2021/09/26
2021/09/25
シャンカラとセイラーボブ
前三回のブログにおいて、アドヴァイタ、シャンカラについて書きました。ここで、シャンカラの教えと、セイラーボブの言っていることを比較してみたいと思います。
セイラーボブは、アドヴァイタの教えをニサルガダッタ・マハラジから学んだのですが、ニサルガダッタ・マハラジのアドヴァイタがどういうものかははっきりしません。英語版のマハラジのWikipediaを読むと、Inchagiri Sampradayaという流派であり、その創始者はBhausaheb Maharaj (c. 1843 - c. 1914) という20世紀に亡くなった人です。
シャンカラの系統のアドヴァイタは今でもいくつかの僧院があって、伝統が受けつがれているので、Inchagiri Sampradayaという流派はシャンカラの系統ではないようです。マハラジのアドヴァイタは、シャンカラ以前からあるアドヴァイタの教え(ヴェーダ)の流れを汲むものと思われます。
シャンカラのアドヴァイタも、もともとはシャンカラ以前からあるヴェーダの中のウパニシャッドの教えがもととなっているため、シャンカラの教え=アドヴァイタの教えと言っていいと思いますので、前回まで書いたシャンカラの言っていることと比べてみたいと思います。
まずは共通点から
・世界は実在ではなく幻影である。
シャンカラもセイラーボブも、実在であるかのように見えている現象世界は実在ではなく、幻影であると言っています。
・私が私だと思っている「私」は実在ではない。
シャンカラは、身体も心も「私」ではないと言っています。シャンカラは、「私の手」「私の心」と言うのは、手や心が「私」とは別のものだからだ、と説明しますが、この説明は、セイラーボブもよく使う説明です。
・実在ではない「私」が実在であると思ってしまうのは無知ゆえにであるとセイラーボブは言います。
シャンカラは「無明」という言葉を使います。二人とも、暗闇で縄を踏んで蛇だと思ってしまう話を無知の説明の時に使います。
・実在としての自己を認識することはできない。
セイラーボブは、「それはマインドの外にあるため、マインドでは理解できない」と言い、シャンカラは「認識の主体としてのアートマン(自己)は、主体であるがゆえに自己を客体として認識することはできない」と言います。眼は自分の眼を見ることはできないという例えは二人とも使います。
・解放の方法として、セイラーボブは「真実を知ると解放される」と言い、シャンカラは「解脱をもたらす手段とは[ブラフマンの]知識である」と言います。
・二人とも修行を推奨していません。シャンカラは、修行は新たな業を積むことになると言い、必要なのは、自分がすでに永遠の昔から解脱しているのだということに「気づく」ことだけだと言います。そしてセイラーボブは「あなたはもともとそれです」と言います。
・シャンカラもセイラーボブも輪廻を否定しています。シャンカラは、無明(無知)ゆえに輪廻があるように見えるだけだと言います。
・セイラーボブは「エンライトメントや覚醒などない」と言い、シャンカラは言及していません。セイラーボブは「理解」を強調し、シャンカラは「認識」を強調しています。私が読んだ範囲のアドヴァイタやシャンカラの本には、エンライトメントや覚醒に関して言及しているものはありませんでした。シャンカラという名が代々継がれ、今でもシャンカラがインドにいるということを考えると、その教えはエンライトメントや覚醒ではないと思います。
相違点
ブラフマン、アートマンが、セイラーボブの言う知性エネルギー、アウエアネスと同じものかどうかはわかりません。ミーティングの時に Facebook 経由でボブに質問するという手はあるのですが、答えは想像できるのでやめておきます。
セイラーボブの話の中にはシャンカラと同じく、ヴェーダから引用していると思われる話がいくつもあります。もちろんセイラーボブはヴェーダもシャンカラ関連の本も読んでいるはずです。
シャンカラの教えについては、何人かの人が本を書いています。でも、そのほとんどが難解な学究的な本であり、私の手におえるものではありませんでした。例外的にわかりやすく、もっとも参考になった本は、インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) です。私のシャンカラに対する理解はこの本を基本としています。
現代において、一般の人がアドヴァイタをシャンカラやアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派、ウパニシャッドから学ぼうと思っても、容易ではないと思います。まず、適当な参考書がありません。原典を読もうとすれば古代インド語を習得する必要があります。
それでは、学者によって翻訳されたものはどうかというと、読んで簡単に理解できるようなものはありません。平易な現代語訳がないのです。また、今でもインドに存在するシャンカラ系統のアドヴァイタを学ぼうとするなら、インドに住んで、現地語から学ぶ必要がありますが、そんなことは簡単にはできません。
ただ、それがわかっただけでも、今回アドヴァイタの源流までさかのぼったことは意味があったと思います。
参考文献
2021/09/18
アドヴァイタとは シャンカラ②
シャンカラの教え、「ブラフマ・スートラ注解」と仏教の関係について、愛知県図書館で借りた本の中に非常にわかりやすい説明があったので、以下をインドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) p.ⅰ(はじめに)から引用させていただきます。
もともと、シャンカラは、一元論を唱えるヴェーダーンタ学派に属していました。
この学派の根本経典である『ブラフマ・スートラ』(西暦紀元後四世紀)は、宇宙の根本原理ブラフマン=最高自己=最高神という、唯一のもの、しかも世界の質料因にして動力因なるものから、世界の森羅万象が流出していたのだとする一元論を説くものでした。したがって、世界の森羅万象は、ブラフマン=最高自己の部分であり、実在であるという考えになります。(質料因=アリストテレスの説いた四原因説の一つ。家ができる原因の例では建築に使用する材料・資材。動力因=家を建てる場合の大工作業のような、現実に作用する原因)
ところが、この単純明快は流出論的一元論には、まことにやっかいな二つの難問がつきまといました。
一つの難問は、一元なるものが、何のきっかけで、あるいはまた何のために、ある時点で自己分裂を開始し、世界を流出せしめたのか、というものです。一元なるものは完全無欠、自己完結したものだとされます。しかし、世界流出という活動を為したということは、一元なるものが、世界流出を必要としたということですから、これは、一元なるものが完全無欠で自己完結しているという前提が成り立たないことを意味します。また、一元なるものに外部から働きかけがあって世界流出が起こったのだとするならば、もはやこれは一元論ではなく二元論だということになります。これは悩ましい問題です。
もう一つの難問は、流出した世界には清浄なものもあれが不浄なものもある、するとそこから世界が流出してきた一元なるものは、清浄かつ不浄ということになるのではないか、というものです。一元なるものは、そのどこを取っても同質のはずでして、すると、清浄かつ不浄ということは、その一元なるものの一元性を突き崩すものとなります。
このようにして、流出的一元論は、土台がきわめて危うい体系だということになります。流出的一元論は、インド最初の哲学者であるウッダーラカ・アールニ(西暦紀元前八世紀後半)の有の哲学を継承したもので、インドの主流派哲学といえます。しかし、そのようなわけで、『ブラフマ・スートラ』に、定まった視点から一貫して合理的な解釈を与えることは、至難の業でした。ですから、この根本経典には、長い間、全面的な注釈書を著すのに成功した人物が出てきませんでした。最初の成功した人物こそ、シャンカラなのです。
なぜシャンカラが、『ブラフマ・スートラ』の注釈書を著すのに成功したのかといえば、そこにはおおきな秘密があります。じつはシャンカラは、一元論を守るために、流出論を排斥したのです。それでは、この多様性にあふれたこの世界(ジャガット)は、どのようなものとして位置づけられるのでしょうか。ここがシャンカラの革命でして、彼は、世界は、無明(アヴィディヤー)が生み出した幻影(マーヤー)であり、まったく実在性を欠いているとしたのです。ですから、世界の流出というのは、無明のせいであって、一元なるものとは無関係だということになります。一元なるものは、無始無終に一元のままだというのです。
しかし、わたくしたちは(インド人は、というべきか)、現実のところ、多様な世界の中で、始まりのない過去から輪廻転生を繰り返し、さんざん苦しみを味わい続けている、この現実感覚は何だということになるのでしょう。シャンカラは、それは無明のなせるわざだと断言します。しかし、『ブラフマ・スートラ』はいうに及ばず、その源をなすウッダーラカ・アールニなどのウパニシャッドの哲人たちは、世界の流出を、世界の多様性を、輪廻転生の苦しみを、そしていかにして輪廻転生から解脱すべきかを大いに語っているではないか、これをどう説明するのか。
シャンカラは、ここで、仏教から妙案を拝借します。それは、すべての言説を、勝義より真なるものと、世俗よりして真なるものとに分類することです。そして、世界の流出とか輪廻転生とか解脱とかを語る言説は、すべて世俗よりして真なるものだといいます。この二様真理説を武器にして、シャンカラは、ウパニシャッドなどの聖典の文言と『ブラフマ・スートラ』の文言のすべてをきれいに捌(さば)いたのです。(勝義=絶対不変の真理)
ですから、シャンカラの文章に接するときには、シャンカラが、ここでは勝義の立場に拠っているのか、世俗の立場に拠っているのか、あるいは二股をかけながらアクロバティックに語っているのかを、細心の注意をもって見きわめなければなりません。ここに、シャンカラの文章を読むさいの、特有の難しさがあります。
シャンカラは、みずからの不二一元論という理論を構築するさいに、他学派の理論を大胆に借用しています。
右の二様真理説は、西暦紀元前二世紀半ばに行われたギリシア王と仏教の長老との対論を記録した『ミリンダ王の問い』(ミリンダパンハ)に初めて見られ、西暦紀元後二~三世紀に大乗仏教最初の学派である中観派の開祖となった龍樹(ナーガールジュナ)が重用した理論です。これをシャンカラは拝借しました。
さらに、西暦紀元後四世紀に基礎理論が固められた大乗の唯識説では、対象世界の実在性が否定され、世界は幻影であると説かれました。この幻影論も、シャンカラが拝借するところとなりました。
また、唯識説では、私たちが認識の上で犯す誤謬、すなわち、甲でないものを乙だとする認識は、甲でないものに乙を上重ねすること(アッディヤーローパナー)に由来するとされます。シャンカラは、この上重ね理論をそっくりそのまま唯識説から拝借しています。シャンカラの著作の登場する「アッディヤーローパナー」(ないし「アッディヤーサ」)は、わが国では「付託」と訳されることがしばしばですが、本書では、原義のニュアンスをたっぷり含ませるために、「上重ね」と訳すことにします。
このように、シャンカラは、重要な論点において仏教から非常に多くのものを拝借しましたので、ヴェーダーンタ学派でも、不二一元論を採らない学者たちからは、「隠れ仏教徒」(ブラッチャンナ・バウッダ)だと非難されるほどでした。
さらに、精神原理と非精神原理を峻別する二元論を展開するサーンキャ学派は、西暦紀元前七世紀のウパニシャッドの哲人ヤージニヴァルキャの「自己─世界」論を継承し、自己は世界外存在であり、あたかも自己であるかのごとく錯覚されるおのが身心が自己でないことを強調してやみません。この、サーンキャ学派の強調点も、やはりシャンカラはそっくりそのまま拝借しています。
仏教、サーンキャ哲学実に多くを拝借し、それらを巧みに縫い合わせることによって、シャンカラは、不二一元論、すなわち世界幻影論を完成させました。それによって彼は、ヴェーダーンタ学派の根本経典『ブラフマ・スートラ』に一貫した合理的な解釈を与えることに成功したのです。しかし、先述の通り、シャンカラは、『ブラフマ・スートラ』の流出的一元論から、流出論を排斥したのです。流出的一元論が、決して解けない難問の縄にがんじがらめに縛りつけられていた、その理由は、一元論にあるのではなく、流出論にあるのだと、シャンカラは見て取りました。シャンカラは、インドにおける一元論哲学の革命児だったのです。
つまり、シャンカラは、ヴェーダの解釈を真理にもとづくものと、世俗(現象世界)のものとを分けて解釈、説明している。そして、現象世界は実は幻影であり、実在ではないという理論を大乗仏教から拝借しているというのです。
この本(インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待))は、前回のブログではっきりと理解できなかった「ウパディーシャサーハスリー」の散文編を、翻訳だけでなく詳しい解説をつけて説明してあります。
第1章 弟子を目覚めさせる方法
p7から引用
二 この解脱をもたらす手段とは、[ブラフマンの]知識である。[これ以外の]手段によって成就される無常なすべてのものを厭離し、息子と財産と[人間世界・祖霊たちの世界・神々の世界という三つの]世界への望みを棄て、[出家遊行者の最高位である]パラマハンサ遊行者となり、心の平静・自制・憐愍(れんびん)などを持ち、ヴェーダ聖典でよく知られている弟子の資質を具え、清浄なバラモンであり、聖典の規定通りに師に近づき、生まれ・職業・性行・[ヴェーダ聖典の]学識・家柄について精査された弟子のために、理解が堅固なものとなるまで、繰り返しこの知識を語らなければならない。
この文書は要するに、解脱(アートマン=ブラフマンと理解すること)するためには、知識が必要であり、それを手に入れるためには世間的な欲望(息子や財産など)を放棄して出家し、師について、師は繰り返しこの知識について教えなければならないと言っています。その解説の中で著者は、
p9
さて、私たちに最も直接的な存在は、自己反省的・自己完結的に確立される「自己」(アートマンatman、プルシャpurusa)です。往昔のウパニシャッドの哲人ヤージニヴァルキャが看破し、後にシャンカラが論じているように、自己は認識主体であるがゆえに認識対象とはなり得ません。ですから、認識論的に、あるいは心理学的に自分(自己)を探しても、決して見出すことはできません。自己は、認識されることによってその存在が確定されるものではなく、おのずから確定しているのです。なぜなら、自己は、自己反省的であり、かつ自己完結的だからです。
ですから、わたくしは、ヤージニヴァルキャやシャンカラに同調する恰好でいいますが、自己の存在を証明することは不可能であると考えます。あえて証明しようとすれば、「自己反省的」「自己完結的」という規定の文言の中にすでに「自己」という文字が入っていますので、その証明は典型的な循環論(どうどうめぐり)とならざるを得ません。
さて、翻ってみれば、真実の存在としてブラフマンなるものが、確定しているということになれば、自分にとっての直接的な存在として確定されている自己は、じつはブラフマンと同じであると考えざるを得ません。ブラフマンも自己も、認識論的あるいは心理学的に捉えることはできません。こうした共通性を前にして、ブラフマンと自己とを別物と考える必然的な理由は見いだせません。
ブラフマンと自己とが一つのものなのだということを、理屈ではなく、瞑想によって得られた直観で理解し、そのことを陳述した最初の人物は、西暦紀元前八世紀前半のシャーンディリアという人物です。漢訳では、「ブラフマン」は「梵」、「アートマン」は「我」ですので、このことはしばしば「梵我一如」といわれます。
自己反省的、自己完結的とはどういう意味でしょうか? 「自己反省的」を辞書やネットで調べても出てきません。「自己完結的」は広辞苑よると、「他に依存することなく、それ自身だけでまとまっていること。他との関連をももたず成り立っていること」とあります。
「自己は認識主体であるがゆえに認識対象とはなり得ません。」という個所から判断すると、要するにアートマンを認識することは不可能だと言っているように思えます。認識することは不可能なものが、どうしてブラフマンと同じものだと考えるのが必然なのでしょうか?
二章では、輪廻の原因は無明(無知)が原因であるという説明が続きます。無知ゆえに、アートマンの上に、「私」や「体」を上重ね(付託)しているために解脱することができない。よって、無明を取り除けば解脱すると説明しています。
アートマンは最高自己であり、輪廻しないにもかかわらず、無知ゆえに「私」という行為の主体がいると思い込み、それゆえに輪廻しているかのように見える。また、世界は幻影であるが、無明ゆえに、世界があるように認識していると教えます。
世界を認識している自己・「私」は体でも心でもなく、認識の主体であると教えます。認識の客体が世界であり、体であり、心です。認識の主体は、眼がみずからの眼を見ることができないように、刀がみずからを切ることができないように、みずからを認識することはできないと教えます。
こうした説明においても、自己は「自己反省的」「自己完結的」であるがゆえに、それを直接知ることはできないという説明が繰り返し行われます。
私が図書館で借りた本の中では、この方の解説が一番わかりやすいと思うし、説明も平易な言葉でされていると思います。でも、一番かんじんな、「自己反省的」「自己完結的」がよくわからない。
私なりに解釈すると、主体としての自己「私」は認識主体であるがゆえに、それを認識することはできない。でも、「私」は認識の客体となる身体、心、世界を認識している。認識しているということは、必然的に、それを認識している主体(自己)がいるということ。それは自明のこと。それを、「自己反省的」「自己完結的」というのだと思います。
そして、ブラフマンも客体として認識することはできない。ということは、ブラフマンは認識の主体であるということ。ブラフマンもアートマンも両方とも認識の主体。認識の主体が二つ別々に存在することはありえない。ということはブラフマンとアートマンは一つのものであるということになる。
ゆえに、ブラフマン=アートマン=自己=本当の私
この、「ウパディーシャサーハスリー」散文編では、シャンカラと弟子との対話がストーリー仕立てになっていて、弟子の質問に対してシャンカラが順番に答えてゆき、最後に弟子は完全な理解へと到達します。そこには、エンライトメントや覚醒の要素はありません。あくまでも対話による理解が前提となっています。また、シャンカラは修行や瞑想もすすめていません。
参考文献
インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待)
第5巻 シャンカラの思想 (新装版 インド哲学思想)
シャンカラの哲学〈上〉―ブラフマ・スートラ釈論の全訳 (1980年)
シャンカラ派の思想と信仰
人と思想 179 シャンカラ
シャンカラ―原典、翻訳および解説
中村元先生がシャンカラについて語ってみえます。自己とは何かについて。
2021/09/16
セイラーボブの新刊(英語版)が出版されました。
2021/09/11
アドヴァイタとは シャンカラ①
仏教の唯識のことを書くために、まずインドで仏教が生まれた背景を知ろうとしてバラモン教の経典(世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典 (中公バックス)(この本自体はアドヴァイタについてだけ書かれたものではなく、数人の著者がそれぞれバラモン教の経典について書いたものを編集したもの)を読んだところ、その中にシャンカラが書いたとされる、「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」というもの見つけた。
シャンカラとは
シャンカラはアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化した最初の哲学者、不二一元論派の創始者と言われている。八世紀前半に南インドで生まれ、哲学者としては不二一元論(アドヴァイタ)の開祖、宗教家としてはスマールタ派の開祖。幼くして父を亡くし、ヴェーダを学習し、世を捨てて出家して遍歴行者としてインド諸地方を遍歴。多数の著書を著し、インド各地でいくつかの学院を創立し、最後に北インドで32歳(または38歳)で亡くなったと伝えられる。シャンカラ物語(伝説)も参考に読んでみてください。
「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の学匠シャンカラが書いた「ブラフマ・スートラ注解」の一部を抜粋翻訳したもの。ページ数にすると、46ページしかない。
「ブラフマ・スートラ」はアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の学説綱要書であり、アドヴァイタとは何かを説いたものだが、その解釈が難しいため、シャンカラが注釈をつけて説明したもの。「不二一元論」とは、あらゆる限定をこえたブラフマンが唯一の実在あり、多様な現象世界は無知によって作り出された幻影にすぎないという思想であり、それがシャンカラの主張。
「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解」がどんなものか、書き出しを引用します。
1 ブラフマンと現象世界との本質的同一性
『ブラフマ・スートラ』二・一・十四 それら(万物の原因であるブラフマンと、その結果としての現象世界と)は、別のものではない。(天啓聖典に述べられている)「(ことばによる)補足」という語が典拠となるから。
(これに先行する定句二・一・十三においては、ヴェーダーンタ学派ブラフマン一元論に対する、二元論者からの反論があげられた。もしも、物質世界の質料因と精神原理との区別を認めず、ブラフマンが唯一の世界原因であると主張するならば、精神的存在者である経験の主体と、経験の対象となる非精神的存在物とは、いずれもブラフマンの変容として同質のものとなるから、両者は区別されないということになるであろう、というのがその反論の内容であった。そして、同じ定句のなかに、『ブラフマ・スートラ』の作者によって)慣習的な、経験の主体、経験される対象といった(概念上の)区別を認容したうえで、
(経験の主体と経験される対象との区別は、われわれの学説に従っても)ありうる。日常生活おいて(認められる事実)のように
と、(その論議に対する)反駁が述べられた。
しかしながら、この(習慣的に認められている概念上の)区別も、究極的な立場からみれば存在しない(ということを、定句二・一・十四は明らかにする)。なぜならば、原因と結果の両者は、(究極的には)別のものではないと理解されるからである。(ここにいう)結果とは、虚空など(の諸元素)から成る、多種多様に分かれた世界のことであり、原因とは、至高の(存在者としての)ブラフマンである。結果は、究極的な立場からみれば、その原因とは別ではない、…(原因から)独立には存在しないと理解されるのである。
どのような論拠によって、(右のように理解されるの)であろうか。…(天啓聖典に述べられている)「(ことばによる)補足」という語は、(天啓聖典のなかで、)まず、一者を認識すれば万物が認識されるということを立証すべき命題として提示したのち、喩例を必要とした際に述べられている。
愛児よ、たとえば一個の土塊によって、すべての土から成るものは知られるであろう。…(土からなる)変容物は、ことばによる捕捉、(単なる)名称である。ただ土である、ということのみが真実である(『チャーンドーギャ』六・十四
と。その趣旨は次のとおりである。…一個の土塊が、究極的な立場から、土そのものとして知られるならば、壺・皿・釣瓶などといったすべての土でつくられたものも、土をその本質とするという点で(土塊と)異ならないのであるから、知られたことになるであろう。したがって、「変容物は、ことばによる捕捉、(単なる)名称である」…壺・皿・釣瓶などという変容物は、単にことばによってのみ「ある」と捕捉される。しかしながら、実際には、変容物というものは実在しない。なぜならば、それはただ名称にすぎない虚妄のものであり、「土であるということのみが真実である」から。…このことがブラフマン(と現象世界との関係)に関する喩例として(天啓聖典のなかに)述べられているのである。
この文章を理解できますか? 私は理解力が良い方ではないが、並外れて悪いとは思っていません。でも、これを読んでも、理解できない。なんとなくはわかる。「原因と結果は別のものではない」とか、「言葉によって分別しているにすぎない」と言っているのはわかる。セイラーボブが、「水と氷と雲は同じもの」という例えを使うのを思い出す。
こんな調子でずっと続きます。まったくちんぷんかんというわけではなく、なんとなくは理解できる。でも、なんとなくでは意味がない。
この世の万物はそれ(最高実在)を本質としている。それは真にあるものである。(『チャーンドーギア』六・八・七)
と、唯一者である第一原因(「有」すなわちブラフマン)のみが真にあるものであることが確信され、他方には、
それはアートマンである。シヴェータケートゥよ、おまえはそれである(『チャーンドーギャ』六・八・七
と、経験的個我がブラフマンであることが教示されているからである。
要するに、天啓聖典(ヴェーダ)の中で、おまえはブラフマンであり、アートマンであると言っているからそうなのだ、と言っています。全編にわたってこの調子で続きます。なんとなくわかる、でもすっきりしない。
1500年も前の聖典を読むとはそういうことかもしれません。誰かがもっとくわしく説明してくれないと理解できない。
ネットで調べてみると、シャンカラが書いたとされる別の聖典、ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)というものがあったので、今度はそれを図書館で借りてきて読んだ。
「ウパディーシャ・サーハスリー」は韻文編と散文編から成り、韻文編はシャンカラの主張と他者への批判について、散文編は師が弟子をいかにして悟らせるかについて書かれている。
読んだ感想を先にいうと、「まえがき」はよくわかるど、本編は「なんとなくわかる」レベル。まったくお手上げということはないけど、アドヴァイタのことをブログ上で説明しようとしている以上、アドヴァイタとは何なのかをはっきり理解できて、大半の文章を明確に理解できないのなら、だめだと思います。
参考になると思われる個所を引用しておきます。
訳者まえがき(p3)より
シャンカラの哲学が目指しているのは、仏教やその他のインド哲学諸体系と同様に、輪廻からの解脱である。この解脱を達成する手段は、宇宙の根本原理であるブラフマン(Brahman 梵)の知識を得ることにほかならない、とかれは繰り返し主張している。シャンカラによれば、自分自身のうちにある自己の本体、すなわちアートマン(Artman 我)が宇宙の根本原理ブラフマンと同一であるという心理を悟ることが、解脱への道であるというのである。これは、シャンカラの独創的な思想ではない。幾世紀にもわたる多数のインドの哲人たちの思索活動を背景に、今からおよそ2500年くらい前に、バラモンの根本経典であるヴェーダ聖典の終結部を形成する「ウパニシャッド」の思索家たちが到達した梵我一如の心理にまで遡る思想である。確かにシャンカラは、『ウパディーシャ・サーハスリー』において、しばしばウパニシャッドから成句を引用し、ウパニシャッドの趣旨を明確にしようとしている。このような意味において、この作品は、詳しくは『全ウパニシャッドの精髄であるウパディーシャ・サーハスリー』と呼ばれているのである。
シャンカラは、再三再四、われわれのうちにあるとされる自己の本体アートマンと、宇宙の根本原理ブラフマンとが、同一であると説いている。しかし、現実の人間存在を直視するとき、当然のことながら、この欠点だらけの死すべき人間が、この苦しみ悩む自己が、果たして無苦・無畏・不変・不滅・不老・不生・不死・不二などといわれる完全無欠なブラフマンと同一であり得るのか、という大きな疑問の壁に突き当たって、シャンカラの教えを受け入れることは非常に困難である。
シャンカラの努力は、輪廻のなかにあって解脱を求める者に、この受け入れ難い真理をいかに理解しやすく、かつ効果的に説明し、教えるかということに注がれたのである。疑うことの出来ないウパニシャッドが、「君はそれ(=ブラフマン)である」といっているのに、われわれはそれをなかなか理解することが出来ない。それは、「君」という言葉の意味を正しく理解していないからである。換言すれば、われわれが本来の自己を見失っているからである。本来の真実の自己とは何か、これこそシャンカラがその弟子たちに徹底的に理解させようとしたことであった。
シャンカラの門を叩くものに、シャンカラが最初に発する質問は、
「君は誰ですか」
である。シャンカラ当時の、普通の弟子の場合には、この質問に対して、
「私はこれこれしかじかの家系のバラモンの息子でございます。私は、もと学生で…でございましたが、いまはパラマハンサ出家遊行者でございます。生・死という鰐(わに)が出没する輪廻の大海から脱出したいと願っております。」(『ウパディーシャ・サーハスリー』二・一・十)という返答をする。そこでシャンカラは、この常識的な返答を手掛かりに、その弟子の、自己理解が誤りであることを鋭く指摘し、弟子を真実の自己の探究へと誘うのである。
シャンカラによれば、「私はこれこれしかじかの家系のバラモンの息子でございます」ということは、バラモンという階級や家系などをもっている身体と、そのようなものを全く持たない本来の自己であるアートマンとを同一視している結果として生まれた誤った表現にほかならない。シャンカラは、このような常識的な自己理解を否定し、全く新しい真実の自己の世界へと弟子を導き入れるのである。
ちなみに、シャンカラの伝記(マーダヴァ作『シャンカラの世界征服』14世紀)によると、ゴーヴィンダに師事するに際して、師が幼いシャンカラに同じ質問をしたとき、かれは
「先生、私は地でもなく、水でもなく、火でもなく、風でもなく、虚空でもなく、それらの属性のいずれでもない。私は、感覚器官でもなく、統覚器官でもない。私はシヴァ神である。」
と答え、師を大変に喜ばせたという。
地・水・火・風・虚空は、いわゆる五大元素であり、われわれの肉体はこの五大元素から成っている。しかしシャンカラは、自分が肉体や、その属性ではなく、感覚器官でもなく、さらにその内奥にあり、アートマンのごとくに顕れる自我意識の主体の統覚機能でもない。自分はほかならぬシヴァ神そのもの、すなわちブラフマンそのものである、と答えたと解される。
ではなせわれわれは真実の自己を見失って、自分自身を、「これこれの家系のバラモンの息子です」などといって、カーストとか、家系とかをもった身体と見做すことになるのであろうか。これを説明するために、シャンカラは無明(むみょう・無知)を観念を導入した。かれによれば、無明とは、Aの性質をBに付託することである。付託とは、以前に知覚されたAが、想起の形でBに顕れることである。たとえば、薄明のとき、森のなかで縄を蛇と間違えてびっくりすることがあるが、これは過去に知覚したことのある蛇を、目の前にある縄に付託するためであるといわれる。こうような付託が無明である。
ブラフマン=アートマン以外の一切の現象的物質的な世界は、われわれの身体・感覚器官はもちろんのこと、一般に精神活動の中枢をなしていると考えられている統覚機能(心)に至るまで、真実のアートマン、すなわちブラフマンに対して誤って付託されたものにすぎない。したがって、人間をブラフマンとは全く異なる存在であるかのように見せている非アートマン的要素はすべて、無明の産物であり、あたかもマーヤー(幻影)のように存在しない。したがって、ブラフマンとアートマンは全く同一である、とシャンカラは説いている。かれのこの立場は不二一元論(Adavaita)と呼ばれる。
韻文編
五 輪廻の根源は無知であるから、その無知を捨てることが望ましい。それゆえに、[ウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理]ブラフマンの知識が述べられ始めたのである。その知識から至福(=解脱)が得られるであろう。p18
十八 無明が[ひとたび]正しい知識根拠によって除去されてしまったならば、どうして再び生ずることが出来ようか。なぜなら[無明は]無差別・絶対の内我(=内在するアートマン)には存在しないかれである。p21
十九 もし無明が再び生じないならば、「私は有(=ブラフマン)である」という認識があるのに、[私は]行為主体である」「[私は]経験主体である」という観念がどうして生ずることがありえようか。それゆえに知識は補助するものをもたないのである。p21
五 身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識をもち、その知識が身体はアートマンであるという[一般の人々がもっている]観念とおなじほどに[強固な]人は、望まなくても解脱する。p27
二六 [アートマンは]みずから輝く知覚であり、見であり、内的な有であり、行為をしない。[アートマンは]触接的に認識され、一切のものの内にある目撃者であり、観察者であり、永遠であり、属性をもたず、不二である。p132
四六 縄が[存在する]ために、蛇が[縄と蛇とを]識別する前には、存在する[かのように見える]ように、輪廻も、実在しないとはいえ、不変のアートマン[が存在する]ために、[存在するかのように見えるのである]。p137
韻文編の中には、読みようによっては、非二元のことを説いていると思えるものもある。例えば、p37より
第10章 見
一 見(=純粋意識)を本性とし、虚空のようであり、つねに輝き、不生であり、唯一者であり、無垢であり、一切に遍満し、不二である最高者(ブラフマン)ーーそれこそ私であり、つねに解脱している。オーム。
二 私は清浄な見であり、本性上不変である。本来私には、いかなる対象も存在しない。私は、前も横も、上も下も、あらゆる方角にも充満する無限者であり、不在であり、不生であり、自分自身に安住している。
三 私は不生・不死であり、みずから輝き、一切に偏在し、不二である。原因でも結果でもなく、全く無垢であり、つねに満足し、またそれゆえに解脱している、オーム。
上記の一節は、読みようによってはセイラーボブの言っていることとかなり似ているような気がします。ただ、千年以上前の聖典を翻訳したものであり、これを理解するのは容易ではない気がします。解説が欲しいところです。
散文編は、師と弟子との想定問答の形式で書かれていて、師が弟子を理解へと導くよう対話が展開し、最後に弟子は理解へと到達し、輪廻から解脱します。
散文編は、韻文編よりも少しわかりやすい。翻訳してあるものの、詳しく解説されているわけではないので、はっきりとは理解できません。残念ながら、市の図書館にあるシャンカラ関連の本はこの二冊しかない。シャンカラが言っていることをはっきりと理解できなければ、アドヴァイタを理解したことにはならない。
もっと易しく書かれた解説書はないだろうかと考えて、アマゾンで検索したが、シャンカラ関連の本は高いものが多くて手が出ない。名古屋にある図書館で蔵書検索をしたところ、愛知県図書館に何冊かシャンカラ関連の本があるということがわかった。しかも、登録さえすれば誰にでも貸してくれるという。愛知県図書館まで行って借りることにした。
参考文献
2021/09/04
アドヴァイタとは (梵我一如)
アドヴァイタとは、ヒンドゥー教の中の一つの学派の、「二つではない」(ad=ではない、vaita=二つ)という思想のこと。個人としての魂(アートマン)と宇宙を支配する原理としての神(ブラフマン)が二つあるのではなく、それらは一つのものであるという思想のこと。
多くの人が、アドヴァイタ=非二元だと思っているが、そうではない。非二元という思想の中の一つとしてアドヴァイタがある。
「不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット語: अद्वैत वेदान्त、Advaita Vedānta、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である」(Wikipedia 不二一元論より)
「梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。」(Wikipedia梵我一如より)
アドヴァイタについて、不二一元論をWikidediaで読んでも、イマイチよくわからない。英語版でAdvaita を読むと、もっとややこしい。
アドヴァイタとは、もともとはバラモン教(のちのヒンドゥー教)にあった梵我一如の思想を8世紀のインドの哲学者シャンカラが大成させた哲学体系のこと。梵我一如、シャンカラについて、もう少し詳しく調べてみることにした。そこでまずは、ヴェーダのウパニシャッドの梵我一如思想の思想というものを調べて、そのあとでシャンカラについても調べることにしました。まずはインドの歴史から。
およそ紀元前2000年ごろ、現在のパキスタンのインダス河流域にインダス文明が栄える。その後、およそ紀元前1500年ごろ、北方よりインド・アーリア人が侵入して、原住の人々を征服して一帯を支配し始める。支配する過程で、宗教、祭式をつかさどる僧侶(バラモン・婆羅門)を最上位の階級に置き、祭祀や式典のやり方を決め、それを伝承したヴェーダが生まれた。
バラモン教では、バラモンが祭祀をすることによって人々の願いを神に告げ、神によって人々の願いがかなえられる。祭祀儀式をしなければ幸せになることも、死後に天に生まれることもできない。その祭祀儀式のやり方を規定しているのがヴェーダ。
ヴェーダはインド・アーリア人が編纂したバラモン教の聖典群(哲学書)の総称で、神の言葉をリシ(仙人)が記録したものとされ、バラモンの人たちには絶対的な権威を持つ。ヴェーダという一冊の書籍があるわけではなく、長期間(およそ紀元前1200年から紀元前500年)にわたって成立した多数の書簡(初期には口伝された)の総称のことを指す。
翻訳されたヴェーダを読んでも、例えば聖書を読むようなもので、解説がなければ理解できないため、学者でもなければ、解説した本を読む以外にない。そもそも膨大なヴェーダの翻訳集(聖書みたいなもの)は、調べた範囲では日本では出版されていないため、学者が部分的に翻訳出版したものを読むしかなく、その解釈は学者の解説に頼る以外にないが、わかりやすいとは言えない。
時代背景
輪廻思想
インドの古代の人たちは、人間は肉体と霊魂でできているという、二元論を信じていた。物質である肉体は必ず滅びるが、物質ではない霊魂は永遠不滅で、次の生を求めてさまようものと考えた。肉体は大地にかえり、霊魂は天界に昇るとし、その人の生前の行いによって霊位が上下し、次に宿るべき肉体が決まると信じた、これが輪廻という考え方の基本。
バラモン教は、この輪廻思想をもとに、生前のその人の信仰の度合いによって決まる霊位、つまり次に生まれ変わる境涯を「天界」、「人間」、「畜生(ちくしょう)」、「餓鬼(がき)」、「地獄」の5種類とした。これを「五趣」、あるいは「五道」と呼ぶ。バラモン教では、この死後に関わる「五趣」の思想を、現世の社会階級にまであてはめていった。それがカースト制(ヴァルナ)。
カースト制
階級制度としてカースト制があった。
バラモン…最上位。宗教・祭式を司る。
クシャトリヤ…二番目。王侯・武人。
ヴィシャ………庶民
シュードラ……奴隷。
さらにその下にアウトカーストとしてのチャンダーラ。
カースト制では、いったんその階級に生まれると、生涯階級が変わることはない。
バラモン教を熱心に信仰し、徳を積むことで、次の人生では上位の境涯に生まれ変われるという希望はあったが、最下位のシュードラにはそれさえなく、シュードラは永遠にシュードラのままである。
バラモン階級だけが神々に対して、ヴェーダ(聖典)にもとづく祭祀を通じて願い事をする力があると信じられていた。
ヴェーダの構成とウパニシャッド
ヴェーダには次の四種類があり、それぞれのヴェーダは膨大な数にのぼる。
リグ・ヴェーダ…………神々を祭場に招き、賛歌によって神をたたえるホートリ祭官のための賛歌。
サーマ・ヴェーダ………歌詞を一定の旋律にのせて歌うウドガートリ祭官のための歌詞。
ヤジュル・ヴェーダ……祭祀を行い、供物をささげるアドヴァリウ祭官が唱える歌詞。黒ヤジュル・ヴェーダと白ヤジュル・ヴェーダがある。
アタルヴァ・ヴェーダ…祭式全般を総監するブラフマン祭官に所属し、幸福を願ったり、他人を呪ったりするための呪詞。
上記四つのヴェーダは、各々次の四つの部分から構成される。
本集…………ヴェーダの中心部分でマントラ(賛歌・歌詞・祭詞・呪詞)を集めた部分。
ブラーフマナ(祭儀書)…本集に付属の散文。祭式の仕方や神学的説明。
アーラニヤカ(森林書)…森林の中で教えられる秘儀や式典の説明。
ウパニシャッド(奥義書)…哲学的部分。ヴェーダーンタ(終結部)とも呼ばれる。およそ紀元前500年ごろを中心に成立。インド哲学の源泉と言われ、ここにアドヴァイタのもととなる梵我一如の思想があるとされる。
バラモン教とヒンドゥ教
バラモン教 Wikidedia
ヒンドゥ教 Wikipedia
バラモン教とは、バラモン階級を中心としたヴェーダにもとづく宗教。ヒンドゥー教はバラモン教を基盤として発展したインドの民族宗教。広義にヒンドゥー教と言った場合はバラモン教を含んでいる。両宗教は西洋人が人為的に分類を分けただけで、インドの人たちはヒンドゥー教とは呼んでいない。ヒンドゥー教は本来インドにおける、イスラム教、仏教、ソロアスター教、ユダヤ教、キリスト教を除く、混沌とした宗教・文化の複合体による便宜的な呼称。
神々
バラモン教、ヒンドゥー教は多神教であり、数多くの神が信仰の対象となっている。バラモン教の時代にはヴェーダに登場する神々として、インドラ、ヴァルナ、アグニ、サラヴァティー、ブラフマーなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。
インドラは帝釈天として、ヴァルナは水天、ブラフマンは梵天、サラヴァティーは弁財天として仏教経由で日本にもなじみがある。ただし、仏教における梵天はバラモン教におけるブラフマー(ブラフマン)とは同じではなく、仏教における梵天は神としての一人であるのに対して、バラモン教のブラフマーは全宇宙を司る絶対的な存在としての神である。
バラモン教ではやがて、ではいったい神を創造したのは誰かと考えるようになり、その思想が梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)へと発展していく。
バラモン教の教義
神々への賛歌『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。転生輪廻(サンサーラ)は、インドのバラモン教の思想である。この教えによれば「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、人間のカルマ(行為、業)が次の世に次々と受け継がれる。この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を結ぶ。善因は善果、悪因は悪果となる。そして、あらゆる生物が六道〔①地獄道、②餓鬼道、③畜生道、④修羅道(闘争の世界)、⑤人間道、⑥天上道〕を生まれ変わり、死に変わって、転生し輪廻する。これを六道輪廻の宿命観という。何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を巡るがごとしと唱える。(Wikipediaより)
さてここからが本題。輪廻から抜け出すためには、ブラフマンとアートマンが同一(梵我一如)であることを知らなければならない。つまり、宇宙の最高神である梵(ブラフマン)と、真の自己であるアートマンが同じものであるということを知らなければならない。そしてその方法はヴェーダの中のウパニシャドにある。そこで私はウパニシャドに関する本を何冊か読んだ。
ウパニシャドにおける解脱とは、梵我の本質を悟って、この本体と合一することである。「実にかの最高梵を知る者は梵となる」(ムンダカ3・2・9)。ただしここに「知る」というのは、経験的知識或いは学問上の知識を指すのではない。「無知を信奉する者は、あやめもわかざる暗黒に陥る。知(理性による知識)に喜びをもつ者は、さらに甚だしき暗黒に陥る」(イーシャー12)。無知に蔽われながら、みずから賢明にして学識ありと妄想するものは危い。解脱は普通の知・無知を超えた真知にまつほかほかなく、ここに、真知に到達する手段が問題となる。
ウパニシャッドの教えるところに従えば、感覚を制御し、欲望を絶ち、禁欲に服し、瞑想によって精神を統一し、思いを梵我のみに集中する修行がもっとも有効である。なんとなれば、欲望を離れたところに業の束縛はおよばないからである。(インド文明の曙p171)
善因善果・悪因悪果を教えたウパニシャッドが解脱を志向する者に奨励したところは、ヴェーダの学習・禁欲・祭祀・布施・苦行・断食・五感の抑制を始めとして、古来インドで尊重されてきた徳目と大差がない。(インド文明の曙p173)
アートマンとブラフマンが何か、そしてそれが同じものであると知るためには、禁欲して瞑想して、知識ではなく、本当の知恵を体得する修行をしないといけないという。う~ん、それはちょっと無理。
本を読む程度では知識でしかなく、真の知恵とはならないかもしれませんが、アートマン、ブラフマン、梵我一如が何なのかを抜粋しておきます。また、アドヴァイタと関連しそうな個所も抜粋しておきます。
アートマン、ブラフマンの定義については、ヴェーダの年代や種類、解釈者によって一定ではなく、様々な解釈がある。
アートマン
アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。(Wikipediaより)
アートマン(我・がと訳す、男性語)は、元来「気息」を意味し、生命の主体として「正規・本体・霊魂・自我」の意味に用いられた。前述のプラーナならびにプルシャと当初から密接な関係にあったが、次第に原義から遠ざかり、個人の本体を表す熟語となった。(インド文明の曙p162)
このアートマンは、われわれが日常生活において経験するような自我ではありません。われわれの感覚器官によって、見たり、聞いたり、言葉で表現したりすることができない、主観客観の二元対立を超越した、決して客体化されることのない存在です。したがってアートマンを、目の前にある本や机などのように、認識対象として認識したり、日常の言語によって表現することは不可能です。(インド哲学へのいざないp33)
要するに「アートマン」は、生きとし生けるものーー今日の知識で無生物と区別される生物ではなく、ヴェーダ時代の人の意識にとって生あるものーーの「いきいきとした」性質の根底にある何ものかをあらわす概念であって、生命力、寿命を意味する「アーユス」(ayus)に近似するが、力ではなく、また、「アス」や「プラーナ」とは区別されるが、親縁関係にあるものであった。(古代のインドの神秘思想p126)
アートマンすなわち我(が)とは、元来「気息」を意味し、生命の主体と目されては「生気」となり、総括的には生活体すなわち「身体」特に「胴体」となり、他人と区別しては「自身」となり、さらに内面的・本質的に解されて「本体・精髄・霊魂・自我」を意味するに至った。(ウパニシャッドp55)
ブラフマン
ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根理。(Wikiipediaより)
ブラフマン(梵・ぼんと訳す、中性語)とは元来祈祷の文句ならびにその神秘力を意味し、祭式万能の気運につれ、神を左右する原動力と認められ、アタルヴァ・ヴェーダおやびブラーフマナ文献においては、宇宙の根本的想像力の一名となった。バラモンが他の階級をしのぐのは、この神秘力を強度に備えていたからである。(インド文明の曙p161)
ブラフマン(中性語)すなわち梵とは、元来ヴェーダの賛歌・歌詞・呪詞、さらにその内に満つる神秘力、ヴェーダの知識およびその結果たる神通力を意味し、ヴェーダ神聖・祭式万能の信仰につれ、神を動かして願望を達する原動力と認められ、記述のごとく、アタルヴァ・ヴェーダおよびブラーフマナ文献においては、他の諸原理に伍して宇宙の根本的想像力の名となった。(ウパニシャッドp54)
「ブラフマンの原義については、このように見解がさまざまに分かれて、定説がない。ただ確実なのは、ブラフマンが祭式万能のブラーフマナ時代に、宇宙の最高原理、至高存在とみなされるに至ったことである。(古代インドの神秘思想p110)
梵我一如
梵我の本質を文字によって説明するのは至難のわざである。一にして一切、相対を離れ比類を絶した根本原理は、経験の世界を去ること遠く、原語も思考も到達し得ないかなたにある。これを積極的に描写しても、消極的に定義しても、有限の言語によって無限な実体を表現することはできない。種々な比喩が用いられ、さまざまな定義が提唱されているが、結局は日常の経験を超越した瞑想により悟証されるべきのである。次に一例として、チャーンドーギア・ウパニシャッド(三・十四)に含まれる「シャーンディリアの教義」を挙げる。
ブラフマンは実にこの一切(宇宙)なり。(一)
意より成り、生気を体とし、光明を形相とし、その思惟は真実にして、虚空を本性とし、一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、この一切に遍満し、言語なく、関心なきもの、(二)
これおすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。米粒よりも、或いは麦粒よりも、或いは芥子(けし)粒よりもあるいは黍(きび)粒よりも、あるいは黍粒の中核よりもさらに微なり。これすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。地よりも大に、空よりも大に、天よりも大に、これらの世界よりも大なり。(三)
一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、一切に遍満し、言語なく、関心なきもの、すなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。これブラフマンなり。この世界を去りてのち、われこれと合一すべしと、(意向)あらん者には、実に疑惑のあることなし。シャーンディリアは常にかくいえり、シャーンディリアかくいえり。(四)
根本原理は一切を包括し、一切に遍満し、極小にして同時に極大である点が強調されている。矛盾する表現によって相対観念を止揚する好例はイーシャー・ウパニシャッドに見いだされる。
そは動く(同時に)そは動かず。そは遠きにあり、しかもそは近くきにあり。そは万有の中にあり(偏在性)、しかも万有の外にあり(超越性)。(五)
しかし、万物をアートマンの中にのみ認め、万物の中にアートマンを認める者はもはや疑いをいだくことなし。(六)
その人にありて万物がアートマンに帰一し終わりたるとき、かく分別する者にとり、そこにいかなる迷妄あらんや、いかなる悲憂あらんや、(アートマンの)独一性を認むる者にとり。(七) (インド文明の曙p164)
「この我(が)は実に梵なり、認識よりなり、意よりなり、生気よりなり、眼よりなり、耳よりなり、地よりなり、水よりなり、風よりなり、虚空よりなり、光明よりなり、非光明よりなり、欲望よりなり、非欲望よりなり、瞋恚(しんい)よりなり、非瞋恚よりなり、法よりなり、非法よりなり、一切よりなる。(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)(ウパニシャッドp62)
「梵は我なり」(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)(ウパニシャッドp58)
七「この微細なるものといえば、ーーーこの一切(全宇宙)はそれを本質とすものである。それは真実である。それはアートマンである。お前はそれである。(tat tvam asi タットバマシ)シュヴェータケートゥよ」(チャーンドーギャ・ウパニシャッド六・八)(インド哲学へのいざないp229)
どの本もこんな調子で原文や説明がつづくが、結局のところ、何だかよくわからない。もっとわかりやすい表現で常用漢字だけで説明してくれないと理解できない。
アートマンは客体化することのできない認識主体である。見ることの背後にある見る主体を、だれも対象化して見ることはできない。対象化されたものは、もはや真の主体ではない。したがってアートマンは、把捉されないもの、どのような述語によっても限定されないものである。ただ、「甲に非(あら)ず、乙に非ず」という否定的表現を用いる以外に、それを表示する方法はない。この「非ず、非ず」neti neti という表現は、ウパニシャッドにおける最も有名な言語の一つである。このようなアートマンこそは、個体における不滅不死のものであり、万物に内在する普遍者である。それは万物を内部から制御する「内制者」である。
日常経験は、見る者と見られるもの、聞く者と聞かれるものなどの二元性を前提としている。しかし万物がその本質においてアートマンにほかならないことを、真に人が知るとき、彼にとって二元性はなくなり、見ながら見ず、聞きながら聞かないという境地が開ける。二元性を越えて、彼は「アートマンそのものとなる」のである。このようにアートマンと合一した解脱の境地を、ヤージニヴァルキャは熟睡状態として説明する。眠りの浅い状態にあるとき、人はこの世を構成している物質の素材を用いて、目ざめているときに経験した世界に似た夢の世界を自らつくり出す。しかし熟睡状態に進むと、外界は消滅して、彼は完全な安息の境地に達するのである。(世界の名著1バラモン教p24)
私にとってはこの説明は妙に説得力がありました。この夢の例えは他の本にも出てくるのですが、例えば、夢を見て、夢から覚めてから夢を思い出せるということは、夢を見ている主体が夢の中にいたということ。つまり、二元性の世界にいたということ。
ところが、熟睡状態の時は、夢を見る「主体」が消えてしまい、いわば非二元の世界にいるため、夢を見たのかどうかも、そこに自分がいたのかも、どういう状態だっとのかも思いだせない。それと同じで、アートマンとは何かと言葉で説明できるのならそれは二元的な視点に立っていることになり、真のアートマンではない。真のアートマンは非二元であり、そこに説明できる主体がいない以上、言葉で説明することはできない。
いずれにしても、ヴェーダの中は例え話ばかりで、具体的にアートマンやブラフマンが何であるかは書いてないし、それが同じものであることを知る具体的な方法(瞑想などの修行以外で)も書いてない。あなたはそれであるの繰り返し。それはそうならざるえない。非二元の本質を言葉では説明できないのと同じ。
原始インド社会、バラモン教の成り立ちについてもっと詳しく学びたい方は、佐々木閑:仏教とはなにか(YouTube)で学んでください。今回特に関係あるのは以下二回。
参考文献