2023/02/28

雨が止んだ今、視界は良好さ

2023.2.19ミーティング 51:08から

(何かシェアする人はいますか?とカットが聞いたあと)

ギルバート:どうやったら、「私」が(あなたの)トークを生き延びることができるでしょうか?(一同笑う)どうやったら生き延びることが可能か?

ボブ:私はそれを試みて見つけなくてはいけません。

ギルバート:そのとおりです。何年にもわたるあなたのトークで際立っている点、たとえば、たびたびここで持ち出されるのは、マインドを見つめて、それがどうように働くのを見なさいということです。あなたは何時間も話すことができるのですが、その結果は平易な言葉のとてもシンプルなポインターです。このマインドの働きと「私」という信念、それにまつわることを見抜くことが鍵なのです。

でも、私たちは物語を好みます。そこで物語を一つ語ると、ずっと昔、私はある企業の株を買いました。それは「私」と呼ばれています。そして私は何年にもわたってこの企業にどんどんと資金や物事を注ぎ続けました。そしてそれは私に多くのトラブルをもたらしました。そこからあまり利益は得られず、ちょっとだけ幸せでしたが、多くの心理的な苦しみがありました。

そして、私はその男に会いました。その男は、「その『私』に実体があって独立したものかどうかを調べてみたらどうか?」と言いました。でも、やりたくなかったのでやりませんでした。でも、予想もしない時に自然にそれは起こったのです。意識に質問がやってきて、私は実際に「私」の物語やすべては偽物の企業だとわかったのです。

そしてまた、あなたが言う別のポインターは、「何かが偽物だと知ったなら、それを信じることは二度とできない、信じたくても信じることができない」です。それはあたかも子供がサンタクロースは実在ではないとわかるようなもので、もう二度とサンタを信じることはできません。

子供はサンタが架空のキャラクターだと知ったからといって、それを回りの人に、サンタクロースはいない、と言って触れてまわることはしません。そこには知性があって、幼い子供がファンタジーに耽るのを許すのです。でも、私たちは今や大人で、心理的な苦悩は不要です。これは何年も前にボブから聞いた言葉です。それはとても適切で、心理的苦悩は不要です。

心理的苦悩は不要なので、なぜこの心理的苦悩が続いているのかを調べるのです。それは蜃気楼の中の水のようなものであり、そこには何もありません。あなたのトークにたくさんのポインターがあって、(苦悩を)大幅に減らしています。あたかもそういった会社がやってきて、大きな鉄球ですべてを破壊しているようなものです。そして余分なものを取り除くのです。

マインドの本質は澄んでいて空(くう)です。あなたが言うように、言葉や思考のない意識(アウエアネス)、非観念の意識(アウエアネス)、マインドの本質は澄んでいて空です。マインドに何が現れようと、それはその空の中に現れているのです。そしてそれ(アウエアネス)は変化することはありません。

人々は、これはとても澄んでいるとか、これはそうではないとか言いますが、清浄さは宇宙の性質のようなもので、行ったり来たりはしません。やって来て去っていくのは、分離した自己という信念です。うわべ上では程度の違いがあって、ある時あなたはとてもひどい日があって、別の日にはよく見えます。

でも、空(そら)を見上げると、何も空には貼り付いていない。雲が多い日もあれば、無い日もある。60年代にいい歌があった。「雨が止んだ今、視界は良好さ」(この歌は、「I can see clearly now」)。私たちの文化の中にも私たちの言語でいくつもポインターがあります。そして、シェイクスピアもまたすばらしい。それが私が感じていることです。

*********
ここからジェーンが、関連した歌として、「On a Clear Day」を歌いました。


すてきな歌詞なので、リンクさせていただきました。

2023/02/27

バイロン・ケイティ

昨日のブログには載せませんでしたが、別の場面でカットは、以前はバイロン・ケイティのアドヴァイス通りに思考を書き出して、それが真実かどうかをチェックしていた時もあったが、今はやっていない、いずれにしても、それは単なる思考にすぎない、と片付けて終わりにしていると言っています。

またカットは、普段の生活で余計な思考がやってくると、「はい、次どうぞ」と言ってその思考をやり過ごすそうです。私の場合はどうか。私も依然として嫌な思考がたくさんやってきます。嫌な思い出、忘れたいこと、人からの批判、後悔、人との比較、嫌いな奴のこと、恥をかいたこと、異常な妄想、私を傷つけた人のこと、私が傷つけた人のこと。ありとあらゆるネガティブな思考がやってきます。

ひどい時などは、気が付くと毒づいて独り言を言っている時があります。昔はそういった思考がどっかりと居座ってしまって頭を離れない時があると、たいていは酒で紛らわしていました。今は家で一人で酒を飲むということはまったくなくなりました。飲みたいとも思いません。

そうした思考は単なる思考であって、実態のないものだということが身についてきたのだと思います。昔はたくさんの気晴らしが必要でした。人に会ったり、おいしいものを食べたり、飲んだり歌ったり旅をしたり。でも、今そうしたことがあまり必要ではなくなってきて、興味が向かなくなってきました。いいのか悪いのかわかりませんが。

今回、バイロン・ケイティの本を読もうかと思ったのですが、「今そのことを考えなかったら、何が問題ですか」というボブのポインターを知っていれば十分な気がして、読む気が起きませんでした。(ネットやアマゾンで読む限りでは、バイロン・ケイティはすばらしことを言っていると思います)

「思考は実体がないものであり、それが世界が形成している」という真実を学ぶことこそが、非二元を学ぶ鍵だと思います。

2023/02/26

浄化は本当に必要ないのですか?

2023.2.12ミーティング 1:00:00から

ジョシュア:あなたがおっしゃったことの繰り返しになるかもしれませんが、それは、自身が抱いている信念を放棄、あるいは手放すという明確なプロセスではないのですか? 自身を認識するということは、信念を放棄するということにかかっていますか? それがあなたのおっしゃったことですか? ええと、つまり、自己を認識することは、探求、すなわち浄化のプロセスにかかっていますか? うまく説明できているか自信ありませんが……。

ボブ:私が話して指摘したことは、それは既にそうなのだということです。では、何を浄化する必要がありますか? それは単に認識するということです。

カット:ナーガルジュナは、マインドを浄化することはマインドを汚すことだと言っていたと思います。それはとても重要な言葉だと思います。「私」は夢を見ます。「私」は今や行為者だ。「私」には何かができる。そのことにのめり込む姿が目に浮かびます。ええ、「私」は真実をぜひ手に入れたい。「私」は自分のマインドを浄化する。一つ一つの信念を調べて、それを解放する。

そうやってますます力を注いでいきます。「私」はそれができる。「私」はそうした信念を放棄する。「私」は他の信念を選択することができる。「私」は自身のマインドをもっと望ましいものにする。ええ、スピリチュアルな成長とかそういったことは素晴らしい夢です。それがあなたの中で起こっていることです。

ボブ:「私」は体ですか? 「私」はマインドですか? 調べてください。その真実を知れば、そこには体もマインドも人もいません。では、何を浄化しようというのですか?

カット:それは、マインドを超越するということです。マインドが純粋だとか汚れているというのは認識です。純粋、訓練されている、訓練されていない、汚れている、汚いマインド、おかしなマインド、狂ったマインド、どんな形となって現れていようと、それは本当のあなたである認識の上に現れています。

ええ、それはしばしばそのようなやり方で起こります。ああ、スピリチュアルな私、スピリチュアルなエゴ。私は座って瞑想する、私は自身の信念を調べる、私はあれこれをする。それはまた、生がダンスをするやり方であって、それが良いとか悪いとかいうことではないのです。それが必要だとか不要だということではなく、そのように展開しているにすぎません。

ボブは瞑想していました。私も瞑想をしていました。バイロン・ケイティの言う、信念に対する質問に対する答えを書き出しました。それが助けになったか? それはわかりません。なぜなら、それをやらなかったらどうなっていたかはわからないからです。二つの人生を比べることはできません。それが生が展開するやり方です。

そして、スピリチュアルな体験のまったくない人や、どんなワークもやったことがない人もいます。それはすべて、生がどうやって自己を組み立てるかによります。「私は在る」が自己であるということが信念であると認識することでさえ、その認識はマインドを超えたところからやってきます。あるいは、私はジョシュア、私は誰々である、それはすべてマインドを超えたところからやってきます。

この質問がマインドで起こるのか、そしてそこから移行が起きるのか、それはすべて生にかかっています。それが良いとか悪いとかはありません。なぜなら、生には良いも悪いもないからです。

ボブ:私は誰か?

カット:誰が私なのか? 私とは誰か?

ボブ:ええ。

カット:ええ。あの存在の感覚とは何か? 私とは何か?

ボブ:それを知りたいと思っているのは「私」です。

カット:誰が質問しているのか? ええ。もしあなたが何らかのワークをやりたい気がするなら、やってみてください。でも、それが本当に必要でしょうか? まわりを見渡してみると、それが皆に必要でしたか? 誰かが、自分はマインドであるという思考から自由になりましたか? いいえ。

それが起こるのは、例えば「奇跡のコース」では、あなたにできるのは希望することだけで、最後の一歩は神、宇宙、スピリット、呼びたければ何と呼んでもかまいませんが、その完全性からやってくると言っています。存在者は何もすることはできません。存在者は歌を歌うこと、信念を調べること、座って瞑想することなど、船を揺らすことしかできません。(笑い)

しかし、最後の一歩、理解は純粋で開放的な意識のフィールドからやってきます。そこから認識の展望が起こると、それがマインドを見ます。マインドが何をやっていようと、くるくる回っているのを、超えた観点から見るのです。一方で、たとえば良い行いをするのは良いことです。なんと素敵なことでしょう。時間を割いてボランティアで貧しい人たちに食べ物を与えること。素晴らしい。それはあなたのハートを開きます。何も悪いことではありません。ええ、生がみんなをそのように駆り立てるなら、私たちは天国に住むことになるでしょう。

ジョシュア:それで、浄化に関しては気にする必要はないのですか?

カット:ええ、まったくありません。

2023/02/25

おすすめの本を教えてください。

2023.2.12ミーティング 53:41から

カット:(オンライン参加者の質問を読みながら)トレーシーからです。ボブの素晴らしい本意外で、情報源として推薦できるような本はありますか?(ボブを見て)あなたの本以外で、情報源として何か推薦していただけますか?

(ボブ、首を横に振る)

参加者:カットの本が素晴らしいです。

カット:ああ、ありがとう(笑う)。(ボブに向かって)あなたの素晴らしい本と私の素晴らしい本以外の情報源として何かありますか(笑い)?

ボブ:出会うことができる本すべてにおいて、それがあなたの注意を引くかを見てください。

カット:ええ、トレーシー、これは素晴らしい答えです。先ほどボブがジョシュアに言ったように、試して、生があなたをどこへ導くかを見てください。生はあなたを読むこと聴くこと、探求を続けること、あるいは他の話し手や言語へと導くかもしれません。でも、私たちのところへやって来て、エックハルト・トールがこう言ったのはどういう意味ですか?とか、ムージが言ったのはどういう意味ですか?と聞かないで、彼らに聞いてください。(笑い)

というのも、以前はそうした質問をしょっちゅう受けたからです。今や人々はそうしたグループに参加するうちに、いくぶん以前より明晰になり、成熟して理解も進んだようで、グルめぐりや、そうした名前に関心を向けるのではなく、(自己の内側の)調査に専念するようになってきたようです。それはとても素晴らしことです。

でも、もしあなたが、それをやることに気持ちを動かされたなら、つまり、誰があなたに何をどうやってあなたの人生を生きろということができるでしょうか?

(ここから別の人のコメントを3分ほど省略)

57:42から

(カット、携帯のコメントを読む)
カット:ナッツからです。ボブの本が究極のベストです。そしてキャシーから。ニサルガダッタの『I Am That』が良い情報源です。ヴィベックはラマナ・マハシリの本。(カット笑う)誰でも5~10冊の(お気に入り)本があるのは知っています。でも、その話題に入っていってもよいのかわかりません。

というのも、ボブにも5~10冊のお気に入りの本がありますが、ボブはそれを言おうとしません。それは個人的な助言となるからです。

ボブ:ええ、あなたがそれらを全部調べると、何かがピンとくるかもしれません。たった一言が物事の方向を変えてしまうのに十分かもしれません。

カット:あるいは静かに座って、鳥が森へと飛ぶ音、風の音。それもまたメッセージを運んでくるかもしれません。

ボブ:「我はそれなり」というような単純な一言。私たちは皆それを聞いたことがあります。でも、彼はグルのところへ行って真実を教えて欲しいと言い、「それはもう聞きました」と言ったのです。(カット笑う)(ここで話ているのは、「汝それなり」と聞いて、グルのもとで12年間ウシの糞を片付け続けた男の話)

何年も経ってから、彼は本当にそれを聞いたのです(意味を理解したということ)。私も何年も前にそれを聞いたのですが、ニサルガダッタに会うまでは、本当には聞いていませんでした。

カット:でも、あなたはスコップで12年も牛の片付けをしなくてもよかった。

ボブ:いいえ。それまで17年かかっています。

(一同笑う)

2023/02/24

訓練は必要ですか?

2023.2.12ミーティング 47:39から

ジョシュア:お尋ねしたいのですが、日々の訓練(practice)についてです。訓練は実際のところ必要ですか?

ボブ:訓練が必要だと感じるのですか?

ジョシュア:何らかの形で役に立つのではないかと思っています。

ボブ:では試してみてください。

ジョシュア:やってみます。

ボブ:試してみれば、何らかの結果が得られるでしょう。

ジョシュア:はい。ありがとう。

カット:試してみるというのは素晴らしい答えですね。もし、シェフになりたいのなら訓練が必要です。泥棒になりたい場合も訓練が必要です(笑い)。あなたがそうした活動が好きで、スキルを手に入れたいなら、訓練が必要です。もし、従順で集中力があるマインドが欲しいのなら、訓練が必要です。

もし生があなたにスキルをもたらそうとするなら、スケートやパラシュートなど、なんでも訓練が必要です。でも、あなたは存在すること(being)を訓練することはできません。なぜなら、それをやめることはできないからです。それはあなたが始めたり止めたりできることではないからです。何かのスキルのためのあらゆる訓練には始まりと終わりがあります。

存在することは、生まれつき自然に常にそこにあるものです。あなたが実際に目にすることができるのは、その存在、実在の意識(アウエアネス)を不鮮明にするものだけです。もしあなたが、一日のうちのいつか、特定のやり方で自身でそれを調査するようにするなら、それは良いことです。

ジョシュア:ありがとう。

カット:そして、アンドリアンのコメントが素晴らしい。それは素晴らしい洞察です。最初にタイラーやピーターが言ったこともそうですが、誰も好んでスピリチュアルの探求者になったわけではありません。不完全な感覚、達成感の不足、欠乏の感覚、愛されていないという思いなどでじっとしていられなくて、苦悩の解決を求めて探求の苦境へと駆り立てたのです。

そして突然わかり始めると、あなたが最初に気づくのは、おや! もう何もつらくないぞ。関係性もつらくない。物事はもう何も深刻ではない。それは実在を見つめること。ロスが言ったように、体はぶつぶつ言うかもしれない。でも、自己同化を離れて、実在を見つめると、物事をはるかに軽いものに変えます。

最後には、内容物としての物事は起こっても全く気にならない。優勢になってくるのは背景にある感謝の感覚、喜び、驚き、感嘆の感覚です。そしてももちろん、そこにはあらゆるものがやって来て去っていきます。苦しみと喜び。飢えや寒さなどすべて。しかし、驚嘆の質は無くなりません。

2023/02/23

Chat GPTと正見


 

 この話は直接仏教とは関係ないのですが、おもしろかったので転載させていただきました。
すごい時代ですね。

2023/02/22

「私」は宇宙のどこにも存在しない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その39」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

正見。正しく見ること。
正しく見るとは、宇宙のどこにも「私」はいないということを理解すること。それが一番大切な基本。

2023/02/21

空間の広大さ

2023.2.5ミーティング 41:21から

(何かシェアするように求められて)

参加者:自身の物語がとてもリアルに見えるため、まったく距離を置くことができずにそれに巻き込まれてしまった場合でも、それは幻想の一部なのです。あなたが、あたかもそれが信念であるかのように物語にしがみついてしまったら、その執着、物語は問題となります。

この、ミーティング、非二元に関することの要点は、物語から離れて空間を作ることです。どんな物語であろうと、物語だということを知ることです。そうした固着がゆるむと、空間の広大さに対する感覚がやってきます。あなたは問題の源へとたどり着きます。

あなたがその空間の広大さを体験すると、非二元を体験し始めます。そこには一つのもがあるだけ。そこには一つの意識があるだけ。そして、現実と物語にしがみつくことが落ち始めます。それは素晴らしいことです。

2023/02/20

それは誰に起こっていますか?

2023.2.5ミーティング 44:38から

参加者:私の質問は、先ほどの女性が言ったバイロン・ケイティの言葉に関係することですが…

カビーシャ:もし私が私の物語(ストーリー)ではなかったら。

参加者:ええ。その物語と一体(attach)になるには、

ジェーン:一体になる(attach)? 分離する(detach)?  どっち?

参加者:ごめんなさい。分離する、でした。その物語から離れるためには?

ジェーン:あなたは物語ではないわ。

参加者:どうやって自身は物語ではないと知ったらいいのですか?

カビーシャ:感じることです。質問を自身に尋ねて感じることです。それが正しい答えか間違っている答えかを考えるのではなく、質問を尋ねて、どんな感覚が体に現れるのかを感じるのです。もしあなたが物語ではなかったら何ですか? もし私が物語ではなかったら何なのかを感じるのです。そこには何がありますか。

カット:ボブの言葉で、「今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?」があります。

ボブ:それは誰に起こっていますか?

ジェーン:その答えは「私」です。そしてその「私」、あなたが自分だと思っているものには物語があります。それは単なる思考にすぎません。その思考は、本当のあなたである存在の上に現れます。その思考は、ボブが言うように「私」を引き起こすものです。それを調べてみてください。その「私」はどこにありますか? 見つけることができるか調べてみてください。深呼吸して、自分が始まった地点、終わった地点を見つけてみてください。あなたが本気で調べれば、そんなものはないとわかるでしょう。

参加者:でも、人は習慣的に、自分はこれだと深く信じています。なぜなら、自分の歴史、あらゆるドラマや出来事がどこか背景にあって、潜在意識のレベルではあたかも独立した存在が生活しているようで、それを毎日感じています。そして無意識のうちに自分だと信じているものを思い出しています。それで私が尋ねているのは、その認識からいつも抜け出しているには、また本当の自分を思い出しているにはどうしたらいいのかということです。

カビーシャ:訓練です。

参加者:どんな?

ボブ:自身の信念を疑うことです。

ジェーン:信念とは何か話してもらえますか?

ボブ:調べもしないで理由なく何かを受け入れることです。あなたはそれを調べもしなかったという意味です。

参加者:でも、それを裏付けるような事実が得られれば、

カット:(事実は)それについて考えた時だけあります。あなたがハートにいるとき、事実はありません。事実は、あなたが頭の中にいるときだけあります。あなたが思考に囚われているときだけあるのです。あなたが思考の中にいる時を見てください。「おおこれが私だ」「世界は私に関係している」「私が宇宙の中心だ」「私が重要だ」「これは個人的だ」。あなたが自身のハートの中に入っていって、まわりを見回し、耳を澄まして、見て、触れて、自身の体を感じるとき、あなたは完全に存在しています。あなたは単なる頭の中の思考として存在するのではなく、体として完全に存在しています。

その瞬間、あなたは過去の物語に入り込む代わりに、見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐこととなって存在しています。その瞬間、あなたは目覚めていて、完全に存在しています。そしてそれが認識の瞬間です。というのも、今この瞬間、「ああ、これが実在。私は今目覚めている」。あれが私に起こった、これが私に起こって……、こういったことは全部白日夢なのです。

参加者:ええ、私が言っているのは、そうした話のことではないのです。どこか私のマインドの後ろでいつもぶらぶらしている自身のアイデンティティの感覚のことを言っているのです。

ボブ:あなたはそれに気づいています。それは(思考の)対象物です。

カット:それ(質問者の表現)は素晴らしい表現でした。

参加者:で、私はどうしたら、

カット:気づいていてください。気づき続けていたください。

参加者:あなたがオンラインの参加者にしたアドバイスと同じようにですか?

カット:ええ、それに気づいていることです。

参加者:それですね。

カット:ええ。というのも、あなたがそれを、あなたが言うように、どこか背景にある対象物だと認識すると、どこか背景で自己のアイデンティティとして覆われているものは本当のあなたではないとハートでわかるからです。それはある種のマスク、衣装か何かです。

参加者:それが私が尋ねていたことです。あなたは要点を理解してくれました。

ジェーン:一言付け足したいのですが、あなたが背景で自分だと想像しているものは記憶の中でしか生きられません。それは今この瞬間を生きることはできません。そして、あらゆるポインターを超えたポインターは、「今もしそのことを考えなかったら、何が問題ですか?」です。もし、思考は依然として動いていても、それはペアとなる反対の極に向かって動くだけです。喜びと苦しみ、幸せと不幸、あなたと私、昨日と明日、それがマインドの性質です。私と言われるもののおしゃべりやナレーションは、過去か未来に関するものです。

そしてそれは何の上に現れているのか。それは本当のあなたである存在の上に現れています。空(そら)にある雲は常に動いています。本当のあなたである存在は、それは常に、雲のうしろにあります。雲は常に動いています。おしゃべりの中でどんなことが起こっても、ボブが指摘したように、あなたは物語ではありません。そしてカビーシャが言ったように、その空(そら)が本当のあなたなのです。あなたは何もない空(そら)です。

2023/02/19

バイロン・ケイティ

2023.2.5ミーティング 40:57から

(何かシェアすることがあるかを聞かれて)

カビーシャ:リマインダー(思い出させるもの)として、バイロン・ケイティの言葉があります。「もし私たちが、私たちの物語でないとしたら、何なのでしょう」。それだけ。シンプルです。もし私たちが物語でなかったら。それはとても深淵なものです。

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バイロン・ケイティという人の名は初めて聞きました。ネットで検索したら、以下のサイトが出てきたのでリンクしておきます。

2023/02/18

習慣に気づくこと

2023.2.5ミーティング 33:40から

カット:(ネット上のコメントを携帯で読みながら)質問がきています。「こんにちは。初めてボブの本を読んだときから好きになりました。私はいまだに、自身は犠牲者であるという物語の中毒になっています。たくさんのラベルがあり、自閉症、トラウマ、CPDST(複雑性心的外傷後ストレス障害)、虐待、無力、不安など、多くの苦悩がラベルとして貼り付いています。でも、いまだにそれを落とすことができません。理論のすべてを理解し、何十年にもわたって読み、探求して学び、頭の中は知識で一杯です。でも、それを生きた経験がないのです。もしそれが重要であるとしても」。

(ボブに向かって)答えてもらえますか?

ボブ:何ですか? もう一度。(一同笑う)

カット:(笑う)たぶん、補聴器を付けた方がいいですね。(ボブが補聴器を付ける)

参加者:私たちももう一度聞く必要があるわ。ボブ、気にしないで。

カット:これは、しつこい苦悩に関する発言です。彼女は今でも苦しんでいます。苦悩しているのです。彼女は観念としてはすべてわかっています。でも、いまだに障害、自閉症、CPDSTなど、内側には闇があります。闇を掘り起こせば掘り起こすほど闇がやってくるのは明らかです。苦悩したことがない人に会ったことがありますか? 肉体的、感情的、あるいは何らかの形で虐待を受けたことがない人がいますか? 自分が完璧だという人に会ったことは? その典型的な驚く例を見たことがありますが、それは拒食症の人たちです。彼らは自身の体を嫌っています。

私は、肉体的、感情的に虐待された人やそうでない人たちに会った経験がありますが、彼らは主観的な体験の中でひどく苦悩するのです。つまり、自身の苦しみ、苦悩に焦点を合わせて掘り下げていくと……。ええ、これは昨日の体験を言い換えたものですが、昨日私たちは、コロナ期間以外では、年に一度のイベントに出席しました。そこにはなつかしい人たちが130人いて、その人たちと考えをシェアすることができました。

その人たちは、AA(断酒会)の本をよく理解していました。アルコールが問題なのではありません。自己中心主義、自己の欲求、自己への執着、それが私たちの苦悩の対象です。アルコールは一種の解決法です。継続することはできませんが。あらゆるドラッグやセラピー、あるいはダーツやショッピング、セックスでさえ、その深い根を本当には癒すことはできません。

(携帯に目をやり)トレシー・ルイスから。「あなたは、自身の犠牲者としての物語に中毒になっています」。つまり、あなたはよく気づいています。あなたは、自身が自己に執着してしまうという習慣にとても意識的になっています。注意が絶えず、かわいそうな私、私は病気、私は自閉症、私は虐待された、私は、私は、と絶えず焦点をあてていることにはっきりと気づくことは、初めとしてはとても素晴らしいことです。

これを調べたい人は誰でも、偏った(自己)認証、心理的な現象を見つけることになります。私たちは、苦悩する人たちができるだけそれに気づくように働きかけています。質問にもどると、あなたは今、注意を向ける習慣が、犠牲者の物語に向かうということを知りました。それは、すばらしい始まりです。どれほどそれが向かうのか見てください。それがどれほど深く関わっているのか見てください。

というのも、あなたが自己を観察者という視点から観察するなら、自己に執着するする習慣を学ぶことになるからです。ええ、その過去の体験はもちろんとてもつらいことです。その過去、条件づけが、世界に対するあなたの反応を変えてしまいました。あたかも虐待された動物がおびえて行動するように、それがあなたを追い込みました。「これはたわごとだ、考えなくていい、捨て去れ」と言っているわけではありません。それはよくわかっています。

でも、それが実際どの程度あなたが世界を体験するやり方を変えたのかを見てください。あなたが世界を見るパターン、フィルターを学ぶとき、あなたがそれを学んでいる場所はパターンを超えた地点にあります。それは、純粋な意識の開かれたフィールドからその習慣を見ているのです。それが啓示の場所、苦悩を超えた場所です。

それがどれほどやってくるのかに興味を持ち、「ああ、私は十分ではない」「私には障害があるから」「私は病気だから」「私は自閉症だから」「私は虐待されたから」と、どれほどそれがやってくるのか、どれほど強いのか、子供のような好奇心で見てください。そうすると、それは非個人的なこととなります。それが非個人的なこととなると、あなたを傷つけたり痛めたりする力を失います。

あなたがそのパターンを、特定の食べ物や匂いに引かれる時と同じように見るなら、「ああ、この体はそれに引かれている。わかっている」となり、体、注意がそれに引かれているとわかります。それは冒険となり突然魅力的なものになります。

(投稿者に向けて)質問していただき、あなたが正直であったことに感謝します。告白するにはガッツが要ったはずです。傷つきやすさ、成熟性が必要だったはずです。ありがとう。あなたの犠牲者物語中毒を認めるほどの正直さに感謝します。あなたはそれではありません。それは単なる注意です。あなたはそれではありません。あなたは自由で無垢で完全で純粋なものです。

あなたはそれを知らないかもしれませんが、それは事実です。ボブが言うように、「あなたはもともとそれです」。(ボブに向かって)何か話しますか?

ボブ:いや、少しフラフラするのです。

カット:フラフラする? 昨日、帰りがとても遅くてあまり寝てないからですね。何か必要なものはありますか? 水は?

ボブ:(笑って)話しを続けてください。

カット:ええ、おしゃべりを続けることにします。

2023/02/17

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】最終回:第19回 (2023年1月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】最終回:第19回 (2023年1月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師


とうとう終わってしまいました。
毎度のことながら、話の内容がセイラーボブの話と驚くほど似ています。
全部通して見られる方はこちらからどうぞ。

2023/02/16

知的な理解

昨日のブログと矛盾するかもしれませんが、私がボブに、「私は知的には理解しました。でも……」と言った時ボブは「知的な理解の他にどんな理解がありますか? 2+2は4でしょう?」と言いました。

では、カットの言う知的な理解と、本当の理解は何が違うのか? これはボブやカットが言っていることではなく、私が勝手に思っていることですが、その違いは「揺るぎない確信」があるかないかだと思います。確信がないと、but (でも)や If (もし)がやって来て、contraction(収縮、減退、後退)と彼らが呼ぶ状態が起こります。

この、but や if がまったくやって来ない状態が本当の理解なのだと思います。ボブの教えていることが、まったく当たり前のこととして思えるとき。私の場合、その確信が持てるようになったのは、ボブに会ってから四年後のことでした。そして、「それ」はいつも思考の背後にあると知っています。一番身近な体験で言うなら、熟睡したあとの朝、思考がやってくる前のほんの一瞬、「それ」を鮮明に感じることができます。そしてそれは、日中もずっとそこにあることを私は知っています。

昨日のブログのカットの発言を読んだ人は、「私の理解は知的な理解で、ハートの理解ではない。これではだめだ」と思うかもしれません。でも、その理解は決してエンライトメントのようなものではありません。セイラーボブだって、ニサルガダッタの家から一歩出ると、古い思考が戻って来たと言っています。ちなみに、ボブがニサルガダッタの家へ通ったのは12か月間です(二週間おきに数日ずつ)。そのどこかで何かが起きたのではなく、何度もニサルガダッタとやりあいながら、少しづつ理解していったはずです。そしてまたバーバラもボブと一緒にマハラジと会い、比較的短期間でマハラジの教えを理解しています。

カットの発言はあくまで比喩的なものであり、心から本当に理解していない人は、確信がなくて、まだ何か足りないと思っているということだと思います。2023.2.12の当ブログを読んでいいただければ、わかることです。
私たちは、知的な理解とかハートの理解とか言われると、難しく考えてしまいます。揺るぎない確信があるかどうかを自分に問うてみてください。揺るぎない確信があるか、まだ何かを探しているかどうかを「本当の理解」の判断基準にするといいと思います。私はもう何も探してはいません。

2023/02/15

本当の理解

2023.1.29ミーティング 1:31:02から

(ミーティングの最後にオンラインからのコメントを読みながら)

カット:エイドリアンが以前ここでミーティングに参加した時、彼は素晴らしい洞察を得ました。彼は言います。「いわゆるマインドレベルでの成就、目覚めですべてが明確になったとしても、それは実際には完全ではない」。そして私は言うのです。それは完全ではないばかりではなく、何の価値もないことです。それはゴミです。

それは想像したものです。あなたが知っていると想像したもの、あるいは知的に理解したと想像しているものは何であれ、でたらめです。あなたが認知症になれば消えます。酔っぱらったら消えます。あなたが眠れば消えます。目覚めは、ハートと愛の完全な統合のレベルのものであり、そこでは分離は消えてなくなります。

知的(レベルでは)には、「私は理解した。私とグラスは一つだ」と言う人がここには大勢来ました。本当? それは経験的な認識ですか? お気の毒ですが、それは違います。知的な理解は単なるゴミです。それは単なるたわごとです。みんなたわごとを暗唱しているのです。

本当の目覚めは、あなたが実際に考えることをとめた時、そしてそれは、その自然な状態の体験そのものの時、何も悪くない時、何も変える必要のない時です。生は神秘であり、奇跡です。あなたはそれをそうした言葉で翻訳する必要はありません。そしてこれは瞬間瞬間に可能なことです。ミリヤンが言うように、これをうわべ上でできるのは自分だけであり、他の誰かができることではありません。それは認識、成就、見る事です。

2023/02/14

不生の仏心

人々皆親のうみ附てたもったは仏心ひとつで よのものはひとつも うみ附はしませぬわひの

                                        盤珪

2023/02/13

生は自己の中心なしで機能し続けます

太陽自身が雲を起こし、太陽自身が雲を吹き飛ばしているということをあなたは理解しました。ということは、やって来る思考は知性エネルギーの活動に他ならないということがわかるでしょう。それはどこにも貼り付いてはいません。その真実を知れば、それは去っていきます。
生は自己の中心の活動なしに機能し続けます。
                                   セイラーボブ

2023/02/12

私がそれを手に入れることを妨げているものは何なのでしょうか?

2023.1.29ミーティング 38:38から

サロージャ:ええっと、最終的に私がそれを手に入れることを妨げているものは何なのでしょうか? 私は準備ができています。私はアウエアネスの中にいたいのです。でも、私がそこにいることを妨げているのは何なのでしょうか? 私はそれを試みるのではなく、ただそこにいたいのです。最終的に私をそれから妨げているものは何なのでしょうか?

カット:ええ、あなたはそうではないと思っているのですね。ボブどうぞ。

ボブ:あなたには今意識がありませんか?(Are you unaware right now?)

サロージャ:私には意識があります。(I am aware.)

ボブ:では、それで在りなさい。私は意識があるとかないとか言って離れることなく、そのアウエアネス(意識)で在りなさい。アウエアネスは起こり続けていますが、それは「私は在る」へと翻訳されます。

カット:あなたが(自分は既にそうであるという)考えを持っていない時、この古い言葉を考えてみてください。「エンライトメントした人とエンライトメントしていない人の唯一の違いは、エンライトメントしていない人は、そこには何か違いがあるはずだと信じているにすぎない」。実際には何も違いはないのです。違うのは思考だけです。あなたとボブの違いは、そこには違いあるはずだというあなたの信念だけです。というのも、ボブは自分が存在していてそこに存在意識があるということを完全に鋭敏に知っていて、あなたの中にも同様に存在意識があると知っているからです。

でも、あなたはその余分に、何かが去らなければいけない、何かがシフトしなければいけない、何かが変わらなくてはいけない、何かが停止しなければいけない、何かが起きなければいけないと考えています。でも、実際に起きなくてはいけないのは、そこにある思考がただリラックスすることだけなのです。なぜなら、もしあなたが考えなかったら、何があなたの存在の完全なアウエアネスを邪魔しているのですか? ボブはあなたに、あなたに意識がないのかと尋ね、あなたは、あると言いました。でも、今それでは十分ではありませんね。

というのも、マインドがやって来てこう言うからです。「ええ、それでは十分ではない。私には意識がある。それでどうなる? エンライトメントはどこにある? 至福はどこにある?」。いいですか。マインドがやってきて、何かが変わるべきだというのは観念、思考なのです。

ボブはあなたに、「あなたは既にそれである」と言い、マインドは「いいえ、私はそうではありません」と言います。「私には花火か雷鳴のような何かが起きる必要があります」と言います。でも、真実は、あなたは本当にもともとそれなのです。おしゃべりなマインドだけが、あなたはそうではないと言っているにすぎません。

マインドがやすらいでリラックスした時、美しい夕日を見た時、美味しいチョコレートケーキを食べた時、猫を撫でた時、あるいは、その物語を脇によけるような何かをした時、それが「何も悪くはない」という瞬間のことです。(その瞬間)何も悪くはなく、生はあるがままで素晴らしく、容易なものです。それが、私たちが「自然な状態」と呼ぶものです。

人々はやって来て言います。「何かこれは違う。エンライトメントは何かもっと大きいもの。その言葉はもっと激しいもの」。でも、自然な状態は私たちが自然の中にいるような状態です。あらゆることに対してただリラックスしてくつろいだ存在。体が空腹を訴えれば食べ、オシッコがしたくなればトイレに行き、マインドが楽しみを必要とすれば音楽をかけ、それを問題にする人は誰もそこにはいない。

でも、いつもこの観念上の私、カタリーナ、サロージャは、これでは足りないと言います。私はもっと喜びが欲しい。私はもっと至福が欲しい。私はもっと愛が欲しい。私はもっと、もっと、もっと何か、これではないものが欲しい。この瞬間は良くない。これは間違っていて、こうあるべきではない。そうした観念のかたまりがこう言うのです。神は愚かだ、彼はすべて間違ったことをやった、私はもっとよく知っていて、この瞬間はこうあるべきではない。神は愚かだ。

この瞬間を創造しているこの現実、こんなやり方は間違っている。「私」、この創造された自己はもっと上手にやる。もっと喜びがあって、もっと至福に満ちて、もっと愛があって。その声、その自己は作られたもので、それは習慣からくるものです。私たちがどうやって話すかを学んでいたころ、ボブが言うように、あなたが二歳か三歳のころ、言葉を収集して学び、頭の中で下稽古して、OK、何と言おうか、そうだ、OK、赤ちゃんは喉が渇いた、赤ちゃんはあれが欲しい、これが欲しい。

その声に非常に慣れ親しんだため、ある時点で変化が起きて、これが「私だ」となり、「私はお腹が空いた」「私はアイスクリームが欲しい」と言い始めます。その声が内側のものとなり、この声が私であるとなります。そしてその声が今や、「これはよくない。これは間違っている」と言います。そして今や、これが私だ。私がそう言っている。この「私」という信念をどうしたらいいのか? この「私」を取り除くにはどうしたらいいのか?

それは不可能です。そんなことは起こりません。想像された自己は、ありもしない想像上の自己を取り除くことはできません。認識は想像された自己を超えたところからやってきます。すると、この仕組み全体が、いかにして幻想の複雑なまやかしのゲームに巻き込まれていったかがわかるでしょう。思考がなければ、何も問題はないとわかるでしょう。自然な状態には何も悪いことはありません。

思考がやって来て、いいえ、私はエンライトメントしていない、私はそれではない、私は明確ではないと言います。そしてドラマが始まります。ですから、実際には思考なのです。それを信じること、信頼することを止めるべきです。開いた意識の中でくつろいで認識してください。「私」という思考がある時もあれば、ない時もあります。でも、実在(being)はいつもそこにあります。

ですから、そこに「私」がある時は、それは意識のフィールドにただ起こっているということを理解してください。その「私」が本当の私だと信じる必要はないのです。それは単に、時々はそこにあり、時々はありません。あなたが眠る時、何も悪いことはありません。またあなたが、何かとてもハイになるバイブレーションにさらされたり、愛や至福を感じる時も、何も悪いことではありません。

でも、その時、渇きが起こり、私はハートの奥底ではもっと何かがあると知っていて、私はそれを持っていない、それが欲しい、それを渇望する、私のハートはその達成観を欲しがっているとなります。それが今や人生の物語になって、私はそれを探さなくてはいけない、それを見つけるために打ち込まなくてはいけないとなります。でも、それは決して隠されてはいません。

ジェーン:ちょっと話していいですか?

カット:ええもちろん。

ジェーン:(サロージャに向かって)あなたの質問は、なぜ……、あなたの質問は何でしたか? もう一度言って。

サロージャ:私は……

ジェーン:何が私を妨げているのか。妨げているのか? 何が私を妨げているのか。それがあなたの質問でした。今何があなたを妨げているのか。そこには分離があります。そこには分離があると知ってください。あなたはアウエアネス(意識)です。それは事実です。ボブはあなたに今存在しているか尋ね、あなたはイエスと答えました。それがアウエアネスです。そうでしょ。そしてあなたは、何が「私」を妨げているのか、と言いました。

つまり、その「私」は、あなたの記憶の中にだけあるものです。記憶のあなたが、ただ在ることからあなたを妨げているのです。つまり、その「私」は今この瞬間にここに生きることはできないのです。「私」とは、あなたの記憶です。つまり、あなたのマインドの中で、あなたとアウエアネスが分離しているのです。でも、あなたはその(マインドの中の)アウエアネスではなくて、常にアウエアネスなのです。そこにマインドが現れているにすぎません。マインドがその上に現れるのです。(ジェーンがサロージャに手を差し出して握手する)

カット:すばらしい。すばらしいですね。

2023/02/11

あなたは幸せでも不幸でもない

成功も失敗も、あなたのマインドが思っていることにすぎない。
良いも悪いもマインドが思っていることにすぎない。
あなたはマインドではない。
あなたは幸せでも不幸でもない。

2023/02/10

想像をやめること

私が想像するのを止めるようにと言っているのは、あなたが生まれ、両親がいて、体があって、やがて死ぬ、そういったことだ。
やってみなさい。思っているほど難しいことではない。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/02/09

本当のあなた

「今」というこの瞬間が始まるのはいつですか? 今。そして、それが始まった時、それはもうすでに終わっていて、持続時間はありません。仏教徒はそれを「不生」と呼びます。「不生」とは、まだ始まっていないということです。それには始まりがないということです。それには始まりも終わりもありません。それには時間がないのです。それには空間がありません。それには体がありません。それにはマインドがありません。それは物ではありません。にもかかわらず、それはすべてが現れては消える本質です。それが本当のあなたです。
                                    セイラーボブ

2023/02/08

足るを知る

足ることを知っている者はすべてを持っているのだ。欲深く多くを求める者はどんなに多くのものを得てもまだ足りないと思うのである。
                               アンゲルス・ジレジウス

2023/02/07

あなたの本質

あなたの本質は自ら輝く純粋な知性です。輝くという観念は動きを暗示させます。動きはエネルギーです。私はそれを「純粋な知性エネルギー」と呼びます。それはあなたの目を通して輝きます。あなたはそれが何なのかを言うことはできませんし、否定することもできません。
                                    セイラーボブ

2023/02/06

あなたの想像以外、何もあなたを傷つけはしない。

                                   ニサルガダッタ

2023/02/05

神はあなたの中に

自分自身にひざまずき、自分自身に頭を下げ、自分自身という存在に敬意を払い崇拝しなさい。神はあなたの中にあなたとして宿っている。
                                   ムクタナンダ

2023/02/04

やがては去っていく

あなたが自身の感情に「恐れ」や「悲しみ」というラベルを貼らなければ、それは単なる感情にすぎず、やがては去っていく。

2023/02/03

誰が探求するというのですか?

2023.1.23ミーティング 0:49から

ボブ:みなさんおはようございます。会えてうれしいです。みなさんがもうすでに知っているいつもと同じおなじみのこと、いわゆる非二元についてです。非二元とは、二つではない、他には何もない一つのものという意味です。それはただ一つの本質、すなわち知性エネルギー、あるいは、貼りたければどんなラベルを貼ってもかまいません。それを神と呼びたければそう呼んでもいいし、何と呼んでもかまいませんが、それが存在するすべてです。

私はそれを五つの要素で表現しようと思います。サット・チット・アナンダ・ナーパ・ルーパです。存在・意識・至福・名前・形です。今、存在していない人はいますか? いいえ、あなたたちは皆存在しています。意識のない人、気づいていない人は? あなたは気づいていて意識があることを知っています。存在することがうれしくない人、ここに存在したくない人は? みなさんはどこか他ではなくて、ここにいたいのでしょう。

そしてみなさんがそれであり、それがすべてであるなら、あなたはすでにそれであるに違いありません。では、探求とは一体何なのですか? 誰が探求しているのですか? その探求の中で、あなたは何かになろうとします。もともとそうであるものになることは不可能だということを理解してください。私たちは個人、人、分離した存在であるという信念を身に着けました。

偉大なマントラ、「I am that(我はそれなり)」を理解してください。そして私たちは皆、「I am(私は在る:私は存在する)」と知っています。その「私は在る」は、体のことでもマインドのことでもありません。それが体に生気を与え、地球に太陽のまわりを回らせ、季節をめぐらせ、潮を満ち引きさせ、呼吸をさせ、髪の毛を伸ばし、爪を伸ばし、食べ物を消化させています。その一つの本質がパターンとなり、姿形となって、あらゆるものとなって現れています。

あなたはもともと、あなたが探しているものなのです。ですから、探求することが問題だということを理解しなくてはいけません。私たちは、調査して理解しなくてはいけません。私とはこの体なのか? 私とはこのマインドなのか? 私とはこの人なのか? 私たちは皆、「I am(私は在る)」と言います。その「私は在る」は思考です。あなたはいくつの思考を持って生まれましたか? いくつの言葉、すなわち思考を持って生まれたか思い出してみてください。

二歳か二歳半になるまでは言葉や思考を身に着けませんでした。他の人より幼かった人、賢かった人、軽かった人もいるでしょう。でも、「私は在る」という言葉を学ぶ以前、どうやってあなたは自分が存在したということができますか? 言葉を学ぶまでの最初の二、三年の間、あなたは言葉なしで暮らしていました。言葉、すなわち思考、私たちがマインドと呼ぶもの以前に、あなたは存在したということになりませんか。

マインドは思考に他なりません。つまり、あなたは思考以前にあるものです。でも私たちは、自身はこのマインド、人であると信じています。その人(person)という言葉はどこから来ましたか? それはラテンの語の仮面(persona)に由来します。それは、私たちが観念上のイメージ、仮面をつけたと言っているのです。それが私たちだと信じているのです。

こうした言葉を調べてみてください。言葉は物ではないとわかるでしょう。水という言葉を考えてみてください。その言葉を飲むこと、その中で泳ぐこと、洗濯をしてみてください。できません。火という言葉はどうですか? それで料理したり、やけどしたり、自身を温めたりできますか? 私という言葉はどうですか? それが本当の私ですか? 自身の体とマインドのことだと思うかもしれませんが、あなたはこの体ですか? あなたはマインドですか?  

あなたはもともと自分が体ではないということを知っています。なぜならあなたは「私の体」「私の体」と言うからです。「私のコート」「私の車」と言う時、あなたは自身をコートや車ではないと知っています。ということは、おそらくあなたも体ではないのではないですか? 人々は自分が仮面、広大な観念のイメージであるのか、それともこの体とマインドであるのかを調べて理解するほど賢明ではありませんでした。この体とマインドに起こっていることを見てください。あなたの問題はすべて、この体とマインドに起こります。

2023/02/02

誕生

忘れようとしても忘れられないはずなのに、なぜあなたは誕生の瞬間を覚えていないのか?

2023/02/01

欲なければ一切足り、求むるありて万事窮す

                                        良寛