2022/06/30

慧解脱 心解脱

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その26」

仏教のある経典では、解脱には慧解脱(えげだつ)と心解脱(しんげだつ)の二種類があるという。慧解脱はこの世の正しい姿、「私」は存在しないという知識を知ること。心解脱とは修行によって自分を変えていき、「私」は存在しないということを体得して本当の解脱者になること。

この話はセイラーボブの説く非二元の理解に似ているような気がします。「私」はいないと理解して終わりなのではなく、参照点が現れるたびに、それは虚偽であると何度も見破ることによって、最終的に理解が完成するのだと思います。

2022/06/29

寂しい生活・岸本葉子の「俳句の学び方」・俳句、やめられません・俳句上達9つのコツ・子供と楽しむ俳句教室・俳句特訓塾

寂しい生活 稲垣えみ子

セイラーボブの教えを学んで、「私」も「世界」も幻想であるとわかって、世俗的な欲求を追い求めなくなりました。中野孝次の「清貧の思想」や、加島祥造の「求めない」にあるような生きたかをしたい、また、佐々木閑先生や横田南嶺老師の話を聞いて、欲望を追い求めないことこそが幸せでいる秘訣だと思うようになりました。

そんな折、ネットのコラム(AERAdot.)をふとしたきっかけで読み、稲垣えみ子さんを知り、興味がわいて読んでみました。私はほとんどテレビを見ないので知らなかったが、この人は情熱大陸やニュースステーションに出たことがあり、結構有名な人らしい。

元朝日新聞の記者、論説委員。東日本大震災の時、原発事故の責任は自分にもあるのではないかと考えるようになり、節電を始める。初めのうちは家電品を減らすことから始め、とうとう洗濯機も冷蔵庫もTVも処分。最後には月の電気代が150円に。お風呂もやめて銭湯へ。ガスも契約しておらず、カセットコンロで調理。冬は湯たんぽと火鉢で生活。

そういう生活を始めると、それが不便ではなく、むしろ喜びであるとわかったいう。そして、それまで自分がいかに不要なものに囲まれて生きてきたかを悟る。そこから、服や靴など、要らないものを処分。

そして最終的に、仕事も不要なのではないかという思いにいたり、朝日新聞を退社する。そうして手に入れた生活が、不便どころかむしろ幸せなのだという。自分が、いかに不要な物を追いかけて生きてきたのかわかったのだという。

私も、物がたくさんなくても生きていけるということは知っているし、それが幸せとは比例しないのも知っている。世界を旅した二年の間、私の荷物は機内持ち込みできるキャスターバッグ一個分の荷物だけだった。それでも服が多すぎるとわかり、途中でいくつか捨てたくらいだった。洗濯はシャワーの時に手で洗っていたので、洗濯機などなくても生活できると知っている。でも、冷蔵庫やガスがないとちょっと困る。

いずれにしても、物が幸せをもたらすというのは幻想だと思う。そして稲垣さんは、見事にそれを証明してみせた。私は「欲望を追わない」生活を実践する者として、できる範囲で、ほどほどに稲垣さんを見習って生活していこうと思う。それこそが幸せでいる秘訣だと思う。

本の冒頭にある詩が素晴らしので紹介させていただきます。

人世、いろいろあった。
頑張ってきたんだけどね。
どこまでいっても心配ばっかりなんだ。
で、いろいろあって、いろいろ考えて、
大切にしてきたものたちに
ちょっとずつ、別れを告げることにした。

贅沢な消費。
電気。
持ち物。
ガス。
水道。
広い家。
そして会社。

残ったのは取るに足らない自分。
そして、
小さな、
寂しい生活。

一人になることは怖い。
でも頑張って、一人になってみたんだ。
それはどうしてだったのか、今となってはよく思いだせない。
……いや考えてみたら、これまでだってずっと一人だったんだよね。
でも一人だってことを認めたくなかった。
だから一人じゃないふりがしたくて
いろんなものも手に入れて身の回りを飾った。

同じように一人じゃないふりがしたい人たちと仲間になった。
楽しかった。
笑って、努力して、喧嘩して、傷つけ合いもした。そうして長い時間を過ごした。
でもやっぱり、結局は一人なんだってことに気づいたんだと思う。
だから、仲間の元を離れることにした。
寂しいてことと、きちんと向き合ってみることにしたんだ。

そうしたらね、何が起きたかっていうと
いやこれがもう、本当に笑っちゃうようなことになったんだ。

一人になれるなんて頭の中だけのこと。
いやもうさ、誰も一人にしちゃくれないんだよ。
みんながね、もうみんなが、寄ってたかって世話を焼いてくる。
で、変な話、それは人間だけじゃなかったりする。
鳥とか虫とか微生物とか、あるいは風とか、太陽とか。
さらには自分の中に眠っていた力みたいなものまでムクッと起きてきちゃったりして。
もううるさいくらいにね。

(あんまり転載すると叱られるので途中省略)

小さな、寂しい生活。
でね、それがね、
もしかすると最高の生活なんじゃないかって
思ったりするわけです。

この本はいろいろと考えさせられる本でした。

岸本葉子の「俳句の学び方」 岸本葉子
NHK俳句の司会の岸本葉子さんが、参考になったことを書きとめておいたものをまとめたものを10の格言と57の技としてまとめたもの。大変参考にはなったが、具体例が少なくてイマイチか。巻末に、詠みたい内容をタネとして描写したあと句にするという作業をやっているページがあり、そのやり方が参考になった。

p146から
タネ 夏休みの行楽地では、ケチャップの小袋を持参して、歯で開封する。
原句 ケチャップの袋歯で切る夏休み
推敲 ケチャップの袋嚙み切る夏休み

俳句、やめられません 岸本葉子
岸本さんの俳句にまつわるエッセイ集。入門者向け。季語の大切さ、句会に出ることの重要性が中心に書かれている。句会に出るつもりのない人にはあんまり参考にならないかも。あるある俳句(類想など)はとても参考になった。私は、やってはいけない定番あるあるをたくさんやっていて、まだ初心者の域を出ていないということがわかった。

俳句上達9つのコツ 井上弘美
コツにしたがって添削する構成になっているが、添削前の方がいいような句もあり、どうも納得いかず。結局、俳句もアートなので、ノーハウを学んでもいい句はできないとわかった。絵を描くときに、描き方の本を読んでも上手にならないと同じ。たくさんいい絵を見て、あとはたくさん描くしかない。もう俳句のノーハウ本を読むのはやめた。

子供と楽しむ俳句教室 金子兜太
句のみ音読。

俳句特訓塾 ひらのこぼ
句のみ音読。この本は俳句を作るヒントを与えてくれる点がよかった。

2022/06/25

法然・親鸞・一遍

最初の計画では、法然・親鸞・一遍を取り上げる予定はありませんでした。セツさんに教えてもらった二冊の本を読んで、ここにも広い意味で非二元の教えがあるような気がして、ブログに書くことにしました。

法然親鸞一遍 (新潮新書) 


本を手にして読み始めたのですが、二冊ともとっても難しい。本が難しいということの他に、私には法然や親鸞、一遍の予備知識がほとんどない。阿弥陀仏も念仏よく知らない。

そこで、まず周辺知識を学んでから読もうと思い、手っ取り早く、ネット上にあるもので予備知識を学び、そのあとで本を読みました。それほど詳しく学んだわけではないし、よく理解しているわけでもないのですが、本の感想を書く前に、法然、親鸞、一遍と、彼らが生きた時代背景を書いて、そのあとで本の感想を書きます。

南無阿弥陀仏
法然、親鸞、一遍の教えは、一言で言ってしまうと、「南無阿弥陀仏」と唱えると、阿弥陀仏が救ってくれる(極楽浄土に生まれることができる)という教えです。それではその阿弥陀仏とは何なのかというと、阿弥陀如来(あみだにょらい)のことです。

大乗仏教が発展すると、悟りを開いて仏になった人は、釈尊(ゴータマ・ブッダ)だけではなく、他にもいっぱいいるという思想が出てきました。そうした仏を如来といい、それぞれの如来は独自の浄土を持っていて、そこにいます。Wikipedia 仏の一覧

阿弥陀如来はそういう仏の中の一人。阿弥陀如来は、もともとはある国の王様でしたが、出家して法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となりました。菩薩というのは出家して修行する人のこと。そして法蔵菩薩は長い間の修行をへて阿弥陀如来となり、西方に極楽浄土を作り、今もそこにいる。念のために言っておきますが、これは大乗仏教が勝手に作った経典の中の一種の神話です。

念仏
この世では、人々はいくら修行してもなかなか悟りが開けない。そこで阿弥陀如来は、もし念仏を唱えるなら、死後に人々を阿弥陀如来のいる極楽浄土へと招待するので、そこで仏となる修行をするといいと提案。そこではスムーズに仏になれると説く。Wikipedia 極楽

法然(1133年~1212年)
法然の生きた時代は平安末期。平清盛(1118年~1181年)の時代で、保元・平治の乱、源平の戦い、疫病の流行で末法思想が流行った頃です。法然の父は地方(岡山)の役人でしたが、恨みを抱いていた他の役人に夜襲され命を落とします。瀕死の父は法然に向かって、恨みは恨みを生むだけだ、仇討ちはいけない、仏門に入るようにと言いました。法然は9歳で仏門に入り、13歳で比叡山へ行き修行をします。

5000巻にも及ぶ経典を五回も読んだにもかかわらず、なかなか悟りは開けませんでした。43歳の時、唐の善導という僧の書物の中に、念仏を唱えるだけで極楽浄土へ生まれることができるという教えを見つけ、それ以降比叡山を降りて、京都の町で念仏を人々に説き始めます。

法然以前の比叡山(天台宗)で念仏をやっていなかったわけではなく、念仏もあったわけですが、仏を心に思い描いてやる(観想念仏)など、念仏のやり方が違っていました。ちなみに、仏の名前だけをひたすら唱える念仏を称名念仏といいます。

この頃の仏教は僧侶だけのもので、僧侶たちは自らの往生のみに腐心して人々を顧みることはなく、ひどい僧侶は都へ出て略奪を繰り返す者までいる始末。法然の教えは「念仏を説くだけで往生できる(極楽に生まれる)と、わかりやすく、広く民衆に受け入れられました。

親鸞(1173年~1263年)
親鸞は、京都日野の下級貴族の子として生まれますが、幼くして両親を亡くし、9歳の時に仏門に入り、比叡山で修業に励みます。20年の歳月が流れますが、一向に煩悩は消えず、悟る糸口もつかめないでいました。いくら修行しても、妬みや煩悩は消えませんでした。特に親鸞を悩ませたのは、女性に対する性欲でした。当時の僧侶は女性との性行為は禁止でした。

29歳の時、聖徳太子が建立した六角堂(京都)へ毎日100日間参堂すると決めて通いました。95日目に、百済観音が現れて「たとえお前が女性を抱くようなことがあっても、私が珠のような女性の姿となってお前に抱かれてあげよう」と告げます。

親鸞は、この出来事を、京の都で人々の評判になっていた法然を訪ねて話すと、法然は、「伴侶がいた方が念仏できるのなら伴侶がいてもいい、伴侶がいると念仏できないのなら伴侶はいない方がいい」と言いました。

そして親鸞は比叡山を降りて法然に弟子入りして念仏修行に励みます。法然の念仏(浄土教)は人々の人気を集めたのですが、旧来の仏教界から妬みをかい、ある事件をきっかけに、念仏仏教は解散、法然は土佐へ、親鸞は越後へと流されます。法然75歳、親鸞35歳の時でした。

法然と親鸞はそれぞれの流刑の地で念仏を広めます。4年後、流罪は許されますが、法然は80歳で他界。親鸞は法然に再会することなく、関東で布教に勤めます。やがて親鸞は京都に戻り、後進の指導にあたり、90歳の生涯を終えます。親鸞には奥さん(恵信尼)と7人の子供がありました。

一遍(1239年~1289年)
伊予の豪族の出身。10歳で仏門に入り、法然の孫弟子から浄土宗を学ぶ。布教の仕方などで大いに悩んでいたが、熊野本宮での夢の中で「自分の頭で考えずに、南無阿弥陀仏を広めなさい」とお告げを聞き、以降全国を遊行し、踊り念仏、賦算(南無阿弥陀仏と書いた札を配る)によって布教しました。一遍の生涯は遊行の布教でした。

背景知識はここまで。もっと詳しく知りたい人は参考サイトを見てください。

この二冊は、法然、親鸞、一遍の念仏に対する解釈ややり方、心構えの違いなどがこと細かく書かれています。念仏は一回でいいのか、十回言うのか。心から信じていなくてはいけないのか、信じていなくても唱えさえすればいいのか。そういったことがこと細かく書かれています。

でも、読んでいても、その違いが全然頭に入ってこない。私の場合、「なぜ念仏を唱えると極楽浄土に生まれることができるのか?」ということが理解できない。

極楽浄土とか阿弥陀仏とかは、はっきり言ってしまえば神話です。なぜそれを信じると救われると思えるのかということが理解できない。当時の時代背景を考えると、人々にとっては楽な宗教であり、信じさえすればよかった。でも、私にはその理屈がわからない。

私が今まで焦点をあててきた仏教は、哲学であり科学としての仏教であり、そこには理屈があった。でも、呪文を唱えれば救われると言われても理解できない。信じないから救われない、とにかく信じなさいと言われても信じることはできない。

法然にしろ親鸞にしろ、比叡山で何十年も修行をしたのだから、仏教の基本的なことはひととおり学んでいるはずです。原始仏教の阿含経から、中観、唯識、空の思想、法華経や華厳の思想も学んでいるはずです。そうしたことを十分に理解した上での念仏だと思います。

ではなぜ念仏なのでしょうか。その答えを、町田宗風さんのサイトの「こころの時代④法然を語る」の中で見つけたような気がします。町田さんいわく、仏陀の教えは、自我を消すことによって苦しみを消すことができるというもの。念仏や座禅、千日回峰は、自我などないということを感得するための手段だと言うのです。
ちょっと抜粋しますが、できればサイトで全文読んでください。

町田: 宗教の本質を一言でいえば、苦しみの消滅ですよ。悩みを消していくことにあるわけですから、それにはエゴを消さなければいけない。お釈迦様―ブッダの教えの中に、「四聖諦(ししょうたい)」というのがございまして、それは「苦集滅道(くしゅうめつどう)」と言われていますけれども、この世は苦である、と。悩みである、と。サンスクリットで「ドゥッカ(duhkha)」というんですけど、それは「苦しみ」ということですが、この世は苦である、と。そして我々肉体を持つ人間はその苦の集まり―「集」ですね―煩悩欲望の集まりとして非常に苦しい人生を生きているのが人間である、と。ところが三つ目の「滅」で、それを消すことによって、自我を消すことによって、苦しみも消していくことができるんである、と。苦しみというのは実在するものではなしに、エゴが苦しみですから、エゴを消せばエゴも実在しない幻想のものですから、それを消していけばよい。最後の「道」というのは、まさに仏道の道、修行のことですね。正しい行をすれば、自ずから自我が消えていく。そして苦しみも消えていく。それが「四聖諦(ししょうたい)」というブッダの教えだと思うんです。

――  法然はその行を通じて消したんですか。

町田: そうですね。ですから定善観という非常に意識集中的な行をされたことがきっかけで、そこから抜けてこられるわけですけれども、やはり念仏をするということは常に自分を消す、ということなんですね。我があれば、お念仏になっていないわけですよ。お念仏を称えている時は、自我意識の底が抜けていなきゃいけないわけですよ。私にとっては宗教体験というのはそれほど難しいことではなくて、無限の広がり、無限の宇宙のような広がり、自分というのはそのような無限のスペース、空間のように、私は感じているんです。それを感得していく方法が、お念仏であったり、坐禅であったり、回峰行であったり、滝行であったりするわけですよ。方法論はいっぱいありますが、行き着くところは無限の広がりの自分に出会うということですから。

そして、法然親鸞一遍 (新潮新書) のp83から抜粋させてもらいます。

 親鸞も一遍も、この三心の問題(浄土へ往生する者は、至誠心・深心・廻向発願信の三心を具えて念仏しなければならないということ)につきあたって、これと格闘する中で、一つの安心の境地に至った。その問題とは、自分で真実清浄な心をおこすことができるかという問題であり、自分で自分の心をどうこうすることができるかという問題であった。
 この問題に対し、親鸞も一遍も、その方向・拠り所は異なるにせよ、自分で自分の心をどうこうすることはできない、自分のはからいは一切、放下せざるえない、という世界に出たのであった。そして、そのゆえにこそ深い安心の自覚を得たのである。
 浄土教というと、それはただちに念仏の教えと思われている。それも称名念仏することによって救われると考えられている。しかしながら浄土教の本質は、そのように称名念仏にあるのではなく、自我の分別・はからいを徹底して断念する、自分の心を放下することにあるのである。私は、このことを強調しておきたいと思う。
 このとき、浄土教の救いも極めて禅に近い。禅も自力聖道門を呼ばれるとはいえ、むしろ自力の放捨の道であり、徹底して自力的作意を放下しつくすものである。浄土教は、他力浄土門の形で、見事に自我の一切のはからいを断捨する道である。

絶対他力、自分の力ではどうしようもない、という考え方は、非二元の考え方に通ずるところがあります。悪人であろうと何であろうとかまいはしない。念仏するば救われる。その教えは、修行積み上げ型の仏教の否定であり、自我などないということを感じるための手段としての念仏は、非二元の世界だと思います。

図書館に行くと、親鸞関連の小説や教行信証、歎異抄関連の本がたくさんあって、どうしてこんなに人気があるんだろうと思うのですが、親鸞が煩悩を捨てられない自分に正直に悩み、それを生きたから人々が共感するのだと思います。法然・親鸞・一遍は、知れば知るほど興味のわく人たちです。時間ができたら、もっと関連書籍を読んでみたいと思っています。

参考サイト

2022/06/24

常楽我浄

第527回「常楽我浄の大転換」2022/6/17【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

自分が在るという、誤ったものの見方をやめることが仏教の本質であると説いてみえます。

2022/06/23

梟の城・守一のいる場所・奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業・読む日本の歴史1・平和の俳句・人生の実りの言葉・いまを生きる知恵・ブラックボックス化する現代

梟の城 司馬遼太郎
これは司馬遼太郎の直木賞受賞作だそうです。でも全然おもしろくなかった。途中から、ギブアップしそうなのをこらえて最後まで読んだ。
伊賀忍者が秀吉暗殺の密命を受けて暗躍する話。そこへ忍者には御法度の恋愛の話がからんでくる。最後の最後にああ、そういうことだったのね、と多少救われる顛末が用意されてはいるが、そこへたどり着くまではきつかった。一つには、これは60年前に書かれたものであるということ。その時代には忍者ものはおもしろい読み物であったかもしれない。でも今読むとちょっと荒唐無稽ではないかという気がする。司馬遼太郎を読んで歴史を学ぼうと考えていたが、BS11「偉人・素顔の履歴書」の加来耕三さんによると、司馬遼太郎の小説の8割は史実に基づいておらず、嘘だという。史実に反することも多いという。司馬遼太郎はやめて、子供向けの歴史の本で学ぶことにする。

守一のいる場所
守一の絵、書、日本画、彫刻などが掲載されている。他には、樺太調査の時のスケッチブックや、芸大時代のデッサンなどもある。
守一の絵は、描いていくうちに作品を仕上げていくタイプの絵だと思っていたが、そうではないとわかった。基となる下絵(デッサン)があって、それをトレース紙を使って転写するやり方をしている。そのため、同じ下絵の絵が複数あるということがわかった。かといって、版画ではないので量産できるわけではなく、点数は限られる。結構緻密な作業をしていると知って、よけい好きになった。「きんけい鳥」はいつか本物を見たい。
冒頭の言葉から
「川には川に合った生き物が住む。上流には上流の、下流には下流の生き物がいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際を守って生きた方が、世の中によいと私は思うのです。いくら時代が進んだといっても、結局自分を失っては何もなりません。自分にできないことを世の中に合わせたってどうしょうもない。川に落ちて流されるのと同じで何にもならない」

奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 荻野弘之
ローマ時代の奴隷出身の哲学者エピクテトスの「提要」の言葉を抜粋して著者が解説したもの。
ローマ時代の奴隷というのは、あとで解放される仕組みがあることに驚いた。エピクテトスは解放されたあと、人々に教えを説いて暮らしていた。

エピクテトスの教えを一言で言うと、自分がコントロールできることはコントロールして、コントロールできないことにはかまうなということ。コントロールできないことは何かというと、金、地位、名誉、評判、奴隷の身分、死、病、貧困など。そして、コントロールできることは何かというと、自分の意志だけ。

私たちは、金や地位や名誉を自分の力でなんとかできると考えて、たえずあくせくして、悩んだり心配したりする。でも、エピクテトスは、そうしたことは実は自分でコントロールできなことだという。実際、彼は奴隷という身分や、自身の足が不自由だったことをどうすることもできなかった。

そして、彼は自分がコントロール可能な意思をしっかりコントロールすることで幸せになれるのだと説く。

以下印象に残った箇所を抜粋

p42「病気や死や貧乏を避けるならば君は不幸になるだろう」そうしたことは避けられないものである。思いわずらっても無駄。また、他人の評価もどうにもならないものなので、気にしない。

p70「過去と未来に何かを求めてはいけない」これもコントロール外のこと。

p84「人々を不安にするものは、事柄それ自体ではなく、その事柄に関する考え方である」「すべての苦しみの原因は『あなた』」ものごとをどう解釈するかで物の見え方は変わる。

p92「君を侮辱するのは、君を侮辱していると見なす君の考えなのである」人が言ったことで傷つくわけではなく、言われたことを自分で認めたことで傷つく。認めなければ傷つくことはない。

p132「『傷つけられた』と君が考える時、まさにその時点で君は実際に傷つけたことになるのだ」

p181「心象を正しく用いる。自分の心や意識の働きが適切かどうかを判断すること。自分の見方に偏見や先入観が含まれていないか? 欲望を適切に抑えることができるか?」

p184「あらゆる関心は自分に向けるべきである」コントロールできるのはそれだけ。

p199「『心象』に拉致されないように」想像や妄想で苦しみを自分で作り出さないように。

p207「死は決して怖くない。なぜなら我々が生きている時には死はまだないし、死んだ時にはすでに我々はいないから」

p212「記憶しておくがよい。君は演劇の俳優である。劇作家が望んでいる通りに、短編であれば短く、長編であれば長い劇を演じる俳優だ。作家が君に物乞いの役を演じてもらいたければ、そんな端役でさえも君はごく自然に演じるように。足が悪い人でも、殿様でも、庶民でも、同じこと。君の仕事は、与えられた訳を立派に演じることだ。その役を誰に割り振るかは、また別の人の仕事である」

******

この本は非常に有益な本でした。セイラーボブの教えとかぶるところも多い。不幸は全部自分の想像の産物であるところなど、言っていることは同じ。コントロールできることは自分の意志だけであり、そこに集中すべきだということも納得できる。でも、セイラーボブの言う「すべては起こっていること」とい教えの方が一段上にあるように思う。そもそも、意思でさえコントロールできない。ただ、与えられた役を演じればいいというのは賛同できる。

この類に本をあれこれ読むが、やっぱりセイラーボブの教えの方が救いになると思う。「そこには悩む『私』はいない」「死はない」とバッサリやってくれた方が私にはわかりやすい。

読む日本の歴史1
三内丸山遺跡も吉野ケ里遺跡も行かんといかんなあ。歴史を勉強しようと思ったけど、だんだん飽きてきた。もうだいたいのところはわかったので、これでよしとする。あとはBS11偉人・素顔の履歴書(YouTube)で学ぶ程度にする。

平和の俳句
平和とは坂に置かれたガラス玉
命令に従っただけ春寒し
戦争は人を丸太と呼ばせけり

人生の実りの言葉 中野孝次
この本は中野さんが若かりし頃から読んだ本の中で感銘を受けた言葉を書き出しておいたもの40を選んで、それにエッセイ風の解説を加えたもの。そのどれもがすばらしい。いくつか載せておきます。

1 愛
わたしの誕生を司った天使が言った
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも。
             ウイリアム・ブレイク

2 憎むためでなく、愛するために
いいえ、わたしは憎みあるためでなく、愛しあうために生まれて来たもの。
             ソポクレス『アイティゴネー』

6 薔薇
薔薇はなぜという理由なしに咲いている。薔薇はたださくべく咲いている。薔薇は自分自身を気にしない、ひとが見ているかどうかも問題にしない。
             アンゲルス・シレジウス「薔薇は理由なく咲く。」

8 貫通するものは一なり
つひに無能無芸にして只此一筋に繋がる。
             芭蕉「笈の小文」

15 果物
秋になると
果物はなにもかも忘れてしまって
うっとりと実ってゆくらしい
             八木重吉「くだもの」

18 不正
或ることをなしたために不正である場合のみならず、或ることをなさないために不正である場合も少なくない。
             マルクス・アウレーリウス『自省録』

22 生まれた以上
生まれた以上、生きるといふことは、生きる本人の問題だある。さう思って何にもめげずに生きて行くべきであると思う。
              広津和郎「桃子への遺書」

32 運命
運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。それを、それよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いたりする。われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。
              モンテーニュ『エセ-(一)』

いまを生きる知恵 中野孝次
NHKラジオ放送で、中野孝次が古典について話した番組(30分×26回)のテキストを加筆修正したもの。内容は、良寛、兼好、老子、鴨長明、道元、西行、蕪村について。良寛、兼好、鴨長明については、今まで中野さんの他の本で読んだ内容と同じで、「欲望を追及しない生き方」「清貧の思想」とほぼ同じ。私はこの考え方が好きで、自分でもそうありたいと思い、実践している。

老子については、加島祥造の解釈によるところが大きい。道元については、読んでいてもよくわからず。なんとなく非二元の思想に通じるところがあるものの、はっきりとはわからず。私は今後も、道元関連に手を出すことはないと思う。人によって解釈がまちまちであり、原典そのものを読む能力が自分にないうえ、古典の中でも道元はとくに難解だと中野さんは言う。

蕪村については俳句がとても参考になった。参考になったといっても、そんな俳句が詠めるわけもなく、すごいなあと思うだけ。

ブラックボックス化する現代 下條信輔
副題が「変容する潜在認知」とあったので、脳科学の本だと思って買ったところ、そうではなかった。脳科学者から見た社会批評という感じの本だった。しかも、だいたい2015年から2016年に新聞をにぎわせた事件に対する評論であり、賞味期限が切れている感は否めない。

2022/06/21

おたよりをいただきました。

前野隆司さんの本、さっそく図書館で借りて数冊を立て続けに読みましたが、とても面白いですね!「錯覚する脳」がとてもわかりやすく、どうせイリュージョンであるなら大いに楽しもう、という明るいメッセージも最高でした。

また「死ぬのが怖いとはどういうことか」の第八章(あなたというメディア)がとにかく痛快でした。いわゆる「私はいない」の前野さん流説明とでもいいますか、なんだか笑いが止まらないような愉快な気分で読みました。

一瞥体験やエンライトメントといった特別な体験は不要で、知的に論理的に理解をして「腑に落ちる」ことで十分であることが、前野さんを見ているとよくわかりますね。前野さんの著書と出会うきっかけを与えてくださり、ありがとうございます。

仏教の表現ですと正直敷居が高く感じられて、頭にすっと入ってこないことも多いのですが、前野さんの語り口はすーっと読み進められました。

よろしくお願いいたします。
ヒロ

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おたよりの内容は6月15日のブログ( 脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳 )についてです。

ヒロさん、おたよりありがとうございます。
私も前野さんの本に好感を持ちました。非二元を語る人の多くは、体験(一瞥体験や覚醒体験)を持ち出すために、多くの人に誤解を与えてしまっています。前野さんは、体験ではなく、科学として「私」は幻想である。ということを説いてみえるのがすばらしいと思います。

また、世界が幻想だとわかっても、「どうせイリュージョンなのだから、楽しもう」という姿勢も好きです。非二元の教えを学んで、「私はいない」で終わってしまうと、人生を厭世的に見てしまいがちですが、「どうせイリュージョンなのだから、楽しもう」と言われると、なんだか楽しくなります。

こうやって科学的に説明してもらうと、非二元や仏教で使われている説明は、なんだか遠回りのような気さえします。もっともっと科学からの証明が増えて、「私はいない」ということを、いわゆる精神世界経由ではなく、科学的に理解する人が増えてくるといいなと思っています。

「死ぬのが怖いとはどういうことか」はまだ読んでいないので読む予定です。

2022/06/18

黄檗希運(おうばくきうん)

師曰く、すべての仏陀と衆生は、心にほかならない。心には始まりがなく、不生であり、不滅である。それは緑でも黄色でもなく、姿も形もない。それは、あるとも言えず、ないとも言えない。新しいとも古いとも言えない。

それは長くも短くもなく、大きくも小さくもなく、あらゆる限界、尺度、名前、比較を越えている。それは、あなたの目の前にあるが、それについて推論し始めると、すぐに誤りに陥る。それは、推測することも計ることもできない無限の空間のようなもの。

心が仏陀であり、仏陀と衆生の間に違いはないが、衆生は形に執着し、外に仏性を求めてしまう。探し始めたとたんにあなたはそれを見失う。というのもそれは、仏を使って仏を求め、心を使って心をつかむようなものだからだ。たとえ未来永劫求めたとしても、それを達成することはできない。

もし、観念的な思考を止めて、心配することをやめると、仏陀は目の前に現れるということを衆生は知らない。というのも、心が仏陀であり、仏陀は生きとし生けるものだからだ。衆生として現れているものが劣るわけでもなければ、仏陀として現れているものが優れているわけでもない。

あなたはもともとあらゆる点において完全なものであるから、六波羅蜜やそれに類するたくさんの修行や、ガンジス川の砂の数ほど無数の功徳を積むことによって、完全さをそのような無意味な修行で補おうとすべきではない。そうしたことをする機会があればやり、機会が過ぎればおとなしくしていなさい。

もしあなたが、心が仏陀であると確信していないで、形や修行、徳を積む行為に執着しているのなら、あなたは考え違いをしていて、道とは相容れない。心は仏陀であり、その他の仏陀も心もない。それは空間のように透明で汚れておらず、いかなる姿も形もない。心を使って観念的に考えると、実体を離れて形に執着することになる。

常住の仏陀は、形や執着のない仏陀である。仏陀になろうと思って六波羅蜜やそれに類する無数の修行をすることは、段階を踏んで進むことであるが、常住の仏陀は段階を踏んでなる仏陀ではない。心が仏陀であることを理解すること以外に、為すべきことはない。それが真の仏陀である。仏陀と衆生は心以外の何ものでもない。

心は、太陽が世界の四隅を照らすように、混乱も災難もない空間のようなものである。太陽が昇って地球全体を照らしても、空間そのものは輝きを増さないし、太陽が沈んでも空間そのものは暗くならない。光と闇の現象は交互に起こるが、空間の性質は変わらない。仏陀の心も、衆生の心もそうである。

もしあなたが、仏陀を純粋で明るい、悟りを開いたような姿と見なしたり、衆生を汚い、暗い、死すべきもののような姿と見なしたりするならば、形に執着することによるこれらの観念は、ガンジス川の砂の数ほどの永遠の時を経ても、あなたを至高の知恵から遠ざける。そこには心があるだけであり、手に入れるべきものは何ひとつない。

なぜなら、この心こそが仏陀なのだ。 道を学ぶ者がこの心の実体に目覚めなければ、心に概念的な考えを重ねたり、自分の外に仏陀を求めたり、形や敬虔な修行などに執着したりすることになるが、これらはすべて有害であり、至高の知識への道ではない。

***

目覚めている心には出発点も終わりもない。それはこのようなものだとも、あのようなものだとも言うことはできない。それには形も大きさも色もない。あなたはそれが存在するともしないとも言うことはできない。

それを測ることはできず、何かに入れることもできない。限定できるような特徴もなく、主体でも客体でもないのに、一体どうして何かと比べることができようか。

何らかの理由で人々は、現象の世界と自身の感覚が道を妨げていると考えている。彼らは心を静めるために、絶えず日常生活から逃げ出したいと思っている。道を達成するためには、現象の世界が邪魔であると思っている。

しかし、それは逆である。道を妨げているのは、自身の心だということを理解しなくてはいけない。為すべきことは、心の中の誤った観念を空にすることであり、現象の世界は障害にはならない。無心においては、現象としての世界は道と同じである。心を修養することは役には立たない。

***

あなたたちが凡人の境地、聖人の境地という区別を捨てさえすれば、心の他に仏は存在しない。達磨大師は西からやって来て、すべての人間は仏なのだと指摘された。おまえたちは今このことを知らず、凡人の境地、聖人の境地にとらわれ、自身の外に仏を探しまわり、自身の心を見失っている。だからこそ、おまえたちに、「即心是仏」、この心こそが仏にほかならぬと言っているのである。

2022/06/15

脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳

脳はなぜ「心」を作ったか 「私」の謎を解く受動意識仮説 前野隆司

YouTubeで前野さんの受動意識仮説を知り、興味がわいたので読んでみました。前野さんはロボットを専門としていた工学博士。
前野さんがYouTubeで言っていることは、私たちは意思よりも先に行動をしているということ。例えば、指を動かそうと思って動かす時、「指を動かそうと思う→指を動かす指令を出す→指を動かす」とい順番で行動していると考えていますが、実験によると(リベット博士の実験)、「指を動かす指令を出す→指を動かそうと思う→指を動かす」という順にやっているのだそうです。つまり、人間は行動したあとで、それを後から自分がやったように思っているだけ。要するに、自分がやっているというのは幻想だと言うのです。それで、それは非二元と何か関連があるのではないかと思い、本を読んでみました。内容はYouTube(意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説)で語っていることと同じなので、YouTubeを見てもらった方が手っ取り早いと思います。

本の内容を私なりにまとめると、
①私たちが見ている世界は目で見ているのではなく、脳内で再現された世界を見ている。
②私たちが「私」だと思っている私は錯覚であり、存在しない。
③意識(心)は脳が作り出したものであり、幻想である。

内容を補足説明すると、
①は私が唯識のところで書いたこととほぼ同じで、私たちの見ているのはヴァーチャルリアリティだということ。
②は、私たちの行動をやっているのは脳内の小人(神経細胞あるいは潜在意識、無意識)であり、「私」ではない。「私」はその小人たちがやったことを後付けで「私」がやったと錯覚しているだけ。
③意識は、起こっていることをコントロールしているのではなく、起こっていることを見ているにすぎない。出来事を受動的に観察しているにすぎないので、これを「受動意識仮説」という。(セイラーボブの言う、マインドは翻訳者という発想に似ている。前野さんの使う「意識」という言葉は「思考」と考えた方がわかりやすい。)

YouTubeで前野さんは、仏陀が発見した無我を、科学者として再発見したと言っています。前野さんは、意識(心)は幻想である、と言ってみえますが、世界が幻想だとまでは言ってない。でも、意識がなければ世界を認識しようもないので、世界がないと言っているのに近い。

「『私』も『世界』も錯覚である」、というところまでは納得できる。大きな疑問は、ではその脳内の小人を動かしているものは何なのかということ。この問い方自体が間違いなのだと佐々木閑先生は言われるので、言い方を変えると、意識とは何なのか? その背後には何があるのか? それに対する答えはこの本には書かれていない。ただ、セイラーボブの「知性エネルギー」や「アウエアネス」も言葉では説明できないものなので、仮にそれを「脳内の小人・潜在意識・無意識」というのもありだと思います。そう解釈すると、これはセイラーボブの言っていることと同じと言えると思います。科学者がこういうことを言うのには少し驚いたと同時にすばらしいと思います。内容的には仏教や非二元で遥か昔から言われていることと変わりません。この本を読んで、非二元や仏教で言っていることに科学がやっと追いついてきつつあるという印象を持ちました。是非読むべき本だと思います。

錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった 前野隆司

前著では「心は脳が作り上げた幻想である」ということが書かれていましたが、この本では、私たちの五感も幻想であるということを、五感それぞれについて説明しています。
例えば、色彩。自然界には色彩はない。色は何かというと、光の電磁波。その電磁波を人間の目が受け取り、脳に伝え、脳の中で色へと変換している。

そのため、もし地球に人間がいなかったら、色はない。もっと極端なことを言うと、目を持つ生物が地球に現れる以前は、地球上には電磁波があっただけで、青い海も赤いマグマも丸い地球もなかった。私たちは、色によって山や海を認識しているので、色が無かったらそこには電磁波があるだけ。電磁波だけの世界を想像することはできないが、何もない世界。

また、触覚。手には、センサーがあるだけで、それを認識する機能はない。でも私たちは何かを掴んだ時に、そこに物があるように認識する。それは、脳が作り出したイリュージョンなのだという。もっと極端な例は、手や足を失くした人が、そこにはあるはずのない手や足の痛みを感じるという例があるという。

そして聴覚。私たちは、音の波調を鼓膜で感受して脳で認識している。でも実際には、例えば遠くで救急車のサイレンの音がしていると、遠くのサイレンの音として認識する。実際には耳で感知しているはずなのに、脳が勝手に距離というイリュージョンを作って、音が遠くにあるように思わせている。

そうした説明を五感それぞれ順に説明していき、五感で感じるものはもともと自然界にはないものであり、すべて脳の作り出した幻想なのだという。

「私」も脳が作り出した幻想(イリュージョン)なのだという。そのため、「私」はもともと生まれてはいない。前野さんは、そう考えるようになってから、死は存在しないとわかり、恐ろしくなくなったという。このあたりの話はまったく非二元的でおもしろかった。

そこから話は仏陀や悟りの話となり、前野さんの言っていることは仏陀の悟りと同じではないかという。そして、前野さんは、意識が作り出した世界が幻想だと知って、最初はがっかりしたという。その後前野さんは、世界がイリュージョンなら、イリュージョンを楽しもうという方向へ向かう。以下p237から転載。

生というイリュージョンの過ごし方
 では、現代人は、イリュージョンである私たち自身の心と、どのように折り合いをつけて生きていくべきなのだろうか。
 それは、既に何度も述べたように、心も欲も真善美も実在すると考えることから出発し、既得権益をごりごりと守ろうとするのではなく、もともと何もないはずのところに心や物が今あるように思えているという奇跡的な「儲けもの」のイリュージョンを静かに楽しもう、という生き方だ。釈迦のいう在家の人の生き方がちょうどこれに近い。

 しつこいようだが、もう一度言おう。
 心のクオリア(拓注記:生きているという質感といった意味)が確固として存在すると考えようとするから、死ぬのはいや、という気持ちになるのだ。そうではなく、もともと何もないのだし、たまたま、意識というイリュージョンを堪能できる、人間という生物の意識として生まれ出てきたことに感謝しようではないか。イリュージョンを感じられるうちに大いに楽しもう。所詮はかないイリュージョンなのだから、脳が停止したらイリュージョンも停止するのは仕方がない。また、何もない状態に戻るだけだ。眠るのと大差ない。「永眠」とはよくいったものだ。
 しがみつくほど確実なものなど世の中にどこにもないのだから、イリュージョンを楽しむしかない。

もちろん、私たちが生命として生きる規範はもともと何もないのだから、自分でデザインするしかない。人生をどうデザインしても無に帰す事をわかった上で、やはりデザインするしかないのだ。
 どうせ無に帰するのだからむなしい、と感じる方もおられるかもしれないが、もともと無だったところに新たなデザインをしてみるささやかな楽しみだ、と思えばクリエイティブだ。
 はかない人生なのだから、やりたいようにやるしかない。
 といっても、自暴自棄はいけない。

 人生のデザインは、数十年間陳腐化せずに持続するものであるべきだろう。ささやかとはいえ、死ぬまで数十年というそれなりの期間、ハッピーでいるに越したことはないので、現在と未来をハッピーにするデザインであったほうがいい。

前野さんは現在、幸福学なるものを研究されていて、どうしたら幸福でいられるかという研究をしてみえます。興味のある方は文末の参照欄を参照してください。

昨日の動画の中で、佐々木閑先生は、「(この世は)子供が海辺で砂の城を作って遊んでいるようなもの。それが遊びだとわかっていて遊んでいる」という趣旨のことを言ってみえるという話がありました。前野さんも佐々木さんも同じようなことを言ってみえると思います。世界も「私」も幻想なのだからと悲観的になるのではなく、どうせ幻想なのだから深刻にならずに楽しんで生きていこうと言ってみえるような気がします。

非二元の人たちと同じように、科学の分野で、「私は実在ではない」と言っている人が他にもたくさんいると知りました。今後はそういう人たちの本を読んでいこうと思っています。

参考動画 

前野隆司の著書『錯覚する脳』(筑摩書房)の解説動画

前野隆司の著書『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか』(技術評論社)の解説動画

脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?」は絶版になっている上、中古本は高価になっていますが、前野さんのブログpdfがあり(第五章以外)、それで読むことが可能です。内容は宗教や哲学の話にまで及び、なかなか容易には理解できない部分があって、ざっと目を通しただけなのですが、この本の解説のYouTubeを見れば、前野さんの言いたいことは、十分わかります。

脳はなぜ「心」を作ったのか(2020年4月30日 第1回 前野隆司著作について著者と語る会)

意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説(リベットの実験の説明あり)

参考 前野隆司Wikipedia

   前野隆司著作

   前野さんのブログ

   pdf・脳の中の「私」はなぜ見つからないのか

2022/06/14

「人は自己を変えることができるのか」

 第519回「人は自己を変えることができるのか」2022/6/9【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

とても感銘を受けた話だったので、文章として書き起こしておきます。私の場合、聞くよりも文字で読んだ方が深く心に残ります。

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おはようございます。大きいことはいいことだ、子供の頃テレビのコマーシャルでよく耳にしていた言葉です。これは昭和42年、チョコレートの宣伝でありました。昭和40年代の高度経済成長期のまっただ中のことです。大量生産、大量販売、大量消費が良いこととされたのでした。大きいことはいいことだと言っては、さらにもっと大きいものを、そしてもっと便利なものを、もっと速いものをと追いかけてきたのでした。

その結果どうでしょうか。今日のような閉塞感の強い時代になってしまいました。マーケティングを研究している方からも、もはや便利さの追求は終わったと言われるようになりました。大きいものよりも、より小さいものを見直されるようにもなってきました。宣伝によって刷り込まされるものというのがございます。夏期講座の二日目の佐々木閑先生の講義は、刷り込み、刷り込まされた世界の話から始まりました。タイトルは「人は自己を変えることができるのか」です。

私たちは、より良いものを求め、より快適なものを求めることはあたり前のように思っています。それは刷り込まれた価値観で生きているのだ、というのです。それはあたかも日日より良いものを求めるのが幸せだという宗教に洗脳されているようなものだというのです。虹の向こうに夢を求める生き方だと言うのです。その宗教の説教がコマーシャルだというのです。これがいい、こっちの方がいい、買え、買え、と言って宣伝するのであります。資本主義の買え買え教だと佐々木先生はおっしゃっていました。テレビでは15分おきにそんな宣伝が流れるのです。

果たしてそれで本当に幸せになれたのでしょうか。もっとも、それで十分幸せだいう人には仏教が必要ではないと先生はおっしゃっていました。仏教は無理に人に押し付けるものではないのです。そのように、より良いものを追い求めることが人生の幸せではないと思う人が仏教を求めるのであります。この世の中にはそのように追い求めることができない人がいるのが現実であります。佐々木先生は欲求を追い求める人生が何をもたらすのかを示してくださいました。夢を手に入れるための駆動力、力、人生のパワー、将来の希望などです。

逆に夢を追い求めることに執着してしまうとマイナスの面にもなるのです。それは執着による貪欲や怒り、憎しみ、妬み、そしてうまくいかなかった時の劣等感などがあります。また、追い求める道がふさがれた時にはどうしようもない絶望感を味わうというのです。しかし、欲求を追い求める生き方をやめると、今度はそれら怒りや憎しみ、妬み、劣等感、絶望感からは解放されることになります。

ただし、佐々木先生は、欲求を追い求める人生と、追い求めない人生には優劣も善悪もないのだと説かれました。それぞれの生き方があるということです。そして、欲求を追い求める人生をやめると、心の平安が得られると説かれていました。ではそのように欲求を追い求める人生をやめるにはどうしたらよいのかというと、この世の仕組みを正しく知ることなのです。

仏教で説くには、この世には、絶対者も創造主もいないのであって、すべては原因と結果の関係性によって動いているという縁起の法則を知ることなのです。夢を追い求める生き方の基盤となるものは「私」と「私のもの」が変わらず存在しているという思いなのであります。そしてとりもなおさず、それを捨てることこそが安楽をもたらすというのが仏教の肝心なところであります。

そこで佐々木先生は四法印をわかりやすく説いてくださいました。諸行無常、すべては常ではない、移り変わるのだということです。諸法無我、世の中に私という絶対存在はないということです。涅槃寂静、究極の安楽は欲望の充足ではなく、欲望の消滅であるということです。そして一切皆苦、生きることは苦しみであるということです。

砂の城の例えが印象に残りました。子供が海辺で砂の城を作っているのです。子供は海辺で作った砂の城が波で流されても悲しんだりはしません。なぜならそれは遊びであり、砂の城なんてすぐに壊れるものであり、永遠ではないと知っているからです。知ったうえで遊んでいるだけなのです。砂の城が自分のものだ、などとは思っていないのです。

ところが大人は自分の家が流されると嘆き悲しみ苦しむのです。それは、その家が自分のものであり、ずっと自分のものであり続けると思っているからなのです。そうしてみると、苦しみを生み出すのは自我であり、自我をなくすことが苦しみの消滅に他ならないということになるのであります。そのように自分中心の営みがなくなると、静けさという安楽が手に入るのであります。こういうことを単に頭で理解するだけではなく、日常の一挙手一投足の動きが、その自我をなくす方向へ向かっていくように努力することが修行なのだと佐々木先生は説いてくだいさいました。

最後に無我ということは、今日の脳科学でも証明されていると教えてくださいました。下條信輔先生の説を紹介して、「私」という固まった確固としたものはないというのであります。例えば、記憶というものを積み重ねることによって、私たちは自分というものを形成していますが、記憶というのはほとんど後付けでできているというのです。自分の都合のよいように作り変えているのだそうです。

これという固まった自我がないことは脳科学でも実証されているということでありました。実に仏教の究極の真理を佐々木先生の熟練した説き方で、あっという間に終わった一時間でした。お昼ご飯を一緒にいただいたあと、佐々木先生ご夫妻を国宝舎利殿にご案内しました。佐々木先生の奥様は建築の学者でいらっしゃるので、初めて見る舎利殿にとても感激されていました。楽しみながら、深い仏教の真理に触れることができた半日でありました。人は自己を変えることができるのであります。それでは今日も姿勢と呼吸を整えましょう。以下諸略。

2022/06/11

臨済義玄(りんざい ぎげん)

臨済録

お前達、真の仏には形が無く、真の法には相(すがた)は無い。
それにもかかわらず、お前達はひたすら幻のようなものを、あれこれ思い描いている。

たとえ真の仏のようなものを求めることができたにしても、そんなものは皆な野狐が化けたようなもので、決して真の仏ではない。そんなものは外道の見方だ。

真の修行者は、決して仏を認めない。菩薩や阿羅漢も認めず、この世で有り難そうなものを問題としない。そんなものから独りはるかに超えて外物に依存することはない。

たとい天地が引っくり返ってもこの信念に変わりはないのだ。たとえ彼の目の前に十方の諸仏が現われても、少しも喜ばないし、

三途地獄(さんずじごく)がパッと現われも、少しも恐れない。どうしてこのようになるのだろうか。

わしが見ると、全ての存在は空相であって条件次第で有に変ったり、無のままである。この迷いの世界は唯だ心意識によって造られるのである。

夢や幻、空中の華のような実体のないものに心を煩わすことはないのだ。修行者達よ、今目の前で聴法している人だけが有って、

火に入っても焼けず、水に入っても溺れない。三途地獄(さんずじごく)に入っても、花園に遊ぶようだし、

餓鬼畜生道に落ちても苦しみを受けることはない。どうしてこのようになるのだろうか。それは何一つ嫌うものが無いからだ。

宝誌和尚も『汝がもし聖を愛し凡を憎めば、迷いの海に浮沈するだけだ。煩悩は心が作るものであるから、無心であるならば煩悩に縛られることはない。

姿形(すがたかたち)を分別することもなく、自然に道を体得できる』と言っているじゃないか。

お前達、脇道へそれてあたふたと学ぶならば、永遠に迷いの世界から抜け出ることはできないぞ。それよりは無事で何の造作もせず、僧堂の禅牀(ぜんじょう)の上に坐っていた方がましだ。(以上、禅と悟りより)

*****

臨済録の話

このYouTubeの中で、南嶺老師は映画のスクリーンの例えや、火でも焼けず、水に入ってもおぼれず、地獄にあっても花園で遊ぶような人という話をしてみえます。とても興味深いです。

参考サイト

2022/06/10

私は体でも心でもない

阿含経では、「私は体でも心でもない」と説いています。

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その20」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ)

2022/06/09

自由意思はあるのか?

この話はおもしろいです。途中で、人間は意思によって行動しているのではなく、意思よりも先に行動をやっているという話が出てきます。

たとえば、指を動かそうと思って動かす時、私たちは、「指を動かそうと思う→指を動かす指令を出す→指を動かす」という順で行動していると考えていますが、実験して調べてみると、「指を動かす指令を出す→指を動かそうと思う→指を動かす」という順にやっているのだそうです。それを脳が、あたかも最初に指を動かそうと思ったように錯覚させているのだそうです。

後半では、受動意識仮説は釈迦の無我と同じだという話や、老子・荘子の「すべては一つ」と同じではないかとう話がでてきます。つまり、釈迦や老子が何千年も前に発見したことを、前野さんは自分で再発見したと言うのです。

意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説

参考 前野隆司Wikipedia

   前野隆司著作

2022/06/08

般若心経に学ぶ 花園大学総長 横田南嶺

世界は実在か

このシリーズは6回続く予定だそうです。3回目以降はまたこのブログでお知らせします。

【第1回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年4月12日(火)

【第2回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年5月17日(火)

2022/06/04

馬祖道一(ばそどういつ)

中国の禅の系統では、六祖慧能から臨済義玄までの系統が、臨済宗をもたらした系統です。

六祖慧能→南嶽懐譲(なんがくえじょう:677~744)→馬祖道一(ばそどういつ:709~788)→百丈懐海(ひゃくじょうえかい・720?〜814)→黄檗希運(おうばくきうん:?~850))→臨済義玄(りんざいきげん:?~867)と法灯は継承されました。今回は馬祖道一について。

馬祖道一(ばそ どういつ:709年~788年)は、中国の唐代の禅僧。

馬祖禅とも呼ばれるその禅思想では、禅宗で初めて経典や観心によらずに日常生活の中に悟りがある大機大用の禅を説き、「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)、「即心即仏」など一言で悟りを表す数多くの名言を残している。また、相手に合わせて教え方を変える対機説法(たいきせっぽう)を始め、これによって多彩な弟子を育てると共に、士大夫階級に数多くの信者を獲得し、遂には禅の正系の座を荷沢宗より奪ってしまった。(以上Wikipediaより)

***

南岳磨甎(なんがくません:南岳が瓦を磨くという意味)

馬祖道一は僧として寺に住み、座禅に打ち込む生活をしていた。客人が来てもかえりみることがないほど必死に毎日座禅をしていた。それを聞きつけた南岳懐譲(なんがく・えじょう)が感心して馬祖を見にやってきたが、馬祖は南岳を見ることもしなかった

「お前はずっと熱心に坐禅を続けているが、何のために坐禅をしているのだ?」と南岳が尋ねた。

「仏になるためにやっております」と、ぶっきらぼうに馬祖は答えた。

すると南岳は外に行って一枚の瓦を持ってくると、馬祖の横に座って、石でゴシゴシと瓦を磨きはじめた。不快な音にたまりかねて馬祖が尋ねた。

「禅師、何をしておられのですか」

「きれいに磨いて鏡にしようとしておる」

「お言葉ですが、いくら磨いても瓦は鏡にはなりません」

「そうか。でも、それがわかっているなら、お前はどうして座禅をして仏になろうとしておるのだ? 人間はしょせん人間だ。いくら座禅で磨いたとしても、仏になれるわけはなかろう」

馬祖は驚いて尋ねた。

「座禅をして仏になれないのなら、一体どうしたらよいのですか?」

南岳は答えた。

「お前が牛車に乗っていたとする。そこでもし牛車が動かなくなったら、車を叩くか、牛を叩くか、どちらだ?」

南岳の問いかけに、馬祖は何も返すことができなかった。

「座禅をするということは、座っていることとも、横になっていることとも関係ない。一定の型にはまったものではないということを心に銘記すべきだ。また、座っているのが仏だと思っているのなら、仏は座ることとは何の関係もない。空である諸法を観ずるに、形でとらわれてはならない」

このこと以来、馬祖は南岳のもとで修業に励んだ。

***

即心是仏(そくしんぜぶつ:心がすなわち仏であるという意味)

ある日、馬祖は人々にこう説法をした。

「仏の道を志す皆さんは、皆さんの心がとりもなおさず仏そのものであるということ、その心がすなわち仏の心であることを信じなさい。達磨大師は、インドの南天竺国から、この中国へ渡来され、もっとも尊い大乗そのものである心の本性を伝え、人々に説かれた。また、楞伽経(りょうがきょう)の文句を引き合いに出して、皆さんの心が仏心にほかならないことを明らかにされた。皆さんが誤解して、仏心は各自が皆もともと持っているということを信じないことを恐れられたのである。楞伽経にはこうある。「仏の教えは心を第一としている。心こそ教えである」。

***

大珠が初めて馬祖のところへやってきた時のはなし。

「どこから来られた?」馬祖が尋ねた。

「越州大雲寺から参りました」

「何を求めてここへ来たのか?」

「仏法です」

「自らの宝の蔵を見ることもなく、自分の家を捨ててやってくるとは、どういうつもりだ? ここには何一つない。どんな仏法を求めようというのか?」

大珠は礼拝して尋ねた。
「それでは、私の宝の蔵とは何のことでしょうか?」

「今こうして私に問うているのがお前の宝の蔵である。すべてが備わっていて、何も欠けてはおらず、自由自在に使うことができる。どうしてあえて外側を探そうとしているのか。」

それを聞いて大珠は喜び、馬祖の弟子となった。

***

あなたは、自身の心が仏陀であるということを理解しなくてはいけない。私が言おうとしているのは、あなたが何をしていようと、この心がそのままで仏陀なのだということである。

著衣喫飯(じゃくえきっぱん:日常のあらゆる営みが仏の心の現れであるという意味)

法を求める者は、求めるという気持ちを捨てなくてはいけない。心の他には仏はなく、仏の他に心はない。心が仏そのものである。善も思わず、悪も意識せず、清浄にも穢(けが)れにもとらわれない。罪の本性は空であるということを理解すれば、そんなものは存在しないとわかる。

三界は唯心である。森羅万象は心の現れであり、心を見ていることに他ならない。時と場所に応じて、淡々と行動すればよい。そうすれば、真理にも具体的なことにも沿うことになり、何の問題もない。悟りによって得られる仏の境地とはこのことである。

心によって生じるものを色(しき)と名付けているが、色は空である。色は空なりと知れば、生はすなわち不生である。もしこのことを理解できたなら、必要に応じて服を着たり、ご飯を食べたりして、淡々と悠々自適に暮らして、仏を宿している体を大切にしなさい。他にやるべきことはない。

平常心是道(びょうじょうしんこれどう:平生の心が仏の道であるという意味)

意図的な修行行為は仏の道とは何の関係もない。唯一為されなければならないことは、混乱から自由になることでけである。心が二元的な思考でいっぱいとなり、あれこれと固執することが混乱である。普通の心が仏の道である。普通の心は邪魔されず、意図的な行動から自由である。

もしあなたが何かを探しているなら、手に入るものは何もないということを理解しなさい。心の他に仏なし。仏以外に心なし。良い悪いという観念を作らず、段階やレベルを達成するという愚かな考えを捨てなさい。そうすればあなたは、束縛されないことの意味を理解するだろう。

形として見えるものは心の投影である。心それ自体では存在しえない。心は形を通して現れる。心について話す時は常に、見せかけと実在は完全に深く染み込みあっているということを理解しなくてはいけない。あなたが私の言っていることを理解すれば、あなたは自然に行動するようになり、状況に即応するようになる。仏の道と自然に調和するために、あなたが意図的に介入する必要はない。

もしあなたが、仏の道に入りたいと言うのなら、あなたの普通の心が仏の道であるということをよく理解しなくてはいけない。普通の心とは、作為的ではない心のことである。それは、ものごとを分割せず、良い悪い、高い低いと分割しない心のことである。それは、あなたの日常生活すべてにおいてそうである。朝から晩まで、すべてが仏の道である。

参考文献


参考サイト

2022/06/03

世界には実体があるのか?

この回の佐々木先生の話は、まったく非二元の世界です。
縁起とは、実体なきことの連鎖。この世は実体なき世界。
まったくすばらしい。

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その16」

2022/06/02

架空の自我意識

架空の自我意識を間違って自分だと思い込むこと。それが無明であり、すべての苦しみはそこから起きる。

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その15」

2022/06/01

五十歳からの生き方・ソクラテスの弁明・マルクス・アウレリウス「 自省録」

 五十歳からの生き方 中野孝次
エッセイ集。中野孝次のエッセイは、基本となる内容はほとんど同じで、充実した一生を送るためには、欲望を追わず、静かな時間を過ごし、自足した生活をおくるということ。

具体例をあげると、たいてい良寛、セネカ、エピクロス、方丈記、徒然草が出てくる。金、地位、名声、欲望の充足に幸せはないと説く。もう何冊も読んで、内容はわかっている。ところが、何度読んでも飽きない。もっともっと読みたくなる。

何か所か印象に残ったところを引用しておきます。

p83 良寛の言葉の現代語訳

自分は生涯ずっと、人を争って立身出世しょうなどということが面倒で、何かになろうとしたことは一度もなく、すべて運命がみちびくままに任せてきた。だから生涯貧しく、今ここにあるものといったら、嚢の中に托鉢でいただいた三升の米、炉端に一束の薪だけだが、しかしわたしにはこれで十分だ。もう悟ったの迷ったのということも気になるぬ、まして名利のことなど。いまわたしは、夜の雨がしとしと降る草庵の中にいて、二本の脚をながながと伸ばしている。ころがわたしにとって至上境だよ。

p144 

「今ココニ」以外に生きるところはない
 人間一人ひとりの身に即して見れば、わたしにとって生きるのは「今ココニ」という時空があるだけである。きのうは去ってすでになく、明日は未だ来ないので存在せず、わたしは今日という一日の、それも「今ココニ」のみ生きている。棒のようにつらなった時間のどこかに位置しているわけではない。
 しかもその「今ココニ」は、一瞬時だがたたちに永遠に直結している。永遠が今であり、今が永遠である。そしてその「今ココニ」がごろごろころがっていくところにわたしの人生がある。
 そのように考えるようになったとき、わたしは何ものかの呪縛から解放されたような気がした。自分があらゆるものから完全に自由で、宇宙の中の「今ココニ」自分の全一個として生き、永遠と直結しているのだと感じた。死さえももう恐ろしくなく、生きている「今ココニ」が生の全体で、それの途切れたときが死だと考えると、人間にとってなすべきは「今ココニ」を全力で生きることしかない。死がきたら安んじて受け入れればいい、と思うようになった。

p193 加島祥造との対談の中で

中野 鈴木大拙の禅の著作にしろヨーロッパ人のほうがよく読んでいるからね。
 結局『老子』のタオにしても禅にしても、最後に行き着くところは「一(いつ)」ですよ。すべてを主客に分別する西洋思想と異なって、主客に二分される前の「一」という世界だ。最も大本の所から自分たちの生命をつかまなくてはいけない。そういうことが欧米の人たちにわかってきたんだと思うよ。

p195

中野 結局はそこなんだよ。つまり自分を受け入れ、自分を肯定し、自分と仲良くして自分に安んずる。ここに行き着くんだ。僕は悟りや安心の境地というのはそれだと思うね。自分に徹底して安んずることができたら、もうどこにも行く必要がない。自分の中に全部そなわっていて、欠けたものがない。それ自身で充足している。いつでも死ねるということだから。
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中野孝次は非二元を理解しているかもしれない。


ソクラテスの弁明
 プラトン/納富信留 訳

ソクラテスは、ソクラテスープラトンーアリストテレスと続くギリシアの哲学の元となった人。ソクラテスは石工を職業として、妻子と家庭を営む傍ら、街角で人々と対話する生活を送っていたが、70歳の時に突然、「不敬神」の罪で訴えられる。

当時のアテナイ(都市国家)の法律では、500人の裁判員の面前で公開討論を行い、500人の評決によって刑罰が決まった。ソクラテスは聴衆の面前で討論を行い、評決の結果、僅差で負けて死刑の判決を受ける。この本はそのソクラテスの弁明の様子と、それに対する翻訳者の解説からなる。

なぜ、ソクラテスが訴えられたかというと、常日頃ソクラテスは、当時信じられていた一般常識を振りかざす支配者層の人びとに対して、それが正しいことなのかと対話をもちかけ、ことごとく論破し、多くの若者を惹きつけていたため反感をかい、ソクラテスが若者をそそのかして社会秩序を乱しているという理由から。

ソクラテスの論法は一貫していて、「自分が知らないことは正直に知らないと言う」というもの。論戦を持ちかけられた者は、森羅万象の現象に対して、たいてい知ったかぶりをしているだけであっため、何も証明できない場合が多かった。

これを読んでいろいろ考えさせられました。私たちはいろんなことを知っているつもりになっていますが、実際には何も知らない。非二元の教えにしても、知らないことは知らないでいいし、わからないことはわからないでいい。知っているつもりはいけない。

ソクラテスの死刑を悲しんだ弟子や友に対してソクラテスは、悲しむことなど何もない。なぜなら、死が何なのかを知らないから。死のあとに魂が残るなら、また故人に逢えるのだからそれは良いことであり、死によって魂など無く、すべてが無となるなら、それは深い眠りにようなもので、それ以上の安楽はないのだからそれもいいと言う。

知らないことを知らないと知ることが考えることの大前提なのだという。

もっと詳しく知りたい方はアバタローを参考にしてください。よくまとまっています。


マルクス・アウレリウス「 自省録」 鈴木照雄 訳
この本はお手上げで、十分の一ほど読んだところで挫折。日本語が理解できないというか、頭に入ってこない。しょうがないのでアバタローを見た。よくわかる。でも、本は読めない。岩波版を読まないといけないのか、私の理解力が足りないのか。性に合わないものを無理に読んでもしょうがないのであきらめる。アバタローで参考になった部分は、人の非難や中傷は、たいていの場合、自身がマインドの中で作り出した想像の産物であるということ。