2021/11/27

部派仏教(アビダルマ)倶舎論②

心(しん)と心所(しんじょ)

五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。

五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に不随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)

ここまでは前回のブログに書きました。心と心所について、もう少し詳しく書きます。五根(眼・耳・鼻・舌・身)が、認識対象である五境(色・声・香・味・触)と触れ合うと、そこに反応が起こって認識が生じる。その認識そのものを心(しん)といいます。

例えば、レモンを見ると、その色(いろ)や形が認識される。それが心(しん)。それに付随して、(すっぱいかも)(食べたい)(新鮮そうだ)というように、心に付随して起こってくる反応を心所(しんじょ)という。

心所は大きく分けて六つのカテゴリーがあり、その中に46の構成要素がある。どんなものがあるかは、Wikipedia 五位 を参照してください。全部は説明できないので一つだけ説明すると、例えば夏の暑い日に冷たいかき氷を食べると、受(じゅ:感受作用)という心所が起きる。

受には三種類(楽・苦・不苦不楽)の三種類があり、この場合は楽という受が起きる。なぜなら、かき氷を食べることは好ましいことだから。もし、かき氷を大嫌いな人が、人から無理やり食べさせられた場合は、苦という受が生じる。

では、心と心所は、私たちの体のどこあるのか。現代人なら脳の中にあると考えるでしょうし、昔の人なら心臓の中と考えるかもしれません。でも、倶舎論では、心と心所は特定の空間には存在しないと考えます。あえて言うなら、体全体に遍満しているということになります。

心所は心(しん)から起こり、心(しん)は五根によっておきます。五根は色(しき:物質)であると書きました。でも、物質ではない、もう一つの根があります。それは意根といって、心のことです。

私たちが、何かを思い出したり、何かを考えたりして、その結果として心所が起きる場合、具体的な根(原因)なしで起きるのは、おかしいということになり、倶舎論では物質ではない根があるはずだと考えました。

でも、その根は物質ではない。その根はどこにあるかというと、一刹那前の心が根として働くのだという理論づけをしました。

「私」とは、肉体を構成する色法と、そこに遍満する心・心所を合わせた全体の仮称であり、私などという実体はもともとどこにも存在しないということが重要です。この世で生きる生命すべてが無我であり、それは諸要素の集合体としてのみ機能しているということ。諸法無我です。

刹那滅

仏教では、あらゆるものの存在を刹那滅(せつなめつ)という考え方でとらえます。刹那とはきわめて短い時間のこと。あらゆるものは、無数の基本的要素が法(ダルマ、縁起)によって因果関係を結び、存在を構成します。ただし、その存在は一瞬間(刹那)だけだというのです。瞬間的に物事は起こり、瞬間的に消滅する。そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また瞬間に起こり、また消滅する。

私たちにとって、持続して存在しているように見えているものは、瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものであるという考え方を、刹那滅といいます。

私たちは通常、現在だけが実在であり、過去や未来は実在しないと考えています。例えば今、音楽を聴いているとする。音楽は音の連続なので、ある瞬間に音が聞こえる。その音を聞いているのはその刹那だけ。次の瞬間になれば、その音は消滅して別の音が現れるため、前の音はもう存在しない。また、未来の音はまだ現れてはいない。あるのは、この刹那に現れている音だけ。これが一般的な考えかたです。

しかし、倶舎論の刹那滅では、「現在の法が実在しているのと同様に、未来の法も過去の法も実在している」と考えます。その理由は三つ。一つは、煩悩の発生要件。私たちは様々のものを対象として煩悩を起こす。過去のものや未来のものを対象として煩悩を起こすこともある。ということは、過去や未来のものも実在であると考えざるえない。

二つめは、「認識できるものは実在する」というインドで承認されている考え方。「私たちは、実在するものしか認識できない」という理屈。過去や未来のものでも、認識している以上は実在していると考える。

三つめは、業の因果法則。今現在作っている業が、遠い将来、その結果を生むとするなら、その時間的に隔たった未来の法が実在すると考える。現在行っている業が、未来の法に信号を送り、因果則が成立すると考える。

これを説明するのには、映画のフィルム映写機を使うと理解しやすい。映写機は、上下二つのリールとその中間にある投射装置でできている。上のリールには、今から上映されるフィルムが巻かれていて、投射済みのフィルムは下のリールへと巻きとられていく。

フィルムというのは、アニメーション映画かパラパラ漫画を想像してもらえばわかるように、登場人物を一コマ一コマ、少しずつ移動させることで動いているように見える。コマの中の登場人物は静止している。倶舎論では、私たちの世界がそうなっているという。

もし世界が、一コマずつ一刹那に生じては消えていくものだというなら、あらゆる存在物は静止したものであるということになる。ところが、私たちの認識能力は、それが連続したものとしか認識しないため、世界が変化しているような錯覚をする。「私」という存在についても同様に、そこに「私」がいて、時間とともに変化しているように思ってしまう。

ただし、この映写機の例えには一つ問題がある。映写機の未投射のフィルムは順番が決まっているが、私たちが経験する世界では、未来は確定していない。そのため、未投影のフィルムの並びは決まっていない。これが、倶舎論の説く時間論。

五位七十五法では、この世を構成する要素は七十五種類の法(要素)でした。しかし、その法の中に時間は含まれていない。つまり、時間は実在ではなく、実体のない仮設のものということになる。実際には時間などというものはなく、私たちがそう錯覚しているにすぎない。

フィルムの説明で、倶舎論の説く刹那滅はわかったと思うのですが、では、どうして前の一コマと同じような一コマが次に現れるのかという疑問がわいてきます。一コマ一コマ生じては消えているのであれば、どうしてまったく別のシーンが登場しないのでしょうか。

実際問題として、前のコマと全く関係がないコマが次に現れたら、映像はつながらず、無茶苦茶になって、何が何だかわからなくなると思うのですが、それが連続しているかのごとくに、似たような景色が現れるのはどうしてでしょうか。

それは因果(いんが)によってです。倶舎論では「六因(ろくいん)、五果(ごか)」という因果の法則で説明します。六つの因(げんいん)によって、五つの果(結果)をもたらすというものです。その因の一つに同類因(どうるいいん)というものがあります。

同類因とは、法(構成要素)が未来から現在へ、現在から過去へと変移する際に、「未来に存在している法の中から、現在とよく似た法」を引っ張ってこようとする傾向をもっているというものです。

ある法(構成要素)が現在に現れてなんらかの作用を行うと、それはおのずから、あとに自分と似た法を引っ張ってこようとする一種の継続力を生む。したがってもし特別な事情がなければ、その直後には、それと同類の法が現れることになる。

このプロセスが連続すれば、「同じ法がずっと連続して現れ続ける」ように見えるという状態になります。しかし実際には別の因果則の影響を受け、連続性が断たれる場合も多い。

例えば、テーブルの上に一個のリンゴがあったとする。それは色法でできている。細かく言えば、色・香・味・触の各法でできている。もし、他の因が作用しなければ、そのリンゴはずっとそのままということになるが、実際にはそうならない。

一見、何の変化もないように見えるリンゴでも、半年も置いておけば、やがて腐ってしまう。あらゆるものが実際には少しずつ変化していき、年月とともに姿を変えてゆく。花瓶や石でさえ、長い年月の間に姿を変える。

アビダルマの世界にも、永遠に変化しないものはない。諸行無常である。

初期仏教では、こんな複雑な理論を展開することはなかったのに、部派仏教では複雑な理論を発展させました。二千年前に、これほど難しい理論を発展させたというのは驚きです。

この記事は 仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫) を参考、拝借して書いております。興味のある方はぜひご一読を。

参考文献
仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) 

2021/11/20

部派仏教(アビダルマ)倶舎論①

釈尊のもともとの教えは対機説法(悩みを持つ個人に対して個別に説いた教え)であり、決まった聖典というものはありませんでした。釈尊の死後、弟子たちによって、釈尊が語った教えが口頭で伝承され、それがのちに、ニカーヤ(阿含経:あごんきょう・アーガマ)という一連の経典となりました。阿含経はそうした断片的な教えの総称のことです。弟子たちは、そうした断片的な教え(ニカーヤ:阿含経)をたよりに修行をしていました。

釈尊の死後100年ほどたつと、教団が分裂を始めます。最初は大きく二つに分裂し、その後さらに20ほどへと分裂して、たくさんの部派が生まれます。それを部派仏教といいます。

部派仏教は、のちに起こった大乗仏教(乗は乗り物、教義を意味する。偉大な教義の意)側から、小乗仏教(劣った教義)と呼ばれました。大乗仏教は北伝といって、中国やチベット、朝鮮半島、日本に伝わりました。小乗仏教はスリランカを経由して東南アジアに伝わり、現在もタイなどで存在します。そこでは今でも釈尊存命時と同じように、出家した僧は結婚することなく、托鉢によって生計を立て、修行に専念しています。彼らは、自分たちの仏教をテーラワーダと呼び、それこそが釈尊以来の正統であると自認していて、日本の仏教(大乗仏教)を、僧侶たちの生活も含めて、堕落したものと見なしているそうです。

釈尊が亡くなって300年から900年後、部派仏教ではさかんに阿含経の解釈研究がなされ、解説書が作られました。そうした営み、文献研究をアビダルマ(法:ダルマについての研究という意味)といいます。そのため部派仏教はまた、アビダルマ仏教とも言われています。

なぜそのような研究、解説書が必要だったかというと、断片的な教えではなく、体系化された一つの解釈書を必要としていたからです。

部派仏教の教えは、大半の原典が残っていないのですが、後世になって部派仏教の教えを解説した解説書がいくつか残っています。部派仏教の中でも特に有力だった部派の一つに説一切有部(せついっさいうぶ)という部派があり、その教えを解説した注釈書の一つが、世親(せしん:ヴァスバンドゥ 400~480年)の倶舎論(くしゃろん:阿毘逹磨倶舎論:あびだるまくしゃろん)です。

僧侶や学者の間では、「唯識三年、俱舎八年」と言われていて、もし仏教の唯識(ゆいしき)の教えを習得しようとするなら、その前に俱舎論を八年間学ばないと習得できないというのが一般論だそうです。それも、漢文やサンスクリッドなどの古代インド語が読めることが前提での話ではないかと思われます。

原典や、それを翻訳したものは、とても私の手におえるものではありません。私でも理解できるものはないかと探して、佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を見つけました。この本は倶舎論の入門書として、とてもわかりやすい説明がされています。私がこれから書くことは、この本をもとにしています。この本はアビダルマの世界観を知ることができ、とても有益な本なので、興味のある方は、ぜひ一読されることをおすすめします。

般若心経をはじめとする日本の仏教(大乗仏教)では、「すべてが空である」ということが強調されますが、倶舎論ではそうではありません。「この世の多くの存在は虚構だが、その奥には間違いなく実在するものがある」と言います。

このブログの初期仏教の回、五蘊のところで、「私」は実在ではないと書きました。その思想が発展して、物も実在ではないと説くようになりました。ミリンダ王の問いのところで出てきたように、例えば車は実在か? 車輪が車なのか? 荷台が車なのか? そうした様々な部材の集合体を車と呼んでいるだけで、車という存在は実在ではないと説きます。

ほとんどすべての物は、私たちが勝手に名前をつけてそう呼んでいるだけで、実在ではありません。では、そこには何もないかというと、そうではありません。そこには、その物を構成する要素があると説きます。仏教では、その構成要素のことを法(ほう)と言います。また、法には原理、法則という意味もあります。その法によって世界は構成されている。それが倶舎論のおおもとの世界観です。

釈尊は、無我、無常を説きました。私はおらず、不変なる物(常なる物)は存在しないと説きました。では、私たちが、そこにあると思う人や物は一体何なのか、どうしてそう思うのかということを定義する必要があります。そこにあるのは、実在としての私や物ではなく、構成要素、法則、原理(法:ダルマ)であり、その理論的裏付けとして、部派仏教では五位七十五法が生まれました。これは、五蘊とは別の分類法です。(この他にもいくつかの分類法があるのですが、仏教は時代によって、解釈する人たちよって変化して、様々な分類法が生まれました)

五位七十五法

説一切有部の世界観では、我(が)や実在としての物の存在は否定されます。ただし、個々の法(自性を維持するための法則・原理、構成要素)は有るという立場をとります。それゆえに、説一切有部と呼ばれています。説一切有部では、あらゆる存在を五つに大別し、それをさらに七十五に分けて定義しています。これを五位七十五法と言います。

要するに、現象としての世界のすべては、七十五の構成要素(法則・原理)に分けることができるというもの。

そうして分類することで何を言おうとしているかというと、この世界を構成する人も物も実在ではなく、それを構成する構成要素(法則、原理)のみがあるということを言おうとしています。五位七十五法の全体を説明するのは私の手に負えないし、このブログの趣旨でもないので、概略だけ書きます。

五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。

五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に付随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)

これでは何のことかわからないと思います。Wikipedia 五位 を読んでも、やっぱりわからない。佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を読んでもらうのが一番いいと思うのですが、それでは先へ進めないので、私なりの勝手な要約で説明させていただきます。

例えば、レモンがテーブルのあったとします。物質であるレモンが色(しき)。レモンを見て、こころ(意識、脳)の中に映像として現れるものが心(しん)。その、こころに現れた映像(心)に不随して起きる(すっぱそう)(かじりたい)という心(こころ)の反応が心所(しんじょ)。

そうした色、心、心所がバラバラにならないように結びつけておく一種のエネルギーを心不相応行の一つの得(とく)という。他にも心不相応行は13あるが、説明は省略。それらは、物質でも心でも心所でもない、一種のエネルギーのようなもの。

無為法(むいほう)とは、物が存在する場所としての空間(虚空:こくう)や、煩悩が消えた状態(択滅:ちゃくめつ)など、因果関係によって生滅する可能性のない法のこと。有違法(ういほう)とは、因果関係によって生滅する可能性のある法のこと。色・心・心所・心不相応行の四つは、因果関係によって生滅する可能性のある法なので、有為法と呼ばれる。

「物は存在するのか?」という、このブログのテーマに関係するのは色(しき)なので、色(しき)について説明します。色(しき)は物質的なもの、と書きました。

例えば、石を見た場合、常識的な考え方として、そこに石があるから石の色や形が見えるのであり、手に持てば石の肌触りや重さを感じるため、そこに石があると考えます。ところが、倶舎論の場合は、その逆です。

実在するのは、色や形、肌触りや重さだけです。それを五感を使って認識し、その色や形、肌触りや重さという要素から、石を意識の中で想定しているにすぎません。実在するのは、その構成要素である色、形、肌触り、重さだけです。その構成要素のことを色(しき)と言います。

色(しき)は11あります。そのうち、無表色(むひょうしき)は、説明が難しいのと、このブログに関連していないので省略。(仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) p122参照)。残りの10の色(しき)について説明します。

眼・耳・鼻・舌・身(げん・に・び・ぜつ・しん)…この五つを五根(ごこん)と言う。認識する側の物質。

色・声・香・味・触(しき・しょう・こう・み・そく)…この五つを五境(ごきょう)と言う。認識される側の物質。ここに出てくる色(しき)は、色(いろ)と形と言う意味。

五根は、五感をつかさどる感覚器官。その五根によって認識される物が五境です。眼で何かを見た時の、いろや形を色(しき)と言い、耳で聞いた音を声(しょう)、鼻で嗅いだものを香(こう)、舌で味わったものを味(み)、身(しん:体)で触れたものを触(そく)と言う。

なぜ物質を五根と五境に分けているかというと、根は心とつながっているからです。例えば、眼で何かを見ると、その認識は心の中で起きる。眼は物質でありながら、心とつながっている。眼は他の物質とは異なる。石は心とは結びついていない。同様に、耳・鼻・舌・身も心と結びついている。心に結びついている法(根)と結びついていない法(境)で物質を分類しています。

ここで重要なことは、倶舎論では、五境を物質として分類しているということ。例えば、石を手に取った場合、石があるのではなく、手が感じる肌触りと重さという触だけが実在だということ。レモンを見た時、レモンがあるのではなく、眼が認識する黄色とレモンの形だけが実在だということ。色(いろ)や形を物質として分類しています。

石やレモンは心の中で勝手に想像したものであり、実在ではなく、仮想の存在であり、法ではない。実在するのは、石の肌触りやレモンの色形だけと説く。

倶舎論では、色(しき)を認識する物質(根)と、認識される物質(境)を分けて分類している。でも、眼は認識される物質でもあるのではないか、という疑問がわくかもしれませんが、倶舎論では、眼が物を見ているのではなく、眼の奥にある眼根(げんこん)という物質が物を見ていると説きます。

同様に、耳の奥にある耳根(にこん)が聞き、鼻の奥にある鼻根(びこん)が臭いをかいでいます。眼そのものは眼を守るための単なる土台であり、物を見る能力がないと説きます。そのため、眼が見えない時は、眼に何か問題があるのではなく、眼根に問題があるのだといいます。

では、その眼根を見ることができるのかというと、それは眼の奥に細かく点在する物質であり、決して見ることができないと説きます。他の五感の構造も同じです。

まとめるとこうなります。倶舎論では物質世界を、「認識する物質」と「認識される物質」に厳密に分ける。両方を兼ねるものはない。認識する物質とは、肉体に備わる五種の感覚器官、(五根:眼・耳・鼻・舌・身:げん・に・び・ぜつ・しん)。それは「認識されることがない」から、肉体上に備わっていても、私たちがそれを認識することはできない。

「認識される物質」とは何かといえば、その五根以外のすべての物質。石を見る時、石は「認識される物質」ではなく、石の「いろとかたち」が眼によって「認識される物質」。石そのものは仮想のものであり、実在ではない。

では、その「認識する物質」と「認識される物質」は何でできているか。それは、極微(ごくみ)という粒子でできている。粒子は、四大種(しだいしゅ:地・水・火・風)と呼ばれる基本粒子と、所造色(しょぞうしき:眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触)と呼ばれる可変粒子の組み合わせでできている。詳しい説明は省略しますが、要するに、色(しき=物質)はすべて粒子でできていると説いています。

参考文献
仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) 

参考サイト

2021/11/13

物は実在か?

セイラーボブは、「物は実在ではない」と言いました。その理由を列挙すると、だいたい以下のようなものでした。

1 「実在」の定義は、「永遠に変化しないもの」であり、永遠に変化しないものなどない。どんなものでも、時とともに形を変え、やがては消えていく(見えなくなる)。

2 現代の量子力学において、極微の粒子は質量を計測することもできないようなものであり、物が存在するとは言えない。私たちはスカスカの空間を見て物だと思っている。

3 物は言葉によって概念化されたものであり、実在とは言えない。

では、仏教では物の実在についてはどう言っているのかというと、上記の三つと同じようなことを言います。それは、時代によって、様々に変化する仏教の中で、いろんな説かれ方をします。

釈尊の直接の教えである初期仏教では、五蘊(ごうん)が説かれ、それによって、「私」というものは要素の集まりにすぎないと説明されました。それがのちに「私」だけではなく、あらゆる物がそうであると説かれるようになりました。

そして、あらゆる物も要素の集まりであり、物としては存在するけれども、永遠に変化しないものではなく、時とともに変化して消えていくため、実在ではないと説きます。これは諸行無常と言われ、上記の 1 と同じことを言っています。

この時点での仏教では、物は存在するけれども、実在ではないという解釈です。ここまでは、これまでのブログで書きました。やがて仏教は時代とともに変化していき、大乗仏教にいたっては、物は存在しない。一切は空(くう)であるという空の理論へと変化していきます。

その変化した仏教について書く前に、一般論として、私たちがどういうふうに物を認識しているのかについて考えてみます。これは、唯識の本を読むと出てくる話で、これから書く内容は、そういう本をもとにして書いています。

私たちが物を視覚によって認識する場合、どういうしくみで認識するのか考えてみます。

例えば、台所のテーブルの上に一個のレモンがあったとします。それを私たちが見た時、そのレモンに反射した光(電磁波の波長)が、眼の角膜、水晶体を通り、網膜へと届き、網膜上にレモンの像が映ります。

網膜には識別機能がないので、何らかの形で脳へと伝達されて、脳がレモンを識別しているとされています。しかし、レモンの像がそのまま脳に伝達されているわけではないようです。というのも、脳には像を映し出す装置がないからです。脳にはスクリーンもディスプレイもなく、神経、タンパク質、脂肪の塊です。

網膜から脳へは、像が映像として伝達されるのではなく、なんらかの形で信号化されて、神経経由で脳へ伝達され、脳はその信号を読み取って、何らかの形で、レモンという像を再生しているはずです。そして、脳はその像を見て、過去の学習体験と結びつけ、「あ、レモンだ」と思います。場合によっては、酸味が想起され、口の中に唾液が出てくるかもしれません。レモンが好きな人は、手に取ってかじってみようと思うかもしれません。

さてここで問題なのは、そのレモンが本当に存在していると言えるかということです。レモンに反射した光は信号に変えられて脳に届き、脳はその信号をレモンというものに作り替えて映像化します。その映像を脳がレモンだと認識しています。

つまり、私たちは、実際のレモンを見ているのではなく、脳の中で再生されたレモンを見て、過去の記憶に照らしてレモンだと認識しているということになります。仏教的に言うならば、心が作り出した像を心が見ているということになります。

言い方を変えると、私たちは心が作り出した世界を見ていることになり、心がなかったら世界は存在しないことになります。

何をバカなことを言っているんだ、実際にレモンがあるからレモンが見えているんだろ、と言われるかもしれません。

でも、例えばそのレモンをかじろうとして手に取って見たら、それがロウで作られた食品サンプルだったとわかったらどうですか? 「本当のレモンじゃないのか、ちぇ!」となります。つまり、本物のレモンを見てはおらず、脳の中で再生された架空のレモンを見ていたことになります。もし、直接そのレモンとおぼしき物を認識できていたなら、食品サンプルだとわかったはずです。

長野県の燕岳(つばくろだけ)の山小屋から、満天の星空を眺めて感動したことがあります。空を埋め尽くす星々は実在するのでしょうか? 私たちが肉眼で見ている星の光は、何万光年も昔に星から放たれた光を見ているのであって、今この瞬間の光ではありません。ひょっとすると、もう消滅して存在していない星を見ているのかもしれません。

私たちは、自分の外にあるものが実在であるかどうかを認識する機能を持っていません。脳の中で再生された像を見て判断しているにすぎません。言い方を変えると、世界は脳の中にある、脳の中にしかないということになります。

また、バカなことをいうな、と言われそうです。では触覚はどうなんだ。例えば、石は実在か。石を手に取ってみれば、手が石の肌触りを感じ、石の重さを感じるから、石は実在するではないかと言われるかもしれません。

でも、手が感じているのは、石に触れている肌触りと重さという情報にすぎません。それを石たらしめているのは、私たちの脳です。脳が肌触りと重さという信号を石だと認識しているにすぎません。正確な言い方をするなら、「私は私の手の感触、感じた重さを私の脳内の情報に照らしてみて、これは石だと推定しています」ということにすぎません。

私たちは、五感でしか世界を認識することができません。そして、五感で受け取った情報を脳で再構築して、それを認識しています。世界は脳の中にあるにすぎないということになりませんか? 世界は外側にちゃんとある、そう言っておかないと、病院に連れていかれるかもしれないので、世界が実在だということを否定はしません。でも、正確に言うなら、「私たちは世界を直接認識する方法、機能を持ち合わせていない。経験から、そこに世界があると思っている」ということになりませんか?

もし五感を失くしたら、どうやって世界を認識することができますか? そこに世界はあると、どうやって知ることができますか? 五感を使わずに世界を知るためには、体の外に出なくてはなりません。そんなことができる人がいるとは思えません。

確かにそこには何かがある。
でもその何かが単なるエネルギーや波動のようなもので、それを脳が再構築しているとしたらどうでしょう。

イルカやコウモリは人間が聞くことのできない超音波を聞くことができます。ボア科やニシキヘビ科の蛇は、人間が感知することができない赤外線を感知する器官を持っています。鳥や一部の昆虫は、人間には見えない紫外線を見ることができます。逆に、猫や犬は人間と違って、二色しか見えないと言われています。彼らは、私たちとは違う世界を見ています。

物は本当に実在するのでしょうか?
私たちは、それを確かめるすべを持ち合わせていません。
仏教は様々な説き方で、「物は実在ではない」と説いています。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム

2021/11/06

悟り

釈尊が説いた悟りとは一体どんなものだったのでしょうか? 実際には、釈尊以外には知りえないことだと思います。でも、仏典から、それがどんなものだったのかを、おぼろげながら知ることは可能だと思います。

中村元先生、佐々木閑先生の本やYouTube、その他何人かの仏教学者の本を読むかぎり、仏教でいうところの悟りとは、エンライトメントや覚醒のようなものではないようです。中村元先生は初期仏教(釈尊の直接の教えであるニカーヤ・阿含経)の専門家であり、佐々木閑先生は律(仏伝と僧侶が守るべきルール)の専門家です。どちらも、釈尊の直接の教えである初期仏教の研究者です。

釈尊が亡くなった後すぐに、釈尊の教えを正しく伝承するために、500人の阿羅漢(悟った弟子)たちが集まって、第一結集(だいいちけつじゅう)という仏典編纂会議(五百犍度:ごひゃくけんど)が開かれました。(参考:佐々木YouTube4-3)

つまり、釈尊が亡くなった時点で、少なくとも500人の弟子が悟りをえていたということです。また、ヤサの出家の時の話では、釈尊の話を聞いただけで61人の人がすぐに悟ったと出てきます。(参考:佐々木YouTube2-24

もし釈尊の説く悟りが、どこかのインチキマスターたちが説くような、特別な人に偶発的にしか起きないようなものであるなら、これほど多くの人たちが悟るということはありえないと思います。
また、悟った人たちが、たちどころに悩みが消えて、あとは至福に包まれて暮らしたというたぐいの話はどこにも出てきません。

中村先生は、悟りとは到達するものではなく、日々の不断の努力だとおっしゃっています。(前半60分まで参照)


佐々木閑先生による仏の悟りの内容

 

 佐々木閑先生は、努力によって自分を変えていくことも悟りだと言ってみえます。


仏教の悟りは突然の啓示ではなく、学びだと言ってみえます。


仏教の本をあれこれ読んでも、釈尊に突然のエンライトメント、覚醒のような出来事が起こって、あとは至福に包まれて暮らしたという話は出てきません。

初期仏教(釈尊の直接の教え)で説く「悟り」とは、修養、修行による煩悩の克服であり、自己鍛錬によって心の内側を変えていくという教えであり、神秘的な要素は何もありません。ましてや、ある時突然起きるエンライトメントや覚醒のことではありません。

私のこれまでの半生は、ありもしないエンライトメント、覚醒を手に入れることがその主要な目的でした。なんと愚かな囚われだったことでしょうか。もっと早くセイラーボブに出会っていたなら、もっと早くちゃんと仏教を学んでいたなら、もっとマシな人生だったと思います。

そして今も、多くの人が、エンライトメント、覚醒を目指して、怪しい宗教やセミナー、本へと惹きつけられ、その犠牲になっています。彼らの多くは、かつての私と同じように、様々な解決しようのない悩みや不安を抱えていて、エンライトメント、覚醒に救いを求めるのです。

私にとって、エンライトメント、覚醒は、逆転満塁さよならホームランか、トランンプのジョーカーのようなものに思えました。それさえ手に入れれば、あとは何の悩みもなく幸せに生きていけるものだと思い込んでいました。

それが、いかに稚拙なおとぎ話であるかということに、セイラーボブに会うまで気づきませんでした。エンライトメント、覚醒という言葉は時代とともに新しい言葉へと置き換わり、現在では、目覚め、変容、癒しという表看板をかかげています。目覚める「私」、変容する「私」、癒される「私」が果たして実在するのでしょうか? 釈尊もセイラーボブも、そんな「私」はいないと言っています。

悩みや問題から逃避して、稚拙なおとぎ話に救いを求めるのではなく、自分自身で悩みや問題と真正面から向き合って、心の在り方に気づいていく以外に救いの道はないのではないでしょうか。エンライトメント、覚醒などというお手軽な方法はどこにもないことなど、普通に考えればわかることです。

これは、自分自身に自戒の意味を込めて書いています。私は自分が幼稚で、誤ったものの見方にいかに簡単に染まりやすい人間であるかということをよく知っています。
しっかりしないと、またフラフラと精神世界コーナーへ行って、くだらない本に影響されてしまいます。

アカデミックな仏教の本を読むかぎり、エンライトメントや覚醒は仏教の世界にはありません。そこにあるのは、釈尊が定めた法による修行の世界です。

仏教の悟りはエンライトメントではありません。
もし仏教の悟りがエンライトメントであるなら、このブログに仏教のことを書く意味はまったくありません。
このブログは、そこに悟る「私」はいないということを書いているのですから。

ボブ:エンライトメントなどというものはありません。それを達成するあなたもいなければ、時間も未来も存在しません。そしてもしあなたが、静かに座ることに心が動かされるなら、ぜひとも静かに座ってください。「私は在る」とともにいてください。でも、どんな期待もしてはいけません。瞑想している瞑想者を作り出さないでください。静かなマインドとはノーマインドのことです。ノーマインドの中では、分離した自己も他者も存在しません。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp249より)

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参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) ☆
唯識の思想 (講談社学術文庫) (「やさしい唯識」の新装版)☆
唯識入門(「唯識十章」の改訂版)
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム☆ 『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)
般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)コスモロジーの創造: 禅・唯識・トランスパーソナル 龍樹・親鸞ノート空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)
仏陀のいいたかったこと (講談社学術文庫)
お経の意味がわかる本 (仏教を学ぶ) 
仏教入門 (岩波新書) 
ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門
鈴木大拙 (講談社学術文庫)
一休―狂雲集 (禅入門7)
名僧列伝(二) (講談社学術文庫) 

2021/10/30

初期仏教 無我・五蘊(ごうん)

前回に続いて、初期仏教の基本概念について。

無我説(むがせつ)

ここでいう我(が)とは、自己の存在の中心に意識されている「われ」という観念であり、わが生存の主体と考えらるものであり、さらに具体的には、身体の内部に潜む唯一で不滅な魂、霊魂を意味している。無我とは、その我は存在しないという意味です。

「およそ自分の所有とみなされるものは常に滅するから、永久に自己に属しているものはない。またわれわれは何ものかをわれわれであると考えてはいけない」。人間はいろいろな要素から構成されているわけですが、「われわれ人間の具体的存在を構成している精神的または物質的要素ないし機能は、いつでも自己と解することはできない」(中村元の仏教入門)

仏教では、ウパニシャッド(ヴェーダ)でいうような、認識主体としての自己であるアートマン(我)を認めませんでした。そうなると、主観と客観という対立は克服超越される。それが無我説です。私はいないということによって、「私のもの」からの執着を捨てさるのです。無我説は非二元そのものです。

なぜ無我なのかということを初期の仏教では、我(が:自己)には自性(じしょう)がないから、つまり、自己は実在ではないからと説明しています。詳しくは、後述の中村元先生のYouTube(ミリンダ王の問いの解説)を見てください。

五蘊説(ごうんせつ)

五蘊(ごうん)とは、個人の身心を構成する五種の要素のことです。初期仏教では、「私」という存在はどこにも存在しないといういうことを説明するために、「私」と呼ぶものが何でできているのかを分析することによって、そのどこにも「私」は存在しないということを説明します。その「私」を構成する要素のことを、五蘊と呼びます。

「五陰(ごおん)とも。仏教で人間存在を構成する要素をいう。また人間存在を把握する、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つの方法をいう。色蘊は物質要素としての肉体。受蘊は感情、感覚などの感受作用。想蘊は表象、概念などの作用。行蘊は受・想・識以外の心作用の総称で、特に意志。識蘊は認識判断の作用または認識の主体的な心。また宇宙全体の構成要素ともされ、絶えず生滅変化するものなので、常住不変の実体はないとするのが、仏教の根本教説の一つ。」出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

以下は、中村元の仏教入門 P63から引用

「五蘊説」というのがあります。古くから言われていますが、個人存在を、変移しつつある五種の構成要素の群れに分解してしまう考え方です。「五蘊説」の蘊とは、集まりということです。古い訳では、「五陰(ごおん)」と訳しています。その五つとは何かというと、色・受・想・行・識です。つまり物質性と、感受作用と表象作用と形成作用と識別作用の五つに分解してみたものです。

「色」というのは、感覚的・物質的なもの一般、「受」というのは意識のうちに何らかの印象を受け入れる、ほぼ感覚と感情とを含めた作用。「想」というのは、心の内部に像を構成する、ほぼ知覚や表象を含めた作用。「行」というのは、能動性または潜在的形成力。「識」というのは、対象それぞれを区別して認識する作用。

個人存在はこれらに五蘊から構成されている。この五つはわれわれの存在の特殊は在り方を示している。それをダンマ(dhamma, サンスクリットdharma)と言っているわけです。ダンマというのはいろいろな意味がありますが、人間の生存の特殊な面、特殊な在り方という意味です。

 つまり、われわれの存在は、これら五蘊、すなわち五種類の法の領域において保持され、成立している。そこに成立しているすべてのものの集まりを総括して、まとめて、世俗的立場から見て、それをかりに「われ」「自己」と呼んでいる。しかもわれわれの中心主体は、そのいずれの法の領域のうちにも認めることができない、と教えるわけです。

 われわれの存在を構成する一部として、たとえば、物質的なもの、物質的側面がありますね。それについては、「これ(色)は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我である。われならざるものである。非我なるものはわがものではない。これはわれではない。これはわがアートマンではない」、こういう文句で説いています。

さらに五蘊の他の四つ、つまり受、想、行、識のそれぞれについても同じ文句が繰り返されているのです。世の人々は、この色、受、想、行、識のうちのどれか一つをアートマン、自己であると解するかもしれないけれど、いかなる原理あるいは機能も実は本当の自己ではない。また自己に属するものでもはない、このように考えていたのです。

五蘊の説明は佐々木閑先生がわかりやすいです。仏教では、魂、自己の存在を否定しています。自己は五蘊という構成要素でできているが、そのどこにも自己は存在しないということを、五蘊を調べることによって証明しています。



法(ダンマあるいはダルマ)

仏教では実体的な我、アートマンを想定することはなかったが、現実を成り立たせている法則、原理や真理、理法があるとして、それを法(ほう)と呼んだ。五蘊もそのうちの一つ。この真理や理法を悟った人がブッダ、仏。

業(ごう:カルマあるいはカルマン)

業とは、行為、行動という意味。業の法則とは、どんな行為も結果をもたらす、すなわち、善いことをすれば必ず善い報いがあり、悪いことをすれば必ず悪い報いがある。それを避けることはできないというもの。

業は、身体で行うこと、口で言うこと、こころに思うことの三種類があり、それを身口意(しんくい)の三業と言います。身体で人を殴ること、人を助けるのは身業(しんごう)。悪口を言ったり、ほめたりするのは口業(くごう)。人を殴ってやろうとか、人を助けようと思うことは意業(いごう)。善いことをすれば善い報いがあるため、善いことをしなさいということ。

中道(ちゅうどう)

釈迦族の王子として生まれた釈尊は、出家するまでは安楽な生活を送り、出家したあとは激しい苦行を六年間したあと、それを捨て去ったあと、瞑想して悟りを開きます。仏教では、そのような二つの極端な生き方はどちらも人間のためにならない、真実の益をもたらさないとしました。快楽と苦行、二つの極端を避けて、不苦不楽の中道によって真実の認識、悟りを達成する。この中道には、苦と楽のほか、有と無、断(断絶)と常(常住)とがあり、その両方ともを否定することにおいて中道が成立する。

有と無とは、何かが有るとも無いとも、極端な見解を持たないということです。断と常とは、例えば死後も自己が存続するとかしないとかという偏った見解を持たないということです。


四諦八正道(したいはっしょうどう)

釈尊が悟ったあと、最初に説いた四つの真理(四諦)と八つの正しい行い(はっしょうどう)のこと。

「四諦」とは仏陀の説いた四つの真理「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」のことをいう。
・苦諦(くたい) - 現世は生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるという真理を説いたもの。
・集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
・滅諦(めったい) - 物事への欲望と執着をなくせば悟りに至るという教え。
・道諦(どうたい) - 悟りに至るための修行法。

「八正道」
①正見(正しい見解) 四諦を正しく認識すること。
②正思(正しい決意) 「悩みや煩いから逃れたいという思い」「怒らない思い」「他者を傷つけないという思い」
③正語(正しい言葉) 「うそを言わない」「悪口を言わない」「人をからかわない」
④正業(正しい行為) 「生き物を殺さない」「盗みをしない」「淫らなことをしない」「酒を飲まない」
⑤正命(正しい生活) 
⑥正精進(正しい努力) 
⑦正念(正しい思念) 正しい思いをこころに浮かべること。
⑧正定(正しい瞑想)瞑想の修行のこと。

仏陀は、この四つの真理(四諦)を熟知し、中道(八正道)を実践すれば、一切の苦しみから解脱できる説いた。

 

 輪廻について
輪廻とは、五つの世界に生まれ変わる思想のことですが、これは仏教以前のインド社会では当たり前に信じられていた思想であり、当然仏教もその影響を受けています。



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こうして初期仏教を見てみると、大乗仏教のような複雑な教えではなく、どちらかというと、道徳的倫理的な教えの印象を受けます。「悪い行いをするな」「清いこころでいなさい」というような、わかりやすいもののように感じられます。四諦八正道を読むと、身につまされるようなことばかりです。

釈尊直接の教えとされるスッタニパータ、ダンマパダには、少しも複雑なところはありませんが、その後仏教は複雑な思想体系へと変化していきます。

「ミリンダ王の問い」
無我、縁起、五蘊の説明として、このYouTubeをぜひ見てください。セーラーボブの説明を彷彿とさせます。「ミリンダ王の問い」とは紀元前2世紀後半、アフガニスタン・インド北部を支配したギリシア人国家の王であるミリンダ王が仏教に興味を抱き、ナーガセーナ長老(仏教の僧)に対して仏教思想について尋ねた話。パーリ語の仏典として伝わっています。


参考文献

2021/10/23

仏教入門  初期仏教

これからしばらくの間、仏教をテーマに書いていきます。書きたいことは、仏教で教えていることの中にセイラーボブが教えていることと根本的に同じものがあるということです。

最初に唯識(ゆいしき)の本を読んだ時は、唯識思想は個人の実在を認めていない、すべては空(くう)であると説いていて、すばらしい教えだと思い、当初の計画では、大乗仏教、唯識の教えを中心に書こうと思っていました。空(くう)の思想が出てくるのは大乗仏教からであり、釈尊の死後数百年経過したあとのことです。そのため、空の思想自体は釈尊の直接の教えではないといえます。

しかし、仏教のことを学んでいくうちに、大乗仏教や唯識だけでなく、初期仏教(釈尊の直接の教え)の中にも非二元と同じことを説いているものがあるとわかり、そこから書かないといけないと思うようになりました。初期仏教の教える、諸行無常(世界は移ろいゆくものであり、永遠のものではない)や諸法無我(私という存在は実在ではない)の教えは、十分に非二元の思想といえます。

仏教の教えや、大乗仏教の空の思想が非二元の教えとまったく同じだと言うつもりはありません。でも、その根底にある非二元的なものを感じ取ることによって、非二元とは何なのかが、私と皆さんの中で深まればいいなと思っています。

どうやってブログを書いていこうか迷ったのですが、おおまかに年代順に書いていって、その時代のこういう仏教では、こんなふうに個人と世界が実在ではないと説いていますというふうに書く以外に手はないと思うようになりました。

仏教の概略についても説明する必要があり、非二元とは直接関係のないことも書かないといけない。仏教では、時代や系統によって説かれている内容が違うし、矛盾する場合もあります。そのため、私の説明が重複する部分もあるし、前後で矛盾している部分があるように思われるかもしれません。それでも、全体として見ると、ああ確かに仏教の中には非二元的な要素があるということがわかればいいのかなと思います。

予定としては、仏教の大まかな歴史→釈尊→初期仏教→中観(ちゅうがん)→唯識→禅という順に書いていきます。

釈尊、ゴータマ・シッダールタは、釈迦、釈尊、仏陀とさまざまな呼ばれ方をするのですが、このブログでは釈尊と表記することにします。理由は中村元先生、三枝充悳先生が、その著書の中で釈尊と呼んでみえるため、それにならうことにしました。

仏教の大まかな歴史

紀元前1500年ごろ、中央アジアに住んでいたアーリア人がインドへ進出。インドの先住民を支配し始める。自分たちを神と交信できるバラモン階級として位置づけ、ヴァルナ(カースト制度)のもとでインドの先住民を支配した。

やがて、北方より侵入したインド・アーリア人(支配階層、バラモン)と先住民との混血が進んだことや、経済の発展によって階級制度が崩壊し始めたことなどから、紀元前五世紀ごろになると、それまで社会を支配してきたバラモン教に反対する自由思想家(沙門)が多く現れた。沙門(しゃもん:シュラマナ)とは、バラモン教(神託である聖典ヴェーダの崇拝・祭祀の励行・階級制度の厳守)に反対して出現した宗教家、思想家たちのことです。

バラモン教では、生まれながらの階級制度によって、神と交信できるのはバラモン階級だけであり、人々は直接神に願いごとをすることはできず、バラモンにお願いすることが許されているだけでした。そうしたことに疑問を感じて登場してきた人々が沙門と呼ばれる人々でした。

その多くは托鉢(たくはつ)によって生計をたて、放浪したり、森に住んだりして自己研鑽と教授生活をおくり、禁欲、瞑想に励み、人間中心の道徳を説く人々でした。そうした人たちの中から、マハーヴィーラ(前549~477)がジャイナ教を、釈尊(ゴータマ・シッダールタ 前463~383:諸説あって正確にはわかっていない)が仏教を生み出しました。

バラモン教は支配階級(バラモン)の男性に対してだけのものでしたが(長男や弟子にのみウパニシャッドを伝承)、仏教は階級、性別を問わず、万人のための教えであっため、当時の社会情勢からすると、革新的な教えとして広がっていきました。

バラモン教は、生まれながらに階級によって人の身分が決まっていて、神と交信できるのはバラモン階級だけであり、バラモン階級の神官を通じて神に救いを求める宗教であったのに対して、釈尊の説く仏教は自らの努力(瞑想と経の学習)によって、自らの内側(心)を変えることによって幸福を獲得するという教えでした。

バラモン教の根底にあったのは、穢れ(けがれ)の思想であり、人の価値は生まれによって決まるというものでしたが、仏教ではそれを否定し、個人の努力によって幸福になる道を教えました。

釈尊の生涯については後述。釈尊の死後すぐに、すでに悟りを開いていた弟子たち500人が集会(結集:けつじゅう)を開いて、経(釈尊の言葉)と律(出家者が守るべきルール)の確認をします。

当時は文字で記録する文化がなかったため、口述で記憶する方式で伝承されました。釈尊の誕生から、この頃までが釈尊の直接の教えであり、初期仏教(原始仏教)と呼ばれます。

仏滅後、百年ほど経つと教団は二つに分裂し、それが約二十へと分裂します。それぞれが部派を形成し、仏典の解釈にそれぞれ独自の見解を持つようになります。この頃の仏教を部派仏教(小乗仏教)と言います。部派仏教における経典の解釈研究をアビダルマと呼び、アビダルマ仏教ともいいます。

部派仏教では、教理の研究に没頭し、衆生を救済するという仏教本来の目的を忘れ、自分一人の解脱をめざすようになりました。こうしたことの反動から、紀元前後に、自己の解脱よりも他者の救済を目的とする大乗仏教がおこりました。

大乗仏教では、空の思想や唯識思想など、もともとの釈尊の教えではない思想が生まれました。

一方で、仏教はスリランカへと伝わり(南伝)、そこから東南アジアへと伝わりました。現在、スリランカ、東南アジアで残っている仏教は初期仏教に近いもので、釈尊存命中の仏教に近いものです。

他方、仏教はシルクロードなどを通して、多くの三蔵法師などの働きによって中国へともたらされました(北伝)。中国では、大乗仏教がさかんとなり、唐の時代に全盛期をむかえ、日本へと伝わります。中国ではやがて禅と浄土教が生まれ、それも日本へと伝わります。(広済寺HP参照)

インドにおける仏教は、イスラム勢力(ゴール朝)によって1200年前後に完全に破壊され、その後もイスラム勢力(ムガール帝国)がインドを支配したため、仏教は完全に忘れ去られ、ヒンドゥー教の社会へとなっていきました。

釈尊の生涯

釈尊は紀元前五世紀(諸説あり)に、インドとネパール国境近くの小さな部族国家、釈迦族の首長の長男として生まれました。(釈尊の育ったカピラ城が、現在のインドであるかネパールであるかはいまだに論争あり)。母親のマーヤーは釈尊を生んで七日後に亡くなったため、母親の妹(父の後妻)によって育てられました。

釈尊は王様(父親)に溺愛され、種族の長としての英才教育を受けます。16歳で結婚し、子供を一人もうけ、何不自由のない生活を送るのですが、やがてそうした生活に疑問を抱くようになり、すべてを捨てて29歳で出家します。

出家ののち、何人かの師のもとで学ぶのですが、その教えに満足できず、最終的には一人で山の中で修行に励みます。6年間の苦行によって、やせ細り枯れ木のようになるも、悟りは開けず、35歳の時に山を降ります。

山を降りて、川で沐浴をしたあと、村娘から乳糜(にゅうび:牛乳でたいた粥)をもらって飲み、菩提樹の下に行き瞑想し、そこで悟りを開きます。悟りを開いたあと、釈尊は多くの人々に自らの教えを説きました。王族の加護も受け、出家信者は1000人を超え、サンガ(教団)が形成されていきました。

釈尊には、他の宗教の開祖に見られるような弾圧や迫害の歴史はありません。王族の加護を受け、寄進によって竹園精舎と祇園精舎(精舎とは精進する家という意味)を構え、季節によって弟子とともにその二か所の往復を繰り返しながら弟子たちに教え続けました。

生活はきわめて質素で規律正しく、人と争わず、温厚なものでした。80歳になり、郷里に向かう旅の途中で病(食中毒)に倒れて亡くなりました。

釈尊の教えは弟子たちによって受け継がれましたが、生前、自らは一文字も経典を書かなかったため、釈尊が何をどう教えたかのかは正確にはわかっていません。釈尊の死後、生前に釈尊が語ったものを弟子たちが口頭で伝承しました。口頭による伝承は相当長く続き、経典が作られ始めたのは釈尊が亡くなって数百年後のことと言われています。その後、仏教は時代とともに変化していきます。

初期仏教(釈尊が説いた教え)

宗教としての仏教が成立するのは、かなり後になってからであり、初期の段階では宗教ではなく、哲学的な思想集団でした。現在日本に仏教として広がっている様々な宗派は、釈尊のもともとの初期仏教とは、組織も形態もかなり違うものです。

初期仏教では、僧侶が家庭を持つことはなく、日本の寺のように世襲のお寺というものもありませんでした。僧侶が葬儀を執り行うことはなく、托鉢によって身を立てる純粋な求道者でした。

釈尊の説いた初期の仏教がどういうものだったのかを、(中村元の仏教入門 ・原始仏教 その思想と生活 (NHKブックス) ・仏教入門 (岩波新書) )を参考に簡単にまとめてみます。

釈尊の教えた仏教の特性

1 超越者の存在を認めず、現象世界を法則によって説明する。
 仏教では、この世界全体を司るような超越存在を認めない。世界は特定の法則(因果の法則)にそって自動的に展開していくと説く。

2 努力の領域を肉体ではなく、精神に限定する。苦行ではなく、瞑想によって自己の内側を変えることによって、「苦」の消滅をめざす。

3 修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、托鉢によって生計を立てる。修行に時間をあてるため、生産活動を放棄して、人々からもらう余りもので暮らしていく。

基本的な概念

仏教の基本となる教えは、「煩悩を捨てる」ということです。煩悩とは何かといえば、「私」や物に対する執着心のことです。その、煩悩がすべての不幸の始まりであると説き、それを消し去る(捨てる)ことが、釈尊の基本的な教えです。

原始仏教(初期仏教)はニカーヤ(阿含経:あごんきょう)によってその様子が伝えられています。釈尊は次のように考えました。

我々の生きている世の中は苦しみばかりである。必ず歳を取り、やがては病気になって死ぬ。死んだあとはまたどこかに生まれ変わって、そこで同じような苦しみを味わう。永遠に続く輪廻の中で同じような苦しみを味わい続けなければならない。そこから抜け出す唯一の方法は、輪廻のエネルギーとなっている煩悩を修行によって消し去ることである。

釈尊の教えは、釈尊の側からの一方的な提示という例は少なく、ほぼ大部分は、釈尊を訪ねた人々が問い、それに応じて釈尊が答えるという形をとっています。多種多様な問いに釈尊が臨機応変に答えるという、対機説法でした。

釈尊は、当時の哲学者たちが論争を繰り返していた、哲学的な形而上学的(けいじじょうがくてき)な論争に加わることをしませんでした。哲学的な形而上学的な論争とはどういう意味かというと、例えば、「世界は有限か無限か?」「身体と霊魂は同一か?」「悟りをえた人にとって死後の世界はあるのか?」「アートマンは実在か?」といったようなことです。

こうした問題に関して釈尊は肯定も否定もしませんでした。この件に関してよく引用されるのは仏典に出てくる毒矢の刺さった人の話です。ある人が道を歩いていると、倒れて苦しんでいる人を見つけます。駆け寄って見るとその人には毒矢が刺さっています。そしてその人は倒れている人に向かって、「この矢を射たのはどんな人か? バラモンか? 王族か? 背は高かったか? 低かったか? 色は白かったか? 黒かったか?」と、あれこれと尋ねます。

でも、そんなことをしている間に毒がまわって死んでしまいます。まず第一にやるべきことは、誰が矢を放ったかではなく、毒矢を抜いて治療することです。同様に、今生きている人にとっては、「世界は有限か無限か?」「身体と霊魂は同一か?」「悟りをえた人にとって死後の世界はあるのか?」「アートマンは実在か?」というような形而上学的な問題はどうでもいいことで、実際に必要なことは、今生きている人が持っているさまざまな苦しみや悩みを理解して、その人の苦しみや悩みを取り去ることがなすべきことである、それが人にとってもっとも大事なことであると釈尊は説いたのです。

それまでのバラモンたちが議論してきたような、「アートマンとブラフマンは一体である」とか、「世界は無限か有限か」とかいうような結論をえられないことで争うよりも、こころの平安を目ざす宥和的(ゆうわてき)な教えでした。

世界は永遠か、終わりがあるのか。有限か、無限か。霊魂は存在するか、しないか。死後の世界があるか、ないか。私はこうしてことを、確かなものとして説かない。なぜならそれは、心の清らかさ、安らぎという目標とは関係なく、欲望からくる苦痛を超える修行には役にた立たないからである。(仏陀の言葉:弟子マルンキャプッタへの教え・マッジマ・ニカーヤより)

三宝(三宝)

初期仏教では、仏・法・僧が仏教の基本要素です。
仏とは釈尊のこと。法とは釈尊の教え。僧とは、個人としての僧侶のことではなく、僧侶の集団である僧団(サンガ)のことです。この三つがあって仏教ということができます。

苦しみと無常

私たちの人生は苦しみにつきまとわれていて、容易には苦しみから逃れることはできないということを原始仏教では説いています。人生では、人は絶えざる不安のうちにあり、苦しみに取りつかれている。生老病死を四苦といい、愛する者と別れること、怨み憎んでいる者に会うこと、求める物が得られないこと、肉体と精神が思うがままにならないことの四つを加えて、四苦八苦といって、それが仏教の根底にある人生観です。

その苦はどうして起こるのか。一切の物事もろもろは因縁によって起こります。因とは主要な原因、縁というのは副次的な原因という意味です。いろんな原因や条件が合わさって、物事は成立している。

そしてそれは実体のあるものではなく、常に変化していて一瞬もとどまることがない。現象世界におけるあらゆる物事と同様に、個人存在は連続する変化のうちにある。その底にひそむ確定的な実体は存在するか、と言えば、永久不変な実体というものはない、生あるものは必ず死ぬ、諸行無常であると説きます。

諸行無常。どこにも無常でないものなど存在しない。すべては変化していく。セイラーボブの話を思い出します。

十二支縁起(じゅうにしえんぎ)

なぜ心の苦しみが起きるのかを、十二の要素に分解して、それが連鎖して起こる様子を説いています。最初に原因としての無知(無明:むみょう)があり、それが最終的には心の苦しみへとつながっていきます。佐々木閑先生のYouTubeがとてもわかりやすいので、そちらを見てください。

私なりにまとめるとこうなります。

無明(むみょう)とは無智のこと。物の状態を正しく見ることができない状態。そこから行(ぎょう)が生まれる。

行(ぎょう)とは何かをしようという思い。そこから識(しき)が生まれる。

識(しき)とは迷った心。そこから名色(みょうしき)が生まれる。

名色(みょうしき)とは概念化のこと。物を心の中で勝手に分類わけしてレッテルを貼る。そこから六処(ろくしょ)が生まれる。

六処(ろくしょ)とは認識感覚器官(五感と心)のこと。そこから触(しょく)が生まれる。

触(しょく)とは認識器官が外界と触れあうこと。そこから受(じゅ)が生まれる。

受(じゅ)とは外界を受け入れること、反応すること。そこから愛(あい)が生まれる。

愛(あい)とは好みのこと。そこから取(しゅ)が生まれる。

取(しゅ)とは執着のこと。そこか有(ゆう)が生まれる。

有(ゆう)とは、私という存在が生まれること。そこから生(せい)が生まれる。

生(せい)とは人生のこと。そこから老死(ろうし)が生まれる。

老死(ろうし)とは老いること死ぬこと。心の苦しみ。

佐々木閑先生の説明を聞いてとても驚きました。言っていることがセイラーボブの言っていることとあまりにも似ています。もちろん表現は違うし、説明も違うのですが、本質的に同じことを言っているのではないでしょうか。

無知ゆえに世界があると思い込み、そこにラベルを貼りつけて、それが実在するかのように思い込んでいる。私も世界も物も、生まれることも死ぬこともなく、実在ではなく、無知から生まれたものにすぎない。

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仏陀の生涯、最初期の仏教については以下のYouTubeを見てください。とても参考になります。

仏陀の生涯の解説

スッタニパータは、原始仏典の阿含経の中にある詩編です。
 
 ダンマパダは、原始仏典の阿含経の中にある詩編です。

釈尊のもともとの教えでは、教えはもっとシンプルなもでした。

参考文献

参考サイト

2021/10/16

理解することがゴールではありません。

私はセイラーボブの教えを、正しく正確に理解したと思っています。
セイラーボブの教えを正しく理解するとは、私が、「私」だと考えているものは観念のかたまりにすぎず、実体のないものであるということ、私が実在だと思っている世界は実在ではないということを理解することだと思います。

それは、ある時何かが起こって、瞬時に悩みや問題が消えて、そのあとは幸せ、あるいは至福に包まれた状態が続くという、いわゆるエンライトメントとは全く関係のないものです。また、理解したことによって何かを手に入れたり、生活が物質的に豊になったりということでもなければ、生活上の問題がたちどころに解消するということでもありません。

私はそれを理解しました。そして、生きていくことがかなり楽になりました。問題が起こっても、出来事は以前のような強烈さを失い、以前ほど私を悩ませることはありません。起こっていることのすべては観念にすぎず、やがてそれも去っていくものだと理解したからです。

もう何が起こっても大丈夫だという思いがあります。
セイラーボブの教えを完全に理解してから三年経ちました。たった三年です。
でも、まだ何かが足りないと感じています。

過去には、肉親の死、人との別れ、介護、経済的な問題、対人関係、精神的な問題で非常に苦しい時期もあり、毎日毎日生きていくこと自体がつらい日々の連続だった時期もありました。

でも、とりあえず今は、衣食住には困らず、贅沢にとはいきませんが、普通に暮らすことができていて、日常的なストレスをほとんど感じることなく暮らしています。今のところ体も健康で、対人関係で苦しむということもありません。何も問題はないのです。セイラーボブの教えも理解しました。将来に対する不安は特にありません。でも、何かが足りないのです。

ストレスのない状態で暮らしているにもかかわらず、基準点は時々やってきて、私を困らせます。ずっと以前に傷つけてしまった人たちのこと。過去のあやまち。愚かなふるまい。あんなことをしなければよかった。ああすればよかった、こうすべきだった。そんな思いがやってきて、私を苦しめます。もちろん、それは以前のような強烈さはないのですが、それでも時々やってきます。

少し前に、熱海で土石流によって、たくさんの人たちが犠牲になりました。天災はたびたび起こり、そして今でも、毎日多く人たちがコロナで亡くなっています。

そうしたことは、いとも簡単に自分の身に起こることです。
そうしたことが起こった時、私は非二元の教えを理解しているからと、平気でいられるだろうか。

現象世界で起こっていることは現象であり、実体のないものだ、と平気でいられるだろうか。私は約30年前に母と弟を亡くしました。それは本当につらい出来事でした。30年前に非二元の教えを知っていたら、それは単なる現象であり、実体のないものであると平気でいられただろうか。

今、親しい友人や身内を失って、それは単なる現象にすぎないと平気でいられるだろうか。不治の病にかかって、体は私ではないといって平気でいられるだろうか。

コロナのせいで食べていけないような状況になって、それでもこれは現象世界のことだと平気でいられるだろうか。

今、何も問題がなく、ストレスのかからない状態にいてさえも時々基準点に悩まされている私が、何かもっと負荷のかかる事態におちいった時に、それは実在ではないと平然としていられるだろうか。

人一倍心配性でメンタルの弱い私は、セイラーボブの教えなどいっぺんに忘れて、泣き叫ぶに違いありません。おろおろして、何も変わっていなかったと思うにちがいありません。まだ何かが足りないのです。

その何かが何なのかを仏教に触れて理解できた気がします。

仏教で教えていることの本質は、世界は実体のないものであるということ、すなわち諸行無常であり、私は実在ではないということ、すなわち諸法無我です。それは、非二元で教えていることと本質的に同じことです。それを理解することはそれほど難しいことではありません。

でも仏教は、それを理解したら終わりではありません。そこからが始まりなのです。それを理解したら、それを生きなくては意味がない。いくら私はいない、世界は実在ではないと理解したとしても、それを生きなくては意味がないと思うのです。

お金、財産、家族、地位、名誉、体、そういった物が実在ではないと理解するのはそれほど難しくありませんが、お金、財産、家族、地位、名誉、体といった物に対する執着を超えて、そうしたことに翻弄されずに生きていくのはそれほど簡単ではありません。そのため、仏教は修養や修行を説きます。

同様に、非二元の教えを理解したとしても、それで終わりでは意味がありません。それを生きなくては意味がないのです。セイラーボブの教えを理解しても、何年もミーティングに通っている人がいます。何年かおきに話を聞きにやってくる人もいます。

ギルバートのように、絶えず Facebook に非二元のコメントをのせている人もいるし、カリヤニのように非二元を教える講座を続けている人もいます。そしてセイラーボブは何十年もミーティングを続けています。

彼らが何をやっているかというと、非二元を生きようとしているのだと思います。人間は忘れやすい動物です。どうかすると、すぐに忘れてしまいます。彼らは非二元の教えを忘れないようにと、ある意味修養を続けているのではないでしょうか。

私の場合、修養といっても、瞑想をするとか、座禅を組むとかいうことではありません。そういう体験は、もううんざりするほどやりましたが、気休め程度でしかなかったような気がします。
私にとっての修養とは、マインド(思考)に気づいていること。悩みや困難が起こるたびに、それは実体のないものだと気づいていて、マインドがどう反応するかに気づいていること。

マインド(思考)をコントロールすることはできません。でも、思考に飲み込まれないようにして、思考に対する反応をコントロールすることはできると思います。思考に翻弄されないよう、心のありようは変えられる。それが仏教でいう修養・修行ではないでしょうか。

そうして修養・修行を続けるうちに、ゆるぎない心が完成します。それが悟りなのではないでしょうか。修行をして何か自分ではないものになろうということではなく、何度も何度も思い出すことによって、自然とものの見方が変わっていくということではないでしょうか。

非二元の教えを理解したら、それで終わりというわけではなく、そこからがスタートであり、そこからの道のりの方が長いのではないでしょうか。いまだに時々やってくる基準点に悩まされている私は、まだまだだなあと思っています。

ちょっとここでセイラーボブの言葉を引用します。

私たちは、「私」、分離した存在、個人であるという催眠にかかっています。それは繰り返し繰り返し学ぶことによって強化されてきました。名前、性別、自己の役割…、そうしたことは繰り返しによって学んだものです。それが一夜にして消えることはありません。それを理解することは瞬時にできますが、習慣化された古いパターンは繰り返しやってきます。というのも、パターンは繰り返しだからです。それから抜け出すことも同じようにして起こります。何度も何度も再認識してください。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp262より)

あなたはその体であると、何度言われたことでしょう? もっとも効果的な学習方法は繰り返しによって学ぶことです。今、あなたは真実を見抜き始めていますが、世界全体があなたを幻影の中に連れ戻そうとしています。真実を見抜き続け、それを繰り返すことによって、それはあなたのものとなるでしょう。今、幻影があなたを明晰さから連れ出すかわりに、幻影を明晰さの中へ引き込めば、真実があなたの中で強化されるでしょう。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp263より)

どんなに理解しても、「私」はいるように感じるし、世界も実在のように思える。基準点は繰り返しやってきます。悩みや困難は次々に起こってくる。それに翻弄されないように、何度も何度も思い出し、マインドに気づいている以外に手はないと思います。それこそがセイラーボブの教えの本質ではないでしょうか。

多くの人が非二元の教えを厭世的な虚無主義だと誤解しています。そうではないのです。世界も現実も簡単には変えられないのは事実です。でも、それに対する自身の反応は変えられる。そうしたことに翻弄されないでいることはできる。だからこそ救いがあるのではないでしょうか。そしてそれは、即席でできる簡単なことではないと思います。長い長い修養を必要とすると思います。仏教もそのことを教えてくれています。

(私は非二元の教えを理解した。「私」も世界も実在ではないと理解した。もう何が起こっても平気だ。)それで終わりではないのです。人間である以上、身内が亡くなれば悲しいし、困難なことが起こればおろおろするのは当たり前のことです。でも、その時、非二元の教えを心底理解して生きていたなら、また違った心持ちでいられるのではないでしょうか。

そして、仏教に触れたことで、もう一つ大きく納得できたことがあります。
私は、非二元の教えを学んだ人の多くが、その教えは前向きではない、虚無主義だと判断して去っていくのを知っています。

「私はいない」「世界は実在ではない」という教えを理解すると、次にくる問題は、では私たちの生きる目的はなんだろうということになります。通常、人は幸福になるために、お金、財産、家族、地位、名誉、健康という外側の幸福を求めて日々努力します。でも、それが実体のないものだという教えは、人から向上心や意欲を奪うことになりはしないのか? 

そうした疑問に対する答えを、佐々木閑先生の YouTube の中に見つけました。「仏教は万人のための教えではなく、社会の中で、社会的な幸福を追求することに喜びを見いだせない人、社会的欲求を追い求めることに息苦しさを感じる少数の人たちを救うための教えだ」というのです。例えて言うなら、仏教は病気になった人を癒す薬であり、病気から治ることが悟りだというのです。

もし、あらゆる人が仏教で教えている無我・無欲を追い求めるなら、社会は進歩、発展することはなくなります。でも、別の価値観があって、社会的に良いと認識されている生活を求めることを放棄することで幸福になる道もある、一般社会とは違う生き方もあるというのです。

私はこれを聞いて、妙に納得しました。非二元の教えも同じような側面があるような気がします。非二元の教えも、万人を救おうという教えではなく、社会的欲求を追い求めることで幸福を見出そうということに息苦しさを感じている人たちを救うという一面があるような気がします。進歩、発展だけを追求することとは別の価値観、生き方があるということです。

進歩、発展、前向きな態度はもちろん大切なことですし、豊かな生活を求めることも必要なことだと思います。そうしたことを全部放棄するような、出家僧のような生き方が正しいとは思いません。問題は、そうしたことに囚われてしまって、本当の幸せは何なのか、自分とは何なのかを忘れてしまうことにあると思います。

私の半生は、社会的な幸福を求めることが主たる目的ではありませんでした。心の奥底でエンライトメントを探していて、社会的な幸福を犠牲にして生きてきた一面があります。エンライトメントなどないとセイラーボブに教えられ、解放された一方で、なんと無駄なことに半生を浪費したことだろうと後悔しました。

でも、佐々木閑先生に出会い、社会的な幸福を追い求めない生き方も、何ら後悔すべきものではないと思うようになりました。

佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(9)

佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(19) 仏教を学ぶ目的


2021/10/09

仏教を学ぶことの意味

仏教について書きますとブログに書いてから、あれこれと本を読んだり、YouTubeを見たりしていますが、それほど簡単なことではないとわかって、少しへこんでいます。

仏教は時代とともに変化しています。多様すぎるのです。唯識(ゆいしき)、禅のことを中心に書こうと思いましたが、禅や唯識のことだけをピンポイントで書いても、何のことやらよくわからない。

そのため、初期仏教(お釈迦さまの直接の教え)から書いていかないといけない。初期仏教では個人の修養、修行に重きを置いていて、そこには空の思想や唯識の思想はありません。初期仏教と、唯識や禅とでは、言っていることがかなり違う。

それでも、初期仏教(原始仏教)の根底にも非二元的な要素があるので、初期仏教も書くべきだと思うようになりました。何冊かの本を読んで、初期仏教について何回分かを書いてみたのですが、あまりうまくいっていません。そのため、最初の方は解説的で退屈になるかもしれません。

仏教で使われる言葉の定義や、経典に書かれていることの解釈が、学者によって違うし、本によって様々です。最大の問題は、私が直接仏典を読むことができないということです。

南方(スリランカ・東南アジア)に伝わった初期仏教の仏典(経・律・論)はパーリ語が読めないと読めません。北方(中国)に伝わった仏典はサンスクリット語、漢文が読めないと読めません。結局、私が読むことができる資料は、日本語で書かれたものであり、たいていそれは日本人学者によって書かれた解説書です。

仏教に対する私の解釈は学者の解釈を全面的に採用するしかないのですが、それが多様で、どれを採用すればよいのかよくわからない。書籍も膨大で、何を読んでいいのかわからない。キリスト教の聖書のように、定番の聖典があるわけではないので、どのお経が仏教の神髄なのかわからない。

本を何冊か読んだ程度で、仏教について書こうというのは間違っていると気づきました。それでも、仏教の根底には非二元があるということはわかるので、何とかしてそのあたりのことを書きたい。

それで、仏教を学ぶことの本質、意味とは何だろうかと考えるようになりました。
その前に、非二元を学ぶことの本質、意味は何だろうかと考えてみると、それは「私が私だと思っている私は実在ではない」ということを理解することだと思います。

「私が私だと思っている私は実在ではない」ということがわかるとどんな良いことがあるのか。引き寄せの法則が働いて、何かが手に入るとか、悩みがスーっと消えて楽になるとかということはありません。成功や名誉などの現世利益的なものを手に入れることができるわけではないし、問題解決の即効性もありません。

あえて言うなら、起こっている問題に対する捉え方が変わる、悩みに対する距離ができる、ということだと思います。そこに「私」がいないのなら、悩んでいるのは誰なのか、問題など何もないではないか、ということになり、それが解放をもたらす鍵だと思います。

初期仏教(釈尊の直接の教え)の仏教観を誰かから学びたいと思ってYouTubeをあれこれ見て、花園大学の佐々木閑先生がYouTubeで講義してみえるのを知り、そこで学ぶことにしました。このYouTubeは、もともとはコロナで大学の講義が休みになったことから、講義のかわりとして学生向けに始められたものですが、ありがたいことに一般の人にも無料開放してみえます。(佐々木閑先生のYouTubeチャンネルの目次)

そこには300本ちかい動画があり、今も二日に一本程度のペースで更新してみえます。先生の専門は、原始仏教の律(僧侶が守るべき法律)の研究であるため、釈尊の教えを学ぶのに最適です。ノートを取りながら全部の動画(パーリ語の学習講座を除く)を三回見ました。そして今も更新される動画で学んでいます。

私の初期仏教(釈迦の直接の教え)に対する理解は、佐々木閑先生からのものです。私は先生のファンになりました。著作も何冊か読ませていただきました。もし、このYouTubeがなかったら、初期仏教に対する理解がうまくいかなかったのではないかと思います。時間のある方は、ぜひとも第六シリーズまででも見ていただくと、初期仏教の根底に非二元的なものがあるということがよくわかると思います。

そんな時間はないと言われる方は、私がブログに張り付ける先生のYouTubeだけでも見ていただくようお願いします。今回、YouTube からの貼り付けを多用しますが、それをとばしてしまうと、理解が難しい部分があると思います。

仏教を学ぶことの意味、その行きつく先は何かということについて、佐々木先生はYouTubeの中で、「自分という実在はないというこの世の真理を知ることなんです」と言ってみえます。

佐々木閑の仏教講義「ブッダの教え 18」(「仏教哲学の世界観」第4シリーズ)


参考文献 (私が読んだ佐々木閑先生の著作)
仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)
日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)
いずれも有益で参考になる本ばかりです。

参考サイト
佐々木閑先生出演。好きなことを存分にやっていいと勇気づけられました。

2021/10/02

セイラーボブの新刊「SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality 」の感想

SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality を読みました。

すばらしい内容でした。
この本は、セイラーボブの教えを正確に理解するのに役立つと思います。本の構成としては、最初に、s・a・i・l・o・r・b・o・bという頭文字から取ったキーワードについて、セイラーボブのポインター(数行の話)があり、そのあとでカットの詳しい説明文が続きます。その説明文がわかりやすく、間違った解釈をすることなく理解する助けになると思います。内容としては、セイラーボブの本というより、カットによるセイラーボブの教えの解説書といえるかもしれません。

セイラー・ボブの教えを理解するためには、ジェームズ・ブラハの Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition) がベストだと思います。ブラハの本は非二元全般から見たセーラー・ボブの教えについて書いていますが、この本はセイラーボブや非二元の予備知識がすでにある程度ある人向けだと思います。セイラーボブの教えを多角的に理解するためには、両方読むのがベストだと思います。

共著者であるカット・アダムソンはセイラーボブの奥さんです。カットの経歴について、この本の中で彼女が書いていることや、ネット上で彼女が語ったことを中心に簡単にまとめておきます。

カット・アダムソンは1974年、ポーランド生まれ。高校を卒業後、船舶士官ship's officer:大型船を操縦する人)になることを夢見て軍隊式の五年生の大学へ入学します。大学は難関であったうえ、共産主義崩壊以降のポーランドの法律では、女性が船舶士官なることは認められていませんでした。

結果はどうなるか全くわからなかったのですが、彼女は懸命に努力し、各方面への様々な働きかけののち、やっと道が開け、ポーランドで初めての女性船舶士官となりました。夢を追い続けて、ポーランドで初めて船舶士官となった女性として、何社もの新聞や雑誌に取り上げられたそうです。

卒業後、十数年間、大型船のキャプテンとして世界を旅します。その一方で、精神世界にも興味を抱き、インドの非二元の師を訪ねたり、ベトナムの禅寺で座禅を経験したりして、様々な精神世界を旅します。一定期間乗船すると、一定期間の休暇が取れる勤務形態だったそうです。

やがて結婚するのですが、最初の結婚生活は破綻し、メルボルンのセイラーボブを訪ねます。私が2016年にメルボルンに行った時には彼女もミーティングに通っていて、当時はまだセイラーボブの生徒の一人でした。

当時彼女はまだ町からボブの家へ通っていたため、ミーティングのあと、二度ほど彼女と一緒にトラムに乗って、町までの小一時間の間、楽しく会話したことがあります。彼女はとても誠実で聡明な人で、私のくだらない質問に対して、わかりやすくていねいに答えてくれました。

その後彼女は船の仕事をやめてボブと結婚します。苦労して手に入れた、実入りの良い大切なキャリアだったにもかかわらず、船の仕事をやめたのです。このへんのいきさつはあまり詳しく知りません。彼女がどんな船に乗っていたのかや、ボブとのなれそめの一端は、このYouTube を参考にしてください。彼女の制服姿はなかなかカッコいいですよ。

結婚後は、Facebook や YouTube で見る限り、二人とも幸せそうで、セイラーボブの生活も随分華やかになった印象を受けます。

彼女の精神世界に対する造詣の深さは、この本に出てくる言葉からもわかります。プラトンの洞窟の比喩、シュレディンガーの猫、NLP、クルト・ゲーデル、不確定性原理、トマス・ヤング、ダグラス・アダムスなどなどから、法華経や唯識の話まで。

彼女もボブのところへやってくる他の人同様、長い長い精神世界の旅をしてきたことがわかります。それゆえに彼女の説明は深く、それでいてわかりやすいのだと思います。こっちが知りたいようなことをもれなく書いてくれています。以前このブログにも書きましたが、彼女のYouTube内での発言が私の最終的な理解の助けになりました。

本の内容を紹介するために、少しだけ本から引用させてもらいます。「O、Ordinary」 というキーワードにまつわるポインターです。細字の文字は私(拓)が付け加えたものです。(p224から)

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O-Ordinary(普通の・ありふれた)

ボブ:(ゾクチェンを説いた)パドマサンバヴァが書いた、"Self-Liberation through Seeing with naked Awareness"「ありのままのアウエアネスで見た自己解放:未邦訳」というすばらしい本があります。彼はその本の中で、彼らが「それ」と呼ぶものすべての名前をあげています。彼は書いています。ある人はそれをマインド、アートマン、セルフ、自己の不在、如来、その他たくさんのサンスクリット語の名前で呼び、そして最後に、ある人は単にそれを、「普通のアウエアネス」と呼ぶ。(ここでのアウエアネスは意識という意味。私たちの普通の意識のこと)

(ここからはカットの解説文)
普通のアウエアネス? 本当に? がっかり! 私もまた、感覚器官を喜びで満たしてくれるような至福を探していました! 誰が普通のなんて欲しいものですか! なんと退屈な! 私はエクスタシーが欲しい!

「普通」を手に入れるために、瞑想をしたり、様々な修行をしたり、読んで、見て、聞いて、そうした僧院やアシュラムを旅したのではありません。私は人間の進化の頂点であると思われるエンライトメントを達成しようとしました。とても特別なものが欲しかった!

何年もの間、それを聞くのを拒絶しました。その部分のポインターを聞く間、マインドのスイッチを切って無視しました。そんなはずはない。そうしたすべての礼拝場、すばらしい像、寺院、ピラミッド、敬虔な詩、彫刻や絵画が、普通の毎日のアウエアネスをたたえるためにあるはずがない。それでは意味がない。

それでも、すべてのものには仏性があると言われています。真実とは決して変化しないもの。主は、変化することなく普通にあなたとともにある。それは何も特別でも、とびきりのことでもない。それでも、その普通らしさのせいで、奇跡的であったり、心を揺さぶるものであったり、驚くべきものであったりすることが損なわれるわけではありません。

反対に、普通の、存在すること知ることの喜びは全く完全で、満足できて、足りないものは何もありません。ニサルガダッタがよく口にしたように、「もう何も悪くはない」です。

ボブ:あなたは、普通に注意深く座りさえすればいいだけです。それはそこにあります。それは即時です。それは、どんな観念化もされることなく、今、あなたとともにあります。それは単に、純粋な普通のありふれた毎日の意識です。人々は、ただそれとともに座ろうとせず、マインドで理解しようとします。

(ここからはカットの解説文)
それが普通のことであるため、それが通常のことで、明白でとらえがたいものであるため、私たちはそれがあたりまえのことだと思い、その重要さを見逃します。それは通常の日常の目覚めた状態です。それはもともとそれなのです。それは確かに普通ですが、それはまた、偏在、全能、
全知という点で、途方もないことです。

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私に、「それはあなたの日常の普通の意識のことだよ」と教えてくれたのは、ギルバートの Facebook でした。そのポインターをセイラーボブの言葉として見聞きしたことはありませんでしたが、この本の中にそれを見つけてうれしくなりました。

この本には、セイラーボブのところへやってきて、「私」から解放された何人かの人の話も出てきます。その人たちがどんなふうに人生の問題を乗り越えていったのか、ボブがどう対応したのかが参考になります。

考える材料として、いくつかのエクササイズも載っています。また、巻末には、深く考えるための111の質問が載っていますが、それはセイラーボブのホームページにあるものと同じものです。以前ブログで紹介した時とは内容が多少変わっていたので、書き直しておきました。興味のある方は参考にしてください。

私はこの本を繰り返し読もうと思います。