2023/01/31

「在る」と「なる」

探求そのものが罠なのです。なぜなら、探求とはそこに何かになる必要がある実体が存在することを意味するからです。
そして、「なる」ことは未来の時間を意味します。それは、「在る」ことではありません。
何かになることは、「在る」ことではありません。私が話しているのは、「在る」ことです。
                                   セイラーボブ

2023/01/30

マインドでそれを理解することは決してできません

私達が持っている唯一の道具はマインドです。そして、マインドでそれを理解することは決してできないということを理解しなくてはいけません。なぜなら、それはマインドを含んでいて、マインドがそれを含むことはありえないからです。
                                   セイラーボブ

2023/01/29

あなた以外誰もあなたを傷つけはしない

「傷つけられた」と考えた瞬間に、あなたは傷つけられたことになる。
あなた以外に誰もあなたを傷つけはしない。

2023/01/28

メッセンジャーではなくメッセージ

最近のミーティングでのボブは、スピールの時は元気に話していますが、質疑応答になるとあまり話さず、カットが答える場面が多いです。ボブの体調が悪いのかなとも思うのですが、facebookの写真を見るかぎりでは、パーティに出たり散歩に出たりもしているようです。

大きな理由の一つは、ボブの耳がかなり遠くなって、質問者の質問がよく聞き取れず、細かいニュアンスが聞き取れないということがあるようです。ボブはたいてい、余計な口出しをしないで、カットが自由に話すのを横で見ています。

カットは早口でまくし立てるようにたくさん話すのですが、聞き取りやすい英語で話すので、こちらとしてはありがたいと思っています。ボブが黙ってカットの話すのを聞いているということには大きな意味があると思います。

それは、大切なのはメッセージであって、メッセンジャーではないということです。カットはボブの教えをよく理解しています。よく理解していさえすれば、それが誰の口から語られようが問題ではないということです。

もしこれが、エンライトメントしたマスターだったら、おそらくカットは信奉者に袋叩きにあって追い出されていることでしょう。参加者の皆がカットの話に耳をかたむけ、参加者同士もお互いの話に耳をかたむけて意見を交換し、互いの理解を確認したりシェアしたりするのはすばらしいことですね。

ボブの教えていることは、特別の人にしか起きない何かではなく、調べてみれば誰にでも理解できることだということの証に他なりません。

それにしても、次から次へと新しい人がやってきて、「知的には理解しましたが、本当の理解が起きるのにはどうしたらいいでしょうか?」「それを生きるにはどうしたらいいでしょうか?」と繰り返し同じような質問をするのは実に興味深いことです。かつては私もその一人でした。

2023/01/27

実際にそれを生きるのが難しいのですが?

2023.1.15ミーティング 1:21:23から

参加者A:ええ、このワンネス(一体性)、この非二元性はとても神秘的です。私たちはボブの言う二元性の見せかけとして現れている世界に暮らしています。私たちがマインドの中にいる時は二元性の中にいます。なぜなら、マインドは生き残るために、物事を解決しようとしたり、物事を理解しようとしたりしてラベル貼りをします。するとそこには観念としてのワンネス(一体性)があります。

そして、ボブが言うように、ラベルを無くせば、マインドの妄想や恐怖の欲求から解放されます。でも、私たち皆が知っているように、ワンネスとして存在するように変わっていくというのはとても難しいことです。それで私は苦労しているのです。私はもう長い間、観念上ではワンネスということを理解しています。でも、実際にそれを生きること、あるいは、それとして存在することは、私にはとてもとても難しいのです。

参加者B:あなたは何もする必要はないですよ。

参加者C:ええ、何もしなくてもいい。(一同笑い)

カット:ミーティング終了まであと十分ですが、議論するのは好きです。その質問は良い質問で、すばらしい質問です。とても明確です。私自身の経験した例と結びつけられたらと思うのですが、私はかつて、「私は十分でない」という考えは真実だと狂信的に信じていました。それが現実だと思っていました。私は十分ではないという思考が頭の中にあり、それは私の思考であり、個人的なものでした。それを信じた結果、その思考は苦しみ、もがき、社会的な苦悩などの多くの結果をもたらしました。

今、同じ思考がマインドにやって来て、もしそれに対する反応があるとすると、それは笑いとなります。(笑う)なぜなら・・・、なんと馬鹿げた考えでしょう。つまり、それは一つの考えに過ぎないという意味です。それは空間の本質、アウエアネスに影響を及ぼすことは絶対にできません。でも、私はそのイメージを信じている存在・人である、それが私で現実である、という思考を信じると、それが苦悩となり、分離を生みます。

そうした思考は起こってくるのですが、もしそれをシリアスに受け取らず、それを信じないで、それが本当は何なのかを知れば、それはアウエアネス(意識)の中の単なるバイブレーションにすぎません。それは単なる文章のセリフであり、それぞれマインドが思考をどう加工するかによるもので、音を聞く人もあれば、セリフを見る人もあります。それは重要ではありません。それは単なる内容物であり、常にそこにあるわけではありません。それは真実ではありません。どんな思考も決して真実ではありえません。

私に対するどんな思考も違います。私は女、生まれた時から女。いいえ、そうではありません。私は小さな赤ちゃん、あるいは少女でしたが、それでさえありませんでした。といういのも、体は小さな赤ちゃん、少女でした。体は私の乗り物です。体はアウエアネスが外を見るための衣装です。そうでなければ、見ることができません。それには目や耳が必要なのです。体に何が起ころうと、体に感覚が起ころうと、どんな物語が体に起ころうと、それはハードウエアであり、もちろんマインドがソフトウエアです。

体験や表現するための乗り物である体に何が起ころうと、アウエアネスには起こりません。その意識、認識の広大なフィールドの中に、体とマインドという認識があります。ということは、私は体やマインドではありえません。なぜなら、目は目自身を見ることができないからです。ええ、あなたは観念上では知っています。でも、現実的な問題としてはっきりさせることはとても良いことです。ええ、私は地球が平らだと信じている、サンタクロースは実在する、私はいる、それは実在する、そしてその私は自己を超越できるはずだ。

でも、その自己を超越することはできません。なぜなら、その自己は実在ではないからです。私が、超越すべき私だとしたら、それは決して起こりません。ボブが時々引き合いに出す盤珪いわく、「エゴを取り除こうとするのは、血で血を洗い流そうとするようなものだ。それでも血は残る」。あなたがエゴを取り除く。あなたがエゴを殺す。それで、誰が残るのですか? 

それは実際には認識の問題、シンプルな認識です。サンタクロースは実在しない。サンタクロースは決して実在したことがない。この私。この思考。私は重要だ。私は重要ではない。オーストラリア人。ポーランド人女性。そうしたものは、まったく無邪気に習慣的に信じてきた観念の束にすぎません。なぜなら、他の人やママ、パパ、先生、グル、首相、皆がそれを真実だと決めてかかっていたからです。もちろん、それを信じることは罪のないことです。でも、それは単なるコスチュームだということを調べてみるように招待しているのです。

2023/01/26

肝心なことを理解しなさい

肝心なことを理解しなさい。
世界とあなたは一つのものであり、完全なものだ。
あなたの態度だけが間違っていて正す必要がある。
                              ニサルガダッタ・マハラジ

2023/01/25

自由意志はあるのかと問うてはならない

もし、「自由意志はある」と答えれば、そこには自由意志を持つ「私」がいることになり、「自由意志はない」と答えれば、そこには自由意志を持たない「私」がいることになる。自由意志を持つ「私」も、自由意志を持たない「私」も実在ではない。

2023/01/24

あなたはそれです

人々は何かを達成して、そこに留まらなければいけないと考えます。あなたは一時もそこを去ったことはなかったということを理解してください。それに努力はいりません。試み、奮闘してそれを手に入れ、持ち続ける必要はありません。あなたはそれです。
                                   セイラーボブ
                                   

2023/01/23

今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?

                                    セイラーボブ

2023/01/22

求めることの最も少ない者が、困窮することの最も少ない者である。

                                    セネカ

2023/01/21

それがいつ起きるかを決めるのは何のですか?

2022.3.13ミーティング 1:03:12から

参加者:もし……もし……、我慢してください。質問するのに慣れていないものですから。もしそれが目覚めること、非分離、私たちはすべてであるということを理解するということなら、あなたはバイブレーションという言葉をよく使いますが、私にはとてもよく共鳴しています。

そして、完全な目覚めというのは理解ではないように思えます。それは観念的なことではないため、私たちは自分の意思でそれを起こすことができません。では、それがいつ起きるかを決めるのは何のですか?

カット:素晴らしいですね。ボブ。

ボブ:それはいつもそれであり、もともとずっとそうでしたが、私たちが言葉を学んだ時にそれは不鮮明になりました。そして、学校、社会、両親がそうした言葉を強化します。そして私たちは毎日毎日自分自身を強化します。それが、習慣のパターンによって、見かけの上では実在となります。それは単に習慣を認識して打ち破るだけのことです。いいですか。今そのことを考えなかったら、何が問題ですか? 

もしあなたが自身にその質問をして、思考なしでそこに何があるかを見てみてみると、あなたは消えず、思考はなく、言葉もなく、そこには静寂と沈黙、平和の味わいがあるとわかるはずです。でも、あなたがそれを引き起こすことはできません。それはひとりでに起こっています。理解、認識の中では、そうした観念に対する思考、すなわち信念が問題を起こすのです。

カット:そして、初めてのスピールを聞いて、あなたは観念的にそれをやることはできず、自分の意思でやることもできないと理解したのは素晴らしいことです。なぜなら、想像上の自己は目覚めることはできないからです。それは想像上の自己が目覚めるようなもので、誰も、何も目覚めはしません。それは、幻想が消えるか、見破られるということです。

そして、ええ、誰もそれをやることはできません。もし想像上のサンタクロースが何かやろうとしても、突然風が吹いてパット(消えて)……。やろうとしても意味のないことで、何の違いももたらしません。それは認識することであり、いわゆる非二元の状態の一つのものは常にもともとここにあり、利用可能なものです。それにベールをかぶせたり、うわべ上で不鮮明にしたりしているのは想像上の自己であり、想像上の自己が抱いている世界との関係性です。

想像上の自己と想像上の世界との関係性という上張りを見抜くということは、観念上の上張りに注意を払うのをやめて、注意をくつろがせるということです。マインドから出てリラックスしてくつろぐと、あ~、何も見つからない。なぜなら、何も失くしてはいないからです。それはただ単に、夢によって不鮮明になっていたにすぎません。誰も目覚めたりしません。ええ、でもあなたは、どんなに深く考え、分析したとしても、マインドの中で答えを見つけることはありません。それはあなたをどこへも導きません。

でも、それがわかったということは、観念で理解すべきことをあなたはすでに全部理解しています。ええ、それはここでは(頭を指す)起こりません。それ以外に一般的な方法で理解すべきことは何もありません。それは、正しい理解と呼ばれています。それはある意味でパラダイムのシフトです。私たちが世界を見るやり方は、個人という存在が世界とつながりや関係を持っているというものです。そして、シフトしてパラダイムの外に出ると、突然、命が流れ始めます。

それには位置がありません。そのような命はなく、依然として両目から世界を見て、唇や喉や口などから話しますが、それには位置がありません。それは体の中にはありません。そして、体の死、体の動き、体の喜び・楽しみ・悲しみといった問題は単に起こっていることです。それは体に起こっていますが、私、命に対してではありません。あるいは、私、命、みんなに対して、木々すべて、雲すべてに対して起こっています。

バイブレーションに対しても起こり、あらゆるバイブレーションが振動して音になり、それが命に対しても起こっていると言うことができます。なぜなら、命と分離した何かに起こっているわけではなく、それは命と一体のものだからです。それはあたかも、命が音となって現れ、物、波、すべてとなって現れているようなものだからです。

これを表現し始めると、とても複雑な哲学になってしまいますが、ひとたび停止して深呼吸をふ~として思考を追い出すと、それはもともとそこにあります。それは常にずっとそこにあります。それはまったく複雑なことではありません。実際それはとてもシンプルです。それを言葉にしようとすると、それから離れてしまい、表現することができません。

単純なことです。誰も皆、もともと存在していて、もともと意識です。皆と言うときでさえ、多くの人のことを話しているように思えますが、それは一つのものであり、それは自己が自己に話しているのであり、永遠がただダンスをしているにすぎません。でも、良い質問でした。

2023/01/20

胡蝶の夢

かつて私は蝶になった夢を見たが、それを私だと気づかなかった。すぐに目が覚め、そこには私自身がいた。今では自分が蝶になった夢を見た人間だったのか、それとも今は人間であるという夢を見ている蝶なのかわからない。
                                        荘子

2023/01/19

あなたが生まれた時

あなたが生まれた時、あなたは誰からも教えられずに最初の呼吸をした。

2023/01/18

存在の感覚・私は在る

私は肉体に語りかけているのでもなければ、マインドに語りかけているのでもありません。私の本質である私は在る、すなわち、マインドを通して思考の「私は在る」として現われているあの存在の感覚に話しかけているのです。ただそれだけ、他には何もありません。
                           セイラーボブ

2023/01/17

金銀の山があっても、たとえそれを二倍にしても、一人の人を満足させることはできない。

                             サンユッタ・ニカーヤ

2023/01/16

世界を空(くう)なりと観ぜよ

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を感ずる人を、〈死の王〉は見る事がない。」
              岩波文庫 ブッダのことば・スッパニパータ/中村元 1119

2023/01/15

見破り続けてください

何度あなたはその体であると言われたことでしょう? 最も効果的な学習は、繰り返しによる学習です。今あなたは見抜き始めましたが、世界全体があなたを幻想へと連れ戻そうとするでしょう。見破り続け、それを繰り返すことによって、それがあなたの中で安定するようになります。そうすれば、彼らがあなたを明晰さから連れ戻す代わりに、あなたが彼らを明晰さのなかへと引き込むようになり、それがあなたの中で強化されます。
                                    セイラーボブ

2023/01/13

自分とはいったいどういうものなのか?

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その30」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

佐々木先生の動画をもっと見る方はこちらの索引からどうぞ。

2023/01/12

空は形であり、形は空である

2022.3.27ミーティング 46:30から

参加者:理解するのに苦労している点をもっとはっきりと理解したいと思います。空(くう)と形についてです。あなたの言った、「空は形であり、形は空である」をもっとはっきり理解できたらと思います。

ボブ:あなたは自分が物であるということを知っています。別の言い方をすると、この顕現のすべては物です。パターン、姿形は物です。すべては現象としての基本的な空間に現れていますが、その空感は何ものでもないもの/無です。つまり、何かが無からやってきているのです。あなたが調べてみると、何かは無からやってくることはできません。つまり、バイブレーションがパターンとなり、姿形となっているのです。それは常に束の間のものです。

それは常に変化していて、固定的な実体のあるものではありません。この体においても、今この瞬間に何千という細胞が死に、置き換わっています。私たちはこのことを理解しません。それは、固体のように見えます。そして、顕現は固体のように見えます。でも、それは全く固体ではありません。それはエネルギーのバイブレーションにすぎません。うわべ上で実在のように見えるだけです。はっきりわかりましたか?

参加者:ええ。

カット:そして、それはまた夢と呼ばれ、夢の中のすべてが、いかに無からやってくるのかを知るために、夢は素晴らしい例えです。たとえば、あなたが夜に夢を見る時、あなたの体はベッドを抜け出して山を登り、空を飛び、いろんな風変りなことをやり、人々に会い、何百年もそこにあると言われている建物や岩山、山々、木々を眺めます。でも、そうではありません。それはどこからともなくやってきました。

夢全体が無から一瞬にして現れ、とてもリアルになりました。見た目上では人々は死ぬこともあります。というのも、恐怖の体験や感情がとても強くて、文字通り殺されてしまうのです。あるいは衝撃をコントロールすることができず、感情はとても強く、世界がリアルに見えるために、他の体験をすることになります。でも、それは無です。それは無でできています。そして、これも(実際の世界も)また夢だというのです。

量子力学を学んでみると、こうしたことはすべて、素粒子、エネルギーの動きにすぎず、それを生体コンピューター(頭を指さす)が過去の記憶に基づいて絵にしているだけなのです。例えば私たちが何か新しいものを見ると、ただちにそれに関連したことがやってきて、慣れ親しんだものとしてラベルを貼るのです。そうやって、ゆっくりとアップデートされます。

それは実際には見せかけであり、マーヤー、見せかけと呼ばれます。なぜならそれは、固体であり実体のあるものとして現れるからです。私たちの体は現れていますが、私たちは体ではありません。でも、私たちの衣装として固体で実体のあるものとして現れているのです。ボブはしばしばそれを幻影と言います。でも、その本質はエネルギーです。

2023/01/10

「不生の仏心とは」2023/1/9【毎日の管長日記と呼吸瞑想】

第733回「不生の仏心とは」2023/1/9【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2023/01/09

あなたは幸せですか?

昨日ブログに書いた「サピエンス全史」の中で、「文明は人間を幸福にしたのか?」という章があって、その中で、人間はどういう状態にあると幸福だと感じるのかが様々な角度から検討されています。もちろん、安易な結論は出されておらず、読者に考える材料を提示して終わります。

「あなたは幸せですか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか? 「非二元の教えでは、そこには幸せを感じる主体はいないのだから、その質問自体がナンセンスだ」と言ってしまえばそれまでですが、それでは身もふたもないので、ちょっとぶっちゃけて言うと、「おまえは幸せか」と聞かれたら、私の場合は、「幸せだと感じる時もあれば、そう感じない時もある」としか答えようがない気がします。

「幸せか?」と聞かれても、例えば金銭面、人間関係、仕事、家族とかいうふうに限定してくれれば何とか答えようがあるのですが、漠然と「幸せか?」と聞かれても答えようがない気がします。人間の気持ちは一瞬一瞬変化しているので、その全部を総括して、幸せかどうかと判断することは難しいのではないでしょうか。

以前、日記に毎日の気分を天気予報のように、晴れマーク・雨マークなどを使って記録していた時期がありました。でも、気分は一日の内で何度も変化して、雨のち晴れ時々くもり、みたいな日ばかりで収拾がつかなくなり、五段階評価にしてみたり、ABC評価にしてみたりしましたが、どれもうまくいかずに結局やめてしまいました。

「幸せ」もそれと同じで、自分で幸せの度合いを評価するのは難しいのではないでしょうか。「私は幸せか?」と考えるとき、そこには常に比較が入ってきます。「いついつの私よりは幸せ」「私が理想としている基準よりは幸せではない」「あの人よりは幸せ」という具合に比較のニュアンスが入る気がします。

サピエンス全史の中では、既婚者は概して独身者よりも幸福だという心理学や社会学の知見が出てきます。私は独身で一人暮らしなので、極まれに、家族がいたら幸せだろうなあと思うことがあります。ところが、私のまわりには、独身でいることをうらやましいと言う人が少なからずいます。この場合も、比較の問題だと思うのです。自分の境遇と比べて私よりも自由だというふうに考えているのではないでしょうか。

また、殺人事件の6割は家族による犯行だと、どこかで読んだ記憶があります。離婚率の高い現代の状況を見ると、必ずしも家族が幸福の尺度とは言えない気がします。

相田みつをさんが言うように、幸せは自分で決めればいいのかもしれませんが、なかなかそうもいきません。幸せという言葉の裏には、何か欲望の充足といったようなニュアンスがあって、その満足感を幸せと言っているようなふしがある気がします。

「私は幸せだ」と言った裏には、「不幸せ」が隠れていて、その幸せを失うのではないかという恐怖がつきまといます。あたかも塞翁が馬の話のように。

セイラーボブは非二元を理解したら幸せになれるとは言わないし、佐々木先生や横田老師にしても、仏教を理解すれば幸せになれるとは言いません。どちらも、「心理的な苦しみからの解放」だと言います。

私は、非二元や仏教を学ぶ上で、ここが重要なポイントなのだと思います。「幸せだ」「幸せではない」という発想でいるかぎりは、いつまでたっても心の平穏はやってこない気がします。人はいつも何かを追い求めています。たとえそれが「幸福」であったとしても、何かを追い求めているかぎり、今この瞬間にいることができず、平安にはなれないのではないせしょうか。

「あなたは幸せですか?」「私は幸せか?」と問うこと自体が間違いではないでしょうか。存在していることが至福だというボブの言葉が思い出されます。

「人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。かくのごとくに、人はどこまでいって踏み止まることができるものやらわからない」 森鷗外『高瀬舟』

2023/01/08

サピエンス全史


この本は前々から読もうとは思っていたのですが、内容が堅そうだったので躊躇していました。佐々木閑さんの本「宗教の本性: 誰が「私」を救うのか (NHK出版新書 656) 」で引用されていたので、読まないわけにはいかないと重い腰をあげて読みました。

予想に反して読みやすく、素晴らしい内容でした。人類がいかにして地球を支配するにいたったかを、わかりやすく紐解いてくれています。この本は、非二元を学ぶ人にはぜひお勧めしたい本です。

というのは、人類が他の生き物の種たちを圧倒して万物の長として文明を築き、地上の覇者になれたのは、「虚構(想像)」を共通認識として受け入れたからだというのです。人間が想像して勝手に作り上げた様々なものを基盤として繁栄を築いたというのです。

その最初の虚構が言語です。言語を発明したおかげで、人類同士で複雑な情報交換が可能になりました。言語で仲間同士での連携が可能となり、人類よりも大きな種を倒して食べることが可能になりました。そのせいで、人類がいかに多くの地上の生物を絶滅においやったのかを読んで、驚くと同時に悲しくなりました。

大型生物は自然に絶滅したのではなく、そのほとんどは人類によって絶滅させられたと知りました。農耕が始まると、今度は地球上の植物の生態系は人類によって大きく変えられました。地球上のほんの一地域にしか生えてなかった麦や米が全世界へ広がり、地球の植生が大きく変えられました。そして今や、比較的被害を受けてこなかった海洋生物が絶滅の危機に瀕しています。

家畜とペットに適した動物だけを増やし、農作物を作って定住を始めた人類は、今度は「貨幣」という虚構を生み出しました。貨幣の発明のおかげで、人が人を支配する社会が一層発展しました。

一方で人類は、国家、企業、主義、人種など、ありとあらゆる虚構を生み出し、その虚構の上に私たちは生きています。そしてそれは「帝国」へと発展していきました。ここまでが上巻のあらまし。

人間の社会は、虚構の上に成り立っている。その最たるものがインターネットではないでしょいうか。人々はもはや現実を見るのではなく、携帯を見て生きています。その仮想現実の中で生き、洗脳され、幸せも不幸も借り物の価値観の上に成り立っています。

ここからは下巻。
下巻は少し難しい内容でした。最初に宗教について。キリスト教、イスラム教、仏教など、それぞれの宗教がどのように現れ広まっていったのかについて。

そして近代になると、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、新宗教が台頭してきました。こういったものを宗教ととらえる視点がすばらしい。

やがて帝国主義が科学と結びつき、ヨーロッパの国々による世界征服の時代が始まります。オランダ、スペイン、フランス、ポルトガル、イギリスがどうやって世界で植民地を支配していったかについて。

当時はアジアの国々の方が強大な国が多かったのに、なぜそれほど強大ではなかったヨーロッパの国々が世界を支配できたかなどは、とても興味深い内容でした。ヨーロッパの国々が、南北アメリカ、南米、オーストラリアの原住の人々をいかに絶滅させていったのか、アフリカからどれほど多くの奴隷を連れていったかを読んで、いろいろ考えさせられました。

産業革命が起こり、蒸気機関を発明したことにより、人間の移動や荷物の運搬が起きると、人間の活動範囲が急速に拡大します。そして資本主義の時代へと突入。人々は必要以上の物に囲まれ、消費することが幸せであると思うようになります。

99%が農業で成り立っていた社会は消え、今や農業人口は1%。一方で、家族や地域というコミュニティは崩壊。この500年の間に社会は大きな変化を経験します。

そこで筆者は問いかけます。「文明は人間を幸福にしたのか?」。なぜなら、かつては家族やコミュニティこそが幸福に基盤であったからです。物質やエネルギーはたくさん手に入るようになり、物質という視点から見れば、人類ははるかに豊かになった。それで、果たして人間は幸せになったのか?

ここで筆者は、幸福とは何か? どういう時に幸福を感じるのか? その尺度は? といった問題について検討していきます。そこら辺がものすごく考えさせられるものがあったのですが、ここで簡単にまとめることができません。

幸せは客観的な条件によるのではなく、期待との差によるのではないか、また、各個人の脳内のセラトニンの多少によるのではないかというアプローチも紹介。もともと持って生まれた生化学的な特性によって決まる部分が大きいのではないかという。そう言われてしまうと、私などはセラトニンが出にくいタイプなのかと思ってしまいます。

でも、言われてみれば、困難な状況にあっても幸せな人はいるし、人から見れば恵まれているように見えても、いつもふさぎ込んでいる人もいる。案外これは当たっているのかもしれません。

そして、仏教の話となり、仏教は渇愛を求めないことで幸福を得ようとすると紹介。この人の仏教に対する理解は的を射ていてすばらしい。

そして最後に、遺伝子操作などの話があり、現人類はさらに進化して、超ホモ・サピエンス(バイオニック生命体)、サイボーグなどとなる可能性を予言しながら終わる。

*************

本の内容は素晴らしい内容だったのですが、上手に要約できません。今まで私が抱いていた歴史認識がいかに浅いものだったかを思い知らされました。

人類は、科学の力を手にしたために、地球上で我が物顔でのさばり、地球上の大半の動物を滅ぼし、気に入らない原住民を次々と滅ぼし、植生を変えてきたのだということを改めて知りました。

そして最後の、「文明は人間を幸福ににしたのか?」という問いは、おまえにとっての幸せとはなんだ? おまえは幸せか? という問いに変わりました。

2023/01/07

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第18回 (2022年12月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第18回 (2022年12月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

今回もすばらしい内容でした。

全部聞かれる方はこちらからどうぞ

2023/01/06

ギーターンジャリ 

私の血管を夜となく昼となく流れているこの同じ生命の流れが、世界中に流れ渡り、リズムに合わせて踊っている。
この同じ生命が喜びとなってほとばしり、大地の塵埃の中を駆け廻って無数の草の葉に届き、激しい波となって木の葉や花に入り込む。
この同じ生命が生と死の太陽の揺籃の中で、潮に満ち干に連れて揺り動かされる。
この生命の世界に触れて、私の手足が栄光に輝くのを感じる。そしてこの刹那に多くの世代の生命の鼓動が私の血の中に踊っていることを私は誇りとする。

                  ラビーンドラナート・タゴール  『ギーターンジャリ』六九(岩波文庫)

2023/01/05

それがマインドの仕事です。

2022.4.3ミーティング 39:22から

(カットが携帯でオンライン参加者のメッセ―ジを読む)

カット:JBから、「どんなにしても独立した私が存在する中心、参照点を見つけることができない」。素晴らしいですね。(笑い)調査しても、想像しているような自己はそこにはいないということがわかり、それを確信、主張する結果になるだけです。そういう理由で、調査は、私は誰かという問いに対する答えを見つけるのではなく、私は誰かという問いは適切ではないということを見つけるためだと私たちは言うのです。そこには問いを発する人も見つかる人もいません。

私は何か、私は誰かを述べることはできないし、それを意識の対象物とすることもできません。なぜなら、もしそれが対象物だとしたら、あなたはどこからそれを見ているのですか? その場合、あなたは明らかにその後ろから見ていることになり、その見られているものはあなたではないことになります。それは何か他のものです。あなたが何であるかを知ることはできないのです。そして同時に、あなたが存在するということも否定することはできません。あなたは存在する。あなたは、自分は存在しないと言うことはできません。そしてそれがその本質です。

私は何か、私をどう定義すべきか、どうやって自分を見つけるのか、と心配するかわりに、あなたが存在するという真実とともに留まってください。それはささいなことではありません。それは実際、この教えの中心です。あなたは存在する。でもそうすると、観念的なマインドはあなたに、「ええ、それが何? とても退屈。もっと歯ごたえのあるものをちょうだい。私はもっと偉大なもの、大きなものになりたい。私はエンライトメントしたい。私は何かを見つけたい」とあなたに告げます。

でもそれらはすべてたわごとにすぎず、想像です。存在の事実は奇跡です。それは愛。そこには存在することへの愛があります。そして、その存在が広場の中の無数の物事となって反映した奇跡を目撃することは素晴らしいことなのですが、私たちはその事実を完全に見逃しています。なぜなら、私たちは頭の中の思考やイメージで忙しいからです。一方、ここ、ハートの中、本質の中では奇跡は続いていて、私達はそれを否定することはできません。

それはもともとそこにあり、完全に存在しています。そして、想像、思考、詳しく述べること、名前をつけること、文句を言うことや想像することからそこへ戻ってくること。その存在の本質へと戻り、それと恋に落ちることを喜ぶと、あなたはそれと恋に落ちる必要さえなく、愛はもともとそこにあったことがわかります。それを認識するだけでいいのです。そしてJBが言ったように、「分離した私はそこにはない」。

そこに誰かいる、見つけることができると思うなら、それは無駄だとわかるまで探し続けてください。それはそこに昨日は存在しませんでした。それはそこには10年前には存在しませんでした。あなたは決してそれを見つけることはできません。それはそこにはいないのです。そして、誰が見ているかを調べてください。誰がそれを見つけようとしているかわかりますか? あるいは、あなたはそこには誰もいないと知るだろうということを理解してください。思考が存在意識のフィールドの中を流れていっているにすぎません。私は誰かという思考。私は誰かという質問。

そこには誰もそれを尋ねている人はおらず、その相手側にも誰もおらず、思考が続いているだけです。そして、考える人と思考は単なる観念上の表現、シンボルです。それは一つの命、一つの見ること、呼吸です。思考はそれを見る人と見られるもの、考える人と思考、質問者と思考に分割します。それは二元的なマインドによる言語の機能にすぎません。それがマインドの仕事です。

2023/01/04

仏になろうとしないで、仏でいなさい。

                                        盤珪

2023/01/03

それは投影された世界です。それは現象としての世界です。

2022.4.10ミーティング 56:31から

(カットがオンライン参加者のコメントを読む)

カット:「ハロー、ボブ、カット。私はフアンです。ボブの話を聞いてこう思いました。もし、私たちのマインドがすべて思考で、思考から言葉がやって来るなら、私達はイメージや観念でできた世界に住んでいて、実在の中には住んでいないということになります。でももし、私たちの内側が静かになると、そこにあるのは自然に発生するものであり、ボブの言う「何ものでもないもの/無」です。同様に、あらゆるものはそれとして現れています」。素晴らしい言葉です。素晴らしい、フアン。その通りです。

言葉と音、イメージ、観念化で覆われた世界に意味を与え、翻訳しているのは想像です。そしてその根底には信じられないほど神秘的な何ものでもないもの/無があり、それがすべてとなって現れています。自然に。

参加者:(少し前のボブの話に対して)すばらしいメッセージでした、ボブ。ちょっとグッときました。いいぇ、そこにあるのは知性エネルギーだけだとわかりました。それが聞いていました。話すことがそこにあり、聞くことがここにあって、誰も聞いてはいません。それが聞いていて、それが共鳴して、もっと鮮明になります。そしてそこにはもう物語はありません。それは実際経験的なものであり、あたかも心臓の脈動や肺が呼吸するようなものです。それは実際、知性が深く共鳴するようなもので、私はその知性です。あらゆるものが観念的です。その知性が言うことをたくさん聞くことができますが、それはハートの中に落ちていきます。それはエネルギーです。それは単なる知る働き。いずれにしても、いつものように素晴らしい話でした。

参加者:ちょっと付け加えさせてください。観念として起こっていることも信じられないほどすばらしいことです。そして、空(くう)は満ちているという意味は、(中に)何もないということではありません。空は満ちているのです。それはすばらしいことです。

カット:ウエインの言葉がここにあります。「この瞬間が完全な教師である」。そして、あなたが言ったように、この瞬間には内容が満ちています。つまり、この瞬間の内容は思考、観念、イメージ、翻訳、観念化したものなのです。苦悩が始まるのは、自分のことを頭の中のナレーター、限界のある自己、個人だと思う時です。そして、私は十分ではない、私は愛されるに値しない、幸せになるためにはこれが要る、彼らが私を尊敬する必要があると思う時です。でもそれはまったく不要なことです。

もしそれが瞬間の中の内容なら、それを物語、ドラマとして完全に楽しむことができます。でも、それを信じてしまうと、その副産物は苦悩です。それをそんなふうに認識する必要はありません。(携帯のコメントを見ながら)モリーンから、「ええ、存在が教師」。ウエインは、この瞬間が完璧な教師と言っていて、モリーンもそのとおりだと言っています。ええ、そうです。というのも、あらゆる瞬間がそのものであり、この瞬間が唯一の瞬間だからです。この瞬間が常にその純粋な本質の反映であり、意識があらゆるものとなって現れているフィールドだからです。

あらゆるもの、あらゆる瞬間の中にその輝きが現れています。もし私たちが見方を知っていたら、というのも、もちろん、横取りする翻訳者が出てきて、「これが私だ。犠牲者だ。これが世界で、裏切り者だ」と言うとき、物語はふたたび美しいものとなりますが、(私たちを)傷つけるものとなります。それを信じるべきではありません。それは、驚くべき信じられない神秘的で奇跡のようなドラマです。でも、実在ではありません。

それは実在ではなく、マーヤーと呼ばれています。現象としての顕現です。(ボブに向かって)私たちに現象としての顕現を思い出せてください。(ボブは、カットがやるようにと促す)(笑い)
ええ、私たちは外側のすべてをマインド中の自分の知っている過去の記憶の何かに翻訳しています。それは投影された世界です。それは現象としての世界です。それは顕現です。

2023/01/02

無になった心にこそ神が宿る。

                               マイスター・エックハルト

2023/01/01

自然な状態は決して失われません

意識(awareness)は、それ自体で存在するものであり、それを手に入れたり無くしたりするための努力や誰かを必要としません。自然な状態は決して失われません。それは見せかけではないので消えたりしません。それはいつも変わりません。それは物ではありません。観念上の考える人や観念上の思考は観念化されない自然な状態を見かけ上で見えにくくしてしまうということを理解してください。ほんの一瞬でも思考を止めてみれば自然な状態は全く明白です。止まって見てください。その見ることの中で純粋な意識が姿を現します。
                                    セイラーボブ