2022/04/30

慧能(えのう)①

達磨に始まった中国の禅を大成させたのは、六祖である慧能(えのう:638~713)であると言われています。その理由は、慧能のもとからすぐれた禅僧がたくさん生まれ、後に中国において形成される5つの宗(潙仰宗・臨済宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗)と、臨済宗の2つの派(横龍派・楊岐派)、いわゆる五家七宗が生まれる起点となったからです。もちろん、日本の禅宗も、ルーツを辿れば慧能へとたどり着きます。

慧能の教えを学ぶ材料として、六祖壇経(ろくそだんきょう)という語録があります。内容は、慧能(えのう)が行った説法を弟子の法海(ほうかい)が書き留めたものです。語録は師から師へと直接伝授され、すぐには広まりませんでしたが、九世紀以降多くの人に読まれました。

六祖壇経には様々なバージョンがあって、内容も多少違うようです。参考文献やサイトを参考にして、慧能の生涯と教えをまとめてみます。

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第六祖・慧能(えのう)は唐の時代の人。慧能の父は范陽(はんよう)の出身だったが、左遷されて嶺南(れいなん)の新州に流され、慧能が三歳の時に亡くなった。慧能は母と二人で南海の地に移り住み、薪を売って極貧の生活をしていた。慧能は学問もなく、文字も読めなかった。

ある時、薪を配達した帰りに通りを歩いていると、一人の僧侶が経を唱えながら歩いていた。それを聞いた慧能は、たちまち内容を理解して強く惹かれ、その僧侶に、それは何という経であるかとたずねた。

僧侶は、それが金剛経であること、そしてそれは五祖弘忍(ぐにん)から学んだもので、金剛経を弘忍(ぐにん)のもとで学んで唱えさえすれば、たちまち仏になることができると言われていると教えた。それを聞いた慧能は、すぐにでも弘忍のところへ行って金剛経を学びたいと思ったが、母の面倒を見なければならず、すぐには行くことができなかった。

やがてその話を聞いたある人が、弘忍の母の衣食の費用にと銀十両の提供を申し出たため、慧能は弘忍のもとへと旅立つことができた。慧能は数十日歩いて、弘忍の住む黄梅山に到着し、弘忍に入門を願い出た。

「お前はいったいどこの者か。私のところへ何を求めて来たのか」弘忍は尋ねた。

「私は嶺南の新州の平民でございます。ただただ仏になりたくて、はるばるやってきました」

「お前は嶺南の人間で、そのうえ獦獠(かつりょう:南方の野蛮人)だ。どうして仏になることができようか」

「人間には南と北の区別がありますが、仏性にはもともと南北の違いも身分の違いもありません。仏性にはどんな差別がありましょうや」

弘忍は慧能を力量を認めたが、まだ出家していない慧能を他の修行僧と同じように扱うことはできず、寺の雑務を命じた。弘忍のもとには700人の修行僧がいたが、慧能は出家僧ではなかったため、僧たちよりも下の立場の雑用がかりとして、一日中薪を割り米をひいて暮らした。

そんな生活が八か月ほど続いたある日、弘忍が修行僧全員を集めてこう言った

「私は日頃、お前たちに教えを説いて聞かせた。世の人々にとって生死の問題こそが最も重要であり、生の不安や死への恐れという問題の解決こそが大切である。お前たちの修行がどれほど進んでいるのか、各々の悟った境地を一遍の詩に表現して提出せよ。もし、教えを正しく理解して悟っている者あらば、私の後継者として先祖伝来の袈裟を授け、第六代の祖師としよう」

修行僧なかに、他の修行僧の先頭にたって修行にまい進する神秀(じんしゅう)という修行僧がいた。神秀は、身の丈八尺、容姿端麗、儒教、老荘、仏教を修めた博学秀才。長年まじめに仏道修行した結果、五祖弘忍のおぼえも高く「神秀にわれも及ばぬ」と言わしめた逸材だった。

修行僧たちは口々に、「われわれは詩を提出する必要はないだろう。現に教授師という立場におられる神秀(じんしゅう)様が六祖となられるであろう。われわれが詩を作って提出しても無駄になるだけだ」と言って、詩を提出しなかった。

神秀は人々の気持ちがわかっていて、ぜひとも詩を提出しなければならないと思たったが、下手な詩を書いて出せば、弘忍の信頼を失うことになると躊躇した。詩を書きあげ、提出しようとしたが、何度も迷ったあげく、直接提出することができなかった。

そこで神秀は考えた。弘忍の目に留まるように弘忍の部屋の近くの廊下の壁に詩を貼りつけ、弘忍がその詩を良いと言ったなら、すぐに名乗り出ることにしよう。弘忍は誰にも見られないように詩を夜中に貼りつけた。

身は悟りの樹、心は澄んだ鏡台。
いつもきれいに磨きあげ、塵や埃を着かせまい。

体は悟るための木であり、心は澄んだ鏡のようなものであるから、いつもきれいに磨いてちりやほこりを付かせないように修行しなければいけないという意味である。

弘忍は神秀にはまだ悟りが開けていないことを知っていた。しかし、弘忍はこの詩を読んで、このように修行を続ければ確かに勝れた成果を得るだろう、皆この詩を唱えて修行するよにと言って褒めた。これを聞いた修行僧たちは、弘忍が神秀の詩を褒めたといって、弘忍の法を継ぐのは神秀で決まりだと思った。

修行僧たちはそれぞれ神秀の詩を唱えて歩いた。たまたま一人の僧が慧能がいる米ひき小屋の前を通りかかり、慧能はその詩を聞いた。慧能はすぐに、その詩がいまだ悟った人のものではないとわかった。慧能が尋ねると、その僧はことの成り行きを説明してくれた。

慧能は、その僧に頼んでその詩の場所へ連れていってもらった。そこで慧能は、自分も詩を書いて貼りだしたいと言い、文字が書けないから代わりに誰か書いてほしいと頼んだ。するとそこにいた僧が言った。

「獦獠(かつりょう)のお前も詩をつくるのか、それは珍しい」

「仏の知恵を学ぶ者なら、初学者の知恵をあなどってはなりません。ことわざにもあるとおり、最低の人にも最上の智慧があり、最上の人にも智慧の盲点があります。もし人をあなどれば、たちまちはかり知れない罪をおかすことになりますぞ」と慧能は答えた。

「それでは詩を唱えなさい。お前のために私が書いてあげよう。もしお前が悟りをえたなら、まず最初に私を救っておくれ。この言葉を忘れなさるな」とある僧が答えた。

そして慧能は詩を唱えた。

悟りにはもともと樹はない。澄んだ鏡も悟りの土台ではない。
あらゆるものは、もともと何ものでもなく、常に清らかだ。どこに塵や埃があるというのか。

貼り出された2つの詩を読んで、弘忍は慧能こそが自分の法をつぐのにふさわしい器であると見抜いた。しかし、そんなことになれば、他の修行僧らが黙っていないことも容易に想像がついた。

その夜、修行僧らが寝静まったころ、弘忍は慧能を自室に呼んで、慧能に金剛経を読んで聞かせた。すると慧能は即座に悟りが開けて言った。

「和尚様、何とまあ、自己の本性はもともときれいなものだとわかりました。何とまあ、自己の本性は、生まれることも死ぬこともありません。自己の本性はもとから完全なものでした。自己の本性は微動だにせず、あらゆる現象は去っていきます」

慧能に悟りが開けたことを確認した弘忍は、自分が受け継いできた袈裟を慧能に与え、自分の法を受け継ぐものはお前であると伝えた。

しかし、修行僧たちの先頭であり続けた神秀をさしおいて、まだ出家すらしていない米ひきの雑用係が弘忍の法をついだことが他の修行僧らに知れ渡ったら、どんな騒動がおきるかわからない。ねたんだやつが慧能の命をねらうかもしれない。

弘忍はその晩のうちに慧能を寺から連れ出すと、船を漕いで湖を渡って対岸へと送りとどけ、その身を逃がした。そして慧能に、弘忍から法をついだことをすぐには公にせず、数年は山の中で隠れ住んで、ほとぼりが冷めるのを待つように伝えた。

月日は流れ、慧能は南方(広州)で得度して僧侶となり弟子を育て、その後弟子たちが様々な宗派をたて、禅宗(南宗)として発展していった。一方神秀は五祖弘忍のもとを去り、後に唐の都で、並ぶ者のない天下の名僧として王室、貴族、庶民にいたるまで厚い帰依を受け北宗と呼ばれたが、北宗は先細りとなり、やがては消えてしまった。

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参考文献

六祖壇経 (タチバナ教養文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門

参考サイト

禅と悟り
禅の視点 - life -
イーハトーブ心身統合研究所
Wikipedia 慧能
Wikipedia 六祖壇経
Wikipedia Platform Sutra

以下はPDF(六祖壇経の英訳版)
THE PLATFORM SUTRAOF THE SIXTH PATRIARCH by PHILIP B. YAMPOLSKY
On the High Seat of "The Treasure of the Law" The Sutra of the 6 th Patriarch, Hui Neng
The Sixth Patriarch’s Dharma Jewel Platform Sutra

2022/04/28

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2」

佐々木閑先生の阿含経の講義が始まりました。

阿含経は釈尊がなくなってから釈尊の直接の教えを口伝えで伝えられたものを経典にしたものです。そのため、釈尊の教えにもっとも近いものです。

2022/04/27

胡蝶の夢・ランドセル俳人からの「卒業」・寺山修司の俳句・へたも絵のうち・自足して生きる喜び・出世花

 胡蝶の夢( 一~四) 司馬遼太郎
あい 永遠に在り高田郁を読んで関寛斎に興味を持ち、胡蝶の夢に関寛斎のことが出てくるということで読んだ。関寛斎がなぜ最後に自死を選んだのかもおぼろげながらわかった。

私はもともとノンフィクション系の本が好きで、小説はそれほど読んでこなかった。でも、この作品に関してはノンフィクションと言っていいほど資料や史実に裏打ちされていて、登場人物のドキュメンタリーを読んでいるような感じがした。一体どれほど調べればこんな小説が書けるのだろうか。司馬遼太郎こそが私が探していた小説家なのかもしれない。

話は徳川幕府崩壊期の幕府の医者である松本良順、農民から苦学して医者になった関寛斎、並外れた記憶力を持ち、数か国語を習得した伊之助を中心にした話。幕末のことや佐渡のこと、長崎や陸別のこと。新選組。慶喜。そして医学とは何か。いろいろ考えさせらた。まったく素晴らしい。

ランドセル俳人からの「卒業」 小林凛
小学生の頃からいじめにあい、転校、不登校を経験。まだ21歳の大学生の俳句・エッセイ集。いい句がいっぱい。
いじめ受け土手の蒲公英一人つむ

寺山修司の俳句 マリンブルーの青春  寺山修司
難解な俳句が多くてイマイチ。

へたも絵のうち 熊谷守一
これはおもしろかった。熊谷守一は自分の気持ちに正直に生きた人だと思う。東京美術学校(現東京芸大)を主席で卒業しておきながら、40歳ぐらいまではまったく絵では世に出ていない。その間、友人の援助で生計を立てたり、郷里の岐阜県付知町で馬の世話をしたり、山仕事をしたりして暮らしていた。

ふたたび上京して家庭を持ってからも、寡作で貧乏生活をおくる。それでいて、あくせくしたところがない。友人も多く、人望もあつい。絵を描いて成功しようなとどは微塵も思っていない。作品も4号から6号の大きさのものが大半。やがて絵で食っていけるようになるが、生活のスタイルを変えることなく寡作で、好きなように生き、97歳で亡くなる。文化勲章を辞退しているし、名声や金には興味がなかった。

この本は、日本経済新聞に口述で連載されたものをまとめたものだが、熊谷の人柄がでていておもしろい。こんな人に出会えば誰でも好きになってしまう。絵ばかりでなく、書もすばらしい。

自足して生きる喜び 中野孝次
物にあふれかって生活する現代において、どう生きるのが幸せなのかを教えてくれる。中野孝次のエッセイは内容的にはどれも同じことを言っているが、どれを読んでも飽きないし、毎回なるほどと思う。ということは、依然として私は「欲望を追う」生活をしているということになる。欲望を追わないで生きていきたい。中野孝次はこの先ずっと読んでいく。

出世花 高田郁
まったくすばらしい。文句なし。
以下はアマゾンから。
不義密通の大罪を犯し、男と出奔した妻を討つため、矢萩源九郎は幼いお艶を連れて旅に出た。六年後、飢え凌ぎに毒草を食べてしまい、江戸近郊の下落合の青泉寺で行き倒れたふたり。源次郎は落命するも、一命をとりとめたお艶は、青泉寺の住職から「縁」という名をもらい、新たな人生を歩むことに―――。

2022/04/23

道信(どうしん)

あなたに何か欠けているものがあると思ってはいけない。あなたの心それ自体はもうすでに完全であると理解しなさい。心には達成すべき状態などない。それは、あなたがもたらした観念的な重荷から解放された、あなた自身の心に他ならない。

束縛された心をくつろがせ、自然な安らぎが起きるのを許しさえすればいい。心に対して、思いをめぐらせることは役に立たない。それは、心を分割させるだけである。

あなたの心を浄化しようとすることも役に立たない。どうやって空の空間を浄化することができるだろうか。捕まえたり、拒絶したりした思考や感情を手放しさえすればいい。そうしたことは、不安や嫌悪感であなたの心を収縮させている。

もし、私の言ったことを理解すれば、あなたの心は広大で安らかだということを理解するだろう。私はあなたに、あれをしろ、これをしろとアドバイスしているのではない。あなたは自分の好きなことを何でもすることができる。

何か善良なことをしようと考えないように。同様に、明らかに他者を害するようなこともしてはならない。あなたが経験することは何であれ、仏性そのものの奇跡的な働きであるということを観察しなさい。

喜びに満ち、心配のないこと、それこそがブッダと呼ばれるものである。あなたが経験する環境は本質的に良くも悪くもない。良し悪しはあなたの心の中にだけ生まれる。もしあなたの心が観念から自由なら、動揺して悩まされることはない。

幻想があなたの心にない時、実在の心はすべてをありのままに認識するように解放されている。自身の心を操作しようとしたり、心の涅槃を作りだそうとしてはいけない。

私が話している無心は、あなたの解放された意識のことであり、それは自然にひとりでに現れる。他に手に入れるすべはない。

参考サイト

Zen

Wikipedia 道信

Wikipedia 景徳傳燈録

2022/04/20

熊谷守一つけち記念館

熊谷守一(くまがいもりかず)つけち記念館へ行ってきました。
コロナであまり出歩きたくないのですが、どうしても熊谷守一の絵が見たくなったことと、家から電車とバスで二時間の距離にあるので行くことにしました。

熊谷守一つけち記念館ホームページ

平日だったのでガラガラ。
玄関入口の猫
御嶽
月夜
あぢさい
山道
いそなでしこ
石仏
画集を買いたいところでしたが、諸事情により絵はがきを購入。写真は絵はがきを撮ったものです。あたりまえの話ですが、実物は構図も発色も絵はがきとは比べようもなく素晴らしい。また、画集を買っても、実物を見るような感動はない。やっぱり実物を見ないとダメです。絵の大きさはパソコンのモニターの大きめぐらい(4号から6号)が大半です。

「あぢさい」「桃」「月夜」には、しびれました。
この画風が完成するのは、守一が70歳を超えたあたりからです。芸術家というのは長生きしないとだめですね。
守一が愛した自宅の庭も再現されていました。
書も見たかったのですが、書はほとんどありませんでした。
また行きたいと思います。

2022/04/16

僧璨(そうさん)信心銘

信心銘

ものごとを区別しなければ、道は易しくも難しくもない。

ものごとにしがみついたり拒んだりすることをやめれば、ものごとはすべてありのままである。

しかし、それを見失うと、あなたは天と地ほども分割される。

道を理解したいのなら、ものごとを区別してはいけない。

想像上で好き嫌いをつくると、心は分裂する。

もし道を理解しないのなら、自身の心の平和を乱すこととなる。

心はすでにあるがままで完全である。何も欠けておらず、何もつけ加えるべきものもない。

執着と拒絶によって、そのものの本質の一体性を見失う。

何も手に入れようとしてはならない。何も取り除こうとしてはならない。

非分割性の中で安らげば、どこに非二元性が見つかるというのか。

もしあなたが統一性を達成するために動くことをやめようとすれば、逆にあなたの努力は動きで満たされる。

もしあなたが何かにしがみつこうとすれば、どうやって非分割のものを見つけられるだろうか。

非分割を理解しなければ、あなたの心は粉々に分割される。

存在するものを拒絶すれば、ありのままを見失う。空を主張すれば、空を見失う。

あなたが話せば話すほど、あなたが手に入れようとしているものは遠ざかる。

観念化することをやめなさい。そうすれば、あなたではないものなどどこにもない。

非分割の中で安らぎなさい。そうすれば、為すべきことなど何もない。

自身を分割すれば、絶え間なく忙しい。

現象の世界とは、ものごとをありのままに見ない世界のことである。

実在を探すな。実在に対する観念を捨てなさい。

あらゆる概念は制限されたものだ。それならなぜそれを追いかけて時間を浪費するのか。

肯定、否定をするなら、心は分裂している。

二つは一つゆえに存在する。しかし、一つの存在を確かめようとしてはならない。

心が分割されていない時、一万のものごとは障害とはならない。

しかし、区別をすれば、一万のものごとが障害となる。

心が分割されていない時、見つけるべき心は存在しない。

客体に関連した主体が消える時、主体と客体は混ざり合って一つとなる。

客体は主体があるがゆえに客体である。主体は客体があるがゆえに主体である。

二つの関係性を理解しなさい。もともとは不分割のものである。

両方とも不分割の中で生じ、一万のものごととなって現れる。

高い、低いを区別するな。そうすれば、あなたが好き嫌いをすることはない。

道はすべてを含んでいる。それは易しくも難しくもない。

狭量な心はいつも不自然である。急げば急ぐほど、歩みはゆっくりとなる。


追いかければ追いかけるほど、それを手に入れることは遠ざかる。

自然に起こってくるものを調べなさい。どこからもやってくるところはなく、行くところもない。

あなたの本質を道と調和させなさい。心をくつろいだままにしなさい。


考えすぎることはあなたを分裂させる。半分眠りこけていることもまた役には立たない。

人為的に区別を作り出して、自分を疲れさせることに何の意味があるというのか。

もし不可分のものを知りたければ、感覚を遮断しようとしてはいけない。

感覚の領域は、それ自体が知性の機能に他ならない。

賢者は不動によって行動する。愚者は自らを困難で縛り付ける。

ものごとは違ったように現れるが、不可分のものである。見ようとしない者はこれに気づくことがない。

自分自身を見つけるために自身の心を使うには馬鹿げてはいないか。

不動の中に自身を見つけようとしてはいけない。ただ。生命知性が働くのを許しなさい。

二元性の世界は、あなたのでっちあげにすぎないということを理解しなさい。

夢、幻影、空の花。どうしてそれをつかもうとするのか。

獲得と喪失、正しいと誤り、これらをすべてきっぱりと終わりにしなさい。

明るい日の光の中では、あらゆる夢が自然に消える。

もし心が区別しなければ、一万のものごとはありのままである。

不可分の中で安らぎなさい。未生の不動の中で。

もしあなたが一万のものごとを手放せば、あなたの心は安らぐだろう。


相対的な思考の外に出なさい。そして不可分の中で安らぎなさい。

変化は無変化であり、無変化は変化であるということを理解しなさい。

分割されたものを放棄するなら、一つのものに思いをめぐらす必要はない。

ものごとの本性は、計ることも言い表すこともできない。

心にとって、それは分割されたものではない。あらゆる骨折りは徒労に終わる。

疑念が無くなるとき、あなたは不可分性と調和する。

すべては理解することができないものであるということを理解しなさい。あなたがしなければならないことは何もない。

意識の不可分性の中では、あなたの心を使う必要はない。

意識を客体化することはできない。観念によってそれを理解することはできない。

ものごとの本性の領域では、自己もなければ、自己以外もない。

もしあたがそれと調和したいのなら、「二つではない」ということを思い出しなさい。

非二元性の中では、すべては不分割である。そこには何も残されていない。

目覚めている人は誰しも、このことを理解している。

不可分性は時空を超えている。一瞬がまた千年でもありえる。

ここもあそこもない。そうでない場所などどこにもない。

境界がないとき、小は特大と同じぐらい大きい。

制限がないとき、大は極小と同じぐらい小さい。

存在は非存在である。非存在は存在と違わない。

理論的に考えようとして、時間を浪費しないように。それは全くあなたの助けにならない。

一つはすべての中にある。すべては一つである。

自身を完全なものにしようとしてはならない。この真理を理解しなさい。

真の心は不可分である。心を信じるのは不可分の心である。

道を言葉で言い表すことはできない。そこに時間はない。

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信心銘は禅の三祖、僧璨(そうさん)の作と言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。

信心銘というタイトルの意味を文字通り解釈するなら、「心を信じる」ということになるかと思います。では、その心とは何か。心には二種類あると思います。一つは思考のことで、もう一つはその思考の背後にある意識のことだと思います。この題名に使われている心は、意識の方であり、それを信頼するということだと思います。思考は分割します。でもその背後にある意識は分割されることはありません。

ボブ:信心銘はあなたに、「何に対しても賛成、反対の意見に固執するな」と教えています。禅の三祖は、意見を持つなと言っているわけではありません。意見は起こってくるでしょう。好みも同じです。でも、それに固執しないでください。それをやって来させ、去らせてください。それをあなたのものとしてはいけません。

あらゆることが、何らかの視点から判断されます。それが、自己の中心、すなわち基準点、「私」、「私の」となります。さて、このボブの体と心の中には、固定された信念や、固定された意見はありません。私は意見を持つことができますが、それは石の中に固定されたものではありません。同様に私は、「私」や「自分」と言うことができますが、それもまた固定されたものではありません。それは去っていきます。SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality p243より

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【禅とこころ / 禅の思想に学ぶ】第3回 無分別 | 花園大学総長 横田南嶺

31分ぐらいから、信心銘の解説があります。

2022/04/09

達磨(だるま)④

心の外に仏性なし

三界において多くの混沌とした出来事が起きようと、最後にはただ一つの心の中で完結する。古今の仏陀は文字に頼らず、心から心へと教えを伝えてきた。

弟子:文字によらないで、何によって、どのように心を思い浮かべるのでしょうか?

達磨:おまえが私に尋ねる時、尋ねているのはおまえの心である。私がおまえの質問に答える時、それは私の心だ。

心なくして、誰も仏陀を見つけることはできない。なぜなら、心の外に菩提や涅槃を見つけることは不可能だからだ。私たちの自性は真実で満ちている。そこにはもはや因果はない。あるがままの自己とは、自己の心であり、その心が仏陀である。そしてその心こそがすでに輝き、穏やかに光輝く涅槃なのだ。

心の外に仏陀や菩提があるはずだと主張することは重大な誤りだ。仏陀や菩提が他のどこにあるというのか。空っぽの空間をどうやってつかもうというのか? 空は単なる言葉であり、形も大きさもないため、つかむことはできない。あたかも空をつかむかのように、心の外にある仏陀を見つけようとしても無駄だ。

仏陀は心の産物なのだから、心の外では見つからない。古今の仏陀たちがそう語っている。心だけが仏陀である。仏陀だけが心である。仏陀は心の外には存在しない。心は仏陀の外には存在しない。

もし仏陀が心の外に存在するなら、それはどこだろう。もし仏陀が心の外には存在しないのなら、仏陀という考えはどこから来たのか。心の本性を見ずして、間違った意見を交換するなら、死んだ物質(仏像)に固執して、自由のない存在となってしまう。もしおまえがこのことを信じないのなら、自身を欺くことになり、何の役にも立たない。

仏陀に欺瞞はないが、混乱した不完全な者たちは自身がすでに仏陀であるということを理解することも気づくこともない。もし仏陀が自分の心だということがわかったら、心の外で仏陀をさがしてはならない。仏陀は仏陀によって解放されることはなく、そんなふうにして仏陀が見つかることはない。それは、仏陀が自身の心と何の違いもないと知らないこと、無知によって起きる。

おまえはすでに仏陀なのだから、仏陀たちを崇拝してはならない。仏陀のことを考えてもいけない。仏陀自身は経典を読めず、サンガの戒律を守ることも破ることもできない。仏陀は守るべきものも破るものもない。仏陀自身は善も悪も行わない。

真に仏陀を見つけたいのなら、自己の本性を見なくてはいけない。それが仏陀である。自己の本性を見ずして、どれほど仏陀の名を唱え、経典を読み、儀式で礼拝し、戒律を守ろうとも、得るものは何もない。

仏陀の名を唱えれば、次の生では幸せとなるだろう。経典を読めば賢くなって知識が増え、戒律を守れば天に生まれることができよう。他者を助けるなら富をもたらすだろう。しかし、そうしたことで仏陀を見つけることはできない。

もし、まだ自分のことがよくわからないのであれば、すでに大いなる目覚めを得ている師を見つけて、生死の本質に目覚めるべきである。自己の本質に目覚めていない人を師とは呼べない。それゆえ、経典のすべてを読んだとしても、三界の生死のカルマの海に落ちて、大きな苦しみから解放されることはない。

かつてある僧侶が万巻の経典を読んで習得したが、自己の本性を見ることなく、カルマの連鎖から解放されることはなかった。そして今、多くの人がいくつかの経典を学ぶだけで悟りが開けると思っている。なんと愚かなことか。どれほど大きな過ちを犯していることか。

自身の心を理解することなしに、根拠のないフレーズを暗唱しても意味はない。
仏陀を見つけるためには、自己の本性を知ることだ。

自己の本性は仏陀である。
仏陀は自らの中にいる。無為無作の存在である。
自己の本性を見ずして、昼夜懸命にさがしたとしても仏陀は見つからない。

もともと達成すべきことなど何もないと言えるのだが、もしそれが理解できないのなら、真摯な努力と働きによって、おまえの心を開いてくれる師を見つけなくてはならない。生と死は大いなる謎だ。無駄に過ごしてはいけない。いずれにせよ、自らを欺くことは役にたたない。

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問い:修行を積み、道を達成する者たちのうち、達成するのが早い者と遅い者の違いは何でしょうか?

達磨:そこには大きな違いがある。この心こそが道であると思っているものは進歩が早い。悟りがあると思い、それを達成しようと試みるものは達成するのが遅れる。

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四聖句

四聖句とは、達磨が残した言葉で、禅の特徴をあらわした言葉です。

不立文字(ふりゅうもんじ)
教化別伝(きょうげべつでん)
直指人心(じきしにんしん)
見性成仏(けんしょうじょうぶつ)

不立文字(ふりゅうもんじ)とは、文字を立てないという意味で、悟りは文字で示すことはできないという意味です。要するに、言葉で伝えることはできないという意味です。

教化別伝(きょうげべつでん)とは、教えることは、伝えられたもの(経)とは別のところにあるという意味です。要するに、経典ばかり読んでないで、自分で体験することが大切であるという意味です。

直指人心(じきしにんしん)とは、直ちに人の心を指してみよ、という意味で、心を今すぐに調べてみよ、という意味です。

見性成仏(けんしょうじょうぶつ)とは、性(自身の本性)を見れば、そこに成仏(仏陀)がいるだろ、という意味で、要するに、おまえの心が仏陀であるという意味です。

この解釈は私の個人的な解釈が入っていますので、以下の参考サイトの解説も参考にしてください。

達磨は、「仏陀はおまえの心の中にいる、おまえの心が仏陀なのだ、おまえはもともと仏陀なのだ」と言っているように思われます。それを心と呼んでもいいし、識と呼んでもいいし、意識でもマインドでもアウエアネスでもいい。私たちはもともとそれなのです。

参考サイト

禅の視点 - life -
コトバンク 達磨
禅 zen
長光山 陽岳寺

参考文献

世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門

2022/04/07

動的平衡・動的平衡2

 動的平衡 福岡伸一

この本に興味を持ったのは、仏教のことをブログに書いている時に見た「大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界」の中の福岡伸一さんの話に興味を持ったため。私のブログでは「初期仏教 無我・五蘊(ごうん)」のところの参考サイトとして掲載。

この本はとても難しい本でした。内容を一言で説明するのは無理ですが、簡単に言うと、「生命というのは機械ではなく、一種の流れである」「生命は動的なもので、その要素は絶え間なく変化しつつ平衡を保っている(動的平衡)」ということです。これを読んでいると、そこには個体としての生命があるのではなく、絶えず変化している何かがあるということがわかります。

この考え方は仏教でいう五蘊の考え方に近いということで、大谷大学がフォーラムに招いたものと思われます。興味のある方は「大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界」の5:00~26:00あたりを見てもらうと、要点だけはわかります。

動的平衡2 福岡伸一
あいかわらず難しい内容だった。一つ一つの内容は興味ある話だけど、結局なんだかよくわからない。生命とか人間とかに関しては、肝心なことは何一つわかっていないということはわかった。

2022/04/06

もっと知りたい熊谷守一 ・熊谷守一つけち記念館所蔵作品画集・人生に余熱あり・八朔の雪・後白河院

 もっと知りたい熊谷守一 
今一番興味ある画家は熊谷守一。熊谷守一は「世俗的な欲望を追及しない」生き方をした人だと思います。近々、熊谷守一記念館へ行く予定なので、ちょっと下調べ。


熊谷守一つけち記念館所蔵作品画集
まったくすばらしい。どうしてこんな絵が描けるのでしょうか。
参考:Google「熊谷守一 絵」

人生に余熱あり 城山三郎
あい(高田郁)を読んだ時、その参考文献として掲載してあったので読んでみた。でも、関寛斎に関する記述は30ページほどで、あとは他の人が老年をどう過ごしたをエッセイ風にまとめたものだった。関寛斎がどうして最後に自殺したのか知りたかったが、それは不明であるということがわかった。

八朔の雪 高田郁
いやまったくすばらしい。このシリーズに限らずもっと高田郁を読む予定。

後白河院 井上靖
難しい小説でした。後白河院と関係のあった四人の人物が、後白河院のことを回想して語る筋立てになっていて、当然読み手はその時代背景や、源平にまつわる物語を知っている前提で語られる。いろいろわかっておもしろかった半面、何のことかわからない部分もあった。
それにしても後白河院の変わり身の早さはすごい。関わった人はもれなく非業の最後を遂げるのに、自分はしぶとく生きていく。

2022/04/04

動的平衡・第5回親鸞フォーラム

 大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界

5:00~26:00 福岡伸一氏の講演「生命というのは機械ではなく、一種の流れである」「生命は動的なもので、その要素は絶え間なく変化しつつ平衡を保っている(動的平衡)」

2022/04/02

達磨(だるま)③

前回のつづき

根源としての本質は心であり、心は仏陀である。仏陀は道であり、道は仏陀である。しかし、驚くほど目覚めている知性を意味する仏陀という言葉は、普通の人にも聖人にも容易には理解できない。それゆえ、もし仏陀を見たいと思うなら、自らの根源的な本質を知らなければならないと言われているのだ。

あなたは高座に座して、一日中何千という経典や注釈書の解説をすることはできるが、自らの根源としての本質に通じていなければ、それは単なる無意味なおしゃべりとなる。道は深淵で神秘的であるが、言葉を通じてそれを理解することはできない。どれだけ読んでも、どんな説明も助けとはならない。

あなたがそれを十二支縁起のどこかで見つけることはない。あなたはそれを自ら経験しなくてはならない。あなたは、自分で飲んで初めて水がどんな味かを知る。それを人に伝えることはできない。

しかし人々は自身のまわりで朝から晩まで起きることに心を奪われているため、見せかけにだまされて取りつかれてしまう。彼らは自身の心がもともと完全なものであり、分割できないものであるということを理解しない。もしあなたがすべてのものごとは心から現れ、つかの間のものだということを理解すれば、初めからこうしたことに執着することはない。

あなたが執着したとたんにそれは起こる。あなたはもう正しくものごとを見ることができない。数千の経典はこのことを説明しているにすぎない。でももしあなたが、このことを理解して自らの本質に気づいた瞬間、そうした古びた書は必要ではなくなる。

道には形はなく、言葉もない。観念を生み出すのは言葉である。しかしそれは単なるあなたの思考にすぎない。それは夢と何の違いもない。夜、あなたは夢の中ですばらしい家、場所、森、庭、湖といって美しい景色を見るだろう。

あなたが夢から覚めると、そのすべてはどこへ行ってしまうのか。そうしたものにとらわれてはならない。自分自身を自らの想像や考えというわなに落としてはいけない。もしあなたがこのことを理解しなければ、あなたは永久に振り回されてしまうだろう。自由で束縛されたくないのであれば、ものごとに執着してはならない。

私以前の27代にわたるインドからの先達たちが伝えてきたことはたった一つであり、それがこの心のことである。私がここ中国に来た唯一の目的は、心が仏陀であると指摘するためである。

金言、苦行、禁欲、熱い炭の上を歩く力、水の上を歩くこと、剣を飲み込むこと、一日に一食、立って眠ること。こうしたことに私は興味がない。こうしたことに励んでいる人たちは誤解している。もしあなたがこうしたことのいずれかが有意義なことだと思っているのなら完全に間違っている。

道は何かをあれこれすることとは何の関係もない。あなたの心はすでに仏陀の心である。あなたのすべきことは、常にこの心に気づいていることだけだ。過去、現在、未来の仏陀たちはたった一つことを教えていて、それはあなた自身の心のことを直接指し示している。

あなたは非常によく学んでいて、一日中人に十二支縁起を説いているかもしれないが、もしあなたが自身の心について目覚めていないのなら、そうしたことはすべて無益なことだ。一方、あなたが読み書きできなかったとしても、この心に気づいているのなら、あなたは最終的に完全な自由を達成できるだろう。

仏陀とは目覚めた知性に与えられた名称である。この心には形がなく、原因がなく、筋も骨もない。それはちょうど空の空間のようなもの。あなたはそれをつかむことはできない。そしてまた、心は肉体と切り離すことはできない。この心無しでは肉体は機能しない。

心無しでは肉体は生気がなく、感じることができない。体は何も感じない。体は何もすることができない。心のおかげであなたは、見て聞いて歩いて話して考え、行動することができる。こうしたことは心が持つ生きた知性としての機能である。

つまり、この機能は心が動かしているということができる。動くことや機能することなしに心はありえない。そして、心なしに動きはありえない。それでも、動いているのは心ではない。というのも、知性は動かないからだ。知性としての心自体に動きはない。

同時に機能としての動きは心と切り離すことはできない。心は行動と切り離されてはいない。それゆえ経典の中では、心は動くことなしに動くと言われている。毎日毎日それはやってきては去っていくが、それはどこへも行きはしない。毎日それは物事を見て聞くが、それでも何かが見えることも聞こえることもない。

同様に、毎日それは笑い、泣き、喜び、悲しむが、こうしたことはどこにも見つからない。それゆえ経典ではこう言われている。
言葉や描写でそれを説明することはできない。
思考や分析でもそれに到達することはできない。

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「心の外に仏陀なし」は達磨の作だと言われていますが、おそらくそうではなく、後代の人の創作であるという人もいます。

心が仏陀である、と最初に読んだ時、いったいそれはどういう意味だろうと考えこんでしまいました。心というと、「思考」と考えがちですが、そうではなく、思考の背後にある「意識」をとらえて心と言っているように思います。心を、アウエアネス(意識)と読み替えてみてください。

いくつか別のバージョンが伝わっているので、次回別のバージョンを掲載したいと思います。