2019/10/19
それはいつも不鮮明ですか?
Is It Ever Obscured?
マインドの中でおしゃべりがまた始まり、うわべの上ではそれが不鮮明となります。
それは不鮮明ですか?
それはいつも不鮮明ですか?
もし基本に戻れば、そこにはただ一つのものがあるだけです。
それが現れ、ヴァイブレーションとなってすべてのものとなっています。
たとえそれが表面上ははっきりしなくても、それ以外のものでありえますか?
良い思考であろうと、悪い思考であろうと、それ以外のものでありえますか?
喜びであろうと、痛みであろうと、それ以外のものでありえますか?
それを理解してください。
良い、悪い、喜び、痛みといった言葉が、それを弱めることはできないのではないですか?
言葉の本質、その本質無しでは、言葉は起こってきません。
それが純粋な知性エネルギーです。
鏡の中の像が、鏡無しでは起きないのと同じです。
あなたは鏡に映る像によって、鏡そのものを見ることはありません。
それを調べてみることによって、それが鏡に映っている像であるとわかります。
さらに調査すると、鏡無しでは像もありえないということを理解します。
そして、鏡に映る像は鏡の中にあるということを理解します。
それはいつもそうでした。
2019/10/12
問題は関係性の問題です。
Problems are problems of relationship
何か破壊しなければならないようなものを見つけることができますか?
自己の中心とは何ですか?
それは「私」ではありませんか?
「私」とは何ですか?
それは思考、身につけ学んだ言葉ではありませんか?
でもそれは剥き出しの思考ではありません。
その思考とともに、ほかの思考が「私」を見た目の上で実体のある強固なものにしています。
例えば、私はボブ。オーストラリア人。あれやこれや。悪い事。私に起こった出来事。
記憶が思い出され、それが「私」に付け加えられます。
そうやって、自分が何物かという想像上の絵、イメージが出来上がります。
それがあなたが信じているものです。
それはすべて概念であり、死んだイメージです。
なぜならそれは過去の出来事や経験がもとになっているからです。
そして、すべてがそのイメージと関連付けされます。
それが基準点となっていつも関連付けされます。
その想像上のイメージと関連付けされます。
私はこれが好きではない。
どうしてそんなことがわかるのでしょう?
以前にそのことを経験したからです。
それは嫌な経験でした。
私はこれが好きだ。
これはいい。
そうやって、いつも死んだイメージに関連付けされます。
そして、あらゆる問題は関係性の問題です。
関係性とは、私と他者であり、二元性です。
どんな関係性も二元性です。
ですから、そうした方向を探しても、決して非二元を見つけることはできません。
実在しないものをじっくりと見ることによって、それを破壊することができますか?
分解したり、征服したりすることができますか?
誰が何をどうするというのですか?
それが存在しないと認識しているのに。
新しい自分のイメージを創り出すことで古いイメージを払拭することもできます。
そうして、それが繰り返さます。
そうやって続いていきます。
それは何にも関連していません。
見る人、主体には何が起こっているのですか?
主体と客体は常に二元性です。
私は見る、私は信じる、といったことは概念上のイメージであり、それが主体、見る人を生み出します。
そして私が見ている対象もまた概念です。
椅子、テーブル、あなた、私、その他のもの。
ラベルがなければ、イメージ、パターンです。
パターンは純粋なエネルギーです。
私たちをそれにラベル、言葉を貼り付けました。
そのために、それが見た目の上での客体となりました。
そうやって二元性、主体と客体を生み出しました。
見る働きの中で、何が起こっているのでしょうか?
見る働きは二元性ですか?
聞く働きは二元性ですか?
味わう働き、触れる働き、嗅ぐ働きは二元性ですか?
見た目の上でだけ分離があるだけです。
見る人、味わうこと、触れること、主体と客体。
概念によって、見て目の上では二元的に分割されています。
見る人、主体は見ていません。
見る働きなくして、見ることができるとは言えません。
そしてまた、見られる対象も見る働きなくしてはありません。
見る働き無くして、見ることができますか?
見る働き無くして、見る人がいますか?
その線にそって調べてみてください。
それは一本の棒の両端のようなものです。
二つの概念が一つの見る働き、一つの聞く働き、一つの味わう働きの中にあるようなものです。
そしてそれが見た目の上で概念上分割しています。
そしてその分割ゆえに苦悩が始まります。
それは必要ではありません。
2019/10/05
ひとつのもの。
毎年夏になると、多くの人が富士山に登ります。
私も二回登ったことがあります。
二回とも山頂まで行ったのですが、高山病でフラフラして、もうこりごりです。
ところで、富士山はどこからどこまでが富士山ですか?
山頂ははっきりとわかるのですが、ふもとはどこが始まりですか?
実際にはどこが始まりなのかはっきりしません。
私たちは、静岡県の一部の出っ張りに、富士山という概念を与えてそう呼んでいるにすぎません。
富士山は静岡県の一部を概念付けしたものです。
では静岡県とは何ですか?
地図上では県境の線がありますが、そこへ行ってみても実際にはそんな線はなく、人間が勝手に日本の一部を概念付けしてそう呼んでいるにすぎません。
では、日本はどこまでが日本ですか?
尖閣、竹島、北方領土の問題もあって、どこまでが日本の領土なのかは争いのあるところですが、仮にそうしたところまで含めたとしても、それも人間が勝手に地球の一部を日本と概念付けして呼んでいるにすぎず、国境の線が実際にあるわけではありません。
では、地球はどこまでが地球ですか? 大気圏までですか、成層圏までですか?
これも、実際には地球という名前を人間が勝手に宇宙の一部につけて、概念付けしているにすぎません。
では宇宙とは何ですか?
宇宙とは、星、銀河系、太陽系、ブラックホール、そういったものがある空間を概念付けして宇宙と呼んでいるものです。
ということは、宇宙も地球も日本も静岡県も富士山も、空間の一部を人間が勝手に概念付けしてそう呼んでいるだけなのではないですか?
では、「私」とは何ですか?
この体、マインドを勝手に概念付けしてそう呼んでいるだけなのではありませんか?
それは空間の一部なのではありませんか?
もし人間が概念付けしなかったら、それはすべて一つのものではありませんか?
「あなたが母親のお腹の中にいた時、あなたは母親だったのか?」ニサルガダッタ・マハラジ
*****
セイラーボブの facebook ができました。日曜日のミーティングのライブ中継がここで配信されています。(日本時間の朝8時から9時30分まで)
Sailor Bob - Nonduality Melbourne
私も二回登ったことがあります。
二回とも山頂まで行ったのですが、高山病でフラフラして、もうこりごりです。
ところで、富士山はどこからどこまでが富士山ですか?
山頂ははっきりとわかるのですが、ふもとはどこが始まりですか?
実際にはどこが始まりなのかはっきりしません。
私たちは、静岡県の一部の出っ張りに、富士山という概念を与えてそう呼んでいるにすぎません。
富士山は静岡県の一部を概念付けしたものです。
では静岡県とは何ですか?
地図上では県境の線がありますが、そこへ行ってみても実際にはそんな線はなく、人間が勝手に日本の一部を概念付けしてそう呼んでいるにすぎません。
では、日本はどこまでが日本ですか?
尖閣、竹島、北方領土の問題もあって、どこまでが日本の領土なのかは争いのあるところですが、仮にそうしたところまで含めたとしても、それも人間が勝手に地球の一部を日本と概念付けして呼んでいるにすぎず、国境の線が実際にあるわけではありません。
では、地球はどこまでが地球ですか? 大気圏までですか、成層圏までですか?
これも、実際には地球という名前を人間が勝手に宇宙の一部につけて、概念付けしているにすぎません。
では宇宙とは何ですか?
宇宙とは、星、銀河系、太陽系、ブラックホール、そういったものがある空間を概念付けして宇宙と呼んでいるものです。
ということは、宇宙も地球も日本も静岡県も富士山も、空間の一部を人間が勝手に概念付けしてそう呼んでいるだけなのではないですか?
では、「私」とは何ですか?
この体、マインドを勝手に概念付けしてそう呼んでいるだけなのではありませんか?
それは空間の一部なのではありませんか?
もし人間が概念付けしなかったら、それはすべて一つのものではありませんか?
「あなたが母親のお腹の中にいた時、あなたは母親だったのか?」ニサルガダッタ・マハラジ
セイラーボブの家の近くの公園・クリケットのボールが落ちていた。
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2019/09/28
私と呼んでいるもの
This Thing Called I
あると信じている自己の中心が問題の原因です。
それを見て調べてください。
あると信じている自己の中心はフィクションです。
そこには実体のあるものや独立した性質も持つ存在はいません。
信念のエネルギーがそこに流れ込み、見た目の上ではそれを実体のある確かなものにしていて、とてもリアルな存在に見えます。
そこに、概念、イメージ、感覚、恐れ、怒り、自己憐憫、憤慨、すべてのものが現れます。
その信念のせいで、物事をその概念上の基準点に関連付け、それを信じるようになります。
それがすべての問題の原因となります。
表面上の基準点に関連付けるためです。
それを、しっかりと調べる必要があります。
この「私」というもの、メンタルイメージ、概念、気持ち、思い描いているものを調べる必要があります。
調べてみると、そのメンタルイメージ、思考は見ることも聞くことも気づいていることもできないと理解するでしょう。
信念のエネルギーが見た目の力を与えているにすぎません。
それが見た目の上での生命のパターンを確かなものに見せていますが、何も力は持っていません。それはフィクションです。
それが、見た目の上での束縛を生み出しています。その束縛はフィクションによるものです。
その束縛から自由になるためには、それを調べて、はっきりと見ることです。
何度も何度も見ることです。
すべての方向、ポイントをみて、そこに何か実体のあるものがあるかどうか調べてみてください。
そして、何も見つからないなら、確信が湧いてくるのではありませんか?
我はそれなり。
私はいつも昔もそれだった。
もう間違った信念を受け入れることも信じることもできないのではありませんか?
それは基本的には・・・。
さあ、あなたの番です。
質問や疑問、何でも結構です。
2019/09/21
すべては物として現れています。
All Appearance is Things.
人々は、空(くう) (nothing)と聞くと、真空、空虚、何もないものと考えますが、nothing を、no と thingに分けてみてください。
すべての顕現は物(thing)として現れています。
でも、物自体には実体や独立した性質はありません。
それは物ではないもの(no thing)です。
no thing、何も起こっていないのです。
一つの本質が振動して、見た目の上ではパターンとなって現れています。
鏡の例えを使いましょう。
鏡の中にはすべての物が映っています。
鏡のところまで行って、映っているものを掴むことができますか?
映っているものが無いということはできません。
でも、そこへ行って掴もうとしても、それがそこにあるということもできません。
そこにあるように見えるのですが、映っているものに実体や独立した性質があるわけではなく、あなたは鏡を掴むだけです。
あなたは、鏡を見たことがありますか?
鏡そのものを?
そうです。
鏡は見逃しているかもしれません。
ええ、でも鏡を見ることはできますか?
鏡の中にあるのはすべて反射して映っているものです。
あなたが今まで見た鏡はすべて、反射が映っていました。
でもあなたは、鏡を調べて、表面に移った反射と鏡は一体のものであると知っています。
鏡そのものは見えなくても、それが鏡だということを知っています。
反射している表面や一部を分割することはできませんが、それは鏡であると知りました。
表面には反射が映っているため、鏡そのものを見ることはできませんが、それは鏡であると知りました。
あなたは真実を見破りました。
あなたは、自身がその本質だと知りました。
自身は純粋なアウエアネス以外のものではないと知りました。
そこにあるのはたった一つの本質があるだけです。それがトムとなって現れています。
それがすべてとなって現れて消えています。
ピーター:鏡の中の例えは、空間のようなアウエアネスを連想させます。
鏡を見た時、そこには反射が映っていて鏡は見えません。
でもいいですか。私たちが物を見る時、それはシーン(景色)であって、空間を見ることはなく、現われたものだけを見ています。それと同じです。それだけです。
2019/09/14
ラベルをはがして見てください。
ちょっと考えてみてください。
今あなたは、パソコンか何らかの端末を使って私のブログを読んでみえると思います。
でも今、例えば、生まれて初めてそのパソコンか端末を見ると仮定して、それを見てください。
あなたは、パソコンや端末が何であるかを知りません。
するとそれは一体何ですか?
同じように、視界に入る物一つ一つを、生まれて初めて見るように見てください。
そこには、生まれてからこれまでに学んで貼り付けてきたラベルが張り付いています。
蛍光灯、机、椅子。そうしたラベルを剥がして見てください。
するとそれは一体何ですか?
もし、自分がこれまで学習して貼り付けてきたラベルを剥がして見たら、それは一体何ですか?
そうやって、一つ一つラベルを剥がして見てください。
すると、そこに広がる世界は何ですか?
人に対して貼り付けているラベルも剥がして見てください。
父、母、恋人、親友、子供、上司。
景色に貼りつけているラベルも剥がして見てみてください。道路、山、川、大地。
すると、それは何ですか?
そして最後に「私」というラベルを剥がして見てみてください。
するとそこには何がありますか?
私たちが見ている世界はすべて概念です。
もしその概念のラベルをすべて剥がしたら、そこには何がありますか?
確かにそこには何かがあります。
でも、概念のラベルがなかったら、そこには混沌とした世界が広がっているだけです。
もし、あなたが概念のラベルを貼り付けなかったら、それは物としての区別のない一つのものです。
「私」というラベルは、あなたが後天的に貼り付けたラベルにすぎず、「私」はいません。
あなたが概念のラベルを貼り付けなかったら、そこに広がっているのは、たった一つのものです。
今あなたは、パソコンか何らかの端末を使って私のブログを読んでみえると思います。
でも今、例えば、生まれて初めてそのパソコンか端末を見ると仮定して、それを見てください。
あなたは、パソコンや端末が何であるかを知りません。
するとそれは一体何ですか?
同じように、視界に入る物一つ一つを、生まれて初めて見るように見てください。
そこには、生まれてからこれまでに学んで貼り付けてきたラベルが張り付いています。
蛍光灯、机、椅子。そうしたラベルを剥がして見てください。
するとそれは一体何ですか?
もし、自分がこれまで学習して貼り付けてきたラベルを剥がして見たら、それは一体何ですか?
そうやって、一つ一つラベルを剥がして見てください。
すると、そこに広がる世界は何ですか?
人に対して貼り付けているラベルも剥がして見てください。
父、母、恋人、親友、子供、上司。
景色に貼りつけているラベルも剥がして見てみてください。道路、山、川、大地。
すると、それは何ですか?
そして最後に「私」というラベルを剥がして見てみてください。
するとそこには何がありますか?
私たちが見ている世界はすべて概念です。
もしその概念のラベルをすべて剥がしたら、そこには何がありますか?
確かにそこには何かがあります。
でも、概念のラベルがなかったら、そこには混沌とした世界が広がっているだけです。
もし、あなたが概念のラベルを貼り付けなかったら、それは物としての区別のない一つのものです。
「私」というラベルは、あなたが後天的に貼り付けたラベルにすぎず、「私」はいません。
あなたが概念のラベルを貼り付けなかったら、そこに広がっているのは、たった一つのものです。
ヴィクトリアマーケット・メルボルン
2019/09/12
本当のあなたでいてください。
Be What You are.
なぜあなたは自分ではないもののふりをして、本当の自分でいることを拒むのですか?
すべての人がこの人間の形をしたものでいようとします。それがこのショーを仕切っています。そのため、疑うこともなく、それを信じて、そのふりをしています。
でも、実際のあなたは、物ではありません。
でも、すべての人が物ではないものを受け入れません。
物ではないものの概念や考えを理解しません。
物ではないものは、真空でも空虚でもありません。
生命の本質が機能してパターンとなり、あらゆるものとなって現れています。
誰も、物ではないものであることを望みません。
人々は、物ではないものは真空、空虚、空(から)だという考えを抱いています。
そのため人々は、この想像上の存在に留まることを望み、その存在にはこのショーを仕切る力があると考えています。
人々はマスク、ペルソナをつけています。
2019/09/06
セイラーボブの教えを理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。
セイラーボブの教え(非二元)を理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。まわりの状況や物事に対する理解の仕方が変わるだけです。
セイラーボブの教え(非二元)を理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。物事がすべてうまくいく、お金が自然に入ってくる、病気治る、人間関係で煩わされなくなる、というようなことは起きません。
覚醒が起きたり、覚醒体験や至福体験が起きたりするわけでもありません。何か特別なことが起きるということはありません。至福に包まれて毎日幸せに暮らせるというようなこともありません。
体が消える体験をしたり、時間や距離の感覚が無くなる体験をするわけではありません。意識のシフトが起こって、自分がいないという世界を体験するということもありません。
煩わしい事は以前と同じように起こってきます。うまくいかない事も起こってきます。お金に困ることもあります。病に倒れることもあります。人間関係で嫌なことも起こってきます。困難は以前と同じように起こってきます。
何が変わるかというと、問題や困難が起こっても、それに巻き込まれることなく、対処するだけです。お金に困っても、それを深刻にとらえることなく、解決法を探すことに力を注ぐだけです。病気になったとしても、それは自然に起こってくるものであり、治療するだけだと理解するでしょう。
嫌な人がやってきても、そういう人もいるのだ、それが生きていくことなのだと理解して、避けるか受け入れるかするでしょう。
そうした問題や困難を深刻にとらえて巻き込まれることがなくなります。
なぜなら、すべての問題や困難はマインドの産物であると理解するからです。
そこに問題や困難に煩わされる人はいないと理解するからです。
死も避けられません。でも、自分はマインドでも体でもない、生まれることも死ぬこともない存在であると理解したなら、死に対する理解が生まれます。
死が怖くなくなるとまでは言いません。誰だって死にたくはないし、マインドや体の死だって嫌です。
でも、死に対する理解を持っていれば、死はまったく別のものとなります。
非二元を理解しても、周りの状況が変わるわけではありません。唯一変わるのは、物事に対する理解だけです。そしてその理解こそが、心理的な解放をもたらすものです。
私は実在ではないという理解こそがあなたに解放をもたらすものです。
あなたが解放されても、状況は何も変わりません。金持ちになるわけでも、至福につつまれるわけでもありません。以前と同じように、木を伐り、薪を割り、同じ生活が続いていきます。
セイラーボブの教え(非二元)を理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。物事がすべてうまくいく、お金が自然に入ってくる、病気治る、人間関係で煩わされなくなる、というようなことは起きません。
覚醒が起きたり、覚醒体験や至福体験が起きたりするわけでもありません。何か特別なことが起きるということはありません。至福に包まれて毎日幸せに暮らせるというようなこともありません。
体が消える体験をしたり、時間や距離の感覚が無くなる体験をするわけではありません。意識のシフトが起こって、自分がいないという世界を体験するということもありません。
煩わしい事は以前と同じように起こってきます。うまくいかない事も起こってきます。お金に困ることもあります。病に倒れることもあります。人間関係で嫌なことも起こってきます。困難は以前と同じように起こってきます。
何が変わるかというと、問題や困難が起こっても、それに巻き込まれることなく、対処するだけです。お金に困っても、それを深刻にとらえることなく、解決法を探すことに力を注ぐだけです。病気になったとしても、それは自然に起こってくるものであり、治療するだけだと理解するでしょう。
嫌な人がやってきても、そういう人もいるのだ、それが生きていくことなのだと理解して、避けるか受け入れるかするでしょう。
そうした問題や困難を深刻にとらえて巻き込まれることがなくなります。
なぜなら、すべての問題や困難はマインドの産物であると理解するからです。
そこに問題や困難に煩わされる人はいないと理解するからです。
死も避けられません。でも、自分はマインドでも体でもない、生まれることも死ぬこともない存在であると理解したなら、死に対する理解が生まれます。
死が怖くなくなるとまでは言いません。誰だって死にたくはないし、マインドや体の死だって嫌です。
でも、死に対する理解を持っていれば、死はまったく別のものとなります。
非二元を理解しても、周りの状況が変わるわけではありません。唯一変わるのは、物事に対する理解だけです。そしてその理解こそが、心理的な解放をもたらすものです。
私は実在ではないという理解こそがあなたに解放をもたらすものです。
あなたが解放されても、状況は何も変わりません。金持ちになるわけでも、至福につつまれるわけでもありません。以前と同じように、木を伐り、薪を割り、同じ生活が続いていきます。
メルボルン 植物園
2019/09/03
おたよりをいただきました。
拓さん、こんにちは。ブログを楽しく読ませていただいております 。
いくつか疑問に思ったことがあったので、質問させていただきます 。
短くても結構ですので、可能でしたらご回答をお願いいたします。
質問が長いので一度に送れるかどうか不明ですが、とりあえず、送 ってみます。
(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え( 詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。そ れらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」と いった要旨の記載があります。
そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないと いうこと等についての確信」ということでしょうか? そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどう やったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられる のか)」ということを探してしまう気がします。
それについては、「(私がいないこと )等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わること もある」という理解でいいのでしょうか?
(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書か れており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし 、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまう のだと思います。
もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらない のだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載 を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分にな ってしまいます。
2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても 何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それ はその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになって しまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効で はないような気がします。
(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解 する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験 が起きることもありません。』という記載があります。
結局、自分で自分を見ること はできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体 感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか? そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というも のにも実体はないということ』でよいでしょうか?
(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「 ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を 意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解でき ないということを理解したということです。もし、マインドでセイラーボブの教えを 理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きませ ん。』という記載があります。
しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差が よく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。もし同じだ とすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」 という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教え を理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾してい ても気にしなければ無問題ですが)。
「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということ であったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に) 理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょ うか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。
以上、よろしくお願いいたします。
波平
波平さん、おたよりありがとうございます。
私は、いつか誰かが、今日波平さんからいただいたような質問を送ってくださるのではないかと思っていました。
波平さんと同じように、ブログに書いていることが矛盾していると思ってみえる人が大勢みえるのではないかと思います。
セイラーボブの教えを理解するとはどういうことなのかは重要なポイントなのですが、それを書く前後の脈絡や、書こうとしている内容によって、表現が変わります。
自分の中では矛盾しているつもりはないのですが、どこを強調するのか、誰に向けて書いているのかで表現が変わってしまって、一見矛盾したものになっています。
書いていても、(この表現は以前書いたことと矛盾するなあ)と思いながら書いているのですが、強調したいポイントや、想定している読者によって、矛盾してもしかたがないと思って書いています。
表現が矛盾していても、(ああ、そういうことだったのか! わかったぞ!)という人が一人でも多くいてくれればいいかなと思って書いているつもりです。
最初にわかっていただきたいのは、セイラーボブの教えを理解するやり方に決まったやり方なんてないということです。
私のブログは、セイラーボブの教えを理解するための材料を提供するためのブログです。
私のようなやり方で理解しないといけないとか、理解したらこうなるということを書いているつもりはありません。
どんな理解の仕方でもかまいません。「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということが理解できればいいだけの話です。
質問に具体的に答えていきます。
(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え( 詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。そ れらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」と いった要旨の記載があります。
そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないと いうこと等についての確信」ということでしょうか?
そうです。私はセイラーボブの教えを知的に(もしくはマインドで)理解した後でも、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。でも、ギルバートやカタリーナの話を聞いて、そんな体験は起きないということを知りました。それまでは、自分の理解に自信が持てませんでしたが、それを聞いて自分の理解で間違いないと確信しました。
そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどう やったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられる のか)」ということを探してしまう気がします。
探してしまうということなら、「確信」という表現を使わなかった方が良かったのかもしれません。本当に理解して、疑いも起きず、もう揺るがないということを表現したかったのでそう書いたのですが、「確信」という言葉をやめておけば良かったと後悔しています。セイラーボブは、「確信」とか「実感」ということを言ったことはなく、「理解がすべてだ」と言っています。
それについては、「(私がいないこと )等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わること もある」という理解でいいのでしょうか?
そういうつもりで書きました。でも、多くの人がセイラーボブの教えを理解していても、確信がないと思っています。確信がないというのはどういう状態なのでしょうか?
確信がないということは、理解が不十分なのか、もしくは私と同じように、理解したら何かが起こるのではないかと心のどこかで思っているのではないでしょうか?
私は確信という言葉を使いましたが、理解だけで終わりにしておくことも可能でした。でもそうすると、一部の人は「それじゃぁお前はセイラーボブの言うことを信じているだけじゃないか」と思われるのではないかと思いました。
信じているのではなく、(それが真実に違いない。そうとしか思えない)という思いを込めて「確信」という言葉を使いました。
多くの人は宇宙空間から地球を見たことはないのに、地球は丸いと知っています。これは信じているのではなく、確信だと思います。
それと同じ程度だということを表現したいと思って確信という言葉を使いました。
でも、よくよく考えると、理解=確信なのではないかと思います。
(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書か れており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし 、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまう のだと思います。
本当の意味での理解とは、「非二元の教えが真実であり、もう迷うことも探すこともない」という状態であるという意味で書きました。でも、ちゃんと理解したら、それが本当の意味での理解なのだと思います。「本当の意味での理解」と書かないで、単に「理解」と書くべきでした。
私は二度のメルボルン滞在から帰ったあとでもまだ揺れ戻しがあって、何か特別な理解があるのではないかと探していました。
入手可能な本を全部読み、YouTubeを何度も見ているうちに、そんなものはないと知り、もう迷うことも探すこともない地点に到達しました。
理解の起こり方は人それぞれだと思います。私のブログを一回読んで、これは真実だと思う人もいれば、続けて読んでいるうちにだんだんと真実だと思うようになった人もいると思います。極端なことを言えば、何の理由もなく直感でセイラーボブの教えは真実だと受け入れることができる人もいると思います。理由なんて要りません。
「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」ということはありません。
私たちが、実際に非二元の世界を垣間見ることも体験することもできない以上、絶対的な確信があるとは言い切れないのもやむえないのではないでしょうか?
人の理解の仕方や程度は様々です。ジョン・ホィーラーのように、セイラーボブ関連の本を何冊も出したあとでボブの前から姿を消した人もいます。ジョン・ホィーラーはセイラーボブの教えをよく理解していたし、彼の説明はわかりやすいものでした。
いくら地球は丸いと理解(確信)していても、実際には、大気をどけると地球は正確な丸ではなく、あちこちがゆがんだ楕円形をしているのだと聞いて、「え~!」となってしまいます。人間の確信なんて、その程度のものではないでしょうか。
理解だ確信だと言ってみても、結局それはマインドにエサを与えているだけで、本当の理解は、もっと直感的なもののように思います。
2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても 何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それ はその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになって しまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効で はないような気がします。
12年間、マスターのもとで修業した人は、ふたたびマスターから「汝それなり」と言われて、絶対的な確信を得る方法、体験なんてないとわかったのではないでしょうか。
まだ何かが足りないと思っているうちは、「汝それなり」で終わりとは思えないのではないでしょうか。
どんな方法でも構わないので、セイラーボブの教えていることが正しいと思えて、もう疑いも揺れ戻しも起きない地点に到達すればいいとだけのことです。
「汝それなり」と言われて、(そうは思わない)と感じるか、(そのとおりだ)と感じるかの違いです。(そうは思わない)と感じるなら、ちゃんと理解していることにはならないと思います。
(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解 する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験 が起きることもありません。』という記載があります。
結局、自分で自分を見ること はできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体 感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか?
そうです。
LIVING REALITYの中で、「アウエアネスは理解するものではなく、在るものだ」「思考が止まっていてもあなたは在る」という内容のことを言っていたと思います。どこに書いてあったか今すぐに出てこないので、正確な引用ではないのですが。
そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というも のにも実体はないということ』でよいでしょうか?
そうです。付け加えるなら、今ここにある意識だけが実在であるという理解があれば十分だと思います。
(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「 ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を 意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解でき ないということを理解したということです。もし、マインドでセイラーボブの教えを 理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きませ ん。』という記載があります。
しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差が よく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。
同じつもりで書いています。
もし同じだ とすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」 という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教え を理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾してい ても気にしなければ無問題ですが)。
矛盾しています。申し訳ありません。
セツさんの質問に答えた時は、セツさんが何度も繰り返し「ただそれだけ」を読んでみえると聞いて、何か非二元の体験や特別な理解が起きることを期待してみえるような気がしたので、そういったことは何も起きませんよ、という意味を込めて「知的に理解すれば十分である」と聞きました。
でも、この書き方は良くなかったと反省しています。書き直すことはしませんが、もし書き直すとすると、「教えを理解して、それに対して何の疑いもなく、それが真実だと思え、揺れ戻しがなければ、それが理解したということです」としたいです。
私がセイラーボブに、「知的には理解できるのですが・・・」と質問した時、セイラーボブは私に、「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? (知的な)を取りなさい」と言いました。
「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということ であったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に) 理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょ うか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。
念のために書いておきますが、「直感的な理解」という言い方は私が勝手に言っているだけです。セイラーボブの言葉で、あえて言うなら「ハートとハートの理解」です。
理解の仕方や、それがどんな風に起きるかは人それぞれでかまわないと思います。
ギルバートにはギルバートの理解の仕方があり、カタリーナにはカタリーナの理解の仕方があり、私には私の理解の仕方があります。でも、みんな「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということは理解しています。
マインドの理解、知的理解、実感、確信、直感、ハート。こういった言葉は、それぞれの人でそれぞれの解釈があるので、その言葉の裏にある本質みたいなものを理解していただけたらと思います。
理解の仕方は人それぞれでかまわないのです。
非二元の教えが真実であり、もう迷うことはないという地点まで到達できれば、どの道を通ってもかまわないのです。
私はこのブログで私の理解の過程を書いていますが、それは無視してもかまいません。セイラーボブの言ったことの翻訳部分だけを参考にするというのもありだと思います。
言葉での説明には限界があります。
例えば、「セイラーボブの教えを理解しても何も起きません」と私は書きましたが、もし、「セイラーボブの教えを理解すれば、考え方や物の見方が変わる」ということを言おうとするなら、「セイラーボブの教えを理解すれば何かが起きます」という表現になります。それは言葉の持つ曖昧さ、不完全さだと思います。
セイラーボブの教えを理解するということは、言葉の上でだけ理解するということではなく、教えが正しいと思えて、何の疑いも起きず、それが当たり前の真実と思え、二度と揺れ戻しが起きない状態です。
もしそうでないなら、教えを理解していないということだと思います。
そういう観点に立って言うなら、メルボルンから帰った時点での私は、セイラーボブの教えを理解していませんでした。
何がどう違うかと聞かれるとまた、確信とか実感とか、あいまいな言葉を使ってしまいそうになってうまく言えませんが、今は疑いや揺れ戻しはありません。
波平さんは、(私がいない)ということについてはいろいろな本で書か れており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。
と書いてみえるので、セイラーボブの教えはもう十分に理解してみえると思います。セイラーボブの教えだけが非二元の教えだというつもりは毛頭ありません。
「確信」「本当の理解」という言葉を使ったために、かえってわかりづらいものにしてしまったかもしれません。「理解」という言葉で十分でした。
いくつか疑問に思ったことがあったので、質問させていただきます
短くても結構ですので、可能でしたらご回答をお願いいたします。
質問が長いので一度に送れるかどうか不明ですが、とりあえず、送
(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(
そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないと
それについては、「(私がいないこと
(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書か
もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらない
2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても
(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解
結局、自分で自分を見ること
(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「
しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差が
「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということ
以上、よろしくお願いいたします。
波平
波平さん、おたよりありがとうございます。
私は、いつか誰かが、今日波平さんからいただいたような質問を送ってくださるのではないかと思っていました。
波平さんと同じように、ブログに書いていることが矛盾していると思ってみえる人が大勢みえるのではないかと思います。
セイラーボブの教えを理解するとはどういうことなのかは重要なポイントなのですが、それを書く前後の脈絡や、書こうとしている内容によって、表現が変わります。
自分の中では矛盾しているつもりはないのですが、どこを強調するのか、誰に向けて書いているのかで表現が変わってしまって、一見矛盾したものになっています。
書いていても、(この表現は以前書いたことと矛盾するなあ)と思いながら書いているのですが、強調したいポイントや、想定している読者によって、矛盾してもしかたがないと思って書いています。
表現が矛盾していても、(ああ、そういうことだったのか! わかったぞ!)という人が一人でも多くいてくれればいいかなと思って書いているつもりです。
最初にわかっていただきたいのは、セイラーボブの教えを理解するやり方に決まったやり方なんてないということです。
私のブログは、セイラーボブの教えを理解するための材料を提供するためのブログです。
私のようなやり方で理解しないといけないとか、理解したらこうなるということを書いているつもりはありません。
どんな理解の仕方でもかまいません。「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということが理解できればいいだけの話です。
質問に具体的に答えていきます。
(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(
そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないと
そうです。私はセイラーボブの教えを知的に(もしくはマインドで)理解した後でも、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。でも、ギルバートやカタリーナの話を聞いて、そんな体験は起きないということを知りました。それまでは、自分の理解に自信が持てませんでしたが、それを聞いて自分の理解で間違いないと確信しました。
そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどう
探してしまうということなら、「確信」という表現を使わなかった方が良かったのかもしれません。本当に理解して、疑いも起きず、もう揺るがないということを表現したかったのでそう書いたのですが、「確信」という言葉をやめておけば良かったと後悔しています。セイラーボブは、「確信」とか「実感」ということを言ったことはなく、「理解がすべてだ」と言っています。
それについては、「(私がいないこと
そういうつもりで書きました。でも、多くの人がセイラーボブの教えを理解していても、確信がないと思っています。確信がないというのはどういう状態なのでしょうか?
確信がないということは、理解が不十分なのか、もしくは私と同じように、理解したら何かが起こるのではないかと心のどこかで思っているのではないでしょうか?
私は確信という言葉を使いましたが、理解だけで終わりにしておくことも可能でした。でもそうすると、一部の人は「それじゃぁお前はセイラーボブの言うことを信じているだけじゃないか」と思われるのではないかと思いました。
信じているのではなく、(それが真実に違いない。そうとしか思えない)という思いを込めて「確信」という言葉を使いました。
多くの人は宇宙空間から地球を見たことはないのに、地球は丸いと知っています。これは信じているのではなく、確信だと思います。
それと同じ程度だということを表現したいと思って確信という言葉を使いました。
でも、よくよく考えると、理解=確信なのではないかと思います。
(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書か
それが、私を含めて多くの人がはまる罠だと思います。セイラーボブの教えを理解しても、何も変わらないし、何かが起きるわけではありません。
ただ一つ起きることは、「私」は実在ではないという理解であり、それが解放をもたらすものです。
ただ一つ起きることは、「私」は実在ではないという理解であり、それが解放をもたらすものです。
もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらない のだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載 を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分にな ってしまいます。
本当の意味での理解とは、「非二元の教えが真実であり、もう迷うことも探すこともない」という状態であるという意味で書きました。でも、ちゃんと理解したら、それが本当の意味での理解なのだと思います。「本当の意味での理解」と書かないで、単に「理解」と書くべきでした。
私は二度のメルボルン滞在から帰ったあとでもまだ揺れ戻しがあって、何か特別な理解があるのではないかと探していました。
入手可能な本を全部読み、YouTubeを何度も見ているうちに、そんなものはないと知り、もう迷うことも探すこともない地点に到達しました。
理解の起こり方は人それぞれだと思います。私のブログを一回読んで、これは真実だと思う人もいれば、続けて読んでいるうちにだんだんと真実だと思うようになった人もいると思います。極端なことを言えば、何の理由もなく直感でセイラーボブの教えは真実だと受け入れることができる人もいると思います。理由なんて要りません。
「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」ということはありません。
私たちが、実際に非二元の世界を垣間見ることも体験することもできない以上、絶対的な確信があるとは言い切れないのもやむえないのではないでしょうか?
人の理解の仕方や程度は様々です。ジョン・ホィーラーのように、セイラーボブ関連の本を何冊も出したあとでボブの前から姿を消した人もいます。ジョン・ホィーラーはセイラーボブの教えをよく理解していたし、彼の説明はわかりやすいものでした。
いくら地球は丸いと理解(確信)していても、実際には、大気をどけると地球は正確な丸ではなく、あちこちがゆがんだ楕円形をしているのだと聞いて、「え~!」となってしまいます。人間の確信なんて、その程度のものではないでしょうか。
理解だ確信だと言ってみても、結局それはマインドにエサを与えているだけで、本当の理解は、もっと直感的なもののように思います。
2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても
12年間、マスターのもとで修業した人は、ふたたびマスターから「汝それなり」と言われて、絶対的な確信を得る方法、体験なんてないとわかったのではないでしょうか。
まだ何かが足りないと思っているうちは、「汝それなり」で終わりとは思えないのではないでしょうか。
どんな方法でも構わないので、セイラーボブの教えていることが正しいと思えて、もう疑いも揺れ戻しも起きない地点に到達すればいいとだけのことです。
「汝それなり」と言われて、(そうは思わない)と感じるか、(そのとおりだ)と感じるかの違いです。(そうは思わない)と感じるなら、ちゃんと理解していることにはならないと思います。
(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解
結局、自分で自分を見ること
そうです。
LIVING REALITYの中で、「アウエアネスは理解するものではなく、在るものだ」「思考が止まっていてもあなたは在る」という内容のことを言っていたと思います。どこに書いてあったか今すぐに出てこないので、正確な引用ではないのですが。
そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というも
そうです。付け加えるなら、今ここにある意識だけが実在であるという理解があれば十分だと思います。
(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「
しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差が
同じつもりで書いています。
もし同じだ
矛盾しています。申し訳ありません。
セツさんの質問に答えた時は、セツさんが何度も繰り返し「ただそれだけ」を読んでみえると聞いて、何か非二元の体験や特別な理解が起きることを期待してみえるような気がしたので、そういったことは何も起きませんよ、という意味を込めて「知的に理解すれば十分である」と聞きました。
でも、この書き方は良くなかったと反省しています。書き直すことはしませんが、もし書き直すとすると、「教えを理解して、それに対して何の疑いもなく、それが真実だと思え、揺れ戻しがなければ、それが理解したということです」としたいです。
私がセイラーボブに、「知的には理解できるのですが・・・」と質問した時、セイラーボブは私に、「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? (知的な)を取りなさい」と言いました。
「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということ
念のために書いておきますが、「直感的な理解」という言い方は私が勝手に言っているだけです。セイラーボブの言葉で、あえて言うなら「ハートとハートの理解」です。
理解の仕方や、それがどんな風に起きるかは人それぞれでかまわないと思います。
ギルバートにはギルバートの理解の仕方があり、カタリーナにはカタリーナの理解の仕方があり、私には私の理解の仕方があります。でも、みんな「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということは理解しています。
マインドの理解、知的理解、実感、確信、直感、ハート。こういった言葉は、それぞれの人でそれぞれの解釈があるので、その言葉の裏にある本質みたいなものを理解していただけたらと思います。
理解の仕方は人それぞれでかまわないのです。
非二元の教えが真実であり、もう迷うことはないという地点まで到達できれば、どの道を通ってもかまわないのです。
私はこのブログで私の理解の過程を書いていますが、それは無視してもかまいません。セイラーボブの言ったことの翻訳部分だけを参考にするというのもありだと思います。
言葉での説明には限界があります。
例えば、「セイラーボブの教えを理解しても何も起きません」と私は書きましたが、もし、「セイラーボブの教えを理解すれば、考え方や物の見方が変わる」ということを言おうとするなら、「セイラーボブの教えを理解すれば何かが起きます」という表現になります。それは言葉の持つ曖昧さ、不完全さだと思います。
セイラーボブの教えを理解するということは、言葉の上でだけ理解するということではなく、教えが正しいと思えて、何の疑いも起きず、それが当たり前の真実と思え、二度と揺れ戻しが起きない状態です。
もしそうでないなら、教えを理解していないということだと思います。
そういう観点に立って言うなら、メルボルンから帰った時点での私は、セイラーボブの教えを理解していませんでした。
何がどう違うかと聞かれるとまた、確信とか実感とか、あいまいな言葉を使ってしまいそうになってうまく言えませんが、今は疑いや揺れ戻しはありません。
波平さんは、(私がいない)ということについてはいろいろな本で書か
と書いてみえるので、セイラーボブの教えはもう十分に理解してみえると思います。セイラーボブの教えだけが非二元の教えだというつもりは毛頭ありません。
「確信」「本当の理解」という言葉を使ったために、かえってわかりづらいものにしてしまったかもしれません。「理解」という言葉で十分でした。
2019/08/30
空は形です。
Emptiness is Form.
空は形です。
その意味は、この空、何もないもの、空間のようなアウエアネスは、パターンとなり、姿形となって、あらゆる顕現となって現れているということです。
それはすべて、知性エネルギーのパターンです。
逆の言い方をするなら、形は空以外の何ものでもありません。
そうやって一つの本質を両面から指摘しています。
形がどんなパターンに変化しても、何を形作っても、それは空にすぎないのです。
そしてそれが私たちの問題となります。
私たちは、見せかけを実在だと思っています。
そして、本質を無視(ignore)します。
それを聖典では、無知(ignorance)と呼びます。
何かおろかなことをするという意味ではなく、文字通り、本質を無視(ignore)しているという意味です。
そうやって、見せかけに焦点を合わせ、パターンや姿形の存在を信じています。
私は、分離は存在しないと言いますが、あなたは自分の周りが分離だらけだと思うでしょう。
では尋ねますが、あなたは分離していますか?
あなたは、自身がその体とマインドだと信じています。
あなたが、自分は体とマインドだと思うなら、それがどこなのかを指摘してください。
あなたの体で、ここから私が始まったという場所を指し示すことができますか?
そしてあなたはいつ始まりましたか?
あなたは、誕生によって始まったと言うでしょう。
でも、この部屋にいる人のうち何人が、自分の誕生の瞬間を覚えていますか?
あなたは自分が覚えている地点を超えては思い出すことができません。
それは、二歳か二歳半の時ぐらいまでです。
それを超えて思い出すことはできません。
あなたは自分の誕生の瞬間を覚えていません。
もしあなたが自分の体を調べてみるなら、自分は体であると言うことはできません。
この体は何でできていますか?
あなたは、体が構成要素でできていると理解するでしょう。
体は、土、空気、火、水、空間でできていて、身のまわりあるものと同じものでできています。
もし分離しているというなら、自身を空気と切り離してください。そしてどれだけ生きられるか見てください。
体から水を取り出してください。
空間の外に出てみてください。
体温、火を取り出してみてください。
あなたは、そうした要素と分離してはいないと知るでしょう。
構成要素なしでは5分も生きられません。
私たちは調べもしないで、自分は分離した存在だと信じています。
それを調べてみてください。
構成要素は何でできていますか?
それは亜粒子でできていて、さらに詳しく調べると、単なるエネルギーであることがわかります。
ということは、この体も、他の顕現と同じように、エネルギーのパターンが形になったものです。違った姿、形になったものです。
2019/08/27
セイラーボブの言葉
個人のものではない、純粋な知る働き
ボブ:「何もないもの」は思考では理解することはできません。それゆえに人々は迷い、混乱します。人々は、自身の狭いマインドでそれをとらえ、姿形として概念化できると考えています。人々は、「これだ。これがあの偉大なエンライトメントか何かだ」と想像します。また、何か恍惚とした体験をして、「これがそれだ」と考えます。
質問者:何もないものには、ただそうした主観的な経験があるだけです。主観的な経験の外には何かありますか?
ボブ:その主観性はあなただけのものですか? 知覚するということに関して。
質問者:そう確信しています。はい。
ボブ:でも、この部屋にいる一人一人は同じ世界を見ています。あなたは違った視点から見ていますが、私たちは皆、反対の極へと動く一対の思考の中で、同じように考えています。それでもあなたは、主観は個人的なものだと思っています。もしあなたが、純粋に主観的に見ると、そこには見る対象は何もありません。それが純粋な見る働きです。私が言っているのは、あれを見るとか、これを見るということではありません。概念のラベルが無かったら、それは純粋な見る働きです。それが、あなたのすべての経験の根底のあるのではありませんか? もしその知る働きがなかったら、どれだけのことを体験することができますか? その知る働きは、原初の思考である「私はある」を通して現れているのではないですか? 同じように、あっちの「私はある」、こっちの「私はある」を通して現れています。それは同じ知る働きで、私はそれを知性エネルギーと呼んでいます。それが違ったパターンとなって現れています。
ボブ:「何もないもの」は思考では理解することはできません。それゆえに人々は迷い、混乱します。人々は、自身の狭いマインドでそれをとらえ、姿形として概念化できると考えています。人々は、「これだ。これがあの偉大なエンライトメントか何かだ」と想像します。また、何か恍惚とした体験をして、「これがそれだ」と考えます。
質問者:何もないものには、ただそうした主観的な経験があるだけです。主観的な経験の外には何かありますか?
ボブ:その主観性はあなただけのものですか? 知覚するということに関して。
質問者:そう確信しています。はい。
ボブ:でも、この部屋にいる一人一人は同じ世界を見ています。あなたは違った視点から見ていますが、私たちは皆、反対の極へと動く一対の思考の中で、同じように考えています。それでもあなたは、主観は個人的なものだと思っています。もしあなたが、純粋に主観的に見ると、そこには見る対象は何もありません。それが純粋な見る働きです。私が言っているのは、あれを見るとか、これを見るということではありません。概念のラベルが無かったら、それは純粋な見る働きです。それが、あなたのすべての経験の根底のあるのではありませんか? もしその知る働きがなかったら、どれだけのことを体験することができますか? その知る働きは、原初の思考である「私はある」を通して現れているのではないですか? 同じように、あっちの「私はある」、こっちの「私はある」を通して現れています。それは同じ知る働きで、私はそれを知性エネルギーと呼んでいます。それが違ったパターンとなって現れています。
2019/08/24
時間や距離はマインドの中にしかありません。
私は今、いつものようにパソコンの前に座って、ブログを書いています。
そして、ブログを書き終わったら、後でトイレに行こうかなと、ふと思いました。そう思った瞬間に、部屋からトイレまでの距離が生まれました。
私の友人は今、南アフリカのケープタウンを旅しています。ふとそう思った瞬間に、日本からケープタウンまでの距離が生まれました。もし私が、トイレのこともケープタウンのことも考えなかったら、そこに距離はありません。
時間はどうですか? 後でトイレに行こうと思った瞬間に、「後で」という時間が生まれました。
明日は名古屋で友人に会う日だな、と思った瞬間に「明日」という時間が生まれました。
去年の今頃は何をしていたのかな、と思った瞬間に「去年」という時間が生まれました。
あなたが考えなければ、時間は生まれません。
時間も距離も、あなたの思考の中にしかありません。
体はどうですか?
あなたは今、椅子に座ってパソコンでこのブログを読んでいるかもしれません。
あるいは、どこかでスマートフォンでこのブログを読んでいるかもしれません。
あなたのお尻は今、椅子に触れていますか?
私が、「あなたのお尻」と言うまで、あなたのお尻は消えていたのではありませんか?
そこにお尻はありましたか?
あなたの手はどうですか?
マウスに触れていますか? それともスマートフォンを持っていますか?
もし私が、「あなたの手」と言わなければ、あなたの手は消えていたのではありませんか? そこに手はありましたか?
目はどうですか?
画面を見ていますか?
私が、「目」と言わなければ、目は消えていたのではありませんか?
頭はどうですか?
私が「頭」と言わなければ、頭は消えたいたのではありませんか?
体も、あなたの意識に現れているのではないですか?
もしあなたが意識しなければ、体は消えていたのではないですか?
思考も同じです。
今あなたは何を考えていますか?
もし私がこう問いかけなかったら、思考は意識されることなく、やってきては去っていったはずです。
すべては、そうやって意識の中に現れます。
時間、距離、体、思考。世界はあなたの意識の中に現れます。
そしてそれは一つのものです。
そして、ブログを書き終わったら、後でトイレに行こうかなと、ふと思いました。そう思った瞬間に、部屋からトイレまでの距離が生まれました。
私の友人は今、南アフリカのケープタウンを旅しています。ふとそう思った瞬間に、日本からケープタウンまでの距離が生まれました。もし私が、トイレのこともケープタウンのことも考えなかったら、そこに距離はありません。
時間はどうですか? 後でトイレに行こうと思った瞬間に、「後で」という時間が生まれました。
明日は名古屋で友人に会う日だな、と思った瞬間に「明日」という時間が生まれました。
去年の今頃は何をしていたのかな、と思った瞬間に「去年」という時間が生まれました。
あなたが考えなければ、時間は生まれません。
時間も距離も、あなたの思考の中にしかありません。
体はどうですか?
あなたは今、椅子に座ってパソコンでこのブログを読んでいるかもしれません。
あるいは、どこかでスマートフォンでこのブログを読んでいるかもしれません。
あなたのお尻は今、椅子に触れていますか?
私が、「あなたのお尻」と言うまで、あなたのお尻は消えていたのではありませんか?
そこにお尻はありましたか?
あなたの手はどうですか?
マウスに触れていますか? それともスマートフォンを持っていますか?
もし私が、「あなたの手」と言わなければ、あなたの手は消えていたのではありませんか? そこに手はありましたか?
目はどうですか?
画面を見ていますか?
私が、「目」と言わなければ、目は消えていたのではありませんか?
頭はどうですか?
私が「頭」と言わなければ、頭は消えたいたのではありませんか?
体も、あなたの意識に現れているのではないですか?
もしあなたが意識しなければ、体は消えていたのではないですか?
思考も同じです。
今あなたは何を考えていますか?
もし私がこう問いかけなかったら、思考は意識されることなく、やってきては去っていったはずです。
すべては、そうやって意識の中に現れます。
時間、距離、体、思考。世界はあなたの意識の中に現れます。
そしてそれは一つのものです。
ボブの家の近くの花屋にて 2015
2019/08/21
知性エネルギー
Intelligence Energy
そのことを知性エネルギーと言います。
知る働きの活動のことです。
あなたの知性のことを言っているのではありません。
知る働きが、そこここにあることは否定できません。
それは自然に起こってくるものです。
それはこの瞬間に起こっています。
それは単にエネルギーの動きです。
エネルギーのバイブレーションです。
そのバイブレーションには始まりがありますか?
今はいつ始まったのかをピンポイントで指摘できますか?
今の終わりをピンポイントで指摘できますか?
それは脈動する鼓動のようなものです。
始まりが終わりであり、終りが始まりです。
それは自然な活動です。
それが姿形となり、あなた、私、すべてのものとなって現れています。
私たちはそれと別々のものではありません。
同様に、あなたに始まりはありません。
あなたに終わりはありません。
あなたに誕生も死もありません。
運命も自由意志もありません。
誕生もなく、死もなく、時間もなく、空間もなく、体でもなく、マインドでもない。
それ以外のものです。
2019/08/18
セイラーボブの言葉
もし、概念も思考もなかったら、そこには何がありますか?
考えたくありません。
考えるという問題ではありません。ほんの一瞬思考を止めてみてください。ほんの一瞬。それについてどんなことが言えますか?
それをやっても意味がありません。
あなたはちゃんとやっていません。そうでなければ、それをやっても意味がないとは言えません。ちゃんと見てください。もし思考がなかったら、たとえそれが一瞬でも、それについては何も言うことできません。概念無しでは、それが穏やかだとか、そうではないとか、怒りや恐怖、良いとか悪いとかを言うことが全くできません。それは純粋なアウエアネスです。それは思考ではありません。それが知る働きであり、知性の働きであり、あなたと共にあるものです。それが私たち全員と共に今ここにあります。そこには分離はありません。それには、始まりも終わりもありません。それはすべてを含んでいます。
考えたくありません。
考えるという問題ではありません。ほんの一瞬思考を止めてみてください。ほんの一瞬。それについてどんなことが言えますか?
それをやっても意味がありません。
あなたはちゃんとやっていません。そうでなければ、それをやっても意味がないとは言えません。ちゃんと見てください。もし思考がなかったら、たとえそれが一瞬でも、それについては何も言うことできません。概念無しでは、それが穏やかだとか、そうではないとか、怒りや恐怖、良いとか悪いとかを言うことが全くできません。それは純粋なアウエアネスです。それは思考ではありません。それが知る働きであり、知性の働きであり、あなたと共にあるものです。それが私たち全員と共に今ここにあります。そこには分離はありません。それには、始まりも終わりもありません。それはすべてを含んでいます。
2019/08/15
Sailor Man song by James Braha
Lost in the middle of the sea The sailor man came to me
Praying for a taste of truth Devoured by the search since youth
Thirty years along the road Til Sailor man broke the code
A life of desire and fear Disappears in the final frontier
Tossed like a feather in the breeze Shouting my demands and pleas
Sailor man heard this cry Listen son to my reply
If you really want to know what I see
Pierce the illusion of a me
Time and space never last There cannot be a future or a past
CHORUS
The sweetness of this humble man
Melts your heart like no one can
Points the way, today’s the Day
That’s the plan of the Sailor man
And that is why I love this guy
Sailor Bob the Sailor man
Tried every truth that came along Every damn path turned wrong
Everywhere a big lofty goal And no one ever left feeling whole
But Sailor man knew what was real Just look below what you feel
Underneath every thought and every sense Indescribable space immense
Everywhere a big lofty goal And no one ever left feeling whole
But Sailor man knew what was real Just look below what you feel
Underneath every thought and every sense Indescribable space immense
Thought my search would never end Til I met an ocean going friend
One lovely night he said to me Words I didn’t know I could see
Just have a look or a peak We already are what we seek
Underneath the many is the one Like fire creates the sun
REPEAT CHORUS
When thoughts lose their power of belief Then comes peace and relief
Events aren’t ever what they seem Welcome the imaginary dream
Just like clouds hide the sun The many overshadows the one
It’s all a great big play Sailor man came to say
Don’t put the horse before the cart There never was an end or a start
Never was a time we were not The mind plays a game it forgot
Just like Strawberry fields Nothing in this world is real
Like rainbows in the sky we see There never was a you or a me
REPEAT CHORUS
***
ジェームズ・ブラハの歌がうまいのには驚きました。
ボブは電動車椅子みたいなものに乗っているんですね。どの程度自立歩行できるのでしょうか。
***
ジェームズ・ブラハの歌がうまいのには驚きました。
ボブは電動車椅子みたいなものに乗っているんですね。どの程度自立歩行できるのでしょうか。
2019/08/09
答えはマインドの中にはありません。
No Answer in the Mind
ここで私は、答えをマインドの中で見つけることはないと言います。
たとえ一晩だけでも、マインドで理解しようとしないでください。
マインドで理解しようとすると、頭と頭になります。
それでは何も理解できません。
自分や他の人に対する概念を得るだけです。
ハートとハート。心臓のことを言っているのではありません。
あなたの存在の本質、すなわち魂のシンボルのことを言っています。
ハートとハートが開いている時、共鳴が起きます。
それがどんな言葉だったのか2分も経つと忘れてしまうかもしれませんが、いったん共鳴が起きれば、ある時それはあなたの言葉、考え、認識としてやってきます。それ以降は、読んだり聞いたりしたものとしてではなく、あなたのものです。
(聞き取り不能の箇所を省略しています)
***
お知らせ
ギルバートの新刊が出ました。日本のアマゾンでも買えます。セイラーボブの講話ではなく、ギルバートのオリジナルです。しっかり読んだら感想を書きます。
ギルバートがブログを始めるそうです。きっと参考になることがいっぱいのはず。
Gilbert Schultz-Seeing-Knowingブログ
2019/08/06
菅平合宿
二泊三日で恒例の菅平合宿に行ってきました。
モロッコで砂漠ツアーをご一緒させていただいた河村さんが、夏になると菅平の山荘に招待してくださるので、今年も行ってきました。

日本で一番暑い多治見から「しなの」で長野へ。

長野で北陸新幹線に乗り換え。12分間乗るだけですけどね。

上田到着。お出迎えの河村さんの車で40分、菅平へと登って行きます。

到着。涼しいです。26度ぐらいのはずですが、体感的にはもっと涼しく感じます。
多治見との温度差は10度ぐらいのはずです。

別荘地の中にある山小屋です。さっそくビールで乾杯。
まだ晩御飯には少し早かったので散歩。今回で4回目なので、近所の地理は良くわかっています。

高校生が走っていました。

近くに立派な施設があります。

サッカーの練習試合をする高校生。この施設には多目的グランドが何面もあって、高原で夏合宿をやっている高校や大学が、練習試合をします。

立派な陸上競技場もあります。



ラグビーワールドカップの直前にイタリアチームがここで事前合宿をするようです。
散歩も終わって夕食の時間になったので、合宿開始です。

私たちの合宿はラグビーではなく、酒です。

河村さんはワイン通なので、毎回ワインに合う料理を作ってくれます。
私はもっぱら飲み食い片付け専門です。
今日のワインは南アフリカ原産のピノタージュ。メイン料理はラタトゥーユ。
ワインのことをあれこれと教えてもらいながら、料理の作り方や材料も教えてもらうのですが、たいてい酔っぱらって聞いているので忘れてしまい、帰ってきて作ったためしがありません。
夜中の二時まで二人で、ビール2缶、ワイン2本、ウイスキーボトル3分の1飲んでおしゃべり。マダガスカルやケープタウンの話で盛り上がりました。内容は例によってあまり覚えていません。

翌朝、裏の畑でトラクターの動く音。

たぶん外国人労働者だと思うのですが、ブロッコリーの収穫をしていました。
ブロッコリーの葉は捨ててしまうんですね。葉も売れそうな気がしますが。
菅平高原ではレタスやブロッコリーをあちこちで作っています。
過去三回の合宿では、昼間は高原を降りてあちこちの観光地にドライブで連れていってもらいました。松代大本営防空壕跡、上田城址、真田の里、上越高田、姥捨て棚田、戸隠、小布施の寺々などなど。このあたりは見るものがたくさんあって、とてもいいところです。
でも今回は猛暑なので、下界へは行かずに避暑を楽しみましょうということで、遠出はなしです。
毎回、ほとんど学習能力のない私は、今回も二日酔い。頭が痛い。
サニアパークでは、KOBELCO CUP 2019という高校生のラグビーの大会をやっていました。

全国から、高校生のチームがやってきています。

この日は女子の試合でした。

炎天下で見ていても平気なくらいの温度で、酒が抜けて気持ちいいです。
途中一雨降ったのですが、みんな熱心に応援していました。
試合観戦のあと、須坂の温泉で汗を流して山荘に戻り、今日も合宿。

今日のメインはボブチョルバというスープだそうです。どこのどういう料理だったかは、例のごとく思い出せませんが、美味しくておかわりしました。
生茶のペットボトルに入っているのは、河村さんがブルガリアの友人宅で仕込んで作った赤ワインです。なかなかサッパリしておいしい味でした。
涼しい菅平から、沖縄よりも暑い多治見の我が家に帰ったら、キッチンが大変なことになっていました。一昨日、出がけに生ごみをゴミ袋に入れて出かけたのですが、口がしっかりと閉まっていなくて、そこにブヨが大量発生。
床には、ブヨの幼虫と思われるウジのような小さな虫がたくさん這っていてびっくり。
たった三日家を空けただけで、こんなことになるとは。汗だくになりながら、キンチョールを吹きかけて、ぞうきんがけして大掃除。
今回の合宿の教訓。夏に家を空ける時は生ごみをちゃんとして行け、でした。ギャフン。
モロッコで砂漠ツアーをご一緒させていただいた河村さんが、夏になると菅平の山荘に招待してくださるので、今年も行ってきました。
日本で一番暑い多治見から「しなの」で長野へ。
長野で北陸新幹線に乗り換え。12分間乗るだけですけどね。
上田到着。お出迎えの河村さんの車で40分、菅平へと登って行きます。
到着。涼しいです。26度ぐらいのはずですが、体感的にはもっと涼しく感じます。
多治見との温度差は10度ぐらいのはずです。
別荘地の中にある山小屋です。さっそくビールで乾杯。
まだ晩御飯には少し早かったので散歩。今回で4回目なので、近所の地理は良くわかっています。
高校生が走っていました。
近くに立派な施設があります。
サッカーの練習試合をする高校生。この施設には多目的グランドが何面もあって、高原で夏合宿をやっている高校や大学が、練習試合をします。
立派な陸上競技場もあります。
ラグビーワールドカップの直前にイタリアチームがここで事前合宿をするようです。
散歩も終わって夕食の時間になったので、合宿開始です。
私たちの合宿はラグビーではなく、酒です。
河村さんはワイン通なので、毎回ワインに合う料理を作ってくれます。
私はもっぱら飲み食い片付け専門です。
今日のワインは南アフリカ原産のピノタージュ。メイン料理はラタトゥーユ。
ワインのことをあれこれと教えてもらいながら、料理の作り方や材料も教えてもらうのですが、たいてい酔っぱらって聞いているので忘れてしまい、帰ってきて作ったためしがありません。
夜中の二時まで二人で、ビール2缶、ワイン2本、ウイスキーボトル3分の1飲んでおしゃべり。マダガスカルやケープタウンの話で盛り上がりました。内容は例によってあまり覚えていません。
翌朝、裏の畑でトラクターの動く音。
たぶん外国人労働者だと思うのですが、ブロッコリーの収穫をしていました。
ブロッコリーの葉は捨ててしまうんですね。葉も売れそうな気がしますが。
菅平高原ではレタスやブロッコリーをあちこちで作っています。
過去三回の合宿では、昼間は高原を降りてあちこちの観光地にドライブで連れていってもらいました。松代大本営防空壕跡、上田城址、真田の里、上越高田、姥捨て棚田、戸隠、小布施の寺々などなど。このあたりは見るものがたくさんあって、とてもいいところです。
でも今回は猛暑なので、下界へは行かずに避暑を楽しみましょうということで、遠出はなしです。
毎回、ほとんど学習能力のない私は、今回も二日酔い。頭が痛い。
サニアパークでは、KOBELCO CUP 2019という高校生のラグビーの大会をやっていました。
全国から、高校生のチームがやってきています。
この日は女子の試合でした。
炎天下で見ていても平気なくらいの温度で、酒が抜けて気持ちいいです。
途中一雨降ったのですが、みんな熱心に応援していました。
試合観戦のあと、須坂の温泉で汗を流して山荘に戻り、今日も合宿。
今日のメインはボブチョルバというスープだそうです。どこのどういう料理だったかは、例のごとく思い出せませんが、美味しくておかわりしました。
生茶のペットボトルに入っているのは、河村さんがブルガリアの友人宅で仕込んで作った赤ワインです。なかなかサッパリしておいしい味でした。
涼しい菅平から、沖縄よりも暑い多治見の我が家に帰ったら、キッチンが大変なことになっていました。一昨日、出がけに生ごみをゴミ袋に入れて出かけたのですが、口がしっかりと閉まっていなくて、そこにブヨが大量発生。
床には、ブヨの幼虫と思われるウジのような小さな虫がたくさん這っていてびっくり。
たった三日家を空けただけで、こんなことになるとは。汗だくになりながら、キンチョールを吹きかけて、ぞうきんがけして大掃除。
今回の合宿の教訓。夏に家を空ける時は生ごみをちゃんとして行け、でした。ギャフン。
2019/08/03
非二元の師たちが教えているのは、エンライトメント(覚醒)ではありません。
最初にセイラーボブの本を読んだ時、セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)した状態のことだと勝手に思い込んでいました。
セイラーボブに会って、エンライトメントなどないと聞かされたあとでも、心のどこかで、セイラーボブの意識の状態は、普通の人の意識の状態と違うのではないかと思っていました。
セイラーボブが、自分はエンライトメントをしたとか、いわゆる覚醒の一瞥体験をしたと言ったのを聞いたことは一度もありません。それでも、セイラーボブの教えを理解すれば、何かが起きるはずだと勝手に思っていました。
セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)ではありません。セイラーボブはエンライトメント(覚醒)した人ではなく、私たちと何も変わらない普通の人です。
セイラーボブの教えを理解しても、何か特別なことが起きるということはありません。
セイラーボブが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。
1980年代から90年代は、エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルやマスターたちが人気の時代でした。
ここでいうエンライトメントというのは、ある時何かが起こって、永遠の恍惚感がとめどなく続くような状態のことを言っています。人々はそれを手に入れるためにグルや教師のもとを訪れ、瞑想したり、講話を聴いたりした時代でした。
最近、ネットや書店で本を読んでいて気になるのは、そうしたグルの説くエンライトメントは、実は非二元の教えている状態だったのだ、というような話を見かけることです。
長年瞑想してエンライトメントを求めてきた人が、エンライトメントは実はとめどない恍惚感が続くようなものではなく、もともとの自分の状態だったと気づくというストーリーを見かけます。
また、かつては人気絶大だった目覚めを説く教師が、近年になって、非二元関連の本の序文を書いて、自分の教えている目覚めは非二元の教えていることと同じであるかのように装っている人もいます。
私はこの風潮を良いことだと思っていません。
私も必死で瞑想してエンライトメント(覚醒)を求めていました。
でも今は、それが完全に間違いだったと思っています。
そうしたグルや教師たちが教えていたことが正しかったのかどうかを、きちんと再評価する必要があるのではないかと思います。
もし、エンライトメント(覚醒)や目覚めなんてものはないのなら、彼らは大勢の人たちを騙してしてきたペテン師だったということになります。
彼らが当時説いていたエンライトメントは、明らかに非二元と同じものではありませんでした。
ラマナ・マハリシやダグラスハーディングの本はずいぶん前から書店に並んでいたのですが、私は勝手に彼らもエンライトメント(覚醒)した人たちだと思い込んでいました。極端な話、精神世界の棚にある聖人は全部、エンライトメント(覚醒)した人だと思い込んでいました。
でも、注意深く読むと、彼らの教えているのはそうではないということがわかります。
エンライトメント(覚醒)や目覚めを説く人たちの特徴は、必ず自らの覚醒体験を語っていることと、それは手に入れるものだと説いているので、そういう人を見分けるのはそう難しくはありません。彼らは覚醒体験で自らを権威付けし、それを客寄せの道具として使っています。
彼らの説くエンライトメントは手に入れるものであり、別の意識状態になるものです。一方、セイラーボブの説く非二元は、手に入れるものでも、何かになるものでもありません。注意深く読めばその違いはすぐにわかります。
私は今では、自らの覚醒(エンライトメント)体験を語っているグルや教師は全部ペテン師だと思っています。
何世にもわたって輪廻転生をくり返し、やっと手に入れるエンライトメント(覚醒)というストーリーが、いかに馬鹿げた作り話だったかとわかったからです。
あまり過激なことを書くと、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人の怒りをかいそうで嫌なのですが、挑発するつもりはありません。おたよりをいただいてもご返事できません。単に見解の相違ですので、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人はどうぞこのブログを読まないでください。
問題を複雑にしているのは、非二元の教えを説く人の中にも、私はエンライトメント(覚醒)したという人がいるということです。私はこういう人も信用していません。もし、こういう人の教えが正しいのなら、セイラーボブが教えていることは間違っていることになります。なぜならセイラーボブは覚醒した人ではないし、エンライトメント(覚醒)なんて作り話だと言っているからです。
ただし、非二元の本質を理解している人の中には、「本当のエンライトメントは、永遠に続く恍惚感というようなものではなく、今ここにある意識がそれだと気づくことだ」というように言う人もいます。これは許容範囲です。でも、いっそエンライトメントという言葉を使わない方が良いのではないかと思います。こうした言い回しは、過去のペテン師グルたちを正当化してしまうことになりはしないかと思います。
エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルや教師の教えていることと、セイラーボブが教えている非二元は全く別のことです。そのことをはっきりと理解していないと、わけのわからない教師やセミナーの餌食になってしまいます。
非二元の教えを正しく理解するためには、エンライトメント(覚醒)などないということを理解する必要があります。それは単なる作り話で、いわばペテン師グルたちの悪しき条件付けだからです。その条件付けがある間は、もし非二元を理解すれば何かが起きるはずだという幻想がなくなりません。その結果、いつまでたっても非二元の教えを理解できないことになります。
また、非二元の教えを説く人の中には、非二元の世界の一瞥体験や、ある時何かのきっかけで突然に非二元の世界を理解したという人がいます。例えば、何かのきっかけで、(私は体でもマインドでもないと理解した)(世界は一つの存在であるとわかった)というような理解が突然起きる場合です。
こういう体験を「覚醒」として語る人もいます。これはエンライトメント(覚醒)ではなく、非二元を理解した体験です。こういう人の中には、優れた非二元の師となっている人もいます。こういう人のことを否定するつもりはありません。ただ問題は、その人が本当に覚醒という意味でその言葉を使ったかどうかです。本人は「理解」という意味で言ったにもかかわらず、「覚醒」と翻訳された可能性もあります。そのあたりの英語は両方に解釈できる言葉があるからです。
非二元の理解は、何かの体験を通して突然起こるやり方でも、私のようにセイラーボブの話や本を何度も読んでいるうちに、それが真実だと理解したという理解の仕方でもどちらでも良いと思っています。セイラーボブの周りにいる人の大半は私と同じように、何度もセイラーボブの話を聞いているうちに理解したという人が大半です。
問題は、非二元を説く側の人の中にも、エンライトメント(覚醒)と、非二元の一瞥体験をゴチャゴチャにして語る人がいて、聞く側の人もそれをゴチャゴチャにして聞いています。私は、エンライトメント(覚醒)は無いと思っていますが、非二元の一瞥体験をすることはあるのではないかと思っています。
でも、非二元の世界を一瞥するというのはどういう体験ですか?
自分は体でもマインドでもないという一瞥をしたということですか?
もし自分の体やマインドが消えると、その一瞥体験を見ることも覚えていることもできないはずではありませんか?
あれは一瞥体験だったんだ、と思い出せるということは、それを見て感じて記憶している誰かがそこにいたはずです。だったらそれは非二元の世界を見たことにはならないのではないですか? それはあくまで疑似非二元の世界にすぎないと思います。
多くの人たちが、ネット上で自分の一瞥体験についてあれこれと語っていますが、それは個人的な思い込みであって、それを語ることはほとんど意味がないし、そういう人たちが必ずしも正しく非二元を理解しているとは言えません。
なぜなら、非二元は何かになることや、何かを体験することではないからです。
一瞥体験がきっかけとなって、非二元の世界に興味を持っていった人もいると思います。そういう人の中には非二元を正しく理解していて、人々を正しい方向に導いている人もいると思います。でも、それを看板にして客寄せをすることは、多くの人を迷わせる結果になるのではないでしょうか。なぜなら、非二元の世界を実際に見て体験することはないからです。
セイラーボブもそうした体験に対して「そういう体験も非二元そのものの体験ではない」と言って、否定しています。
セイラーボブは、非二元の世界を体験したとか、一瞥したとか言ったことは一度もありません。非二元の世界を理解したら、何か特別なことを体験すると言ったこともありません。
非二元の教えは、特別の人にしか起こらない何かではありません。
すべての人がもうすでにそうなのだということを理解すればいいだけのことです。
それを理解するために、何か特別な体験が必要なわけではありません。
普通の人の普通の頭で考えて、(本当に「私」はマインドと体なのだろうか)と調べることだけです。そしてそれは、あなたがこじらせなければ、そんなに難しいことではありません。
セイラーボブに会って、エンライトメントなどないと聞かされたあとでも、心のどこかで、セイラーボブの意識の状態は、普通の人の意識の状態と違うのではないかと思っていました。
セイラーボブが、自分はエンライトメントをしたとか、いわゆる覚醒の一瞥体験をしたと言ったのを聞いたことは一度もありません。それでも、セイラーボブの教えを理解すれば、何かが起きるはずだと勝手に思っていました。
セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)ではありません。セイラーボブはエンライトメント(覚醒)した人ではなく、私たちと何も変わらない普通の人です。
セイラーボブの教えを理解しても、何か特別なことが起きるということはありません。
セイラーボブが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。
1980年代から90年代は、エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルやマスターたちが人気の時代でした。
ここでいうエンライトメントというのは、ある時何かが起こって、永遠の恍惚感がとめどなく続くような状態のことを言っています。人々はそれを手に入れるためにグルや教師のもとを訪れ、瞑想したり、講話を聴いたりした時代でした。
最近、ネットや書店で本を読んでいて気になるのは、そうしたグルの説くエンライトメントは、実は非二元の教えている状態だったのだ、というような話を見かけることです。
長年瞑想してエンライトメントを求めてきた人が、エンライトメントは実はとめどない恍惚感が続くようなものではなく、もともとの自分の状態だったと気づくというストーリーを見かけます。
また、かつては人気絶大だった目覚めを説く教師が、近年になって、非二元関連の本の序文を書いて、自分の教えている目覚めは非二元の教えていることと同じであるかのように装っている人もいます。
私はこの風潮を良いことだと思っていません。
私も必死で瞑想してエンライトメント(覚醒)を求めていました。
でも今は、それが完全に間違いだったと思っています。
そうしたグルや教師たちが教えていたことが正しかったのかどうかを、きちんと再評価する必要があるのではないかと思います。
もし、エンライトメント(覚醒)や目覚めなんてものはないのなら、彼らは大勢の人たちを騙してしてきたペテン師だったということになります。
彼らが当時説いていたエンライトメントは、明らかに非二元と同じものではありませんでした。
ラマナ・マハリシやダグラスハーディングの本はずいぶん前から書店に並んでいたのですが、私は勝手に彼らもエンライトメント(覚醒)した人たちだと思い込んでいました。極端な話、精神世界の棚にある聖人は全部、エンライトメント(覚醒)した人だと思い込んでいました。
でも、注意深く読むと、彼らの教えているのはそうではないということがわかります。
エンライトメント(覚醒)や目覚めを説く人たちの特徴は、必ず自らの覚醒体験を語っていることと、それは手に入れるものだと説いているので、そういう人を見分けるのはそう難しくはありません。彼らは覚醒体験で自らを権威付けし、それを客寄せの道具として使っています。
彼らの説くエンライトメントは手に入れるものであり、別の意識状態になるものです。一方、セイラーボブの説く非二元は、手に入れるものでも、何かになるものでもありません。注意深く読めばその違いはすぐにわかります。
私は今では、自らの覚醒(エンライトメント)体験を語っているグルや教師は全部ペテン師だと思っています。
何世にもわたって輪廻転生をくり返し、やっと手に入れるエンライトメント(覚醒)というストーリーが、いかに馬鹿げた作り話だったかとわかったからです。
あまり過激なことを書くと、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人の怒りをかいそうで嫌なのですが、挑発するつもりはありません。おたよりをいただいてもご返事できません。単に見解の相違ですので、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人はどうぞこのブログを読まないでください。
問題を複雑にしているのは、非二元の教えを説く人の中にも、私はエンライトメント(覚醒)したという人がいるということです。私はこういう人も信用していません。もし、こういう人の教えが正しいのなら、セイラーボブが教えていることは間違っていることになります。なぜならセイラーボブは覚醒した人ではないし、エンライトメント(覚醒)なんて作り話だと言っているからです。
ただし、非二元の本質を理解している人の中には、「本当のエンライトメントは、永遠に続く恍惚感というようなものではなく、今ここにある意識がそれだと気づくことだ」というように言う人もいます。これは許容範囲です。でも、いっそエンライトメントという言葉を使わない方が良いのではないかと思います。こうした言い回しは、過去のペテン師グルたちを正当化してしまうことになりはしないかと思います。
エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルや教師の教えていることと、セイラーボブが教えている非二元は全く別のことです。そのことをはっきりと理解していないと、わけのわからない教師やセミナーの餌食になってしまいます。
非二元の教えを正しく理解するためには、エンライトメント(覚醒)などないということを理解する必要があります。それは単なる作り話で、いわばペテン師グルたちの悪しき条件付けだからです。その条件付けがある間は、もし非二元を理解すれば何かが起きるはずだという幻想がなくなりません。その結果、いつまでたっても非二元の教えを理解できないことになります。
また、非二元の教えを説く人の中には、非二元の世界の一瞥体験や、ある時何かのきっかけで突然に非二元の世界を理解したという人がいます。例えば、何かのきっかけで、(私は体でもマインドでもないと理解した)(世界は一つの存在であるとわかった)というような理解が突然起きる場合です。
こういう体験を「覚醒」として語る人もいます。これはエンライトメント(覚醒)ではなく、非二元を理解した体験です。こういう人の中には、優れた非二元の師となっている人もいます。こういう人のことを否定するつもりはありません。ただ問題は、その人が本当に覚醒という意味でその言葉を使ったかどうかです。本人は「理解」という意味で言ったにもかかわらず、「覚醒」と翻訳された可能性もあります。そのあたりの英語は両方に解釈できる言葉があるからです。
非二元の理解は、何かの体験を通して突然起こるやり方でも、私のようにセイラーボブの話や本を何度も読んでいるうちに、それが真実だと理解したという理解の仕方でもどちらでも良いと思っています。セイラーボブの周りにいる人の大半は私と同じように、何度もセイラーボブの話を聞いているうちに理解したという人が大半です。
問題は、非二元を説く側の人の中にも、エンライトメント(覚醒)と、非二元の一瞥体験をゴチャゴチャにして語る人がいて、聞く側の人もそれをゴチャゴチャにして聞いています。私は、エンライトメント(覚醒)は無いと思っていますが、非二元の一瞥体験をすることはあるのではないかと思っています。
でも、非二元の世界を一瞥するというのはどういう体験ですか?
自分は体でもマインドでもないという一瞥をしたということですか?
もし自分の体やマインドが消えると、その一瞥体験を見ることも覚えていることもできないはずではありませんか?
あれは一瞥体験だったんだ、と思い出せるということは、それを見て感じて記憶している誰かがそこにいたはずです。だったらそれは非二元の世界を見たことにはならないのではないですか? それはあくまで疑似非二元の世界にすぎないと思います。
多くの人たちが、ネット上で自分の一瞥体験についてあれこれと語っていますが、それは個人的な思い込みであって、それを語ることはほとんど意味がないし、そういう人たちが必ずしも正しく非二元を理解しているとは言えません。
なぜなら、非二元は何かになることや、何かを体験することではないからです。
一瞥体験がきっかけとなって、非二元の世界に興味を持っていった人もいると思います。そういう人の中には非二元を正しく理解していて、人々を正しい方向に導いている人もいると思います。でも、それを看板にして客寄せをすることは、多くの人を迷わせる結果になるのではないでしょうか。なぜなら、非二元の世界を実際に見て体験することはないからです。
セイラーボブもそうした体験に対して「そういう体験も非二元そのものの体験ではない」と言って、否定しています。
セイラーボブは、非二元の世界を体験したとか、一瞥したとか言ったことは一度もありません。非二元の世界を理解したら、何か特別なことを体験すると言ったこともありません。
非二元の教えは、特別の人にしか起こらない何かではありません。
すべての人がもうすでにそうなのだということを理解すればいいだけのことです。
それを理解するために、何か特別な体験が必要なわけではありません。
普通の人の普通の頭で考えて、(本当に「私」はマインドと体なのだろうか)と調べることだけです。そしてそれは、あなたがこじらせなければ、そんなに難しいことではありません。
メルボルン図書館
2019/07/30
おたよりをいただきました。
Takuさん、こんにちは。
僕は朝起きた時少し憂鬱です。睡眠が深くないので布団から起きだ す前にはすでにいろいろ考え始めている感じで、さあ起きようという時にはすでに少 し憂鬱です。
それでも以前と違うのは、セイラーボブさんやTakuさんのおかげで、余計な考えを横に置いておくということができるようになりました。
Takuさんは、 「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりま した。」と書いておられました。それは「理解」ということに関する大きなバロメー ターのように思います。いま「ただそれだけ」を8回目を読んでいますが、まだまだ 理解できていないようです。
セツ
「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりま した。」と書いたのは、セイラーボブの教えを理解して何かが変わったからではありません。それまで何十年も探していた宿題をやり終えた解放感と、もう一つは、眠れても眠れなくても、全く気にしなくなったからです。
最近はまた、不眠症気味で、ほとんど眠れない日もたくさんあります。でも、それで寝起きが憂鬱になることはありません。寝起きが憂鬱だろうが、爽やかだろうが、全く気になりません。いつもと同じように一日を始めるだけです。
もし、今朝は熟睡したから爽快だ、と喜ぶと、それが今度は眠れない朝の憂鬱を生み出すことになります。信心銘を思い出してください。もし、良いとか悪いとか判断すると、マインドは天と地のごとく二元的に反対の極に動いて、はるかに隔たりを生むことになります。
セツさんは、「ただそれだけ」を8回読んでいるのに、まだまだ理解が起きていないようだと書いてみえますが、一体どういう理解を期待してみえますか?
セイラーボブの教えを理解したら、精神がスッキリするとか、毎日熟睡して爽やかに目覚められると勝手に思い込んでいるのではありませんか?
残念ながら、そういうことは起きません。
私もそうでしたが、人々はセイラーボブの教えを理解したら、憂鬱になったり、悩んだりすることがなくなるのではないかと勝手に想像しています。セイラーボブの教えを理解しても、憂鬱になったり、悩んだりすることは以前を同じように起こってきます。
また、セイラーボブの教えを本当に理解したら、何か特別な体験が起きるはずだと勝手に想像してみえるかもしれませんが、いくら期待しても、何も起こりません。
セイラーボブの教えを理解して起きることは、自分は実在ではないという理解から起きる精神的な解放だけです。憂鬱な気分や、煩わしい問題は今までと同じように起こってきますが、それは「私」に起こっているのではないという理解があるために、そうしたことに巻き込まれなくなります。
セイラーボブの教えを理解できた状態というのはどういう状態なのかについて具体的に書きます。
私は、二回のメルボルン滞在で、セイラーボブの教えを知的には完全に理解できていました。「知的には」という意味は、セイラーボブが何を言っているのかを理解できているという意味です。
「万物は一つものである」
「私は体でもマインドでもない」
「本当の私はアウエアネス、意識であり、空である」
「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」
「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」
「すべては概念であり、概念のラベルを貼り付けなかったら、そこでは何も起こっていない」
こういったセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。
でも、日本に帰ってしばらくすると、(でも、それは真実なのだろうか?)という疑いが湧いてきて、確信、実感がありませんでした。
「私は体でもマインドでもない」や、「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」といったことは、自分で調べて理解することができます。それを理解する材料はこのブログの中に十分な量があります。
でも、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」といったことは、いくら自分で調べても、マインドの理解を超えています。セイラーボブの教えには、どうしてもマインドでは理解できない部分が残ります。
そういったことに対する理解、確信、実感を得たいと思って、セイラーボブの本や、YouTubeでボブのミーティング映像の中に答えを探しました。それを探す時に考えていたのは、セイラーボブや関係者の本の中に、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠がどこかにあるのではないかということと、もう一つは、彼らが非二元の教えを理解した時、その理解とはどういうことなのか、理解した時、何がどんなふうに起こったのかについてどこかで語っていないかということでした。
セイラーボブと、その関連書籍で入手可能なものは全部買って読みました。YouTubeも可能な限り見ました。カリヤニのサイトもギルバートのサイトも(以前のギルバートのサイトにはたくさんの記事がありました)くまなく読みました。
でも、どこにも、「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する納得できるような論理的な説明や、科学的な証拠は書かれていませんでした。
また、セイラーボブや周りの人たちが非二元の教えを理解した時に、何か神秘的な体験をしたとか、何か特別な理解が起こったという記述を見つけることもありませんでした。
大抵の人が言っているのは、非二元の話を聞いたり、読んだりしているうちに自然に理解したということです。
私はメルボルン滞在中、セイラーボブに、「理解するとはどういうことなのか」ということを何度も聞きました。
「あなたのおっしゃる事は知的には理解できます。でも、本当の理解が起きません」と。
でもセイラーボブはたいてい、
「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? 2+2は4でしょう?」という感じで、理解すると何かが起きるとか、知的な理解以外の何か特別な理解について語ったことはありませんでした。
周りの関係者に聞いても、「ボブの教えていることは真実だよ」というばかりで、論理的な説明や、科学的な証拠を示してくれた人は一人もいませんでした。理解した時に何かが起こったという人もいませんでした。
セイラーボブがいつも
「答えはマインドの中にはありません」と、あれほど繰り返し言っているのに、私はその本質的な意味を理解できず、あちこちと探しました。
その本質的な意味を理解するのに、4年かかりました。
「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠を探しても、それはどこにもありません。セイラーボブの教えを理解するために、いくらマインドの中を探しても理解できないということに気づきませんでした。
セイラーボブの教えを理解できない多くの人は、エンライトメント(覚醒)が起こったらセイラーボブの教えを理解できるはずだ、何か特別な体験が起きるはずだ、と思っていますが、セイラーボブはエンライトメントなんてないと言い、特別な体験について語ったこともありません。
また、ある人はニサルガダッタ・マハラジや、ラメッシ・バルセカールの本の中に何か答えがないだろうかと、彼らの本を読み始めますが、そこにも答えはありません。他の非二元の師の本を読んでも、そこにも答えはありません。
なぜなら、答えはあなたの中にしかないからです。
セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。
もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。
誤解を恐れずに書きますが、セイラーボブの教えを本当に理解するという意味は、直感的な理解です。マインドではなくて、ハートの理解です。
セイラーボブの教えを読んで、「これは真実だ」と心の底から感じたなら、それが理解できたということです。
それは、無理やりそれが真実だと信じるということではありません。無理やり信じることと、心の底から確信することとでは大きな違いがあります。
心の底から確信しているということは、教えに対して、もう二度と疑いや迷いが起きず、それが事実であると確信しているという意味です。
その確信は、さんざん探して、自問して、もうマインドの中には探す場所がないという地点まで行かないと、起きないのではないかと思います。私はそうなるのに4年かかりました。
その確信には、論理的な説明や、科学的な証拠は要りません。理由は不要です。だからこそ誰も人には説明できないし、非二元について書かれた本をたくさん読んでも理解が起きないのです。
セイラーボブは、ジェームズ・ブラハとの最初の電話での会話の中で、「理解がすべてです」。理解することが必要なだけです。と語っています。この理解には、理由は不要です。セイラーボブは、"Ring a bell?"(ピンときましたか?)という表現を使う時もあります。
真っ赤な薔薇を見て、美しいと感じるのに、何か論理的な説明が必要ですか?
誰かと恋に落ちる時に、何か論理的な説明が必要ですか?
そうしたことは、ハートの中で直感的に起きることです。
セツさんは。「ただそれだけ」を8回読んで、もう十分にマインドの中を探しました。
答えはマインドの中にはないということを十分に理解しました。
そこで今、「ただそれだけ」も、私のブログもちょっと脇に置いて、自分に問うてみてください。
「セイラーボブの教えていることは果たして真実なのだろうか?」と。
もし、「真実だ」と確信できるなら、本当に理解したということです。
「真実とは思えない」と思うなら、機が熟してないか、縁がなかったということです。
もしこれ以上、マインドの中に答えを探そうとするなら、「汝それなり」と言われて、12年間をマスターのもとで修業した人と同じ過ちを犯すことになります。
セイラーボブもニサルガダッタ・マハラジも、彼らの話は7~8回聞けば十分に理解できる話だと言っています。私もそうでしたが、考えすぎて、難しくしないでください。
僕は朝起きた時少し憂鬱です。睡眠が深くないので布団から起きだ
それでも以前と違うのは、セイラーボブさんやTakuさんのおかげで、余計な考えを横に置いておくということができるようになりました。
Takuさんは、
セツ
「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりま
最近はまた、不眠症気味で、ほとんど眠れない日もたくさんあります。でも、それで寝起きが憂鬱になることはありません。寝起きが憂鬱だろうが、爽やかだろうが、全く気になりません。いつもと同じように一日を始めるだけです。
もし、今朝は熟睡したから爽快だ、と喜ぶと、それが今度は眠れない朝の憂鬱を生み出すことになります。信心銘を思い出してください。もし、良いとか悪いとか判断すると、マインドは天と地のごとく二元的に反対の極に動いて、はるかに隔たりを生むことになります。
セツさんは、「ただそれだけ」を8回読んでいるのに、まだまだ理解が起きていないようだと書いてみえますが、一体どういう理解を期待してみえますか?
セイラーボブの教えを理解したら、精神がスッキリするとか、毎日熟睡して爽やかに目覚められると勝手に思い込んでいるのではありませんか?
残念ながら、そういうことは起きません。
私もそうでしたが、人々はセイラーボブの教えを理解したら、憂鬱になったり、悩んだりすることがなくなるのではないかと勝手に想像しています。セイラーボブの教えを理解しても、憂鬱になったり、悩んだりすることは以前を同じように起こってきます。
また、セイラーボブの教えを本当に理解したら、何か特別な体験が起きるはずだと勝手に想像してみえるかもしれませんが、いくら期待しても、何も起こりません。
セイラーボブの教えを理解して起きることは、自分は実在ではないという理解から起きる精神的な解放だけです。憂鬱な気分や、煩わしい問題は今までと同じように起こってきますが、それは「私」に起こっているのではないという理解があるために、そうしたことに巻き込まれなくなります。
セイラーボブの教えを理解できた状態というのはどういう状態なのかについて具体的に書きます。
私は、二回のメルボルン滞在で、セイラーボブの教えを知的には完全に理解できていました。「知的には」という意味は、セイラーボブが何を言っているのかを理解できているという意味です。
「万物は一つものである」
「私は体でもマインドでもない」
「本当の私はアウエアネス、意識であり、空である」
「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」
「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」
「すべては概念であり、概念のラベルを貼り付けなかったら、そこでは何も起こっていない」
こういったセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。
でも、日本に帰ってしばらくすると、(でも、それは真実なのだろうか?)という疑いが湧いてきて、確信、実感がありませんでした。
「私は体でもマインドでもない」や、「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」といったことは、自分で調べて理解することができます。それを理解する材料はこのブログの中に十分な量があります。
でも、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」といったことは、いくら自分で調べても、マインドの理解を超えています。セイラーボブの教えには、どうしてもマインドでは理解できない部分が残ります。
そういったことに対する理解、確信、実感を得たいと思って、セイラーボブの本や、YouTubeでボブのミーティング映像の中に答えを探しました。それを探す時に考えていたのは、セイラーボブや関係者の本の中に、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠がどこかにあるのではないかということと、もう一つは、彼らが非二元の教えを理解した時、その理解とはどういうことなのか、理解した時、何がどんなふうに起こったのかについてどこかで語っていないかということでした。
セイラーボブと、その関連書籍で入手可能なものは全部買って読みました。YouTubeも可能な限り見ました。カリヤニのサイトもギルバートのサイトも(以前のギルバートのサイトにはたくさんの記事がありました)くまなく読みました。
でも、どこにも、「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する納得できるような論理的な説明や、科学的な証拠は書かれていませんでした。
また、セイラーボブや周りの人たちが非二元の教えを理解した時に、何か神秘的な体験をしたとか、何か特別な理解が起こったという記述を見つけることもありませんでした。
大抵の人が言っているのは、非二元の話を聞いたり、読んだりしているうちに自然に理解したということです。
私はメルボルン滞在中、セイラーボブに、「理解するとはどういうことなのか」ということを何度も聞きました。
「あなたのおっしゃる事は知的には理解できます。でも、本当の理解が起きません」と。
でもセイラーボブはたいてい、
「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? 2+2は4でしょう?」という感じで、理解すると何かが起きるとか、知的な理解以外の何か特別な理解について語ったことはありませんでした。
周りの関係者に聞いても、「ボブの教えていることは真実だよ」というばかりで、論理的な説明や、科学的な証拠を示してくれた人は一人もいませんでした。理解した時に何かが起こったという人もいませんでした。
セイラーボブがいつも
「答えはマインドの中にはありません」と、あれほど繰り返し言っているのに、私はその本質的な意味を理解できず、あちこちと探しました。
その本質的な意味を理解するのに、4年かかりました。
「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠を探しても、それはどこにもありません。セイラーボブの教えを理解するために、いくらマインドの中を探しても理解できないということに気づきませんでした。
セイラーボブの教えを理解できない多くの人は、エンライトメント(覚醒)が起こったらセイラーボブの教えを理解できるはずだ、何か特別な体験が起きるはずだ、と思っていますが、セイラーボブはエンライトメントなんてないと言い、特別な体験について語ったこともありません。
また、ある人はニサルガダッタ・マハラジや、ラメッシ・バルセカールの本の中に何か答えがないだろうかと、彼らの本を読み始めますが、そこにも答えはありません。他の非二元の師の本を読んでも、そこにも答えはありません。
なぜなら、答えはあなたの中にしかないからです。
もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。
誤解を恐れずに書きますが、セイラーボブの教えを本当に理解するという意味は、直感的な理解です。マインドではなくて、ハートの理解です。
セイラーボブの教えを読んで、「これは真実だ」と心の底から感じたなら、それが理解できたということです。
それは、無理やりそれが真実だと信じるということではありません。無理やり信じることと、心の底から確信することとでは大きな違いがあります。
心の底から確信しているということは、教えに対して、もう二度と疑いや迷いが起きず、それが事実であると確信しているという意味です。
その確信は、さんざん探して、自問して、もうマインドの中には探す場所がないという地点まで行かないと、起きないのではないかと思います。私はそうなるのに4年かかりました。
その確信には、論理的な説明や、科学的な証拠は要りません。理由は不要です。だからこそ誰も人には説明できないし、非二元について書かれた本をたくさん読んでも理解が起きないのです。
セイラーボブは、ジェームズ・ブラハとの最初の電話での会話の中で、「理解がすべてです」。理解することが必要なだけです。と語っています。この理解には、理由は不要です。セイラーボブは、"Ring a bell?"(ピンときましたか?)という表現を使う時もあります。
真っ赤な薔薇を見て、美しいと感じるのに、何か論理的な説明が必要ですか?
誰かと恋に落ちる時に、何か論理的な説明が必要ですか?
そうしたことは、ハートの中で直感的に起きることです。
セツさんは。「ただそれだけ」を8回読んで、もう十分にマインドの中を探しました。
答えはマインドの中にはないということを十分に理解しました。
そこで今、「ただそれだけ」も、私のブログもちょっと脇に置いて、自分に問うてみてください。
「セイラーボブの教えていることは果たして真実なのだろうか?」と。
もし、「真実だ」と確信できるなら、本当に理解したということです。
「真実とは思えない」と思うなら、機が熟してないか、縁がなかったということです。
もしこれ以上、マインドの中に答えを探そうとするなら、「汝それなり」と言われて、12年間をマスターのもとで修業した人と同じ過ちを犯すことになります。
セイラーボブもニサルガダッタ・マハラジも、彼らの話は7~8回聞けば十分に理解できる話だと言っています。私もそうでしたが、考えすぎて、難しくしないでください。
2019/07/27
私は実在か?
以前もこのブログで、「非二元を理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べることです。」と書いたのですが、この、自分で調べるという作業は、それほど難しいことではないと思うのですが、どうでしょうか?
たいていの人は、「私」はマインドと肉体だと思っています。私もそう思っていました。マインドは思考、感情、記憶といったもので構成されていて、その代表格は思考です。
思考について考えてみると、ほとんどの思考は、私の意思とは全く関係なく、私の意識に現れてきます。
(今日は昼食にカレーを食べよう)(昨日見たテレビのドラマは面白かった)とか、場合によっては、もう他に誰も覚えていないような昔の記憶がよみがえってきて、(あの時は悲しかった)とか、(あの時はあいつにあんなことをされてくやしかった)などと、脈絡なく思考はやってきます。
そうした思考を一つ一つ観察すると、それは全く自分の意思とは関係なく、自然に勝手に起こっていることだと理解できるのではないでしょうか?
もちろん、自分の意思でコントロールしているように見える思考もあります。
例えば仕事中に報告書を書く作業や、次の休みの旅行の計画を立てる時の思考などは、自分がコントロールしているようにみえます。
一つ一つの思考を詳細に観察してみてください。自分でコントロールしている思考がどれだけあるかということを。
そうすると、自分とは全く関係なく起こっている思考が大半だということに気づいてきます。
もし、自分でコントロールしていないのなら、思考は「私」ではないということになりませんか?
感情や記憶についても同じことが言えます。感情ほど自分でコントロールできないものはありません。私などは、朝起きて、何の理由もなくムシャクシャして、一日中さえない気分の時がしょっちゅうあります。
逆に、何の理由もなく気分の良い時もあります。感情も思考と同様に、「私」の自由にならないのなら、「私」ではないのではないですか? いや、私はコントロールできると言う人は、一日中楽しい気分でいられるはずですが、そんな人はそうはいないと思います。
また、私は自分の思考をコントロールしていると思っている人は、今日一日、寝るまでの間、猿のことを考えないようにしてみてください。5分もしないうちに周りが猿で一杯になることでしょう。
記憶についてはどうですか。記憶は「私」の都合のよいように書き替えられている可能性があります。古い友人と昔一緒に行った旅行の話をすると、お互いの記憶が食い違っていて驚くことがよくあります。そうした不鮮明な記憶の蓄積が「私」ですか?
思考や感情は、自分の意思とは全く関係なく起こっている自然現象だということを理解してください。
最初は、(いやそうはいっても、この思考が私だ)とか、(この思考は私の思考だ)(この感情は私のものだ)という思いがなかなか手放せないかもしれません。
でも、あきらめないで、少しずつ調べてみてください。
休憩時間にコーヒーを飲みながら、どんな思考がやってくるのか観察してみてください。
感情をコントロールできるのか試してみてください。
その思考や感情を起こしている誰かがいるのかを観察してみてください。
そして、思考や感情が、どこに現れてくるのかを観察してください。
それは、あなたの脳ですか? 胸のあたりですか?
思考や感情は、確かに現れてくるのですが、それは脳や胸のあたりではないとわかると思います。
それは、意識の中に現れてきます。それはどこなのかと聞かれても困ってしまいます。
なぜかというと、意識は空だからです。それを言葉では表すことはできないからです。
それがセイラーボブが教えているものです。
「私」が実在なのかどうかは、自分で調べる以外に方法はありません。
でも、それはそんなに難しいことではないのではないですか?
毎日、少しずつ観察していけば、自分がコントロールしている思考や感情はまったくないという答えに行きつくはずです。
思考や感情は自然に起こっていることです。
そこには「私」はいません。
たいていの人は、「私」はマインドと肉体だと思っています。私もそう思っていました。マインドは思考、感情、記憶といったもので構成されていて、その代表格は思考です。
思考について考えてみると、ほとんどの思考は、私の意思とは全く関係なく、私の意識に現れてきます。
(今日は昼食にカレーを食べよう)(昨日見たテレビのドラマは面白かった)とか、場合によっては、もう他に誰も覚えていないような昔の記憶がよみがえってきて、(あの時は悲しかった)とか、(あの時はあいつにあんなことをされてくやしかった)などと、脈絡なく思考はやってきます。
そうした思考を一つ一つ観察すると、それは全く自分の意思とは関係なく、自然に勝手に起こっていることだと理解できるのではないでしょうか?
もちろん、自分の意思でコントロールしているように見える思考もあります。
例えば仕事中に報告書を書く作業や、次の休みの旅行の計画を立てる時の思考などは、自分がコントロールしているようにみえます。
一つ一つの思考を詳細に観察してみてください。自分でコントロールしている思考がどれだけあるかということを。
そうすると、自分とは全く関係なく起こっている思考が大半だということに気づいてきます。
もし、自分でコントロールしていないのなら、思考は「私」ではないということになりませんか?
感情や記憶についても同じことが言えます。感情ほど自分でコントロールできないものはありません。私などは、朝起きて、何の理由もなくムシャクシャして、一日中さえない気分の時がしょっちゅうあります。
逆に、何の理由もなく気分の良い時もあります。感情も思考と同様に、「私」の自由にならないのなら、「私」ではないのではないですか? いや、私はコントロールできると言う人は、一日中楽しい気分でいられるはずですが、そんな人はそうはいないと思います。
また、私は自分の思考をコントロールしていると思っている人は、今日一日、寝るまでの間、猿のことを考えないようにしてみてください。5分もしないうちに周りが猿で一杯になることでしょう。
記憶についてはどうですか。記憶は「私」の都合のよいように書き替えられている可能性があります。古い友人と昔一緒に行った旅行の話をすると、お互いの記憶が食い違っていて驚くことがよくあります。そうした不鮮明な記憶の蓄積が「私」ですか?
思考や感情は、自分の意思とは全く関係なく起こっている自然現象だということを理解してください。
最初は、(いやそうはいっても、この思考が私だ)とか、(この思考は私の思考だ)(この感情は私のものだ)という思いがなかなか手放せないかもしれません。
でも、あきらめないで、少しずつ調べてみてください。
休憩時間にコーヒーを飲みながら、どんな思考がやってくるのか観察してみてください。
感情をコントロールできるのか試してみてください。
その思考や感情を起こしている誰かがいるのかを観察してみてください。
そして、思考や感情が、どこに現れてくるのかを観察してください。
それは、あなたの脳ですか? 胸のあたりですか?
思考や感情は、確かに現れてくるのですが、それは脳や胸のあたりではないとわかると思います。
それは、意識の中に現れてきます。それはどこなのかと聞かれても困ってしまいます。
なぜかというと、意識は空だからです。それを言葉では表すことはできないからです。
それがセイラーボブが教えているものです。
「私」が実在なのかどうかは、自分で調べる以外に方法はありません。
でも、それはそんなに難しいことではないのではないですか?
毎日、少しずつ観察していけば、自分がコントロールしている思考や感情はまったくないという答えに行きつくはずです。
思考や感情は自然に起こっていることです。
そこには「私」はいません。
2015年 メルボルンにて