2026/03/05

マドモアゼル・愛さんのYouTubeから

十年以上前、営業の仕事をしていて、車を運転しながらCBCラジオの「テレフォン人生相談」をよく聞いていました。加藤諦三さんが司会をされている番組です。その中の回答者の一人にマドモアゼル・愛さんという方がみえて、私はその方の回答を聞くたびに深く感銘を受けていました。

今もそうですが、マドモアゼル・愛さんの素性は全く知りません。どうして女性のような名前を名乗っているのだろう、でも良いアドバイスをされる方だなと思っていました。最近YouTubeを見ていたら、マドモアゼル・愛さんの動画が出てきてYouTubeをやってみえると知り、時々見ることがあります。

最近見た中で、すごく感銘を受けたものがあったので掲載しておきます。

マドモアゼル・愛 良くなろうとしない

マドモアゼル・愛 幸福になる一番簡単な方法
 

この二つの動画は前回まで書いてきたルパート・スパイラに関連して載せているのですが、「人生の目的は幸福になること」という考え方自体が不幸を作り出しているような気がします。マドモアゼル・愛さんが言われる、「良くなろうとすること自体が現在の自分を否定していて、ますます悪い方にいく」という趣旨の発言に大いに賛同します。幸せも同じで、幸福を求めて、もがけばもがくほど不幸になるような気がします。

それにしても、一本目の動画の中で森田正馬先生の話が出てきたのには驚きました。神経症も同じで治そうともがけばもがくほど悪化する。Wikipediaで調べたところ、マドモアゼル・愛さんも若い頃ノイローゼで悩んだということでした。私は森田正馬先生の「あるがままを生きる」という生き方が好きです。あるがままを生きて、今幸福でいようと決めることこそが大切なのではないでしょうか。私たちが求める幸福はいつも未来にあるのですが、私たちは今しか生きられません。過度に幸福を求めることが不幸を生み出している気がします。

アシュターヴァクラ・ギーターの中の「幸福でありなさい!」という言葉を思い出します。あるがままで幸福でいることは可能だと思います。ひょっとするとルパート・スパイラも、そういう意味で人生の目的は幸福になることと言っているのかもしれません。それなら大賛成です。

2026/03/03

直観的な理解

ルパート・スパイラは良い教師だと思います。説き方は多少違いますが、セイラーボブと同じことを教えています。彼の説明はセイラーボブよりも緻密で論理的です。意識の局在化のモデル、個人の意識が半分で残りの半分は神の意識で世界が成り立っているという世界観などは多くの人にとってはとてもわかりやすいものです。でも、突き詰めて考えると、それを立証できるような科学的証拠は何もありません。

どんなに緻密で論理的な説明をしても、結局それはマインドを納得させるための道具であり、いくらやってもマインドを理屈で納得させることはできません。マインドは新たな「なぜ」や「でも」を連れて戻ってきます。

非二元の理解は、結局のところ直観的な理解だと思います。非二元を学んでいくうちに、ある時点で直観的な理解が起こります。エンライトメントでも一瞥体験でもなく、直観的な理解です。別の世界を見るとか意識がシフトするということではなく、ああ、これは真実だと思える瞬間。すべての疑いが消える瞬間。それは人それぞれに起こり方が違うのだと思います。

ルパート・スパイラの動画をたくさん見ているうちに次第にある種の違和感を覚えるようになりました。意識の局在化のモデル、個人の意識が半分で残り半分は神の意識で世界が成り立っているという世界観は、よくできた説明です。でも、一つのモデルや世界観で説明できるようなことだろうかと思うようになりました。

もともと非二元の世界は言葉では説明できない世界をいろんな教師がいろんな説明の仕方をします。それはそれでいいのですが、ルパートのように緻密に説明することが果たして良いのだろうかと思うようになりました。個人的にはセイラーボブのような、ある意味おおざっぱな説明で後は個人の理解に任せる方が理解しやすいような気がします。

そしてもう一点。ルパート・スパイラは「幸福」を強調しすぎるような気がします。幸福と感じるかどうかはマインドの問題であり、非二元の探求の目的とイコールではないような気がします。このあたりをうまく説明できないのですが、非二元を理解しても例えば病気やお金の問題などは起こってきます。いくら非二元を理解しても、避けられない不幸は起こってきます。幸福だけの人生を送ることができないのはあたりまえのことです。

人生には幸福な時もあれば不幸な時もあります。別の言い方をするなら、不幸な時があるから幸福な時がある。それはセイラーボブがいつも言うように一対のペアになっていて、良い時だけを取ることはできないと思います。そして幸福も不幸もマインドの産物です。セイラーボブの教える非二元は、そうした幸福や不幸の背後にいつもあるもののことを教えています。

非二元の教えを説く場合、非二元の説明とは別にそれぞれの教師の持つ人生観が説明に反映されます。その人生観とは、その人が生きた環境、時代、学んだことを反映しています。それは非二元の説明とは別のものだと思います。ルパートのように神という言葉を使う人もいれば、セイラーボブのようにエネルギーという言葉を使う人もいます。

それに対して違和感を覚える人もいれば、同調できる人もいると思います。好みや相性の問題と言っていいかもしれません。アル中で苦しんで探求の道に入ったセイラーボブと陶芸家として成功するかたわらで探求を続けたルパートでは当然異なる人生観を持っています。私はセイラーボブの持つ人生観が好きです。そしてその教えは、幸せになることをあまり過度に強調しておらず、ただ単に精神的な苦悩や束縛からの解放だけを強調しているように思います。

今年はセイラーボブ以外の非二元の教師のYouTubeをたくさん掲載しようと思っていましたが、やめることにしました。おそらく、それぞれの教師がそれぞれ違ったモデルや世界観を使い、それぞれの人生観を反映した説明をするでしょう。もともと言葉では説明できない世界のことを説明しているのでそうならざるをえません。一人一人それぞれの教師の教えに深く入って行けば行くほど、その説明は多様なものにならざるをえません。

そうした理由から、セイラーボブ以外の教師の教えを細かく検討しても、あまり意味がないと思うようになりました。いくら様々な教師の説明を学んでも、結局それはマインドを納得させるためのものであり、いわばマインドのえさでしかありません。大切なのは直観的な理解なのだと思います。そしてもともとこのブログはセイラーボブの教えを伝えるためのものであり、他の教師をたくさん取り上げても、かえってセイラーボブの教えを不鮮明にするのではないかと思うようになりました。

2026/03/01

一瞥体験についてもう一度

私はそれほど日本の方によって書かれた非二元の本やブログを読んでいるわけではないのですが、どんなことを言っているんだろうと思って立ち読みしたりネット上で人のブログを読んだりすることはあります。そして思うのですが、日本での非二元の教えの広がり方は欧米と少し違うのではないかという気がします。

日本で非二元を教えてみえる方もたくさんみえるのですが、その多くが一瞥体験から始まります。「私は一瞥体験した」「あれは一瞥体験だったに違いない」「私はそこにいなかった」「とても幸せな状態が続いた」などなど。そして、そのあと「あなたはいない」「私はいない」というフレーズが続き、非二元にまつわるよもやま話が語られます。

でも肝心の非二元の教えや非二元論について語られることはなく、「とにかく私の個人セッションを受けてみてください」となります。そして個人セッションを受けた人たちの「とっても良かった」「悩みがなくなった」という感想が続きます。非二元を教えてもらったのではく、悩み事を聞いてもらっただけではないかという感想ばかり。

非二元とかノンデュアリティという言葉はもともと日本にあった言葉ではなく、欧米から輸入されたものです。そうであるならば、少なくともそれを有料で教える人はその教えを誰から、あるいは何から学んだかを明示すべきです。そして、何を教えているかも説明すべきです。でも、その二つをちゃんと説明している人はほとんどいないように思います。

これではまるで、どこから仕入れたかわからない怪しげなものを中身も見せないでパッケージだけ見せて売っているようなものです。しかもそれが結構高額なのには驚きます。

非二元の教えは、突然起こるエンライトメントや一瞥体験のことを教えているのではありません。非二元の教えは師から生徒へと脈々と教え伝えられてきた教えです。セイラーボブの師はニサルガダッタ・マハラジで、ニサルガダッタ・マハラジの師はシッダラメシュヴァール・マハラジです。ルパート・スパイラの師はフランシス・ルシールで、その師はジャン・クラインです。そうやって師から生徒へと教え伝えられてきたものです。

非二元の教師として有料で人に非二元を教えるなら、ちゃんとした海外の師について学び、自分の師は誰であるのか明示すべきです。私がこのブログに登場させた海外の教師たちの多くはそうしています。そうすることでその人が教えていることの信頼性が担保されます。また、彼らは教えの内容を本やYouTubeで一般に公開しています。その上で熱意と情熱をもって人に教えていて、無料もしくはそれほど高額のお金を取りません。ニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールは無料で教えていたと聞きました。

非二元そのものは私のサイトでも学ぶことができます。でも、非二元の教師となって人に教えるとなると話は違います。ちゃんとした師について深く学び、その師が実際にどう生きているのかを目の当たりにしなくてはいけません。

百歩譲って、日本で誰か海外の教師の本を読んで非二元を学んだというのもありです。その場合には具体的にその本を明示すべきです。そうすれば生徒はその本を読んだうえで疑問点を聞くことができます。

海外の非二元の教師たちは自らの一瞥体験を語る人はほとんどいないように思います。まれには語る人もいますが、それはあくまでも理解の瞬間のことを言っているにすぎません。またセイラーボブのミーティングの参加者で一瞥体験を語る人はいませんでした。

これは私の勝手な想像ですが、日本で非二元の教えが広まる初期の段階で、誰か一足先に非二元の教師となった人が一瞥体験について語り、それを多くの人が真似て日本独特の非二元の教えが広がっていったのではないかと思っています。というのも、海外の非二元の教師たちは様々な説き方をするのに、日本で非二元を教えている人はほとんどワンパターンで、判で押したかのように一瞥体験から始まり、あとは「私はいない」の繰り返しです。その背景として仏教の影響からくる悟り、覚醒を信じている土壌が日本にはあったからかもしれません。

でも最大の原因は、日本語で手に入る非二元の情報が圧倒的に少ないということです。私がセイラーボブの「ただそれだけ」を読んだのは2014年ですが、その時点では日本で非二元について翻訳出版されていた本はほとんどなかったのではないかと思います。もちろん古典的なアドヴァイタの本やラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ダグラス・ハーディングなどの本はありましたが、「非二元」という分類では語られておらず、「非二元」という言葉を使う現代の非二元の教師たち(いわゆるネオ・アドヴァイタやダイレクトパス)の本が続々と翻訳され始めたのはそれ以降のことではないでしょうか。

そうした本が次々と翻訳出版されても、多くの人は彼らを覚醒した人たちだと思っていて、古くからのエンライトメントを説く教師たちと同列に見なしていました。翻訳された本をいくら真剣に読んでも非二元の理解はおぼつきません。そうなると、誰か先に非二元を広めた人の言っていることを鵜呑みにしてコピーするため、それが広まることになります。一瞥体験をすることが非二元を理解することの通行手形のようになって広まっていますが、一瞥体験と非二元は何の関係もありません。非二元の教えは何かを体験することや何かになることではないのです。

日本語で入手できる非二元の情報は限られます。でも、もし英語で非二元の情報を入手しようと思えば圧倒的に多くの情報が手に入ります。英語で出版された非二元の本はたくさんあるし、ネット上にもたくさんの情報があります。例えばルパート・スパイラを例に出すと、日本語に翻訳されたルパート・スパイラの本は3冊(プレゼンス1巻・2巻、気づいていることに気づいている)しかありませんが、英語版なら30冊以上あり、YouTubeには1000本以上の動画があります。有料になりますが、ルパートのサイトにはそれ以上の動画があります。

プレゼンス1巻・2巻を読んでも、ルパートがYouTubeで何度も語っている意識の局在化や時間の不存在、物の不実在のような、彼の教えの核となるような記述は出てきません。私はブログに掲載する動画を選ぶためにかなりの量のルパートのYouTubeを見ました。「プレゼンス」も読みましたし、彼のサイトやネット上の情報も読みました。それでもよくわからなくてギルバートとカリヤニに質問しました。そこまでやっても、彼の教えを完全に理解しているわけではありません。

日本語の彼の本を読んだだけで彼の教えの全体を理解するなんて全く不可能です。そうなると、足りない部分はありきたりの情報を付け足して勝手に想像することになります。それではルパート・スパイラの教えを理解したことになりません。非二元の説き方は人それぞれで同じではないのです。勝手に想像するのは危険です。

セイラーボブの教えている非二元も、Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition)やWhat's Wrong With Right Now?(ギルバート・シュルツ編纂 講話集)などの英語本を読めばもっとよく理解できます。セイラーボブの教えを人に教えようと思うなら、ボブの英語版の本を読むことや、ミーティングのYouTubeを見ることは必須となります。

英語なら正しい情報も怪しい情報も入手することができて、怪しい情報は淘汰されていきます。日本語だけで非二元を完全に理解しようとしても無理です。誰か先に理解した人の説明を鵜呑みにするしかありません。この状況は今もそれほど変わっていなくて、日本語に翻訳された本の数は限られているし、日本語でネット上で非二元を検索しても、その大半が「私はいない」ばかり繰り返す怪しげなサイトしか出てきません。

以前は覚醒、エンライトメントを探していたので、スピリチュアル系のブログやサイトを見ていた時期もあります。でも、そうしたサイトの中に、いつしか「非二元」や「私はいない」という言葉が登場して、いつのまにか非二元を語っている人もいます。でも内容は全然非二元論になっていなくて、「あなたの運命は事前に決まっている」と運命論を語ってみたり、「あの世の話」までしたりする人もいます。

非二元の教えは決してすべてがうまくいくというような教えではないのに、生活が思いのまま自然に起こってくるようになるとか、いつも幸せでいられるといった、非二元の本質とは全然関係のないスピリチュアルの話が非二元の教えであるかのように広まっています。

こうした日本での非二元の伝わり方に違和感を持つのは私だけだろうかと思っていたのですが、ルパート・スパイラのことをあれこれ調べているうちに同じようなことを思っている人を見つけました。

2026/02/27

一瞥体験の質問 

私はカリヤニとギルバートにFacebook経由で同じ質問をしました。私のへなちょこ英語ではダメなので、ChatGPTに英訳してもらいました。

Dear Kalyani,

How are you? I’m writing today because there is something I would like to ask you.
I learned non-duality from Sailor Bob, and I believe I understand non-duality. I understand that what is commonly called “enlightenment”—the idea of suddenly being enveloped in light one day, falling into ecstasy, and then living forever wrapped in bliss—is a foolish fabrication. I think the teaching of non-duality is fundamentally a matter of understanding.

Recently in Japan, many people have begun teaching non-duality, and there are many non-dual teachers online. Most of them start by saying that they had a “glimpse experience” and experienced non-duality. These glimpse experiences vary widely: experiences of there being no “me,” states in which a causeless sense of happiness continues for a while, experiences of being enveloped in unstoppable love, and so on.

I believe that we never actually experience the non-dual reality itself. I also believe that we do not glimpse the non-dual reality. A glimpse experience is, after all, just an experience—something like a pseudo-experience—and not non-duality itself.

So my question is: how should we understand the glimpse experiences that people talk about? Is it possible for us to glimpse the non-dual reality?

Recently, I’ve been watching Rupert Spira’s YouTube videos. In one of them, a questioner talks about a glimpse experience, and Rupert responds as if that glimpse experience were the happiness people are seeking. Watching that video made me feel doubtful about glimpse experiences. If possible, I would appreciate it if you could share your thoughts.
Rupert’s YouTube video: What Is Liberation https://youtu.be/UOMrtaE5OX8

日本語の原文を保存しておかなかったので、英文をまたChatGPTで翻訳したものを載せておきます。

拝啓 カリヤニ様

お元気でいらっしゃいますか。今日は、ぜひお伺いしたいことがあり、ご連絡いたしました。

私はセーラーボブから非二元の教えを学び、自分では非二元を理解しているつもりです。一般に「悟り」と呼ばれている――ある日突然、光に包まれ、恍惚状態に入り、その後ずっと至福に包まれて生きるようになる、という考え――は、愚かな作り話だと思っています。非二元の教えは、本質的には「理解」の問題だと考えています。

最近日本では、非二元を教える人が増え、オンラインにも多くの非二元の教師がいます。その多くは、「一瞥体験(グリンプス体験)」をした、つまり非二元を体験したことがある、と語るところから話を始めます。しかし、その一瞥体験の内容は実にさまざまです。「私」が存在しないという体験、理由のない幸福感がしばらく続く状態、抑えきれない愛に包まれる体験、などです。

私は、私たちは非二元の実在そのものを実際に体験することはないと考えています。また、非二元の実在を「垣間見る(グリンプスする)」こともないと思っています。一瞥体験というのは、結局のところ単なる体験であり、いわば擬似的な体験のようなものであって、非二元そのものではないのではないでしょうか。

そこでお伺いしたいのですが、人々が語る一瞥体験は、どのように理解すればよいのでしょうか。私たちは非二元の実在を垣間見ることが本当に可能なのでしょうか。

最近、ルパート・スパイラのYouTube動画を見ています。その中の一本で、質問者が一瞥体験について話し、それに対してルパートが、まるでその一瞥体験こそが人々の求めている幸福であるかのように答えていました。その動画を見て、私は一瞥体験について疑問を感じるようになりました。もし可能でしたら、あなたのお考えをお聞かせいただければ幸いです。

ルパート・スパイラのYouTube動画:
「What Is Liberation」
https://youtu.be/UOMrtaE5OX8

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それに対する二人の答えが、それぞれ違って興味深いものでした。了解を取ってないので、そのまま全部掲載できないので、部分もしくは要約を載せます。

まずはギルバート
ギルバートは、ビデオは見てないと前置きした上で簡単に答えてくれました。(Google翻訳)

***
すべての体験は知性(intellect)による作り事だ。
自己の中心は、主体(私)として想像されている。
非二元は言葉では表せず、記述不能で、沈黙そのものだ。
理解は誰にでもあるが、思考によって覆い隠されているように見える。
誤解こそが共通要因であり、それはすべて分離の夢だ。
***

まだ少し続きがあるのですが、ここまでで十分です。私にとっては最初の一行「すべての体験は知性による作り事だ。」で十分でした。これが私の求めていた答えでした。

そしてギルバートは、ボブの本をしっかり読んで自分で「私」が実在かどうかをちゃんと調べてみなさいという返事で、私の質問には直接答えませんでした。でも、それで十分でした。ギルバートの返事は、どうして今さらそんなことを聞くのかと言う感じで、座禅の時の警策ように私をピシャリと打ちました。


そしてカリヤニ
カリヤニからの返事は、この質問は多くの探求者が抱く疑問なので、ぜひ私のセッションを受けてみたら、というものでした。え~、私は十分に非二元を理解したと思っているし、初心者じゃないんだから、今さらセッションなんてと思ったのですが、どんなセッションをするのか興味があったし、無料でいいからというので受けることにしました。

日を改めてZoomでセッションをしてくれました。詳しい内容は了解をとっていないので控えさせていただきますが、カリヤニの説明はセイラーボブの教えを色濃く反映したもので、どんな体験も起こっては去っていくもの、幸福も不幸も起こっては去っていくものだということ。そして、体験に対してあれこれと判断しているというのはマインドにすぎないというものでした。

カリヤニは私が十分に非二元を理解していることは承知していましたが、親切にも詳しく説明してくれて、納得のいく説明でした。

*********

二人の答えは私の理解していることと同じでしたが、カリヤニもギルバートも私の問い(一瞥体験)には直接答えませんでした。彼らにしてみれば、こんな質問自体が論外で的外れだということです。どんな体験もマインドの中の出来事であり、非二元を体験することではありません。一瞥体験はマインドの産物です。そしてルパート・スパイラが何を話そうが、彼らにはどうでもいいことのようです。そんな些細なことをあれこれ考えるなということだと思います。おそらくカリヤニもビデオを見ていないと思います。

日本ではあまりにも多くの人が一瞥体験について語り、あたかもそれが非二元を理解する通過儀礼のように語られている現状があり、一度ちゃんと聞いてみたいと思っていたのですが、彼らにしてみれば、今さらどうして私がそんな初歩的なことを聞くのかと思ったい違いありません。彼らにしてみれば、人々が好き勝手に語る一瞥体験なんてどうでもよいことであり、非二元の本質を理解することとは何も関係ないということです。

私が取り上げた今回の動画でも、ルパートは一瞥体験を肯定しているわけではなく、幸せな状態に焦点を当てているにすぎないのだと思います。でも今回の件で私が思ったのは、このブログでセイラーボブ以外の非二元の教師を詳しく取り上げるのはよくないなということです。カリヤニも言っていたのですが、いろんな人がいろんな教え方をします。その細かい部分の整合性を確認しようとしても無理だということです。

唯識には唯識の説き方がり、ヒンズー教にはヒンズー教の説き方があります。ルパートにはルパートの説き方があります。それを良いとか悪いとかいっても始まらない。それぞれ自分に合う教師や教えを見つけて本質的なことを学べばよいのだと思います。その説明はそれぞれ違って当たり前です。

ルパート・スパイラの説き方は、ある意味とても理論的で、理屈で理解したい人には向くと思います。でも、例えば意識の局在化というモデルや、世界の半分は人の意識でできていて、残り半分は大いなるもの、あるいは神の意識でできているというモデルは理屈としてはわかるし魅力的ですが、果たしてそれが正しいのかどうかはわからない。世界は幻だという説明も、わかりやすいのですが結局は証明しようのないことです。

そして、ルパートは幸福を強調しすぎるような気がします。私としては幸福も不幸もマインドの中のことだと思っています。でも、ルパートは非二元が浸透し始めると最初に内側が変わり、そして外側が変わって幸せになっていくと言います。「幸せになれる」、それがルパートの人気の理由だと思うのですが、こういう説明に違和感を覚えます。こういう説明は引き寄せの法則や願望実現の教えに繋がりかねない気がします。そしてそれは非二元の本質とは外れているという気がします。

私としてはセイラーボブのような細かいところはあまり説明しない説明の方が受け入れやすいです。世界は知性エネルギーの働きだ! 以上おわり、あとは自分で調べなさい。の方がわかりやすい。今までさんざんルパートをほめて、たくさんのYouTubeを載せておきながら今になってなんだ、と言われそうですが、申し訳ありません。ルパート・スパイラがすばらしい教師であるという思いは変わりませんが、ルパートとのハネムーンが終わってしまいました。そろそろルパート・スパイラを卒業しようと思います。

今のところ、海外の非二元の教師のうち日本で情報を入手できる教師ではルパート・スパイラが質、量ともに一番ではないかと思います。しかもまだ健在で話し続けているということも重要です。ルパート・スパイラのYouTubeにはまだまだすばらしい動画がたくさんあるのですが、なにも私がブログに取り上げなくてもみなさんがご自分で見ていただければいいのかなと思います。

セイラーボブ以外の非二元の教師がどういう説き方をするのか知ることは役に立ったと思います。でも今後はボブ以外の非二元の教師に深入りすることはしないつもりです。そうすることで、かえってセイラーボブの教えが不鮮明になるような気がします。

2026/02/25

一瞥体験の後、続くプロセス  ルパート・スパイラ

「Rupert Spira 非二元のエッセンス」堀田真紀子さんのYouTubeから転載させていただきました。わかりやすい日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→日本語)。

堀田さんのYouTubeチャンネルに堀田さんによる解説があるので、そちらを参考にしてください。堀田さんのYouTube

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オリジナル動画は「What is Liberation?」です。

私はこの動画を見て、ものすごい違和感を覚えました。私のブログではエンライトメントはないということを繰り返し書いてきました。ルパートもエンライトメントとは昔から信じられてきた突然の至福体験ではなく、自己の本質を認識することだと言っています。

もしそうだとすると、一瞥体験とは何だろうという疑問がわきます。私たちが非二元の世界を見ることや体験することはないはずです。この動画では、質問者が数か月の間、地上の天国のような状態が続いたあと、それが消えてしまったと言います。質問者は、glimpseという言葉を使っていて、一瞥体験という訳になっています。その体験を一瞥体験と呼ぶかどうかという疑問は残るのですが、それに対して、ルパートはそれが私たちが求めている幸福であり、それを少しづつ取り戻す過程について説明しています。

私の考えでは、一瞥体験はマインド、あるいは思考の産物であり、私たちが求めている幸福などではないと思っています。このブログでも、一瞥体験を看板にして客寄せをする非二元の教師に対して否定的なことを書いてきました。

ルパートも今まで紹介してきた動画の中で一瞥体験を否定していて、それは単なる個人の体験にすぎないと言っています。でもこの動画でルパートは一瞥体験を肯定しているかのように思え、それが私たちが求めている幸福だと言っているように思えます。私は以前から、欧米ではほとんど一瞥体験を語る人がいないのに、どうして日本では一瞥体験のことを語る人が多いのだろうと疑問に思っていました。

そこで私は、カリヤニとギルバートでFcaebook経由でこのことについて彼らの意見を求めました。彼らが一瞥体験についてどう考えているのか聞きたくなったのです。長くなるので続きは次回とさせていただきます。

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2026/02/23

物質が意識で出来ているとはどういうことか?  ルパート・スパイラ

How Can Matter Be Made of Consciousness?
日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→英語(自動生成)→英語(自動生成)→自動翻訳→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

物質は意識でできているのでしょうか?思考、感情、感覚が意識でできていることは、容易に見て感じられます。しかし、意識のみのモデルは、私たち自身の有限な心の外側に現れる対象をどのように説明するのでしょうか?そして、それを私たち自身の直接的な経験でどのように検証できるのでしょうか?

ルパートは、ロンドンで眠りに落ち、自分がパリのジェーンであるという夢を見るメアリーの例えを用います。ジェーンは、私の思考は私の心の中に現れ、他のどこにも現れないと考えているので、明らかに意識からできています。しかし、パリの街路はどうでしょうか?目を閉じると私の思考は消えますが、友人のクレアの思考は消えません。つまり、パリの街路には、私の有限な心以上の何かがあるのは明らかです。そのため、ジェーンはパリの街路は物質と呼ばれる、自分自身の外にある何かでできていると考えています。しかし、メアリーの視点から見ると、パリの街路は彼女自身の心でできているのです。

メアリーは、宇宙を自らの内側で夢見る意識を表しています。この夢を私たちそれぞれの局所的な視点から見ると、それは私たちの外にあるものからできているように見えます。しかし、無限の意識の観点から見ると、意識は私たち一人ひとりが経験する個別の主体として局所化され、意識の非局所的な部分が世界として私たちに現れます。

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無限の意識から見れば、私たち一人一人の意識は夢のようなものであり、その夢の中で見る物質も意識でできているという話です。ジェーンとメアリーの例えは以前にも掲載したことがありますが、なかなか良い例えですね。

前回のYouTubeでは一つの意識が局在化(局所化)して私たち一人一人の意識となって別々の世界を見ているという例えを使い、今回は全然別の例え(メアリーの見る夢の中のジェーン)を使って説明する。このあたりがおもしろいですね。私は両方の例えが好きですが、どちらかというと前回のYouTubeの話がわかりやすいです。

セイラーボブは知性エネルギーがパターン化して世界を形造るという話をしますが、ルパートの場合は物質としての物が実在するという話をしないのが興味深いですね。もちろんボブも、椅子を指さして、「それは何ですか?」と聞くパターンがあって、私たちが椅子という定義づけをしなければ、そこには意識があるだけだという説明もします。

2026/02/21

現実とは何か?  ルパート・スパイラ

What Is Reality?
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

現実とは何か?もし世界が幻想だとしたら、世界のどこが現実なのだろうか?私たちの感覚知覚を超えた現実とは何だろうか?

ルパートは、世界の現実は有限の心に先行すると説明しています。私たちに物理的な世界として現れるものは、普遍的な心、つまり意識の活動であり、その本質は物質ではなく意識です。現実は、世界の中にある独立した主体、つまり有限の心の感覚知覚を通して知覚されたときにのみ、物質として現れます。

有限の心とは、無限の意識の局在であり、現実を知覚し、自身の限界に従ってその姿を創造します。だからこそ、私たちは世界を半分創造し、半分知覚していると言われています。

しかし、究極的には、現実は一つの、形のない不可分な全体であり、それは存在、つまり神の存在なのです。

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私たちが物を現実の存在として認識する原因は私たちの知覚(五感)にあるという話は私がこのブログに何度も書いたことであり、セイラーボブがいつも話す椅子の話と同じことを言っています。

五感で得た情報を無しにすると、それを椅子と認識することはできない。でも、そこに椅子は無いとしても何かがある。ルパートは、物は私たちの認識で半分できていて、残りの半分は、いわば全体としての意識のようなものでできていると言います。

このブログの唯識の量子力学のところ(唯識③量子力学)で書いた、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」ということと同じことを言っているような気がします。

セイラーボブは、私たちが椅子という定義づけをしなければ、そこには椅子はなく、ただ一つのものあるだけと言います。

ルパートは、物(世界)とは私たちの知覚の認識が半分で、残りの半分は全体の意識(無限の意識)でできているが、それが一体となったものが現実だと言っています。要するに無限の意識の活動が先にあって、局在化した私たちの意識(マインド)で見たものが物(世界)だと言っています。この説明は私にとって新鮮なものでした。

セイラーボブが、椅子の話をするたびに、椅子と認識しなかったら、そこには何があるのか、一つの意識と片付けてしまうのは乱暴な気がしていました。それをルパートはもっとわかりやすく説明してくれました。

私たちは知覚の外にあるその半分のもの(無限の意識)を知りたいと思うのですが、やはりそれを具体的に知ることはできないのではないでしょうか。ルパートは、それを突き詰めていくと、ものすごい喜びの瞬間が訪れると言っていますが、それはたぶん、理解した瞬間の喜びを比喩的に言っているのだと思います。

2026/02/19

外側に世界はあるのか?  ルパート・スパイラ

Is There an Outside World?
日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→英語(自動生成)→英語(自動生成)→自動翻訳→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

別個の外の世界が存在する証拠についての議論。

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外側には世界は無いということは非二元では当たり前のこととして説かれます。ルパートの説明は、私がこのブログの科学的アプローチの「脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳」や仏教その他の「物は実在か」のところで書いたことと途中までは全く同じ説明です。

外側に世界があると思っているのは、五感を通してやってくる感覚にすぎないということです。私たちは五感を通して得た情報から、そこに物があると推測しているにすぎず、そこに実際に物(世界)があるかどうかは、確かめようがありません。ここまでは、このブログのあちこちで何度も書いたことと同じです。

でも、ルパートの場合、そこから先の説明が違います。
私たちは皆同じ一つの世界を見ていると思っているが、そうではなく、一つの意識(アウエアネス)がそれぞれの人の意識となって、それぞれの世界を見ていると言うのです。その部屋の中にいる75人がそれぞれ75の世界を見ている。でもそれは一つの意識が見ているにすぎない。そこに世界があるのではなく、一つの意識の投影を見ているにすぎない。

以前にも書きましたが、この説明のモデルは仏教の唯識の世界観と酷似しています。仏教では阿頼耶識の情報がそれぞれ個人の意識(それぞれの世界)に投影されると説明しています。

動画の終盤に「空は形、形は空」という言葉が出てきますが、それは外の世界があるという前提で語られるので「空は形、形は空」と言うが、もともと外の世界などない、と説明しています。

部屋の中にいる犬を例に出して、犬には自我がないため自他の区別がなく、純粋な経験だけをしている、生まれたばかりの人間の赤ちゃんも自他の区別はなく、純粋な経験だけをしていると説明しています。

「物は実在しない」、「世界は私の意識の中にだけある」ということはセイラーボブの説明で十分理解していましたが、ルパートの説明もとてもわかりやすくていいと思います。確信を持って世界は幻だと理解できると思います。

2026/02/18

ミーティング内容の変更のお知らせ

現在、毎週日曜日に行っているミーティングは毎月一回月末に行うことになり、それ以外の日曜日はZoomによるミーティングになる予定だそうです。冒頭で変更の発表がありました。

Thought will show up. Nonduality explorations Sailor Bob's style. 15 Feb 2026

2月6日のfacebookで、カットが船上からボブの遺灰を海上へ撒く様子が流されました。

https://www.facebook.com/reel/1365211128684645
https://www.facebook.com/sailorbobadamson

最近になって公開されたボブの過去の動画があるので掲載しておきます。

ボブの言葉を集めた本を自分で朗読したもの   

ジョン・ホイーラーが来た時の動画
   
アメリカ、コネチカット訪問時のミーティング

2026/02/17

意識(アウエアネス)が眠りに落ちることはない  ルパート・スパイラ

Awareness Never Falls Asleep
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

このビデオクリップでは、ルパートが、深い眠りが何もない状態ではなく、意識が満ち溢れた状態である理由について説明しています。

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この動画はとても貴重で重要な動画です。
日本語の自動翻訳に誤訳があるので指摘しておきます。最初の方のところで、「眠りに落ちる遷移(せんい)を経ます」というところは、「眠りに落ちる経過をたどる」という意味です。そのあと、「眠りに落ちた目は意識の目ではありません」というところは、I(私)をeye(目)と誤訳しています。正しくは「眠りに落ちた私は意識としての私ではありません」という意味です。

この動画でルパートは、私たちが意識(アウエアネス)がなかったことなど一度もないし、これからもない、だれも意識のない経験をしたとこがないし、することもないと説明します。私たちが眠りに落ちて夢を見る時、意識はあって夢を見ています。深い眠りの時も意識はあるが、思考がないだけでそこには意識があると説明します。このあたりの説明はセイラーボブとまったく同じです。

伝統的な考え方では、私たちが生まれた時、その肉体に意識が宿り、死ぬとその意識は消えてしまうと考えているが、そうではなく、意識は永遠不滅のものであり、生まれることも死ぬこともない。そしてその意識(アウエアネス)がどれほど幸福に満ちたものか、その永遠不滅の幸福こそが本当の私たちだと教えてくれます。

そして最後のジョーク。ビル・ゲイツが天国にいるスティーブ・ジョブズにメールを送ったら返事が来て「天国はとても良いところだが一番いいのは、ここには窓も門もない」と言ったと笑わせます。これは「天国には窓(Windows)はなく、門(ゲイツ)もいない」というジョーク。

2026/02/15

理解の三つの段階  ルパート・スパイラ

The Three Stages of Understanding | Rupert Spira
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

理解の段階と、認識、気づき、意識の定義についての議論。

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質問者は awareness(意識、気づき)、consciousness(意識)と knowing(知る働き)の違いについて尋ねます。

それに対してルパートは三つの表現は同じもののことを言っているが、説明には三つの段階があるため、それぞれ段階に合わせて使い分けていると言います。

第一段階は awareness(意識・気づき)であり、この言葉を使うことによって、対象物に気づいている何ものかの存在を暗示させます。この段階でよく使われる例えは空と雲の例えです。空という awareness(意識・気づき)の中に雲である思考や感覚が現れます。

第二段階では、スクリーンの例えが使われます。スクリーンに現れる映像はスクリーンと分離しておらず、一体の物です。そこには対象物に気づいている何ものかは存在せず、awareness(意識、気づき)そのものが自らを気づいて(あるいは意識して)います。consciousness(意識)とスクリーンは分離しておらず、一体のものです。

第三段階では主体や対象物をまったく想起させないように knowing(知る働き)ということばでそれを表わします。思考や知覚はスクリーンに現れる何かではなく、 knowing(知る働き)そのものであるという理解です。そこには何も存在しない。そこに現れる思考も知覚もすべてknowing(知る働き)そのものであるという理解です。この段階では主体も客体も消え、knowing(知る働き)だけがあります。

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セイラーボブは主に awareness(意識・気づき)と knowing(知る働き)という言葉をよく使います。空と雲の例えもスクリーンの例えもしょっちゅう使います。このあたりの説明はルパートもセイラーボブもまったく同じことを言っています。私の場合はもう散々聞いているので、awareness(意識・気づき)と  knowing(知る働き)はまったく同じものだと理解していて、どちらを使われても違和感を感じません。knowingという言葉は日本語に訳しづらい言葉だと思いますが、知っていることや知識という意味ではなく、現在進行形の知る活動そのもの。それが私たちの本質だというのです。consciousness(意識)は人間の意識のことで、人間の側から言えばconsciousness(意識)になるだけで、awareness(意識・気づき)や  knowing(知る働き)と同じもののことです。そこには気づく何ものも存在せず、知る働き、いわば純粋な知性があるだけです。

2026/02/13

アウエアネス(awareness)とコンスシャスネス(consciousness)

ルパート・スパイラの動画を見ていると、アウエアネス(awareness)とコンスシャスネス(consciousness)という言葉がしょっちゅう出てきます。私は、このブログの用語集のところでも書きましたが、アウエアネスは普遍的な意識のことで、コンスシャスネスは人の意識のことだと理解しています。私は「awareness」を「気づき」と訳すのがしっくりこず、このブログでは「意識」と訳しています。そのため、アウエアネス(awareness)もコンスシャスネス(consciousness)も「意識」と訳しています。

私の場合は、
「space of awareness」→「空間のような意識」
「pure awareness」→「純粋な意識」

でも、ほとんどの人は、
「space of awareness」→「空間のような気づき」
「pure awareness」→「純粋な気づき」
と訳してみえます。

YouTubeの自動翻訳では、「意識」と訳す場合と「気づき」と訳す場合とあって一律ではなく、文脈によるようです。辞書で調べると、たいていの辞書は「awareness」を「1:気づいていること・知っていること 2:意識・認識」としています。

そのため、「気づき」と訳しても「意識」と訳しても間違いではなく、翻訳者の捉え方による。私の場合、非二元の話に出てくる「awareness」は、たいていの場合「意識」と訳した方が良いように思える。

本質的な意味さえ理解していれば、それを「意識」と訳そうと、「気づき」と訳そうといいのではないかと思っています。ところが、原文の英語ではちゃんと表現の違いがある。そこで、今流行りのAIに聞いてみました。

質問
「非二元の教えの中で語られるawarenessとconsciousnessの違いは何ですか?」

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Google AIの答え

Awareness(アウェアネス):純粋な気づき 
性質: 境界のない、無限で、すべてに行き渡る純粋な「気づき」や「存在」そのもの。特定の対象や内容を持ちません。
役割: すべての経験(コンシャスネス)の基盤、あるいは「スクリーン」のようなものです。何が現れても、その存在自体は変化しません。
非二元との関係: 非二元の核心であり、これが真の自己(アートマンやブラフマン)であるとされます。個人的な「私」という感覚を超えたものです。 

Consciousness(コンシャスネス):対象を伴う認識 
性質: 特定の対象(思考、感情、感覚、外界の事物)に対する「意識」や「認識」の状態。常に何かを「意識している」という形をとります。
役割: 反映された気づき、あるいは経験のプロセスです。意識が向けられた対象によって変化し、限定されます。
非二元との関係: 個人の自我(エゴ)や特定の心理的・物理的状態と関連しており、非二元の教えでは、これは一時的な現象、あるいは「純粋な気づき」の反映であると見なされることが多いです。
 
まとめ
端的に言えば、awarenessは映画の映写される「スクリーン」そのものであり、consciousnessはスクリーンに映し出される「映画の映像」である、というアナロジーで説明されることがあります。スクリーン(awareness)は映像(consciousness)に影響されず、常にそこにありますが、映像は変化し続けます。非二元の探求は、映像ではなく、その不変のスクリーンに気づくことを目指します。 

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ChatGTPの答え

非二元(ノンデュアリティ)の文脈では awareness(気づき) と consciousness(意識) はしばしば違う階層の概念として語られます。伝統や教師によって用語の使い方は多少異なりますが、代表的な区別をわかりやすくまとめると以下のようになります。

■ 1. Awareness(気づき)
◎ 非二元での意味
変わらずいつも在る「純粋な気づき」そのもの。
何かを観察している主体ではなく、主体と客体の分離以前の基盤そのもの。
個人的ではなく、普遍的。
体験の内容(思考・感情・感覚・世界)に依存せず、それらをそのまま照らしている開かれた空間のようなもの。

◎ たとえ
スクリーンのようなもの。
映画(思考や感情)がどれだけ変化しても、スクリーン自体は変わらない。

■ 2. Consciousness(意識)
◎ 非二元での意味
「何かに意識が向いている状態」としての意識。
ここでは awareness から現れる機能的な側面として扱われる。
たとえば「赤い花を見ている」「自分の体を感じている」といった、対象がある経験としての意識。
対象との関係(知覚、認識、注意)が関わるため、主体=私がまだ残っている段階。

◎ たとえ
映画のストーリーや映像そのもの。
観ている内容は常に変化し、注意の向け先も変化する。

■ 3. 核心的な違い
項目           Awareness             Consciousness
立ち位置         基盤 / 本質             現れ / 機能
変化           変わらない             絶えず変化する
個人的 or 非個人的     非個人的             個人的側面を含む
              主体‐客体 超えている      主体‐客体がまだある
非二元における役割    最終的な「真我」などと同義     経験の流れとして扱われる

■ 4. 非二元系の主な伝統での傾向
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(Ramana Maharshi 等)
Awareness(pure awareness)はアートマン/ブラフマンと同義
Consciousness は mind や個別意識を含む層

禅や大乗仏教系の非二元
Awareness ≒ 空性・如(にょ)/本性
Consciousness ≒ 識(六識・八識)としての経験の流れ

現代非二元(Rupert Spira, Adyashanti 等)
Awareness = Knowing, Being
Consciousness = awareness の活動・対象化したもの

■ 5. シンプルなまとめ
Awareness = 経験の「背景」
Consciousness = 経験の「内容」

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AIはいずれも「awareness」を「気づき」と訳している。
でもやっぱり「意識」という訳の方がしっくりくるような気がします。
それは、主体のない気づき、あるいは神の気づきのことだと理解していれば問題はないけれど、「気づき」と訳すと、そこに何かに気づいている主体がいるように錯覚する。また、何かを注意深く気づいていないといけないと思ってしまう。主体も客体もない気づきのことだけど、それを想像するのは難しい。

英語の場合、aware(気づく・動詞)が名詞化してawareness(気づいていること・意識)となるが、日本語にはそれに相当する言葉がない。日本語の「気づき」と「意識」は同じではない。
本質的な意味さえわかっていれば、どっちでも良いと思います。私のブログでは、引き続き、awareness=意識という訳でいきます。

2026/02/11

私たちの本性は体験に先立つ  ルパート・スパイラ

「Rupert Spira 非二元のエッセンス」堀田真紀子さんのYouTubeから転載させていただきました。わかりやすい日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→日本語)。

堀田さんのYouTubeチャンネルに堀田さんによる詳しい解説があるので、そちらを参考にしてください。堀田さんのYouTube

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これぞ非二元の教えの神髄のような動画。まったくすばらしい。


2026/02/09

時間を実際に経験することは決してない  ルパート・スパイラ

Time Is Never Actually Experienced
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

13 歳の少年が、「なぜ私たちは寝ているときに時間の感覚を失うのでしょうか?」と質問します。

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ルパートは13歳の少年に向かって、時間はあるように見えるだけだけ、そして世界もあるように見えるだけだと説明します。それを理解しても世界の見え方は変わらないが、世界に対する経験が変わり、美や愛を経験するようになると教えます。

時間に関する部分の説明はセイラーボブと全く同じです。過去や未来は私たちのマインドの中にあるだけで、実際に過去や未来へ行くことはできません。

しかし、どうして13歳の少年がミーティングに参加して質問しているのでしょうか。英語版を聞いてもらえばわかるのですが、声がまだ幼い。でも、とっても聡明そうです。

2026/02/07

時間は幻想である  ルパート・スパイラ

Time Is an Illusion
日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→英語(自動生成)→英語(自動生成)→自動翻訳→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

時間は幻想なのでしょうか?もしそうなら、なぜ私たちの過去に関する知識はそれほどリアルに感じられるのでしょうか?過去の記憶は、時間が存在する証拠ではないのでしょうか?

ルパートは、あなた自身の経験について、紛れもなく真実である二つのことがあると言います。一つは、あなたには時間の経験がないということです。私たちは過去について考えることはできますが、過去について考えることは過去の証拠にはなりません。証拠を見つけるには、実際に過去を訪れ、それを経験しなければなりません。

二つは、時間に関するあなたの知識は思考と相関関係にあり、時間が思考を引き起こすという推定は、経験では実証できない推定です。経験は、因果関係の矢印は実際には逆方向、つまり思考が時間の見かけを作り出すことを示しています。

私は、時間が存在しないとあなたに納得させようとしているのではありません。時間は私たちが考えているようなものではないことを示唆する二つの経験的事実を示しているのです。これらの二つの事実を参考に、時間、過去、そして未来に関するあなたの経験を深く考察し、心を開いて考えてみてください。この考察があなたをどこに導くかを見極め、性急に結論を出さないでください。

記憶は過去の証拠だと決めつけないでください。記憶には他の解釈も考えられます。

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私のパソコンでは日本語字幕を出すのに何回もやらないと出ません。ひょっとするとパソコンが古いからかも。

このあたりの説明はセイラーボブの説明とほぼ同じです。私の場合は時間が存在しないということを理解するのに随分と時間がかかりました。
どの動画だったか思い出せないのですが、ルパートは他の動画の中で、マインドは過去の記憶の情報を一度に受け入れる事ができないので、時間というものを生み出して、そこに出来事を記憶として納めているという説明がありました。あれはわかりやすかった。ただ、その部分をブログで取り上げなかったので、どの動画だったかわかりません。

2026/02/05

すべては意識に現れたマインドの中の夢  ルパート・スパイラ

Everything Is Just a Dream in the Mind of Consciousness
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

すべては夢なのでしょうか?何か存在するのでしょうか?もし存在しないとしたら、何が起こっているのかをどう説明できるのでしょうか?

ルパートは、何も存在しない、と断言します。起こっているのは、ただの見かけ上の出来事です。夢の中では、浜辺、木々、水、砂、人々など、すべてが存在しているように見えます。しかし、目が覚めると、そこには何もなかったことに気づきます。夢の中では現実に見えた時間と空間は、覚醒状態から見ると全く非現実的なのです。

私たちは一種の夢のような状態にあり、時間と空間にある物体は、私たちの限られた視点からは現実のように見えます。しかし、目が覚め、夢の状態から覚醒状態へ、そして覚醒状態から意識へと一つ上のレベルへ移行すると、まるで夢から目覚めたかのような状態になります。ここには物体はなく、時間も空間もありません。そこにあるのは意識だけです。

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ルパートは時間も空間も物を実際には存在せず、うわべ上でそう見えるだけだと説明します。そして私たちは「神のマインドの思考」だと言います。物があるように見えるのは局在化された私たちの視点を通して見るからにすぎないと言います。

前回の動画のような説明はわかりやすいのですが、こういう非論理的な説明も好きです。セイラーボブの説明も非論理的でしたが、直観に訴える力がありました。結局、いくら理屈で説明してもそれを科学的に立証する方法はありません。一番大切なのは直観的な理解のような気がします。

2026/02/03

物は実在ではない

前回のブログに掲載したルパートのYouTubeが参考なるので、もう一度取り上げてみます。

私たちの持つ古典的な考え方では、世界70億の人が同じ一つの世界を見ていると思っています。でもそうではなく、一つの意識が70億の世界を見ているとルパートは説明します。物は実在(existence: 動画では「存在」と訳されている)の中に思考となって現れるのであって実在ではない、と言うのです。

私たち一人一人はそれぞれ別の意識があって、それぞれが同じ世界を見ていると思っているが、実際には一つの意識が個人の意識となって局在化し、別々の世界を見ていると言うのです。この世界観は仏教の唯識の世界観とほぼ同じではないでしょうか。唯識も人人唯識(にんにんゆいしき)といって、一人一人が別の世界を見ているといいます。その大元の情報源が阿頼耶識(あらやしき)です。ルパートの説明はひょっとすると唯識思想をヒントにしているのかもしれません。

セイラーボブは「世界は幻である」「世界は意識の中にだけある」「あなたがラベルを貼らなければ、そこに物は実在しない」「万物は一つのもの」「一つの意識だけがある」という言い方で、世界は実在ではないということを説明します。でも、ルパートのような緻密な説明を聞いたことがありません。

私はセイラーボブの説明で、世界は意識の中にだけ現れているということは十分に納得していましたが、ルパートの説明を聞いてさらに深く納得しました。ただ、ルパートの説明する世界観が正しいかどうかを立証する方法はありません。また、ルパートもスクリーンや夢の例え話を使って、いわば非論理的な説明をする時もあります。もともと異次元、あるいは次元の無い世界の話を単純なモデルにして説明しているだけなので、実際にはどんな世界なのか想像することさえ難しいのだと思います。

もちろん勘違いしてはいけないのは、現実世界には物質もあるし、体も世界ある。それが無いなんてことを言っているわけではない。人間の体や目を通して見れば、当然世界はある。肉体がある以上、古典的な考え方に縛られるのはあたりまえのこと。

以前、非二元には全く興味のない友人に、「リンゴは実在ではない」ということを説明しようとしてうまくいかず、最後には怒らせてしまって、「変な本ばかり読んでいるからおかしくなるんだ」と言われたことがあります。今度はきっとうまく説明できると思います。でもきっと、「変なYouTubeばっかり見てるからおかしくなるんだ」と言われるでしょう。

2026/02/02

物は実在しない;実在の中に物が現れる  ルパート・スパイラ

Objects Don't Have Existence; Existence Has Objects
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

我々が知覚している世界以外の世界、物体の存在を知っているという仮定、そして意識は身体の産物であり身体に限定されているという仮定についての議論。

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質問者は、なぜ無限の意識の中に世界が現れるのかわからないと質問します。それに対してルパートは、世界は意識の中にだけあるということをわかりやすく説明します。

この内容はセイラーボブが言っていることと同じで、私が何度もブログに書いてきたことです。ただし、説明の仕方がセイラーボブとは違って、もう少し緻密です。

ルパートの説明は、私が「科学的アプローチ」や「仏教その他」(佐々木閑先生の説明)で書いた、世界は意識の中にしかないという説明と基本的には同じです。違うのはその最初の部分に一つの意識(アウエアネス)があるという点が違います。また、一つの意識がたくさんの世界になるというくだりは唯識の世界観ととても似ています。

この動画の日本語訳の「心」→「マインド」、「気づき」→「意識」、「存在」→「実在」に変えて聞くともっとよくわかると思います。

2026/02/01

佐々木閑先生の新しいシリーズが始まりました

佐々木閑 仏教講義 12「新説・インド仏教史 その1」(「仏教哲学の世界観」第15シリーズ)

楽しみです。

2026/01/30

恐怖の正体を見抜く  ルパート・スパイラ

Discovering What Fear is Made Of  Rupert Spira
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

恐怖が私たちの本質の平和を曇らせるわけではないことを理解しましょう。

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不思議なことに、この動画で語られることと全く同じ内容をセイラーボブの spiel で何度も聞いたことがあります。ラベル、空間という言葉も同じです。

セイラーボブは、「恐れがやって来て、その恐れという感情に「恐れ」というラベルを貼らなかったら、それは何のかですか? ラベルを貼らずに観察してみてください。それは単なるヴァイブレーションです」という話をしょっちゅうしていました。

私は昔、極度の強迫神経症(今でいうならパニック障害)で苦しみました。森田療法によって随分と改善したのですが、あの頃この話を聞いていたなら、あんなに長く苦しむこともなかったような気がします。

2026/01/28

架空の自己の専制から思考を解放する  ルパート・スパイラ

Liberating Our Thoughts From the Tyranny of the Illusory Self
日本語で聞くことができます。

YouTubeno解説

この動画では、ルパートが分離した自己から生じる思考を探ります。

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この動画の日本語訳は少しわかりにくいです。勝手にまとめてみます。
有限の一時的なものが肉体に宿っているのが「私」だと思っていると、周りの世界もそのように、すべてが自分とは分離したものとして現れる。ところが、自分のことを「無条件の気づき」であると思っていると、世界もそのように現れ、物事は一体のものとして認識され、世界は純粋な意識として認識されるようになる。

ところが、自分のことを「無条件の気づき」であると理解するだけでは十分ではない。体とマインドは長年にわたって架空の自己として認識され、恐れや神経症を抱えているため、架空の自己は抵抗しておとなくならない。自らの存在の危機にさらされた架空の自己は何度も何度も思考としてやってきて分離した自己が「私」であると主張する。

自らの本質を理解するだけでは十分ではなく、私たちの思考、フィーリング、活動、関係性、認識を再調整する必要がある。そこで、そういう思考がやって来て行動を起こす前に、この思考は、「分離した自己にもとづくものではないのか」、「この思考は誰の思考なのか」と自問して調べる。その思考がやってくるたびに徹底的に調べる。

やがて思考は自己の本質、純粋なアウエアネスからやってくるようになる。思考が止まることはないが、思考は自己の本質からやってくるようになる。これは思考を無くすことではなく、架空の自己の専制から思考を解放するということ。

最初は本当の自己に気づくのに時間がかかるが、練習していくとだんだんと速くなって、最終的には瞬時に気づくようになる。

この話の重要なところは、自己の本質を理解するだけではダメで、架空の自己としての思考がやってくるたびに調べてみるということをしないと、古い習慣はなくならないということ。非二元の教えをただ理解するだけでは何も変わらない。

2026/01/26

時間と死  ルパート・スパイラ

Time and Death
 
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

このビデオでは、ある男性が、時間、死、今から抜け出すことに焦点を当てた心の認識、過去と未来の経験など、多くのトピックについてさらなる理解を求めています。

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この動画でルパートは、時間はマインドの中にしか存在しないということを説明しています。残念なことに16分30秒ぐらいから17分21秒ぐらいまでの日本語音声が途切れています。ちょっと簡単に補足すると、ルパートが時間は実在ではないと一通り説明したあと、質問者が、では死についてはどうなのか?と尋ねます。

するとルパートは、眠りの例を出して、眠る前の記憶はあるが、眠っている間はマインドが消えているので、時間は存在せず、次に思考が戻ってくるのは目が覚めた時。眠っている間は時間はないと説明します。夜眠りにつく真夜中から目を覚ます朝6時までの6時間は時間は実在ではない。

では、この眠る時をあなたの誕生までさかのぼらせ、目覚めた時をあなたの死のときまで引き延ばしたらどうでしょう、そこには時間は存在しないのです、と説明します。

この動画はまったくすばらしい。時間は実在ではないという説明で、これほど説得力のある話を聞いたことがありません。

2026/01/24

これらはすべて見かけ、マーヤであり、すべては幻想である

質問者: 生命の本質はこうで、意識や知性はこうだ、と思えることがあります。そして、それらは別々です。それらは別々のものなのでしょうか、それとも同じものなのでしょうか?

ボブ: 私たちが話したことを覚えていますか? 非二元性。他には何もない一つのもの。なぜ「他には何もない一つのもの」と言われているのかというと、一という概念は一以外の何かが存在する可能性を示唆してしまうからです。ですから、「一以外の何か」という概念が少しでも浮かんだら、あなたは非二元性から出てうわべ上では二元性に入った、あるいは二元性から出たということです。

仏教でも同じことを言います。それは非概念的で常に新鮮な「今ここに在る意識」であり、他には何もありません。仏教は、非二元性にはいかなる二元性も絶対に存在し得ないと指摘しています。しかし、私たちの周りではこの現象全体に二元性が満ちています。繰り返しますが、経典では、これらはすべて見かけ、マーヤであり、すべては幻想であると指摘されています。

2026/01/22

「私」とは何か。様々な説明。

私はこのブログにいろんな人や教えが語る「私」とは何かを書いてきました。そこで、それぞれ人が「私」をどう説明して、なぜ「私」はいないのかを勝手にまとめてみたいと思います。

セイラーボブは「私」とは海の中に現れた一つの波のようなもので、一つ波は自分が独立したものだと考えているが、波は海の一部であり、独立したものではないと教えます。「私」とはマインドなのか体なのか、その始まりはどこにあるのか、自分で調べてみなさい、それは一種のエネルギー現象であり、実体のある「私」はどこにもない、「私」とは過去の記憶や条件付けにすぎないと教えます。

原始仏教では、「私」とは五蘊のかたまりであり、そこには永遠不滅の魂のようなものはないと教えます。

唯識では、「私」には実体がないが、個人それぞれが別の世界を見ていて、阿頼耶識でつながっていると説いています。

そしてルパート・スパイラは全体の「意識」が局在化したものが「私」であり、もともと個人は存在しないと説明します。また、パリの街を歩く「私」をカリホルニアのベッドの中で夢に見ているようなものだとも話します。

そして、「科学的アプローチ」のところで書いたように、現代の脳科学では「私」は実在しないと言っています。

どの説明も魅力的で説得力があるのですが、どの説明も実験的に立証する方法や科学的な証拠はなく、理解はあくまでも直観的、感覚的な理解に留まります。ましてやエンライトメントのようなことが起こって、ある日突然理解が拓けるとか、そういう世界を見るなんてことは起こりません。

私としては、どの説明でもいいと思います。「私」はいないと納得すればいいだけの話ではないかと思います。肉体を離れてそれを確かめた人は誰もいません。どう考えても「私」はいないとしか思えないというのが私の結論です。もし、直観的に非二元の教えが真実だと感じているのに、まだ「私」がいないとは思えないのなら、さらに深く非二元の教えを学べばいいのだと思います。

そしてまた、(そんなものかな、あんまりよくわからない)でも全くOKだと思います。非二元の教えの大切なところは、悩みや問題は思考の産物であり実体がないというところにあると思います。そういう意味において幸福になること、悩みから解放されることが目的であり、世界が幻だとか、「私」はいないということは、いくら突き詰めても立証できないことだと思います。

2026/01/20

あなたは時間や空間の中にはいない  ルパートスパイラ

You Are Not Located in Time and Space
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

どのようにして時空を超えて存在することが可能なのでしょうか?意識が感覚を超えて存在するという考えを、心は理解できるのでしょうか?

ルパートは、肉体は意識が世界として自らを認識するための手段であるが、目の奥にあるという意味ではないと説明しています。肉体は、知覚という限られた観点から見た肉体に過ぎません。肉体は心、つまり思考と知覚によって作られています。

しかし、あなたの現在の経験を認識しているものは、感覚知覚の能力を通して認識しているだけで、覚醒状態において現実に見える時間と空間のどこにも位置していません。私たちが経験を認識するための認識は無次元です。それは別の領域にあります。時間と空間は、次元を持たないこの永遠で無限の意識の領域の顕現なのです。

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この説明はおもしろいです。カリフォルアで寝ている人がパリを歩いている夢を見ているとしたら。パリの街を歩きながら、目を閉じると世界が消えます。また目を開けるとパリの街が見えます。そこにパリの街があって、自分はそこを歩いていると思っています。でも、それはカリフォルニアで寝ている人の夢だったとしたら。

世界はマーヤーだというのと同じ理屈ですね。

2026/01/18

意識の局在化(localization)

ルパート・スパイラは様々な手法で「私」とは何かを説きますが、その中の一つに「意識の局在化」があります。

私にはルパート・スパイラが使う「意識の局在化(localization)」という説明がわかりやすくてしっくりきました。備忘録的にちょっとまとめて書いておきます。

ルパートは私たちの本質のことを、「意識」(awarenessまたはconsciousness)」や「無限の意識」、「無限のもの」あるいは「神」などと呼びますが、ここでは説明の都合上、意識と呼ぶことにします。世界はその意識でできている。できているという表現が適切でなければ、すべてが意識そのもの。

まず最初に無限の一つの意識だけがある。そして、その中のどこかに局在化が起こる。どうして起こるのかは今まで見た動画では説明がなかったが、とにかく起こる。その局在化したものが「私」。局在化という言葉がわかりにくければ、意識が少しだけ濃くなるところができる(これは私が勝手に例えたもの)。セイラーボブなら、大きな海の中に小さな波がポツンと立ったような状態。それが「私」。

局在化した意識の「私」は自分が大きな意識の一部、もしくはそのものだということを知らない。体とマインドを持った「私」は大きな意識を認識することは決してない。ところが、私たちが夜眠りに落ちるとその局在化が少し緩む(弱まる)。すると体とマインドは消えて、そこには時間も空間もない。

私たちが眠っている間は時間も空間もない。なぜなら、時間や空間はマインドの中にしか存在しないから。眠っている間はマインド(思考)は消えている。そして眠りから覚めると、また局在化が強くなり、思考が戻ってきて、時間と空間の中へと戻ってくる。それが毎日繰り返される。

そして私たちが死ぬ時、局在化は消えて無限の意識だけが残る。再び同じ人間としての局在化が起こることはないので、魂のようなものがあってまたこの世に戻って来ることはない。また、魂のようなものがどこか天国で暮らすということもない。

局在化した意識は無限の意識を認識することはできない。なぜならそれは同じものだから。目が目を見る事はできない。局在化がなくなった世界では今私たちが見ているような世界を見ることはない。もともとそんな世界は存在しない。そこには意識だけがある。だから今私たちが見ている世界は幻想ということになる。

以上勝手にまとめましたが、ルパートの説明は合理的で納得できるものです。それでいて、セイラーボブの話と矛盾するような点がない。セイラーボブだったら、海に現れた一つの波で説明するところを、もっとわかりやすく説明してくれています。

また、セイラーボブのミーティングでは、なぜピラミッドが幻なのか、なぜビクトリア通りが幻なのかをこれほど明確な説明で聞いたことはありませんでした。こういう説明ならわかりやすい。

2026/01/16

ガイド瞑想:二つの視点に立つことはできない ルパート・スパイラ

Guided Meditation: You Cannot Have Your Cake and Eat It
日本語音声で聞くことができます。58分。

YouTubeの解説(Google翻訳)

このガイド付き瞑想で、ルパートは「アジャーティヴァーダ」と「ヴィヴァルタヴァーダ」という二つの概念を探求します。

ルパートはこう述べています。「ヴィヴァルタヴァーダとは、世界は幻想であるという考えです。つまり、世界は現実ですが、見た目通りのものではありません。私たちが知覚というレンズを通して見ているからこそ、そのように見えるだけなのです。そして、このレベルこそが、最高の非二元的な教えのほとんどが説かれているレベルです。」

「アジャーティヴァーダは最高の非二元的な理解ですが、ほとんど語られることがありません。それは、創造も世界も宇宙も存在しない、つまり何も存在しないという考えです。この観点から見ると、世界の外観さえ存在しません。これは私たちの経験とあまりにも深く矛盾しているため、口にするにはあまりにも深遠すぎると考えられています。」

「私はこの究極の視点について、私たちの理解を超えた抽象的な哲学的概念として捉えず、何らかの形で私たちの経験に取り入れることができるよう、何かを語ってみたいのです。」そして、そのために、私はよく知られている英語の口語的な言い回しを使わせていただきます。「ケーキを食べてそれをまた食べることはできない」。この言葉に、最高の非二元的な理解が含まれていると知ったら、驚かれるかもしれません。

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なぜ私たちは無限の意識を認識することができないのか、そしてまた、なぜ世界が幻想であると言われるのかをわかりやすく説明してくれます。

なぜ私たちが無限の意識(セイラーボブで言うならアウエアネス)を認識できないかを、これほどわかりやすく説明している動画はないのではないでしょうか。

日本語の自動翻訳は時々意味がわからないところがありますが、英語で聞いたらよくわかるかというと、そうでもない。理解の難しい箇所はありますが、それでも全体的に大きな理解をもたらしてくれると思います。すばらしい動画なので、ぜひ見てください。

なお、アーティヴァータとヴィヴァルタヴァーダをGoogle(AI)で調べた抜粋を以下に掲載しておきます。

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Ajātivāda(アーティヴァータ)は、「無生(むしょう)」または「不生(ふしょう)」を意味するサンスクリット語の哲学用語で、「いかなるものも決して生まれることはない」という根本的な教義です。 
主にヒンドゥー教の不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派)や大乗仏教の中観派において重要な概念として用いられますが、その解釈には違いがあります。

Vivartavada(ヴィヴァルタヴァーダ )は、インド哲学、特に**不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派)における重要な概念で、「非実在的転変説」または「仮現説」**と訳されます。 
これは、現象世界がブラフマン(梵、宇宙の根本原理)から生じたものであると見なす際の、その生成のされ方に関する理論です。
主な内容は以下の通りです。
根本原理: 唯一の実在はブラフマン(梵)のみであり、名前や形を持つ経験世界(現象世界)は、ブラフマンに依存して現れているが、それ自体は究極的な実在ではない、とします。
非実在的転変: 現象世界への変化は、原因(ブラフマン)が結果(現象世界)に実体的に変化する(例:牛乳がヨーグルトになるような「実体的転変説(パリナーマヴァーダ)」)のではなく、実体は変化せずに、あたかも変化したかのように見える「非実在的な変化」であると説きます。
例え: 最もよく用いられる例えは、「縄を蛇と見間違える」というものです。暗闇の中で縄を見ても、それが縄であると認識できない場合、人はそれを蛇だと誤認します。このとき、縄自体は蛇に変化したわけではなく、誤解によって蛇が「仮現」しているだけです。この「縄」がブラフマン、「蛇」が現象世界に相当します。
目的: この理論は、究極の実在であるブラフマンと自己(アートマン)が本来同一である(梵我一如)ことを悟り、現象界が実在しないものであると理解することで、苦悩や迷妄の束縛から解脱(げだつ)することを目指すための教義的説明です。 

2026/01/14

世界は幻か? ルパート・スパイラ

Is the World an Illusion?  Rupert Spira
日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→英語(自動生成)→英語(自動生成)→自動翻訳→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

このビデオクリップでは、ルパートは、世界は幻想であるという精神的な教えにおける一般的な誤解について説明しています。

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いにしえの賢者たちは、「世界は幻だ」と言いました。しかし、それは誤って解釈されていると言います。「世界は幻」ではなく、私たちが認識している世界が幻だという意味。つまり、私たちの有限のマインドで認識している世界が幻だといいます。

物質や思考は私たちが認識しているようなものではなく、それは意識でできている(意識に現れていると言った方がいいのかも)。スクリーンの上の映画のように、私たちはそこに世界があると思っているが、実際にあるのはスクリーンだけ。そのスクリーンが意識(ここではconsciousと言っている)。

ただし、私たちの体験は幻ではない。私たちは物質を体験して、コップを手に取って水を飲むこともできる。体験そのものは幻ではないが、それは幻の世界の体験。世界は意識でできているということを理解すると、世界の見え方が変わってくるのだそうです。

その意識が何なのかは私たちには理解できない以上、このあたりの説明は感覚的に理解するしかないのなぁと思います。

2026/01/12

なぜあなたは目覚めた時の経験を語らないのですか? ルパート・スパイラ

Why Don’t You Ever Talk about Your Awakening Experience?
歯車マーク→音声トラック→日本語、もしくは自動翻訳(字幕)で見ると、日本語で見ることができます。10分。日本語音声を聞きながら、日本語字幕を見ることをおすすめします。そうするとどちらかの誤訳をカバーできます。

YouTubeの解説(Google翻訳)

ある女性は、悟りの体験をしたものの、その後すぐに強烈な至福が消えてしまったと言います。真の本質を垣間見た後に経験した心の状態が、どうして簡単に消えてしまうのでしょうか?

ルパートは、それは単に高揚した心の状態だったと言います。真の本質を認識したわけではありません。真の本質は、一時的なものではありません。確かに、この認識が心身に非常に深い影響を与えることもありますが、それは真の本質を透明に認識したことによる副産物です。

真の本質を認識することは、はるかにシンプルで静かなものです。それは、あらゆる経験の背景に常に存在する意識の存在を認識することです。ただ、存在している、あるいは気づいているという事実に戻るだけです。それだけです。特別なことは何もありません。ある意味では、それほど静かであれば最も安全です。なぜなら、振り返って素晴らしい悟りの体験を主張することは決してできないからです。

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質問者の女性が一瞥体験のような体験を語りますが、ルパートはそれは単なる体験であり、エンライトメント(悟りと訳されている)とは何も関係ないと教えます。本質(ここではアウエアネスのことをそう呼んでいる)は行ったり来たりする体験ではなく、背景にあるスクリーンのようなものだと教えます。

質問者は途中でエックハルト・トールが突然それを体験した例を出しました。それに対してルパートはエックハルト・トールに敬意を表したうえで、その出来事は本を書くには良い出来事だが、エンライトメント(悟り)は体験する何かではない、と教えます。

私はエックハルト・トールの本は全部読んでいますが、非二元を学んでからは彼を支持しなくなりました。エックハルトが本に書いた体験が人々に誤解を与えていると感じたためです。エックハルトはあの体験のあと至福の状態で二年間毎日公園に座っていた書いています。あれを読んだ人たちは、エンライトメントがあると信じる羽目になります。

そして彼はそれを客寄せに使い、自らを覚醒した人であるかのように演じて大金を稼いでいる気がします。人々は自分もそれを手に入れたいと彼に群がるのです(かつては私もその一人でした)。その体験を嘘だと言うつもりはありません。でも、それは個人の体験であり、エンライトメントとは何も関係ないと思います。ルパートがそれをはっきりと指摘してくれてうれしく思いました。

エックハルト・トールの話のすぐ後に出てくる禅マスターとは鈴木俊隆(すずきしゅんりゅう)のことです。この話もおもしろいですね。

2026/01/10

瞑想:神の無限のマインドの中の一つの夢 ルパート・スパイラ

Meditation: A Dream in God's Infinite Mind  Rupert Spira
日本語字幕で見ることができます。1時間28分。この動画を日本語字幕で見るのは少し大変かなと思います。長い上に字幕が遅れたり正確でなかったり。でも、とても良い動画なので、備忘録的に載せておきます。

YouTubeの解説(Google翻訳)

この瞑想は、意識の無限の性質の認識と、意識がすべての客観的経験の実体であるという感覚/理解を引き出す質問を提示します。

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タイトルの意味は、私たち一人一人が生きている現実は神の無限のマインドの中の一つの夢にすぎないという意味です。

私たちは、意識は私たちが生まれた時、つまり体が始まった時に起こったと思っていますが、そうではなく、それは始まりも終わりもなくずっとあるものだということを順に説明していきます。

それは駅のホームで電車が通りすぎるのを見ている人のようなもので、電車がやって来ては通り過ぎていくが、ホームの人はただそれを見ているだけという説明から始まります。

いろんな例えを使いながら、私たちの現実には実体がなく、一つの夢だということを説明していきます。

話を理解しようとしないで、感じてと言っています。
この動画を見た感想は、すっきりしたというよりは、そうなんだろうなぁ、という感じです。

2026/01/08

思考はマインドから起こっているのではない  ルパート・スパイラ

Our Thoughts Don’t Come From the Mind
日本語で視聴できます。

YouTubeの解説(Google翻訳)

思考はどこから来るのでしょうか?ある質問者が、意識のみのモデル、思考の起源、心の本質、そして心の限界を超える方法について、ルパートと議論を交わします。

ルパートは、意識のみのモデルにおいては、無限の意識が文字通りすべてのものが生じる媒体であると説明します。思考は、歯痛のような個人的な経験、コロナウイルスのような心の外で起こる出来事、あるいは子供の頃の経験を通しての過去の経験によって条件付けられることがあります。

私たちは自分の経験を探求すればするほど、私たち一人ひとりの自己が無限の意識の自己であることに気づきます。そしてある時点で、個人的な思考や感情は静まっていく傾向があります。なぜなら、それらが中心に据えるべき明確に定義された個人的な自己、あるいは自我がもはや存在しないからです。心は限界を失い、無限の意識、あるいは宗教用語で言えば神の存在と一体であると認識されるまで、拡張していきます。

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意識(アウエアネス)の外には何もないという点ではセイラーボブの説明と同じですが、アウエアネスと思考のモデルをセイラーボブからは聞いたことがありません。ルパートの説明を鵜呑みにするわけではありませんが、説明が合理的で納得のできるものです。

大きな一つの意識があって、その局在化したものが個人の意識だという説明は説得力があります。そして私たちが死ねば、その局在化が消えて大きな一つの意識だけが残る。そう考えるのが合理的な気がします。局在化という言葉をルパートは使いますが、なかなかいい表現だなと思います。

2026/01/06

エンライトメントの探求  ルパート・スパイラ

The Search for Enlightenment
日本語字幕で見ることができます。
ところどころ意味不明の固有名詞や誤訳がありますが、話の大筋は理解できると思います。正確に知りたい方は文字起こし機能を使って英語字幕を出して、Google翻訳にかけてみてください。

YouTubeの解説(Google翻訳)

ある女性が悟りを求める旅について語り、ルパートにその旅を手放すための助けを求めました。
ルパートは、悟りは経験ではなく、単に自分の本質を認識することであり、人生におけるどんな経験も自分の本質を変えるものではないと説明しました。そして、あらゆる欲望の根底にあるのは幸福であり、欲望は私たちが欲する物ではないと説明しました。

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質問者の女性はエンライトメントの体験がしたくてルパートに質問をしますが、ルパートはエンライトメントは体験するものではないということを教え、エンライトメントとは何かを順に説明していきます。この動画でもルパートはエンライトメントとは何かを見事に教えてくれます。

ルパートがこれほどまでにセイラーボブと同じ説き方をするのにはちょっと驚きました。「あなたが五歳の時からずっと変わらずにあるものは何ですか?」

途中ルパートが尋ねます。「あなたは、ポルシェを手に入れたら不幸になり、ひどい中古のフォードを手に入れたら幸せになれるとわかっていたら、どっちを選びますか? ものすごいハンサムで知的で金払いのいい男と付き合えば、たちまちみじめなるが、見た目はそこそこで、まあまあ知的だけど、無職で金をあまり持っていない男と付き合い始めたとたんに幸福になれるとしたら、どっちを選びますか?」

私だったら、ポルシェとハンサムな方かなぁ。だから不幸なんやね。

2026/01/04

あなたが最初に目にするものは何でしょうか?

こう言いましょう。あなたが最初に目にするものは何でしょうか? それは空間ではないでしょうか? 空間は澄み切っていて、空です。
すべての顕現は空間の中で起こります。
つまり、顕現とは空間の内容物なのです。
空間がなければ内容物は存在し得ませんが、あなたは空間には気づいていません。明白なものに気づいていないのです。
あなたは内容物に気づいています。
さて、意識や認識についても同じです。
最初に起こるのは意識(アウエアネス)ですが、私たちは意識にとどまっていません。
私たちは意識に気づいているのではなく、意識の内容物に気づき、その内容物の中に何らかの解決策を探しています。
焦点をあの「存在」に戻しましょう。いや、実際には、戻すということでさえありません。そこから逃れることはできないのですから。そのことを理解してください。
                                    セイラーボブ

2026/01/02

瞑想:気づいていることに気づいていることが最高の瞑想である  ルパート・スパイラ

Meditation: Being Aware of Being Aware is the Highest Meditation
日本語字幕で見ることができます。43分。ゆっくり話しているので、日本語字幕はかなり正確です。

YouTubeの解説(Google翻訳)

あらゆる経験に深く浸透する、気づきの経験の探求。

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ルパートの動画の「瞑想」とタイトルがあるのは講話による瞑想のことです。対話形式ではなく、ゆっくり話しているので理解しやすいです。

この動画はすばらしい。ルパートは「私」とは何か?「私」に意識を向けるようにと導いていきます。そして最後に、エンライトメント(悟り)へと導いてくれます。それにしても、言っていることがセイラーボブとまったく同じ。

結局、非二元で教えている一番肝心な部分は、この動画に集約されるのではないでしょうか?