2019/10/12

問題は関係性の問題です。


Problems are problems of relationship

何か破壊しなければならないようなものを見つけることができますか?
自己の中心とは何ですか?
それは「私」ではありませんか?

「私」とは何ですか?
それは思考、身につけ学んだ言葉ではありませんか?
でもそれは剥き出しの思考ではありません。

その思考とともに、ほかの思考が「私」を見た目の上で実体のある強固なものにしています。
例えば、私はボブ。オーストラリア人。あれやこれや。悪い事。私に起こった出来事。
記憶が思い出され、それが「私」に付け加えられます。

そうやって、自分が何物かという想像上の絵、イメージが出来上がります。
それがあなたが信じているものです。
それはすべて概念であり、死んだイメージです。
なぜならそれは過去の出来事や経験がもとになっているからです。

そして、すべてがそのイメージと関連付けされます。
それが基準点となっていつも関連付けされます。
その想像上のイメージと関連付けされます。

私はこれが好きではない。
どうしてそんなことがわかるのでしょう?
以前にそのことを経験したからです。
それは嫌な経験でした。

私はこれが好きだ。
これはいい。
そうやって、いつも死んだイメージに関連付けされます。

そして、あらゆる問題は関係性の問題です。
関係性とは、私と他者であり、二元性です。
どんな関係性も二元性です。

ですから、そうした方向を探しても、決して非二元を見つけることはできません。
実在しないものをじっくりと見ることによって、それを破壊することができますか?
分解したり、征服したりすることができますか?
誰が何をどうするというのですか?
それが存在しないと認識しているのに。

新しい自分のイメージを創り出すことで古いイメージを払拭することもできます。
そうして、それが繰り返さます。
そうやって続いていきます。

それは何にも関連していません。
見る人、主体には何が起こっているのですか?
主体と客体は常に二元性です。

私は見る、私は信じる、といったことは概念上のイメージであり、それが主体、見る人を生み出します。
そして私が見ている対象もまた概念です。
椅子、テーブル、あなた、私、その他のもの。

ラベルがなければ、イメージ、パターンです。
パターンは純粋なエネルギーです。
私たちをそれにラベル、言葉を貼り付けました。
そのために、それが見た目の上での客体となりました。
そうやって二元性、主体と客体を生み出しました。

見る働きの中で、何が起こっているのでしょうか?
見る働きは二元性ですか?
聞く働きは二元性ですか?
味わう働き、触れる働き、嗅ぐ働きは二元性ですか?

見た目の上でだけ分離があるだけです。
見る人、味わうこと、触れること、主体と客体。
概念によって、見て目の上では二元的に分割されています。

見る人、主体は見ていません。
見る働きなくして、見ることができるとは言えません。
そしてまた、見られる対象も見る働きなくしてはありません。

見る働き無くして、見ることができますか?
見る働き無くして、見る人がいますか?
その線にそって調べてみてください。

それは一本の棒の両端のようなものです。
二つの概念が一つの見る働き、一つの聞く働き、一つの味わう働きの中にあるようなものです。
そしてそれが見た目の上で概念上分割しています。

そしてその分割ゆえに苦悩が始まります。
それは必要ではありません。