2016/02/29

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング2016 ⑪最終回

セイラーボブ・ミーティング・2016を①から読む方はこちら

「Sailor Bob Adamson Inter-view・ギルバート・シュルツ編纂」から抜粋

筆者注:以下の発言はすべてセイラー・ボブ・アダムソンの発言です。原文には前後に質問者の質問や応答がありますが、それを載せると長くなるうえに、かえって焦点がボケてしまってわかりにくくなるので割愛します。
ボブの発言部分については省略・改変することなく、原文に忠実に翻訳掲載しました。


p3
「まず初めに、あなたは体でもなければマインドでもありません。あなたは、アウエアネス、意識、注意深さ、目覚めている状態と言われている生のエッセンスそのもの、すなわち知性エネルギーであり、それがこの森羅万象を機能させています。それはたった一つの実在。」

p3
「ちょっと考えてごらんなさい。あなたはアウエアネス(意識)を掴むことができるでしょうか? それを形にできるでしょうか? 形態や大きさ、場所を与えることができるでしょうか? それは空間のようなものであり、物ではありません。それにはパターンや形は無く、中心も周辺もありません」

p4
「仏教で使われる別の言葉では、wakefulness(目覚めている状態)と彼らは呼びます。wakefulness は アウエアネス(意識)によく似ています。あなたは朝目を覚まし、そして今も起きています。

そして今朝あなたが目を覚ましてから、すべての物事が起きました。それは、何の中で起こったのですか? それは、目覚めていることの中で起こったのではないですか? しかし、その目覚めていることとは一体何でしょうか? そして、その目覚めていることを手に入れるために、あなたは何かをしなければならなかったでしょうか?」

p4
「アウエアネスという言葉を聞いたとたんに、たいていの人はアウエアネスを手に入れようと捜し始めますが、捜しても無駄です。人々はアウエアネスが何なのかを考え始めます。そして人々はそれに対して、それはこうあるべきだという概念を抱きます。

しかし、(目覚めている状態)という言葉を使うとき、目を覚ましていることに対して、あなたは何をしなければならないというのですか? あなたは自分が眠ってはいないことを知っています。それなら、あなたはそれを捜す必要はなく、何もする必要などないのではないですか?あなたが眠っていないのなら、起きているに違いありません。

それをそのままにしておいてください。それをいかなる方法でも、変えたり、正したり修正したり、また捜し求めたりしないこと。それは昼であろうと夜であろうと、どんな活動がなされていようが、すべてはその中で起こります」

p5
「それは常に明白で明らかなことです。はっきりしているにもかかわらず、気づかない。それゆえニサルガダッタや、たいていのいにしえの教典ではこう説きます。(我々の問題は無知からくる)と。それは愚かだと言っているのではなく、知らないふりをしているのだということです。我々は、自分たちの本質を無視して、その内容物、その中で起こっているいくつかの活動に焦点をあて、この部分は私、残りの部分は私じゃない、などと常に選んでいます」

p41
質問者の「日常の普通のアウエアネス(意識)ではなく、何かもっと深淵ですばらしい何かが起こることを待ち続けている私たちに向って何か言ってください」という質問に答えて。

「それで今あなたはどうですか? 起きて(awake:目を覚まして)いますか?」

「それでその目覚めている状態に、あなたは何をしなければならないと言うのですか? あなたはそれを捜さなくてはいけないのですか? あなたは自分が眠ってはいないということを理解するだけでいいのです。あなたは確かに眠ってはいない。そして眠っていないのなら目覚めているに違いないのです。

目覚めている(awake)を別の言葉で言うとどうなりますか? 目覚めている(awake)はアウエアネス(awareness・意識)でしょう?」

「それが目覚めている状態、すなわちアウエアネスです。フル・ストップ!(ピリオド)。あなたはそれに何を付け加えられるのでしょうか? あなたはそれから何を取り去ることができるのでしょうか? それから、どんな深淵なことを得る必要があるのでしょうか?」

p42
「その他に何を求めているのですか? あなたは精神の高揚や下降が欲しいのですか? もしそれが得られたとして、それがいつまで続くと言うのですか? 何かすばらしい体験? たぶんあなたも人生の中で、途方もなくすばらしい経験をしたことが何度かあるでしょう。それを思い出してみてください。それが長く続いたかを?」

p43
「あなたはそれを何と呼びますか? 普通のアウエアネス(意識)です。普通の、ただの日常の普通のアウエアネス(意識)です。

さて今、すばらしい、偉大な経験をしたとします。すばらしい一瞥、ビジョンやあらゆる種類のものを。また、極上のエクスタシーを体験して、あなたはまたそれを捜し求めます。もし、その状態が一週間続いたらどうなりますか? 一ヶ月、一年。そしたらどうなりますか?」

「それが普通の状態になります。普通のありふれた日常の状態となります」

「あなたはまた何かもっと良いものを捜し始めるでしょう。というのも、この目覚めている状態がいつもの状態であるために、それがありふれた普通のものに見えてしまうからです。とても普通の状態に。しかし、その本質を見てください。くつろいで。自分の本当の姿を知ること。それがいわゆる再認識(re-cognize)というものです。

あなたはすでに知っていて(cognized)、何度も何度も認識しいていますが、思考という一団の雲に覆い隠されてうわべ上は認識できなくなっています。しかし、それを再認識してください。そうすれば、雲が無ければ太陽が燦然と輝いていることを認識できるでしょう。

この例えを利用してください。そして太陽は暖かく、明るく、輝いていて、とても幸せです。その本質はあなたも同じです。明晰で空、暖かく、そう言いたければ愛情に満ちていると言ってもいい。」

***

以上で抜粋翻訳終わり。

セイラー・ボブが説くのは非二元・他に何もない一つのもの。一方で私たちが見ているのは分離だらけの二元性の世界。世界はそのように現れるしかないのだとボブは言います。

セイラー・ボブは、その見ることも理解することもできないものを、様々なポインターを使って私たちに指し示そうとしています。

ボブの教えが真実だと思われた方、おとぎ話のたわごとだと思われた方、お前の説明ではよくわからないと思われた方、言っていることはなんとなくわかるけど・・・。感想は様々だと思います。

でも、こうだと決めつけて、ラベルを貼ってしまうことのないようお願いします。
よくわからないままにしておけば、いつか何かの瞬間に卵が孵化する瞬間があるかもしれません。
また逆に、すっかり忘れて思い出すこともないのかもしれません。
何かのラベルを貼りつけずに、どうぞそのまま自然に起こるに任せておいてください。

2016/02/28

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑩

ボブの教えの一番大切なところ

What's wrong with right now unless you think about it.(今そのことを考えなかったら何も問題ないじゃないか)

これはギルバート・シュルツがボブのミーティングの録音から編纂した本の題名です。この本がもとでボブのことが多くの人に知られるようになりました。

この「What's wrong with right now unless you think about it.」という言葉は、ボブがよく使うポインター(ヒント)の一つですが、なぜギルバート・シュルツが、数あるボブのポインターの中からこの言葉を選んで題名にしたかというと、これがボブの教えの中でも、特に大切なところと考えているからではないでしょうか。

私も、この言葉がボブの教えの核だと思っています。
この言葉の意味するところは、私たちの問題はすべて、自分の思考が作り出しているという意味です。

何か問題が起こったら、ボブの言葉を思い出してください。自分など存在しない、誰もいないのだから問題など起こりようがないと理解するのが一番ですが、そこまでの理解に至っていなくても、起こっている問題は何なのか、それは単なる思い込みではないかと疑ってみてください。

愛する人が去ってしまった。もうあの人の愛がえられないと涙にくれている現実を前にして、傷つく「私」は実在しないのだから悲しむ必要はないと思っても、なかなか受け入れがたいことかもしれません。

いくらそれは実在ではなく概念だから悲しむ必要はないと言っても、悲しんでいる当人には受け入れがたいことでしょう。

でも、考え方を少し変えるだけで、状況の見え方は全然違ってきます。
自分が悲しんでいるもととなっている思考は何なのかを見つめてみたらどうでしょう。

愛する人が去ったのは、もっと大切な人に出会うためだという思考が持てるなら、また、今は恋愛ではなく、もっと大切な何かに打ち込むべきだと天が合図してくれているのだと考えられるなら、泣いている暇なんてないはずです。

問題を作り出しているのは、思考からくる概念です。そしてそれに巻き込まれ、しがみついているのは、そこにいるはずのないあなたです。それに気づくことこそがセイラー・ボブの教えの神髄だと思います。

セイラー・ボブの教えは、ある時何かが起こって、何かが変わるという教えではありません。エンライトメントも、特別な理解もありません。セイラー・ボブの教えは、学んで理解するだけではだめで、実践しないと意味がありません。

セイラー・ボブのまわりには、何年も通っている常連がたくさんいますが、彼らは皆、セイラー・ボブの教えをよく理解しているし、精神世界にも精通した人たちです。

ある時6人でカフェで話をしていたら、全員が過去にインドのどこかのアシュラムで瞑想したことがある人たちで、オタクばっかりだと笑ったことがあります。
彼らは様々な方法で何年も瞑想したり、探求したりしてきた人ばかりです。

その彼らが、なぜ長年ボブのところへ通っているかというと、ボブの教えを日々の生活の中で実践しようとしているからです。

ボブは言います。空気が透明なのは皆知ってはいるが、空は青く見える。青い海の水をバケツ一杯汲んで来いと言っても、海の水が実際は青くないことはみんな知っている。
いくら教えを理解しても、「私」は現れるし、問題も次々と起こってくるように見える。

セイラー・ボブがインドのニサルガダッタ・マハラジのもとで教えを学んで帰ったあとでも、経営していた農場が流されたり、病気に苦しんだりと様々な問題がボブに起こりました。

そんな時ボブは、マハラジの教えを思い出し、起こっていることは単なる見せかけの現象で、そこには何もないんだということを繰り返し思い出したと「ただそれだけ」に出てきます。

また、ボブの師であるニサルガダッタ・マハラジは、「私が死んだあとに娘たちはちゃんと生活していけるだろうか」と絶えず心配していたと「Living Reality」に出てきます。

生きている以上、問題は避けられないし、心配の種は尽きません。それが私たちが身を置く二元性の世界なのです。
ボブの教えは、ある時エンライトメントが起こって恍惚感の中で暮らせるという教えではないのです。

ボブはlife essence という言葉を使います。これもアウエアネスのポインター。体に目や脳があっても、そこにlife essenceがなければ、あなたは見ることも聞くこともできない、というふうに言います。要するに、アウエアネス・知性エネルギーがなければ、体は機能しないよと言っています。なぜなら、私たちはその現れだからです。

ボブはまた、"Live your livingness."と言います。livingnessという言葉も、ボブがよく使うポインターの一つです。あえて日本語に訳すとすれば、「生き生きとした命」。生き生きとした命を生きなさいという意味です。

ボブの教えは、どうせ私は実在しないし、世界は幻なんだからと、厭世的にしらけて生きろという教えではありません。
むしろその逆で、あなたが思考にとらわれることなく、livingness に身を任せて生きるなら、もっともっと可能性が広がるよと教えています。

努力が必要な時には自然に努力が起こります。考えなくてはいけない時には自然に思考がやってきます。

問題や思考に縛られて動けなくなったら、心配するのをやめて、五感を開いて livingness に身を任せてください。内在する知性が自然にあなたを別の展開へと運んでいきます。

あなたは自分で仕事やパートナーを選んだと思っているかもしれませんが、そもそも、その選択肢を用意したのは誰ですか?

あなたが生まれてすぐ、まだ目も開かない時に、どうやってあなたは母親の乳房を捜しだして吸ったのですか?

あなたの体や両親、境遇を、あなたは自分で選んで生まれてきたのですか?

あなたが自分で何かをしたことなど一度もなかった。好むと好まざるとにかかわらず、物事は自然に起こり、自然に変化してゆく。思い煩うことは何もないのです。

You are being lived. あなたは生かされている。

***

以上で私の説明は終わりです。でも、やはり最後はボブに登場してもらわないといけません。そこで明日は最終回として、ボブの本「Sailor Bob Adamson Inter-view」からの抜粋翻訳を結びとして掲載します。


2016/02/27

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑨

概念のラベル

ボブは、
「概念のラベルを剥がしたら、何も見えない」
「世界はあなたの意識の中に現れ、概念のラベルが貼り付いている」
という言い方をします。

私たちが経験的にあれこれを学んだ過程で、すべての物や出来事に概念のラベルを貼っていて、それが私たちの世界を構成しているということは、昨日までに書きました。概念のラベル貼りということがわかりづらいと思いますので、もう少し説明します。

私がメルボルンで泊まっていたのは、YHAメルボルンというユースホステルです。一階には大きな食堂があって、夜になると、世界中からやって来た若者たちが、ビール片手に大きな声で話をしています。

たいてい私は隅の方に座って一人でビールを飲みます。私は日本語と英語はわかるのですが、その他の言語はまったくわかりません。
日本語も英語も聞こえない時、そこにはいろんな国の言語が飛び交っています。

あれはフランス語かな、中国語もあるな、程度のことはわかるのですが、基本的には雑音にしか聞こえません。みんな一斉に大きな声で喋るので、かなりの雑音です。音とは何かというと、ヴァイブレーションであり、エネルギーです。

そこに誰かが突然日本語で「ねえ、聞いてよ。今日、ヤラパークでいい部屋見つけたんだけど、大家に交渉してもまけてくれないのよ」と誰かが言ったとします。

すると突然、私の脳裏には、ワーキングホリデーでメルボルンにやって来た女の子が今日ヤラパークへ部屋探しに行って、良い部屋を見つけたのに大家が家賃を負けてくれなかったからダメだったんだという世界が広がります。

もともと雑音でしかない音(日本語)に、私は経験的に「家」「大家」「交渉」というラベル(概念)を貼りつけているために、そこに世界が現れました。

また別の例をあげるなら、だまし絵。ここに魔女が隠れているよ、と教えてもらうと、その瞬間からおじいさんのヒゲが魔女に見えてしまうやつ。

ここに魔女がいるよと学習して概念のラベルを貼ると、それからは何度見てもおじいさんのヒゲには見えず、魔女に見えてしまう。
形や色というのは、後天的に学んだものです。そのラベルを剥がしてしまったら、魔女もおじいさんも消えてしまい、何が書いてあるのかわからない。

もっと極端なことを言えば、焦点を合わせる作業さえも後天的に学んだものです。空、雲、ビル、お母さんの顔との距離感も後天的に学んでラベルを貼ったものなので、そのラベルを全部剥がしたら、全部ぼやけてしまって、何が何だかわからない世界が現れる。

例えば、メルボルンのエリザベス通りを歩いているとします。
私は成長する過程で、「歩道」「ビル」「車道」「車」「歩行者」という物事を学び、そこに概念を貼りつけています。

その概念があるために、「ビル」にぶつからないように、「歩行者」を避けながら「歩道」の上を歩きます。もしうっかり「車道」に出て「車」にぶつかると「ケガ」をする事も知っています。
もし、そのラベルを全部剥がしてしまったら、何が起きるでしょうか。

遠近感も経験的に学んだものですから、空とビルの区別や、車やトラムが何なのかもわからなくなり、歩道と車道の区別は消え、ビルも車も判別がつかなくなります。
おそらくその時見えるのは、ぼんやりとした色彩だけの世界が広がっているはずです。

ぼんやりとした色彩の世界の言い方を変えると、エネルギーだけが広がっている世界。
そしてその色彩が現れているのは、あなたの意識(awareness)の中です。
あなたの意識の中に広がるエネルギー現象に概念のラベルを貼って定義して、世界を出現させているのはあなたです。

感情や思考など、目に見えないものにも同様のラベルが貼られています。ある時好きな人が視界から消えて、何か不安定な感情になって泣いた。その感情に「悲しい」というラベルが貼られます。

次にまた誰か大好きな人に去られると、「悲しい」という感情が自動的に起こってきて、その感情にとらわれてしまいます。ラベルなど貼らなければ、すぐにどこかへ消えてしまう一過性の感情にすぎないのに。

「あなた」「私」「建物」「椅子」「約束」「悲しい」、すべては概念です。そこに実際にあるのは、エネルギーだけなのです。

「あなた」が「私」を捨てた。「彼」が「私」を傷つけた。これらは単なるエネルギー現象で、実際には何も起こっていない空間に、あなたが貼りつけたラベル(概念)です。

そしてそれはどこで起こっているのか。あなたの意識の中です。
もしあなたがこのことに気づいて、すべての不幸や問題は、あなたが貼りつけた概念(ラベル)でしかないと気づいたなら、そこに問題は何もありません。

2016/02/26

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑧

もう少し具体的に

「私はいない」
「万物は一つのもの」
「時間は存在しない」

「何も起こっていない」
「死は存在しない」

こういった言い回しを、そのまま直接使ってしまうと、誤解が生じやすくなる。前回訪問時のブログで私は、こういった直接的な表現を不用意に多用してしまい、わかりづらくしてしまったかもしれないと反省しています。

ボブの定義では、実在(reality)とは永遠不変のもの。顕現(appearance)とは、見せかけのもので、変化していくもの。

私たちが目にしている世界は顕現であり、永遠不変ではない二元性の世界。その世界には、物質としての私の肉体もあなたの肉体も存在するし、山も海も椅子も壁も存在する。それは当たり前のこと。

これらのものは、永遠不変ではない。肉体は死ぬし、「私」という思考も死ぬ。山も海も椅子も壁もやがては姿を変えていく。それらの物は実在ではない。実在ではないから「私はいない」「何も起こっていない」という言い回しになる。

私たちが見ている世界は二元性の世界です。私とあなた、昼と夜、見る人と見られる物。それはそのように現れるしかありません。それが無いと言っているわけではなく、それは実在(reality)ではなく、顕現(appearance 見せかけ)だと言っているのです。

「万物は一つ」という言い回しは、実在のレベルの話であり、見せかけの世界の話ではありません。顕現(見せかけ)の世界では万物は一つではなく、バラバラに存在する。あなたもいるし、私もいる。

そのバラバラに見える物たちも、顕現として現れているもととなる実在としては分離のない一つのものだと言っているだけのことです。

「時間は存在しない」という言い回しも、もっと正確に言うなら、「時間という概念は、思考の中にしか存在しない」という意味であり、昨日の出来事が全部なかったという意味ではない。

ところが、「昨日の出来事」も、もっと深いレベルで使われた場合は、「何も起きていなかった」という言い回しになる。私たちは、現象の世界で起こっていることに、さまざまなラベルを貼る。そこに実在としてあるのはエネルギー現象だけ。それにラベルを貼っているにすぎない。

「死は存在しない」という言い回しも、顕現として現れた肉体は当然死ぬし、「私」という思考も死ぬ。それは当たり前。ボブが「死は存在しない」と言っているのは、肉体でも思考でもない実在としての「私」のことを言っている。

実在という点から見れば、そこにあるのはすべて単なるエネルギー現象であり、それをわれわれの思考が勝手に、「私」が「あなた」を「傷つけた」とか、「イラク」で「戦闘」が「起こった」というふうにラベル(概念)を貼っているだけのこと。実在の点から見ればそれは単なるエネルギー現象であり、「何も起こっていない」ということになる。

もちろん、物理的に、私の肉体は存在するし、あなたの肉体も存在する。それらは一つではないし、別々に存在する。当たり前の話ですが、それがないと言っているわけではない。
イラクで戦闘は起こっていて、それが起こってないとは言っていない。

ただそれらは、人間が勝手に貼りつけた概念で解釈しているだけのこと。実在(reality)という点から見れば、それは単なるエネルギー現象で、何も存在せず、何も起こっていない。

ボブの定義では、実在とは永遠不変のもの。そういう意味において、肉体も物質も実在ではない。人も物もすべての物もやがては、姿を変え、変化してゆく。
肉体は死に、山もビルもやがては姿を変えていく。

私たちの本質は肉体ではない。だから「死などない」という言い回しになるが、肉体は死ぬ。

ボブは言う。
「あなたは永遠不変の実在です。生まれてから、変化していないものは何ですか。あなたの生まれた時の細胞は変化し、すべて生まれ変わりました。それはあなたではありません。思考はどうか。すべての思考はやってきては去っていく。それはあなたではありません」

では、生まれてから今まで変化せずにあるものとは何か。その変化しないものこそがあなただという。生まれてこのかた、ずっと変わらずにあるものとは何か。

それは、あなたの意識(awareness, consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)。

あなたが見た景色、思考、音などは、絶えず変化してどこかへ行った。しかし、あなたの意識(awareness, consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)は今も変わらずにある。

あなたの意識(awareness, consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)は、アウエアネスを表すポンター(ヒント)。それは個人のものではなく、普遍的アウエアネスの一部。

あなたの子供ころから、世界を認識してきた意識(アウエアネス)だけが変化せず、今もこの瞬間もここにある。それが本当のあなたであり、その内容物として現れる現象はあなたではない。

ボブは、私たちはアウエアネス(意識)そのものだと言う。それを「知性エネルギー」と言う時もあれば「認識する空」と言う時もある。思考や物質がエネルギー現象となって現れるスペースだという時もあるし、惑星を動かしたり、鼓動や呼吸をつかさどったりするエネルギーだという時もある。

どの表現も別の側面を表しているにすぎず同じもの。そしてそれは他に何もない一つのものであり、万物は一つのものだと言っている。ボブは使いませんが、神という言葉がわかりやすければそれでもいい。

ボブが、万物は一つのものということを説明する時は、クオーク(微粒子)の説明をする時があると前回のブログで書きました。

物質は実はスカスカの空間で、その空間を見て勝手にラベル(概念)を貼りつけているだけだという説明で納得できる人はそれでいいと思います。

最近よく耳にするニュートリノもクオークの一つなのだそうですが、そのクオークが飛び交う空間を見て、概念のラベルを貼りつけているのは我々の意識(consciousness)だという説明で納得できる人はそれでいい。ボブのところへ来る人の多くはこの説明で納得しています。

アウエアネスは一つのもの。万物はその中に現れるものという意味で、一つのもの。

またボブは、このことを説明するのに鏡の例えをよく使う。鏡がアウエアネスであり、あなたの意識。鏡に反射して映る世界が万物。反射はいろいろなものを映し出す。あなた、私、椅子、花瓶。ありとあらゆるものを映し出すが、鏡の中の反射という意味では一つのもの。アウエアネス(鏡)無くして反射(万物)は存在しえない。

鏡の中に映った「私」は、自分は個人的な存在で、そこから世界を認識していると思っている。でも、「私」も「あなた」も鏡に映った全体の一部。あなたが世界を認識しているのではなく、鏡という全体の一部にすぎない。

またボブは、海の例えを使う時もある。海がアウエアネスで、そこに起こった小さな波が「あなた」や「私」。「あなた」や「私」は海という一つの存在(アウエアネス)から分離した個人だと考えているが、実は海(アウエアネス)。全体の一部で同じものだということに気づかない。

ボブがどんな説明をしようと、それはポインター(ヒント)にすぎない。なぜならそれはマインドでは理解できないものだから。「アウエアネス」という言葉も「知性エネルギー」という言葉も「それ」そのものではない。それはマインドでは理解できないもの。

マインドで理解できないなら、まやかしではないかと言う前に自分で調べてみてください。
ボブは、「基本は自分がいるかいないかを自分で調べることだ」と言っています。

ニサルガダッタ・マハラジはI am.「私はいる」という言葉から、自分の実在(本質)に気づくのに三年を要した。ところが、ボブのガイダンスに従えばそれほど時間はかからない。「私はいない」という答えがわかっているのだから、答案用紙に答えが書いてあるようなもの。あとは答えから解いていけば済む。

「私」が実在でないとわかれば、同様に「あなた」も実在ではないとわかるし、すべての生物も実在ではないとわかる。物はどうだろうか。変化していく物も実在でないとわかれば、永遠不変の実在とは何なのだろうとなって、そこにあるのはアウエアネス(意識)だろうとたどり着く。

もう一度書きます。アウエアネスとは意識。私たちの意識。空間のようなもので、そこに万物がエネルギー現象として現れる。そのアウエアネスが私たちの本質。それは他に何もない一つのもの。

初日に、記憶を無くした父の話を書きました。もし、すべての記憶を失い、言葉も忘れ、さらに、自分の手足が動くことや、自分が体の中に閉じ込められた存在だという感覚も忘れたらどうなるでしょうか。そうした感覚も、後天的に学習した感覚でしかありません。

そこにあるのは、意識(アウエアネス)です。その意識の中に世界が現れ、同じものが星を動かし、心臓を脈動させ、木々の緑となって輝きます。

ボブはそれを知性エネルギーと呼びます。それは生まれることも死ぬこともない永遠不変の実在。それがあなたです。

2016/02/25

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑦

エンライトメント

アウエアネス(awareness)は、aware(気づいて)いる状態。つまり、目覚めている状態。別の言い方をすれば、覚醒(エンライトメント)している状態。
私たちはアウエアネスそのものであり、エンライトメントしている状態です。(「私」はいないのですが、便宜上「私」という言葉を使います)

ボブの教えを理解しても、エンライトメントは起きません。何か特別な理解も起こりません。
もしそれが起こったというなら、それはトリップであり、トラップ(罠)です。私たちは、気づいていようがいまいが、もともとエンライトメントしている状態にあるのです。

「もともとエンライトメントしている状態」という表現はあまりよくないのかもしれません。そんなものはなく、私たちの平素の普通の意識以外には特別な意識などない、と言った方が正確なのかもしれません。

ボブは「今この部屋でaware(目覚めて)していない者はいるのか? みんな目覚めているでしょう? 今朝目覚めてからずっと目覚めているでしょう? もしこの目覚めている状態の外に出られるものなら出てみてください」と言って笑わせます。

私は、覚醒体験そのものは否定しません。私もボブの本を読んでいて、時間が無くなった感覚が起こり、まわりの物すべてが鮮明に見え、何もかもがクリアーになって恍惚感にひたった一瞬がありました。私は自分がエンライトメントしたのだと思い、友人にメールしたものです。

でもその感覚は翌日には消えてしまいました。そんなことは誰にでも起きる体験にすぎないとボブは言います。ボブの教えは、何かを得ることや、何かが起きることとは全く関係ありませんし、ボブの教えを理解しても何も起きません。

何かが起きることを期待して瞑想したり、修行を続けたりするのなら、ボブの本に出てくる修行者と同じ過ちを犯すことになります。

真理を得るために修行者はグルのもとで12年間修行するように言われます。12年経ってグルに尋ねると、グルは「汝それなり」とだけ言います。

納得できなかった修行者は別のグルを訪ね、そこでも12年間修行するように言われます。12年が経ち、修行者がグルに尋ねるとグルは、「汝それなり」と言います。それを聞いて修行者は自分がもうそれなのだと理解します。

ここで多くの読者は、修行者にエンライトメントもしくは何か特別な理解が起こったのではないかと勝手に解釈してしまいますが、実際は何も起こっていません。普通に、自分はもうそれだったと理解しただけの話です。

私は正直なところ、いわゆるエンライトメント・覚醒があるのかどうかは知りません。
光明を得た、覚醒したというグルやマスターが嘘をついているとは思いません。でも、それは単に体験として一時的に起こったことであり、恍惚感が永続するような状態はないのではないかと思っています。

また、そういう経験が、「私は実在しない」「万物は一つのもの」ということを理解する契機にはなっているかもしれません。
でも、セイラーボブが教えているのは、そうした体験とは関係のないことです。

セイラーボブが教えているのは、そうした体験が現れる背景に、いつも変わらずにある何かです。

20年以上もあちこちをフラフラさまよい、気休め程度にしかならないあれこれの瞑想や方法を繰り返した私が偉そうなことは言えないのですが、永続するエンライトメントは無いように思えてなりません。

何十年も瞑想して、ごく稀な人にしか起きないエンライトメントを求めて瞑想を続けることに何の意味があるのでしょうか。本当にそんな状態があると思いますか。

私は、本当に自分が実在なのかを自分で調べて、アウエアネスの顕現とも言えるこの世界こそが奇跡なのだということを理解し、そこにはただ一つ、アウエアネス(意識)があるだけだということを理解することの方が大切に思えてなりません。

もし、私もあなたも実在ではなく、同じ一つのものの現れにすぎないということを理解したら何が起きるでしょうか。
路上の売春婦も乞食も、ロックスターも大統領も、実は同じ一つのものの現れなのだと知ったなら、人々に対する途方もない慈愛が生まれ、争いは地上から消えると思いませんか。

思考や概念が実態のないもので、消えていくものだと知ったなら、恨んでいる私も、恨む相手も実在ではないと知ったなら、人を恨んだり、憎しみを抱いたりすることすらばかばかしくなるのではありませんか。

過ちや後悔も、実際はアウエアネスの中で起こった概念にすぎないと知れば、とてつもない癒しが起きると思いませんか。

ボブの教えは、何十年も瞑想して、ごくまれな選ばれた人しか手に入れることができない何かではありません。言葉が理解できて、自分で調べる勇気のある人なら誰でも理解できる教えです。

ただ、教えを知的に理解できたとしても、自分は実在しない、万物は一つのもの、といったことが、当たり前の現実として絶対的な確信が持てるのはそう簡単ではないように思います。
私の場合はかなりの時間がかかりました。

2016/02/24

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑥

アウエアネスについて

アウエアネス(意識)をボブは、space-like awareness(空間のような意識)と表現する時もあります。
それは、万物が現れる場所という意味でそういう表現を使っています。

また別の表現では、「認識する空」「知性エネルギー」と言う言葉を使う時もあります。
では一体それは具体的には何なのかということになるのですが、ボブは、「それはマインド(思考)では理解できない、マインドを超えたもの」と言います。

要するに、考えてもわからないし、正体を突き詰めようとしても無駄だと言っているのです。

私たちは「意識」(アウエアネス)という言葉を簡単に使っていますが、それは一体何ですか?
そこにあるのはわかっている。そこに、昨日のことも、架空の私も小さいころの思い出も美しい景色も悲しい出来事も思考も悩み事も現れる。

でも、それは一体何ですか?

ボブは、「万物は一つのもので、エネルギー現象としてアウエアネスの中に現れる」といったことを、頭で理解しようとしても無駄だと言うのです。

科学的に立証できないし、理論的には説明できない。
だってそうでしょう、そんなことが立証できるなら、NHKがドキュメンタリーにして放送するでしょうし、ピュリッツアー賞だってノーベル賞だってもらえるはずです。

そんな時ボブは、風が木を揺らす例えを使います。
アウエアネスは風のようなもの。風が吹いているかどうかは、遠くで見ていてもわからない。でも、風が木々の枝を揺らすと、ああ、風が吹いているんだなとわかると。

ボブは、風のかわりに様々なポンター(ヒント)を使います。consciousness(意識)、seeing(見ること)、knowing(認識すること)を使う時もあります。

「万物は、consciousness(意識)の中に現れる」
「万物はseeing(見ること)の中に現れる」
「万物はknowing(認識)の中に現れる」

というふうに使います。

説明の都合上、「私」という言葉を使いますが、「世界は私の意識の中に現れる」「世界は私の見ることの中に現れる」「世界は私の認識の中に現れる」という意味です。

ところが、ボブの教えるアドヴァイタの世界では、「私」はいない。つまり、「私の」と思っているのは錯覚で、そこには主体のないawareness、conscious、seeing、knowing があり、そこに世界が現れるという意味です。

awareness、conscious、seeing、knowingはアウエアネスを指すポインター(ヒント)です。

私たちの脳が認識しているのではく、アウエアネスが現れているのです。
私たちの目が見ているのではなく、アウエアネスが現れているのです。

私たちは椅子を見て、それが椅子だということを経験的に学習して、椅子というラベル(概念)を椅子に貼りつけます。月を見て、あれが月というものだと習って、月というラベルを貼ります。同様に、すべての物にラベル(概念)を貼りつけていきます。

二歳ぐらいになると、親が「ジョニーはいい子だね」「ジョニーはかわいいね」と言うのを聞いて、そうか私はジョニーというものなのだと学習し、ジョニーという概念のラベルを貼ります。

そうした概念のラベル貼りを何度もやった結果、あたかも現実としてそれらが存在するかのような強固なものとなり、あなたのまわりの世界を構成します。

そしてその概念の集積があなたの内側で「私」を形成しています。このブログの最初に私の父の話を引き合いに出して、もしすべての記憶をなくしたらどうなるだろうかと書きましたが、もしすべてのラベルをはがしてしまったら、そこにいるのは何者なのでしょうか。

awarenessとは、要するに、私たち人間の意識のことなのですが、ボブの教えでは私はいないのです。

seeing も knowing も同様に、アウエアネスを表すポインターです。
アウエアネスは掴むこともできなければ、認識することも理論的に説明することもできないものです。そのため、人間の意識や五感が、それを垣間見るポインターとなります。

満天の星空を見た時、真紅のバラを見た時、私たちは「私」の目が見ていると思っています。でもそうではなく、目を通してアウエアネスを感知しているのです。

降るような満天の星空を見た時、そのこと自体が奇跡だということに私たちは気づかない。真紅のバラを見た時、それを当たり前のことと受け止めているが、ものすごい奇跡が起きているのだと気づかない。
すべては知性エネルギー、アウエアネスの現われです。

2016/02/23

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑤

万物は一つであり、すべてはアウエアネス(意識)の中に現れる。

アウエアネスを英和辞書で引くと、「意識・気づき」とあります。ボブの使うアウエアネスという言葉の意味は私たちの意識のことです。

個人的には、ボブの使う"awareness"という言葉に「気づき」という訳語をあてるのは良くないと思います。「気づき」とすると、そこに誰か気づく人がいるような印象を与えてしまいます。

「私たちの意識」という言い方も正確ではないのかもしれません。というのも、ボブの教えでは私という存在はいない。

正確な言い方をすると、「意識する私(人)のいない意識」です。
通常、人が何かを意識したり気づいたりする場合、まず私(主体)がいて、対象物(相手や物)があって、私が意識する行為があります。

でも、ボブの言うアウエアネスには、行為だけがあり、主体である私も、対象である物も相手もない状態、純粋な意識だけがある状態のことです。

ボブの教えは、まず最初に、「私はいない」ということを、自分で調べて気づくところから始まります。私はいないということが理解できれば、おのずとそこにあるアウエアネス(意識)は、主体も客体もないものになります。

私たちは、この意識を個人の意識だと思っていますが、個人の意識というものは存在しません。宇宙の果てまで、あまねく、たった一つの意識(アウエアネス)があるだけです。

それがボブの言うたった一つのもの。「ただそれだけ」。
私たちは、この意識の中に体を持って現れる。人間には五感があり、思考があり、意識があります。

そうすると、私たちはその五感、思考、意識が自分のものだと錯覚します。
でもそうではなく、私たちが、そのたった一つのものの中にいて、その一つのものを、五感、思考を通じて感じているだけに過ぎません。

ボブは「アウエアネス(意識)は他には何もない一つのもので、万物はそのアウエアネスの中に現れる」と言います。
前回の訪問の時私は、(万物は私の意識の中に現れるのだ)と解釈していました。それで、「エリザベス通りのビルは私が眠ると消滅するのか?」「エルザベス通りのビルは私が死んだら消えるのか?」とバカみたいな質問を繰り返ししたものです。

私がいなければ、世界は消えるというのは、ある意味では真実です。
私の目と脳が、そこにあるバイブレーションなりエネルギーなりを形あるものとして解釈しているので、そこに私がいなければ、そこにあるのは単なるバイブレーションなりエネルギーなりにすぎません。

ボブは説明の便宜上、万物が現れる舞台であるアウエアネス(意識)のことをuniversal awareness(普遍的アウエアネス)と言い、個人が感じるアウエアネスのことをindividual awareness(個的アウエアネス)と表現する時があります。

でもそれは別々のものではなく、一つのものです。基本的には個人のアウエアネス(意識)というものは存在しません。

あるのはアウエアネス(普遍的な意識)だけです。それは他に何もない一つのもので、世界はそこにエネルギー現象として現れます。宇宙も銀河も星も。あなたも私も、動物もばい菌も、すべてはそのアウエアネス(意識)の中に現れます。

アウエアネスの中にポツンと私が現れます。私は全体の一部、全体と一つだということを知りません。そのため、個人として感じる(意識)を、自分の意識だと錯覚します。

個人の意識(アウエアネス)というのは錯覚です。そもそも私という個人は存在しません。例えて言うなら、宇宙の隅々まで広がるアウエアネス(意識)を人間の感覚器官を通して、ほんの少しだけ感知しているようなものです。

私のアウエアネス(意識)で世界を感知していると錯覚しているのですが、そうではなく、普遍的なアウエアネス(意識)の一部を個人の感覚器官で認識しているにすぎません。

ボブに「アウエアネスとは何ですか」と質問すると、「あなたは外のトラムの音に気付いて(aware)いないのか?それがアウエアネスだ」と答えます。

当時私は、この禅問答のようなやり取りの意味がわからず、何度も同じ質問を繰り返したものです。私という個人の感覚器官である耳がアウエアネスの現れとしての音を感知しているだけのことです。

ボブによれば、アウエアネス(意識)はマインド(思考)では理解できないと言います。そのため、アウエアネス(意識)をうかがい知るポインター(ヒント)として、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)など、人間の感覚器官で感知できるものを使います。アウエアネスとは、そういったポインターを通してしか、うかがい知ることができないものなのです。

だからこそ、アウエアネス・awarenessという言葉で、他には何もないただ一つのものを表現しているのです。

2016/02/22

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ④

私とは何者か

今から八年ほど前に父が脳梗塞で倒れた。直接の原因は過度の飲酒。大量に酒を飲んだ後で外出し、路上で倒れて救急車で病院に運ばれた。

二日ほど経ち、酒が抜けてからの医師の診断は、脳梗塞から来る認知症。脳以外にどこも異常がなく、体に麻痺はなかった。会話も普通にできたし、食欲も普通にあった。

ところが、記憶の大部分が失われていた。自分の名前と、私が息子であることはかろうじて覚えていたが、その他の記憶がないのである。

年齢を尋ねると、二十八歳と答える。父は当時八十歳に近かった。家はどこにあるのかと聞くと、名古屋と答えるが、父は名古屋に住んだことは一度もない。

何を聞いても覚えておらず、そこにいるのは父ではなかった。ところが不思議なことに本人は、記憶がないということに対して、不安やネガティブな感情がないのである。

その時私は、人間がすべての記憶を失ったら、そこにいるのは誰なのだろうと思った。自分の名前すら忘れてしまったら、私は一体何者なのだろうかと。

すべての記憶を無くしても、誰かが衣食住の世話をしてくれたら、生きていくことは可能で、それが悲しいとか不安な気持ちはない。思い出す記憶がないのだから、思い出して不安になることも悲しくなることもない。比べる記憶がないのだから、未来を不安に思うこともない。

一か月ほど病院で過ごしたが一向に回復しなかったため、施設に移って生活するようになると、少しずつ記憶が回復し、半年後にはほとんどの記憶を取り戻した。

そうなると、どうして俺をこんな施設に入れたのだ、早く自宅に戻せと言い出し、不安やネガティブな感情の中で過ごすようになった。

私とは一体何者なのか。すべての記憶を取り去ったそこにいるのは誰なのか。

***

2015年4月にボブのもとを離れる時、私はボブの言っていることを完全に理解していると思っていました。ところが日本に帰って一人になって考えてみると、どうもしっくりこない部分や、理解の浅い部分があることに気づきました。

そして毎日ボブとギルバートの本を読む日々。それでもしっくりこない部分があったので、もう一度メルボルンのボブに会いに行きました。

今回は2016年1月28日から2016年2月14日の間に八回ミーティングに参加。そのほか、ボブを囲んで有志でランチに1回行きました。
9か月ぶりに訪ねたセイラー・ボブは、

ここでは、あなたに何も教えはしないし、何かを伝えるわけでもない。
あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎない。」と、毎度おなじみのフレーズでspielを始め、昨年私がボブのもとを離れた時と変わらず、元気でミーティングを続けていました。

今回このブログで書くのは、前回のブログではわかりにくかった部分、説明不足だったなと思う部分だけを書きますので、「セイラーボブ・ミーティング・2015」を読んでない方は、前回のブログも併せて読んでください。

2016/02/15

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ③

さて今日は日曜日。この旅最後のセイラー・ボブとのミーティング。
完全にボブの教えを理解納得しました。満足して日本に帰ります。

今朝のヴィクトリアマーケット

街角で見かけた英語

トラム乗り場の映画の宣伝。この映画を見ていないので正確には訳せませんが。「俺が行くまで待っていろ」もしくは「今に見ていろ」。場面によって訳は変わる。

トラムでボブの家へ。

フリンダース駅も見納め。

今日のミーティングは大勢の人。たぶん24人。

今日は日曜日だったので、ミーティングのあとのボブとのランチを楽しみにしていたが、ボブが用事で行かないって言うので、こう言ってお別れしました。

"Please take care of yourself and be healthy. I'll be back to listen to your spiel next year, not for tennis."

「健康に気をつけて元気でいてください。来年またspiel を聞きに来るから。テニスじゃなくて」

ボブはハグしてくれて、何かテニスの冗談を言うのかと思ったら真顔で、

「日本のみんなに(ボブの教えを)教えてあげて」と言いました。

帰ろうとしたら、オーストラリア在住、ボブ歴2年のサビーナ夫婦がシティーでお茶するからおいでと誘ってくれたので、彼らの車で街へ。

街の中心にあるショッピングモールへ。

ショッピングモールの中に、円錐のドームがあって、その中に古い建物が保存されている。

ここはメルボルンの街歩きの中心。

二人が連れて行ってくれたこの店がメルボルンで一番美味しいコーヒーの店なんだって。

確かに美味しい。カプチーノとチョコレートバナナケーキをおごってもらった。値段は聞かなかったけど、こんなものでもメルボルンで食べたらびっくりするぐらい取られる。

ボブのミーティングでは、まわりの参加者と仲良くして交流するのも大切。お互いの理解を確かめたり、情報交換したり。

二人は、ボブのミーティングを動画に撮ってYou-Tubeで公開している。その中に、英語字幕を付けたものがあるという。なぜそんなことをしたのか聞いたところ、ボブの英語はオーストラリア訛りがきついうえにモゴモゴ喋るので、アメリカ人でも聞き取れない部分があるそうで、アメリカ人の友人から字幕を付けるように頼まれて付けたという。

そして、さらにその字幕をスペイン語とクロアチア語に翻訳して字幕を付けて公開しているという。

私は、ボブの英語を耳で聞いて翻訳するのは無理だが、英語字幕を日本語字幕に翻訳するならできる。
その作業がどれくらいの手間がかかるかわからないし、やるかどうかも今のところわからない。

なお、英語字幕で見てみたい方は以下のサイトのどこかにあるそうなので見てください。

サビーナのサイトはこちら


今日のライブラリー。いよいよ見納めです。

今日は日曜日で旧正月の行事をあちこちでやっている。

獅子舞。太鼓、鐘、爆竹がやかましいです。

帰りにヴィクトリアマーケットの日本人ワーホリのお姉さんが4人いる店でパパイヤ購入。2ドル。

いよいよメルボルンともお別れ。明日の夜行バスでシドニーへ向かいます。
シドニー観光ののち日本へ。日本に帰ったら、観光気分を抜いて続きを書きます。

2016/02/08

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ②


今日は中国の春節(旧正月)イヴ。ヴィクトリアマーケットでの飾りつけ。

さて日曜日。セイラー・ボブ・アダムソンのミーティングへ。

今日も大勢の人で、18人。カリヤニも元気でした。


初めて来た人が質問した。

「私はずっと瞑想を習慣にしています。瞑想中にアウエアネスというか、ハイレベルの状態に入る時もあるのですが、なかなか長く続きません。そのサマーディのような状態を保つためにはどうしたらいいのでしょうか?」

誰かが、"It's a golden question."と言った。

ボブはいつものように、"Are you not aware now?"(今、気づいていないのか?)から始めて、いつもの説明。ボブが一通り説明したが、その人は納得しなかった。

私は、一年前にここに初めて来た時、その人と同じようなレベルの質問を尋ねたのを思い出した。

「どうしてエンライトメントしないのですか?私はまだエンライトメントしていません」「なぜ万物は一つなのですか?科学的に説明してください」などと。

今日のミーティングに出た人は、その質問をした人以外は全員、セイラー・ボブの教えを正確に理解している人たち。それが証拠に、ボブの説明が終わっても納得しないその人に向けて、みんながそれぞれの言い方で、「アウエアネスは達成するものではなく、私たちはもうすでにそれなのだ」ということを入れ替わり立ち代わり説明した。

私は説明には加わらなかったが、みんなの説明は非常に役立った。みんなの説明を聞いて、自分の理解が間違っていないこと、ボブの教えを完全に理解できていることが確認できたから。

私が前回滞在した五か月の間、こういう初歩的な質問をする人は私以外にほとんどいなかったが、時にはこういう初歩的な質問は場を盛り上げるし、貴重な質問だと思う。
この日のミーティングのYouTUbeはこちら。(The Spiel⑧)


ミーティングが終わって有志でレストランでランチ。


ボブが私に聞いた。

ボブ「タクのブログに(私の教えに対する)質問は来るのか?」

私「質問はほとんど来ない。でもたくさんの人には読んでもらったと思うよ」

ボブ「それで、みんなは私の言っている事をちゃんと理解しているのか?」

私「ほとんどの人が理解していないと思うよ。いくら説明しても、今日の人と同じで、みんなエンライトメントやサマーディを捜しているんだ。サマーディは今この瞬間で、みんなもうエンライトしているんだっていくら説明しても理解しないんだ。みんな、どこかで特別な理解が起きると思っている」

ボブ「マインドは常に答えを欲しがる。それが問題の種だということに気づかない」

今日は暑い一日で、めずらしくミーティングでクーラーを入れていた。

青い空。とても良い一日でした。

これは宿の屋上からの写真で、夜8時10分撮影。西日が差している。夏時間なので、実際は夜7時10分ですが、それにしても日が長い。暇なので酒を飲むわけですが、飲みすぎちゃって・・・。

2016/01/29

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ①

夕方からセイラー・ボブのミーティングへ。

ボブと関係者に何か手土産をと思って、名古屋から「都あられ」の詰め合わせを持参。なんで「都あられ」なのかというと、ボブに会う前の二週間にケアンズ滞在、全豪オープンを見るため、最低でも三週間以上賞味期限があるものでないといけなかった。

名古屋のデパートをあれころ探したが、三週間以上日持ちする菓子がほとんどない。何とかせんべいや、何とかパイ、サブレは全滅。パックに入った「羊かん」や「ういろ」も、意外と日持ちしない。ところが、この「都あられ」だけは賞味期限が三か月もある。

オーストラリア人が醤油味のあられを美味しいと思うかどうかは疑問だったが、他に選択肢がなかった。

セイラー・ボブは一年前と変わらず、元気にミーティングをやっていた。

今日の参加者は9人。うち7人が以前見たことがある人たちだった。

始まる直前まで集まりが悪くて、まだ三人しかいなかった時、常連の女の人が、「今日はテニスで好カードあるからみんな来ないのよ。○○に電話したら、テニスを見るから行けないというの。私はテニスなんかより、ボブの方が大事だわ」。もう一人の男が「俺も」と言った。

そのすぐあとでボブが「タクはいつメルボルンに着たの?」と私に聞いた。

ドキッ。「実は一週間前に着いたんだけど、テニスを見に行っていました。もちろんボブのところへ来るのがメインで、テニスは友人がどうしても見たいと言うのでしかたなく行ったけど」

「ダメじゃないか」とボブ。もちろん冗談ですけどね。

ミーティングの形式は一年前とまったく同じ。最初の40分間ぐらいspielがあって、そのあと質疑応答。spielも以前とまったく同じで、いつも聞いていたやつ。少しはパターンを変えればと思うが変わってない。

これは逆にありがたい。というのもボブの英語は聞き取りにくいので、以前聞いたことがあるspielなら完璧に聞き取れるが、世間話のジョークとなると、聞き取れないことも多いので。

質疑応答では、最初に遠来の客である私を指名してくれたので、少し質問。日本を出る時は、疑念や疑問がいっぱいあって、全部聞こうと思っていたが、こうしてボブの前に出ると、質問が消える。

ボブの存在感のなせるわざなのか、ボブの言うことが全部真実に聞こえて、質問することがなくなる。他の人がボブの言っていることを正しいという前提で会話を進めることあって、今更「どうして万物は一つだとわかるんですか?」なんて聞けない雰囲気もある。

ずっと黙って聞いていたら、終わりにまたボブが私を指名した。

「日本にいる時はたくさん質問があったんですが、ここに来たらなくなってしまいました。次回までに考えてきます」と言ったら、

「そうですね。タクはテニスを見に行っていたくらいだですから」と言ってラケットを振るふりをして大笑い。ボブは相変わらずユーモアたっぷり。