2019/11/09

行ってきました。どこへ?

11月2日(土)、朝5時25分多治見駅始発の電車に乗りました。
まだ日が昇ってないのに、ホームにはチラホラと人が。
空港線に乗り換える金山駅に着くころには、スーツケースを持った人でいっぱいに。


中部国際空港行きの名鉄ミュースカイに乗り換えたが、満席。


空港に着くころにやっと夜が明けた。


空港で友人と合流。三連休の初日。早朝だというのに空港には大勢の人。


さあ、出発。さくらジンベエ。メスのジンベイザメがペイントされた飛行機です。


与論島上空通過。


青い海がきれいです。


着いたのは、那覇空港。暑い!気温28度。ここはまだ夏です。
さっそくTシャツ一枚に。


リゾートバスに乗車。沖縄本島、中央やや上の、本部(もとぶ)町へ。


走ること約二時間。途中、瀬底島(せそこしま)橋の手前あたりのビーチで、4~5人の人がシュノーケリングしているのが見えた。


ホテル到着。




荷物を置いて、出動。ホテル前のビーチでは水遊びしている家族づれがいた。
おだやかな海です。


ホテルのすぐ隣が沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館。


ナマコやヒトデに触れるコーナー。触りませんよ。


でっかいイセエビ!


出た!ジンベイザメ!




真っ黒な突然変異のマンタもいます。


戸外のイルカショーの時間になりました。


大ジャンプ!どうやって調教するのでしょうか?


ウミガメは何も芸をしませんが、見ているだけで幸せな気分になる。


館内でお昼に沖縄そばを食べた。そばと言うより薄口ラーメンですね。


ホテルまで帰る道すがら、たくさんのハイビスカスが咲いていた。
南国の花はどれも色鮮やかですね。


水族館で記念にジンベイザメのTシャツを買ってみた。
ジンベイザメというよりオオサンショウウオ?


そして夜になり、


ラグビーW杯決勝戦。エディー・ジョーンズ、勝たせてあげたかったな~!


ホテルのレストランで、晩御飯にアグー豚のステーキ。
これは今回の旅で食べたものの中で一番おいしかった。


翌朝はホテルのバイキング。バイキングと聞くだけで、貧乏人根性丸出しでたくさん食べてしまう私です。もちろん、おかわり、デザートも。


またバスに乗って、那覇市内へ。
途中のドライブインの木。たくさんのセミがやかましい。


首里城へ行ってみました。残念ながら、私たちが行く2日前の10月31日に火災で全焼。
首里城へは行ったことがあるのですが、あの色鮮やかな正殿が全焼してしまったのは残念です。遠くに焼け残った建物の屋根が見えます。


守礼の門。


現場検証中ため、中へは入れません。現地のテレビも新聞もこのニュース一色。
沖縄の人たちの落胆ぶりがわかります。


近くにある石畳の道へ。


道々、ブーゲンビリアが色鮮やかに咲いていました。なんとも切ない色ですね。


首里城から、市街地を一時間ほど歩いて国際通りへ。
燃えるような赤い花。火炎樹とはよく言ったものですね。


食べ物のフェスをやっている場所があり、TEPPEIというお店の牛ハラミ300g食べた。うまい!




国際通りで、宮古島の塩ソフトなんぞというものを食べて歩いていたら雨が降り出したので撤退してホテルへチェックイン。




雨が上がったので、ホテルの近くの有名なステーキハウスへ。


一番人気のテンダーロインステーキを280g。有名なわりに味はイマイチかなあ。


三日目の朝。何の反省もなく、またしてもホテルのバイキングをたらふく食べて満腹。
ゆいレール(モノレール)に乗って空港へ。


空港のさくらラウンジでオリオンビール。うまい!


帰りはオスのジンベイザメのペイント(ジンベイジェット)。


多治見駅に着いて、ウルトラライトダウンジャケットを出して着た。こっちはもう冬。
昨夜も一昨日もエアコンを効かして寝ていたというのに。

今回、沖縄へ二泊三日で行った理由は、JALのマイレージの有効期限が迫っていたので、マイルを使うためです。
私は飛行機に乗ってマイルを貯めるマイラーではなく、買物だけでマイルを貯めています。

2~3年貯めると、2万マイルぐらい貯まります。今までは2万マイル貯まると、友人と香港へ中華料理を食べに行くのが恒例でした。
そして今回も香港に行こうと思ったら、JALが一年ぐらい前にマイル交換の仕組みを曜日変動制に変えたらしく、とても2万マイルでは香港に行けないと判明。どのみち今の香港の現状では行く気にはなれませんけどね。

国内線は今のところ15000マイルあれば曜日に関係なく以前と同じように乗れるので、それじゃあ沖縄に行こうということになりました。
食べ物はおいしいし、面倒な入管手続きもないし、とてもよかったです。
ちなみに、帰ってきて体重を計ったら、2キロ増えていた・・・。
沖縄、また行きたい。

2019/11/02

セイラーボブの言葉

You can never get out of the dream!
As soon as you wake up from the night dream you are here, in this waking dream.
But this is a dream also...

あなたは決して夢から覚めることはできません。
夜の夢から覚めると、今度は起きている夢の中にいます。
でもそれもまた夢なのです。

2019/10/26

理解することが必要なだけです。

セイラーボブの教えを理解するためにすべきことは、自分で調べて、「私」は実在ではないということを理解することだけです。

私がこう書くと、多くの人が「どうやって?」と思うことでしょう。
私はその「どうやって」を何度も何度も詳しくこのブログで書いたつもりです。

「どうやって?」という問いの裏側には、(簡単に)や、(手っ取り早く)という含みがあります。
でも、「私」が実在ではないと調べる方法に、簡単な方法や、手っ取り早くやる方法はありません。

時間をかけて、「私」は本当に実在なのかと自分に問いかけるしかないのです。
でも、多くの人が、この作業をやりません。
ほんの一、二回、もしくは一日か二日考えて、「わからない」とやめてしまいます。

そして、別の非二元の人の本をあさったり、セミナーやリトートに参加したりしようとします。でも、そこにも答えはありません。
あっちのメソード、こっちのコースと探しても、そこにも答えはありません。

「ただそれだけ」やこのブログを何度も読むことは、ある程度は役に立つかもしれませんが、そこにも答えはありません。
それなら、セイラーボブに会いに行ったらどうかと考えるかもしれませんが、会うだけでは答えは見つかりません。

何が必要なのかというと、自分で調べることです。「私」は実在なのだろうかと、自らに問いかけて、あきらめないで、何日も何日も問いかけることです。
なぜなら、答えは自分で見つけるしかないからです。

ニサルガダッタ・マハラジは答えを見つけるのに3年かかりました。セイラーボブはマハラジのもとへ断続的に1年通いました。
私の場合はセイラーボブの教えを完全に理解して、もう何の疑念も揺り戻しも起きなくなるまでに4年かかりました。

自分で調べることをしないで、どこかに答えがあるはずだと、あちこち探しても、答えは見つかりません。
必要なことは、あきらめないで自分で調べることだけです。

もしどうしても「どうやって?」という問いが湧いてくる人は、もう一度このブログを読み返してみてください。マインドなどというものがありますか?

調べても調べてもわからないから、もう「私」は実在ではないと信じよう、というのでは、何の解決にもなりません。信じることと理解することでは大きな違いがあります。
信じているうちは、疑念が繰り返しやってきてあなたを不安にさせます。

信じるくらいなら、わからないままにしておく方が正直です。
信じるくらいなら、セイラーボブの言う事はナンセンスだと背を向けて去るほうがましです。
自分で調べて理解することだけが必要なだけです。

セイラーボブの教えは、覚醒やエンライトメントではありません。
セイラーボブの教えは、何かになることや、何かを経験することではありません。
私が実在なのかどうかを理解することだけが必要なだけです。

理解するために必要なツールを私たちは持っています。
それはマインドであり、意識です。
それを使って、調べてみてください。

私は、エンライトメントや覚醒などないということを理解しました。
セイラーボブがそう言ったからではありません。
自分で納得いくまで考え、調べた結果、そんなものはないと理解、確信したからです。

私は、「私」は実在ではないということを理解しました。
セイラーボブがそう言うからではありません。
自分で納得いくまで考え、調べた結果、「私」は実在ではないと理解、確信したからです。
そして、それが揺らぐことはもうありません。

私たちが、「私」という条件付けを身につけるのに、何年もかかっています。
生まれてから物心がつくまで、何年もかけて身につけたものです。
それは、私たちのまわりの人すべてによってなされたものです。
その条件付けを見破るのは簡単ではないかもしれません。

でも、自分で調べて、自分で見破るしかないのです。
誰もあなたのかわりにやってはくれません。
いくら瞑想しても、それは起きません。
いくらセミナーに参加しても、それは起きません。
いくら非二元の本を読んでも、それは起きません。
自分で調べるしかないのです。
「どうやって?」と問う瞬間に、あなたは自分で調べることを放棄していることに気づいてください。

メルボルン 朝のエリザベス通り

2019/10/19

それはいつも不鮮明ですか?


Is It Ever Obscured?

マインドの中でおしゃべりがまた始まり、うわべの上ではそれが不鮮明となります。
それは不鮮明ですか?
それはいつも不鮮明ですか?

もし基本に戻れば、そこにはただ一つのものがあるだけです。
それが現れ、ヴァイブレーションとなってすべてのものとなっています。
たとえそれが表面上ははっきりしなくても、それ以外のものでありえますか?

良い思考であろうと、悪い思考であろうと、それ以外のものでありえますか?
喜びであろうと、痛みであろうと、それ以外のものでありえますか?
それを理解してください。

良い、悪い、喜び、痛みといった言葉が、それを弱めることはできないのではないですか?
言葉の本質、その本質無しでは、言葉は起こってきません。
それが純粋な知性エネルギーです。

鏡の中の像が、鏡無しでは起きないのと同じです。
あなたは鏡に映る像によって、鏡そのものを見ることはありません。
それを調べてみることによって、それが鏡に映っている像であるとわかります。

さらに調査すると、鏡無しでは像もありえないということを理解します。
そして、鏡に映る像は鏡の中にあるということを理解します。
それはいつもそうでした。

2019/10/12

問題は関係性の問題です。


Problems are problems of relationship

何か破壊しなければならないようなものを見つけることができますか?
自己の中心とは何ですか?
それは「私」ではありませんか?

「私」とは何ですか?
それは思考、身につけ学んだ言葉ではありませんか?
でもそれは剥き出しの思考ではありません。

その思考とともに、ほかの思考が「私」を見た目の上で実体のある強固なものにしています。
例えば、私はボブ。オーストラリア人。あれやこれや。悪い事。私に起こった出来事。
記憶が思い出され、それが「私」に付け加えられます。

そうやって、自分が何物かという想像上の絵、イメージが出来上がります。
それがあなたが信じているものです。
それはすべて概念であり、死んだイメージです。
なぜならそれは過去の出来事や経験がもとになっているからです。

そして、すべてがそのイメージと関連付けされます。
それが基準点となっていつも関連付けされます。
その想像上のイメージと関連付けされます。

私はこれが好きではない。
どうしてそんなことがわかるのでしょう?
以前にそのことを経験したからです。
それは嫌な経験でした。

私はこれが好きだ。
これはいい。
そうやって、いつも死んだイメージに関連付けされます。

そして、あらゆる問題は関係性の問題です。
関係性とは、私と他者であり、二元性です。
どんな関係性も二元性です。

ですから、そうした方向を探しても、決して非二元を見つけることはできません。
実在しないものをじっくりと見ることによって、それを破壊することができますか?
分解したり、征服したりすることができますか?
誰が何をどうするというのですか?
それが存在しないと認識しているのに。

新しい自分のイメージを創り出すことで古いイメージを払拭することもできます。
そうして、それが繰り返さます。
そうやって続いていきます。

それは何にも関連していません。
見る人、主体には何が起こっているのですか?
主体と客体は常に二元性です。

私は見る、私は信じる、といったことは概念上のイメージであり、それが主体、見る人を生み出します。
そして私が見ている対象もまた概念です。
椅子、テーブル、あなた、私、その他のもの。

ラベルがなければ、イメージ、パターンです。
パターンは純粋なエネルギーです。
私たちをそれにラベル、言葉を貼り付けました。
そのために、それが見た目の上での客体となりました。
そうやって二元性、主体と客体を生み出しました。

見る働きの中で、何が起こっているのでしょうか?
見る働きは二元性ですか?
聞く働きは二元性ですか?
味わう働き、触れる働き、嗅ぐ働きは二元性ですか?

見た目の上でだけ分離があるだけです。
見る人、味わうこと、触れること、主体と客体。
概念によって、見て目の上では二元的に分割されています。

見る人、主体は見ていません。
見る働きなくして、見ることができるとは言えません。
そしてまた、見られる対象も見る働きなくしてはありません。

見る働き無くして、見ることができますか?
見る働き無くして、見る人がいますか?
その線にそって調べてみてください。

それは一本の棒の両端のようなものです。
二つの概念が一つの見る働き、一つの聞く働き、一つの味わう働きの中にあるようなものです。
そしてそれが見た目の上で概念上分割しています。

そしてその分割ゆえに苦悩が始まります。
それは必要ではありません。

2019/10/05

ひとつのもの。

毎年夏になると、多くの人が富士山に登ります。
私も二回登ったことがあります。
二回とも山頂まで行ったのですが、高山病でフラフラして、もうこりごりです。

ところで、富士山はどこからどこまでが富士山ですか?
山頂ははっきりとわかるのですが、ふもとはどこが始まりですか?
実際にはどこが始まりなのかはっきりしません。

私たちは、静岡県の一部の出っ張りに、富士山という概念を与えてそう呼んでいるにすぎません。
富士山は静岡県の一部を概念付けしたものです。

では静岡県とは何ですか?
地図上では県境の線がありますが、そこへ行ってみても実際にはそんな線はなく、人間が勝手に日本の一部を概念付けしてそう呼んでいるにすぎません。

では、日本はどこまでが日本ですか?
尖閣、竹島、北方領土の問題もあって、どこまでが日本の領土なのかは争いのあるところですが、仮にそうしたところまで含めたとしても、それも人間が勝手に地球の一部を日本と概念付けして呼んでいるにすぎず、国境の線が実際にあるわけではありません。

では、地球はどこまでが地球ですか? 大気圏までですか、成層圏までですか?
これも、実際には地球という名前を人間が勝手に宇宙の一部につけて、概念付けしているにすぎません。

では宇宙とは何ですか?
宇宙とは、星、銀河系、太陽系、ブラックホール、そういったものがある空間を概念付けして宇宙と呼んでいるものです。

ということは、宇宙も地球も日本も静岡県も富士山も、空間の一部を人間が勝手に概念付けしてそう呼んでいるだけなのではないですか?

では、「私」とは何ですか?
この体、マインドを勝手に概念付けしてそう呼んでいるだけなのではありませんか?
それは空間の一部なのではありませんか?
もし人間が概念付けしなかったら、それはすべて一つのものではありませんか?

「あなたが母親のお腹の中にいた時、あなたは母親だったのか?」ニサルガダッタ・マハラジ


セイラーボブの家の近くの公園・クリケットのボールが落ちていた。

*****

セイラーボブの facebook ができました。日曜日のミーティングのライブ中継がここで配信されています。(日本時間の朝8時から9時30分まで)
Sailor Bob - Nonduality Melbourne

2019/09/28

私と呼んでいるもの


This Thing Called I

あると信じている自己の中心が問題の原因です。
それを見て調べてください。
あると信じている自己の中心はフィクションです。
そこには実体のあるものや独立した性質も持つ存在はいません。

信念のエネルギーがそこに流れ込み、見た目の上ではそれを実体のある確かなものにしていて、とてもリアルな存在に見えます。
そこに、概念、イメージ、感覚、恐れ、怒り、自己憐憫、憤慨、すべてのものが現れます。

その信念のせいで、物事をその概念上の基準点に関連付け、それを信じるようになります。
それがすべての問題の原因となります。
表面上の基準点に関連付けるためです。

それを、しっかりと調べる必要があります。
この「私」というもの、メンタルイメージ、概念、気持ち、思い描いているものを調べる必要があります。

調べてみると、そのメンタルイメージ、思考は見ることも聞くことも気づいていることもできないと理解するでしょう。
信念のエネルギーが見た目の力を与えているにすぎません。
それが見た目の上での生命のパターンを確かなものに見せていますが、何も力は持っていません。それはフィクションです。

それが、見た目の上での束縛を生み出しています。その束縛はフィクションによるものです。
その束縛から自由になるためには、それを調べて、はっきりと見ることです。

何度も何度も見ることです。
すべての方向、ポイントをみて、そこに何か実体のあるものがあるかどうか調べてみてください。

そして、何も見つからないなら、確信が湧いてくるのではありませんか?

我はそれなり。
私はいつも昔もそれだった。

もう間違った信念を受け入れることも信じることもできないのではありませんか?

それは基本的には・・・。
さあ、あなたの番です。
質問や疑問、何でも結構です。

2019/09/21

すべては物として現れています。


All Appearance is Things.

人々は、空(くう) (nothing)と聞くと、真空、空虚、何もないものと考えますが、nothing を、no と thingに分けてみてください。

すべての顕現は物(thing)として現れています。
でも、物自体には実体や独立した性質はありません。
それは物ではないもの(no thing)です。
no thing、何も起こっていないのです。

一つの本質が振動して、見た目の上ではパターンとなって現れています。
鏡の例えを使いましょう。
鏡の中にはすべての物が映っています。

鏡のところまで行って、映っているものを掴むことができますか?
映っているものが無いということはできません。
でも、そこへ行って掴もうとしても、それがそこにあるということもできません。

そこにあるように見えるのですが、映っているものに実体や独立した性質があるわけではなく、あなたは鏡を掴むだけです。
あなたは、鏡を見たことがありますか?

鏡そのものを?

そうです。

鏡は見逃しているかもしれません。

ええ、でも鏡を見ることはできますか?
鏡の中にあるのはすべて反射して映っているものです。
あなたが今まで見た鏡はすべて、反射が映っていました。

でもあなたは、鏡を調べて、表面に移った反射と鏡は一体のものであると知っています。
鏡そのものは見えなくても、それが鏡だということを知っています。
反射している表面や一部を分割することはできませんが、それは鏡であると知りました。
表面には反射が映っているため、鏡そのものを見ることはできませんが、それは鏡であると知りました。
あなたは真実を見破りました。

あなたは、自身がその本質だと知りました。
自身は純粋なアウエアネス以外のものではないと知りました。
そこにあるのはたった一つの本質があるだけです。それがトムとなって現れています。
それがすべてとなって現れて消えています。

ピーター:鏡の中の例えは、空間のようなアウエアネスを連想させます。
鏡を見た時、そこには反射が映っていて鏡は見えません。
でもいいですか。私たちが物を見る時、それはシーン(景色)であって、空間を見ることはなく、現われたものだけを見ています。それと同じです。それだけです。

2019/09/14

ラベルをはがして見てください。

ちょっと考えてみてください。
今あなたは、パソコンか何らかの端末を使って私のブログを読んでみえると思います。
でも今、例えば、生まれて初めてそのパソコンか端末を見ると仮定して、それを見てください。

あなたは、パソコンや端末が何であるかを知りません。
するとそれは一体何ですか?

同じように、視界に入る物一つ一つを、生まれて初めて見るように見てください。
そこには、生まれてからこれまでに学んで貼り付けてきたラベルが張り付いています。
蛍光灯、机、椅子。そうしたラベルを剥がして見てください。

するとそれは一体何ですか?
もし、自分がこれまで学習して貼り付けてきたラベルを剥がして見たら、それは一体何ですか?

そうやって、一つ一つラベルを剥がして見てください。
すると、そこに広がる世界は何ですか?

人に対して貼り付けているラベルも剥がして見てください。
父、母、恋人、親友、子供、上司。

景色に貼りつけているラベルも剥がして見てみてください。道路、山、川、大地。
すると、それは何ですか?

そして最後に「私」というラベルを剥がして見てみてください。
するとそこには何がありますか?

私たちが見ている世界はすべて概念です。
もしその概念のラベルをすべて剥がしたら、そこには何がありますか?

確かにそこには何かがあります。
でも、概念のラベルがなかったら、そこには混沌とした世界が広がっているだけです。

もし、あなたが概念のラベルを貼り付けなかったら、それは物としての区別のない一つのものです。

「私」というラベルは、あなたが後天的に貼り付けたラベルにすぎず、「私」はいません。
あなたが概念のラベルを貼り付けなかったら、そこに広がっているのは、たった一つのものです。

ヴィクトリアマーケット・メルボルン

2019/09/12

本当のあなたでいてください。


Be What You are.

なぜあなたは自分ではないもののふりをして、本当の自分でいることを拒むのですか?

すべての人がこの人間の形をしたものでいようとします。それがこのショーを仕切っています。そのため、疑うこともなく、それを信じて、そのふりをしています。

でも、実際のあなたは、物ではありません。
でも、すべての人が物ではないものを受け入れません。
物ではないものの概念や考えを理解しません。
物ではないものは、真空でも空虚でもありません。

生命の本質が機能してパターンとなり、あらゆるものとなって現れています。
誰も、物ではないものであることを望みません。

人々は、物ではないものは真空、空虚、空(から)だという考えを抱いています。
そのため人々は、この想像上の存在に留まることを望み、その存在にはこのショーを仕切る力があると考えています。

人々はマスク、ペルソナをつけています。

2019/09/06

セイラーボブの教えを理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。

セイラーボブの教え(非二元)を理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。まわりの状況や物事に対する理解の仕方が変わるだけです。

セイラーボブの教え(非二元)を理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。物事がすべてうまくいく、お金が自然に入ってくる、病気治る、人間関係で煩わされなくなる、というようなことは起きません。

覚醒が起きたり、覚醒体験や至福体験が起きたりするわけでもありません。何か特別なことが起きるということはありません。至福に包まれて毎日幸せに暮らせるというようなこともありません。

体が消える体験をしたり、時間や距離の感覚が無くなる体験をするわけではありません。意識のシフトが起こって、自分がいないという世界を体験するということもありません。

煩わしい事は以前と同じように起こってきます。うまくいかない事も起こってきます。お金に困ることもあります。病に倒れることもあります。人間関係で嫌なことも起こってきます。困難は以前と同じように起こってきます。

何が変わるかというと、問題や困難が起こっても、それに巻き込まれることなく、対処するだけです。お金に困っても、それを深刻にとらえることなく、解決法を探すことに力を注ぐだけです。病気になったとしても、それは自然に起こってくるものであり、治療するだけだと理解するでしょう。

嫌な人がやってきても、そういう人もいるのだ、それが生きていくことなのだと理解して、避けるか受け入れるかするでしょう。
そうした問題や困難を深刻にとらえて巻き込まれることがなくなります。
なぜなら、すべての問題や困難はマインドの産物であると理解するからです。
そこに問題や困難に煩わされる人はいないと理解するからです。

死も避けられません。でも、自分はマインドでも体でもない、生まれることも死ぬこともない存在であると理解したなら、死に対する理解が生まれます。
死が怖くなくなるとまでは言いません。誰だって死にたくはないし、マインドや体の死だって嫌です。
でも、死に対する理解を持っていれば、死はまったく別のものとなります。

非二元を理解しても、周りの状況が変わるわけではありません。唯一変わるのは、物事に対する理解だけです。そしてその理解こそが、心理的な解放をもたらすものです。
私は実在ではないという理解こそがあなたに解放をもたらすものです。

あなたが解放されても、状況は何も変わりません。金持ちになるわけでも、至福につつまれるわけでもありません。以前と同じように、木を伐り、薪を割り、同じ生活が続いていきます。

メルボルン 植物園

2019/09/03

おたよりをいただきました。

拓さん、こんにちは。ブログを楽しく読ませていただいております
いくつか疑問に思ったことがあったので、質問させていただきます
短くても結構ですので、可能でしたらご回答をお願いいたします。
質問が長いので一度に送れるかどうか不明ですが、とりあえず、送ってみます。

(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。それらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」といった要旨の記載があります。


そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないということ等についての確信」ということでしょうか? そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどうやったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられるのか)」ということを探してしまう気がします。

それについては、「(私がいないこと)等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わることもある」という理解でいいのでしょうか?

(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまうのだと思います。 


もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらないのだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分になってしまいます。 


2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それはその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになってしまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効ではないような気がします。

(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。』という記載があります。


結局、自分で自分を見ることはできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか? そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というものにも実体はないということ』でよいでしょうか?

(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。
もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。』という記載があります。

しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差がよく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。もし同じだとすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾していても気にしなければ無問題ですが)。

「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということであったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に)理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょうか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。

以上、よろしくお願いいたします。

波平


波平さん、おたよりありがとうございます。

私は、いつか誰かが、今日波平さんからいただいたような質問を送ってくださるのではないかと思っていました。
波平さんと同じように、ブログに書いていることが矛盾していると思ってみえる人が大勢みえるのではないかと思います。

セイラーボブの教えを理解するとはどういうことなのかは重要なポイントなのですが、それを書く前後の脈絡や、書こうとしている内容によって、表現が変わります。
自分の中では矛盾しているつもりはないのですが、どこを強調するのか、誰に向けて書いているのかで表現が変わってしまって、一見矛盾したものになっています。

書いていても、(この表現は以前書いたことと矛盾するなあ)と思いながら書いているのですが、強調したいポイントや、想定している読者によって、矛盾してもしかたがないと思って書いています。

表現が矛盾していても、(ああ、そういうことだったのか! わかったぞ!)という人が一人でも多くいてくれればいいかなと思って書いているつもりです。

最初にわかっていただきたいのは、セイラーボブの教えを理解するやり方に決まったやり方なんてないということです。
私のブログは、セイラーボブの教えを理解するための材料を提供するためのブログです。

私のようなやり方で理解しないといけないとか、理解したらこうなるということを書いているつもりはありません。
どんな理解の仕方でもかまいません。「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということが理解できればいいだけの話です。

質問に具体的に答えていきます。

(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。それらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」といった要旨の記載があります。


そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないということ等についての確信」ということでしょうか? 

そうです。私はセイラーボブの教えを知的に(もしくはマインドで)理解した後でも、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。でも、ギルバートやカタリーナの話を聞いて、そんな体験は起きないということを知りました。れまでは、自分の理解に自信が持てませんでしたが、それを聞いて自分の理解で間違いないと確信しました。

そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどうやったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられるのか)」ということを探してしまう気がします。

探してしまうということなら、「確信」という表現を使わなかった方が良かったのかもしれません。本当に理解して、疑いも起きず、もう揺るがないということを表現したかったのでそう書いたのですが、「確信」という言葉をやめておけば良かったと後悔しています。セイラーボブは、「確信」とか「実感」ということを言ったことはなく、「理解がすべてだ」と言っています。

れについては、「(私がいないこと)等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わることもある」という理解でいいのでしょうか?

そういうつもりで書きました。でも、多くの人がセイラーボブの教えを理解していても、確信がないと思っています。確信がないというのはどういう状態なのでしょうか?
確信がないということは、理解が不十分なのか、もしくは私と同じように、理解したら何かが起こるのではないかと心のどこかで思っているのではないでしょうか?

私は確信という言葉を使いましたが、理解だけで終わりにしておくことも可能でした。でもそうすると、一部の人は「それじゃぁお前はセイラーボブの言うことを信じているだけじゃないか」と思われるのではないかと思いました。

信じているのではなく、(それが真実に違いない。そうとしか思えない)という思いを込めて「確信」という言葉を使いました。
多くの人は宇宙空間から地球を見たことはないのに、地球は丸いと知っています。これは信じているのではなく、確信だと思います。
それと同じ程度だということを表現したいと思って確信という言葉を使いました。
でも、よくよく考えると、理解=確信なのではないかと思います。

(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまうのだと思います。 

れが、私を含めて多くの人がはまる罠だと思います。セイラーボブの教えを理解しても、何も変わらないし、何かが起きるわけではありません。
ただ一つ起きることは、「私」は実在ではないという理解であり、それが解放をもたらすものです。

もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらないのだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分になってしまいます。 

本当の意味での理解とは、「非二元の教えが真実であり、もう迷うことも探すこともない」という状態であるという意味で書きました。でも、ちゃんと理解したら、それが本当の意味での理解なのだと思います。「本当の意味での理解」と書かないで、単に「理解」と書くべきでした。

私は二度のメルボルン滞在から帰ったあとでもまだ揺れ戻しがあって、何か特別な理解があるのではないかと探していました。
入手可能な本を全部読み、YouTubeを何度も見ているうちに、そんなものはないと知り、もう迷うことも探すこともない地点に到達しました。

理解の起こり方は人それぞれだと思います。私のブログを一回読んで、これは真実だと思う人もいれば、続けて読んでいるうちにだんだんと真実だと思うようになった人もいると思います。極端なことを言えば、何の理由もなく直感でセイラーボブの教えは真実だと受け入れることができる人もいると思います。理由なんて要りません。

「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」ということはありません。

私たちが、実際に非二元の世界を垣間見ることも体験することもできない以上、絶対的な確信があるとは言い切れないのもやむえないのではないでしょうか?

人の理解の仕方や程度は様々です。ジョン・ホィーラーのように、セイラーボブ関連の本を何冊も出したあとでボブの前から姿を消した人もいます。ジョン・ホィーラーはセイラーボブの教えをよく理解していたし、彼の説明はわかりやすいものでした。

いくら地球は丸いと理解(確信)していても、実際には、大気をどけると地球は正確な丸ではなく、あちこちがゆがんだ楕円形をしているのだと聞いて、「え~!」となってしまいます。人間の確信なんて、その程度のものではないでしょうか。

理解だ確信だと言ってみても、結局それはマインドにエサを与えているだけで、本当の理解は、もっと直感的なもののように思います。

2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それはその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになってしまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効ではないような気がします。

12年間、マスターのもとで修業した人は、ふたたびマスターから「汝それなり」と言われて、絶対的な確信を得る方法、体験なんてないとわかったのではないでしょうか。
まだ何かが足りないと思っているうちは、「汝それなり」で終わりとは思えないのではないでしょうか。

どんな方法でも構わないので、セイラーボブの教えていることが正しいと思えて、もう疑いも揺れ戻しも起きない地点に到達すればいいとだけのことです。

「汝それなり」と言われて、(そうは思わない)と感じるか、(そのとおりだ)と感じるかの違いです。(そうは思わない)と感じるなら、ちゃんと理解していることにはならないと思います。

(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。』という記載があります。


結局、自分で自分を見ることはできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか?

そうです。
LIVING REALITYの中で、「アウエアネスは理解するものではなく、在るものだ」「思考が止まっていてもあなたは在る」という内容のことを言っていたと思います。どこに書いてあったか今すぐに出てこないので、正確な引用ではないのですが。

そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というものにも実体はないということ』でよいでしょうか?

そうです。付け加えるなら、今ここにある意識だけが実在であるという理解があれば十分だと思います。

(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。』という記載があります。

しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差がよく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。

同じつもりで書いています。

もし同じだとすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾していても気にしなければ無問題ですが)。

矛盾しています。申し訳ありません。
セツさんの質問に答えた時は、セツさんが何度も繰り返し「ただそれだけ」を読んでみえると聞いて、何か非二元の体験や特別な理解が起きることを期待してみえるような気がしたので、そういったことは何も起きませんよ、という意味を込めて「知的に理解すれば十分である」と聞きました。

でも、この書き方は良くなかったと反省しています。書き直すことはしませんが、もし書き直すとすると、「教えを理解して、それに対して何の疑いもなく、それが真実だと思え、揺れ戻しがなければ、それが理解したということです」としたいです。

私がセイラーボブに、「知的には理解できるのですが・・・」と質問した時、セイラーボブは私に、「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? (知的な)を取りなさい」と言いました。

「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということであったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に)理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょうか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。

念のために書いておきますが、「直感的な理解」という言い方は私が勝手に言っているだけです。セイラーボブの言葉で、あえて言うなら「ハートとハートの理解」です。

理解の仕方や、それがどんな風に起きるかは人それぞれでかまわないと思います。
ギルバートにはギルバートの理解の仕方があり、カタリーナにはカタリーナの理解の仕方があり、私には私の理解の仕方があります。でも、みんな「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということは理解しています。

マインドの理解、知的理解、実感、確信、直感、ハート。こういった言葉は、それぞれの人でそれぞれの解釈があるので、その言葉の裏にある本質みたいなものを理解していただけたらと思います。

理解の仕方は人それぞれでかまわないのです。
非二元の教えが真実であり、もう迷うことはないという地点まで到達できれば、どの道を通ってもかまわないのです。

私はこのブログで私の理解の過程を書いていますが、それは無視してもかまいません。セイラーボブの言ったことの翻訳部分だけを参考にするというのもありだと思います。

言葉での説明には限界があります。
例えば、「セイラーボブの教えを理解しても何も起きません」と私は書きましたが、もし、「セイラーボブの教えを理解すれば、考え方や物の見方が変わる」ということを言おうとするなら、「セイラーボブの教えを理解すれば何かが起きます」という表現になります。それは言葉の持つ曖昧さ、不完全さだと思います。

セイラーボブの教えを理解するということは、言葉の上でだけ理解するということではなく、教えが正しいと思えて、何の疑いも起きず、それが当たり前の真実と思え、二度と揺れ戻しが起きない状態です。
もしそうでないなら、教えを理解していないということだと思います。

そういう観点に立って言うなら、メルボルンから帰った時点での私は、セイラーボブの教えを理解していませんでした。
何がどう違うかと聞かれるとまた、確信とか実感とか、あいまいな言葉を使ってしまいそうになってうまく言えませんが、今は疑いや揺れ戻しはありません。

波平さんは、(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。
と書いてみえるので、セイラーボブの教えはもう十分に理解してみえると思います。セイラーボブの教えだけが非二元の教えだというつもりは毛頭ありません。

「確信」「本当の理解」という言葉を使ったために、かえってわかりづらいものにしてしまったかもしれません。「理解」という言葉で十分でした。

2019/08/30

空は形です。


Emptiness is Form.

空は形です。
その意味は、この空、何もないもの、空間のようなアウエアネスは、パターンとなり、姿形となって、あらゆる顕現となって現れているということです。
それはすべて、知性エネルギーのパターンです。

逆の言い方をするなら、形は空以外の何ものでもありません。
そうやって一つの本質を両面から指摘しています。
形がどんなパターンに変化しても、何を形作っても、それは空にすぎないのです。

そしてそれが私たちの問題となります。
私たちは、見せかけを実在だと思っています。
そして、本質を無視(ignore)します。

それを聖典では、無知(ignorance)と呼びます。
何かおろかなことをするという意味ではなく、文字通り、本質を無視(ignore)しているという意味です。
そうやって、見せかけに焦点を合わせ、パターンや姿形の存在を信じています。

私は、分離は存在しないと言いますが、あなたは自分の周りが分離だらけだと思うでしょう。
では尋ねますが、あなたは分離していますか?
あなたは、自身がその体とマインドだと信じています。
あなたが、自分は体とマインドだと思うなら、それがどこなのかを指摘してください。

あなたの体で、ここから私が始まったという場所を指し示すことができますか?
そしてあなたはいつ始まりましたか?
あなたは、誕生によって始まったと言うでしょう。

でも、この部屋にいる人のうち何人が、自分の誕生の瞬間を覚えていますか?
あなたは自分が覚えている地点を超えては思い出すことができません。
それは、二歳か二歳半の時ぐらいまでです。
それを超えて思い出すことはできません。
あなたは自分の誕生の瞬間を覚えていません。

もしあなたが自分の体を調べてみるなら、自分は体であると言うことはできません。
この体は何でできていますか?
あなたは、体が構成要素でできていると理解するでしょう。

体は、土、空気、火、水、空間でできていて、身のまわりあるものと同じものでできています。
もし分離しているというなら、自身を空気と切り離してください。そしてどれだけ生きられるか見てください。

体から水を取り出してください。
空間の外に出てみてください。
体温、火を取り出してみてください。

あなたは、そうした要素と分離してはいないと知るでしょう。
構成要素なしでは5分も生きられません。
私たちは調べもしないで、自分は分離した存在だと信じています。
それを調べてみてください。

構成要素は何でできていますか?
それは亜粒子でできていて、さらに詳しく調べると、単なるエネルギーであることがわかります。
ということは、この体も、他の顕現と同じように、エネルギーのパターンが形になったものです。違った姿、形になったものです。

2019/08/27

セイラーボブの言葉

個人のものではない、純粋な知る働き

ボブ:「何もないもの」は思考では理解することはできません。それゆえに人々は迷い、混乱します。人々は、自身の狭いマインドでそれをとらえ、姿形として概念化できると考えています。人々は、「これだ。これがあの偉大なエンライトメントか何かだ」と想像します。また、何か恍惚とした体験をして、「これがそれだ」と考えます。

質問者:何もないものには、ただそうした主観的な経験があるだけです。主観的な経験の外には何かありますか?

ボブ:その主観性はあなただけのものですか? 知覚するということに関して。

質問者:そう確信しています。はい。

ボブ:でも、この部屋にいる一人一人は同じ世界を見ています。あなたは違った視点から見ていますが、私たちは皆、反対の極へと動く一対の思考の中で、同じように考えています。それでもあなたは、主観は個人的なものだと思っています。もしあなたが、純粋に主観的に見ると、そこには見る対象は何もありません。それが純粋な見る働きです。私が言っているのは、あれを見るとか、これを見るということではありません。概念のラベルが無かったら、それは純粋な見る働きです。それが、あなたのすべての経験の根底のあるのではありませんか? もしその知る働きがなかったら、どれだけのことを体験することができますか? その知る働きは、原初の思考である「私はある」を通して現れているのではないですか? 同じように、あっちの「私はある」、こっちの「私はある」を通して現れています。それは同じ知る働きで、私はそれを知性エネルギーと呼んでいます。それが違ったパターンとなって現れています。

2019/08/24

時間や距離はマインドの中にしかありません。

私は今、いつものようにパソコンの前に座って、ブログを書いています。
そして、ブログを書き終わったら、後でトイレに行こうかなと、ふと思いました。そう思った瞬間に、部屋からトイレまでの距離が生まれました。

私の友人は今、南アフリカのケープタウンを旅しています。ふとそう思った瞬間に、日本からケープタウンまでの距離が生まれました。もし私が、トイレのこともケープタウンのことも考えなかったら、そこに距離はありません。

時間はどうですか? 後でトイレに行こうと思った瞬間に、「後で」という時間が生まれました。
明日は名古屋で友人に会う日だな、と思った瞬間に「明日」という時間が生まれました。
去年の今頃は何をしていたのかな、と思った瞬間に「去年」という時間が生まれました。

あなたが考えなければ、時間は生まれません。
時間も距離も、あなたの思考の中にしかありません。

体はどうですか?
あなたは今、椅子に座ってパソコンでこのブログを読んでいるかもしれません。
あるいは、どこかでスマートフォンでこのブログを読んでいるかもしれません。

あなたのお尻は今、椅子に触れていますか?
私が、「あなたのお尻」と言うまで、あなたのお尻は消えていたのではありませんか?
そこにお尻はありましたか?

あなたの手はどうですか?
マウスに触れていますか? それともスマートフォンを持っていますか?
もし私が、「あなたの手」と言わなければ、あなたの手は消えていたのではありませんか? そこに手はありましたか?

目はどうですか?
画面を見ていますか?
私が、「目」と言わなければ、目は消えていたのではありませんか?

頭はどうですか?
私が「頭」と言わなければ、頭は消えたいたのではありませんか?

体も、あなたの意識に現れているのではないですか?
もしあなたが意識しなければ、体は消えていたのではないですか?

思考も同じです。
今あなたは何を考えていますか?
もし私がこう問いかけなかったら、思考は意識されることなく、やってきては去っていったはずです。

すべては、そうやって意識の中に現れます。
時間、距離、体、思考。世界はあなたの意識の中に現れます。
そしてそれは一つのものです。

ボブの家の近くの花屋にて 2015

2019/08/21

知性エネルギー


Intelligence Energy

そのことを知性エネルギーと言います。
知る働きの活動のことです。
あなたの知性のことを言っているのではありません。

知る働きが、そこここにあることは否定できません。
それは自然に起こってくるものです。
それはこの瞬間に起こっています。

それは単にエネルギーの動きです。
エネルギーのバイブレーションです。

そのバイブレーションには始まりがありますか?
今はいつ始まったのかをピンポイントで指摘できますか?
今の終わりをピンポイントで指摘できますか?

それは脈動する鼓動のようなものです。
始まりが終わりであり、終りが始まりです。

それは自然な活動です。
それが姿形となり、あなた、私、すべてのものとなって現れています。
私たちはそれと別々のものではありません。

同様に、あなたに始まりはありません。
あなたに終わりはありません。
あなたに誕生も死もありません。
運命も自由意志もありません。

誕生もなく、死もなく、時間もなく、空間もなく、体でもなく、マインドでもない。
それ以外のものです。

2019/08/18

セイラーボブの言葉

もし、概念も思考もなかったら、そこには何がありますか?

考えたくありません。

考えるという問題ではありません。ほんの一瞬思考を止めてみてください。ほんの一瞬。それについてどんなことが言えますか?

それをやっても意味がありません。

あなたはちゃんとやっていません。そうでなければ、それをやっても意味がないとは言えません。ちゃんと見てください。もし思考がなかったら、たとえそれが一瞬でも、それについては何も言うことできません。概念無しでは、それが穏やかだとか、そうではないとか、怒りや恐怖、良いとか悪いとかを言うことが全くできません。それは純粋なアウエアネスです。それは思考ではありません。それが知る働きであり、知性の働きであり、あなたと共にあるものです。それが私たち全員と共に今ここにあります。そこには分離はありません。それには、始まりも終わりもありません。それはすべてを含んでいます。

2019/08/15

Sailor Man song by James Braha



Lost in the middle of the sea              The sailor man came to me
Praying for a taste of  truth                 Devoured by the search since youth
Thirty years along the road               Til Sailor man broke the code
A life of desire and fear                     Disappears in the final frontier
Tossed like a feather in the breeze     Shouting my demands and pleas
Sailor man heard this cry                   Listen son to my reply
If you really want to know what I see
Pierce the illusion of a me
Time and space never last                 There cannot be a future or a past
                    CHORUS
    The sweetness of this humble man
    Melts your heart like no one can
    Points the way, today’s the Day
    That’s the plan of the Sailor man
    And that is why I love this guy
                                  Sailor Bob the Sailor man
Tried every truth that came along        Every damn path turned wrong                               

Everywhere a big lofty goal                And no one ever left feeling whole 

But Sailor man knew what was real   Just look below what you feel

Underneath every thought and every sense   Indescribable space immense
Thought my search would never end             Til I met an ocean going friend
One lovely night he said to me                       Words I didn’t know I could see
Just have a look or a peak                              We already are what we seek
Underneath the many is the one                     Like fire creates the sun
                                        REPEAT CHORUS
When thoughts lose their power of belief         Then comes peace and relief
Events aren’t ever what they seem                   Welcome the imaginary dream
Just like clouds hide the sun                             The many overshadows the one
It’s all a great big play                                      Sailor man came to say
Don’t put the horse before the cart                   There never was an end or a start
Never was a time we were not                         The mind plays a game it forgot
Just like Strawberry fields                                 Nothing in this world is real
Like rainbows in the sky we see                       There never was a you or a me
                                                 REPEAT CHORUS

***

ジェームズ・ブラハの歌がうまいのには驚きました。
ボブは電動車椅子みたいなものに乗っているんですね。どの程度自立歩行できるのでしょうか。

2019/08/09

答えはマインドの中にはありません。


No Answer in the Mind

ここで私は、答えをマインドの中で見つけることはないと言います。
たとえ一晩だけでも、マインドで理解しようとしないでください。

マインドで理解しようとすると、頭と頭になります。
それでは何も理解できません。
自分や他の人に対する概念を得るだけです。

ハートとハート。心臓のことを言っているのではありません。
あなたの存在の本質、すなわち魂のシンボルのことを言っています。
ハートとハートが開いている時、共鳴が起きます。

それがどんな言葉だったのか2分も経つと忘れてしまうかもしれませんが、いったん共鳴が起きれば、ある時それはあなたの言葉、考え、認識としてやってきます。それ以降は、読んだり聞いたりしたものとしてではなく、あなたのものです。

(聞き取り不能の箇所を省略しています)

***

お知らせ

ギルバートの新刊が出ました。日本のアマゾンでも買えます。セイラーボブの講話ではなく、ギルバートのオリジナルです。しっかり読んだら感想を書きます。



ギルバートがブログを始めるそうです。きっと参考になることがいっぱいのはず。

Gilbert Schultz-Seeing-Knowingブログ

2019/08/06

菅平合宿

二泊三日で恒例の菅平合宿に行ってきました。
モロッコで砂漠ツアーをご一緒させていただいた河村さんが、夏になると菅平の山荘に招待してくださるので、今年も行ってきました。

日本で一番暑い多治見から「しなの」で長野へ。


長野で北陸新幹線に乗り換え。12分間乗るだけですけどね。


上田到着。お出迎えの河村さんの車で40分、菅平へと登って行きます。


到着。涼しいです。26度ぐらいのはずですが、体感的にはもっと涼しく感じます。
多治見との温度差は10度ぐらいのはずです。


別荘地の中にある山小屋です。さっそくビールで乾杯。
まだ晩御飯には少し早かったので散歩。今回で4回目なので、近所の地理は良くわかっています。


高校生が走っていました。


近くに立派な施設があります。


サッカーの練習試合をする高校生。この施設には多目的グランドが何面もあって、高原で夏合宿をやっている高校や大学が、練習試合をします。


立派な陸上競技場もあります。






ラグビーワールドカップの直前にイタリアチームがここで事前合宿をするようです。

散歩も終わって夕食の時間になったので、合宿開始です。


私たちの合宿はラグビーではなく、酒です。


河村さんはワイン通なので、毎回ワインに合う料理を作ってくれます。
私はもっぱら飲み食い片付け専門です。
今日のワインは南アフリカ原産のピノタージュ。メイン料理はラタトゥーユ。
ワインのことをあれこれと教えてもらいながら、料理の作り方や材料も教えてもらうのですが、たいてい酔っぱらって聞いているので忘れてしまい、帰ってきて作ったためしがありません。

夜中の二時まで二人で、ビール2缶、ワイン2本、ウイスキーボトル3分の1飲んでおしゃべり。マダガスカルやケープタウンの話で盛り上がりました。内容は例によってあまり覚えていません。


翌朝、裏の畑でトラクターの動く音。


たぶん外国人労働者だと思うのですが、ブロッコリーの収穫をしていました。
ブロッコリーの葉は捨ててしまうんですね。葉も売れそうな気がしますが。
菅平高原ではレタスやブロッコリーをあちこちで作っています。

過去三回の合宿では、昼間は高原を降りてあちこちの観光地にドライブで連れていってもらいました。松代大本営防空壕跡、上田城址、真田の里、上越高田、姥捨て棚田、戸隠、小布施の寺々などなど。このあたりは見るものがたくさんあって、とてもいいところです。

でも今回は猛暑なので、下界へは行かずに避暑を楽しみましょうということで、遠出はなしです。
毎回、ほとんど学習能力のない私は、今回も二日酔い。頭が痛い。

サニアパークでは、KOBELCO CUP 2019という高校生のラグビーの大会をやっていました。


全国から、高校生のチームがやってきています。


この日は女子の試合でした。


炎天下で見ていても平気なくらいの温度で、酒が抜けて気持ちいいです。
途中一雨降ったのですが、みんな熱心に応援していました。

試合観戦のあと、須坂の温泉で汗を流して山荘に戻り、今日も合宿。


今日のメインはボブチョルバというスープだそうです。どこのどういう料理だったかは、例のごとく思い出せませんが、美味しくておかわりしました。

生茶のペットボトルに入っているのは、河村さんがブルガリアの友人宅で仕込んで作った赤ワインです。なかなかサッパリしておいしい味でした。

涼しい菅平から、沖縄よりも暑い多治見の我が家に帰ったら、キッチンが大変なことになっていました。一昨日、出がけに生ごみをゴミ袋に入れて出かけたのですが、口がしっかりと閉まっていなくて、そこにブヨが大量発生。
床には、ブヨの幼虫と思われるウジのような小さな虫がたくさん這っていてびっくり。

たった三日家を空けただけで、こんなことになるとは。汗だくになりながら、キンチョールを吹きかけて、ぞうきんがけして大掃除。
今回の合宿の教訓。夏に家を空ける時は生ごみをちゃんとして行け、でした。ギャフン。

2019/08/03

非二元の師たちが教えているのは、エンライトメント(覚醒)ではありません。

最初にセイラーボブの本を読んだ時、セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)した状態のことだと勝手に思い込んでいました。

セイラーボブに会って、エンライトメントなどないと聞かされたあとでも、心のどこかで、セイラーボブの意識の状態は、普通の人の意識の状態と違うのではないかと思っていました。

セイラーボブが、自分はエンライトメントをしたとか、いわゆる覚醒の一瞥体験をしたと言ったのを聞いたことは一度もありません。それでも、セイラーボブの教えを理解すれば、何かが起きるはずだと勝手に思っていました。

セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)ではありません。セイラーボブはエンライトメント(覚醒)した人ではなく、私たちと何も変わらない普通の人です。
セイラーボブの教えを理解しても、何か特別なことが起きるということはありません。

セイラーボブが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。

1980年代から90年代は、エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルやマスターたちが人気の時代でした。
ここでいうエンライトメントというのは、ある時何かが起こって、永遠の恍惚感がとめどなく続くような状態のことを言っています。人々はそれを手に入れるためにグルや教師のもとを訪れ、瞑想したり、講話を聴いたりした時代でした。

最近、ネットや書店で本を読んでいて気になるのは、そうしたグルの説くエンライトメントは、実は非二元の教えている状態だったのだ、というような話を見かけることです。

長年瞑想してエンライトメントを求めてきた人が、エンライトメントは実はとめどない恍惚感が続くようなものではなく、もともとの自分の状態だったと気づくというストーリーを見かけます。

また、かつては人気絶大だった目覚めを説く教師が、近年になって、非二元関連の本の序文を書いて、自分の教えている目覚めは非二元の教えていることと同じであるかのように装っている人もいます。

私はこの風潮を良いことだと思っていません。
私も必死で瞑想してエンライトメント(覚醒)を求めていました。
でも今は、それが完全に間違いだったと思っています。

そうしたグルや教師たちが教えていたことが正しかったのかどうかを、きちんと再評価する必要があるのではないかと思います。
もし、エンライトメント(覚醒)や目覚めなんてものはないのなら、彼らは大勢の人たちを騙してしてきたペテン師だったということになります。
彼らが当時説いていたエンライトメントは、明らかに非二元と同じものではありませんでした。

ラマナ・マハリシやダグラスハーディングの本はずいぶん前から書店に並んでいたのですが、私は勝手に彼らもエンライトメント(覚醒)した人たちだと思い込んでいました。極端な話、精神世界の棚にある聖人は全部、エンライトメント(覚醒)した人だと思い込んでいました。
でも、注意深く読むと、彼らの教えているのはそうではないということがわかります。

エンライトメント(覚醒)や目覚めを説く人たちの特徴は、必ず自らの覚醒体験を語っていることと、それは手に入れるものだと説いているので、そういう人を見分けるのはそう難しくはありません。彼らは覚醒体験で自らを権威付けし、それを客寄せの道具として使っています。

彼らの説くエンライトメントは手に入れるものであり、別の意識状態になるものです。一方、セイラーボブの説く非二元は、手に入れるものでも、何かになるものでもありません。注意深く読めばその違いはすぐにわかります。

私は今では、自らの覚醒(エンライトメント)体験を語っているグルや教師は全部ペテン師だと思っています。

何世にもわたって輪廻転生をくり返し、やっと手に入れるエンライトメント(覚醒)というストーリーが、いかに馬鹿げた作り話だったかとわかったからです。
あまり過激なことを書くと、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人の怒りをかいそうで嫌なのですが、挑発するつもりはありません。おたよりをいただいてもご返事できません。単に見解の相違ですので、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人はどうぞこのブログを読まないでください。

問題を複雑にしているのは、非二元の教えを説く人の中にも、私はエンライトメント(覚醒)したという人がいるということです。私はこういう人も信用していません。もし、こういう人の教えが正しいのなら、セイラーボブが教えていることは間違っていることになります。なぜならセイラーボブは覚醒した人ではないし、エンライトメント(覚醒)なんて作り話だと言っているからです。

ただし、非二元の本質を理解している人の中には、「本当のエンライトメントは、永遠に続く恍惚感というようなものではなく、今ここにある意識がそれだと気づくことだ」というように言う人もいます。これは許容範囲です。でも、いっそエンライトメントという言葉を使わない方が良いのではないかと思います。こうした言い回しは、過去のペテン師グルたちを正当化してしまうことになりはしないかと思います。

エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルや教師の教えていることと、セイラーボブが教えている非二元は全く別のことです。そのことをはっきりと理解していないと、わけのわからない教師やセミナーの餌食になってしまいます。

非二元の教えを正しく理解するためには、エンライトメント(覚醒)などないということを理解する必要があります。それは単なる作り話で、いわばペテン師グルたちの悪しき条件付けだからです。その条件付けがある間は、もし非二元を理解すれば何かが起きるはずだという幻想がなくなりません。その結果、いつまでたっても非二元の教えを理解できないことになります。

また、非二元の教えを説く人の中には、非二元の世界の一瞥体験や、ある時何かのきっかけで突然に非二元の世界を理解したという人がいます。例えば、何かのきっかけで、(私は体でもマインドでもないと理解した)(世界は一つの存在であるとわかった)というような理解が突然起きる場合です。

こういう体験を「覚醒」として語る人もいます。これはエンライトメント(覚醒)ではなく、非二元を理解した体験です。こういう人の中には、優れた非二元の師となっている人もいます。こういう人のことを否定するつもりはありません。ただ問題は、その人が本当に覚醒という意味でその言葉を使ったかどうかです。本人は「理解」という意味で言ったにもかかわらず、「覚醒」と翻訳された可能性もあります。そのあたりの英語は両方に解釈できる言葉があるからです。

非二元の理解は、何かの体験を通して突然起こるやり方でも、私のようにセイラーボブの話や本を何度も読んでいるうちに、それが真実だと理解したという理解の仕方でもどちらでも良いと思っています。セイラーボブの周りにいる人の大半は私と同じように、何度もセイラーボブの話を聞いているうちに理解したという人が大半です。

問題は、非二元を説く側の人の中にも、エンライトメント(覚醒)と、非二元の一瞥体験をゴチャゴチャにして語る人がいて、聞く側の人もそれをゴチャゴチャにして聞いています。私は、エンライトメント(覚醒)は無いと思っていますが、非二元の一瞥体験をすることはあるのではないかと思っています。

でも、非二元の世界を一瞥するというのはどういう体験ですか?
自分は体でもマインドでもないという一瞥をしたということですか?
もし自分の体やマインドが消えると、その一瞥体験を見ることも覚えていることもできないはずではありませんか?

あれは一瞥体験だったんだ、と思い出せるということは、それを見て感じて記憶している誰かがそこにいたはずです。だったらそれは非二元の世界を見たことにはならないのではないですか? それはあくまで疑似非二元の世界にすぎないと思います。

多くの人たちが、ネット上で自分の一瞥体験についてあれこれと語っていますが、それは個人的な思い込みであって、それを語ることはほとんど意味がないし、そういう人たちが必ずしも正しく非二元を理解しているとは言えません。
なぜなら、非二元は何かになることや、何かを体験することではないからです。

一瞥体験がきっかけとなって、非二元の世界に興味を持っていった人もいると思います。そういう人の中には非二元を正しく理解していて、人々を正しい方向に導いている人もいると思います。でも、それを看板にして客寄せをすることは、多くの人を迷わせる結果になるのではないでしょうか。なぜなら、非二元の世界を実際に見て体験することはないからです。

セイラーボブもそうした体験に対して「そういう体験も非二元そのものの体験ではない」と言って、否定しています。
セイラーボブは、非二元の世界を体験したとか、一瞥したとか言ったことは一度もありません。非二元の世界を理解したら、何か特別なことを体験すると言ったこともありません。

非二元の教えは、特別の人にしか起こらない何かではありません。
すべての人がもうすでにそうなのだということを理解すればいいだけのことです。
それを理解するために、何か特別な体験が必要なわけではありません。
普通の人の普通の頭で考えて、(本当に「私」はマインドと体なのだろうか)と調べることだけです。そしてそれは、あなたがこじらせなければ、そんなに難しいことではありません。

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