真実です」と。そして私は読み始め、失望するのです。なぜかというと、その本を書いている本人がそれを実践していないからです。

ボブ:ええ。

聞き手:それからあなたは世界を巡り始めたのでしたか? それとも、オーストラリアの街を探索したのですか?

ボブ:ええ、私は西洋人ですから、当然キリスト教を最初に調べました。そこでたくさんの救いをえましたが、何かに引っ張られかのように、1962年だったと思いますが、マハリシがオーストラリアに来た時・・・。

聞き手:それは、マハリシ・マヘッシ・ヨギですね?

ボブ:ええ。

聞き手:超越瞑想ですね?

ボブ:ええ。私が彼に会ったのは、彼がまだビートルズに会って有名になる前でした。彼の話を聞いた時、何か内側で響くものがあり、自分でテクニックを試して実行したところ、ある程度結果が出たのですが、一日か二日で普通に戻ってしまいました。マハリシは帰りましたが、メルボルンにはグループがあって、もしそう言いたければ、一連の偶然というものがあって、私が新聞を見て、誰かが街に来るか、何か催しがあるかと調べていたところ、小さな広告が載っていて、ヨーガに興味のある人は誰でもこのアドレスへとありました。訪ねてみるとそこで、私がマハリシから聞いた同じ話を録音したものを聞きました。その時は躊躇せずに入門しました。それは私の最初の霊的な経験でした。霊的な経験と霊的な目覚めには大きな違いがあります。

聞き手:そのことについて説明してください。あなたはそのテクニックを試しました。基本的にはマントラですね。彼らはあなたにマントラを授けた。そしてあなたはあなたのマインドの中でそれを繰り返し、最初は大きな声で、そして静かに。そしてそれは浮かんでくるすべての思考を追い払う。あなたはその理論を調べて、マントラを授かり、それでマインドを掃除した。それは機械装置ではないが、トリック、瞑想的手法によって、あなたのマインドを掃除して、普段の最優先の、お金や生活などの心配事の思考を追い払う。それはまるで、空間がやって来て、あなたをもっと幸せにする。ええ、霊的に目覚めるわけではないのですが、それは良い感じ、ええ、私はやったことはないのですが、それは素晴らしいテクニックですね。

ボブ:ええ。それは究極の答えではありませんでしたが、それによって、驚くような経験をして、それが私の人生を完全に変えてしまいました。私はそこで入門し、狭い部屋の中へ入り、マントラを授かり、あなたが想像するような普通のくだものと布切れを受け取りました。テーブルの上には彼のグルの写真がありましたが、わたしはちらっと見ただけで、それ以上注意を向けませんでした。というのも、私はテクニック、マントラに興味があり、それに取り組んでいましたから。それから二、三日後に、私は電車に乗ろうと家から駅まで、それは歩いて20分ぐらいですが、通りを歩いていたところ、写真にあった顔のイメージが私の内側で広がって乗っ取られるように感じました。それはとても大きな・・・。

聞き手:それはマハリシの写真でしたか?

ボブ:いいえ。マハリシのグルでした。

聞き手:それは誰でしたか?

ボブ:名前も知りません。

聞き手:でもそれはインド人?

ボブ:ええ。私は写真に注意を払わず、ちらっと見ただけだったのですが、そのイメージは彼に間違いありません。それがはっきりと私の知覚に侵入してきました。私はどんな薬も服用していませんでした。それはまるで光に照らされているような感じでしたが、その当時はその手のことをよく知らなかったので、何かに乗っ取られるように感じて、それを追い出しました。

聞き手:何か悪霊かなんかを見たと?

ボブ:ええ。でもそれは私の人生を全く変えてしまうほどパワフルでした。その日はそのあとで仕事に行きました。当時私は不安、心配、みじめさ、憂鬱でいっぱいで、とても怒っていて世間に憤慨していました。職場の同僚が変化に気づいて、「恋でもしているのか?」と聞きました。「そうだよ。でも女性じゃなくて、世界にだよ」と言いました。その時は一番高いビルから空中を歩いて降りられるような気分でした。しばらくはマハリシのテクニックを続けましたが、あまり良くなりませんでした。それでも調査は続けました。

聞き手:あなたが言ったあなたの人生の特別な瞬間のことですが、そのイメージはあなたを光で満たした。私たちはしばしばエンライトメントという言葉を使いますが、これは例えば、白い光とかそんな感じのものですか?

ボブ:ええ・・・。

聞き手:それはあなたの内側を変えたのですか、外側も変えたのですか?

ボブ:ええ、そうです。おそらく、説明できるとすれば、純粋な愛のようなものでしょうか。ごめんなさい。はっきり言えなくて。慣れてないので。

聞き手:それは視覚的な経験ですかそれとも肉体的な経験ですか?

ボブ:それは、肉体的視覚的そしてすべての時間、メンタル・・・。でもそれはロバの前にぶら下がったもののように、調査に対する興味を掻き立てるものでした。

聞き手:でもあなたは、それ以前は酒を飲んでいました。時々人々は酔っぱらって興奮状態になって幻覚を見ることがあります。ある人は、しばしば酒を飲む理由は、何と言えばいいか、何か他のものを見るためだと言います。あなたが現在達成した事やあなたが探していたことと、以前酒を飲んでいたこととは、おそらく潜在的に関係しているのではないですか?

ボブ:ええ、おそらく関係はあるでしょう。外側の世界を探す一つの方法として、最初は酒など手近なものに答えがあると思ったものですが、この出来事は、何か内側の世界というものがあるという最初の情報でした。今日では内側には心配症の人はもういません。

聞き手:ええ、もちろん私たちは最後には外側と内側を統合するのはわかるのですが、世界から麻薬やアルコール中毒者として見られている人々も、真摯に何かを探したいと思っているのではありませんか? あなたは、酒は全く生産的ではないと?

ボブ:最初の「イズム・主義」が私たちにやって来た時に二元性がやってきます。アルコールイズム、ドラッグイズム、キャピタリズム、コミュニズム、すべての「イズム」は二元性です。

聞き手:二元性が、私とあなたという分離を生むと。

ボブ:ええ、二元性は私と他者です。分離した自己と考えます。

聞き手:話を探求に戻します。超越瞑想を実践したあと、次のステップは何でしたか?

ボブ:いろんなことを調べました。1960年代に活躍した西洋人の神秘家ジョエル・ゴールドスミスにしばらくかかわり、1970年までにまた、いろんな出来事が続けて起こりました。そうした小さな出来事のつながりが納まるべき場所に納まるのは驚くべきことで、それはまるで今日私がこうしてここにいるなんて思いもしなかったのにそれが起こったようなものです。一つの出来事が別の出来事へと導き、私はジョエル・ゴールドスミスを知り、1970代の終わりに、新聞にインド人のグルの写真が載っていて彼がメルボルンに来ることを知りました。それもまだ彼が有名になる前でしたが、それがムクタナンダでした。写真を見た時に何かが、「この人に会わなくてはいけない」と言ったのです。そして彼に会ったのですが、私は彼を飛行場で出迎えた中の一人でした。そして1973年にインドにある彼のアシュラムへ行きました。そしてそこに、いわゆる悟りを開くまでいるつもりでしたが、一か月しか続きませんでした。雰囲気が強烈で受けつけませんでした。

聞き手:あなたは強烈と言いますが、あなたはオーストラリア人の船乗りで、たぶん多少荒っぽい男でしょう。あなたはインドに行き、そこは極端な世界で、貧困、富、寒さ、極端な暑さの世界。それに馴染めなかった?

ボブ:雰囲気がとても強烈で、怒りや憤慨などを掻き立てました。それはどこかに根深くあった・・・。

聞き手:それは、興味深い意見ですね。あなたはアシュラムへ行き、アシュラムに泊まることはいとわなかった。そしてあなたは怒りを感じて、それが掻き立てられて、あなたの中にあったものが外に出てきた。

ボブ:もしあなたがそう言いたければ、そこで起こっていたのは浄化のプロセス・・・。

聞き手:あなたはそれを得る前に、怒りと向き合わなくてはいけないのでは。

ボブ:それから私は帰国して、結婚しました。

聞き手:大きな変化ですね。どうして?

ボブ:当時45歳でしたが、その5年前に妻と出会い、付き合っている間はいくぶん山あり谷ありでしたが当時は安定していて他になすべきこともなかったので結婚しました。でも1975年までに、結婚生活があまりうまくいかなくなりました。私たちは別れ、その時もまだムクタナンダを師事していたので、彼のアシュラムへ戻りました。でもその時はすべてがまったく違いました。そこへ着くやいなや、やすらぎを感じ、雰囲気に馴染みました。おそらく、もしそう言いたければ、馴染むほど十分に浄化されていたからだと思います。そして私はアシュラムの規律に従いました。

聞き手:ちょっと待ってください。最初にアシュラムに行った時は、強烈すぎて帰った。そしてあなたは結婚を経験した。それは必要でしたか?

ボブ:ええ、でも私は一定の瞑想などをずっとしていましたから、探求そのものは1973年から1975年までは続けていました。それが私を開き、浄化したのかもしれません。本も読みました。1975年から1976年の3月の終わりまで、アシュラムで規則正しく熱心に誠実に修養しました。アシュラムの中には私を掻き立てて怒らせるような人もいましたが、グルへの忠誠心のため気になりませんでした。そしてある日私はボンベイの本屋に行ったところ、店員が「I am that」を手渡し、「この本を読むべきですよ」と言いました。私はこれもまた何度か私を導いた偶然の一つかもしれないと思いました。というのも何度も人から勧められたのに読まなかった本だったからです。何ページかめくってみたら、胸に響くものがありました。

聞き手:それは誰の本でしたか?

ボブ:それはニサルガダッタによって書かれたものではなく、モーリス・フリードマンによって翻訳された本でした。それは、ニサルガダッタの講話と質疑応答の本でした。

聞き手:その名前は初めてですね。彼の名前はニサルガダッタ? インド人のグルですか?

ボブ:そうです。

聞き手:彼はムクタナンダと関係ありますか?

ボブ:いいえ。全く関係ありません。全く違います。ムクタナンダはクンダリーニです。

聞き手:クンダリーニはヨーガのテクニックですか?

ボブ:ええ。シャクティパットを通じてクンダリーニを目覚めさせるテクニックです。

聞き手:それは肉体的なことですか?

ボブ:ええそうです。それは肉体的な経験です。たくさんの種類の違った霊的な経験をします。

聞き手:あなたはニサルガダッタの本を読んだ。彼はニサルガダッタ・マハラジと呼ばれていたのですね? それは偉大な師という意味ですか?

ボブ:ええ、それが彼の名前ですが、彼はボンベイの狭い家に住んでいて、ちょうどこのカメラのところぐらいまでの。そこは毎日何万という人たちが家の前を通る場所でしたが、誰も彼のことを知りませんでした。それでも人々は彼を見つけて世界中からやってきました。

聞き手:そしてあなたは彼に会った。

ボブ:ええ、本がそれほど助けにならないとわかったので直接会いました。

聞き手:それは興味深いですね。あなたが最初に彼に会った時、何か特別なことが起こりましたか? それとも・・・。

ボブ:ええ。

聞き手:私が何か特別な事と言うのは、とても素晴らしいグルで、とても有名で、後光がさしているとか・・・。

ボブ:ええ。彼は私に、「私」は私が信じているような人ではないとはっきり理解させてくれました。

聞き手:彼はあなた自身が見える鏡を差し出してくれたということですか?

ボブ:ええ。そう言えると思います。彼は私に示してくれました。もし私が自分の信じているもの、考え、概念を見て調べれば、虚偽は調査に耐えることができません。そして彼は、私が信じているものはそうではないとはっきりと示してくれました。

聞き手:ちょっと待ってください。あなたは彼に会い、彼はあなたにそれを教えたと言いました。それはどんなふうに起こったのでしょうか? それは認識が起こったのでしょうか?

ボブ:ええ。最初の日に外に出て「もう二度とマインドには捕らえられないぞ」と言いました。私ははっきりと理解しました。でも習慣のパターンはとても強力で、当然私がドアを出るやいなや、それはまた戻ってきました。でもそれは、もう二度と同じではありませんでした。それは、つかまる場所を失ったのです。

聞き手:あなたは、以前はマインド、自分の考えに閉じ込められていたと言うのですか?

ボブ:ええ。

聞き手:それが止まったと。そして、あなたがドアから出ると、それがあまり活発ではなくなったと言うのですか? それは普通そんなふうに起きるのですか? 人々は強烈な経験をしてそしてそれが去り・・・。

ボブ:そんなふうには去りません。思考はすべて習慣的なパターンとして起こってきますが、その時以降、根底には常に幸福感、つまり何も悪くはなく、すべてうまくいっているという感覚があります。

聞き手:何も悪くない。

ボブ:悪い習慣が、つかまる場所を失ったら、何も悪いことはありません。どうして以前のままでいられるでしょうか。

聞き手:オーケー。(手元の文書を読みながら)「私は誰かに話しかけいるわけではありません。私がマインドに話しかけているわけでもありません。私はその(私はいる)に話しかけています。それが私、今ここにある意識です。そしてそれはマインドに(私はある)という思考となって現れます。それが私であり、他のものではありえません。それは自然な状態、実在、汝それなりへの直接かつ即時の手引きです。これはセイラーボブが表明していることの一つです」。さてこれは、ある文書にある文章で、これは世界中で読まれています。そして人々はあなたの教えに引き付けられています。それが、あなたが最近行っていることですね。あなたは世界をまわり、この「私は誰か」を教えています。

ボブ:教えるということではなく、人々に彼らが自分自身であると信じているものがそうではないと指摘しているにすぎません。私は自分で調べるようにと言っているだけです。私は誰にも何も教えはしません。

聞き手:あなたの教えの本質は、彼らが自分だと思っているものは投影にすぎないと?

ボブ:私の教えの本質は、誰も自身の存在を否定することはできないということです。自分が存在するという事実は彼らが絶対に否定できない唯一の現実です。誰も自身の存在を否定することはできません。みなそれぞれ、「私はいる」と知っています。その思考の「私はいる」は実在ではありません。それが、あなたがマインドでそれの一番近くまで行けるところです。

聞き手:でもそれはマインドですね。「私はいる」と言うのはマインドですね。

ボブ:「私はいる」と言うのはマインドですが、実在は思考の「私はいる」より以前にあります。私たちは一日中、「私はいる」「私はいる」と言っているわけではありません。知る働きは常にそこにあります。でも、それは「私はいる」という思考となってマインドに現われます。そして、思考となってマインドに現われやいなや、それは二元性です。「私はいる」が現れるやいなや、あなたや他の人もいるにちがいないとなるからです。

聞き手:ということは、あなたがあなたの存在、「私はいる」を認めるやいなや、あなたは直接の経験から離れてしまう?

ボブ:ええ。

聞き手:でもその何がいけないのですか? たいていの人は世間に出て、「私はいい恰好をしていない」「ちゃんと髭を剃らなかった」などと言って行動したり、行動を変えたりします。そのどこがいけないのですか?

ボブ:もしあなたが現実は実在ではなく見せかけにすぎないということを理解していれば、何も悪いことはありません。もしそう言いたければ、すべては純粋な知性エネルギーです。それは知る働きの活動です。その知る働きがマインドを通して現れるやいなや、それはそのように見えるだけで、それはもはや実在ではありません。あなたがそれは実在ではないと理解している限り、何の問題もありません。それは現れ続けます。あたかも私たちが外に出て、きれいな青い空だと言うようなものです。でもあなたも私も空が青くないことを知っています。私は二週間前にここへオーストラリアから数千マイルを飛行機で飛んで来ましたが、青さが消えることはなく、はるかかなたにありました。空は空間であり、そこには青さはありません。青さは見せかけにすぎません。私たちは真実を知っています。あなたも私も、なんてきれいな青い空と言いますが、私たちは真実を知っています。それでもまだ、それは青く見えます。でも私たちはもうそれに縛られることはありません。もし・・・。

聞き手:でもあなたの人生の物語によれば、私は酒浸りだ、私はこれだという自分のイメージを持っていて、今やそれは見せかけにすぎないと手放した。その見せかけは私の一部で、マインドが私に対して観察、判断しているにすぎない。

ボブ:その見せかけも、実在以外のものではありません。でもそれは実在とは違って現れています。あなたは腕輪、ブレスレット、イアリングを手に入れます。それらの本質は何ですか? それらは金でできています。その本質は金です。あなたは腕輪を溶かして腕輪にすることはできません。それを溶かせば金になります。この見せかけが何であろうと、それは全能、全知、偏在から外れることはありません。それは、他に何もない一つのものです。ヒンズーの言葉では、他になにもない一つのものと言います。仏教の最高の教えのゾクチェンの言葉では、ただそれだけ、今ここにある意識と言います。

聞き手:超越瞑想の話に戻りたいと思います。それはマインドのラベルを押しのけるテクニックですね。なぜなら、私たちが「私はいる」と言っても、それはラベルにすぎないとあなたは言いました。私たちはそれを調べて、そこには私はいないということを調べなくてはいけない。そのテクニックでそれを押しのけて、一定の静けさを達成する。もし全く名前を付けたり枠にはめたりレベルを貼ったりせずに、このアウエアネスの中で生きると私たちはとても静かで幸せに暮らせるとおっしゃるのですか?

ボブ:いいえ。瞑想の対象となるものは何もありませんし、私は瞑想したいとも思いません。その点から見れば、あなたが瞑想していなかった時はありません。それは継続的な瞑想です。私たちが、どんなに懸命にどんなに長く探してもマインドの中には答えはないと知ってマインドの中を探し続けなければ、それでもそこにはマインドはあるのですが、それがあなたを苦しめることはもうありません。

聞き手:無くなりますか?

ボブ:ええ。

聞き手:もし、「あれをしろ、これをしろ」「これは良い、あれは悪い」「このテーブルはこうしなくて」というようなマインドの中のこの継続的なプロセスを、もし私たちがこうした思考、投影を脇に置くことが出来れば。でも、そうなると、私たちは空の貝殻のようになりませんか? 私はわかりやすく、空の貝殻と言ったのですが。

ボブ:実在はこの瞬間です。それが命です。私たちが昨日に縛られて、明日を憂いて生きるなら、今を生きていません。完全にここにいて、今ここを生きていることにはなりません。もし、私たちが昨日に縛られて、明日を憂いて生きるなら、今この瞬間にいる機会を失います。あなたが頭の中にいようがいまいが、まさにこの瞬間だけが現れです。すべてのことがありのままに現れています。純粋な知性がすべてとなって現れています。聞く働き。あなたは私の声だけを聞いているわけではありません。外の他の物音も聞いています。あなたは単に見ているだけではありません。あなたは私を含めてすべてを見ています。あなたはこの部屋の中のあなたの周りのいろんな色や物などを見ています。すべてはありのままに現れています。それはありのままなのです。それは変えることも修正されることも正されることもありません。人間の思考がやってきてやろうとするのは、過去のイメージや未来の想像に基づいてそれを変えようとしたり、修正しようとしたり、正そうとしたりすることです。どうして私たちはそうあるべきではないと考えるのでしょうか? なぜそのままではいけないのでしょうか? その比較上の観点からすべてが判断され、見かけ上、私たちは瞬間から遠ざかり、見ているものをありのままに見ることがありません。私たちは、それがこうあるべきだというふうに物事を見ます。そしてそれが葛藤を生みます。私たちは葛藤の中にいます。

聞き手:さて、このメソッド、教えは、マインドを捨て去るとは言いませんが、それは私たちの一部であり、それ自体は物ではないと知ることです。あなたはヨーガの教えについては話しませんが、ヨーガはもっと体全体を感じて、その他の物事を取り除く。もし我々を体、ハートか感情、マインドと分けた場合、ハートと体はマインドよりも重要ではなく、それも脇に置くべきだと思いますか?

ボブ:この体を見てください。今この瞬間、それは何の努力もなく機能しています。今この瞬間私の髪の毛、私の髪とは言いませんが、私の髪の毛は成長しています。私の指の爪も成長しています。細胞は置き替えられています。私は呼吸し、心臓は拡大収縮しています。でも私はそれをするためにいかなる努力もしていません。それは努力なく起こり、純粋な知性エネルギーが機能しています。そして思考も起こっています。そしてその思考を通して、それを私がやっていると思っています。その自己の中心である「私はいる」という思考がそれをやっていると信じています。そしてそれはこのショー全体を支配していると思っています。もしあなたがこの存在、つまりアウエアネス無しでは一片の思考も持てないと理解したら・・・。私たちの体は子宮の中で成長します。子宮の中で脳が形成される以前に、マインドが形成される以前に心臓は自然に鼓動しています。

聞き手:でも生まれ出てから、エゴを必要とし、発達させ、そしてそれを私たちは「私」と言います。そしてそれは「私はいる」「これは私の体」「私はこれをしている」と言います。もし私たちがそのエゴを無くすと、エゴと一緒に良い事も無くすことになりませんか。ドライブをしたり、世界を変えたり、貧しい人たちに食べ物を与えたりとか。

ボブ:あなたは、エゴは幻影であると知るでしょう。あなたにお尋ねします。あなたは今見ています。あなたは今聞いています。あなたの目は「私は見ている」と言いますか? あなたの耳は「私は聞いている」と言いますか? 答えはノーです。「私は見ている」「私は聞いている」という思考は起こってきます。でも、その「私は見ている」という思考は見ることができますか? 「私は聞いている」という思考は聞くことができますか? できません。「私は見ている」という思考は見ることはできません。ということは「私は見ている」という思考には力がありません。それはアウエアネスすなわち意識、あなたが使いたければどんな表現でもかまいませんが、思考はそれに頼っています。それはまるで私たちがコンピューターの中にすべての情報を持っているのに電源がオンになっていなかったら、どんな情報も引き出せないのに似ています。同じことが思考の「私」にも言えます。私たちが「私」という思考を信じるやいなや、その単なる「私」という思考にすべての過去の経験や条件付けが付加されます。それが自身のイメージを形成し、エゴとなります。自身が自分対して抱いているイメージは過去の出来事や経験に基づいています。

聞き手:でもあなたはそれを取り除くことができるとおっしゃいました。それは理解しました。

ボブ:それは取り除くということではなくて・・・。

聞き手:それは架空のものであると? それはマインドの構築物であると。わかります。

ボブ:ええ。それは空のようなもので、それをあなたはどうする必要もありません。あなたはそれを理解してそれをありのままに見ることです。そうすればそれは以前のようにあなたを縛りつけることはなくなります。

聞き手:オーケー。さて、人々があなたを求め、あなたが説明していることは、あなたがニサルガダッタという人に会って、あなたのエゴが変化した。もしくは、あなたはエゴではないと理解した。それは強烈な変化です。たくさんの人が世界中からやってきてあなたの話を聞きましたが、彼らはそういう強烈な変化を感じていません。彼らは依然としてエゴに縛られています。彼らは依然としてエゴに取り組んでいます。例えば、ボブは、エゴは私の主人であるべきではない、それを現実の中で調べるべきだ、と言っている。それは理解した。でも、それを達成するには恐怖があります。私たちはエゴ無しでは生きられません。私が幼い時、それはよく機能しました。泣かなかったら食べ物にありつけません。もっと泣けばママは食べ物やなんかをくれます。それはとてもよく機能しました。なぜ私たちはこの幻影を片付けなければいけないのでしょうか?

ボブ:あなたはそれを片付ける必要はありません。顕現はマインドを通してやってきます。私たちが唯一持っている道具はマインドです。それが、唯一私たちが持っているものです。そしてもしそれが理解されれば、それはとても創造的は道具となります。あらゆる芸術や美などすべてがマインドからやってきました。このビルも誰かのマインドにあった考えです。それが現れているのを見てください。私たちはそれをどうする必要もありません。そうでなければ自己破壊的になります。その「私」という思考が全体になりたいと思った時、その「私」という思考が最初にすることは、最初の分離を生むことです。それがマインドにやって来るやいなや、マインドは反対の極に向けて考えるようにと機能するからです。もしそれが過去、それは記憶、でなければ未来、それは想像の期待。その間で機能します。善悪、肯定否定、幸不幸、なんでも。マインドをありのままに見ることができれば、マインドがあなたを拘束することはもうありません。あなたはもう分離していません。そこにもはや分離はありません。「私」という思考がやって来るやいなや、分離は差し迫った不安となります。それは差し迫った傷付きやすさです。それがやってくる二歳のころ、私たちは安全を探し始めます。私たちは幸福を探します。そして条件付けが起こります。誰かが悪いわけではありません。両親や誰かが悪いわけでもありません。私たちはそれを探すように条件付けられています。何よりもまず暖かい家族が「私」の周りにいれば、「私」はもっと安心します。そして「私」がお金、富、良い車、良い家、良い人間関係を手に入れれば、これらのことはもっと安心感を与えます。そしてそうしたことがもっと起きるようにと思うようになります。そして私たちは神を創造しました。もしそれをこの一生で手に入れられなければ・・・。

聞き手:次の一生?

ボブ:そうです。でもそういったことはすべて期待であり想像、概念です。

聞き手:人々はあなたのところへ話しを聞きに来て、あなたがそうであったように、彼らはこの理解を手に入れることができるでしょうか? というのも、あなたが「マインドにやってくる」と言う時、私はそれを聞いてそれが自分のマインドにやってきて、その感覚を手に入れて、毎回私の指の間をすべって落ちるような感じがしてこう言っています。「ちょっと待って。私の存在を受け入れているのは私で、それを片付けるのも私です」。それが「私」、エゴに支配されない状態に恒久的になりえるでしょうか?

ボブ:その「私」を、もしありのままに見ることができれば、もうそれに縛られることはありません。それがそこにあるかないかは問題ではありません。あなたは、そこに「私」という思考があろうとなかろうと、機能は以前と同じように続いているということを理解しなければいけません。私が言ったように、それは今も起こっています。普段の状態で、呼吸など命に関わる事でマインドが果たしている役割はほんのわずかです。「私」という思考はそこにあります。それは利用できます。それが何を捕らえていようと、それは本当の私ではないという認識があれば、私が言ったように、青い空や、私たちが美しい日の出と言う時、太陽が東から登って西に沈むのは真実ではなく、地球が太陽の周りをまわっているという真実を知っていれば、私たちはもうそれに縛られることはありません。それでも私たちは言うでしょう・・。

聞き手:美しいと。

ボブ:ええ。それを認識することで、自己の中心への束縛はすべて落ちていきます。もし私が自己の中心がここにないと理解すれば、他者にもそれはないと理解するはずです。そうなれば、誰が私よりも優れているのでしょうか? 誰が私より劣っているのでしょうか? 分離の感覚はもはやありません。

聞き手:でも今でも私は例えばアンドリュー・コーエンのような人たちがやっていることを耳にします。彼は世界中を巡り、エンライトメントに関する本を書いて、エンライトメントした人と、エンライトメントしていない人がいると言っていて、その本にはどうやってそれを手に入れるかについて書いてあります。コーエン氏がそれを成し遂げたと仮定して他の何人かもそれを成し遂げたと仮定して、私はそういったことに少し反感を感じます。なぜかと言うと、あなたは私とは違うし、私たちはアンドリュー・コーエンとは違う。目覚めた人がいて、目覚めていない人がいるというように、世界を分けて見るようなことがどうして可能なのでしょうか? もし神が、あなたが言うように私たちみんなの中にいるのなら、私たちはみんなエンライトメントしているのではありませんか? でもそんなふうには見えません。

ボブ:そのとおりです。エンライトメントなどというものはありません。それは作り話です。もし私がいなければ、もしここに(自己の)中心がなければ、そこに分離はありません。もし分離がないのなら、誰がそこにいるのですか、つまり、誰がエンライトメントするというのですか?

聞き手:ということは、私たちはありのままなのですね、

ボブ:あなたはあなたのままです。あなたはもうすでにあなたが探しているものなのです。あなたはずっとそうでした。自分は分離しているという考えがあなたの束縛です。あなたがその考えを調査すれば、それは単に思考であり、それは何の力も持っていないとわかるでしょう。「私」に何ができるでしょうか。もしここに自己の中心がなければ、今までも無かった。そして、人生におけるすべての活動は起こりました。私の人生で起こったことは私の個人的な意思で起こったわけではありません。それは偶然に起こりました。私はアルコール中毒になろうとしてなったわけではありません。私は精神世界の探求者になろうとしてなったわけでもありません。それはそんなふうに起こり、私をさまざま出来事へと連れていったのです。私が今いるところに話を戻しますが、実際には何が起こったのでしょうか? 概念、経験、呼びたければ何と呼んでもいいのですが、それは見せかけのことであり、私の本質は何も変わっていません。誰も何も変化しません。私が言ったように、腕輪であろうとブレスレットであろうとイアリングであろうと、それは依然として金なのです。それがどんなふうに見えようと。

聞き手:現実的な事に戻りましょう。これはあなたがニサルガダッタに会った1976年に起きました。私たちは今、1996年にいます。えっと、1998年にいます。その22年間に何が起きましたか?

ボブ:インドから帰ったのは1977年の初めだと思いますが、このことを話したいと思っていて、そして話し始めました。それ以来話し続けています。

聞き手:あなたは、それについて話すとおっしゃる時、あなたが、それとも人々があなたを見つけるのですか、そして人々が質問するのですか? それともあなたが私にしたのと同じ話をするのですか?

ボブ:ええそうです。

聞き手:人々はどんな質問をするのですか?

ボブ:私は様々な異なることから始めます。ドラッグやアルコールの問題を抱える人がやって来ます。

聞き手:それが一つの視点ですね。別の視点は探求している人々ですね。

ボブ:ええ、探求している人は、自分が分離しているという思考を抱えて常にやって来ます。それを抱えてすべての人がやって来ます。そして彼らにこう指摘します。分離などというものはありません。どんな分離もありません。それは現れにすぎません。調査してそれを彼ら自身で見ることによって。ええ、見ることはとてもシンプルです。そこに分離というものがあるというのはあなたが抱いているイメージにすぎません。あなたは自身を空気と分離することはできません。あなたは自身を地球と分離することはできません。

聞き手:ボブ、現実の話をします。ローマ法王は、反宗教者たちのことについて人々に向けて手紙を書いたばかりです。その中でこう言っています。(手元の文書を読みながら)「ニューエイジの考え方や東洋の哲学はとても悪い。なぜならそれは人々が神と等しいと感じさせてしまうからです。そして我々教会としてはむしろ教義に基づく保護者的な考えを信じてもらいたい。私たちは何が真実か告げるので、あなたたちはそれに従わなければなりません。すべてのニューエイジ思考、(ええ、実際にはオールドエイジの思考だと私は認めますが)東洋の思想は良くありません」。あなたは西洋と東洋両方を旅しました。どうしてローマ法王はこんなことを言うのでしょうか?

ボブ:もし彼が神は全能、全知、偏在であると理解するなら、変えようとしている彼は誰なのですか? 彼は何を変えようとしているのですか?

聞き手:でもあなたがインドを旅した時、このメッセージはヒンズーの人々や仏教徒の人たちにとってはより理解しやすいものでしたか?

ボブ:いいえ、彼らが立ち止まって自分自身を調べ始めないかぎり簡単ではありません。私たちは外を見るように条件付けられています。そして答えは決して外にはありません。それは単に向きを変えて、自分が信じているものが何なのかを調べるということです。これが私の条件付け、これが社会の条件付けと。最初に家族、そして部族、国家と調べます。国家は不安感、分離の感覚のために戦争を起こします。でも立ち止まって調べてください。虚偽は調査に耐えません。いったんあなたが調べて見始めると、そこには私たちが自分だと思っているイメージがあり、それは何の力も持っていません。火の中の鉄の例え話があります。ひとかたまりの鉄を火の中に入れると、それは火のように赤くなります。それは火のように熱くなってあなたが掴むと火のようにやけどします。でもそれを火の外に出すと、それに何ができるしょうか? この「私」という思考に何ができるでしょうか? あなたはそれが見ることも意識することもできないことを知っています。「私」に何ができるでしょうか?

聞き手:それは戦争を起こしました。それは貧富の差をもたらしました。

ボブ:そう信じられているだけです。それは調査されていません。もし調査されれば、それには何の力もありません。

聞き手:でもボブ、人々は言います。私たち二人はここアムステルダムの西に座っていて、今朝朝食を食べました。適度に暖かいし、私たちは世界の中でも比較的裕福です。でももし私がインドにいて、とても貧しい男で、何も食べてなくて飢えていたら、私は言うでしょう。「マスターボブ、あなたの言うことはわかるが私はお腹が空いています」。そしたらどうしますか? あなたのメッセージによれば、「ああ、お腹は空いている。でもそれは思考にすぎない」と言うべきですか? 思考は現実ではありません。現実は空っぽのお腹です。世界の現実の問題にはどう対処したらよいのでしょうか?

ボブ:でもそれは現実に起こっていることです。私がこれを理解する時、すべては見せかけです。実際には何が起こっていますか? それでも私は本質からは離れていません。もしそれが起きるなら、起きるのです。なんと説明したらいいでしょうか・・・。

聞き手:でも現実にあなたはインドを旅しました。そこにはとても貧しい人々がいます。そのことについてはどうでしたか? あなたは彼らにお金をあげましたか?

ボブ:もし私がお金を持っていて、彼らにあげる気が起きればあげるでしょう。もし持っていなければあげません。何がやってこようと、自然の機能が何をここに運んでこようと、それは起きます。

聞き手:それは現実的なことですね。例えばそれが私の人生の中で私に起こったら、もし私が貧しい人に会ったら、私は彼らを助けるでしょう。私たちはそれほどはっきりと自分たちの外のことを考えてはいません。例えば、もしインドに行って人々に会ったらお金をあげるかとか、テレビでアフリカの貧しい人びとを見てお金をあげたことがあるかとか。それはマインドのゲームだということには同意します。でも実際の状況では私たちと、私たちが毎日会う人では違いがあります。あなたはそれが真実ではない、違いはないと言いうのですか?

ボブ:私は、違いはないと言います。それでもすべては現れです。それでもそれは一つの実在で、それは決してそれ以外ではありませんでした。見せかけはそう見えているだけです。

聞き手:でもどうしたらいいか教えてください。もし私がお金を持っていても、物乞いの前を通り過ぎるべきでしょうか?

ボブ:あなたは物乞いの前を通り過ぎたいのですか? それとも通り過ぎたくないのですか? ある時は通り過ぎたいと思い、また別の時は通り過ぎたくないと思う。何があなたを私にインタビューする気にさせたのですか? あなたは私のことを知らなかったし会ったこともなかった。

聞き手:それは起こりました。私が選択したのではないと言うことはできると思います。なぜなら、それは起こり、私は人生で起こったことを良かれ悪しかれ喜んで受け入れます。

ボブ:それを人々がやることに適用できると思いませんか? 金持ちであろうと貧しかろうと。私もあなたと同じように選択権があると思っていました。そして私は、「私」には選択権がないと知っています。それは起こっています。

聞き手:話を元に戻すと、あなたの言うのは、人生を自分で変えられるという考えを求めること、霊的な師を探してエンライトメントを得るということは幻想ということですか? 私たちは仕事に精を出し、必要なことをすべきなのですか?

ボブ:ええ、あなたは仕事をして、何であれ必要なことをします。でも、あなたに選択権はありますか? いいえ。もしあなたが探求者なら、そういうところへ行くのもいいでしょう。私たち、いわゆる人間は、「私」がとても重要だと思っています。でも、何千人という人々が、蚊が原因の病気やネズミが原因の疫病などで、あちこちで亡くなっています。私たちはそれに注意を払いますか? すべてのことは私たちが自分に対して抱いている自己の中心のイメージに帰結します。それが基準点となり、すべては基準点に関連しています。でもその基準点は真実ではありません。なぜならそれはまだ、意識(consciousness or awareness)の内側にあるからです。あなたが物事を判断しようとすれば、真実の基準点から見る必要があり、そうするためには意識の外に出なければなりません。でもそれは不可能です。そんなに前ではないのですが、太陽に関するビデオがありました。それは拡大鏡を建設した時のビデオで・・・。

聞き手:望遠鏡?

ボブ:ええ。望遠鏡は宇宙のはるかかなたに到達して地球が小さな点に見えるまで倍率を上げました。そこにはよく知られた太陽系の姿はありませんでした。そして、私は、ここオランダのどこかで裏庭に出て、コップ一杯の水を汲みました。その中にはあらゆる種類の生命がいました。その小さな微生物たちには人間の70年、80年という一生を想像することはできません。外の世界、例えば240億光年のはるかかなたに行って、振り返ってみれば、それはほんの一瞬のことかもしれません。それはちょうど人間が昆虫の一週間を理解できないようなものです。すべての物事は基準点に関連していて、どこに基準点があってもそれは真実ではありません。世界の矛盾を見る時も、それは言葉に基づいたイメージにすぎません。そして言葉は決して現実ではありません。私は「水、水」と残りの一生で言い続けることはできますが、それで喉の渇きをいやすことはできません。「火、火」と言っても口をやけどしません。私が「私」という時、それは何のことを言っているのでしょうか? 私は自分自身のイメージを持っています。それは言葉です。昔のことわざに「棒や石は骨を砕くかもしれないが、言葉は少しも私を傷つけない」というのがあります。もし誰かが私を侮辱したとします。そうしたら私はどうするでしょうか? 私は何週間も何週間もその言葉のことを考えて、それが怒りとなります。それはどんどん大きくなって動き始めます。私は言葉に支配され、たたきのめされます。でももし私が殴られて傷や打撲を負っても、もっと早く治っているでしょう。

聞き手:それは現れに私たちの人生を支配することを許すことになる。今日はボブ・アダムソンから学ぶことができました。現れはそのように見える。「私」という私たちが思っている内側の存在は想像、投影であり、ありのままの私ではありません。それは思慮深いメッセージです。サンキュー、ボブ。

ボブ:サンキュウ。

(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)

2019/02/10

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑰

Live spontaneously・起こるに任せて自然に生きる

セイラーボブは、私たちの意識をスクリーンに、そしてそのスクリーンに映し出される映像を世界に例え、何も起こっていない、映画が終わればすべては消える、起こっていることに意味などない、と言います。
また、セイラーボブの教えや、アドヴァイタの教えでは、物事は起こってくるものであり、私たちに選択権や決定権はない、私もあなたも実在ではなく、物事は自然に起こっているにすぎない、と説きます。これを聞いて多くの人が、同じような反応を示します。
 
・何も起こっていないなら、好き勝手に何をしてもいいという考えにならないか。
・自分たちの意思にかかわりなく物事が起こってくるなら、生きている意味がないではないか。そんなことを言われると、何もする気にならず、厭世的になる。
・アドヴァイタの教えは人の命や人生を粗末に扱うことにならないか。
・何も起こっておらず、決定権もないのなら、困っている人を助けたり、世の中を良くしたりしようとする努力は無駄なことなのか。

ある時ミーティングで、体の不自由な子供たちのいる施設で働く女性が、言いました。
「私はあの子供たちを見ていると、かわいそうで、とても何も起こっていないなんて思えない」
そしたらボブは、
「あなたが同情するのは自然なことだよ。そういう子供たちを助けようと思えば手を差し伸べればいい」という内容のことを言いました。

そんな時セイラーボブはいつも、何も起こっていないのだからと知らないふりをするのではなく、起こるに任せて自然に行動すればいいと言います。
野生動物には意識はあるでしょうが、マインドはない。でもマインドがなくても、例えばトラの母親は外敵が現れれば、外敵から子供を守ろうとする。鳥だって、自然に巣作りをして子育てをする。

どうせ何も起こってないのだから、子供を守らないということは起きない。自分たちに決定権はないから、子供にエサを与えないというふうにはならない。本能が自然に働くようになっている。

ライオンのオスは自分のテリトリーに別のオスが入ってくれば、全力で追い払う。野生の猿は人から食べ物を奪う。こうしたことは、彼らのマインドから起こる行動ではなく、自然の本能です。彼らには「私」というマインドがない。人間だけが「私」を持っていて、その「私」はもっと何か持っていれば幸せになれると思っている。

努力して幸せになりたい。困っている人を助けたい。より良い社会や未来を作りたい。それは人間の持って生まれた自然な本能だと思います。

例えばあなたの友人や愛する人が苦境にある時に、セイラーボブの教えを説いたり、「私たちはいない」とか、「世界は幻だ」と説いたりするのが役に立つかというと、まったく役に立つたないばかりか返ってその人を苦しめることになります。
そんな時は、そっと寄り添って、話を聞いてあげる方が、よっぽどその人の助けになる。内発的で自然な行動に任せておけば、自然と行動は起きてきます。

私たちの生きる映画の結末はもう決まっているのだから、努力などしても無駄というのも違うと思います。努力することが自発的に自然に起こってくる。それは人間の本能のようなもの。セイラーボブの教えは運命論ではないし、結果も決まっていません。

何か悪い事が起きると、(結果は決まっていた)と思うかもしれません。でも、何か良い事が起こった時はどうですか? それも(結果は決まっていた)のですか? あるのは、今ここにある意識だけです。何も決まっていないし、次の瞬間に何が起きるかは誰にも予測できないことです。

どうせ何も変わらないのだからとネガティブを引き起こすのはマインドであり、「私」です。自分自身を「私」という個人に限定しなければ、どんな可能性だってあると思います。今この瞬間には未来のことは未定であって、結果は決して同じではなく、努力次第で未来は変わると思います。厳密なことを言えば、未来などというものは無く、今しかないのですから、未来が変わるという表現は適切ではないでしょうけど。

私たちが生きている現実が夢だったしても、それが夢であると理解した上で、良い夢を見て、努力するのは悪いことではないし、それによって夢の内容は変わってくると思います。顕現の世界には無限の可能性がある。ただ一つ覚えておかなければいけないのは、それは顕現であり、実在ではないということ。それをわかっていて顕現の世界を楽しむのは何も悪いことではありません。

人を助けることも、結果はどうあれ、手を差し伸べたいという気持ちが自然に起こってくるなら、手を差し伸べればいい。あなたも私も実在しないのだから、と言って知らんぷりするのが自然な人なんていないと思います。

アドヴァイタの教えは、私たちに選択権はないのだから努力しても無駄であるというような厭世的な教えではなく、起こってくる出来事にあまりシリアスに巻き込まれないで距離を置いて見ることを教えているのだと思います。

ボブが知性エネルギーと呼ぶのは、そこに何らかの知性があるから。という事は、その知性エネルギーに起こるに任せて自然な行動をとれば、厭世的になったり、ネガティブになったりすることもないと思います。投げやりになったりネガティブなったりするのは「私」です。その「私」はマインドがでっちあげた架空のものです。

私たちは海の一つの波のようなもので、死んだら海に帰るだけで、また次に同じ波として現れることはない。来世も次の一生もない。あるのはこの瞬間だけ。私はアドヴァイタの教えを学んで、命や人生を粗末に考えるどころか、だからこそ逆にこの命が大切なものであり、人生を大切に生きていかなければならないと思うようになりました。

あなたはあなたが世界と呼ぶものの夢を見ているということを理解して、出口を探すのをやめなさい。夢があなたにとって問題なのではない。問題はあなたが夢のある部分が好きで、ある部分が嫌いだということだ。全体を好きになるか全部を嫌うかして、不平を言うのをやめなさい。あなたがその夢を夢だと理解する時、あなたのすべきことは終わる」
                               Sri Nisargadatta Maharaj


「自らの自然な状態を思い出してください。基準点(自己の中心)を持たず、いかなる実体も独立した存在形式も持たない、純粋で、偏在、空間のような、現われ続ける、自然な今ここにある意識を。自然な状態(顕現と空、空間と内容物の統一体)を思い出さなければ、錯覚が起き、見せかけへの執拗な固着、私と他者、うわべの二元性、が起きます。固着がなければそこには自然な状態としての自由があり、錯覚は消え均等性(非二元)が残ります。それは自然な状態であり、それがあるだけで、他には何もありません。自然さ(平静)として自然に残るのは、誰にも何に対しても瞑想することのない自然な(努力の要らない)瞑想です。何かを得ようとしたり避けようとしたりすることのない、今までもずっとそうであった努力の必要のない実在。それを何度も何度も繰り返し思い出してください」
                              Sailor Bob Adamson


2019/02/08

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑯

presence awareness・今ここにある意識

presence awareness は、「存在意識」「臨在意識」と訳すのが正確なのかもしれません。また、自分が存在するという感覚という意味で使われる場合もあります。でも私は存在意識、臨在意識と訳すとわかりづらくなるので、「今ここにある意識」という訳にしています。
要するに、私たちの日常の普通の意識のことで、アウエアネス、知性エネルギーのことです。

セイラーボブの教えを理解する時に、あれこれと難しく考えないで、この presence awareness (今ここにある意識) を理解することに焦点を合わせると理解しやすいと思います。
例えば「時間はない」ということについていうと、今この瞬間の (今ここにある意識) の中に昨日はありますか? 記憶としての昨日はあります。でも、それは単なる記憶なのであって、実際の昨日ではありません。また明日はどうですか? それも、 (今ここにある意識) の中では、想像することはできても、実際の明日はありません。

いや、昨日はあったとあなたは言うかもしれません。でも本当にあったのですか? 一年前の昨日、あなたは何をしていましたか? それは本当にありましたか? 過去は記憶となった瞬間に脚色され、いくら正確に覚えていても実際とは異なります。本当にそれがあったかどうかは、わからないのではないですか?

エジプトのピラミッドはどうですか? 写真で見たピラミッドや、昔旅行で行って見たピラミッドが (今ここにある意識) の中にあるのですが、それは実物ではありません。では実際に今この瞬間にピラミッドが存在するかと聞かれても、在るとも無いとも言えないのではないですか?

いや、ピラミッドはある、という時、それはマインドの中の記憶から引っ張り出してきて、おそらく今もあるだろうと推測しているにすぎません。たった数秒前に、テロリストが爆破してしまったかもしれません。

では、「私」は (今ここにある意識) の中にいますか? それはもう調査済みで、「私はいる・I am」という感覚があるだけで、体もマインドも実在ではありません。 (今ここにある意識) の中には、運動をした時や痛みがある時など以外は、体があるという感覚さえありません。

目の前に広がる視界の中の物はどうですか? 机、椅子、壁、それは実在ですか? 実在の定義は「変化しないもの」です。机や椅子や壁は、時間の経過とともに形を変えていきます。また、それが机、椅子だということは、後天的に学んだことであり、その記憶があなたのマインドの中に蓄えられていて、その記憶と照合して初めて認識できるものであり、もしその記憶がなかったら、それは何ですか? もっと言うなら、その物に焦点を合わせることも後天的に学んだことなので、もし焦点を合わせる記憶を無くせば、そこには何も見えません。

もしあなたが、今この瞬間に生まれたばかりで、すべてを学ぶ前の状態なら、そこにあるのは光と色彩はあるかもしれませんが、何があるかわからいないはずです。 (今ここにある意識) の中で、椅子や机はあるように見えますが、実在ではありません。

 (今ここにある意識) だけが実在です。それはあなたが幼かった時も大人になってからも、そして今この瞬間にも変化せずにある。あなたがピラミッドを見た時も、部屋の机を見た時も変わらずあった。そして肉体の死の瞬間も、死んでからもある。

 (今ここにある意識) の中にすべてがあります。
(何かになる)ことや何かを体験することではなく、 (今ここにある意識) がすべてです。答えはいつも (今ここにある意識) の中にあります。
例えばあなたはセイラーボブの教えを学んで、何か困った時にボブが何と言っていたかを思い出して、行動の指針にしょうと思うかもしれません。

でもそれは役に立ちません。それはもう記憶の中で概念化されたものであり、死んだものです。マインドの中にある概念に頼らず、 (今ここにある意識) に留まれば、答えは自然にやってきます。

私たちは、何か困ったことが起きると、ありもしない未来に向けてマインドの中であれこれと対策を立てたり、想定問答を繰り返したりします。でも答えはすべて (今ここにある意識) の中にあります。
いくら心配しても、未来は未確定です。一秒後に大地震が起きるかもしれなし、心臓麻痺で死ぬかもしれない。計画や予定を立てることは大切ですが、心配や不安は要りません。

あなたはセミナー、教室、リトリートで多くを学ぶかもしれません。このブログでセイラーボブの教えを学ぶでしょう。それは物事を理解するためには役に立つかもしれません。でも理解した瞬間から記憶となって概念化が起こります。そしてそれはもう死んだものとなります。あなたが頼るべきものは概念化した死んだ知識ではなく、 (今ここにある意識) だけです。そこにすべての答えがあります。

それはグルの臨在のもとで瞑想して手に入れるものではなく、普通の日常にある (今ここにある意識) です。
 (今ここにある意識) を手に入れるために、訓練も練習も瞑想も必要ありません。
訓練や瞑想で、 (今ここにある意識) を高めたり、強化したりすることはできない一方で、失うこともありません。
覚醒体験が起きようが去っていこうが、 (今ここにある意識) はその前も後も変わらずにあります。
 (今ここにある意識) を人に渡したり譲り受けたりすることはできません。
至福も豊さも答えも、あなたが求めるものはすべて (今ここにある意識) の中にあります。
 (今ここにある意識) があなたであり、世界であり、それがすべてです。

真理や真実は蓄えたり、蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできない。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。昨日理解したことは少しも役に立ちません。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)、すなわち、知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません」
                             – Sailor Bob Adamson

2019/02/06

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑮

「知的に」を取ってください

2015年春、最初のセイラーボブのミーティングから帰った時点で、私はセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。でも日にちがたつにつれて、その理解では十分ではないと思うようになりました。

心のどこかで、ボブの教えを理解したら、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。それでまた2016年にミーティングに行って、そんなものはないと納得したつもりで帰ったのに、帰ったらまた何か体験を探している自分がいました。

私はセイラーボブに、その理解とはどういう理解なのかを聞きました。でもそのたびにボブは「普通の理解です」というだけでした。何かが起きるのかと聞いても、「普通に理解するだけです」と言うばかりでした。私はボブの言う「普通の理解」という言葉をそのまま受け取ることをせず何かが起きるのではないかとずっと思っていました。

セイラーボブの教えを理解しても、何か特別な体験をするということはありません。エンライトメントや恍惚感や至福の体験が起きるわけではありません。特別な理解の体験も何も起きません。起きたとすれば、それはマインドが作り出したトリップです。

セイラーボブの教えの理解には、知的な理解以上の理解はありません。
セイラーボブは何度も何度も、
The answer is not in the mind. (答えはマインドの中にはありません)
と言っています。

その意味は、考えてもわからないということです。そこで人々は勘違いをします。考えてもわからないのだから、きっとエンライトメント(覚醒)が起きるのではないか、何か特別な理解の体験が起きるのではないかと。

エンライトメント(覚醒)も、特別な体験も起きません。何も起きません。知的な理解以上のものはありません。
「私は知的には理解しました。でも、」と言うと、セイラーボブは決まって、「(知的に)を取ってください」「(でも、)を取ってください」と言います。
また、「あなたは 2+2=4 を知的に理解しましたとは言わないでしょう? (知的に)を取ってください」と言います。

私は、この「知的に」を取るのに4年近くかかりました。そして多くの人がこの「知的に」を取ることができずにいます。なぜこの「知的に」が取れないかというと、理由は二つあります。一つ目は、多くの人が、理解した瞬間に何か体験が起きるはずだという根深い先入観(もしくは条件付け)を持っていること。二つ目は、「自分は実在しない」や「万物は一つの物」「そこには何もない」ということに実感や確信が持てないからです。

セイラーボブや非二元の教えにたどり着く多くの人は、様々な教えやグルをあちこち探求した果てにやってきます。ボブの居間にやって来るのは筋金入りのスピリチュアルオタクばかりで、彼らのスピリチュアルの知識には驚くばかりです。日本人のスピリチュアルオタクは英語という壁があるので、それほど幅広い情報を持っているわけではなく、翻訳したものに限られます。でも英語ネイティブの人たちは世界中の師から直接情報を収集できるために情報量が違います。私が持っているセイラーボブ関連の英語版の本は全部で11冊あります。彼らは好きなだけYouTubeでボブのミーティングを見ることができるし、また直接会いに行くことも自由にやっています。

今でこそ「非二元」の本は書店にたくさん並んでいますが、それはごく最近の話で、いわゆる「チャネルリング」や「引き寄せ」のブームのあとからだと思います。「チャネルリング」「引き寄せ」の前に書棚を占めていたのは「覚醒・瞑想」でした。

多くの人がこの「覚醒・瞑想」の影響を受けたまま、セイラーボブの世界にやってきます。そして、いくらセイラーボブが、「答えはマインドの中にはありません」「(知的に)を取ってください」と言っても、それができないのです。そして「エンライトメント」という言葉を「理解する体験」「実感」に置き換えて、また同じ轍(わだち)にはまるのです。

そして多くの人がまた別の師を探す旅に出ます。また「汝それなり」と言われる日まで。私は最初に「ただそれだけ」の中で、「汝それなり」と言われてもまた別のグルを探して12年間修行する人の話を呼んだ時、(馬鹿な人だな)と思ってのですが、自分のやっていることがその人と同じだということに、4年間気づきませんでした。

セイラーボブの教えには知的な理解以上の理解はありません。理解しても何も起きません。特別な体験も起きません。理解しても、以前と同じように、木を伐り薪を割る生活が変わらずに続くだけです。

私を含め多くの人は「覚醒・瞑想」本をたくさん読んでいる影響で、自分にも同じことが起きなくてはいけないと思っています。あっちのグル、こっちの師の覚醒体験、至福体験をたくさん読んで、それが起きるはずだと思い込んでいます。そうしているうちに、マインドがそれをでっちあげます。そしてその体験があなたに起きます。私にも起きました。でも、セイラーボブの教えているのは、そんな一時的な体験のことではありません。セイラーボブの教えているのは、そういった体験とは全く関係のないことです。

セイラーボブの教えているのは、「今ここにある意識」のことです。それは獲得したり、体験したり、わざわざ理解したりするものではなく、ずっとあるものです。セイラーボブは、理解は「する」ものではなく、「ある」ものだという言い方をする時もあります。

いくらそう言われても、マインドは探し続けます。「でも実感がない」「でも確信が持てない」と。
あなたが、それを実感、確信できるような体験は何も起きません。あなたの体とマインドがあるかぎり、基準点が完全に消えることはありません。あなたの体とマインドがあるかぎり、「私は実在しない」「世界は幻影である」「時間は存在しない」ということを実際に体験することはありません。非二元の世界を垣間見ることもありません。死後の世界と同じで、誰も非二元の世界を見たことがある人はいません。だからポインターで指し示すしかないのです。

セイラーボブが、「私は実在しない」「世界は幻影である」「時間は存在しない」ということを、科学的に説明したり、明確な証拠を示したりしたことを、私は聞いたことも読んだこともありません。すべてはポインターであり、月を指し示す指であって、月そのものではありません。

あなたが「知的に」や「でも」を取れば、何の理由もなく確信が持てる時期が自然とやってきます。それは、無理やり自分を納得させたり、盲目的に信じ込んだりすることとは違います。信じるのではなく、確信であり、理解です。私の場合はそうなるのに4年かかりました。

英語という壁はあったのですが、セイラーボブの言っていることの内容そのものはごく初期の段階で理解していましたから、日本語で聞いたとしても、確信、理解が起きるには一定の年月がかかったのではないかと思います。そしてそれを手に入れる唯一の方法は自分で調べること。何度も何度もセイラーボブの本を読んで、自分で調べることです。

本当に理解、確信したかどうかは、その理解、確信が日々の出来事の中で揺らがないかどうかでわかります。実感が持てなかったり、疑問があったり、矛盾を感じたりする場合は理解が十分ではありません。その場合はあきらめないで、機が熟すのを待つしかありません。忘れてはいけないことは、理解している人と理解してない人には、何の違いもないということです。私たちはもともとそれなのですから。

“Liberation is not an acquisition but a matter of courage, the courage to believe that you are free already and to act on it.” - Nisargadatta Maharaj

(解放とは獲得するものではなく、勇気である。あなたはもうすでに自由であると信じる勇気、そしてそれもとづいて行動する勇気のことである。ニサルガダッタ・マハラジ)

Full Stop!