2024/05/17

世界は幻か?

前回のブログの「ミリンダの問い その29」は、仏教が世界をどのように認識しているのかがわかって、とても良い話でした。ミリンダ問経にあるような初期仏教では、世界は実在するが、「私」は実在ではないという立場をとっています。さらに仏教が発展して大乗仏教になると、世界も実在ではないと説く人たちが現れます(唯識など)。

セイラーボブに会った最初の頃、世界が実在なのかどうかが知りたくてしかたがありませんでした。セイラーボブは、ヒンズー教を引き合いにだして、世界はマーヤー(幻)だと言われているという話を時々します。それで私は、世界が自分の意識の外にあるのかどうかが知たくてしかたなかった。私が眠っている時にエジプトのピラミッドは消えているのか? メルボルンのヴィクトリア通りの建物は消えているのか?

そういう質問をしたことがあるのですが、ボブはいつも決まって「そこにあるのは何ですか?」と言って、部屋の隅にある椅子を指すのです。そこから、それが椅子なのかどうか? それは実在か? という話になっていくのです。私としては、もっと単純に、私たちが見ている世界は実在なのかどうかが知りたかったのですが、いつもはぐらかされたような印象を受けました。

非二元の教師たち皆が世界は幻だと言っているわけではないのですが、そのように解釈できるように語る人もいます。ジャン・クラインは、「意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます」と言っています。

個人的には、おそらくジャン・クラインの言う通りなのだと思います。おそらく、私の意識が消えれば世界は消えるだろうと思います。例えば、私が死んだら世界は消える。私が空の上から残された人たちの活動を見るなんてことにはならないと思っています。参照点が消えればもうこの世界を見ることも感じることもないだろうと思います。ただ、まだ生きている人に参照点を置くなら、そこには依然として世界はあるでしょう。

でも、それも想像にすぎません。いくら考えてみたところで、私たちは五感を通してしか世界を認識できないのだし、五感の外に出て確かめることは不可能なので、意識の外に世界があるのかどうかは確かめようのないことです。私が死んだあとに世界はどうなるかも、確かめようのないことです。

人によっては、世界は実在しないという考え方は行き過ぎで、世界も身体も実在するが、「私」は実在しないという初期仏教の考え方の方がしっくりいくという人もいるのではないでしょうか。昔の私だったら、覚醒した人はそういった意識の外の世界さえ見えているはずだと思っていましたが、今ではそんなことはまったく信じていません。

以前は、非二元の教えを理解する上で、世界は幻であるということを理解しなくてはいけないと思っていましたが、今はそうは思っていません。非二元の教えの核は「私」は実在ではないということです。世界が実在かどうかは考えてもしかたがないことだと思います。現実問題として健康診断にも歯医者にも行かなくてはいけません。身体は無いなんて言ってられない。

以前、非二元にまったく興味のない友人に、「ひょっとするとリンゴは脳の産物で、実際には存在しないかもしれない」と言ったところ、ひどく怒られて、あんまり変な本ばかり読んでるいからそうなるんだと言われたことがあります。世界は幻だなんて言おうものなら・・・。

認識論については、今のところ前回のブログ(ミリンダの問い その29)が一つの答えになるのではないでしょうか。科学は、物質は存在しないということを証明する手前まで来ていますが、まだそれは量子力学の段階でしかありません。現段階ではまだよくわかっていません。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。

わからないものはわからなくていいのではないかと思います。非二元の教師が、世界は幻だと言ったとしても、彼らでさえも確かめることはできないと思います。現実的なことを言えば、私の世界は私の意識の及ぶ範囲だけであり、それ以外はないと同じではないかと思います。

2024/05/14

仏教の認識論  私とは何か?

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その29」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話、おもしろいですよ。
非二元を学ぶ人必見。ぜひ見てください。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その30」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話は非二元そのものです。

2024/05/10

霊魂のような不変の実体はどこにもない

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その27」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

「私」はいるのか。佐々木先生のすばらしい話が続いています。

2024/05/07

時間は生あるものにしか存在しない

非二元の教えの中で、時間に関するところは理解が容易ではないところではないかと思います。時間は思考の中にしかないと言われても、なかなか理解できない人が多いのではないでしょうか。
仏教ではどうか? 「ミリンダの問い その24」では、「時間は生あるものにしか存在しない」という説明が出てきます。そして「ミリンダの問い その25」はもうほとんど非二元の世界。もちろん仏教と非二元では時間に関する考え方は違うのですが、似たような捉え方をしていたんだなと参考になりました。そして佐々木先生は、もし人間がいなかったら時間とは何なのかと問うてみえます。とても興味深いところです。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その22」

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その23」

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その24」

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その25」

2024/05/03

あとがき・まとめ

私はこのブログをずっと続けていきたいと思っています。でも、いつどんな理由で更新できなくなるかはわかりません。病気、事故、災害などの理由で、何の断りもなくブログがそのままになることだってあるかもしれません。そんな尻切れトンボで放置するのは嫌だと思って、毎年年末になると、その翌々年の一月一日にタイマー投稿をセットして、「ごあいさつ」の記事がブログのトップに来るようにしています。幸い今までのところ毎年そのタイマー投稿を翌年にずらすことができています。それで一応ブログとしては恰好がつくかなと思うのですが、でもそれだけだと何か物足りないと思うようになりました。そこで、本でいうなら「あとがき」のようなものを先に書いておこうと思います。

私がこのブログに一貫して書いてきたことは、この一言に集約することができます。

本質としての「私」は身体でも思考(マインド・心)でもなく、意識である。

私たちは、ある日人間としてこの世に生まれ、成長して大人になり、この「私」がこの人生を生きていると信じています。私は男性である。私は女性である。私は会社員である。私は母である。私は日本人である。私は町の中で暮らし、休日には山へハイキングに行く。そこには自然がある。こうしたことを、ごく当たり前に信じて生きています。

でも、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは何でしょうか? 非二元を学び、こうした物事の一つ一つを調べていくと、どれもが実在ではなく、後天的に学んだ思考のかたまり、あるいは条件づけであるという理解に至ります。「私」は思考のかたまりにすぎません。そして、時間についても、それは思考の中にしか存在しないということがわかります。

そして、セイラーボブを始めとする非二元の教師たちは、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは、今この瞬間に意識があるということだけだと言います。この意識のことを非二元の教師たちは多様な言葉で表現します。アウエアネス、純粋意識、生、気づき、真我、空間、それ。ニサルガダッタ・マハラジの言葉を借りて言うならば、「私は在る」という感覚、つまり意識があるということだけが今この瞬間に絶対的な確信をもって言えることです。その他のことはすべて仮説か想像にすぎません。

この意識とは、私たちの日常に普通にある意識のことです。何か特別な体験をして手に入れなくてはいけないとか、特別な人にだけにある意識ではなく、誰もが普通に持っている意識のことです。思考のことを意識と言い、思考の背後にある意識のことを純粋意識と呼ぶ教師もいます。呼び方は何でも構いません。それは思考の背景にいつもある普通の意識のことです。私たちが絶対的な確信を持って言えることは、今その意識がここにあるということだけです。

その意識とは一体何なのでしょうか? 多くの人は、人間は生まれてあくせくと一生を生きて死ぬものだと思っています。でも、もしそうではなくて、生まれることも死ぬこともない永遠不滅の意識が本当の「私」だとしたら。その意識がたまたま体や思考となって、一時的に「私」として表れているのだとしたら。

本物の非二元の教師たちが説いていることは、私たちは、はかない命を生きている哀れな人間などではなく、生まれることも死ぬこともない永遠不滅の一つの意識であるということです。それを手に入れるために何かをする必要はなく、私たちはもともとそれなのだということを理解すればよいだけです。

例えば、私たちは自分が生まれて生きていると思っています。でも、生まれるということはどういうことでしょうか? 生きているということはどういうことでしょうか? 生まれるということの定義づけも、生きているということの定義づけも、後天的に人から植え付けられた概念であり、実際にはどういうことなのか誰もわかっていません。心臓が脈を打ち、肺が呼吸をしているから生きているのだと考えていますが、それも誰かから植え付けられた概念にすぎません。

世界は私の意識の中に現れます。そういう点において万物は一つのものです。では、意識の外に世界はあるのでしょうか? それは確かめようがありません。なぜなら、私たちは五感を通して意識の中に現れる世界しか認識しようがないからです。世界は必ず五感を通して意識にやってきます。でも私たちは、世界は私たちの意識とは関係なく存在していると勝手に想像しています。でも、本当にそうでしょうか? 意識の外に出ることができない以上、意識の外に世界があるのかを確認する方法はありません。

時間に関してはどうでしょうか? 明日はまだやって来ていないので、当然存在していません。では、昨日はどうでしょうか? 昨日はどこにあると聞かれても、それは記憶の中にしか存在しません。つまり、意識の中にしか存在しないのです。昨日の時点では昨日は存在したと言われるかもしれませんが、それは今の時点で昨日のことを想像しているにすぎず、昨日の時点の昨日は今だったはずです。すると昨日も私たちの意識の中の想像でしかないことになります。

こうやって、一つ一つのことを突き詰めて考えていくと、今この瞬間に確かな確信をもって言えることは、今ここにある意識だけが確かなものであり、その他のもことは想像か仮説、あるいは思い込みや条件付けにすぎないということがわかります。非二元の教師たちが教えているのは、この意識のことです。私は「意識」という言葉がわかりやすいので意識という言葉を使っていますが、実際のところ、この意識とは何なのかと聞かれると答えることができません。

朝起きるとやってくるもの。思考の背景にいつもあるもの。それでいて、深い眠りの中にもあるもの。そこに世界が現れるもの。この程度の説明しかできません。それが本質としての私だと非二元の教師たちは言うのです。私たちは、この意識を客体として認識することはできません。なぜなら、私たちがその主体である意識だからです。目が自身の目を見ることができないように、意識が意識を認識することはできません。

ではどうしたらいいのか? 多くの非二元の教師たちが異口同音に言っているのは、思考を見つめることです。良い・悪い、好き・嫌いといった判断をしないで、ただ見つめる。あるいは気づいている。それを変えようとせず、消そうとせず、ただあるがままに見つめる。

非二元の教師たちは映画のスクリーンの例えを使うのが好きなので、ここでも使わせてもらいます。スクリーンが意識です。そのスクリーンの上に物語や世界が映し出されます。私たちには物語や世界は見えますが、スクリーンを見ることができません。そこで、スクリーンに映し出される物語や世界を見つめるのです。それを見つめることによって、それが実在なのかそうでないのかを見るのです。

意識のスクリーンに現れる最大のものは思考です。その思考を見つめるのです。それに気づいていることで、その思考が実在なのかどうか、その思考の背景には何があるのかを感知するのです。

意識に気づくことで何が起こるのかは人それぞれだと思います。至福、愛、やすらぎという人もいるでしょう。物語に巻き込まれなくなったという人もいるでしょう。私の場合は、ニサルガダッタが言った「もう何も悪くない」という表現が一番近いかなと思います。

多くの人は、非二元の教えを理解したら、何か特別なことが起きると信じています。意識がシフトして、悩みや苦しみが消えると思っています。でも、そんな事は起きません。非二元の教えを理解しても、特別なことは何も起きません。非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではないのです。

多くの人は、非二元の探求が終わればエンライトメント、あるいは覚醒が起こるはずだと信じています。ここで言うエンライトメント、覚醒とは、ある時何かが起こって意識に変容が起こり、あとは至福に包まれて幸福に暮らせるとか、光に包まれるような体験をして意識がシフトして、あとは悩み事もなく幸福に生きていけるというような、おとぎ話のように信じられてきた出来事のことを言っています。東洋、特にインドでは、こうしたおとぎ話が信じられてきた伝統があり、多くの人がそれを求めて探求してきた歴史があります。

でも、そんなものはありません。それはおとぎ話です。私はそれを多くの非二元の教師から学びました。真の非二元の教師たちは、誰一人としてエンライトメント、覚醒を説きません。もちろん、そうした教師の中には、「覚醒」「目覚め」という言葉を使う人もいますが、それは「理解する」「気づく」という意味で使われています。

スピリチュアルの教師、グルの中には、エンライトメントがあるかのように説く教師もいます。自らを覚醒した人だと宣言する人もいます。でも、そうした教師やグルは、誰一人として信奉者を救済することなく、多くの災いをもたらして去っていきます。それは歴史を振り返ってみればわかることです。

私も長い間エンライトメントを求めて探求してきました。その途中で多くの人たちに出会いました。突然仕事をやめてインドに旅だち、周りの人を悲しませた人たち。あ、これは私のことでした。なけなしの貯金を差し出してコミューンという名の共同生活に身を投じた人たち。自称覚醒した人に騙されて大金を失った人たち。日本では、かつて大きなカルト事件がありました。教祖は自らを覚醒した人だと名乗り、それを信じた多くの人たちが自分も覚醒して楽になりたいと教団に飛び込んでいき、最後には地下鉄にサリンをまくという事件がありました。

どれもこれも、覚醒があると信じていたから起こったことです。そんなものはありません。よく考えてみればわかることではありませんか。人間の苦しみや悲しみが、覚醒してすべて消えるなんてことがあろうはずがないではありませんか。でも人は自分ではどうすることもできない大きな苦しみや悩みを背負ったとき、そうしたおとぎ話をいとも簡単に信じてしまいます。私もそうでした。非二元の教えを学んで苦しみから解放されたいと思っている人は、そうしたおとぎ話を信じた人たちを笑うことはできないはずです。ひとつ間違えば、同じ道をたどっていたかもしれません。

今現在でも、多くの人がエンライトメント、覚醒を求めてさまよっています。あるいは覚醒を求めて次々と非二元の本をあさっている人もいるでしょう。そして最後には、自分は覚醒できなかったいう鬱々とした思いを抱えながら生涯を終えるか、トリップして自分は覚醒した言いだして、さらに多くの人に不幸をもたらすかのいずれかです。エンライトメント、覚醒などないということを一人でも多くの人に知ってもらいたいのです。「私はエンライトメントした」という教師、グルはとても危険です。必ず災いをもたらします。

真の非二元の教師たちが教えていることは、エンライトメント、覚醒ではありません。彼らが教えていることを理解しても意識が変容することはありません。至福に包まれることも悩みや悲しみがたちどころに消えることもありません。彼らが教えていることを理解しても特別なことは何も起きません。彼らが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないのです。一瞥体験は非二元の教えとは何の関係もありません。私たちが非二元の世界を一瞥することはありません。なぜなら、私たちがその主体だからです。

一瞥体験を語る人の常套句は「その時私はいなかった」というものです。では、私がいなかったことを覚えているのは誰なのですか? どうして私がいなかったのに、そのことを覚えているのですか? そして、一瞥体験が去った後はまた「私」を生きていることになります。これでは普段は「私」がいることになります。非二元の教えの核は、もともと「私」など存在しないということです。

一瞥体験は、いるはずのない「私」をわざわざ作り出して、その私がいない体験を演じているにすぎません。覚醒やエンライトメントなどというものはないということをしっかりと理解できたなら、ましてやそうしたありもしない世界を一瞥することなどありえないと理解できます。そうした体験はマインドによる疑似体験でしかありません。

私たちは幸福や平安を求めます。でも、幸福や平安は不幸や苦しみがあってこそ成り立つものです。もし覚醒が起こって不幸や苦しみが消えたら、幸福や平安も消えます。幸福や平安は不幸や苦しみがなければ存在しえないからです。覚醒して毎日至福に包まれて暮らしたなら、その至福は至福ではなく、平凡な日常になります。それが私たちの生きている二元性の世界であり、その外へ出ることはできません。

また、非二元の教師たちのことを、私たちとは違う意識の、覚醒した人たちだと思い込んでいると、彼らが言っていることが理解できません。彼らは決して難しいことを言っているわけではないのですが、ことの性質上、不鮮明な説明や表現を使うことがあります。そうすると、「やっぱり私は覚醒していないから理解できない」となって、理解することを放棄してしまいます。彼らの語っていることはシンプルなことです。勝手に想像して彼らの教えを複雑にしてしまっているのは、彼らは特別な人だという思い込みにすぎません。

多くの人が、彼らには私たちとは違う世界が見えていて、超越的な知識を持っているのではないかと思い込んでいます。彼らは、私たちはどこから来てどこへ行くのか知っているのではないか、来生はあるのか、宇宙の成り立ちはどうなっているのかという類のことを知っているのではないかと思い込んでいます。でも、彼らにそんなことがわかるはずがないではありませんか。

彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。同じ世界を私たちと同じように見ているのであって、超越的な知識を持っているわけではないのです。私たちより少し先に非二元を理解したにすぎません。理解したことによって特別の意識の状態になったということは決してないのです。

多くの人が、探求が終わると何か特別なことが起こって意識の変容が起こると思っています。そんなことは起こりません。なぜなら、探求などもともとないからです。探求という概念そのものに時間という観念が含まれています。探求による成長や変化はマインドの中で勝手に想像した産物に過ぎません。時間がなければ探求などないのです。あるのは今ここにある意識だけであり、成長も変化も探求もないのです。私たちはもともとそれなのです。

覚醒した人なんていません。非二元の教師だって悩みごともあれば心配ごともあります。ただ彼らは、悩みごとや心配は単なる思考に過ぎないということを心底理解しているにすぎません。かつては、自らを覚醒したグルだと宣言して、祭壇の上で覚醒した人を演じるグルや教師もいました。でも今日では数多くの非二元の教師たちが現れ、インターネットの発達と相まってそんなイカサマを暴いてくれています。

自らを覚醒した存在だとして信奉者を集める手口は時代遅れのイカサマです。決して騙されないでください。もし、エンライトメントや覚醒などないと多くの人が知っていたら、数多くの悲劇を防ぐことができたであろうし、今後も繰り返し起こるであろう悲劇を避けることができると思うのです。

非二元の教えを正しく理解すれば、エンライトメント、覚醒がないということは容易に理解できます。非二元の教えを正しく理解すると、「私」は思考のかたまり、条件付けにすぎないということがわかります。つまり、「私」は実在しないのです。実在しない「私」がどうやって覚醒するというのですか? エンライトメント、覚醒があると言ったとたんに、いるはずのない「私」が現れて、その「私」が覚醒するというストーリーをマインドがでっちあげてしまうのです。

エンライトメント、覚醒という概念には、今覚醒していない私がいつか未来に覚醒するという時間の観念が含まれています。非二元の教えでは時間は思考の中にしか存在しないのです。いつか未来に覚醒するという発想そのものが非二元ではなくなってしまうのです。

そして極めつけは、覚醒する前の意識と覚醒した後の二つの意識があると思っているのなら、それは二元であり非二元ではなくなってしまいます。一つの意識しかないのです。今この瞬間、ここにある意識がすべてであり、他には何もないのです。二つの意識を認めることは、非二元の基本を踏み外した思考の産物に他なりません。

最後に非二元を理解する上で誤りやすいいくつかの点について書いておきます。時々、ネット上で見聞きすることですが、非二元を運命論や宿命論のように考えている人がいます。例えば、私たちの人生はすでに出来上がった映画のようなもので、ストーリーはもう決まっているというものです。それは正しくありません。非二元は運命論でも宿命論でもありません。何も決まってはいません。

運命論を語る場合、その大前提になるのは、そこにその運命を生きる「私」がいるということです。でも、非二元の教えでは「私」は実在しません。だとすると、誰がその運命を生きるというですか? そしてまた、運命論には時間という概念が入っています。ところが非二元の教えでは、時間は人の思考の中にしか存在しません。勝手に未来の運命を考えているのは思考の中だけです。運命論を口にしたとたんにマインドが「私」と「未来の時間」を作り出していることを理解してください。

私がセイラーボブに会って間もないころ、「人の未来がすべて決まっているのなら、努力は何の役に立つのですか?」と聞いたことがあります。するとボブは、「誰が努力をするのですか? 努力は自然に起こっています」と言いました。そこには、努力をする「私」も運命を生きる「私」もいないのです。

そしてまた、自由意志についても同じことが言えます。「自由意志はない」と言う人がいますが、それも正しくありません。「自由意志はない」と言ったとたんに、自由意志を持たない「私」が現れます。「自由意志はある」と言っても、自由意志を持つ「私」が現れます。「私」という主体が実在ではないのに、誰が自由意志も持つのですか? 自由意志があるとかないとか言うこと自体がおかしいのです。そしてまた、自由意志という概念にも時間の観念が含まれています。

同じ理屈は、輪廻やあの世の話にも当てはまります。「人は輪廻するのですか?」と問うこと自体が間違いなのです。そこに輪廻の主体となる「私」がないのなら、誰が輪廻するというのですか? そしてまた輪廻や生まれ変わり、あの世にも時間という概念が含まれています。

非二元の教えをきちんと理解していれば、運命論や自由意志、転生やあの世の話は出てこないはずです。「私」は実在しない。時間は思考の中にしかない。今ここにある意識だけが実在である。こうしたことは非二元の教えの基本です。そして、今ここにある意識だけが実在だと理解すると何が起こるのか。私たちの悩みや苦しみはすべて実在ではなく、想像の産物だという理解が起こります。

心理的な苦悩は不要です。逆に言うと、非二元の教えを理解して起こることは、心理的な苦悩からの解放だけです。引き寄せの法則がスムーズにいくとか、社会的に成功するということではないのです。悩みや苦しみは依然として起こってきます。でも、それには実体がないということを理解していて、巻き込まれることがなくなります。得られるものはそれだけであり、それこそがセイラーボブをはじめとする非二元の教師たちが教えていることです。

私は非二元の教えを十分に理解したつもりです。でも、それを体現して生きているかというと、そうとも言えません。いくらそれが実体のない思考にすぎないとわかっていても、悩みや不安にあっと言う間に圧倒され、ありもしない未来をさまようこともしょちゅうです。まだまだだなぁ思う毎日です。でも、基本的なことをしっかりと理解していれば、以前と同じように問題を雪だるま式に大きくしたりせず、問題は自然に解決するとわかっています。もともと問題などありはしないのですから。

セイラーボブと別れる時、彼は私に「このことをたくさんの日本の人に教えてあげて」と言いました。私はセイラーボブから学んだ非二元を一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っています。でも、非二元の教えを十分に体現して生きているとは言い難い私が教師面してミーティングをしたり個人セッションをしたりする気にはなれません。それに、インターネットがこれほど発達した今日、もはや非二元の教えは誰かに直接会って教えてもらわなければ学べないというものではなくなりました。非二元の教えはこのブログを一通り読んでいただければ十分に学べることです。それを体現して生きるかどうかはそれぞれの人次第です。私はこれからもせっせとブログを書いて、できるだけ多くの人に読んでいただきたいと思っています。それで私の役目は十分に果たせていると考えています。

謝辞

以下の人たちに感謝します。

私にセイラーボブのことを教えてくれた友人に。
一緒にミーティングに参加して、いろいろ教えてくれたトビー、ビル、サビーナ、ラメッシに。
セイラーボブの教えの理解に役立った「LIVING REALITY」を書いてくれたジェームズ・ブラハに。
セイラーボブの教えを最終的に理解することを助けてくれたギルバートとカットに。
さらに深い理解と洞察をもたらしてくれたピーターとカリヤニ、U.G.クリシュナムルティをはじめとする多くの非二元の教師たちに。
セイラーボブをはじめ、多くの非二元関連の本を翻訳して先駆的な仕事をしてくださった高木悠鼓さん、たくさんの非二元の本を翻訳してくださった古閑博丈さん、ナチュラルスピリットの皆さんに。
仏教の中にある非二元(無我)の理解を助けてくださった佐々木閑先生、横田南嶺老師に。
ブログを読んでいただいた皆さん、おたよりでブログを盛り上げてくださった皆さんに。
そしてもちろん、私にこんなに素晴らしいものを教えてくれたセイラーボブと、あらゆるものとなって現れている一つのものに。

2024/04/30

生(livingness)が今この身体の中で脈動し鼓動しています

生(livingness)が今この身体の中で脈動し鼓動しています。何の努力もなく。
生は思考さえも引き起こしています。というのも、エネルギーは出口を見つけなくてはいけないからです。
生はあなたが世界を見る光となってあなたの目を輝かせています。
あなたは見るためにどんな努力をしましたか?
あなたの目を輝かせるためにどんな努力をしましたか?
聞くためには? 考えるためには? あなたはどんな努力もしていません。
                                    セイラーボブ

2024/04/26

それが習慣のパターンだと見抜いたなら

「私」という狭い視点から見るのでなく、全体性から見ると、物事に対処するのは簡単になるはずです。
すると何が起こるでしょうか? 誰にもわかりません。
ひとたび古い習慣のパターンを見破ったなら、それが習慣のパターンだと見抜いたなら、そこにはもはや以前のような強烈さはありません。
                                     セラーボブ

2024/04/23

非二元の教師たちのYouTube

非二元の教師たちのYouTubeの登録者数を調べてみました(数字は4月20日時点)。








登録者数からみると、一番人気はルパート・スパイラです。しかも私の観察では以前見た時よりもかなり数字が伸びています。セイラーボブはたったの3790人。横這い。それぞれのYouTubeチャンネルの作り方も違うし、更新頻度、動画の数の違いもあるので、一概に登録者数が人気を反映しているとは言えませんが、ルパート・スパイラが人気なのはうなずけます。

それにしても、トップのルパート・スパイラですら45万人です。非二元という分野の人気のなさを物語っています。世界中で、これだけの人しか見ていない。そう考えると、佐々木閑先生と横田老師は日本だけでこれだけ登録者がある。

佐々木閑先生 1.63万人


某全米人気ナンバーワン教師のYouTubeチャンネルは200万人近い登録者がいてびっくり。しかもしっかり広告入り。スピリチュアルのチャンネルに広告を入れるんじゃない! あ、入れてもいいです。別にいかんことはない。でも儲かるやろうなぁ。

2024/04/19

非二元の教師たち・まとめ

昨年10月にカリヤニと話をしてから、セイラーボブ以外の非二元の教師の本も読んでみようと思い、何冊かの本をまとめ買いしました。途中、さらに読みたくなって二冊追加。全部の本の感想をブログに書き終えたので、そのまとめを書きます。

取り上げた本(バイロン・ケイティは非二元の教師ではないのでここでは載せません)

「ザ・グレイテストシークレット」 ロンダバーン

「プレゼンス 1プレゼンス2」 ルパート・スパイラ 

「生まれながらの自由」 ジャック・オキーフ

「今、永遠であること」 フランシス・ルシール

「気づきの扉」 ティモシー・フリーク

「つかめないもの」 ジョーン・トリフソン

「夢へと目覚める」 レオ・ハートン

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?―ダイレクトパスの基本と対話」 グレッグ・グッド

「すでに目覚めている」 ネイサン・ギル

「何でもないものが あらゆるものである - 無、存在、すべて」 トニー・パーソンズ

「もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める」 ジェフ・フォスター




「どの本が良かったの?」という質問が届きそうなので、書いておきます。選定基準は、読みやすく・わかりやすく・読んで楽しかったもので選びました。
この四冊がとても良かったです。

私が非二元を学んだのはセイラーボブからです。その影響で私は、細かく説明するのではなく、断定的に、「あなたは思考でも身体でもない。あなたは意識だ。以上終わり」というタイプの教師が好きです。この四冊は語り口がボブに似ていて、とてもわかりやすかった。

もちろん、他の本がよくないという意味ではありません。他の本もそれぞれすばらしかった。たとえば、私は非二元の教師が何を教えているのかよく知らないから基本的なことが知りたいという人には、「気づきの扉」 ティモシー・フリーク「ザ・グレイテストシークレット」 ロンダバーンが良いと思います。

また、理解や気づきの過程・方法をもっと詳しく知りたい人には、「われ在り I AM」ジャン・クライン「今、永遠であること」 フランシス・ルシール「プレゼンス 1プレゼンス2」 ルパート・スパイラ が良いと思います。少し手ごわいけど。また、エクササイズを通して学びたいという人には、「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?―ダイレクトパスの基本と対話」 グレッグ・グッド。そして、高木悠鼓さんのYouTube ダグラス・ハーディングのワークショップもわかりやすいです。


ここに掲載した非二元の教師たちは何を言っているのか、その共通点は何なのか。まず第一に、ここに掲載した教師たちのうち誰一人として、「私はエンライトメントした」あるいは、「私は覚醒した」と言っている人はいません。ここで言うエンライトメント、覚醒とは、ある時何かが起こって至福に包まれたとか、光に包まれる体験が起こって意識に変容が起こり、もう悩みが起きない、といったたぐいの体験のことです。

つまり、彼らの教えていることは、エンライトメントや覚醒ではないということです。本の中では、「覚醒」、「目覚め」という言葉が出てくるものもありますが、それはあくまでも「理解した」「気づいた」「実感した」という意味であり、原語としては awake もしくは awakening のはずです。多くの人が、非二元の教師たちは覚醒した人たちであり、私たちとは違う意識の状態にあると思っています。でも、そうではないのです。彼らも私たちと何も変わらない普通の意識の人たちです。

非二元の教えを理解したら、意識の変容が起こるとか、特別な体験をするということはありません。なぜなら、彼らが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。もし彼らが私たちとは違う覚醒した人たちだという先入観を抱いて彼らの本を読むと、彼らの言う事がさっぱり理解できなくなります。なぜなら、本の中には探しているようなエンライトメントや覚醒はないからです。

また、一瞥体験について語っている教師もほとんどいません。例外的にネイサン・ギルは一瞥体験について語っていますが、あとになって、それは非二元とは関係ないと否定しています。時々、一瞥体験について語っている人を本やブログで見かけますが、私たちが非二元の世界を一瞥することはありません。「私はそこにいなかった」というのが一瞥体験の常套句ですが、ではどうしてそこに私はいなかったことを覚えているのですか? もし私がいなかったのなら、私がいないのを覚えているのは誰なのですか? 

彼らが教えているのは何なのか。それは本質としての「私」のこと。彼らはそれを様々な言葉で形容します。意識、純粋意識、アウエアネス、空間、生、気づき、真我、それ。教師によってまちまちですが、みんな同じもののことを指しています。そして、本質としての「私」は思考でも身体でもないというのが非二元の教えの核です。

何人かの教師は、意識と純粋意識を分けています。思考や五感などを意識と言い、その背後にあるものを純粋意識と言っています。純粋意識とは、夢さえ見ないような深い眠りの状態にあるような意識のことだという人もいます。深い眠りの意識の状態を、眠りから覚めて思い出すことができないように、私たちはその純粋意識を認識することはできないと言います。

でも、私はこの純粋意識と意識という区分けが好きではありません。セイラーボブのように、そんな区分けをせずに、意識とだけ言う教師もいます。私にはそっちの方がわかりやすい。単純に思考の背後にある意識でいいと思います。でも、その意識とは何なのかと聞かれても説明できる人はいないのではないでしょうか。

それぞれの教師は、それが何なのかを本の中で説明しようとします。あなたはもともとそれであるというのがほとんどの教師の語るところですが、それを理解する方法については、教師によってまちまちです。エクササイズ・実験を使う人、問いかけをする人、対話形式の人。説明だけの人。

そして、その理解の起こり方の説明は教師によってまちまちです。あなたはもともとそれだ、以上終わり、という教師もいれば、それは簡単なことではない、時間はかかる、という教師もいます。私は前者のタイプの教師が好きです。でも、それは個人の好みの問題だと思います。私の場合、「言っていることはわかるけど、確信がない」という状態が長く続いて、ある時絶対的な確信が起こったので、どちらかといえば後者のような理解の仕方だったかもしれません。

そして、非二元の教えを理解すると、どんな良いことがあるのか。彼らがアウエアネス・意識・気づき・空間と呼ぶものを至福と表現する人もいれば、愛と言う人もいます。気楽になるという人もいます。それはそれぞれ個人が自分で体験して感じるものだと思います。そして非二元の教師たちが最終的に目指すところは、人々を精神的な苦悩から解放することです。苦しみや悩みは思考の産物にすぎず、実体のないものであるということを心底理解することこそが、彼らが教えていることではないでしょうか。

私は「エンライトメントある派」の教師を支持しません。もともと私が取り上げた教師たちはギルバートのサイト(The Urban Guru Cafe)からリストアップした人を、古閑博丈さんのブログ高木悠鼓さんのブログを参考にして、日本語で読める本を選んで買ったものです。ギルバートは非二元をよく理解しているし、非二元の教師たちの良し悪しにも精通しています。その多くには実際にインタビューをしています。私が取り上げた非二元の教師たちは、みな信頼に足る教師たちです。非二元関連の本は、残念ながらその多くがすぐに絶版になってしまいます。なるべく上質な教師の本に触れておきたいものです。

2024/04/16

あなたは純粋で静かな澄みきった気づきの空間

あなたは純粋で静かな
澄みきった気づきの空間

そこには誕生も
行為も
「私」もない

あなたは一なるもの
変化も死もありえない
                            アシュターヴァクラ・ギーター

2024/04/12

あなたは一なるもの

あなたは一なるもの
純粋な気づきだ
それを知りなさい

この確信の炎で
無知の森林を焼き尽くしなさい

悲しみからあなた自身を解き放ち
幸せでありなさい!
                           アシュターヴァクラ・ギーター

2024/04/09

アシュターヴァクラ・ギーター

Ashtavakra Gita アシュターヴァクラ・ギーター  トーマス・バイロン(著) 福間巌(訳)


レオ・ハートンの「夢へと目覚める」の中に「アシュターヴァクラ・ギーター 」からの引用文がいくつかあって、それがとても良かったので、この本を読むことにしました。

********* 以下はAmazonのサイトから ****

Amazonの本の説明
誰によって、いつ書かれたかは定かではないが
時を経て愛され、読みつがれてきたアシュターヴァクラ・ギーター
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)の教えの神髄をシンプルに表したもっとも純粋な聖典。
ラマナ・マハルシ、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ニーム・カロリ・ババ・・・古来より、インドの聖賢すべてに愛され、賛嘆され、語り継がれてきた真我探求のための聖典。

あなたは、純粋な気づき
すべてのものごとを見守る観照者なのだ
世界はただの幻にすぎない

放棄することを放棄しなさい!
何も拒んではならないし、何も受け入れてはならない
静かにありなさい。だが、何よりも幸せでありなさい。
ただものごとをあるがままに知ることで、
あなたは自己を見いだすだろう

インドの霊性の歴史は、意識の源泉を探求し続け、自己の本性である真我を実現するに至った偉大なる覚者を数知れず生み出してきた。
彼らが確立した数多くの教義のなかでも、現在もっとも勢力をもち、広く行きわたっている教えがアドヴァイタ・ヴェーダーンタである。
ヴェーダーンタは世界最古の聖典『ヴェーダ』の最後に表された『ウパニシャッド』の教えを基本とした宗教哲学であり、その一学派であるアドヴァイタは「不二一元論」と呼ばれ、宇宙の根本原理ブラフマンと自己の本質アートマンの同一性を主要な教義としている。幾世紀にもわたって受け継がれてきたこの教えは、インドを代表する2人の偉大な聖者ラーマクリシュナ・パラマハンサとラマナ・マハルシの弟子たちによって広く紹介されて世界中に浸透し、21世紀に入り、急速な広まりを見せている。

山に籠もることや宗教組織に加わること、剃髪して僧衣に着替えることでなく、オフィスや学校で、あるいは電車の中で、各個人が日常生活において誰にも知られないで静かに内面に向かい、「私」という想念が湧き起こる自己存在の源にとどまることで真我に至ることができるという革新的な教えである。

著者について
英訳者:英国生まれ。オックスフォード大学のベリオール・カレッジ、ハーバード大学にて博士号取得。ハーバード大学で歴史学と文学を、オックスフォード大学のエクセター・カレッジ、セント・キャサリンズ・カレッジで英文学、古代および中世英語学の教鞭を執る。76年、米国に移住。ニーム・カロリ・ババの弟子である米国の霊的教師マ・ジャヤ・サティ・バーガヴァティーの弟子となり、フロリダのカシ・ファウンデーション会長を務める。その後、マ・ジャヤ・リヴァー学校を創設。91年にその生涯を閉じるまで校長を務める。著書に、『ブッダの語る覚醒への光の道―原始仏典「ダンマパダ」現代語全訳』(三雅出版)がある。

翻訳者
1960年、山口県萩市生まれ。74年より北鎌倉臨済宗円覚寺にて参禅。79年、インドにてラマナ・マハルシの教えに出あう。玉川学園大学英米文学科卒業。スリランカ、インドの仏教僧院にて瞑想を修する。92年まで米豪欧にてデザインの仕事、ドイツ他にて瞑想指導に従事。長年インドに滞在し、多くの聖賢に出会う。訳書に『アイ・アム・ザット 私は在る』『あるがままに』『ラマナ・マハルシの伝記』『覚醒の炎』(以上、ナチュラルスピリット)他がある。

********* 以上Amazonのサイトから ****

この本は古今東西、アドヴァイタを学ぶ人たちによって広く読まれてきた聖典のようです。わかりやすい言葉で書かれていて、読みやすいです。内容は非二元そのもの。

原文の英文が同じかどうかはわかりませんが、「夢へと目覚める」にある古閑博丈さんの訳とあわせて紹介させていただきます。太字がこの本の福間巌さんの訳、普通の字が古閑さんの訳です。

11-6
私は身体ではない
身体は私ではない
私は気づきそのもの

私は身体ではなく、
身体は私ではない。
私は意識そのものだ。

15-9
身体はその本来の性質に縛られている
それは現れ
しばらくの間、生きながらえ
消え去る
だが、真我は来ることもさることもない
ならば、なぜ身体について嘆くのか?

身体は縛り付けられている
その本来の特性によって。
それはやって来て、しばし留まり、行ってしまう。
だが真の自己はやって来ることも行ってしまうこともない。
なのになぜ身体のことで嘆き悲しむのか。

2-20
身体とその恐れ
天国と地獄、自由と束縛
すべてはただの作り話
気づきそのものである私に
何の関わりがあるというのか?

身体はまやかしであり、
それが感じる恐れもまやかしだ。
天国と地獄、自由と束縛。
すべてが作り話だ。
どうして私がそんなことを気にかけようか。
私は意識そのものなのだ。

1-14
わが子よ、
自分は身体だと考えるために
あなたは長い間束縛されてきた
あなたは純粋な気づきだと知りなさい
この知識をあなたの剣として
鎖を断ち切るのだ
そして幸せでありなさい!

自分は身体だと思っているせいで、
長いあいだお前は縛られてきた。
自分は純粋意識だと知れ。
この知識を剣として
鎖を断ち切れ。
そして幸福であれ!

*****

「幸せでありなさい」という言葉がいいですね。

まだまだ良い言葉がたくさんあるのですが、あまり引用するとしかられのでこれだけにします。こんなにわかりやすく非二元の本質を教えている聖典があるとは知りませんでした。この本は、繰り返し繰り返し「私」が何であるかを教えてくれています。内容は、英訳者のまえがきがあって、詩文形式の聖典が続き、最後に翻訳者のあとがきがあります。

聖典の部分は、読もうと思えば半日もかからない長さで、しかもわかりやすい言葉で書かれています。手元に置いて、何度も読みたくなる内容です。ぜひ読まれることをおすすめします。福間さんのあとがきに良い言葉があるのですが、あまり引用するとしかられので、ぜひご自分で手に取って読んでください。

2024/04/06

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その20」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)


仏教は無我の教えです。つまり、私(我)はいない(無)のです。では何が輪廻するのか? この説明はまったくよくできていると思います。

4月8日追記 ナーマ・ルーパとは
この話はまったく非二元の話です。私とは、肉体、心的要素、そして外界も含めたものだという説明には驚きました。

2024/04/05

ただ生だけがある

何よりもまず、誰も生きてはいない、ただ生だけがあるだけだということを認識してください。生きている個人というのは間違った思い込みです。
                           ジャン・クライン(われ在り I AM

4月1日 近所のジョギングコースにて。   ムスカリが咲くと春が来たなと感じます。

2024/04/02

意識の外には何もありません

意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます。
                         ジャン・クライン(われ在り I AM

3月30日 恵那市大井町にて。他はまだ咲いてないのに、この木は満開でした。

2024/03/29

「われ在り I AM」ジャン・クライン

「われ在り I AM 」ジャン・クライン著 伯井アリナ訳

この本は当初読む予定に入れていませんでしたが、ジャン・クラインはフランシス・ルシールとルパート・スパイラの師にあたる人だということで興味が湧き、読んでみました。

非二元の本の中には、いくら読み込んでもよく理解できないところがあるものがありますが、この本にはそれがとても多い。でも、本の最初に編集者のエマ・エドワースの言葉があって、この本は心で理解するのではなく、「詩を読むように読めばいいのです」とあり、また、巻末の訳者のあとがきでは、一見平易に見える彼の言葉を理解するのは容易ではないので、エドワースの言うように味わってくださいと書いてある。

でも、それって本としてどうなんでしょうか。挫折しそうなところを我慢して最後まで読みました。こまかいところではよく理解できないところもあるのですが、全体として言っていることは納得できることであり、とても良い内容だと思います。ジャン・クラインは「真我」という言葉でそれを表わしています。真我(セルフ)なんて言葉を使われると、ベーダとかインドを連想してしまいます。純粋意識という言葉も使っているのですが、こういう言葉を使われると、何者かにならないといけないような印象を受けるのですが、決してそうではありません。

本の紹介のため、少し引用させていただきます。

p33から

 どうすれば絶え間なく揺れ動く思考の流れから抜け出すことができますか?

 現れては消えていく思考の流れをひたすら観察してください。それらを拒絶したり助長したりしてはなりません。決してそれを導こうとしてもなりません。ただ、淡々と注意深く見ていてください。そうすればすぐに、あなたは思考や感情、感覚などがこの無方向的で注意深い意識、つまりあなたの開放性の中に現れるのを感じられるようになるでしょう。それはあなたがいるからこそ存在するのです。ゆえに、それらの現れはそれらの故郷である、真のあなたを指し示します。最初にあなたは、自分が自分自身の思考に介入し、それを抑圧したり、逆にそれらに飲み込まれてしまったりしていることに気づくでしょう。あなたがそんなことをするのは、孤立させられ、今まさに死にそうになってきる自我(エゴ)が不安を感じているせいです。しかし、能動性や受動性といった心の習慣から自由になると、あなたは自分本来の静かな注意の状態になってゆくでしょう。

 では、完全に無念無想にならなくても、この本来の注意の状態になれるのですか?

 この状態は思考の不在によって起こるのではありません。それは、その中で思考が現れては消えていく場です。それは思考の「背後に」あります。ですから、無理やり心の揺れ動きをなくそうとするのではなく、ただ頭の中を明瞭にしていてください。単にすべてを歓迎するような開放性を保ってさえいれば、自分のネガティブな感情や欲望、恐れなどを受け入れ、理解できるようになるでしょう。ひとたび無方向的な注意の中で受け入れられれば、これらの感情はひとりでに燃え尽きてしまい、後には静寂だけが残ります。現れてくるものすべてに気づくように、注意深くしていてください。すると、まもなくあなたは自分が思考に巻き込まれることなく、それを傍観していることに気づくはずです。これが事実として確立すれば、思考が生じようと生じまいと、あなたはそれに縛られなくなります。

p65から

 進歩しよう、向上しようと努力すればよけいに混乱するだけです。外面的な部分だけを見ていると、自分は不動の状態に達したとか、自分にはさまざまな変化が起こっているとか、私たちは進歩しているから恩寵は目の前だとか思うかもしれません。しかし、実際には何も変わっていません。私たちは自分の持っている家具を並べかえただけです。これらはすべて心(マインド)の中で起こる活動であり、想像の産物です。
 本当にするべきことは、それよりはるかに簡単です。なぜ、それをそんなにややこしくするのでしょうか? 本来のあなたは、いつもここにあり、いつも完璧です。それを浄化する必要はありません。それは決して変わりません。なぜなら、真我には暗闇がないからです。あなたは真理を発見することも、それになることもできません。なぜなら、あなたは真理だからです。真理に近づくためにすべきことは何もありません。学ぶべきこともありません。自分は絶えず、本当の自分から遠ざかろうとしているのだと気づいていてください。投影するために時間とエネルギーを浪費するのをやめてください。それをやめて生きてください。怠けるのでも受動的になるのでもなく、清明で目覚めた意識で生きるのです。この目覚めた意識は、予想されたり期待したりするのをやめると見つかります。これもまた、あなたにとってのサーダナです。
 現実には改善の余地などありません。それは完璧そのものです。それなのに、いったいどうすれば、あなたは今以上完璧さへ近づくことができると言うのでしょうか? あなたが完璧さに近づく方法などありえません。

p77から

 どうすれば自我の考えを捨てることができますか?

 私たちの中には、錯覚による根深い信念体系があります。それは、対象や私たちの周りにあるものはすべて自分とは分離していて、自分の外にあるというものです。さらに私たちは自分を身体や感覚、心などと同一視し、私とあなたが分離した世界を作り出します。この私たちの信念を最大限に広げ、自分の感情や身体、思考などを、他の木や鳥などのような対象として見ることは、初めのうちは非常に役に立ちます。そうすることによって、私たちと心身との非合理で密接な関係の間にいくらか距離を置くことができるからです。
 やがて私たちは、自分の思考、「私」という考え、感情、好き嫌いなどは皆等しく、知覚の対象なのだとわかります。そして、この観点によって、私たちは自然に、「自分は知る者である」と認識し、個人的な実体であるという考えはまったく無意味になります。

p179から

 何をして何を考えていても、私たちは気づき(アウェアネス)そのものです。それなのになぜ、気づきになろうとしたり、それについて考えたりするのですか? もし、私たちが気づいていなければ、私たちは自分自身がどんな状態にあるのか、知ることができなかったはずです。もし、気づきがよくある精神機能の一つに過ぎなかったら、それは他の機能と同じように消えてしまったでしょう。しかし、気づきは決して消えません。私がこのことをあなたに証明しようとすれば、どうしても議論になってしまいます。気づきであることこそが証明だからです。しかし、気づきを発見する方法を教えることならできます。ですから、私を信じてください! 最初は受け売りの情報になるでしょう。しかし、人の言うことをずっと信じているだけではなりません。それを自分のものにしてください。

ちょっと引用しすぎました。ここまで読み返してみて、良い本だなあ、と改めて気づかされます。ジャン・クライン、フランス・ルシール、ルパート・スパイラは、同じ系列の人たちで、同じような説き方をします。それは決して平易ではないのですが、どうしたらそれを理解できるのかを詳しく説いています。

そしてまたこの三人は、師を持つことの大切さも説いています。今の時代、ネットの発達により、本を読むだけでなく、サイトやYouTubeで彼らが教えていることを詳しく学ぶこともできるし、ネット経由でミーティングやリトリートに参加することもできます。はたして師を持つことがそれほど必要なのかとも思います。

私の場合は幸運にも師(セイラーボブ)に巡り合うことができ、師のもとに長く滞在することができました。最終的にはセイラーボブが何を教えているのかも理解できました。ただ、メッセージ以上にありがたかったのは、セイラーボブが本当に非二元を体現して生きているのを間近で見ることができたことです。また、カリヤニとピーターの存在も大きかった。一言で言うなら、伝染する安心感のようなもの。

実際に師と面と向かって対話するのが一番良いとは思うのですが、実際に会わなくても自身の師となるべき人を見つけて、本や YouTube で深く学べば十分な気もします。非二元を教えている人はたくさんいます。でも、師と呼べるような存在に巡り合うことは、非常に難しいことのように感じます。ましてや近くで親しく交わることはもっと難しいのではないでしょうか。

Amazonの著者紹介
ジャン・クライン Jean Klein
1912年10月19日、ドイツのベルリンで生まれる。
ラマナ・マハルシとクリシュナ・メノンの伝統を継ぐ
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論・学派、哲学)のマスター。
ノンデュアリティー(非二元)に関する著作が多数ある。
インドで数年間過ごし、アドヴァイタとヨーガを深く究めた。
1955年、ついにノンデュアリティーの真理を体得。
1960年からヨーロッパで、その後にアメリカで指導を始めた。
1998年2月22日他界。


YouTubeでJean Kleinを検索すると、かなりたくさんの動画が出てきます。たくさんの映像が残っていて驚きました。生前から結構有名だったようです。どんな人か。一つだけ貼り付けておきます。

古閑博丈さんのブログには、ジャン・クラインのインタビュー記事があります。

2024/03/26

TEDTalks- ヘザー・ラニエ: 物事の「良し悪し」は思い込みに過ぎない


日本語字幕付きのものが貼り付けできません。日本語字幕付きは以下で見てください。


とても良かったので、転載させていただきました。もしよかったら見てください。

2024/03/22

「存在し、存在しない、それが答えだ」ダグラス・E・ハーディング

TO BE AND NOT TO BE

65ページまで読んで挫折しました。何のことを言っているのかよくわからない箇所が何か所もあって、読み進められませんでした。日を改めて再度読もうとしましたが、無理だったので、ところどころ拾い読みしましたが、全部通して読んではいません。

高木悠鼓さんの本は何冊も読んだことがあり、いつも読みやすいと思っているので、翻訳のせいではなく、原文がそうなっているのだと思います。私の場合、非二元の本を読んでいて挫折するのはよくあることで、「I AM THAT」も「意識は語る(あ、これも高木さんでしたね)」も挫折しました。科学の本では「時間の終りまで」や「すごい物理学講義」で挫折。

私は神経が細かいというか几帳面というか、ちゃんと理解できないと読み進められない性分。せっかく買った本なのに、読めないという敗北感は大きいのですが、読めないということがわかっただけでもよしとします。

ちゃんと読んでないのに内容を紹介するというのは僭越ですが、読んだ範囲で紹介すると、この本はもともとは一話読み切りの記事として雑誌に掲載されたものを集めて編集したものだそうです。書下ろしのエッセイ風の文章があり、その中に言葉による説明・図解・実験があって、それによって読者が自分の本質とは何かを見るように意図されています。

文章はキリスト教に関するものが多く、引用もイギリス文学からのものが多いため、おそらくイギリスの国内で販売された雑誌に掲載されたものではないでしょうか。あまり馴染みのない話ばかりで、そのあたりも読み進められない一因かもしれません。話の内容は非二元に限定されたものではなく、スピリチュアル一般に対するダグラス・ハーディングの世界観が中心になっています。

私はかつて高木悠鼓さんが日本で主催されたダグラス・ハーディングのワークショップに出たことがあります。正確な日時はわからないのですが、場所は京都でした。ネットで調べると、1996年4月にダグラス・ハーディングは東京でワークショップをやっているので、おそらくその前後だと思います。

どういう経緯でそのワークショップを知ったのかはよく覚えていません。ダグラス・ハーディングの本を読んだあと、おそらくブッククラブ回のニューズレターかなんかでワークショップを知ったような気がします。当時はまだエンライトメントを探していたころで、ダグラス・ハーディングは覚醒した人だと思っていました。

何を読んだかはまったく覚えていませんが、当時、内容はまったく理解していませんでした。まだ、非二元なんて言葉は一般的になっていなかったと思います。ワークショップは昼食をはさんで一日。通訳はヒューイ陽子さんでした。ワークショップでのダグラス・ハーディングは、普通の洋服を着た英国人で、覚醒した人というのはローブでも着ているものだと思い込んでいた私はちょっと拍子抜けした感じがしました。

ワークショップの内容はまったく覚えていませんが、何のことを話しているのかさっぱりわからなかった記憶があります。紙袋の両端から二人でのぞき合って何かしましたが、何のためにそれをやっているのか理解できませんでした。ワークショップが終わったあとは、すっかりダグラス・ハーディングのことは忘れていました。20年後、セイラーボブのところへ行き、ボブの口からダグラス・ハーディングの名前をたびたび聞くにつけ、彼が非二元の教師だと知りました。セイラーボブはダグラス・ハーディングと面識があります。ダグラス・ハーディングがメルボルンでワークショップをした時に、その準備をサポートしたと言っていました。

ダグラス・ハーディングのワークショップの資料をネットであれこれと調べていたら、高木悠鼓さんのYouTubeチャンネル(シンプル堂)で、ダグラス・ハーディングの1996年4月の東京でのワークショップの動画が公開されているのを見つけました。このブログに貼り付けできないので、高木悠鼓さんのYouTubeチャンネル(シンプル堂)で見てください。


この動画は二日間のワークショップを27本の動画に分けて公開されたもので、それぞれが約20分あります(27本×約20分)。本を挫折した私は、動画ならなんとかなるかと思って全部見ました。通訳の方はおそらくヒューイ陽子さんではないかと思うのですが、とてもわかりやすく、すばらしい内容でした。

ダグラス・ハーディングは、簡単な実験を使って参加者を覚醒へと導きます。ダグラス・ハーディングは「覚醒する(awake)」という言葉を使うのですが、こんな覚醒なら大歓迎です。むしろこれこそが本当の覚醒なのだと思います。

ダグラス・ハーディングは、「非二元」だとか、「あなたはいない」というフレーズを使いません。実験によって、本当の自分はなんであるかを参加者が自分で気づくようにと導いていきます。そして最後には自分が何であるかを教えてくれるのですが、ネタバレになるといけないので書きません。ぜひとも動画を通して見てください。

私が参加した京都のワークショップは一日で終わるものでしたが、この動画のワークショップは二日続きのもので、ダグラス・ハーディングの奥さんやアラン、エリックといった人たちも出てくるので、私が受けたワークショップとは内容が違うのかもしれません。あるいは京都は短縮版だったのかも。

ダグラス・ハーディングが、「非二元を生きる」とはどういうことかについて語っている場面はとても参考になりました。また、奥さんの話もよかった。Urban Guru Cafeにはキャサリン・ハーディング が4回登場します。どうして奥さんが話すのかよくわかっていませんでしたが、キャサリンもダグラスと一緒にいろんな国でワークショップをやっていたのだということがわかりました。

この動画の公開は11か月前で、比較的最近です。おそらくそれ以前は有料で販売されたものではないでしょうか。この動画はそこらの非二元の本よりも、はるかに非二元の理解に役に立つものだと思います。

京都でダグラス・ハーディングのワークショップに出てから28年たって、やっとダグラス・ハーディングが何を教えていたのかを理解しました。1996年当時、「非二元」という言葉はまだ一般的ではなかったし、非二元関連の本はまだ多くなかったと思います。ラマナ・マハルシ関連やダグラス・ハーディングの本はありましたが、「非二元」という言葉では分類されてはいませんでした。非二元の本がさかんに翻訳され始めたのは2010年以降ではないでしょうか。ニサルガダッタもトニー・パーソンズもまだ翻訳されていないはるか以前の1996年にダグラス・ハーディングを日本に呼んだこと、しかも今それを無料で見られることを高木悠鼓さんに感謝します。

今はダグラス・ハーディングが何を言っているかわかるのですが、1996年当時の私が理解できなかったのも無理はないかと思って動画を見ました。探しているものや場所が全く違っていました。言うならば、ダグラス・ハーディングは私にとって28年先の教えを教えてくれていたわけで、私には時期尚早、エンライトメントを探して暗闇をさまよっている時期でした。やっとこの動画が理解できる地点にたどりついたところです。

あまりにも貴重な動画です。ぜひこの動画を見ることをおすすめします。

 Amazonの著者紹介
ダグラス・E・ハーディング(Douglas E.Harding)
1909年にイギリス生まれ。
厳格なキリスト教原理主義の家庭に育ったが、
21歳のときに独自に人生を探求するために、自分の宗教と決別した。
30年代、ロンドンで建築の仕事をしていたとき、自分とは本当は何なのかに興味をもった。
そして30代の前半、仕事でインドに滞在していたとき、自分の本質に覚醒する。
以後建築の仕事を続けながら、人間の本質と宇宙の構造について研究を続け、
53年にその研究をまとめたThe Hierarchy of Heaven and Earth(天と地の階層)を出版。
その後、一般向けに書いた『心眼を得る』(図書出版・絶版)は欧米でロング・セラーとなっている。
建築家を引退後は、著作活動をしながら世界中に招かれワークショップをおこなう。
90代になっても、「私とは本当は何か」を多くの人たちと分かち合うことに献身し、
2007年に97歳の生涯を終えた。


The Headless Way ー 頭がない方法 (高木悠鼓さん主催)


シンプル堂サイト(ダグラス・ハーディングは高木悠鼓さんが詳しく紹介してみえます)

2024/03/19

目覚めるということは

目覚めるということは、人生の海に浮かぶどんな波からも自己を防衛できないこと、本当のあなたという存在はとても広大で無条件で自由であるために、あらゆるものがそこにあることを許さずにはいられないことを認めることだ。
        ジェフ・フォスター(もっとも深いところで、すでに受け容れられている

3月9日名古屋栄。 名古屋ウィメンズマラソン前日とあって、参加者らしき人を何人か見かけました。

2024/03/15

あなたは開かれた空間

時代を超えてあらゆる真のスピリチュアル・ティーチャーが思い出させてくれているように、本当のあなたは分離した人物ではなく、個としての自己ではない。考え、感覚、音、感情といった体験の小さな波すべてが生まれては消えていく開かれた空間なのだ。あなたは、まさにあなたが探し求めているものそれ自体である。
          ジェフ・フォスター(もっとも深いところで、すでに受け容れられている

3月9日名古屋プリンセス大通り。オカメザクラが満開でした。

2024/03/12

「もっとも深いところで、すでに受け容れられている」ジェフ・フォスター

もっとも深いところで、すでに受け容れられている

この本は正直ちょっと手ごわい本でした。373ページもあって、全部が書下ろしになっています。たいていの非二元の本には質疑応答の部分があって、質問に対して答えが展開していくパターンが多いのですが、その場合は何について話しているのか展開が読めます。でも、この本は話の展開が予想できない上、説明が長い。よく言えば詳細かつ緻密に説明が続くのですが、悪く言うと冗漫で繰り返しが多い。

私は非二元の本を読む場合はなるべく先入観を持たないようにと、全部読み終わるまでは著者のプロフィールを読んだり調べたりしないのですが、この本の場合は読むのがしんどくなって途中で調べました。驚いたことに、この人は1980年生まれで今年44歳です。YouTubeもちょっと見てみたのですが、若い。一体何歳の時にこの本を書いたのかと元本の著作権を見ると2012年。32歳の時にこの本を書いている。

では一体何歳でここまでの理解に到達したのか。Wikipediaによると、20歳の頃に鬱をわずらい、様々な本を読み、26歳の時に分離の感覚が消えたのだという。その後、何冊かの本を書き、ミーティングやリトリートを主催して32歳の時にこの本を書いている。驚きました。セイラーボブは現在95歳。トニー・パーソンズは91歳。このブログに掲載した非二元の教師で存命の人は大半が70代です。ティモシー・フリークは比較的若いのですが、それでも63歳です。

非二元の教師として有名な人は、悩みや問題を抱えてあれこれと探求して、試行錯誤を繰り返してやっとの思いで非二元にたどり着く、というのが私のイメージです。それを26歳でたどり着いた。それがわかって、彼の本の手ごわさの原因がわかった気がしました。若さゆえの情熱、冗漫さ、多弁さなのではないでしょうか。手ごわい本ではあるものの、内容は非常に良いと思います。本の紹介のため、少し引用させていただきます。

p58から

 たまに、私にどうやったら悟りを得られるのかと聞いてくる人たちがいる。その人たちは、私が悟りを開いていると信じていて(私がそうだとは決して言ったことはないのだが)、どうやったら私のようになれるのかを私が教示できると思っている。そこで私はよく、「そうですね、では悟りという言葉はどういう意味ですか? 悟りを得ると、あなたの体験はたった今のありのままの状態とどう違ってくるのでしょうか?」と言う。そうすると、こういった返答がよく返ってくる。「悟りを得たら、恐れがなくなるのだと思います。悲しみや苦痛が消えていくのだと思います。悟りが、自分自身にまつわるあらゆる悪いことを取り払ってくれるのだと思います」
 わかるだろうか、誰しも本当に「悟り」を得たいとは思っていないのだ。望んでいるのは、今現在ある不満足、悲しみ、痛み、怒り、欲求不満、倦怠感といった気持ち、あるいは愛されていない、望まれていない、満たされていないといった気持ちから逃げること──要は、苦しみを終わらせたいのだ。それなのに、その苦しみにたった今真正面から向き会うことをしないで、その中にある全体性を見ないで、将来やってくる出来事や状態、体験が苦しみを終わらせてくれるのを待っている。その人たちは、誰しも皆そうであるように、ただふるさとへ帰りたいだけなのだ。ところが、自分のストーリーの中で、将来たどり着けるふるさととして、悟りを得るという発想に固執しているのである。

普通、非二元の教師は、「あなたが私だと思っている私は実在ではない」というようなことを最初に言っておいて、なぜそうなのかという説明をするというパターンで話を展開させていくが、ジェフの場合はそうではない。最初に人々の持つ悩みや問題から入っていく。そして、その背後には何があるのかを解き明かしていき、最終的に「あなたは開かれた意識の空間である」というところへ話をすすめていく。その説明は理詰めで続いていき、もちろんそこにはエンライトメントも覚醒もない。この説明はとてもわかりやすい。私もジェフの言うように、悟りを求めていたのではなく、苦しみから解放されたいだけだった。

p80から

 次に、受容という観念をもっと深く見ていこう。その言葉は、だいぶ間違って解釈されているように思える。
 海としてのあなたという存在は、すべての波を受容しているということになる。それは単に、海はすべての波そのものであるからだ。つまり、受容する以外に選択肢はないのだ! 海は、ある波を受け入れてある波を拒絶するなどということはしない。それは無条件の受容であり、受容に関して人が持っている観念をはるかに超えたものだ。海が受容するということは、非受容か受容かといった相反する概念を超越している。受容とは海と切り離せないということであり、それゆえ相反するものは存在しないのだ。すべての波が、海によってすでに受容されている。そして、本質的にはあらゆる波がすでに受容されているという事実こそが、この本の言わんとすることのすべてだ。これが生命の最も深い受容であり、それは個としてのあなたが実現できるものではない。
 実際ここで扱っている問題は、この最も深い受容を実現しようとすることではなく、あらゆる体験の中でそれを認識すること、それがわかること、それが気がつくということだ。深い受容を実現する必要などない。それはすでに起こっているのだ。後は、この瞬間、すべての瞬間に、すでに起こっていることにただ自然のままに気づくだけだ。体験のあらゆる波、あらゆる考え、あらゆる感覚、あらゆる感情、あらゆる音、あらゆる匂いはここに存在することがすでに許されている。波が現れるときには、あなたという存在によってすでに受け入れられているのだ。波がやってくること自体がすなわち受容である。水門はすでに開かれていて、この瞬間は、たった今あるがままの通りになることが許されている。人は、すでに許されていることしか体験しないのだ!
 あなたという存在は、すでに今の瞬間をありのままに受容している。あなたという存在は、あるがままをすでに受け入れている。そうでなければ、今現れていることは現れていない。あなたという存在は、今現れているものがどんなものであれ抵抗することはできない。というのは、それが今現れているすべてであるからだ。すべてのものが、あなたという存在にとって、決して抵抗できないものなのだ。
 私が受容について話すとき、私たちがこれまで条件付けされて理解しているような意味では受容という言葉を用いていない。その言葉は新しい意味合い、つまり、この生命の最も深い受容を指し示している。それはすでに起こっている受容、許しだ。私があるがままを受容して許すことを提言するときは、それがあなたの注意をその事実に向けさせる近道だからだ。事実とはすなわち、この瞬間、思考や感覚、感情、視覚、音、匂いはすでにここに存在することを許されているということである。なぜなら、それはすでに現れているのだから!
 思考や感情を受容することとは、この瞬間に、そういった思考や感情がすでに受容されている、すでにそこにあることが許されているということに、ただ穏やかに、自然のまま気づくことだ。それはすでにそこにあるのだ。受容することとは時間をかけて達成されるものではなく、決して終わることのない今の瞬間の現実である。
 あなたという存在が受容そのものであるがゆえに、あなたが受容することなどできない。あなたは実際分離した人物ではなく、あるがままのあなたそのものがこの瞬間に対する肯定なのだ。

ここでジェフの言う「海」とは個人として現れているように見えている個人のことであり、「波」とは、その個人に起こってくる様々な事象のことです。あらゆる波はどれも海の中に起こっているものであり、それを変える必要もないし、変えようとしても無駄だと言っています。

私たちは、何か嫌な思いや感情、問題が起きると、何とかしてそれを変えようとします。でも、そうした波を変えようとすること自体が無駄だと言っているのです。それはすでに受容されていると言っているのです。つまり、あるがままです。

p168から

 私が言っている自由とは、そういうことではない。それは、ありのままの人生から逃避することや、自分でないものでいるふりをすることとはまったく関係ない。自由とは、完全に、徹底的に正直でいることに尽きる。すなわち、現実をありのままに見ること、それを(認めるという言葉が持つ二つの意味において)認めることだ。認めるとは美しい言葉だ。それには、「真実を伝えること」と「許し入れること」という二つの意味がある。今起こっている体験を認めること──実際に今何が存在しているかについて真実を伝えること──とは、今存在しているものは人生の中にあることが認められている。そして、それらの波の存在を認めることこそが、ここで教えていることの絶対的な中核だ。目覚めるとは、要は本当の自分という存在を認めることなのだ!
 本当の癒しとは、苦しみから逃避して、未来のどこかで全体性に到達することではない。それは、たった今、ここで、苦しみの真っ只中に全体性を見ることだ。「whole(全体)」と「heal(癒し)」の語源が同じであるのも不思議ではない。癒されることとは、全体性を今ここで再発見することなのだ。真の癒しとは、痛みから逃避して未来にある全体性に到達することとはまったく違う。最初にどんなにか逆説的に聞こえたり直観に反するように思えたりするかもしれないが、真の癒しは実際まさに痛みの中にある。
 あなたは、「いつか」癒されるのではない(繰り返すが、それは探求者の声だ)。あなたはすでに癒されている。あなたという存在は、たとえそれに気づいていなくても、すでに全体そのものだ。それは、海にある波が海そのものからずっと切り離せないのと同じことだ。痛みの中にあるときでさえ、あなたは癒されている。

p204から

 痛みと病気は、人生のストーリー、コントロールすることのストーリーを粉々に打ち砕いてくれる──ここが本当に大切なポイントだ。痛みや病気で苦しんでいる裏にあるのは実は、こうあるべきだったのにという夢に対する嘆きである。こうあるべきだった、今はこうあるべきだ。将来はこうあるべきだといった観念を持たなければ、そこにあるのはただあるがままだ。人生で向き合わなければいけないのは、この瞬間の絶えず変化し続ける風景だけなのだ。そして、私たちはこの瞬間があるべき姿とちょっと違うなどと知る由もない。この状況は今ここにあるような形になるはずではないなどということがわかるはずもない。私たちの人生が宇宙のどんな種類の台本からもは逸れてしまったなどということがわかるはずもない。そもそも宇宙の台本などというものが存在するのかもわかりえない。
 病気のストーリーや、人生の計画通りにいっていないというストーリー、こうあるべき、こうあるべきでないとう概念を超えて、私は今ここにいる。呼吸をしている。心臓が鼓動している。音が聞こえる。あらゆる思考、感覚、感情が舞っている。痛みも多少あるだろう、恐怖も多少はあるだろう。愛されていない気持ち、捨てられたような気持ち、絶望的な気持ち、弱々しい気持ち、疲れ果てた気持ち、寂しい気持ちもあるだろう。次にどの波が浮かんでくるのかは誰にもわからない。ここにあるこの空間の中ですべてが深く受容されているということが偉大なる発見なのだ。たとえ起こっていることを受容できないと今は感じていても、今起こっている体験はいつでも本当の私という存在によって深く受容されている。本当の私という存在は、すでにすべてをその中で許していて、すべてを承知している。生命の水門は永久に開かれている。だから、今現在の体験に意識を戻してみたとき、たとえたった今それを耐えられないように感じるとしても、この瞬間が耐えられないということは決してない。それは、まさに海にとってたえられない波などないのと同じだ。本当の私という存在は、すべてのものを包み込み、許し、認める。痛みや病気のなかでさえ、そこには人知を超えた平和が存在する。

あれこれ事情があって、私は痛みや病気に対していつも大きな不安を抱えています。重い病気になったらどうしよう。痛みに耐えられるだろうか。非二元の理解はどうなるだろうかと。でも、この文章を読んだ時、きっと大丈夫だろうという気になりました。病気になったら病気のまま生きていけばいいし、痛かったら痛いまま生きていけばいい。それをどうこうしようとジタバタせずに、治療を受け、良くても悪くてもあるがままに生きていけばいいという気になりました。

この本はくどい本なので、今回は特別許していただいて、くどいほど引用させていただいています(もちろん良い本ですので、ぜひ読んでください)。

p361から

 悟りとは、すべての波を受容できるほど強くあることとはまったく関係ない。それは、どんな形であれ、波をコントロールすることとは違う。今の瞬間から逃避することではない。悟りを得た人という自分のイメージを掲げて、いかに自分が四六時中スピリチュアルで恍惚状態にあって平和な気持ちでいるかを証明することではない。それは本当のあなたという存在──徹底的なオープンさ、傷つきやすさ、無防備さ、弱さ──を発見することであり、ある意味、今浮かんでいる波から逃れることがますます不可能になることだ。しかし、この弱さは本当の弱さではまったくない。この弱さの中にあるのが最大の強さなのだ。それが、生命の最も深い受容である。この受容を「行う」必要はない。あなたはそのようにできているのだ。

この文章はあと6ページほど続いてこの本は終わります。その最後の6ページがとてもすばらしい。最後まで引用させてもらおうかと思ったのですがやめました。というのも、この最後のページがこの本の核となる部分であり、そこを全部引用するのはよくないだろうと思いました。

それに、この最後のページは、長々とこの本を読んできた人のご褒美のようなもので、そこだけ抜粋してもよく理解できないのではないかという気がします。興味のある人はぜひ本を手にして読んでみてください。

私たちは苦しさから抜け出したいために探求をして、やがて非二元の教えに出会います。非二元を理解すれば、心は平安になり、もう二度と悩むことなどないだろうと期待します。でも、そんなことは起こりません。問題や悩みは以前と同じように起こってきます。でも、ジェフ・フォスターは、そうした問題や悩みもすべて含めて、あらゆることは「もっと深いところで、すでに受け容れられている」というのです。二十代でこの理解に到達したなんて、なんとすばらしいことでしょう。

Amazonの著者紹介
ジェフ・フォスター Jeff Foster
イギリス、ブライトン周辺に在住。ケンブリッジ大学で天文学を学ぶ。
長く鬱を患ったのち、20代半ばスピリチュアルの悟りの概念に夢中になり、実存の究極の真実に対する徹底的な追及を始める。
ワトキンス・レビューによる、世界の「最もスピリチュアルな影響力のある現存する100人」の2012年の投票で51位。



2024/03/08

解放は起こる何かではありません

解放は起こる何かではありません……それはすでにあります。しかし探求者にとっては、それはまだないと信じられているわけです。探求者がいないとき、解放だけがあること、存在だけがあることが、誰でもないものによって見られるのです。ですから、肉体 ー 精神が夢見る人として機能することをやめるとき、このことの深部にあるのはただ存在だけです。
             トニー・パーソンズ(何でもないものがあらゆるものである

名古屋駅 笹島交差点 左側の低いビル群は再開発取り壊し予定です。

2024/03/05

誰も目覚めを経験しません

誰も目覚めを経験しません。なぜなら、誰も目覚めないからです。目覚めはそれとともに誰もいないという理解をもたらすのです。
              トニー・パーソンズ(何でもないものがあらゆるものである

                多治見駅 陶壁 多治見は焼き物の街です。

2024/03/01

「何でもないものがあらゆるものである」トニー・パーソンズ

何でもないものがあらゆるものである

私は高木悠鼓さんが翻訳された「ただそれだけ」を読み、メルボルンへセイラーボブに会いに行き、非二元の教えを学ぶことができました。非二元もセイラーボブもすべて高木さんが翻訳された本から始まったことです。感謝に堪えません。高木さんの仕事はいつも先駆的ですばらしと思うのですが、この本もまたすばらしい本でした。いつもながら、高木さんの翻訳はわかりやすくて読みやすい。

本の内容はすべて質疑応答になっています。質問者の質問も適切なものが多く、その質問に対してトニーは徹底的に「私」を排除するように答えていきます。

本の紹介のため、少し引用させていただきます。

p30から
 あなたは見かけの分離した個人としてここに来て、そこで座って何かを探し求めていると仮定しましょう。それはすでにこれです。起こっているように見えることは何であれ、これです。起こっていることは何であれ、この部屋の誰にも起こっていないのです。この部屋には何かが起こっている誰もいないのです。起こっていることがあるだけです。これが空間です。これが空っぽさです。これが何でもないものです。ここに座っているのは何でもないものであり、その何でもないものの中に起こっていることは、肉体の感覚、音を聞くこと、感情を感じること、考えることです。考えることもまた誰でもないものに起こります。誰も今まで何も考えたことがありません。なぜなら、誰もいないからです。ですから、考えること、感じること、この声を聞くことが起こっているのです。
 あるものすべては、生命が起こっているのです。あるものすべては、生の感覚です。生の感覚は存在です。それ以外には何もありません。そこに座っているのは生の感覚だけであることが、突然に見られるかもしれません。誰もあなたに生きていることを教えることはできません。ただ存在だけがあるときに、あなたに在ることを教える傲慢さを誰がもっているでしょうか? あなたは変わらなければならないと言う傲慢さを誰が持っているでしょうか? 何でもないものとあらゆるものだけがあります。これは理解を超え、人間のハートと心(マインド)を超えています。
 私たちは一緒に話し合い、言葉を使うことができますが、言葉は超越した何かを指摘したり、指摘し続けるだけでしょう。言葉は分離があるという心の中の幻想を破壊するかもしれません。なぜなら、心は物語作家であるからです。ここで崩壊する可能性があるのは、分離した個人といったものがあるという観念です。もちろん、為される必要がある何かがあるとか、かつて何かをやったことがある誰かがいるという観念も崩壊します。
 ですから、達成すべきことも、理解すべきことも何もなく、存在しているのはこれです。ただこの生の感覚が誰のためでもなく、わき起こっているのです。
 解放はエネルギー的な転換です。それは向こうの世界にいる分離した誰かであるという収縮から、ただあらゆるものがあるという自然で非常に普通の感覚へ戻る転換です。ですから、その収縮があらゆることの中へ拡大し、あなたが自分だと思っていたものがあらゆるものになるのです。
 このコミュニケーションはトニー・パーソンズとは何の関係もありません。それはトニー・パーソンズが所有しているものでも、達成したものでもありません。それは個人的な努力や活動を知ることとは何の関係もありません。トニー・パーソンズはこの部屋の中の他の誰とも何の違いもありません。トニー・パーソンズはその腕を振り回しながら話している単なる肉体精神機構にすぎません。
 問題は、探求するときに私たちはあらゆることを個人化することです。私たちはこんなことを言いがちです。「私に何が待ち受けているのか? 私はこれから抜け出るために何をすることができるのか? 私はこれになるために何をしなければならないだろうか?」。これが混乱です。あなたは何もする必要がありません。なぜなら、あなた──これ──はすでに為されているからです。それは為されています。生の感覚が起こっています。存在がシンプルに在り続けています。
 そして、自分は何かを見つけなければならない、何か新しく異なったことを見つけなければならないといつも思っているこの探求者が抜け落ちるとき、突然そこに完全はくつろぎがあり、これであるという完全な喜びの中に落ちるのです。存在を知るということではなく、ただシンプルに直接的に存在します。

この本を読む時は、「何でもないもの」「あらゆるもの」「存在」という言葉の裏にある原語の意味を頭の片隅に起きながら読むといいと思います。本の表紙のデザインを見てもらうとわかるとおり、「何でもないものがあらゆるものである──無、存在、すべて──」という題名の下に、nothing  being  everything という単語がデザインされています。

つまり、「何でもないもの」の原語はnothing (無)、「あらゆるもの」はeverything (あらゆるもの)、「存在」はbeing(存在)です。その意味を読者に感じて欲しいからこそ表紙にデザインされているのだと思います。nothing という言葉はセイラーボブも頻繁に使います。このブログの中でも何度も出てきたのですが、いつもどう訳したらいいのか迷います。英語のnothingは、「無」「空」という意味と「つまらないもの」という意味があり、英語ネイティブが nothing と聞けば、その両方の意味が頭に浮かぶはずです。

それを訳す場合にはどうしたらいいのか困ります。私の場合、適当な訳語が思いあたらないので、「何ものでもないもの/無」としてブログに書いています。高木さんの「何でもないもの」という訳語は、なるほどなと思いました。その「何でもないもの」が「あらゆるもの」であるというのは非二元の教えの本質であり、別の言葉で言うなら、一つのものです。

「生」という言葉はセイラーボブもよく使います。おそらく言語は「 life 」だと思います。私のブログでは「生」あるいは「命」と訳していますが、やっぱり「生」という言葉の方がしっくりくるとわかりました。

そしてもう一か所引用させていただきます。

p100から
 ですからこれは、あなたや私や誰かが何かを得るというメッセージではありません。これは何も得るものがないという理解です。……求められてきたものは、決して失われたことがないという理解です。
 これは求めることや求めないことについてではありません。それはアドヴァイタや非二元主義という概念を超え、気づきや注意深さの状態に到達するという観念も超えています。どんな目標もありませんし、何も提供されていません。これは知ることを完全に超えています。どんな目標もありませんし、何も提供されていません。これは知ることを完全に超えています。ですから、これは個人としているには最悪の場所です。なぜなら、希望するものが何もないからです。
 これは本当は描写です。つまり達成を超えている何か、失われたり、掴まれたり、獲得されたりできない何かの描写を、みんなで分かち合っているのです。
 分離があるかぎりは喪失感があり、完全ではない何かがあるという感覚があります。ですから、探求者はその空虚感を何かで埋めようとします。そして、一部の人は「悟り」と呼ばれている何かを待望します。なぜなら、悟りがこの喪失感を満たしてくれるものになるかもしれないと感じられるからです。それは私たちがまったく理解しないある秘密への答えになりうるだろう、というわけです。
 私たちが悟りについて読むとき、まるで誰かがその秘密を発見したかのように聞こえます。でも、そんな秘密を発見した人は誰もいないのです。
 悟った人というような人はいません。それは完全に間違った概念です。しかし問題は、探求者をやっていると、探求のエネルギーのせいで、私たちは誰か他の人が発見した何かを自分も見つけることができるという考えに押しやられ、惹きつけられます。なぜなら私たちは、努力は結果を生むと信じながら成長したからです。ですから、もし努力が結果をもたらし、私たちが悟りとか解放と呼ばれている何かについて聞いたなら、私たちは努力することができ、解放されたり、悟ったりすることができる……私たちが噂を聞いているすぐ近くに住むこの男とか、サットサンをしているあの女性のように。彼らは私が欲しがっている何かをもっている。もし私もあそこへ行けば、どうやってそれを得るのかを学ぶことだろう。
 夢の中では、悟りや解放は達成できる何かであるという考えがまだあります。ですから、あなたは選択をもつ個人であり、そして今、個人として自己探求や瞑想や何かをすることを選択でき、いずれ悟ることができるという考えを再強化する教えがあるのです。
 あなたは世界中へ出かけて、何か得るものを提供する教えを見つけることができます。しかしながら、探求者にまったく何も提供しない妥協なきメッセージを見つけることはまれです。
 この生の感覚は、何でもないものがあらゆるものであることです。それはただ生が起こっていますが、誰かに起こっているのではありませせん。ここで一組の全経験が起こっていて、それらは空っぽさの中で起こっているのです……それは自由落下の中で起こっているのです。それはただ起こっていることです。あるものすべては生です。あるものすべては存在性です。それをもっていたり、もっていなかったりする人は誰もいません。生をもっている人はおらず、他の誰も生をもっていません。ただ生があることだけがあるのです。

この本を読んで感じたのは、用語の使い方がセイラーボブとよく似ているということです。nothing, being, everything 、life (生)など。また、ボブのよく使う「intelligence energy(知性エネルギー」という言葉を他の非二元の教師から聞いたことはありませんでしたが、トニー・パーソンズは使っています。例えばp88。

どんなレベルでも誰もそれをやっていませんし、やっている人は誰もいません。それはただ知性的なエネルギーです。

そして、もっとも似ていると思ったのは、トニー・パーソンズもセイラーボブと同じように、妥協のない断固とした非二元の教師であり、質問に対してきっぱりと「私」や「時間」は存在しないと言い切るところです。質問者の「何かになる」とか「何かをする」という言葉に鋭く反応して、「誰もいない」「何も起こっていない」と言い切ります。

まるで、ボブの家の居間でボブの話を聞いているような感じがしました。私はトニー・パーソンズの経歴は知りません。調べてみたのですが、よくわかりませんでした。セイラーボブよりは6歳若いのですが、非二元の教師としてはボブよりも有名のようです。おそらく世界に知れたのも、トニー・パーソンズの方が先だと思います。セイラーボブはトニーの本を読んだことがあり、ある程度トニーの影響を受けているのではないかと思われます。それほど語り口が似ています。

個人的には、あれこれと説明する教師よりも、「誰もいない」「何も起こっていない」、以上終わり! と断定的に言いきるような厳格な非二元の教師が好きです。非二元の教えは結局のところ頭で考えても理解できないことであり、「なぜ?」は要らないのだと思います。「誰もいない」「何も起こっていない」と何度も聞いているうちに理解が起こってくるものだと思います。

これはちょっと蛇足ですが、以前このブログの中で書いた「深い森の中で一本の大きな木が倒れたとする。そして、そこには人間が誰もいなかったとする。その場合、果たして木が倒れる音がするだろうか?」(参考記事)という命題が誰の言葉なのかが本書の中で出てきたので書いておきます。

p178
森の中で木が倒れても、それを聞く人は誰もいない……(訳注:「誰も見ていない森の奥で倒れた木は存在しているといえるのか」というアイルランドの哲学者・聖職者ジョージ・バークリーの命題の引用)

もっと近代の人の言葉かと思っていたのですが、ジョージ・バークリー(Wiki)は結構昔の人なんですね。

Amazonの著者紹介から
トニー・パーソンズ Tony Parsons
1933年にロンドンで生まれる。
21歳のとき見かけの目覚めがあり、長年この「公然の秘密」を分かち合ってきた。
著書に『The Open Secret(公然の秘密)』『Invitation To Awaken(目覚めへの招待)』
『As It Is(あるがままに)』『All There Is(存在するすべて)』がある。



古閑博丈さんのブログには、トニー・パーソンズに関するいくつかの記事があります。

2024/02/27

自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない

探求のどの段階においても、根本的な視点が見落とされている。それは、<意識>である<あなた>によって演じられている個人こそが、まさにずっと探し求めているものだということだ。探求者が何をしたところで、自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない。
                    ネイサン・ギル(すでに目覚めている

名古屋ゲートタワー 巡回警備ロボット

2024/02/23

すでにはっきりと目覚めている

生という劇は、<あなた>が指揮しながら<あなた>が見ている<あなた>とは別の創作物ではない。<あなた>──<意識>──は、この瞬間に劇として現れていて、すでにはっきりと目覚めている。だから目覚めることなどできない。<あなた>は<あなた>自身にはいつでも明白だ。隠されていることはない。
                        ネイサン・ギル(すでに目覚めている)

名古屋マリオット(大治町のつるし雛

2024/02/21

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その3」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

 

いきなり興味深い話から始まりました。
話が非二元そのもの。この先が楽しみです。
全部を転載するわけにはいかないので、今後はあまり転載しないようにするつもりです。
もしよかったらフォローしてみてください。

2024/02/20

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い」

佐々木閑先生のYouTubeチャンネルで新しいシリーズが始まりました。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その1」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その2」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
 

 ミリンダ王の問いについては、このブログでは中村元先生のYouTubeを掲載したことがあります「2021.10.30 初期仏教 無我・五蘊(ごうん)」。そのYouTubeで見るかぎり、ミリンダ王の問いは非二元の教えの意味あいの強いものでした。

初期仏教には五蘊(ごうん)という基本概念があり、人間は五蘊という五種の要素(色・受・想・行・識)でできていて、そのどこにも個人としての「私」は存在しないというものです。

そのミリンダ王の問いを、佐々木先生がシリーズで解説してくださいます。どんな話になるのか楽しみです。すでに、その2ではその片鱗が語られています。もしよかったらフォローしてください。

2024/02/16

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

この本は今まで読んだ非二元の本の中でも、とりわけ素晴らしい内容でした。最初から最後まで、いわゆる「行為者の不在」について説かれています。私たちは、「私」という存在が実在であるという催眠にかかっていて、それが人生というものを生きているように思っているが、実際には「私」はおらず、起こっていることは単なる劇のようなものだと言うのです。

最初の29ページが書下ろしになっていて、残りのページはミーティングの参加者との対話となっています。最初の29ページにネイサンのメッセージが凝縮されていて、あとの対話がその補足説明のような体裁になっています。本全体を通して、「私」は催眠によるものであり、実在しないということだけを説いています。あれもこれも説明するのではなく、「私」は実在ではないということだけを説いて、これだけ的を得た非二元の本となっている点は素晴らしいと思います。内容もよくてわかりやすい。

ネイサンは探求の途中で、いわゆる一瞥体験、自分がいないという体験をしますが、すぐに「私」が戻って来て混乱します。やがて、自分の本質は意識であるという理解に至り、どんな出来事も必要ではないという思いにたどり着きます。

本の紹介のために抜粋させていただきます。

p11から
 自分の本質を認識するのにどんな「出来事」も起こる必要はないとトニーは言っていた。そしてそのころ、1998年の9月にある事が起こった。僕は庭仕事をしていて、霧雨が降っていた。見上げると、「自分」がいないという微妙な感覚があった。自転車に乗って道を走りだすと、それはまるで映画のような感じだった。自分では何もしようとしていないのに、ひとりでに映画が進んでいるような。
「自分がそうやってふいに脱落してしまうと、理解したいという欲求はすっかり消え去った。自分の本質が<意識>だということを認識するのにどんな出来事も起こる必要はないとトニーは言っていたが、それでも僕がそういう出来事をどこかで待ち望んでいたのは明白だった。というのも、この出来事、この経験が起こったとき、それを僕は「目覚めの認可」としてとらえたからだ。自分でも気づかずに、自分の本質を確認してくれる何かが起こるのを待っていたのだ。
 僕はトニーに電話して、何が起こっているかを興奮気味に説明したが、「目覚めの認可」が起こったことで、言葉は「僕」の観点からではなく明晰さから生じていた。もはや僕が何かを手にしょうとしている分離した個人という視点──つまり探求と理解という観点から話しているわけではないことが、トニーにも伝わった。
 時間がたつにつれ、「僕」が巧妙に戻ってきて、この出来事──それはまさにその「僕」の不在だったのだが──は「僕」の悟りであり、「僕」の目覚めなんだと主張しはじめた。突然起こった解放感──「僕」がいない状態で生じた至福の感覚──に注意が集中した。その解放感こそが、ずっと待ち続けていた悟りなんだと。
 翌朝、目を覚ました。まだあるかな? ある! そしてそれから何日かすると、解放感が少しずつ消えつつあることに気づいたが、数日たつとその感覚は再び完全に戻ってきた。その感覚が戻ってきては消え、それから「僕」がまた現れて自分の不在という状態にしがみつこうとしたりするのが何週間か続いたあと、僕はトニーのミーティングに行った。そこにいると、至福の感覚がまた溢れてくる感じがした。けれども数日後にはすっかり消え去って、そこでまた「僕」としての催眠状態が起こった。トニーには何も言わなかったし、しばらくはミーティングにも行かず、僕は困惑していた。
 それから、「私」の不在が何年も続いた経験についてある女性が書いた本を読んだ。その経験のしばらくあと、その女性は「先生たち」から、それは悟りだと言われたという。やがて彼女は病気になって亡くなったが、彼女の友人が本に寄せたあとがきを読むと、亡くなる前にその出来事が終わってしまい、「私」が戻ってきたせいで、彼女は混乱して苛立っていたということだった。
「私がいきなり消えてしまうという出来事は、明晰さについて言えばむしろひどい混乱につながりかねないということが突然わかった。出来事は数秒で終わったり、10年かそれ以上続いたりするかもしれないが、「私」とは何かということ──単なるひとつの思考だということ──を理解せずにいると、「私」が戻ってきたときに、何かを失ったような感覚になったり、個人と同一化した状態に再び閉じ込められたような感覚に陥ったりする。個人と同一化していると、こうした「悟り」をもっと求めようとする感覚が生じて、探求という劇の興奮と緊張の中に戻った感覚も出てくる。
 そんなわけで、生のすべては大いなる劇なんだということがわかった。知だけが存在しているが「私」という思考、そして「私」のストーリーのように感じられるいろいろな思考による催眠のために、この知は見かけ上は隠されて見えなくなっている。<意識>としての僕たちの本質は、気づきであると同時に現れでもある。「私」というのはほかのあらゆるイメージと同じで、景色の単なる一部なのだ。その事実が見抜ければ、あるいはそれをありのままに見られるようになると、探求も緊張も自然に消え落ちる。
 もうひとつわかったのは、「私」を見抜くということは必ずしも突然の出来事として起こるとはかぎらず、生という劇の一部としてゆるやかに起こる場合もあるということだった。そうしたケースでは、溢れる至福という形ではなく、存在することの自然な気楽さが徐々にゆるやかにあきらかになる。
 混乱は消えた。自分の本質が<意識>だということを証明するためのどんな出来事も要らなくなり、「僕」が突然脱落する必要もなくなった。自分の人生も「スピリチュアル」な探求のすべても、<意識>の中の劇として生じているということは明白だった。そして、こうしたことすべてをめぐる混乱の意味、「霊性」や「悟り」が単純な明晰さとなぜ取り違えられてしまっているのかを理解した。自分の本質をそうやって認識することは、どんな出来事とも関係なかった。明晰さ──「私」や思考のストーリーの本質を見抜くこと──がなければ、どんな出来事もたちまち混乱のもとになってしまうこともわかった。
 庭で起こった出来事に特に重大な意味はないこと、どんな出来事にも意味がないことはあきらかだった。その出来事が起こったことで混乱状態が極限にまで達して、「認可」としての出来事が起こるのを密かに待っていたことがはっきりしたというだけの話だ。この明晰さは、「私」がいるかいないかによって左右されることはない。「私」が現れたとしても、それはありのままに見られるだけだ。
 この短いストーリーの締めくくりに。スピリチュアルな探求をしているあいだに僕は離婚し、結婚してまた離婚し、二人の娘が学校に通っていたころはほとんどひとり親だった。ケント州の小さな村に落ち着いて、健康状態は万全とはいえないが、最近まで地元で庭師として働いていた。いまは穏やかに簡素に暮らしている。

p29から
 ずっと探し続けていたものは、じつは探している主体そのものにほかならないということがわかった。究極の目標、究極の賞品は、じつはすでにあるものだったのだ。見つけるべきものも、見つける人も存在していない。気づきがあって、気づいている人はどこにもいない。はじめからずっと、<あなた>は<あなた>自身の壮大な冗談の標的だったのだ。どこを見てもどこを探してもそこにある壮大な現れ、単に<あなた>自身の劇か、もしくは存在しているという夢だ。何も存在していないし誰も存在していないが、気づきがあって、それによってすべてが現れている。この平凡は男性あるいは女性という現れもそのひとつだ。<あなた>は今、そしてこれまでもずっと、完全に目覚め、気づき、今を生きているが、<あなた>自身の壮大な劇の催眠にかかっているだけなのだ。
 ネイサンという登場人物は平凡な人生の中で、問題、試練、退屈と思えるものから逃れようとして悟りを求めた。平凡な人生は変わらず続いているが、今あるということから注意が逸れることはなくなった。非凡さの追求は終わった──生はただあるとおりにある。

質疑応答の中にも、引用したい箇所がたくさんあるのですが、引用するにはどれも長すぎます。これ以上引用すると、しかられてしまいそうです。素晴らしい内容なので、是非とも読んでください。

ネイサンは、この劇の全体に気づくと、生きることが気楽になると言っています。他の非二元の教師のように、「愛」や「至福」と言う言葉を使わずに「気楽になる」という表現がとてもしっくりきました。そしてそれは、たいていの人にとって、ゆっくりゆっくり起こることだと言います。もちろん、日常を生きていくために「私」という感覚はあるものの、「私」はいないと理解している状態だと言います。

非二元の教えを理解しても、悩みがたちどころに消えるということはありませんし、もう二度と問題が起こってこないということもありません。肉体がある以上、病気にかかることもあれば、日常生活での悩み事も相変わらず起こってきます。でも、非二元の教えを理解したなら、そうした問題にどっぷりと巻き込まれることはなくなり、「気楽になる」というのが適切な表現ではないかと思います。

ネイサン・ギルは衰弱性の病気にかかり、最後はみずから死を選んだそうです。まわりの人の話では、とても穏やかで静かな死だったそうです。思うに、それは非二元を生きたからこその穏やかな死ではなかったかと想像します。

タイトルの「すでに目覚めている」がネイサンの最も言いたいメッセージです。私たちはもともと目覚めています。なすべきことは何もありません。「私」という劇の催眠を見抜きさえすればいいだけです。それも「私」がすることではなく、起こってくることです。この本はすばらしい。ぜひ読んでください。

Amazonの著者紹介から
著者について
ネイサン・ギル Nathan Gill
1960年イングランド生まれ。建設、園芸に携わったあと、非二元についての
対話の集まりをロンドンおよびケントで展開し、
わかりやすく鋭いメッセージが人気を集める。2014年没。
他の著書に"Being : The Bottom Line"(2006年)がある。

古閑博丈さんのブログにネイサンの記事がいくつかあります(記事の末尾の「関連」からもいくつかのネイサン関連の記事にアクセスして読むことができます。

ネイサン・ギル関連YouTube(本人のチャンネルではないようです)

2024/02/13

気づきがあなたの自己です

経験に限らず、どこかの場所で起こることは何もありません。ものごとは気づきの中で起こりますが、その気づきがあなたの自己です。分離していない、あらゆるものの自己なんです。
         グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?)

1/31春日井市都市緑化植物園にて

2024/02/09

では、さとりとは何ですか?

気づきとしての自分の本質にはいちども分離が起こったことはないと揺るぎなく理解することです。悟っている、悟っていない、その違いが消えること、それが悟りなんです。
          グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?

紅梅(1/31 春日井市都市緑化植物園にて)

2024/02/06

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

この本の副題は「ダイレクトパスの基本と対話」となっています。私はダイレクトパスという言葉の意味を知りませんでした。そこで、それは何かということで、p188の「訳者のあとがき」を引用させていただきます。

 ひとことで言うと、この本はダイレクトパスの入門書だ。シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンが生んだ、現実の本質や自分の本質を誰でも直接確かめることができる方法。それがダイレクトパスだ。
 ダイレクトパスという名称は、「自分とは誰か」「自分とは何か」を問いつづけるラマナ・マハルシの自己探求を指すときにも使われることがあるが、アートマナンダのダイレクトパスでは、問い続けるというよりも実際の経験を具体的に確認していく。自分という人間やティーカップのような物体を含め、存在しているように感じられるものを調べる。

シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンはラマナ・マハルシとほぼ同時代を生きたインドのグル(アドヴァイタ)だそうです。(Wikipedia

本書は、最初の三分の一がグレッグの書下ろしになっていて、後半の三分の二はグレッグと参加者の対話が収録されています。
タイトルの「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」の、気づきの視点に立つというのはどういう意味なのかを最初に説明しています。

p12
 気づきは「意識」と呼ばれることもある。気づきと意識というふたつの言葉は、ここで扱う教えでは同じ意味を持つ。気づきは「存在」と呼ばれることもある。これは気づきが非実在でも空虚でもないということを表わしている。気づきは「知識」という言葉で呼ばれることもあるが、それは気づきによって無知が消えることを伝えている。また、気づきは「愛」と呼ばれることもあり、これは気づきが開かれていて、魅力的で寛容で親密で、そこには制限も苦しみもないという側面に注目した表現だ。

以前のブログで、「気づきと意識」について書いたことがあり、私の場合は「気づき」という言葉が苦手でした。ここでも、「意識の視点に立ってみたらどうなるんだろう?」というタイトルの方が人によってはわかりやすいような気がするのですが、そうすると後に出てくる「意識」という言葉とダブってしまうために、「気づき」とされたのだと思います。あるいは、実際にはその視点に立つ「人」は実在ではないけれども、実験的にその視点に立ってみようという意味で、「気づき」という比喩的な表現にされたのかもしれません。原題は「Stand as awareness 」となっています。

p20
どのように気づきの視点に立つのか?
 まずできるのは、二十四時間どこをとっても、そのほとんどのあいだ自分がすでに気づきの視点に立っているのを認めるということだ。たとえばさきほど挙げたような、主体と対象のあいだの隔たりが経験されていない時間がそれだ。

そして、気づきの視点に立ったあと、いくつかの実験によって、物が実在なのか、それとも単なる気づきなのかということを調べていきます。最初はコーヒーカップです。コーヒーカップを見て、それを見る時、何が経験されているのかを調べていきます。するとそれは、視覚であり、色と輪郭であるとわかります。色と形を経験することによってコーヒーカップを認識しているが、実際にコーヒーカップそのものを認識しているのではなく、単に色と形を認識しているにすぎない。それは、単なる気づきの中のものだということを理解します。

今度は、同じ実験を体を見ることによってやります。体の中に気づきがあるのか、気づきの中に体があるのかを調べていきます。すると、体は気づきの中にあるのであって、体の中に気づきがあるのではないということがはっきりします。同じ実験を心(マインド)についても行います。そうやって次々に実験をしていって、そこにあるのは気づきだけであるということを体験します。この手法をダイレクトパスと呼んでいるようです。

私はここまで読んだところで、これはどこかで読んだことがあるぞと思いました。これは仏教の唯識のところで出てきた説明とよく似ています。唯識では、ただ識だけがあるというところを、グレッグ・グッドは気づきだけがあると説明しています。

そして、どんなものも気づき以外のなにものでもないと感じられるようになった状態を、「観照が実現した状態」と呼んでいます。そして、観照がしっかりと定着すると、観照は純粋意識へと消えてなくなり始めると説いています。観照を崩壊させる実験で、観照を崩壊させる方法を説いていますが、このあたりはちょっと難しいところで、まるで中観(ナーガルジュナ)の説明を読んでいるような印象を受けます。ここも、その説明の仕方が中観のそれとよく似ています。

グレッグ・グッドは大乗仏教にも造詣が深いそうで、おそらく唯識や中観派の教えの影響を受けていると思われます。仏教ではダイレクトパスより二千年も前に同じことを説明していますが、グレッグ・グッドのすばらしいところは、同じ内容を現代の人向けにわかりやすく説明しているところにあると思います。

そのあとは対話集になっています。対話の中で、質問者から、グレッグの悟りはどのように起こったかという質問がありました。それに対してグレッグは、最初は観照が起こり、最後にはそれが純粋意識の中へ消えていくという二段階の経過で起こったと説明しています。このくだりは、注意深く読まないと、グレッグ・グッドにエンライトメント、あるいは覚醒が起こったと勘違いしてしまいます。

これはあくまで理解の過程を説明しているにすぎません。純粋意識とは、それを何と呼ぼうと私たちがもともとそうである普通の意識のことです。純粋でない意識なんてありません。
そして、その理解がどんな風に起こるのかは人様々です。私たちがグレッグ・グッドと同じ道筋をたどらなくてはいけないということではありません。これは毎回言うように、健康食品の広告の但し書きと同じで、「個人の感想です」。何かのきっかけで理解したと思う人もいれば、自然に理解したと思う人もいると思います。

p147
(質問者)あなたのように、そう確信できるようになる方法はあるんですか?

(グレッグ)とても真剣に調べることです。私が言っている気づきは脳の働きではありません。この気づきは、すべての見かけがそれに対して現れているそれなんです。気づきから遮断されているときを見つけられますか? 気づきがないときがあるでしょうか? 熟睡しているときでもあなたは気づきとしてあって、対象が存在しないという事実を認識しています。気づきは存在しています。あなたが存在なんです。

この本は、物は実在か、世界は実在かということを体験的に理解したいという人にはとても有効な本だと思います。こうした実験的な方法が自分には合うだろうと思われる方は、グレッグのもう一冊の本、ダイレクトパスにはたくさんのエクササイズが載っていたと記憶しています。

****************

Amazonのサイトから
著者について
グレッグ・グッド Greg Goode
南カリフォルニアで育つ。カリフォルニア州立大学で心理学、ドイツのケルン大学で哲学を学び、ロチェスター大学で哲学の修士号と博士号を取得。アメリカ哲学実践者協会(APPA)認定の哲学カウンセラー。
西洋哲学、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、大乗仏教など広い知見をベースにした自己探求を、著作やコンサルティングを通じて指導している。
著書に"The Direct Path:A User Guide"、"Emptiness and Joyful Freedom"などがある。
妻メイとニューヨーク在住。


グレッグ・グッドのYouTubeチャンネルな無いようですが、ホームページの中にいくつかの動画があります。→動画(video)

2024/02/02

ジル・ボルト・テイラー(TED Talks)


とても興味ぶかいTED Talksを見つけました。日本語字幕版の貼り付けができないので、日本語字幕で見る人はこちらで見てください。→日本語字幕付き

脳科学者のジル・ボルト・テイラーは、自宅で左脳に脳卒中を起こし、体の自由が失われて体の感覚が消えていきました。体と外部との境界が消え、文字が読めなくなり、言葉を発することができなくなるさ中、宇宙との一体感、至福、ニルバーナ(極楽)を経験します。そしてその状態が手術までの二週間続いたそうです。その境地は、多幸感に満ちた平安、思いやりの境地だったと言います。
救急搬送されて一命をとりとめ、手術を受けますが、左脳の機能が完全に回復するのに8年かかったそうです。

彼女が今もその状態に入ることができるのかはわかりません。左脳の働きを人為的に停止させて、右脳だけの状態になることは、おそらく不可能ではないかと思います。もちろんその状態がエンライトメントではないし、そうした状態を求めることに意味はないと思います。そんな状態になったにもかかわらず、それを見ていた意識はしっかりとあったということに驚きました。つまり、言語や体の自由を奪われても、それを見ている意識があるということです。
 人間の脳、とくに右脳はもともと「私たち」は一つのものだということを知っているのではないかと思いました。

ジル・ボルト・テイラーの本は日本でも出版されています。また読んだら紹介したいと思います。

2024/01/30

意識を我々は無視している

学校で教師が黒板に「私」と書き、何が見えるかと生徒に尋ねたとしたら、生徒の大半は「私」という文字が見えますと答えるだろう。「私」という文字が書かれた黒板が見えますと答える生徒はまずいない。一つの文字が注目され、それよりも巨大な黒板が無視されるのとちょうど同じように、あらゆる現象の永遠の背景である<意識>を我々は無視している。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見駅 駅ピアノ

2024/01/26

悟りからは何も得られない

悟りからは何も得られない。なぜなら悟りとは、悟ることのできる自分が存在しておらず、分離の感覚も個人として存在している感覚も幻だったとわかることだから。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見 永保寺 止掛塔(しかとう)とは、掛搭する(修行者の入門を受け入れる)ことが出来ません!ということ。シカトの語源だそうです(ネタ元)。

2024/01/23

「夢へと目覚める」レオ・ハートン

「夢へと目覚める」レオ・ハートン

非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではありません。ましてや覚醒でも目覚めでもありません。彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。この本はそのことを全く平易な言葉でわかりやすく教えてくれています。悟りとはなにか、本当のあなたとは何かを、これほどわかりやすく説明している本はないのではないでしょうか。

本を紹介するために、一部を引用させていただきます。

p24
 あなたはもうすでに向こうにいる。悟り、あるいは自己認識は、少数の選ばれた人のためにあるようなものではない。それはあなたの本質であり、たった今まさにここにあると本書は断言する。最初から読み進めるのがいいとは思うが、本書は悟りを開く方法を段階を追って教えるマニュアルではないし、そのようなものではありえない。それから、これは自己改善や知識の獲得についての本でもない。これは、実際一度も忘れられていなかったことを思い出すという逆説に関する本だ。自分とは本当は誰か、何なのかということがテーマであり、どうあらねばならないか、どうなるべきかを説く本ではない。

p37
悟りは、少数の選ばれた者にしか成就できないような、起こる可能性が低い至難の業ではない。それどころか、悟りはそもそも成就可能なものではなく、悟りを自分のものにできる個人的存在がいるという幻想が取り除かれることを通じてそれ自体を明らかにする。それは<純粋意識>として今ここに完全にある。どこか別の場所で、あるいは達成される日が来るまで未来のどこかで待っているわけではない。悟りは時空内の出来事ではない。逆に、時空が<純粋意識>のなかの出来事であって、<純粋意識>はあなた、私、そして存在するすべてとしてそれ自体を絶えず現わしている。それはここに並んでいる言葉であり、これらの言葉を読むことであり、言葉が現れている背景だ。それは入っては出ていくあなたの息であり、心臓の鼓動であり、淹れたての朝のコーヒーの香りであり、歩道に落ちている犬の糞であり、星々であり、惑星であり、そしてすべてが起こっている広大な空間だ。それはこのすべてであり、それと同時にこのすべてを超えている。それはすべてを包含し、知覚し、創造し、破壊する者だ。

p97
 あなたは本当にこの意識なのだ! 本書を通じてここまでずっとそうだったように、これも文字通りに受け取ることを勧めたい。もし<一なるもの>しか存在しないのであれば、それが存在するすべてであり、あなたはそれでしかありえない---それの一部(離れるもの)ではなく、そのものだ! 千の湖に映る月という魔法に惑わされてはならない。あるのはそれでひとつの<自己>であり、それが多として現れているだけだ。それはこの現象を観照し、映し出し、生成し、破壊し、包含し、維持しながら、この現象である何もなさだ。

p191
 悟りとはどのようなものかと質問した人たちが、その返答を聞いてから、「それは単なる言葉、概念です。以前も聞きましたがそれでは足りません。私が知りたいのはそれが実際どんなものなのかということです」と言って答えを退けるのを見たことがある。そのような探求者が待ち望んでいるのは、特別な出来事を通じた確認か、あるいはもしかしたら至高体験んなのかしれないが、そう望むことによって、探している<目覚め>がすでに完全に今あるという認識を先延ばしにしている。彼らが見落としているのは、見るということをしているそれ---すべてに共通しているもの---あらゆる現象を維持しているひとつの普遍のキャンバスが今ここにあるという事実だ。それは見かけ上のあらゆる多様性の土台にある基層だ。

p203 翻訳者(古閑博丈さん)のあとがきより
 英米のネット書店では本書に対する絶賛のレビューが多く投稿され、またセイラー・ボブからは「共鳴と認識の大きな歓び。見事だ!」という賛辞が寄せられている。

******

本のタイトルは「夢へと目覚める」というすばらしいタイトルなのですが、目覚めること自体がまた夢なのです。目覚める「私」は実在ではないのですから。

この本には、「純粋意識」という言葉が何回も出てきます。原語は何なのかは確認していませんが、文脈から判断すると、この「純粋意識」というのは、他の非二元の教師たちが、awareness(アウエアネス)、気づき、意識と呼んでいるもののことです。間違えてはいけないのは、それを手に入れなくてはいけないとか、それを体験しなくてはいけないと考えないことです。

この「純粋意識」とは、もともと私たちがそうであるもののことです。もっとわかりやすく言うと、思考(マインド)の背景にある意識のことです。日常の普通の意識のことです。意識に純粋でない意識なんてありません。おそらくレオ・ハートンは思考と明確に区別するために「純粋意識」という表現を使ったのだと思います。

「私はまだそれを体験していない」「私はそれを手入れていない」と言うのは的外れであり、非二元を理解していないということになります。これだけはっきりとレオ・ハートンが書いていても、深読みして、(いや私はまだその状態にはない)(彼らには何か特別なことが起こったはずだ)という人がいるかもしれません。それを手に入れるための覚醒も目覚めも起こりません。もともとそうなのですから。

私たちは、この意識を「私」の意識だと思っています。でも、逆なのです。意識の中に「私」が現れているのです。「私」の意識ではないのです。じゃあ、それは何なのかと聞かれる方は、ぜひこの本を読んでください。

 レオ・ハートンは21歳の時にある種の神秘体験、超越体験、至高体験と呼ばれる状態を経験します。そしてそれを悟りだと思ったそうです。でも、あとになって、それは単なる体験であり、意識の上を流れていく雲のようなものだとわかったそうです(p145)。このあたりのくだりはとても参考になるところです。

この本の中には多くの賢人の言葉が引用されていて、その言葉もすばらしいものばかりです。信心銘、ルーミー、ニサルガダッタなどなど。セイラーボブのミーティングで出てくる話もいくつかありました。また、ボブがミーティングの中でこの本について語ったこともありました。

この本で語られる説明は、私にはものすごく腑に落ちるわかりやすいものでした。読みやすいし、解釈に困るようなところはありません。すばらしい本です。絶賛おすすめします。ぜひ読んでみてください。

Amazonの著者紹介
著者について
レオ・ハートン(Leo Hartong)

1948年、オランダのアムステルダムで貧しい夫婦のもとに生まれる。
自宅で降霊術がおこなわれるなどスピリチュアルな環境で幼少期をすごす。
10代でハシシをおぼえ、問題児として行政の矯正施設に入れられるが、 脱走して路上生活を経験。
結婚し子どもをもうけ、陸路でインドまで旅をするなどの生活を送る。
読書や瞑想を重ね、ウェイン・リカーマンらのミーティングに通ううちに
現実と自己の本質に目覚める。
2018年に膵臓がんのため他界。(参考:古閑博丈さんのブログ

その他
レオ・ハートンでネット上を検索しても、ほとんど情報はありませんでした。YouTubeも一本も見当たりません。本人のサイトも抹消されているようです。古閑博丈さんのあとがきによると、基本的にはサットサンやトークをしていなかったということです。著作は、この本の他に「From Self To Self」があります。

写真(この一枚だけ

2024/01/19

解放とは

解放とは、最終的な正解にたどりつくことでも、素晴らしい解答を覚えることでもありません。解放とは、私たちの苦しみと混乱の根底にある想像上の問題(思い違い)を見抜くことです。どんな答えも、どんな解答も、どこからか拾ってきてそれに固執してしまえば、それがまた新たな問題になってしまいます。
                       ジョーン・トリフソン(つかめないもの

名古屋 ノリタケの森 イオンモール内

2024/01/16

自分がすでにそうであるもの、すでにここにあるものになる方法はありません

自分がすでにそうであるもの、すでにここにあるものになる方法はありません。瞑想やサットサンやこのような本や先鋭的な非二元のミーティングに少しでも役に立つ点があるとしたら、それは、何かが欠けているという幻想、時間が存在していてその時間の中で何かを達成することができるという幻想、変容しなければいけない誰かが存在していうという幻想の正体を暴くところにあります。
                        ジョーン・トリフソン(つかめないもの

多治見駅 凧

2024/01/12

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン

セイラーボブの教えを理解するために最適な本は、LIVING REALITY(未邦訳)だと思います。そのLIVING REALITYの裏表紙に、三人の非二元の教師が推薦文を書いています。レオ・ハートン、グレッグ・グッド、そしてジョーン・トリフソンです。そのため、この三人はセイラーボブの教えを支持しているか、あるいはまったく同じことを教えていると思われます。

ジョーン・トリフソンはセイラーボブと面識があります。古閑博丈さんのブログで、セイラーボブと会っているくだりがあります。LIVING REALITYの中でも、セイラーボブがアメリカに行ったら再会したいというくだりがあります。

さて、この本の感想ですが、この本はとても読みやすかったです。非二元の本を読んでいると、時々翻訳された日本語の意味がはっきりとわからない時があります。でも、この本にはまったくそれがない。古閑博丈さんのブログや本を読んでいつも思うのは、翻訳からくるストレスがまったくないということ。これは高木悠鼓さんにも言えることで、この二人の翻訳は安心して内容に集中できるのでありがたいと思っています。

本の内容もすばらしいものでした。本の構成は27の表題からなる書下ろしになっていて、それぞれの最初にいろいろな賢人の短い言葉が引用されています。最初の項目「」の頭には、セイラーボブの言葉(生はつねに生を糧にして生きています。生はあらゆるかたち、あらゆる姿をとって現れます。それでもそれは同じ生であり、同じ知性=エネルギーです。そしてあなたはその生なのです。)があって、嬉しく思いました。セイラーボブの言葉はその一回だけで、あとはブッダやラマナ・マハリシなど様々な人の言葉が掲載されています。賢人たちの言葉もすばらしいのですが、書下ろしの内容もすばらしいものです。

本の紹介のために何か所か抜粋させていただきます。

P50から
 いわゆるスピリチュアルな覚醒の旅は、どこか別の場所にたどり着くこととも、新しい何かを手に入れることとも関係ありません。それはもっとも明白はことを認識するということであり、また、自分のまさに目の前にあってもっとも親密で呼吸よりも近く本当の意味では避けることも見落とすこともできない何かを見かけの上で覆い隠している誤った観念や蜃気楼のような空想の正体を見抜く(またはそこから目覚める)ということです。
 覚醒や悟りという言葉を耳にすると、私たちはよく、砂の上に引かれた魔法の線を「私」が未来のいつかに飛び越えて「覚者」となり、ある種の完璧な(そしてもし可能であれば永久に心地良い)境地に永遠に定着できるのではないかといった想像をします。それはおとぎ話であり、幻想です。そういう考えかたから目を覚ますことこそが、覚醒です。

P55から
 「自己がない」というのは、「あなた」がこれまで経験したことがないような魅惑的で神秘的な経験のことではありません。
 成長の過程で、今ここにいて気づいているという否定しようがない感覚が、一つの心身の内側にいる分離した個別の人間だという観念と混ざってしまいます。私たちが毎瞬、実際に経験していることーー境界なしにあるということーーが、主体と客体、自己と他者とに概念の上で分割されます。蜃気楼のような分離した「自分」、空想上の客体が、<究極の主体>(あらゆるものとしてありながらあらゆるものを見守り、位置を持たず、気づきながら今にあるということ)と取り違えられてしまうのです。目が覚めているときの生という映画は、ひとりひとりが別々のものを観ているように感じられます。そのため、私たちのそれぞれが意識の分離して独立した単位(心)であって、他とは切り離された体の内側に閉じ込められているその個人が、「外側」にある客観的な物質世界、人によってさまざまに違って見える世界を見ているのだと考えます。
 けれども、世界は「外側」にあるでしょうか? そして「内側」に意識の分離した単位(心)があるのでしょうか? あなたが私の映画に現れていて、私があなたの映画に現れているとしたら、この見かけ上では別々の映画は、ひとつひとつの宝石が他のすべての宝石の姿を映している<インドラの綱>の宝石のようなもの、もしくはどんな小さな部分も全体を包含しているホログラムのようなものだということはありえないでしょうか?

p214から
 瞑想などのスピリチュアルな実践をはじめたばかりだったり、先鋭的な非二元のミーティングや本に接しはじめたばかりだったりする人たちは、これは自己を向上させてどこかにたどり着くという話なのだとたいていは思い込みます。道なき道(直接の道)とは、じつはそうした考えの本質を見抜くことにほかなりません。それは究極的には、宇宙の他の部分から切り離された「自己」はここにはいないという発見です。明晰さと混乱のあいだ、「わかる」と「わからなくなる」のあいだ、境界のない気づきとの一体化と一人の個人との同一化のあいだ、そうした両極のあいだを行ったり来たりしている「私」はいません。「スピリチュアリティ」と「それ以外の生」のあいだの境界は、実際には存在しません。あるのは、今あるとおりの<ここ・今>という境界のない直接性だけです。
 どんな境地も経験も、やって来ては消えていきます。非二元の絶対は経験ではありませんし、永久にせよ一時的にせよ「人」が至る境地でもありません。「人」というのは、非二元的な無境界性の内側で現れて消えていく一時的な見かけです。

非二元の本というのはどれも、一種のパラドックスになっていると思います。たいていの人は、非二元の教師たちは、私たちとは違う意識の状態にあると思っていて、自分もそうなりたいと思って本を読みます。

自分も悟りを手に入れたい。エンライトメントしたい。一瞥体験をしたい。彼らのように理解を手に入れたい。特別な理解が起こるはずだ。でも、最後まで読んでも何も起こりません。何も起こらないばかりか、彼らが何のことを言っているのかよくわからないまま終わってしまいます。すると、(ああ、やっぱり私はまだエンライトメントしていないから理解できないのだ)となって、また別の本を読むことになります。

非二元の本を正しく理解するためには、彼らは私たちと何も違わない普通の人だということを前提に読むことです。彼らに何かが起こって、特別な意識の状態になったに違いないという誤った思い込みをなくして読むことです。もし、彼らが私たちと同じ普通の意識の状態にあるのなら、一体何のことを話しているんだろうという視点に立つと、彼らの話している内容に注意が向かい、自分にも理解できることだという目で読むことになります。そうすると、彼らの話していることは何も特別難しいことではなくなります。

私はセイラーボブに会う前に「ただそれだけ」を7回読みましたが、何のことだかさっぱりわかりませんでした。でも、教えを理解した後では、これほどわかりやすい本はないと思っています。他の非二元の教師の本も同じです。彼らが特別な意識の人だという思い込みを捨ててしまえば、やがては「わかっちゃった人たち」の仲間入りです。

何がわかるかというと、それは説明できません。それは「つかめないもの」だからです。ジョーン・トリフソンはこの本の中で、最初から最後まで繰り返し「つかめない」ものを説明してくれていますが、私たちがそれをつかむことはできません。

非二元の教えを理解していない人がこの本を読むと、繰り返し繰り返し「つかめないもの」のことが書いてあって、あ~、わからんとイライラするかもしれません。でも、私にとってはこの繰り返しがとても心地よくて、(そうそう、そうそう)と最後まで楽しく読むことができました。ジョーン・トリフソンはセイラーボブと同じ香りがします。偉ぶったところや気取ったところがなく、普通の人感満載です。また一人好きな教師が増えました。

ジョーン・トリフソンについて
1948年 米生まれ 女性 75歳。

Amazonの著者紹介より
ジョーン・トリフソン Joan Tollifson
アドヴァイタ、仏教、先鋭的な非二元を好んでいるが、 どんな伝統にも属していない。
著書に『Bare Bones Meditation』『Awake in tne heartland』
『Painting the sidewalk with water』がある。

本の最後の訳者のあとがきにジョーン・トリフソンの詳しい経歴などが書いてありますが、それを勝手に要約して書いてもしかられるので、掲載を控えさせていただきます。古閑さんのブログに短い略歴が掲載されていますので、そちらを参考にしてください。英語版のWikipediaには名前がありませんでした。ジョーン・トリフソンのサイトに自己紹介がありますので、リンクしておきます。

ジョーン・トリフソンのYouTubeチャンネルは見当たりませんでしたが、YouTubeでJoan Tollifsonを検索するとたくさんの動画が出てきます。どんな人か。比較的再生回数の多いものを一つ掲載しておきます。




2024/01/09

直接の体験をよく見てみること

つまり、人生を本当に理解するただひとつの道は、自分が生きている直接の体験をよく見てみることだけなのです。
                         ティモシー・フリーク(気づきの扉

我が家のさざんか

2024/01/05

「気づきの扉」ティモシー・フリーク

気づきの扉

とてもわかりやすい本です。理解できないような言葉は出てきません。易しい言葉で書かれていて、100ページに満たない本なので、一時間もあれば読めてしまいます。
七つの洞察を提示していき、それが本当なのかどうかを自分で考えていく体裁の本になっています。内容は、非二元のことを学んできた人なら全部知っていることです。それでいて陳腐な感じがしません。あらためて気づかせてくれることがたくさんあります。

p45
この、身体でも心でもない、謎めいた「私」とはいったい何なのでしょうか?
それは、身体や心を見つめている意識です。

「意識」という言葉がシンプルに使ってあるのをとてもうれしく思いました。わかりやすい本です。

Amazonのサイトから
著者について
ティモシー・フリーク 哲学者、思想家。キリスト教のグノーシス思想を研究した『THE JESUS MYSTERIES』(原題)が英国、米国でベストセラーになったほか、世界の宗教、神秘思想を幅広く研究した著書多数。またBBCやヒストリー・チャンネルなどのドキュメンタリー番組にもしばしば登場し、『ミステリー・エクスペリエンス』と題したワークショップも人気がある。旅をしながら人々の意識を変えていく「スピリチュアル・エンタテイナー」だった古代の哲学者にならい、自らを「スタンドアップ哲学者」と呼ぶ。英国南部グラストンベリー在住。

the urban guru cafeでティモシー・フリークを取り上げているので、この本を買いました。

ティモシー・フリークには日本語版の公式オフィシャルサイトがあります。詳しい情報はそちらで読んでください。




2024/01/02

悟りとは

悟りとは、自分は個人ではないという絶対的な理解です。
                     フランシス・ルシール(今、永遠であること

多治見市 永保寺