2026/07/21

「I」や「me」という言葉とは何でしょうか?

「I」や「me」という言葉とは何でしょうか?

辞書には「意味を持ち、話したり書いたりできる、一つまたは複数の音や文字からなる言語の単位」と書いてあります。

あなたはまさにそれなのでしょうか? その定義で生命や意識の神秘に少しでも近づくものでしょうか? あなたは、その音、あるいは文字の集合体なのでしょうか? あなたは、その言葉そのものなのでしょうか?
                                    セイラーボブ

2026/07/17

体は何で構成されているのでしょうか?

結局のところ、体は何で構成されているのでしょうか?
実のところ、それは「元素」で構成されています。
周囲にあるものと同じように、地、火、水といった元素から成り立っているのです。
そして、それらの元素はさらに素粒子へと分解することができます。
そうした元素は、無数の細胞からなるパターンを形成しています。それぞれの細胞には「知性」も宿っています。あるものは肝臓の細胞となり、あるものは心臓や腎臓の細胞となります。
しかし、もしそこに「実在」――それとは別個の存在――があるとしたら……。そもそも、その体というものは、他のあらゆる現象と同様に、一時的なものにすぎません。絶えず変化し続けているのです。
ですから、もし「あなた」がその体そのものなのだとしたら、体が変化するたびに、あなたも消えてなくなってしまうはずではありませんか?
でも、実際にはそうはなりません。
そこには常に変わることのない何かが存在し、体が変化したことに気づいたり、それを認識したりしているのです。そうではありませんか?
                                    セイラーボブ

2026/07/14

なぜ概念をそれほどまでに信じ込むのですか?

あなたが持っている言葉はすべて、後から身につけたり、途中で拾い上げたりしたものです。生まれたときには、どんな言葉も持っていませんでした。今でも新しい言葉を覚えるかもしれないし、忘れてしまう言葉もあるでしょう。それなのに、なぜ概念をそれほどまでに信じ込むのですか? 生まれたときや、その後の数年間、あなたは自分というものについての概念など持っていなかったのに、それでも何の問題もなく過ごしていました。自分に言葉を当てはめる必要などなかったのです。
                                                                                                                                   セイラーボブ                         

2026/07/10

それは単なる、純粋な「見ること」、純粋な「聞くこと」、純粋な「味わうこと」「触れること」「嗅ぐこと」なのです

では、次にどんな思考が浮かんでくるでしょうか?
それがどんなものになるのか、自分でも分からないことに気づくはずです。
思考はひとりでに湧き上がってくるものです。その思考を「考える主体」など存在しません。
感情を「感じる主体」もいません。
光景を「見る主体」もいません。
ただ「見ること」があるだけです。
「聞くこと」があります。
「感じること」があります。
「味わうこと」があります。
「触れること」があります。
「嗅ぐこと」があります。
「~すること(ing)」という表現は、まさにこの「今、ここ」で起きていることを示していますが、そこには主体と客体の分離はありません。
それは単なる、純粋な「見ること」、純粋な「聞くこと」、純粋な「味わうこと」「触れること」「嗅ぐこと」なのです。
「私は見る」と言うとき、あなたは主体、つまり概念的なイメージを作り出しています。
「感じる」「聞く」「感知する」と言うとき、触れられたもの、聞かれたもの、感じられたものすべてが「客体」になってしまうのです。
ですから、主体と客体という構図は二元論なのだと理解してください。
                                  セイラーボブ

2026/07/07

不生の仏心においては、万事が完璧に解決されている。それなのに、なぜ不生の仏心を捨てて、思考などというものに取り替えてしまうのか

16世紀の禅僧、盤珪(ばんけい)はそれを「不生(ふしょう)の仏心」と呼びました。彼はこう言っています。「不生の仏心においては、万事が完璧に解決されている。それなのに、なぜ不生の仏心を捨てて、思考などというものに取り替えてしまうのか」と。
自然は自ずと解決していきます。
そこには抵抗も、分離もありません。
津波が押し寄せてその場所を破壊し尽くすこともあれば、火が燃え広がってやがて焼き尽くすこともありますが、そこには抵抗というものが存在しないのです。
しかし私たちの場合、絶えず抵抗し、絶えず葛藤しています。それは、私たちに「推論する能力」が備わっているからなのです。
                                   セイラーボブ

2026/07/03

言葉は決して「実体」そのものではありません

言葉は現実そのものなのでしょうか?「水」という言葉であなたを濡らすことができるでしょうか? あるいは、「火」という言葉であなたを燃やすことができるでしょうか?

マインドは完全に象徴や描写の中で機能しており、直接的な体験という「実際の領域」と、それを表す「マインドの地図」とを混同してしまいます。
私たちは概念やラベル、スピリチュアルな専門用語に囚われすぎたり、指し示す指そのものを月そのものと間違えたりしてしまうのです。

言葉は単なる死んだ音や形に過ぎませんが、それらが指し示す現実とは、まさに今この瞬間に起きている、概念を超えた存在の脈動そのものです。
「存在」という言葉がなくても、あなたは存在しています。あなたは言葉の前にある存在であり、マインドがそれを名付けようとする以前から、すでに完全にそこに存在しているのです。
言葉は決して「実体」そのものではありません。
                                   セイラーボブ  

2026/06/30

森田療法のご紹介

このブログで森田療法のことを何度か書きました。森田療法は不安障害(神経症)、パニック障害、不安症、社交不安、強迫神経症、身体症状、抑うつなどに効果のある療法です。

私もそうなのですが、精神世界の旅人の中には何らかのメンタルの悩みや症状を抱えて探求の道に入る人もいると思います。

森田療法はとても有効な療法だと思っていますので、関連サイトをまとめて掲載させていただきます。

NPO法人生活の発見会

東京慈恵会医科大学 森田療法センター

メンタルヘルス岡本記念財団 YouTube

メンタルヘルス岡本記念財団のサイト

日本森田療法学会のサイト

このブログで森田療法について書いた過去の記事

おたより(本の紹介)

生活の発見会について

不安のまま生きる(マドモアゼル愛さんのYouTube)

2026/06/26

そこに、個人の力や意志の力、あるいは思考の力が介入する余地はあるのでしょうか?

もしそれを「全能」と呼ぶなら、それ以外に宇宙を動かしている力はあるのでしょうか? 
細胞や原子、そしてあなたの体についてはどうでしょうか?
それらはすべて同じエネルギー、つまり「唯一の力」が動かしているのではないでしょうか?
そこに、個人の力や意志の力、あるいは思考の力が介入する余地はあるのでしょうか?
                                    セイラーボブ

2026/06/23

あなたは、その空(くう)を認識する存在そのものなのです

仏教がそれを「非観念の常に新鮮な現存の意識、それ以外には何もない(ただそれだけ)」と指し示すなら――今この瞬間あなたはその意識そのものではありませんか?

つまり、あなたが「それ」そのものであるということです。「私」が「それ」に気づいているという考えは、概念的な覆いに過ぎず、その下では、在ることの純粋な確信がそれ自体として輝いているのです。

概念はそれに触れることさえできません。概念があろうとなかろうと、あなたは「在る」。あなたは、存在を知覚する、その新鮮な自己そのもの。思考の雲がかかっていようといまいと、あなたは、その空(くう)を認識する存在そのものなのです。

自分が「在る」という認識を否定することはできません。あなたは自分が意識だと知っています。そこには「知る」という働きがあります。それこそが、それです。他には何もない。
                                    セイラーボブ

2026/06/19

行為者、つまり分離した「私」という概念は、そもそも必要なのでしょうか?

消化や毛髪の成長は、あなたがやっていることでしょうか?
それは起こります。誰もそれをしているわけではないのに、起こるのです。
惑星が軌道上を移動するのと同じように。
誰もそれを動かしているわけではありません。
誰も太陽に火を灯しているわけではありません。
行為者、つまり分離した「私」という概念は、そもそも必要なのでしょうか?
                                    セイラーボブ

2026/06/16

解放を求める「自分」こそが、イメージ、マインドが生み出した構築物であることを認識してください

偽りのイメージに関して、あなたは一体何から自分を解放しようとしているのでしょうか?

偽りのイメージから自分を解放しようとする試みは、イメージとは切り離された「自己」が存在し、それを解放する必要があるという信念を強化するだけです。

もしそのイメージが本当に偽りであるならば、それは独立した存在ではありません。それがあなたを囚えておくことはできません。影に実体がないと気づけば、そこから自分を解放する必要はないのです。

出口を探すのではなく、解放を求める「自分」こそが、イメージ、マインドが生み出した構築物であることを認識してください。

偽りが偽りであると認識されたとき、自由への探求は終わり、そもそも束縛されていなかった、努力を必要としない存在だけが残ります。
                                   セイラーボブ

2026/06/12

あなた自身について抱いている「概念的な自己イメージ」に関して、何が理解されるべきなのでしょうか?

あなた自身について抱いている「概念的な自己イメージ」に関して、何が理解されるべきなのでしょうか?

そのイメージは、単に移ろいゆく思考の寄せ集めにすぎず、それ自体には独立した実体も現実性もまったくないのではありませんか?

あなたとは、そのように作り上げられた「私」という観念が現れては消えていく場である、疑いようのない存在そのもの――純粋な観察する意識そのものです。

空間が、その中で起こる出来事によって傷つけられたり変化したりしないように、あなたもまた、マインドが現在映し出しているどんな物語や、それが結び付けているどんな「私」というイメージによっても、まったく影響を受けません。

その概念的な自己イメージが、知覚の中に現れる一時的な対象のひとつにすぎないと明確に見抜かれたとき、その催眠術のような支配力は消え去ります。そして残るのは、形を持たず、常にそこにある「見ていることそのもの」として、自然に安らいでいる状態です。
                                     セイラーボブ

2026/06/09

あなたは「マインドの平安」を得られると思いますか?

あなたは「マインドの平安」を得られると思いますか?

マインドとは本質的に、思考や記憶、そして未来への予測の動きそのものであり、その性質上、絶えず落ち着きなく揺れ動いています。まるで海面の波のようなものです。

「マインドの平安」を求めるとは、矛盾した言い方です。なぜなら、あなたは不安や動揺を生み出しているその仕組みの中に、静けさを見いだそうとしているからです。

平安とは、何かを獲得することでも、マインドが最終的に到達する状態でもありません。それは、自分がマインドの「所有者」であるという信念が消え去ったときに、ただ残るものです。

あなたとは、マインドの活動が現れては消えていく場となっていて常にそこにある静かな意識そのものなのです。そして、自分自身がその変わることのない背景であると認識すること――それこそが唯一の「平安」なのです。
                                   セイラーボブ

2026/06/07

The Trinity of Truth: Voicing Sailor Bob

 The Trinity of Truth: Voicing Sailor Bobという本が出ました。

その関連動画です。

Presenting The Trinity of Truth, biography of Sailor Bob.

Podcast on Trinity of Truth - voicing Sailor Bob


2026/06/05

冷静さによって発見できる意識としての自分 マドモアゼル・愛


驚きました。この話はまったく非二元の話です。
しかも日常生活に非常に役立つ話です。
星座の話は信じないし、音叉は怪しいなと思っている私ですが、この話はまったくすばらしい。非二元を学ばずにここまでの見識に到達されるとは。まったくすごい。

なお、マドモアゼル・愛さんの政治的な発言や預言めいた発言、宇宙人の話などは全く支持も不支持もしていません。そういう発言のYouTubeは興味がないので見ていません。メンタルヘルスに関する発言にのみ注視して見ています。また、マドモアゼル・愛さんがサイトで販売されている商品についてもよく知りません。

2026/06/01

人生のあらゆる問題を解決するカギがある マドモアゼル・愛


悩んでないで、病んでいないで、しっかりと生活をしていく。それが大切ですね。

2026/05/30

あるがままを生きる

どのYouTubeだったか思い出せないのですが、マドモアゼル愛さんのYouTubeの中で、「私は荘子が好きで、ある日鶏(とり)になっていたら、思い切り鳴いてやろう、という荘子の言葉が好きです」という趣旨の発言がありました。物事をあるがままに受け入れるという話の中での引用だったと思います。

時々その話を思い出して気になっていたので、荘子がそういうことを言ったのかとGeminiに質問したところ、おそらくそれは本からの引用だろうということで、その内容を教えてくれました。

********以下はGeminiから

「もし私の左腕が鶏(にわとり)になったら、私はそれで時を告げよう。もし私の右腕が弾丸になったら、私はそれで鳥を射落として料理しよう。もし私のお尻が車輪になったり馬になったら、そのままそれに乗って行こう。どうして乗り換える必要があろうか」
『「荘子」鶏になって時を告げよ』(講談社学術文庫/岩波文庫)中島隆博・著

********以上引用終わり

荘子の言葉を編纂したとされる「荘子」には、いろんな人のいろんな注釈本が出ているので、その解釈は一様ではないかもしれません。マドモアゼル愛さんも、どなたかの本を読んで、そこから引用してみえるかもしれません。

そこで、もう一度Geminiに効いてみました。

********以下はGeminiから

「荘子の教えを簡単に説明して」

中国の思想家、荘子(そうし)の教えを一言でいうなら、**「あるがままに、自由に生きる」**ということです。

彼は、人間が勝手に作り出した「善悪」「美醜」「成功・失敗」といった価値観の縛りから脱却し、宇宙の根本的なリズムである**「道(タオ)」**と一体化することを理想としました。

主なポイントを3つに絞って解説します。

1. 万物斉同(ばんぶつせいどう)
私たちはつい「これは良い、あれは悪い」「自分は正しく、あいつは間違っている」と区別してしまいがちです。しかし荘子は、宇宙の大きな視点から見れば、すべてのものは等価値であり、境界線などないと説きました。
これを「万物斉同」と呼びます。他人の目や社会の評価を気にしすぎるのは、無意味な区別にとらわれているからだ、と考えたのです。

2. 逍遥遊(しょうようゆう)
「逍遥(しょうよう)」とは、あてもなくぶらぶら歩くこと。「遊」は文字通り遊ぶことです。
世俗的な利益や名誉を追い求めるのではなく、何にも縛られず、広大な精神世界でゆったりと自由に遊ぶような境地を目指しました。これが荘子の理想とする生き方です。

3. 無用の用(むようのよう)
世の中で「役に立たない」とされるものにこそ、真の価値があるという逆転の発想です。

例えば、曲がりくねって建築資材に使えない木は、人間に切り倒されることがないため、天寿を全うして大きな日陰を作ります。**「役に立たないからこそ、自由でいられる(守られる)」**というこの考え方は、競争社会に疲れた心に強く響く教えです。

有名なエピソード:胡蝶の夢(こちょうのゆめ)
荘子があるとき、蝶になってひらひらと飛んでいる夢を見ました。目が覚めたとき、彼はこう疑いました。
「自分は蝶になった夢を見ていたのか? それとも、今の自分は、蝶が見ている夢の中の存在なのか?」

これは、「自分」という固定観念すらも絶対的なものではないという、非常にユニークな視点を示しています。

荘子の思想は、現代の「タイパ(タイムパフォーマンス)」や「市場価値」といった息苦しい概念から、ふっと心を解放してくれるような魅力があります。

*******以上引用終わり

この話、セイラーボブの言う事と似てる気がしませんか?

「ある日鶏(とり)になっていたら、思い切り鳴いてやろう」

あるがままを受け入れて懸命に生きようではありませんか。

2026/05/28

世界が幻想なのではない。しかし、この点(それ自体が幻想である点)との関係においてあなたが経験するものは、すべて必然的に幻想となる。

以下はカリヤニのFacebookから(翻訳はChatGPT)
*******************

U.G.クリシュナムルティの著書『The Courage to Stand Alone』からの言葉の一部です。

U.G.は実に予測不可能で魅力的な「非教師」であり、ピーターと私は約34年前、メルボルンで彼としばらく一緒に過ごす幸運に恵まれました。彼と接したことで、私のスピリチュアルな探求が実際には何であったのかが明るみに出され、すでに私の中で明確になりつつあったことを彼が裏づけた後、自己の解体のような瞬間が頻繁に起こるようになりました。

彼を訪ねて2日目、私は大量のノートと彼の出生占星図を渡されました。彼は多くを語ることはありませんでしたが、その簡潔な言葉だけで十分でした。

「この時点からあなたが経験するものはすべて幻想だ――“幻想”という言葉そのものが幻想だという意味ではない。インドのヴェーダーンタ哲学者や思想家たち、特にシャンカラの弟子たちは、このような軽薄でまったく無意味な議論にふけっている。

世界が幻想なのではない。しかし、この点(それ自体が幻想である点)との関係においてあなたが経験するものは、すべて必然的に幻想となる。それだけのことだ――世界そのものが幻想だというわけではない。

彼らが『マーヤー』という言葉を使うとき、それは英語で言う“illusion(幻想)”とは異なる意味だ。マーヤーとは「測ること」を意味する――サンスクリット語では「測定する」という意味だ。

何かを測るためには基準となる点が必要だ。したがって中心が存在しなければ、そもそも円周というものも存在しない。これはごく単純な基礎的な算術の問題だ。

その点には連続性はない。その点は状況の要求に応じて生じる。状況の要求がその点を生み出すのだ。そこには主体はまったく存在しない。むしろ客体が主体を生み出すのだ。」

****************
ここからは拓の感想

やっぱりU.G.はすごい。わかりやすいですね。世界は幻なんかではない。「あなた」、もしくは「私」という点が幻想だと言っているんですね。「世界は幻」ということに関して、この説明が一番納得できる説明ではないでしょうか。

マーヤーは「測ること」を意味するという説明も初めてで新鮮でした。インド人のU.G.が言うのだから間違いないでしょう。

世界は幻なんかじゃない。美しい山も海も現実として存在する。でも、そこに「私」はいない。

2026/05/26

ChatGPTに仏教について質問してみました③

無我を説く仏教は非二元の教えということができますか?

とても良い問いですね。

結論から言うと、仏教は非二元的な側面を強く持っていますが、単純に「非二元論」と言い切るのはやや注意が必要です。少し整理してみましょう。

1. 無我(アナッター)とは何か

Buddhismにおける「無我(アナッター)」は、

固定的・独立的・永遠不変の自己(アートマン)は存在しない

という教えです。

これは

「私」という実体がある
vs

「世界」という外部がある

という二元的な見方を解体します。

つまり、私も他者も、固定的な実体ではなく、縁起(相互依存)によって成り立つ現象の流れにすぎないとされます。

この点では、確かに強く非二元的です。

2. 非二元(アドヴァイタ)との違い

「非二元」と聞くと、特にインド哲学の

Advaita Vedanta

が思い浮かびます。

アドヴァイタでは、

世界と自己は究極的にはブラフマンという唯一の実在である

と説きます。

しかし仏教は、

「永遠の自己」も認めない

「究極の実体」も措定しない

という立場を取ります。

つまり、

アドヴァイタ      
 ・一つの絶対実在がある  
 ・すべてはブラフマン

仏教
 ・そもそも実体を立てない
 ・すべては空・縁起

仏教は「一元論」ではなく、実体化そのものを解体する立場です。

3. 大乗仏教ではより非二元的になる

特に

Mahayanaでは、「空」の思想が発展し、

主体と客体

生と死

涅槃と輪廻

といった区別も、究極的には固定的ではないとされます。

例えば

Nagarjuna

は、あらゆる存在を「空」とし、存在/非存在という対立さえ超えます。

この意味では、かなり徹底した非二元的視点です。

4. では結論は?

✔ 仏教は「自他の実体的分離」を否定する点で非二元的
✔ しかし「唯一の実在」を立てる一元論ではない
✔ むしろ「実体視をやめる」こと自体が核心

なので、より正確に言うなら:

仏教は「形而上学的一元論」ではなく、「実体を解体する非二元的実践哲学」

と言えるでしょう。

もしよければお聞きしたいのですが、

哲学的な比較としての関心ですか?

それとも瞑想体験との関係での疑問でしょうか?

関心の方向によって、かなり説明の深さが変わります。

日本の神道は非二元の教えということができますか?

興味深い問いですね。

結論から言うと、神道は明確な「非二元論」を説く宗教ではありませんが、二元対立を強く固定化しない世界観を持っているため、非二元的に解釈できる側面はあります。

整理してみましょう。

1. 神道はそもそも「教義宗教」ではない

Shintoは、体系的な教義や哲学体系を中心とする宗教ではありません。

創始者なし

統一された経典なし

明確な形而上学なし

むしろ、祭祀・儀礼・自然観・共同体との関係性が中心です。

そのため、「非二元かどうか」という問い自体が、やや外側からの哲学的問いになります。

2. 神道の世界観の特徴
① 自然と人間の分離が弱い

神道では、

山、川、岩、風、祖先などに「神(カミ)」が宿るとされます。

これは超越的な絶対神というより、自然の現れそのものが神聖であるという感覚です。

人間と自然を根本的に分ける発想は強くありません。

この点は、非二元的と感じられる部分です。

② 善悪の強い二元対立がない

古事記や
日本書紀を見ても、

絶対的な善神 vs 悪神
という明確な対立構造はありません。

神々も失敗し、怒り、迷い、和解します。

善悪よりも
**「清浄/穢れ」**のほうが中心概念です。

これは道徳的二元論とはかなり違います。

3. ただし「哲学的非二元論」ではない

例えばインドの

Advaita Vedanta

や仏教の「空」の思想のように、

主体と客体は究極的に一つである

といった形而上学的命題は、神道には明示されません。

神道は

「万物は一つの絶対実在である」
とも

「すべては空である」

とも言いません。

むしろ、

世界はそのままで聖なる

という感覚的・祭祀的な世界観です。

4. 神仏習合の影響

日本では長く

Buddhismと神道が融合し(神仏習合)、

神道が仏教的な非二元思想の影響を受けたことは確かです。

そのため、日本的宗教感覚全体としては、

自他の境界が曖昧

自然と神が分離しない

超越神 vs 被造物という対立が弱い

という、やや非二元的な雰囲気が育まれました。

しかしそれは純粋な神道の教義というより、歴史的混交の結果です。

5. 結論

✔ 神道は明確な非二元哲学ではない
✔ しかし強い二元対立を作らない
✔ 自然と人間の連続性を前提にする
✔ 善悪よりも「清めと調和」が中心

したがって、

神道は「哲学的非二元論」ではないが、「二元対立をあまり固定化しない宗教文化」と言える

というのが比較的正確だと思います。

もしよければお聞きしたいのですが、

仏教との比較としてのご質問でしょうか?

それとも西洋的一神教との対比でしょうか?

あるいは日本的精神文化全体への関心でしょうか?

方向によって、かなり深く掘り下げられます。

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私はあまり神道には詳しくないのですが、万物に神が宿っているという思想は非二元の思想と相通じるものがあるような気がしています。