2019/01/30

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑫

Living Reality 抜粋 パート3

第二章からの抜粋

セイラーボブとバーブ到着

2004年7月14日

ボブとバーバラが、暖かいフロリダの夏の夜に到着する頃には、私と妻のヴァシティはとても興奮していました。およそ30数年前に探求を終えて、非二元の理解を持ち続ける師を我が家に迎えるという考えは、夢でも見ているに違いないという思いでした。

私は30年にわたってスピリチュアルの道を歩み、様々な活動に参加してきましたが、実際にグルと近くで接したことはありませんでした。またスピリチュアルの師の教えに対して、私がボブに感じたような心地良さを感じるのは久しぶりのことでした。現代における、あまりにも多くのいわゆる覚醒したマスターたちは、私の考えでは偽物でした。教師たちは活動を目立った愛と慈愛で始め、様々なスキャンダル、強欲、性的いたずら、権力の乱用で終えます。とりわけ、私が30代から40代の間の15年近くの間、エンライトメントは本当にあるのか、もしそうなら、あれほど多くのいわゆるグルたちが、ほとんど、もしくは全く不誠実で、時折とても悪い行いをするのはどうしてなのかと思っていました。

ボブに会った頃、行儀の悪いグルの問題は私にとって全く不満の種でした。21歳から27歳までの間、私は瞑想を教え、スピリチュアルのムーブメントに参加していました。やがて腹立たしい行いに幻滅するようになり、私は師のもとを去りました。それは悲しいできごとでしたが、その後数年間の悲しみを癒してくれるものはありませんでした。世界的に有名なグルたちがますます注目されるようになると、その出来事を何度も思い出しました。さまざまな悪行の間、その弟子たちの口づて、本、雑誌記事などによって、多くのグルたちが「排斥」されました。1980年代中頃までに私は、初めてヒンズーベーダ占星術の明確な本を書いたことで、形而学上のグループの間で有名になり、世界中の精神世界の探求者に対して占星術を始めました。そういうわけで私は、何らかの形でグルに幻滅を感じたり虐待を受けたりした人々から直接話を聞くようになりました。もちろん、どんな話にも二面性があり、誰もが長い間広まっている有名なグルの当惑させられる噂を信じているわけではないのですが、私は信じていましたし、今でも信じています。

私が信じるようになった大きな理由は別々の顧客から同じ教師の極めて似た話を繰り返し聞かされたからです。グルAに関して聞く話はいつも、性的な悪行でした。グルBに関する話ではたいてい嘘か金にまつわるごまかしでした。グルCに関しての話は、「エゴ退治」の名のもとにトラウマを負った弟子の間で飛び交っていましたが、その一方でその教師は弟子たちに彼を尊敬させ、神のごとくに崇拝させていました。

そんなふうに時間はすぎていきました。私が聞いた中で特筆すべきは、おそらく、私が聞いた、あまりに多くの出来事が、グルがかかわる中枢機関に長くかかわった側近の人からのものだったことです。私は、秘書、運転手、愛人、指導者たちの親しい友人たちなどから話を聞きました。私の知る限りにおいて、それほど多くの互いに無関係の人々が嘘をつくはずはないのです。
私はもはやいかなる教師も信奉していなかったので、私の主な関心は特定のグルにはありませんでした。私の関心は、本質と真の解放にありました。言っておきますが私は、非常に感動的な本物のテキストを書くために時折無作法な行いをしてしまう多くの教師たちを尊敬しています。言うまでもなく彼らは多くの探求者を助けるあらゆる種類の霊的テクニックや方法を提供しています。これらたいていのグルたちは、私の考えでは明らかに正しい知識を持っていました。同時に、誠実さや道徳においてはひどい話を聞いています。そういうわけで私は難問に直面していました。

自身の探求を通して、私は何度も人の意識の水準は彼らの振舞いでは判断できないということを繰り返し読み聞きしていました。しかし私は今まで、その事実を完全に理解したり、信じたりすることはありませんでした。私は解放された人は多かれ少なかれ完璧に振舞い、間違いなく利己的ではないと信じていました。また、解放された人は欲望や個人的な好みもないと信じていました。今はそれが大変な誤解だったとわかりました。顕現した人として存在する限り、肉体とマインドを持つ限り、そこに好みはあるでしょう。これは欲望や好みに執着があるだろうという意味ではありません。しかし、好みは必ず生じてくるでしょう。ある時は行動に移され、ある時はそうではなく。明らかに個人の選択と決定で。ところが実際には私たちは幻影の世界に住んでいるのですが。しかし、ボブが到着した時、このことを全く知りませんでした。当時私は、解放された人は正直さと誠実さをもって、最小限に振舞うのだと思っていました。そういうわけで、ボブに会った瞬間、彼が私の期待通りだとわかり、満足しました。何冊かの非二元の本で読んだように、ボブは「誰でもない人」を楽しんでいるようで、私は喜びました。彼は、表面上は人間の執着の普遍的な意味や、重要で個人的な進歩を探すことを手放し、非常に満足していましたが、それはもともと幻影であると理解されている世界でのことでした。セイラーボブが私にしてくれたもっとも楽しかった話は、彼の師であるニサルガダッタ・マハラジは、もし人々が彼のことを信仰や畏怖をもって扱おうとした場合は、その人々を部屋からたたき出したという話です。ニサルガダッタは、非二元は一つであることであり、「私は悟った。あなたは悟っていない」ということではないと理解していたからです。

セイラーボブは彼が30年前にニサルガダッタから学んだ知恵を人が理解するのを助ける以外の野心を持たない気さくな人だと私は感じました。彼はスキャンダルを起こしたこともなく、金持ちでもなく、権力欲もなく、75歳にもかかわらずこれから教え始めようとしていることを私は疑問に思いました。彼の誠実さと慈愛は、彼の手紙と電話の最後をしばしば「ラブ・ユー」で終わらせることからも明らかでした。さらに、もうすでに書いたように、私は彼の本を読み始めたとたんに強い共鳴する感覚を覚えたのです。そしてボブがとうとうやって来たとき、私は30年間の祈りが実ったのだと感じました。私は自分の幸運が信じられませんでした。

もちろん、ボブのアドヴァイタを無制限に利用できるのは幸せでしたが、それ以上に非二元をそれほど長く生きた誰かに会えることに興奮しました。私はCDなどで容易にボブの教えを手に入れる事は可能でした。でも、私が求めていたのは親密な交流でした。それに、ボブが本物かどうかを自分で確かめたかったのです。彼の本や講義の中の素晴らしい教えが、その男と一致するのかを知る必要がありました。実をいうと、彼が自己実現としばしば結びつけられる特別な「パワー」を何か見せるのか興味がありました。しかし今、水曜日の夜9:30、タンパ空港に座りながら、私はこの特別なカップルに会ったら、できるだけ早くベッドへ案内したいと思いました。メルボルンから、カリホルニア、シカゴ経由でフロリダまで、飛行場での待ち時間も含めると、合計37時間かかりました。どんなに大変だったことでしょう。

ついに、ボブとバーブが歩いて来るのが見えた時、彼らは笑顔でした。四人は互いにハグを交わし、私の目がついに、しばらくの間ボブを見つめると、私は平和な感じの広大な空間を感じました。彼の顔はまぎれもなくそこにあり、今ここにいました。それはたいていの人の雰囲気を醸し出す過去の痛みやコンプレックス、意見、地位、立場などに影響されることがないかのようでした。もちろんそれは私が予期したことでした。しかしそう反応したのは私だけではありませんでした。次の五週間の間、多くの人がボブの平和でとらわれのない外見についてコメントしました。私はすぐに、ボブが本や講義で話したとおりに生きているようだと感じました。
 次の日の早朝、私たちのプライベートトークが始まりました。ボブは、6:30から7:00ごろコテージを出て裏庭の果実の木の下の木製テラスに腰掛けるのが習慣になりました。最初の数日間の朝、私も彼に加わりました。真っ先に私のマインドに浮かんだのは、思い出せる限り昔からある一つの問題でした。なぜ世界はこんなにもひどくデザインされているのか? 拷問が行われる世界を誰が作ったのか? 死がすぐそこに迫っていることを知りながら、どうやって私たちは人生を謳歌したらいいのか? 毎日数千人のアフリカの人々が、殺され、手足を切り落とされ、または餓死していることを知りながら、どうして私たちは安眠できるだろうか? どうしてサダム・フセインは人々を煮えたぎる油に落としたり、大きな材木切断機に頭から放り込んだりするなんてことができるのか? どんな創造者がこんな世界を作ったのか、なぜそんな卑劣なことをしたのか?
   
こういう疑問が長く私につきまとい、今までどれほど私の精神やエネルギーレベルでダメージを与えたかわかりません。何年もの間、こうした疑問は眠りつくまでの間、ほとんど毎日やってきました。そしてそれは第三次世界大戦とも思えるイラク戦争以降ますますひどくなっていました。

もちろん多くの人は、自身が殺されたり、拷問などされたりしなければ、利己的な態度をただ受け入れてやりすごしています。でも私はそんなふうにはできませんでした。誰かが苦しんでいる以上、今後どうやって幸せに生きていったらいいのかわかりませんでした。同情は別として、他の人に起こっていることが、簡単に私にも起こると知っていました。そうして、2004年には世界の情勢は猛スピードで悪化していき、私のジレンマは悪化する一方でした。私はセイラーボブが何らかの答えをくれることを期待していました。

7月15日。一日目。

ジェームズ:あなたは、基準点は偽りであると言いました。マインド、つまり思考は基準点だといえますか?

ボブ:そうです。でも、思考には実体がありません。あなたは思考を捕まえることはできません。それには独立した実体はありません。あなたは意識(awareness) 無しで思考することができますか? 思考は独立したものですか?

ジェームズ:いいえ。

ボブ:思考は基準点であると信じられています。なぜなら、私たちはそれを調べたことがないからです。幼い子供に思考がやってくるやいなや、「これが私だ」と信じ始めます。彼は考えるようになり、もし学校でうまくいかないと、「私は良くない」「私は賢くない」と考えます。こうした思考をため込むことによって、観念的な像を作り上げていきます。しかし、その「私」という思考は自分自身を理解できません。それは存在しません。基準点、すなわち自己の中心は思考の集まりにすぎません。それは独立したものではありません。私たちは幻影に追い立てられているのです。

 ジェームズ:アドヴァイタを学んで以来、こんなふうに思っています。もし私たちが物事をやってないなら、誰がやっているのか? 私たちは生かされているのなら、誰がそれをやっているのか?

ボブ:(笑いながら)ジェームズ、誰が知りたがっているのですか? それはまた偽の自己の中心です。あなたも私もとても優秀なので考える、すなわち、何か「そこにいるもの」が考えていると考えているのはまたエゴです。自然の中には一つのエナジーの動きがあるだけです。

ジェームズ:何がこの世界を作ったのですか?

 ボブ:作られたのではありません。それは束の間のものです。私たちの基準点から、何十億年先の生命について考えて、それを概念化することはできます。でも、何も作られたわけではないのです。

ジェームズ:ということは、この会話は起こってないのですか?

ボブ:見せかけの上では起こっています。雲がやって来た時、それは空に張り付いていますか?

ジェームズ:いいえ。

ボブ:ええ、それは概念があなたのマインドに入ってくるようなものです。空の雲には何が起きますか? それはやって来て去っていきます。「空間のような意識」という例えを使ってください。それは空間のようなもの。空(くう)です。でもそれは、空間のように何もない空ということではなく、「認識する空です」。それは認識する能力を持っています。それは自然の知性に満ちています。それは、あれこれを知っているという知性ではありません。純粋な知性。その同じ知性が宇宙を動かし、星を軌道に乗せ、風を起こすなどしています。その純粋な知性が木を成長させ、あなたの心臓を鼓動させ、あなたの爪を伸ばします。それが、それらのことをこの瞬間に同時にやっています。それがあなたの思考を起こしています。でもそれは空の雲のようなもので、どこにも張り付いていません。それはやってきては去っていきます。そのエネルギーは絶えず振動しています。

ジェームズ:私はそこに意識、一つのもの(oneness)があるという概念を持っています。

ボブ:そうです。あなたは概念を持っています。

ジェームズ:この、一つのものから、見せかけが起こってくる、そうでしょ? それが創造者である意識を作る、違いますか?

ボブ:海と波を例にとりましょう。海では、さざ波、つまり波が起きます。その波は高まり、飛び散ったり、しぶきとなったりしますが、一体それは何ですか? それは水にすぎません。それは水以外のものではありません。見かけ上は違っていても。

ジェームズ:オーケー、ということは、今あなたと私の間で起こっているのは、意識が会話となって現れているということ。

ボブ:意識を概念化しないでください。それは貼り付けられたラベルにすぎません。空(くう)が認識する能力を持っているのです。あれやこれを知っているとか、知識のことを言っているのではありません。そうではなくて、あなたが今ここにいるという認識のことです。それは思考よりも前にあります。純粋な認識。あなたはそれを否定することはできません。

ジェームズ:ということは、空は認識できるということですか?

ボブ:何かができる何かということではありません。その二つは実は一つの同じものです。「認識する空」もしくは「空なる認識」それがすべてです。

ジェームズ:認識するとは何ですか?

ボブ:単に見ることです。

ジェームズ:そう、単に見ること。背後に知性はないのですか?

ボブ:認識することは知性だということもできます。認識することは知性です。認識する人でも、認識される対象でもなく、純粋な認識。ですからそれは、認識の活動です。今、その認識はあなたとともにありますね?

ジェームズ:はい。

ボブ:認識することは、認識する人でも、認識される対象でもありません。それは実際のところ、今起こっている認識です。つまり、今も進行中です。その認識は活動でありエネルギーです。ええ、純粋な知性エネルギーは認識の活動です。それがすべてです。世界は認識の中に現われ、認識の中で消えていきます。認識とは純粋に知ることです。現われ、消えることは基準点、つまりは偽の信念によって概念となります。例えば、見ることを例にとりましょう。あなたは今見ていますね。そして「私は見る」という思考が起きています。でも実際の見る行為は思考の前に起こっています。思考によって、あなたは偽の見る人を作ったのです。あなたが、「私は木を見る」と言う時、あなたは偽の対象物を作ったのです。それは主体と客体という形でです。でも、見る人と見られる物は、見るという行為なしで存在できますか?

ジェームズ:いいえ。

ボブ:それは単に私たちが貼り付けたラベルにすぎません。考える人と思考のように。ニサルガダッタが言ったことをいつも思い出してください。「あなたはそれを概念で理解しようとして失敗する。そうやって、あなたは必ず失敗する。なぜなら、あなたはそれを概念では理解できないからだ」。あなたは概念化することをやめなければいけません。

ジェームズ:ということは、すべてのことはただ起こっているだけですか?

ボブ:まさしく。すべてはひとりでに、あるように起こっているだけです。そして何も起こってはいません。

ジェームズ:何も起こっていないことはどう説明されるのですか?

ボブ:空間のような意識を使います。すべての顕現は空間の内容物です。あなたは、その空間の外には何も想像することはできません。ですから、顕現は空間の内容物なのです。もし空間が無なら、無から何かがやって来ますか?

ジェームズ:なぜそれはそんなにリアルなのですか?

ボブ:誰にとってですか?

ジェームズ:私の思考にとってです。

ボブ:ええ、そしてその思考もまた顕現の一部です。本質としては、顕現も実在です。なぜならそれは、いまここにある意識でできていて、それは実在です。蜃気楼がどんなにリアルに見えるか考えてください。もしくは海の青い色。知性エネルギーの中で、パターンは形作られ、顕現となって現われます。

 ジェームズ:何年もの間私は、すべての恐ろしい戦争や拷問などを許すことができる神がどうして存在することができるかと考えていました。でももし顕現が見せかけなら、本当には何も起こってない、そうでしょ? 何も悲劇ではない、正しいですか?

ボブ:そのとおりです。人々は生まれたこともなければ、死ぬこともありません。彼らは単にエネルギーのパターンにすぎません。彼らは現われ、しばらくの間飛び回り、そして消えるのです。実は彼らもまた、一つの知性エネルギーにすぎません。それは決して変化しないのです。

ジェームズ:スポリチュアルな経験についての質問があります。時折、たいていは夜遅くベッドなかで、突然無限というか広大さを感じます。どんな境界も限界もないような。その翌日、私は妻か友人のケリーに言うのです。「私は経験した」と。でも実際起こったことは、いつも存在する感覚や思考が一旦消えてふたたび現れたものです。私が夜時々経験する無限の感覚は、実際はいつもあるものではないですか?

ボブ:そうです。でもあなたが経験というラベルを貼るやいなや、あなたはそれを基準点から受け取ることになります。

ジェームズ:ええ、それはわかります。

ボブ:起こったのは、ただ経験することです。そこでは経験と経験する人が現れています。もしあなたの感覚が十分に開いていて、すべてにラベルを貼らなければ、あなたはありのままを見るだけです。そうすればあなたは、「私」とは無関係に現われては消えるすべてを、すばらしい魔法の見せ物として見るでしょう。

 ジェームズ:生活はあなたにとって興味あるものとして現れますか?

ボブ:興味があるとかないとか、それも基準点からのものです。時々沈黙の時があり、なお一層長い時があり、他の時にはおしゃべりが続きます。どちらかが好きということはありません。いわゆる、探求者が話している静寂については関心がありません。おしゃべりも同様です。それは両方とも経験です。私とは、その経験が起こってくる空間のことです。そしてそれはいつも必ず不変です。それは物ではありません。それはすべてのものを含んでいます。

ジェームズ:ニサルガダッタがそうだったように、今あなたが話す時、あなたはすべてが起こってくる空間の中にいます。それはわかります。でも、私はそうだとは言えません。私は絶えず、がらくたを受け取ってしまいます。あなたは、たくさんの思考があろうが無かろうがかまわないと言います。でも私はそれができないのです。

ボブ:もし私が基準点を受け取れば、私も同じです。「これをしなければよかった」「あれを言わなければよかった」と考えるでしょう。でも私は基準点を見抜いています。わたしにははっきり見えています。ですから、起こってくるものは起こってくるのです。「何とも思わない」と私が言うのはそういうことです。そこには私はいないからです。そこには、好みも偏愛も比較もありません。それはただあるがままなのです。変えることなく、修正することなく、正すこともありません。ブッダは「あるがまま」と言っています。ただ見ること、それが機能しています。あなたが変えたり修正したり正したりできるのは思考だけです。

 ジェームズ:ええ、私たちには思考がやってきます。重要なのは受け取らないことですね。

ボブ:そうです。そしてそこには、それを受け取る人はいません。ただ、見ること、認識することがあるだけです。

ジェームズ:ええ。それであなたはこういう話をして本を書いて、人々はこれを聞いてこう言うでしょう。「ええ、セイラーボブはそれができる。それはすごいことだ。でも私はできない」と。私が思うのは、重要なのは確信だと思います。あなたの言うことは理解できるのですが、私にはまだ完全な確信がありません・・・。

ボブ:誰が確信を持てないのですか? あなたは自分という概念を抱いて、それがそうあってはいけないと考えている。あなたは今、見ていますね。あなたは今、聞いていますね。あなたである認識活動は今あなたとともにあります。そうでしょう? それは否定できません。

ジェームズ:そうですね。

ボブ:では、確信がないというそのがらくたは何なのですか?あなたは何か概念化されたものによって、わき道にそれました・・・。

ジェームズ:そうです。でもどうして、あなたはわき道へそれることがないのですか。

ボブ:なぜなら私はその基準点が偽りであると知っているからです。あなたは自分のやっていることがわかりますか? 私があなたに指し示すと、あなたは、「もし」「でも」などと言い出します。あなたはまたしても未来に行ってしまうのです。時間は心理的概念です。あなたは、いわゆる想像上の未来の中に入り込みます。そうでない時は過去へ。でもあなたは、未来も過去も生きることはできません。すべては今起こっているのです。それは太陽を覆う雲に似ています。それは、今ある意識を覆い隠します。「私にはこれがない」や、「私はいつか確信を得るだろう」という考えが、あなたを今から遠ざけてしまいます。

ジェームズ:ということは、今ここですね。

ボブ:そう、それは即時です。どこへも行くところなどありません。

ジェームズ:昨日私はある人にひどく腹が立ちました。ある人がとても困惑する手紙をよこしたのです。

ボブ:それは昨日でしょ。過去のことは気にしないで・・・。

ジェームズ:その時私は考えました。「ちょっと待てよ。ジェームズはいないのだ」と。でも、困惑したままでした。

ボブ:ええ、なぜなら、あなたが「私はいない」と言った時、それが基準点になりました。あなたは、ジェームズはいないと、先週か先月か昨日理解したかもしれません。でもそれは、他の思考同様、もう死んでいます。あなたそれを今理解しなくてはいけません。ただ単に「私はいない」と言うかわりに、調べなくてはいけません。調べてみて、自己の中心となる「私」が見つかるかを理解してください。

ジェームズ:ええ、困惑した時、ちょっと止まって「私は誰か? 私は、今ここにある意識だ」と言いました。でも困惑する思考は止まりませんでした。

ボブ:その時あなたは「私は今ここにある意識だ」という概念を与えたのです。その概念なしで、「私はいる」。ピリオド。

ジェームズ:私は、その瞬間を意識しようと努めました。私は部屋の中をラベル無しで見まわし、ただ意識として・・・。

ボブ:もしラベル貼りをしなければ、あなたは全体を受け入れます。あなたは、見ることが自然に起こっていて、聞くことが自然に起こっていることにすぐに気づくでしょう。

ジェームズ:ええ、いずれにしても、私は彼女に返事をしなくてはいけません。

ボブ:そうですね。すべきことはすればいい。起こるに任せてください。あなたはむかついたまま彼女に手紙を書くかもしれない。それとも、彼女に苦情を言うかもしれない。でもそこには、何かをする「あなた」はいません。何が起ころうとも、それはただ単にそのように起こっているだけです。

ジェームズ:わかりました。この、行為者はいないということについて話していただけますか? それは私にとって概念的です。

ボブ:ええ、説明しましょう。今あなたは見ていますね?

ジェームズ:はい。

ボブ:あなたは今、聞いていますね? あなたの目は「私は見る」と言いますか? あなたの耳は「私は聞く」と言いますか?

ジェームズ:いいえ。

ボブ:ということは、思考がやってきて、「私は見る」や、「私は聞く」と翻訳しているわけですね。でも、その思考の「私は見る」は見ることができますか?「私は聞く」という思考が聞くことはできますか?

ジェームズ:あなたは私があなたの本で読んだり、あなたが言ったりしたのを20回以上聞いたことを言おうとしています・・・。

ボブ:今一度聞いてください。「私は見る」という思考が見ることはできますか?

ジェームズ:いいえ、その思考はがらくた。単なる翻訳にすぎません。

ボブ:ということは、思考にはいかなる力もない。

ジェームズ:もし思考に力がないのなら、いかなる行為者もいないのですね?

ボブ:「私は意識している」という思考は意識(アウエアネス)ですか?

ジェームズ:いいえ、もちろん違います。

ボブ:「私は選ぶ」という思考は選択者ですか?「私は考える」という思考は思考者ですか?

ジェームズ:ということは、もし思考に力がないのなら、単にそこには行為者はいないのですね?

ボ:もちろんそうです。いいですか、思考は知性と密接に結びついてきました。でも実際は翻訳しているにすぎません。それは、私たちが会話で使う言葉やラベルに翻訳しているだけです。思考は純粋な知性エネルギーと密接に結びついているため、それが純粋な知性エネルギーだと信じるようになりました。今、あなたがマインドや思考には力がないと理解した時、あなたはバラバラになりましたか? あなたは消えて無くなりましたか?

ジェームズ:いいえ。

ボブ:あなたは、思考なしで、まったく苦もなく生活は続くと理解しましたか? もしあなたがそのことを考えなかったら、どんな問題がありますか? あなたが考えることをしばらく止めてもバラバラにはなりません。あなたは依然として聞き、見て、味わい、生活は続いていきます。あなたは思考に依存していません。

ジェームズ:ええ。ボブ、あなたのもとへ何年も通っている生徒たちがいます。彼らはどうなっているのですか? どうして彼らは「終止符」とならないのですか?

ボブ:ええ、なりません。今のあなたと同じように。(笑い)でも、やってきてすぐに理解する人たちもいます。

ジェームズ:今のところ私は「終止符」となっていません。私のマインドは続いていて質問しています。マインドは基準点を求めています。

ボブ:あなたはマインドを停止しようとしています。でもいったんあなたがそれは道端の蜃気楼のようにがらくたにすぎないと理解したら、あなたはもうそれにとらわれなくなります。

ジェームズ:ええ、何かが起こっています。昨日、その女性から腹立たしい手紙を受け取り、私の反応は馬鹿げていると思いました。それで、それは一時間かそこらイライラした後で消えたのですが、数年前だったら、丸一日、あるいはもっとかかっていたでしょう。それは良くなりました。

ボブ:ええ、そうなるでしょう。

ジェームズ:でも私は「なるでしょう」という部分が気に入りません。それは未来です。

ボブ:それは真実です。でもあなたはもっと早くそれを捨てるようになるでしょう。すべての物事を基準点から見るという習慣的なパターンを。あなたは一、二度それをやるだけではありません。いつも、来る日も来る日もあなたの全生涯でそれをやります。私たちは自信を催眠にかけています。しかし、あなたが調べて、その偽りを理解する時、もはやあなたはそれを信じられなくなります。それはちょうどあなたが蜃気楼の中に水はないと知っているように。

ジェームズ:以前私はあなたに生活が刺激的なのか退屈なのか聞きました。というのも、時折、私がはっきりと基準点から自由な時、突然すべてが新しく新鮮なものに感じて驚くからです。

ボブ:私は判断しません。でも判断は起こってきます。

ジェームズ:そしたらどうするのですか?

ボブ:それは私のものではありません。誰がそれを受け取るのですか? それは起こり、去っていきます。すべてそのパターンが続きます。

ジェームズ:ということは、思考を受け取っているように見える人たちも、実際には受け取っておらず、受け取っているように見えるだけなのですね。そうでしょう?

ボブ:そうです。

ジェームズ:つまり、非常に苦しんでいる人たちも私と違いはないということですね。目覚めているかどうかは重要ではないということですね。それを理解するのが時々難しくなります。「頭に入らない」と父が言っていた言い回しを思い出します。

ボブ:概念化しようとしないでください。経験することの中に留まるようにしてください。そうすれば楽しめるようになります。

ジェームズ:ボブ、私は考える過程が好きなのです。そのため、すべてを概念化したくなります。創造の偉大さを見てください。数学、科学、芸術、無数の生き物たち、心臓切開手術などなど。誰が世界を創造したのか、いつも知りたくなります。そしてその創造物は実在ではありません。

ボブ:それは鏡の中の像のようなものです。何がその像を作り出しているのでしょうか。なぜ一つの像は他の像よりも良いのでしょうか?(笑い)

ジェームズ:命は奇跡に満ちています。無数の体の細胞が常に生まれ変わっています。あなたはそれが、どうやって、なぜと思ったことはありませんか?

ボブ:どうやって、なぜはもう終わっています。それはそこから離れる動きです。

ジェームズ:なぜならすべてはもう起こっているから?

ボブ:ただ起こる事とともにあってください。そうすれば、わずかな洞察が生まれます。そしてあなたは満足のいく答えを得るはずです。

ジェームズ:あなたがニサルガダッタのところにいた時、あなたはいつ彼が言うことを突然理解したのですか?

ボブ:私は彼の言うことを理解し、「もうマインドにはとらわれないぞ」と思いました。そしてドアから出ると、すぐにまたもとに戻ったのです。(笑い)でも、それは決して以前と同じではありませんでした。もちろん、遅かれ早かれ基準点は再び戻ってきました。でも、「ちょっと待てよ。これは昔と同じたわ言じゃないか」と思って、それを見破ったのです。あなたが言ったように、時々それは少しの時間もしくは少しの日にちの間いて、去っていきました。

ジェームズ:いつニサルガダッタに会ったのですか?

ボブ:1976年です。

ジェームズ:1976年の生活経験と、それから10年後では大きな違いはありましたか? というのも、経験が深まっていったと思うのですが。

ボブ:経験が深まることはありません。しかし、今ここにある意識を覆っていたがらくたは落ちていきました。それが深まることはありません。なぜなら、それは純粋なそれであり、それしかないからです。

ジェームズ:もし例えば、1976年に昨日の私に起こったような腹立たしいことが起こったら、それが1986年に起こるよりも、もっといらいらしますか。

ボブ:もちろんです。でも1976年当時でもすぐに変化が・・・。

2019/01/28

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑪

Living Reality 抜粋 パート2

第一章からの抜粋

自然な状態

一歳か二歳のころ、言語を習得する前、人は単一性の中で生きています。自己の外での経験はまだありません。なぜならまだ自己は概念化されていないからです。そこにあるのは、ただまったくの直接の経験、いにしえの神秘家たちが非二元と形容したもの、他には何もない一つのもの、「自然な状態」と呼ぶものです。

二歳ぐらいになると、ゆっくりと言葉を理解し始め、子供は自分の名前と自分が個人であることを学びます。この時点から、「私」と呼ばれる基準点があなたの一生を生きていくことになり、「私」の外のものはすべて「他のもの」と考えるようになります。私たちが知っている人生が始まり、私たち自身の本質からの分離が生まれます。この分離感が表面的には終わりのない完璧さへの渇望を生みます。それはまた、利己心、欲求、行きわたる不安感、多くの問題を生み出します。この本の教えの大部分はセイラー・ボブ・アダムソンと精神世界の探求者たちの間で交わされた、「私」として知られるマインドの中の自己認識の正統性の欠如についての会話から成ります。いったんそれが架空のものとわかれば、偽の「自己の中心」、人間が作り出した基準点は消え始め、一方で自然な状態、全体性、一体性がそこにあるすべてであり、それは残ります。見かけ上失われた自然な状態を取り戻すことが何千年にもわたって探求者のゴールであり続けました。

今ここにある意識(presence awareness)と呼ばれる自然な状態は不変でいつもあり、魚にとっての水、人にとっての空気のように人々に見落とされています。エンライトメント、すなわち自己実現を達成したと言う人たちのもっとも一般的なコメントは、彼らが目覚めたその瞬間に理解するのは、もともとそうだったということです。なぜなら、自然な状態はいつも私たちとともにあるからです。実際、今ここにある意識が唯一の実在であり、私たちの人生において唯一不変のものです。それが私たちの存在の基盤です。自然な状態は私たちの根底をなす状態、すなわち「存在の基盤」であり、そこですべての経験が生まれます。しかしそれは、ほとんど毎日毎瞬の、まったく自動的に条件付けられた日々の行動によって、ほとんど無視されてきました。それはまったく偽りの基準点、「私」なのです。

あなたがこれから読む話は、調査と吟味、私たちが無意識に生きている「私」をさらけ出すことについてです。熱心な探求者にとって、ここから先の話の中に究極の自由、自然な状態があります。それは、とめどないエクスタシーや水の上を歩く能力のことではありません。それは心理的な苦悩の終わりにすぎないということです。   

例え話
昔あるところに、世界中を旅してエンライトメントを探している探求者がいました。ある時彼は、本物の自己実現を成し遂げた師のことを聞き、会いに行きました。彼はその人助けに熱心な聖人に、自分の望みを伝えました。その聖人は、たった三語。「汝それなり」と言っただけでした。(「それ」とは今ここにある意識、他には何もない一つのもの、神、究極のもの、などと言われるもののことです)その探求者はその言葉に感動することも変わることもなく、完全に失望して、探求を続けました。

彼はそのアシュラム(グルの家)から、さほど遠くない場所に、とても崇拝されている別の師を見つけ、彼に自らを自由にしてくれる真理を知りたいという望みを伝えました。その新しいグルは探求者のそれまでの探求について尋ね、探求者は落胆した話をしました。

今度のグルは最初のグルと懇意のグルで、こう言いました。「私は確かにお前を助けることができる。しかしお前は真理のために準備しなければならない。もしお前が12年間私に仕えるなら、お前を助けてあげよう。アシュラムマネージャーのもとへ行けば、仕事を与えてくれるだろう」

探求者は大喜びしてマネージャーのもとへ行き、トイレ掃除の仕事をもらいました。

12年間のトイレ掃除を終え、探求者は彼の敬愛するグルのもとへ行き、真理、彼を永久に自由にする真理を聞く用意ができたと告げました。

グルは言いました。「汝それなり」

おわり。

私の場合、12年間のトイレ掃除に相当するのは30数年に及ぶ毎日の瞑想、9回もしくは10回の数か月にわたる瞑想コース、ハタヨーガ、クンダリーニ呼吸法、リバーシングセッション、マクロビオティックスとその他の食事浄化法、ロルフ式マッサージ、バイオエナジェティックス分析、ESTセミナー、Actualizations、Lifespring、 Reichian Therapy、ヒンズー・ヴェーダ占星術、精神世界の本などなどです。

物語に出てくる探求者と同様、私も探求の途中で何度も、「あなたはそれである」(完全には「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」)という言葉に出会いました。その探求者同様、私はこれを、私や私の状況とは無関係なものと思っていました。それまでの探求から、エンライトメントは、奇跡的で意識が恍惚感で満たされ、絶え間のない至福を伴い、いったん手に入れれば二度と失わないものと信じていました。悲しみも問題も不快感などもないもの、地球上で幾多の人がいくつもの探求活動をしても、めったに手に入れられない状態、キリスト、ブッダ、老子のような状態であると。

私のトイレ掃除の終わりは、ヒンズーの精神体系の一つであるアドヴァイタから、ニサルガダッタ・マハラジとその教え子であるオーストラリア人、セイラー・ボブ・アダムソンの教えとしてやってきました。それはまた非二元としても知られています。アドヴァイタの文字通りの意味は、「二つではないもの」で、「一つ」よりも好んで使われます。なぜなら、「一つ」は他に何かあるのではないかと連想してしまうからです。アドヴァイタは、目覚めを理解、もしくは認識として提供します。それは聖書にあるように「真実を知ればあなたは解放される」であり、はっきりとした揺るぎない理解、認識です。
五十数年の間に多くの探求者を導き、1981年に亡くなったヒンズーの偉大な聖人、ニサルガダッタ・マハラジはこう言っています。
「解放とは獲得するものではなく、自分が常に自由であったという確信と信念の問題であり、その信念にもとづいて行動するということだ。何も変えるべきことはない。何かを変えようという思考は偽物だと理解すれば、変化しないものが自ずと明らかになる」

探求者たちは、ヨーガによる神経システムの浄化、マントラの詠唱、禁欲の励行、あれこれの霊的テクニックによってのみ目覚めは起きるという極端な話を何度も何度も聞かされてきました。エンライトメントは、ただ在ることではなく、変えること、何かをすることでのみ得られるという極端な話を。

ニサルガダッタは彼自身の目覚めの過程をこう言っています。「師は私に、(私はいる)という感覚を持ち、一瞬たりともそれを離すなと言いました」。彼は「私はいる」という思考のことを言っているのではなく、「私はいる」という感覚のことを言っています。
彼が言っているのは、今ここにある意識のこと。すなわち、自然な状態。私たちの存在の基盤であるラベルの貼られていない静寂のこと。彼はこう続けています。「私は彼の指示に全力で従い、比較的短期間で、彼の教えの真理が私の中にあることを理解しました。私がやった事と言えば、彼の教え、顔、言葉を絶えず思い出すことだけです。それがマインドを終わらせ、マインドが静かになると、私は無限のものであることを理解しました」。

 私はニサルガダッタの本から多くを得ましたが、中でもとりわけ傑作である「I Am That」の中で、彼がセイラー・ボブ・アダムソンに指導したことを覚えていてくれたことを非常に感謝しています。ボブは30年間教え続け、まったく幸運にも、ずっと以前に本物の師を探すことをあきらめてしまった私の前に現れたのです。エゴ、金、権力、セックス、スキャンダルなどに汚されていない師。普通の良識を持ち、それでいて慈愛深く、ユーモアに富み、愛情に満ち、明晰でわかりやすい師が。

2019/01/26

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑩

Living Reality 抜粋 パート1私が今まで読んだセイラーボブ関連の本の中で、セイラーボブの教えを理解するのに一番役立ったと思う本は、ジェームズ・ブラハの Living Reality です。日本語版未出版のボブの講話収録本としては他に、What's Wrong With Right Now?(ギルバート・シュルツ編纂 講話集)と Presence-awareness: Just This And Nothing Else(ジョン・ウイーラー編纂講和集)がありますが、この二冊は二つとも140ページ前後の薄い本で、講話と質疑のみが収録されています。Living Reality は322ページもある厚い本です。ジェームズ・ブラハが2004年にセイラーボブをフロリダに招き、5週間にわたってミーティングを開催し、それをテープに記録し、ブラハが解説したものです。ブラハの質問は、私が聞いて欲しいようなことをもれなく聞いてくれていますし、解説もわかりやすいのでとても助かります。今回、ジェームズ・ブラハさんの許可を得ましたので、彼のホームページにある、Living Reality の抜粋を4回にわたって掲載します。引用元はこちら。

***


はじめに


あなたがこれから読むのは、私の30年間にわたる解放へ向けての探求の成果です。その解放というのは、物心ついて以来ずっとしつこく私につきまとう、源泉すなわち本質からの分離した感覚の終了ことです。そしてまた、「何かになる」という、以前は逃げることができなかった感覚や死の恐怖を伴って私を悩ませた過去や未来に対する絶え間のない懸念の終わりことです。およそ30年の精神的探求でも見つからなかったのですが、その成果はヒンズーの教えアドヴァイタからやってきました。それはまた非二元としても知られています。


アドヴァイタ(アド・ヴァイ・タと発音)の文字通りの定義は「二つではない」であり、oneness(単一性・一つのもの)を厳密に表現する場合に好んで使われます。というのも、oneness という表現は、他に何かがあるかもしれないと暗示してしまいかねないからです。それでも、oneness(単一性・一つのもの)という表現は、アドヴァイタが指し示す、あらゆる顕現に内在する本質的な不可分性、同一性、単一性を指す場合に一般的に使われます。科学の世界では、この単一性は、量子力学的な物理学に見ることができます。それによれば、すべての物質は、小さく小さく分解して亜原子粒子まで分解すると、最終的には光、もしくは何もない状態、すなわち空間に他なりません。実際にところ、顕現となって現れているすべてのものは、一つ、たった一つの要素でできています。 

そのことについては、実際に私たちの生活体験の中にその客観的な証明はあるのですが、それは非常に多岐にわたり、相違に満ちていて、その共通の要素は、ほとんどまったく無視されています。そしてその要素とは、同一性、単一性であり、それは常に存在し、それがすべての経験を可能にしています。それは存在意識(他にもたくさんの呼び名がある)と呼ばれ、それは本質的に今この瞬間、今ここのことです。それは「今ここ」であり、今までも、そしてこれからもそうです。あなたが五歳の時に経験したことも、このページを読んでいるのも「今ここ」です。そしてこの同一性が、六十歳や七十歳の人が、彼らが子供の時にやったことも内側では何の違いもないと感じさせます。存在意識(訳者注:自分が存在するという感覚)。それは生まれた時にもあり、死ぬ時にもある。今ここ。私たちに常にある一つのもの。 

二〇〇四年の初め、幸運にも私は、セイラー・ボブ・アダムソンという名のオーストラリア人指導者が書いた「What’s Wrong With Right Now Unless You Think About It?」(今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?:未邦訳)を手にしました。ボブの探求は、一九七〇年代の中頃、偉大なヒンズーの聖者ニサルガダッタ・マハラジのもとで学んだ時に終わりました。以降彼は非二元を教え続けています。幸運にも、ボブと彼の妻はアメリカを訪れ、私の家に五週間滞在しました。その間、彼はたくさんの素晴らしい話や教えを提供し、そのほとんどはこの本に掲載されました。 

エンライトメントや解放を求めるほとんどの探求者にとって、探求は長く、途中たくさんの紆余曲折を伴います。あまりにもたくさんの観点があるため、真理を見つけることはとても困難なことです。人々は、遺伝的、文化的、感情的に異なっています。献身的なタイプ、知的なタイプ、神秘主義的なタイプなどの道があります。たいていの道や宗教に共通するのは、信奉者たちに実際に真理を見つけさせることなく、探求を続けさせるということです。これは、そうした道が実を結ばないという意味ではありません。それは単に、そこには絶えず、もっと追いかけるもの、探求するものがあるという意味です。そこには絶えず、より良い未来の約束があります。(たとえもし、人生は今しか生きることができないとしても)。そして、「ああ!ゴールにたどり着いた。見つけた。私は成就した」と、立ち止まって言う地点に到達することはほとんどありません。もちろん、それが起こるまれなケースもありますが、それは例外です。見つけたと主張するごく少数の人は、いつもリーダーであり、参加者ではありません。この事実だけでも、ちょっと立ち止まって考えてみる必要があります。

この点において、非二元の教えは全くユニークです。それがユニークなのは、そこには結論だけがあり、探求の余地がないからです。アドヴァイタでは、探求はあきらかに馬鹿げています。なぜなら、探求は未来に何かを見つけることを意味するからです。もし、存在するすべてが一つのもの(oneness・単一性)なら、どうして過去や未来がありえるでしょうか? 


過去や未来はマインドの中の観念であり、今この瞬間、今ここが実在するだけです。アドヴァイタの反対があるとすればそれは、探求することです。 アドヴァイタは、もっとも大局的で可能な観点から、実在と存在を理解することに基づいています。それは、練習、訓練、儀式、経験とは全く関係ありません。自己啓発や、より良い未来の約束を探す探求者がそれをここで見つけることはありません。非二元は好みによる選択を拒絶し、経験、肯定否定、他者より少し優れているとか劣っているということに重きをおきません。 機の熟した探求者にとって、非二元は自由しか残らない地点までの、終わりに次ぐ終わりです。いったん、私たちが生きている基準点、「私」が思考とイメージの集まりにすぎないということを理解すると、いかなる優越感も個人も消滅します。実在の定義が「決して変化しないもの」とわかるやいなや、私たちの「見せかけ」の創造物の実体のない本性が明らかとなります。存在の本質的単一性が理解されるやいなや、幼い頃、いわゆる「個人」という自己認識が生まれた時に身についた分離した感覚は存在し続けることはできません。それは単に消えていきます。いったん、今この瞬間、今ここが今までも、そしてこれからもあるすべてであると理解されると、過去を悔んだり未来を憂いたりする分別のない行動は全くなくなります。

本当の私は、実際には「ものではないもの」、セイラーボブが言うように、非観念で、永遠に存在する、自ら輝く存在意識、ただそれだけ、他に何もない、ということをはっきりと理解すると、自身を変えたり、直したり、修正したり、正したりしようとすることは無意味となります。「何かになる」という気持ちは即座に落ちていきます。万物はすべて本質的には実際に一つ(なぜなら、万物は根底にある同じ意識の中にあるため)であるということを理解すると、すべての基準点が偽りであるということが明らかになります。すべての基準点が偽りであるとわかれば、経験したことや誰かのことを、良い悪い、正しい間違っていると判断するのが馬鹿馬鹿しくなります。起こってくることすべてを単に「あるがまま」に見ます。ひとたびすべての経験を「ありのまま」に見ると、快楽を渇望し、苦痛に抵抗するという絶え間のない習慣は終わります。それゆえ、機が熟した探求者にとって、アドヴァイタは、以前は終わりがないように思えた探求の最終局面となります。もう一度繰り返しさせてください。アドヴァイタは、以前は終わりがないように思えた探求の最終局面となります。

「機が熟した」探求者とはどういう意味でしょうか? それはうわべ上の個人の死を進んで受け入れる人のことです。多くの探求者は個人の死を進んで受け入れるという観念を耳にしたことがあり、実際にその用意もできているにもかかわらず、たいていの人はそれをどうやってやったらいいのかわかりません。それは何か情報が不足しているということではありません。というのも、「小さな自己」が死ぬために個人ができることは実際には何もありません! 


なすべきことは、包括的な観点から実在を理解することです。そうすることによって、うわべの上では孤立した一つの波が海に帰っていくように、うわべの上での個人が普遍性に包まれるようになります。 理解することは解放とは全く違うことのように思えますが、そうではありません。実際それは、解放には本当に不可欠なことです。究極の自由を得る鍵は、実在をどう認識するかにかかっています。解放、すなわち目覚めは特別な経験や行動様式の結果ではありません。それは実在を理解した結果なのです。いわゆるエンライトメントした人たちが行動規範を持たないのはそのためです。そういうわけで、それぞれ個人は自分で目覚めなければならないのです。過去数世紀にわたって、多くのヨギや神秘家たちが、スピリチュアルな経験を他に人に授けてきました(それはしばしば、理解するための強力な触媒となりました)が、誰も永遠の自由を与える理解そのものを授けることはできませんでした。解放は認識、すなわち理解からしか起こりません。そしてそれは、人に譲渡できる何かではありません。暗闇でロープを見た人は最初、それを危険な蛇だと思ってパニックになるでしょう。近寄ってよく見て、それがありのままのロープだとわかると、恐怖は消えます。同様に、人が自身の境界のない本質を理解すると、それまで考えていた束縛から解放されるのは必然の結果です。 

およそ三十年にわたり、多方面にわたる様々な進化の道に携わってきてわかったのは、たいていの探求者は、生涯探求の道の途上にいることを好むということです。ある人は探求のプロセスを愛していて、ある人は至福の瞑想に魅せられ、またある人はただ単にまだ準備ができていません。この本を読んでいる探求者で、自らがその発見者になるという意欲を厳しく吟味したことのない人は厳しい試練に合うことになります。非二元の教えに同意すると主張する一方で探求を続けている人は、実際にはアドヴァイタを理解していないということを証明しています。 

誰も、なぜある弟子が探求を終える用意ができていて、他の人ができていないのかを言える人はいません。アドヴァイタでは、顕現として現れた万物は幻影、すなわち見せかけであり、それは同じ単一性(oneness)すなわち意識の中にあり、そこから現れ、その見せかけにはどんな理由も原因もないと考えています。それは注目に値することですが、目覚め、すなわち解放を成し遂げたと主張する多くの人たちは、皆ではないのですが、同じことを言いました。彼らが強調するのは、ある時点で彼らは真実、自由を見つけるために必死になったということです。多くの人は、これから詳しく知るセイラー・ボブ・アダムソンのように、彼らの明白な束縛がなくなるまでは家には帰らないとさえ誓ったのです。

私はこれを、自己実現を達成するためのヒントや方法として言っているのではありません。私がこれに言及したのは、アドバイタに取り組む多くの探求者は、アドヴァイタの教えは観念的で知的であり、単なる知的な理解が何の役に立つだろうと思っているからです。非二元の教えが心に響かない人にとって、こうした反応は嘘でもなければ、悪いことでもありません。そうした場合、何も得るものはなく、何の助けにもなりません。しかしながら、発見者になることに真剣な探求者、思い出せるかぎりさかのぼったころに始まった絶え間のない分離した感覚にもはや耐えられない人にとっては、自身が何なのか、それは永遠で境界がないもの、そして自身が何ではないのか、それは物質、肉体、束の間のもの、そして制限されたもの、の違いがはっきりします。ひとたびそれが起きると、人生はもはや同じではありえません。 

注目すべきことは、理解が必要なだけです。注目すべきことは、瞑想、詠唱、ブレス、神経系統の浄化、セラピーへの参加、聖典を学ぶことなど、多くのことをする必要がないということです。自己実現は、在ることの中にあり、することの中にはありません。強力なテクニックを使って、時折、至福の絶頂の経験を楽しんでいるスピリチュアルの熱望者にぴったりの言葉があります。「あなたを幸せにしないことをどれだけやっても満足は得られない」。その神髄、本質が単一性(oneness)である原理の中で、何かをすることで何を得ることができるでしょうか? より大きくて良い経験にどんな価値があるでしょうか? 

もちろんこれは、先に述べたことをすることが、素晴らしいことや価値のあることではないと言っているのではありません。しかしながら、自らの本質を見つけることは、「瞬時の理解」によって起こると言っているのです。そしてその瞬時の理解は、完全に今この瞬間、今ここにあるということです。そしてその理解は何かをしたことの結果として起こったように見えても、そうではありません。現象の世界では、実際に原因があるわけではなく、見せかけとして現れているにすぎません。そこには原因はありません。というのも、幻影の世界、私たちの世界は独立した本質がないからです。現れ出た神羅万象すべてのものには、始まりと終わりがあります。現れたものすべては、いつかは消えていきます。そこには見かけの上だけの原因があり、実際には何もありません。 

私の期待したとおり明らかになったように、非二元は個人のエゴを超えた観点です。それは、普通の人には信じられないような観点であり、現象に関心を持つことはありません。世界のおよそ半数の人々がマーヤー、世界は幻影であるという概念を受け入れています。でも、誰もそれが真実であるかのように生きてはいません! というのも、人々は自身の観点、自身のエゴすなわち基準点から人生を生きているからです。非二元の真の理解は、自身の基準点は制限された偽のものであると理解して、はっきりとそれを見た時にのみ起こります。もしこれが起こらなければ、理解は起きません。 

この本の目的は、個人の基準点である「私」、マインドが創り出した幻影をありのままにさらすことです。私の望みは、偉大なインドの聖人、ニサルガダッタ・マハラジが、私の師であるセイラー・ボブ・アダムソンにやっとこと、そしてセイラー・ボブ・アダムソンが私にしたことを読者に対してすることです。そしてそれは、「探求者を助けの要らないところまで連れていく」ことです。この本を読んで、あなたがあなたの生涯を生きてきた「私」はマインドが創り出した偽の創造物であることをはっきりと理解すれば、あなたはもう二度と助けを必要としません。あなたは自身の本質を知り、理解するということの本当の意味を知るでしょう。

私が教えているのは、理解を通じた昔からのシンプルな方法である。自身のマインドを理解しなさい。そうすれば、マインドのしがらみは瞬時に消える。マインドは誤解する。自らの本質を誤解する! 正しく理解することだけが救済策だ。たとえそれを何と呼ぼうと。

ニサルガダッタ・マハラジ

「シュリ・ニサルガダッタ・マハラジの知恵」ロバート・パウエルより



    2019/01/24

    セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑨

    非二元の世界と現実の世界をごちゃ混ぜにしないでください。

    セイラーボブが私たちに教えようとしているのは非二元の世界です。非二元の世界は、ボブ英語でいうと、reality (実在)、または、unmanifested world(非顕現の世界)です。一方、私たちが住んでいる世界は現実の世界。ボブ英語でいうと、appearanance (顕現、みせかけ)、または、manifested world(顕現の世界)です。

    私もそうでしたが、セイラーボブの教えを学んで日が浅い人の中には、非二元の世界と現実の世界をごちゃ混ぜにして理解しようとする人がいます。それが混乱を引き起こします。

    「私もあなたもいない」「世界は幻影であり、そこでは何も起こっていない」「時間は存在しない」「万物は一つのものである」こういったボブの発言は、非二元の世界のことを言っているのであって、現実の世界の話をしているわけではありません。

    時々、それをごちゃ混ぜにして、「最近体が消え始めた」「頭が消えた」「何も起こっていないのだから何をしてもいいのだ」「ピラミッドなんて、あるように見えるだけで、実際には何もないのだ」なんて言っている人がいます。

    そうではありません。現実の世界では、あなたもいるし、私もいる。世界は幻なんかではないし、そこにはちゃんと守らなければいけないルールもあって、時間もある。ピラミッドも建っている。

    セイラーボブが語る非二元の世界はどこにあるのかというと、現実の世界と同じ場所にあります。ただ私たちは、肉体という基準点を持って生まれてきました。その基準点が無くならない限り、非二元の世界を見ることも体験することもできません。

    例えて言うなら、セイラーボブが語るのは映画のスクリーンで、私たちが見ているのは映写された物語です。映画が終わって点灯されるまでは私たちがスクリーンを見ることはありません。

    セイラーボブと初めて会って会話する人はひどく混乱します。会話を極端に再現すると、例えばこんな感じになります。

    私:「エンライトメントがないというのは本当ですか?

    ボブ:「エンライトメントは何かになることです。それは未来です。時間は存在しません」

    私:「いえ、私が聞きたいのは、」

    ボブ:「私とは誰のことですか? あなたは自分がいると思っているのですか? あなたはいません」

    私:「いえ、そうじゃなくて、昨日の夜あなたの本を読んでいたら」

    ボブ:「昨日は過去です。過去は時間です。過去は存在しません」

    極端に書くとこんな感じになって、ボブとはなかなか会話がかみ合いません。ミーティングでも同様で、ボブは決してぶっちゃけて説明するなんてことはせず、実直で厳格、融通の利かない非二元の教師を演じ切ります。

    「私もあなたも実在ではない」「世界は幻影であり、そこでは何も起こっていない」「時間は存在しない」「万物は一つのものである」こういった発言を、ぶっちゃけた説明もなく、さも当たり前のように平然と、あたかもそれを見てきたかのように言い切るので、こちらとしてはどうしたら同じように実感できるのかと考えるばかりでした。

    ボブのミーティングに2015年と2016年に参加して、(理解したぞ)と思って日本帰ってきても、いつも戻ってくる疑問が二つありました。

    一つは、awareness という言葉の厳密な意味です。意識ということはわかっていたのですが、具体的にどういう意識なのかということ。「ただそれだけ」の中では、「純粋意識」「存在意識」「目覚めた意識」と訳されています。じゃあそれは具体的にはどういう意識なのだろうか、ということ。

    もう一つは、「私もあなたも実在ではない」「世界は幻影であり、そこでは何も起こっていない」「時間は存在しない」「万物は一つのものである」ということに実感がもてないことでした。

    セイラーボブの本を何度読んでも、そのあたりのことが釈然としませんでした。
    そのあたりを、ぶっちゃけて説明してくれたのが、ギルバートとカタリーナでした。

    私が2015年に行った時はまだギルバートがミーティングに欠かさず出ていたころで、Facebook を交換していたので、その後も彼のFacebook を毎日読んでいました。

    ある時ギルバートがこんなふうにFacebookに書いたのです。

    念のために言っておくが、
    世界中の人が大騒ぎしてグルを追いかけて、探しても手に入らないと騒いでいるものは、あなたが勝手に思い違いをしているものだ。
    グルたちが言っているのは、普通の意識(wakefulness)のことを言っているだけだ。
    騒ぐ必要もない。ファンファーレも雷鳴もトランペットも歓迎の垂れ幕も不要だ。
    普通の、まったく普通の意識のこと。
    あんまり普通なので誰もその完全さに気づかない。
    それは普段の視界の中に隠れている。
    何も付け足すこともできなし、その必要もない。それはもう完全なもの。
    そこから何も取り去ることはできない。
    訓練や練習は不要。高めたり、減らしたりする方法はない。
    剣で切ることも火で焼くことも水に沈めることも風で飛ばすこともできない。
    段階も高さも低さもない。
    何かにくっつけることもできない。
    もっとも近くにあって個人のものではない。
    教えたり、教えてもらったりすることもできない。
    人に渡すことも無くすこともできない。
    たくさんの名前を持っているが、名前はそれそのものではない。
    それを探すことはそれから遠ざかることになるが、誰も遠ざけることはできない。
    それは、性別は年齢や人種や信条にかかわらず、すばらしい財宝をくれる見えない寺院のようなもの。
    それは、毎日の普通の意識(Wakefulness)
    それがあなただ。

    ここでいう Wakefulness(目を覚ましている状態・起きている状態) は、awareness (意識)と同じ意味で、セイラーボブもよく使います。
    私はこれを読んで、ボブのいう「意識」の意味が完全に理解できました。ボブのいうアウエアネス(意識)=(Wakefulness)は、私たちの日常にある普通の意識のことです。

    念のため、ボブの本をあちこち読んで確認しましたが、間違いありませんでした。
    不思議なことに、2016年に行ったときの最終日のブログに、そのことを書いています。でも自分で書いておきながら、忘れたというか疑問がわいたというか、人間そういうものですね。
    p43
    「あなたはそれを何と呼びますか?普通のアウエアネス(意識)です。普通の、ただの日常の普通のアウエアネス(意識)です。


    もう一つは、「私もあなたも実在ではない」「世界は幻影であり、そこでは何も起こっていない」「時間は存在しない」「万物は一つのものである」ということに実感がもてないということでしたが、これはカタリーナがミーティングでぶっちゃけトークをやってくれたおかげで、それを体験することも実感することもできないとわかりました。

    「(私はいない)ということをいくら考えても、(私はいる)という思いは消えることはない。なぜなら、もし私という主体が消えたら世界が消えて何も認識できなくなって、(私はいない)という認識も消える」

    「私がいない、ということを体験しようとしてもそれはできない。あなたが、(私)という基準点を完全に無くすのは肉体を離れた時であり、死んだ時である」

    「この世がマヤ(幻影)だといくら言っても、実際には生きている限り世界は現われ続ける。(私)という基準点は生きている限り現われ続ける」

    ボブの教えを理解しても、実際に何か体験が起きるということはありません。非二元の世界を体験することもなければ、垣間見ることもありません。体が消えることも、世界が消えることもありません。何も起きません。何か起きたと言うなら、それはトリップであり、トラップです。

    ボブは私たちと同じ世界を見ています。ボブが非二元の世界を見ているわけではありません。「時間はない」と言いながら、ミーティングが終わりに近づくとチラチラと時計を見ます。個人面談の予定が入れば手帳にメモします。

    「私はいない」と言いながら、イケヤのフードコートではムシャムシャと肉料理を食べ、苦いコーヒーを飲みます。
    「体はない」なんて言いながら、鍼を打ってもらいます。

    ボブは覚醒した人ではなく、普通の人です。
    「昨夜は眠れなかった」なんてことはしょっちゅう言っていましたし、庭の木を切っていて額をひどく擦りむいたこともありました。

    ボブは超常的な経験や秘教的な経験、奇跡、奇跡を行う人には興味がありません。また、俺は覚醒したと公言する人や、最終理解を達成したと公言する人にも興味がありません。
    ボブは普通の人です。でもミーティングになると、厳格な非二元の師となります。

    ボブは常に堅物で厳格な妥協のない非二元の教師で、160キロの剛速球を投げて、注意をそらさないようにします。でも私はその剛速球を見送りするばかりで少しも理解できなかった。

    ギルバートとカターナがぶっちゃけトークをしてくれて、160キロの剛速球の打ち方をお教えてくれなかったら、私がボブの教えを完全に理解することはなかったと思います。

    ニサルガダッタ・マハラジは、彼の教えは6、7回聞けば十分に理解できる教えであると言っていて、セイラーボブも同じことを言っています。(Living Reality.p.150から)

    私はセイラーボブに会ってから、彼の教えを完全に理解するのに4年かかりました。でも、それはニサルガダッタ・マハラジが「I am」と繰り返し唱えて自己の本質を理解するのに要した年月と違って、私の場合は英語力の問題もあったと思います。もし、ボブの教えをちゃんと理解している日本人が日本語で説明してくれたなら、もう少し早く理解できたのではないかと思います。

    そう考えて、私は親しい友人に、私のブログの セイラーボブの教え (概略)を読んでもらい、その後で口頭で彼に説明しました。その友人は、精神世界には全く興味のない人です。そしたら、「全く理解できない」という返事でした。
    それを聞いて、けっこう驚きました。誰でも理解できると思ったのに、やっぱりそれなりの興味があって、機が熟してないといけないのかもしれません。

    セイラーボブの言っている内容そのものを理解することはそれほど難しいことではないと思いますが、それを本当の意味で理解することは機が熟してないと起きないのかもしれません。

    以下はliving Reality.p.134から。

    マーチン:ボブ、あなたのマインドの定義は何ですか?

    ボブ:マインドなどというものは実際にはありません。マインドは思考の集まりであり、それを私たちはマインドと呼んでいるだけです。そして思考はもちろん独立した存在ではありません。それはやってきては去っていく。私たちは見せかけの世界で自分を見失います。それでも見せかけは現われ続けます。体がある限り、私たちは同じように感じ続けるでしょう。対極のある一対のものとして。それ以外のやり方で感じることはできないのです。それをあなたが理解するかどうかにかかっています。そしてそれを見抜くことができれば、あなたは解放されます。

    以下はliving Reality.p.142から。

    ジェームズ:ボブ、あなたは実際には空(くう)を見ているわけではないのですね? あなたはただ、すべては空間であると理解しているだけですね、そうでしょ? なぜ尋ねたかというと、いろんなことを言う人のことを聞いているからです。超常的な知覚や、オーラやエナジーが見える人などのことを。

    ボブ:彼らが実際にそれを見ているかどうかは問題ではありません。彼らが何らかの経験をしているかどうかにかかわらず、彼らも私とあなたと同じように空(くう)を見ているだけです。実際のところ彼らは、「私の経験の方があなたの経験よりすごい」と言っているにすぎません。彼らにどんなことが起こっていようが、彼らは見せかけ、すなわち空(くう)を見ているにすぎません。たとえそれがどんなにすばらしく恍惚とするような出来事だったとしても。

    以下は Living Reality .p.184から

    マーチン:ニサルガダッタと会話してから、あなたの人生が変わったのは知っています。でも、例えば、テーブルは見せかけにすぎないのですが、あなたのテーブルに対する感覚は変わりましたか。感じ方は変わったのですか。

    ボブ:いいえ。そのままです。以前と同じままです。でも、それは見せかけにすぎないと完全に理解しています。

    マーチン:ということは、あなたの知覚はそのアウエアネスで変化したということはないのですね?理解することで世界は変わりますか?

    ボブ:ええ、何かをできる何者かが存在するという信念はもはやありません。分離した存在がいるという信念もありません。それは見せかけにすぎないのです。そこにあるのは一つの知る行為(one knowingness)があるだけです。

    以下は A sprinkling of Jewelsから。

    もしあなたがバケツ一杯の青い海の水を汲んでも、それは青くはありません。もし海が青く見えても、あなたが実際には青ではないと知っていれば何の問題もありません。あなたは青くはないと知っているのに、どうして青さを変えようとするのですか?

    以下はLiving Reality.p.290から

    ボブ:あなたはマインドの中に答えを見つけることはありません。マインドは物です。私たちの本質は物ではありません。物は物ではないものを理解できません。私たちは答えをマインドの中に探すが、そこに答えはありません。そして、マインドからの出口は全停止しかありません。その全停止の中で、あなたの思考は止まるが、そこに意識はあります。思考と、むき出しの意識には違いがあります。あなたの思考がない時、たとえそれが一瞬でも、あなたは思考を超えています。人々は思考を超えようと何年も費やします。しかし実際にはとてもシンプルなことなのです。

    2019/01/21

    セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑧

    死・過去生・輪廻転生

    私の理解する範囲では、セイラーボブは死・過去生・輪廻転生についてはそれほど多くを語っていません。それは一つには、死という概念そのものに未来という時間が含まれているので、時間などないというボブの世界に相容れないからだと思います。

    いくらボブの教えに死はない、と言っても、実際死んだらアウエアネス(意識)はどうなるだろうかとか、人間は生まれ変わるのかとかは、みなさんが興味あることだと思いますのでテーマとして取り上げてみました。

    セイラーボブに、死んだらどうなるかという質問をすると、たいていは「ただそれだけ」p.171 からp.174までに載っているように、酵素が死体を分解し、微生物が死体を食べ、そこから新たな命が生まれ、命が命を食べ、命は引き継がれていくという話になってしまいます。

    セイラーボブはミーティングで、死んだあとに個人のパーソナリティは残るのかという質問に答えて、(2018.10.21ミーティングYouTube、1:18:54あたりから)パーソナリティは思考であり、それは死ぬ時に消えて無くなり、それが引き継がれることはないと明言しています。

    私たちが「私」と思っているのは、マインドです。それは記憶や条件付けの塊のようなもの。名前、記憶、思い出、パーソナリティ、嗜好などがマインドに条件づけされています。死と同時に、それが消えて無くなると言っています。

    私たち東洋人は仏教の影響もあって、過去世、輪廻転生を信じているため、たいていの人は人の魂は転生すると信じています。でもセイラーボブの世界にはそれはありません。これは多くの人にとって受け入れがたいことではないでしょうか。

    多くの人は過去世を信じています。私も過去世を見るグループセッションに参加したこともあるし、バーバラ・ハリスや立花隆の臨死体験など何冊もむさぼるように読みました。生まれ変わりや死後の世界がないとなると、エドガー・ケイシーやスウェーデンボルグ、イアン・スティーヴンソンの話は何だったのかと思います。ついでに丹波哲郎の話も。

    でもセイラーボブを学んでから、転世はないと思うようになりました。私が「私」だと思っている存在は思考であり、マインドであり、それは実体がないものだと理解したからです。

    私はセイラーボブに出会いう前は、人間は生まれ変わりを繰り返すものだと信じていましたが、それでもいくつかの疑問を持っていました。

    ①地球誕生は約46億年前と言われています。一方、人類の誕生はアウストラロピテクスまで遡ったとしても、せいぜい数百万年前です。昔テレビでやっていたカール・セーガンの科学番組コスモスの宇宙カレンダー(宇宙の誕生から現在までを一年のカレンダーにしたもの)でいうと、ホモ・サピエンス(現生人類)の誕生は12月31日午後11時58分です。
    では一体それまでの間、われわれの魂はどこで何をしていたのでしょうか?

    ②現在の地球人口は約75億人。どうして人数が増えていくのか?人間になる前は動物だったのか? だとしたらどんな動物だったのか? ゴキブリやカエルも人間に生まれ変わることがあるのか?

    ③今までに生まれて死んだ人の累計は膨大な数になる。その人たちはどこにいるのか。生まれ変わるまでどこで待機しているのか。その場所は魂で溢れているのか。

    ④臨死体験で語られる死後の世界はどうしてあんなに多様で、それぞれの宗教色の強いものなのか? あの世では、仏教徒がクリスチャンの天国には行けないほど閉鎖的な世界なのか?

    脱線しすぎました。話をセイラーボブに戻します。

    以下は(What's Wrong with Right Now? p.85)から引用。

    ボブ:マインドは何かを理解しようとします。マインドは概念やイメージをそれに貼り付けようとする。だがマインドはそれを理解できません。そうすると今度はあらゆることを作り出す。マインドは次の生さえ作り出してしまう。「もしいい子にしていたら将来、という思いが神と天国を作り出し、そこへ行けるだろう」と考えます。それが東洋だったら、「私は帰ってくる。輪廻転生する」となります。それはいつも、今ここにいることではなく、何者かになることです。何かになることは未来に物事が起こるということ。何かになる未来の時など来ません。実在はたった今です。それが生きるということ。あなたはこの瞬間をもう一度生きることはできません、そうこの瞬間、たった今を。

    質問:私たちが死ぬ時、エネルギーはどこへいくのでしょうか?

    ボブ:一つの波が海に戻る時、それはどこへ行きますか?

    質問:わかりません。

    ボブ:また同じ波がやって来るでしょうか? ノーです。

    セイラーボブは大海をアウエアネス(意識)に例え、そこに立つ一つ一つの波を人間一人一人に例えます。私もあなたも一つの波。別々の波に見えても実は同じ海の一部。波が静まればまた海に帰っていく。その波がまた帰ってくることはない。

    以下は(What's wrong With Right Now? p.88)から引用。

    質問:肉体が死に、マインドが死ぬ時、それは死なのですか?

    ボブ:そうです。あの「私はいる」という思考が生まれたものであり、それが死にます。聖フランチェスコの祈りでは「私は死ぬことによってのみ永遠の命を得ることができる」と言っています。彼は肉体の死を言っているのではありません。「私」という自己の感覚が死ぬのです。聖パウロは「私は毎日死ぬ」と言いました。死ぬのはマインドの思考のことです。このことは理解されなければいけません。ニサルガダッタは「理解がすべて」と言っています。

    以下は(Living Reality. p.214)から引用。

    ケリー:死について話しましょう。この聖人たちは「私は5分後に死んでもかまいわしない」と言っています。どんな体験が彼らにこう言わせるのでしょうか?

    ボブ:それは単にエゴ「私」という思考、すなわち偽の自己中心でありそれが生まれたものです。そしてそれは常に死を恐れている。なぜなら人々は思考よりも以前に機能しているものを理解しないからです見ること、聞くこと、触れること、匂いをかぐこと、そして味わうこと、それは自然に起こってくることです人々は死を恐れます。人々はマインドがそこにあるすべてだと考えていて、それがリアルに思える。あなたのマインドは単に本質の上に現れた概念の束にすぎないということを理解し、あなたは本質であり、本質は生まれたこともないと理解すれば、恐怖は消えます。そしてあなたは、あなたが死ぬ時が来るということはできません。あなたは何か概念化されたものが去るのを想像できるだけです。それはすべて観念的なものです。あなたが生まれたことはありません。何を恐れているのですか。誰が恐れているのですか。

    以下はLiving Reality .p.134から

    マーチン:転生はありますか?

    ボブ:転生は何か分離した存在がいて、いつか将来に生まれ変わることを意味しています。もし存在が他には何もない一つのものなら、もしそれが非二元なら、もしそれが偏在、全能、全知のものなら、誰が、いつ生まれ変わるというのですか? すべてあるのは今この瞬間だけです。エネルギーのパターンが現れ、エネルギーのパターンが消えるだけです。

    私たちは輪廻転生があって、来世があると思っているから救われているというか安心しているようなところがあります。ですから、来世がないとなると、寂しいし不安になってしまいます。

    いくら死ぬのは思考だけだと言われても、思考が死ぬのだって怖いし、嫌です。聖パウロみたいに、毎日死ぬなんて考えられません。そりゃあ夜寝る時は、「私」はどこかへ行くわけで、毎晩死んでいるようなものですが、次の日の朝には「私」は帰ってくると知っています。私なんて最近は年のせいで明け方の早いうちに帰ってきます。

    また、いくらアウエアネス(意識)は死なないといわれても、人間としての感覚器官が停止した瞬間から、私たちは認識機能を失うため、もう何も感じることができません。いわば、コンシャスネス(意識)から知性エネルギーへと戻るわけですが、それがどんな状態なのかは誰も知りません。

    ギルバートが言うように、死を理解しようとすること自体が無意味なのかもしれません。いくら死のことを考えても、すべては想像にすぎません。死のことを考えること自体が意識を今ここから遠ざけてしまいます。あるのは今ここであり、未来は存在しません。

    よく人は、アドヴァイタの教えは、私はいないという教えで、それが人を厭世的にするから嫌だという人がいます。でも私は逆なのではないかと思います。一つの波は一時現れてまた海に帰って、もう戻ってきません。人は転世しません。だとしたら、たとえそれはマインドが生きている一生であったとしても、マインドとして生きている間は一度しかない貴重な一生であり、前向きに懸命に生きるべきなのではないでしょうか。

    以下は Living Reality .p.147から

    ジェームズ:ニサルガダッタはこんなことを言っています。「人々は、世界は昔からあると思っている。それは違う。世界はあなたの意識に現れるのだ」と。
    この体が死ぬ時、個体としての存在は消えてしまうのでしょうか?

    ボブ:あなたは今、仮説を立てています。いつか未来の時へ。あなたは、世界は昔からあると思っています。その上にさらに時間を重ねています。

    ジェームズ:私は今、概念上の話をしているのです。世界は私ゆえに存在するという言い方は正しいですか? 私がいるから、見せかけの世界は現れるのですか? つまり、「私」が源なのですか?

    ボブ:それはいつ起こっていますか?

    ジェームズ:今です。

    ボブ:よろしい。では、世界は昔からあったのですか?

    ジェームズ:いいえ。

    ボブ:では、なぜあなたは「私が死ぬ時」と聞くのですか?

    ジェームズ:世界はここにありさえしない。ちょっと待ってください。質問を最後までさせてください。私は意識、すなわち知る行為(knowingness)。この見せかけのジェームズが・・・。

    ボブ:あなたが「の時」と言ったとたん、偏在から離れます。あなたはまた時間の中に戻ってしまいます。あなたはまた心的な概念の中に戻ってしまいます。

    ジェームズ:私はこれを聞きたいのです。どうか最後まで聞いてください。いつか、この見せかけのジェームズは死にます。それはあなたも私も知っています。それが起きる時、見せかけの世界で、(笑い)いいですか、ボブ、あなたと私はここに、私たちはいて、そしてニサルガダッタはいません。それで私が言いたいことはわかりますか?

    ボブ:ええ。

    ジェームズ:例えば、ジェームズが死ぬほんの一瞬前、彼は知りたいのです。体が死ぬその瞬間に幻影の世界が消えて無くなるかを。

    ボブ:幻影はいつ現れたのですか?その幻影は実在のものでしたか?

    ジェームズ:いいえ。それは幻影です。

    ボブ:あなたは幻影の中にいて、その中に現れる幻影について話をしていて、それがそのままなのか消えてしまうのか心配しています。

    ジェームズ:心配しているとは言わないでください。

    ボブ:あなたはまたマインドの中を探しています。マインドの中で答えを見つけようとしています。

    ジェームズ:答えはそこにはない。

    ボブ:あなたはそれを理解しなければいけません。

    ジェームズ:答えはマインドの中にはない。

    ボブ:そんなことを心配しても意味はありません。もともとあなたは存在しないのですから。

    ジェームズ:ニサルガダッタはここにはいなかった。

    ボブ:ええ。そしてあなたも。あなたはここにいなかった。

    ジェームズ:それが問題なのです。私はここにいないのに質問するなんて狂っています。

    ボブ:そのとおり。それが問題です。私たちは世界が幻影だということを理解しますが、私たちが幻影だということを理解しません。私たちもまた世界の中に現れています。

    ジェームズ:(笑い)この幻影は現れてもいなかったのに、私はこの幻影が消えるのかどうか聞いている。

    ボブ:そうです。

    ジェームズ:私が尋ねた理由は、ニサルガダッタが、幻影は「私がいる・I am」から現れるだけだと言ったからです。

    ボブ:存在の感覚、あの知る行為そのもの(knowing)ゆえにです。

    ジェームズ:なぜ彼は見せかけの世界の話をしたのでしょうか? いまいましい、ありもしないものを。混乱してしまう。

    ボブ:彼にかまわないで。結局、世界は存在しません。鏡の中の像のように。鏡の中に椅子が見える時、そこに実際に椅子はありますか? あなたは、そこに椅子がないとは言えないでしょう? そこにあるように見えるだけです。でもあなたが椅子に触れようとしてもそこには何もない。あなたはそれがそこにあるともないとも言えません。

    ボブは「あなたが死ぬ瞬間、あなたはそれを知らない(認識しない)」と言います。
    マインドが消えてなくなれば、自分が死んだのかも生きているのかも認識できない。そうだとすれば、私たちが死に対して抱いている恐怖や幻想はすべてマインドの想像でしかありません。マインドの死という意味では、私たちは毎晩死んで、毎朝生まれています。
    死はありません。もともと私はいないのですから。

    以下はLiving Reality.p.145から

    ジェームズ:もし私の体が無くなったら、自分自身を認識できますか?

    ボブ:知る働き(knowingness)はあるでしょう。でもそこにはそれを表現する方法がありません。そこには純粋な空(くう)があるだけでしょう。それは静的なものです。

    ジェームズ:もし感覚がなかったら、どうやって自分の状態を知るのですか?

    ボブ:もしそこに、表現したり、経験したりするためのエネルギーのパターンがなかったら、あなたは無です。いずれにしても、あなたの本質はそれなのですが。それは、知る働きが深い眠りにあるようなものです。あなたは自分が意識だということを認識しないでしょう。

    2019/01/18

    セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑦

    至福(bliss)

    私たちは、覚醒が起こって至福で満たされることを求めています。でも、私たちが探している至福はセイラーボブに言わせると、やってきては去っていく体験にすぎないと言います。そしてそれはセイラーボブの教える至福ではないと言います。

    以下はLiving Reality.p.105から

    エメット:あなたが理解した時、最終的な瞬間というようなものはあったのですか?

    ボブ:どんな最終的な瞬間も決してありませんでした。ニサルガダッタのもとにいた時、私はただ単に彼の言うことを理解しただけです。それは、私は今までずっとそれだったということです。私は他のものではありえなかった! 見せかけの16年間の私の探求は夢のごとくに消えました。私の16年は問題ではなかったと理解しました。以前に起こったことはどんなことであれ問題ではありませんでした。未来に起こるどんなことも問題ではありませんでした。現実は今ここです。私はこの瞬間をもう一度生きることは決してできません。そしてあなたも。もし私がこの瞬間を完全に生きることができなければ、もし私が完全に見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことができなければ、もし私がマインドの中に閉じ込められていたら、私は本当には生きることができません。あなたが完全に気づいている時、完全に敏感な時、あなたは本当に生きています。それがこの瞬間の現実です。それは二度と起きません。あなたは過去を思い出し、未来を想像することはできます。でもあなたはあなたのエネルギーを、過去を思い出したり、未来を想像したりして浪費しています。なぜなら、それらの行為が、今ここを見ることを妨げているからです。ですから、もしあなたが気づいていれば、もしあなたが目覚めていれば、ということです。

    エメット:至福意識と言われる最終的な自己実現の描写がありますが・・・。

    ボブ:ええ、それはすべて体験です。それはそれではありません。あなたが体験できるどんなものもそれではありません。キリスト、ブッダ、マホメット、などどんな名前で呼ぼうが、「無(no thing)」を超えて行ってはいません。そして私は自分が無であると知っています。誰もそれを超えることはできないのです。

    エメット:あなたはそこへ行って至福を感じることができますか?(笑い)

    ボブ:あなたは至福を体験することはできます。しかしその至福は単なる体験です。私は沈黙や平和よりもおしゃべりの方を好むというわけではありません。それは両方とも体験です。その体験がその中で、もしくはその上で起きる場所が本質であり、それが私です。そしてそれは決して変化することがありません。実在の定義は決して変化しないものです。[ある辞書の実在の興味深い定義は(否定できない確かな存在)] その他のものは束の間のもの、やってきては去っていくもので、実在ではありえません。実在は「無 no thing」です。

    ジェームズ:あなたは探求の途中で、その状態を達成したら、どんなに至福に満たされるかという記述に出会ったことはありますか?

    ボブ:もちろんです。

    ジェームズ:ということは、彼らは基本的には誤解して教えていた、まちがっていた、そうでしょ?

    ボブ:そうです。それらを体験することはできます。私にはあらゆる種類の体験があります。幻覚を見たこともあります。あらゆる種類のクリヤ(背骨から強いエネルギーを上昇させるためにとるポーズ)から即座に起こるクンダリーニを経験したこともあります。至福や恍惚感も体験しました。様々な色の光も見ました。でもそうしてことは、あなたが探しているものではありません。それらの体験はやってきては去っていきます。あなたが探しているのは無(no thing)です。そしてあなたはいつもそれであったし、これからもそれです。あなたはそれを探すためにどこにも行く必要はありません。なぜならあなたはそれだからです。そしてそれが、あなたが探している幸福をもたらします。

    ジェームズ:あなたが話しているのは、あなたの生涯あなたとともにある幸福感のことを言っているのですか、それともニサルガダッタの教えを理解してから始まった何かのことを言っているのですか?

    ボブ:それは、いつもそこにあったが、決して気づくことが無かった何かのことです。それは無視されていました。でもいつもそこにあった。それはマインドにとってはシンプルすぎて理解できなかった。その微妙さはマインドではとらえられませんでした。あなたが、「無 no thing」すなわち「私はいる」に留まる時、その微妙さを感じ始めます。あなたは原因のない平和、原因のない喜び、悲しみや混乱の反対ではないもの、愛や憎しみではないもの、原因のない愛を感じます。それはあなたに備わっている自然な慈愛です。それが現れ始めます。そしてそれには対極のものがありません。なぜなら原因がないからです。それが、それです。それがあなたの自然な状態です。それが、ニサルガダッタの言う自然な状態です。あなたは子供のようになります。それは、あらゆる種類のドラマが起こらないということではありません。でも、自分は何かということをずっと知っていたと理解しため、あなたはそれから逃げることはできません。あなたはそれを否定できません。あなたはそれを失うこともできません。あなたは今までもこれからもずっとそれだった気づきます。それには始まりも終わりもありません。誕生も死もありません。時間も空間もありません。それは概念化できません。あなたはそれです。いまこの瞬間。

    2015年にミーティングに参加していたある日、スウェーデンから男性二人組がミーティングやってきました。二人は一週間の滞在で、ボブの家の向かいのホテルに滞在して、3回ミーティングに出ました。

    一人の男性は毎回ミーティングで何度も活発に質問したのですが、もう一人の人はほとんど質問しませんでした。英語があまり得意ではないという事情があったのかもしれません。

    最終日のミーティングが終わって、みんなでボブの家の近くのレストランに行って、二人を囲んで食事をしました。その時に、そのほとんど質問しなかった男性がボブに聞きました。

    質問者:ところで、その、至福というのはどこにあるのですか?

    ボブ:至福はあなたの日常の意識の中にあります。

    そしてボブはいつものように、思考が無い時、アウエアネス(意識)にはほのかな至福があるということを説明しましたが、その人が納得した様子はありませんでした。
    横で私は、きっとがっかりしたんだろうなぁ、と思って聞いていました。

    セイラーボブによると、知性エネルギーから滲み出るほのかな至福が、私たちの意識にあるのだそうです。それは非常に繊細で微妙なものなので、強い刺激ばかり求めている人には気づかないと言います。

    私たちのマインドは普段、それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、現代社会では強い刺激に溢れています。TV、映画、DVD、ゲーム、車、パソコン、スマホ、Twitter、SNS、インスタ、インターネット、新聞、雑誌、本、ショッピング、ドライブ、セックス、ギャンブル、酒、女、男、イベント、旅行、パーティ、グルメなどなど。

    もしそういったものを一時でも脇に置いてひと息つくと、思考の合間には至福があるはずです。そこに至福があると言われても退屈としか感じないかもしれません。マインドは一時も退屈に耐えられない。至福どころか不安に感じて、すぐに何かないか探し始めてしまいます。でもそこにセイラーボブのいう至福があります。

    セイラーボブはアリンタ農場で洪水や干ばつに襲われ、病気に苦しんでいる時の様子をこう書いています。(「ただそれだけ」p.66.l.6)

    「そんな状況にもかかわらず、その間ずっと、「だいじょうぶ、万事うまくいくだろう」という明晰な感覚があった。どんな困難が押し寄せてきても、その下には常に一種の幸福感があったんだ。先のことについて考えたり、どうなるだろうと思ったりすることはあったけど、それについて物語が構築されることもなければ、なんらかの精神的苦悩にとらわれることもなかった」

    ボブは「常に一種の幸福感があった」と言っています。ボブの言う「一種の幸福感」とはこの至福のことです。ボブは、思考は「私」ではない。思考が唯一の問題であると理解していました。そしてその背景にある意識に、ほのかに滲み出る至福を感じていたのです。

    その至福は無理に探すものではなく自然に感じるものだと思います。ボブは、それをどんふうに感じるようになるかを、ひまわりの種の味で説明します。(「ただそれだけ」p.57.l.5)

    「自分は肉体でも心でもなく、私はそのことを理解することができた。ニサルガダッタが言わんとし、常に指摘していたのは、それはすべて観念的だということだ。私が自分自身について抱いているイメージ、考え、創造は、真実ではないということだ。私はニサルガダッタが何を指摘していたかを理解した」

     ボブはニサルガダッタと最初に会ったとき、彼の言っていることの本質を理解しました。彼は心が唯一の問題だということを理解し、それを明確に見たなら、自分は二度とそれに引っかからないと思ったのです。そのセッションが終わって、玄関から外へ出ると、彼はすぐに心に捕らえられました。とはいえ、心が唯一の問題であることを理解したので、以前とは違った感じでした。彼が心にひっかかったように見えたとき、彼は自分自身にこう言いました。「おいおい、ちょっと待て、これは先日も見たことだ。これは一体何なのか?」。それは彼を制止し、彼はもう一度それを見て、それが、「ただ、おなじみの古い心の糞が、もっと出てきただけ」であることを見たのです。

    「こういった古い習慣のパターンは長年のもので、すぐには止まらなかった」と彼は言います。「しかし自己憐憫や恨みに根ざした心のおしゃべりが再び始まっても、そこには何もない、だからそれは長くは続かないことを思い出したんだ」。ボブがその偽りを見るたびに、それは強烈さを失い、苦しみは和らいでいきました。

     習慣が消え始めるとき、それまで微妙でよくわからなかったことが、はっきりわかるようになることがありますが、ボブはそれについてこんなふうに説明しています。昔、彼が禁煙し始めたとき、最初のうちはひまわりの種を食べてもほとんど味がしませんでした。しばらく禁煙を続けていると、彼の味覚は種の微妙な味を区別できるようになり始めました。同様に、自分は全体とは別個のものと考えることによって、分離した「自分」という
    概念を形成してきた信念は、それまで一つであることの味を雲らせてきました。自分は意志とコントロールをそなえた分離した「行為者」であるという、この偽の概念を見抜くとき、存在の神秘、万物の一体性がわかってくるのです。「まず、それを味わってください」と彼はいいます。一度でも味わえば、それを忘れることはできないことを、彼は知っているのです。

    以下は(「 What's wrong right now?p.28日)から引用。

    質問:私の意識が訴えるのは、私は他の人たちがそれを体験するようなレベルでそれが体験できないということです。何年か前にある有名スワミが言ったのを聞いたのですが、彼によれば、ヨーガの実践、瞑想の実践で人はマインドを理解するようになり、マインドを超えることができるようになる。私には意識(consciousness)は意識の外では何も認識できないように見えます。それがジレンマに思えます。ここでの私たちのやりとりは意識レベルのものです。それで「静かにして、私が神である事を知る」方法はありますか?もしそこに何か得なければならないものがあるとするなら、瞑想するのが一番良いのではないですか?

    ボブ:そのスワミであれ誰であれ、何を経験しようと、それはまだそれではありません。いわゆる超越した状態というのはまだそれではない。そこに静けさがあろうとおしゃべりがあろうと問題ではありません。なぜなら、その両方とも私にとっては経験にすぎないからです。しかし、その純粋な認識、両方ともその中に現れるのですが、そこに現れるものすべて、それは経験を超えています。それは純粋に経験する行為そのものです。

    どんな経験であろうと、それではないということを、マインドで理解しなければいけないのですが、答えはマインドの中にはありません。そうなれば、あなたはいわゆる究極の状態やそうでない状態を得ることに構わなくなります。あなたはただ「今にいる」ことの繊細さの中に留まる。そこから来るものは何かを理解してください。原因のない喜び、原因のない幸福そして澄んだ慈愛が起こります。それがマインドを通して表現されたとたんに、あなたがそれらにつけた名前であるのですが、あなたは「私はそれを経験している」とは言えません。

    以下は(Presence Awareness.p.81)から引用。

    質問:質問があります。目覚めていること、今にいること、そして私がいないということについてです。いつも特定の感じがしているようで、自然な感じではないのです。

    ボブ:ええ。それはうわべでは物ではないのですが、実は満たされているものです。

    質問:どんな時でも私が現れてきます。

    ボブ:マインドで理解しようとしても無駄です。そこにあなたは現れます。理解する必要はないのです。マインドも現れます。そのままできるだけそこに長く座ってください。そうすると、その何もないところに、ある種の繊細さがやってきます。それは幸福感です。もし呼びたければ、原因のない喜びと呼んでもいい。それは悲しみの対極にあるものではありません。それには原因がありません。それはただ自然にあることの幸福感です。すべてOKです。それはとても繊細なものです。なぜなら私たちは外の世界の荒い感覚に慣れていて、そちらに注意が向かいがちです。それは私たちが生まれてからの条件付けです。この繊細さとともにいると、そこに何があるかを感じ始めます。そこにはエネルギーがあり、それはあなたの顔を明るくする光、ある種の放射と呼べるようなものです。

    以下は(Living Reality.p.79)から引用。

    ボブ:それから私たちはオーストラリアに帰って、700エーカーの農場とたくさんのヤギを買った。そのあとの洪水でそれを失い、病気になりました。ロスリバーウィルス感染症にかかりました。それですべてを失った。ロスリバーウィルス感染症は一、二年の間は本当にひどかった。それでも、そんな最中でもいつも内側に幸福感がありました。もしそれが以前に起こっていたら、きっと狂っていたでしょう。自分を撃ち殺していたでしょう。それほどの心配とストレスでした。でも幸福感が常にあったのです。

    ジェームズ:それは単に自分がいないと知っていたから?

    ボブ:自分をちょっと脇に置いてみると、繊細なエッセンスが幸福感として現れます。ニサルガダッタがこう言いました。「私はただネガティブにしか言えない。もう何も悪いことはない」。これは崇高とかすごいとか何とか言うことはできないものです。そして悪いとかダメとかとも言えない。それはただあるがままです。そこには幸福感があります。それは原因のない喜び。原因のない愛と慈愛と呼んでもいい。

    以下は(Living Reality.p.128)から引用。

    ボブ:何年も前、ニサルガダッタのところにいた頃はひどい状態でした。彼は言いました。「私が誰かを助けるためにできるのは、もう助けが要らないところまで連れていくことだけだ」。そして彼は、私が私だと信じていることが本当かどうかを調べさせるだけでそれをやりました。彼の指示するように調べてみたら、私は私の信じているようなものではないとわかったのです。その日から今日まで、もう助けは必要なくなりました。それは、事件や問題が起きないということではありません。何年にもわたって、私たち(ボブとバーブ)にあらゆることが起こりました。でも自分という束縛から解放されたおかげで、幸福感があります。それはもともとあなたにもあるものです。あなたはそれをすべて知っていて、今までの人生で何度も垣間見ています。でも、外側の世界に焦点を合わせるあまり見落としてきました。だから私は、あなたがこれを聞くとあなたに共鳴が起こると言っています。なぜならそれがあなたの自然な状態だからです。

    以下はYouTubeから(2017.1.1ミーティング)

    マハーヴァキヤの大格言では、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言います。その「それ」とは何でしょう。私たちは「それ」を耳にします。「それ」はいい、とか。あなたはその「それ」を調べたことはありますか?

    あなたは彼らが何のことを言っているのか、すなわち彼らが五つの独立した要素のことを言っているということを知るでしょう。すなわちヒンズー教の五つの要素。彼らがそれを、サット・チット・アナンダ・ナマ・ルパと呼ぶ時、それは存在、意識、至福、名前、形です。そして名前と形は実在ではありません。それは見せかけです。それは現実のものではありません。それは見せかけだけのものです。


    でも、サット・チット・アナンダは実在です。サットは存在、チットは意識、アナンダは至福です。誰か今この瞬間に存在していない人はいますか? 誰かこの瞬間に意識のない人はいますか? 誰かこの瞬間に存在することを愛していない人はいますか? それは至福の別の言い方です。私たちは至福という考えに凝り固まり、取り違えたり見失ったりしています。私たちはそれをそのままの状態で永遠に留まる何か恍惚とした高揚した精神状態のことだと思っています。


    しかし、至福とは、あなたが前日ぐっすり眠った時に、至福の眠りだった、と言うように、それは平穏すなわち平静です。そこには正しい悪い、高い低い、心地良い悪いはありません。それは単に存在する喜びです。存在の喜び。ただ単に存在への愛です。この瞬間の直接性の中で、自然に起こって常にそこにある。それが彼らの言っていることです。


    あなたが、「我はそれなり」と、そして彼らが、「それとして生きる」と言う時、彼らは何のことを言っているのでしょうか。

    存在として生き、意識として生き、存在する喜びとして生きること。それをまた別の表現で言うと、存在する意識は至福であるということ。サット・チット・アナンダ。存在する愛情のこもった意識。その本質を大切にしてください。自分自身を愛してください。

    私たちは、生きているかぎり様々な問題にぶち当たります。生老病死は避けられません。セイラーボブもパーキンソン病を患っています。
    セイラーボブの教えは、ある時覚醒が起こって、あとは悩みなく生きられる教えではありません。

    セイラーボブの教えは、ある意味では幸福になるための教えではありません。幸福も不幸もマインドが作り出していると理解するための教えです。
    問題が起こったら、それは誰に起こっているのかを何度も何度も思い出して、今ここを生き生きと生きていく教えです。

    私にも、(もう何が起こっても大丈夫)という幸福感が芽生えました。これからも問題や困難は起こってくるでしょう。でもその時に何度も何度もセイラーボブの教えを思い出して乗り越えていきたいと思っています。