2019/07/30

おたよりをいただきました。

Takuさん、こんにちは。
僕は朝起きた時少し憂鬱です。睡眠が深くないので布団から起きだす前にはすでにいろいろ考え始めている感じで、さあ起きようという時にはすでに少し憂鬱です。

それでも以前と違うのは、セイラーボブさんやTakuさんのおかげで、余計な考えを横に置いておくということができるようになりました。

Takuさんは、「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。」と書いておられました。それは「理解」ということに関する大きなバロメーターのように思います。いま「ただそれだけ」を8回目を読んでいますが、まだまだ理解できていないようです。

セツ


「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。」と書いたのは、セイラーボブの教えを理解して何かが変わったからではありません。それまで何十年も探していた宿題をやり終えた解放感と、もう一つは、眠れても眠れなくても、全く気にしなくなったからです。

最近はまた、不眠症気味で、ほとんど眠れない日もたくさんあります。でも、それで寝起きが憂鬱になることはありません。寝起きが憂鬱だろうが、爽やかだろうが、全く気になりません。いつもと同じように一日を始めるだけです。

もし、今朝は熟睡したから爽快だ、と喜ぶと、それが今度は眠れない朝の憂鬱を生み出すことになります。信心銘を思い出してください。もし、良いとか悪いとか判断すると、マインドは天と地のごとく二元的に反対の極に動いて、はるかに隔たりを生むことになります。

セツさんは、「ただそれだけ」を8回読んでいるのに、まだまだ理解が起きていないようだと書いてみえますが、一体どういう理解を期待してみえますか?

セイラーボブの教えを理解したら、精神がスッキリするとか、毎日熟睡して爽やかに目覚められると勝手に思い込んでいるのではありませんか?
残念ながら、そういうことは起きません。

私もそうでしたが、人々はセイラーボブの教えを理解したら、憂鬱になったり、悩んだりすることがなくなるのではないかと勝手に想像しています。セイラーボブの教えを理解しても、憂鬱になったり、悩んだりすることは以前を同じように起こってきます。

また、セイラーボブの教えを本当に理解したら、何か特別な体験が起きるはずだと勝手に想像してみえるかもしれませんが、いくら期待しても、何も起こりません。

セイラーボブの教えを理解して起きることは、自分は実在ではないという理解から起きる精神的な解放だけです。憂鬱な気分や、煩わしい問題は今までと同じように起こってきますが、それは「私」に起こっているのではないという理解があるために、そうしたことに巻き込まれなくなります。

セイラーボブの教えを理解できた状態というのはどういう状態なのかについて具体的に書きます。

私は、二回のメルボルン滞在で、セイラーボブの教えを知的には完全に理解できていました。「知的には」という意味は、セイラーボブが何を言っているのかを理解できているという意味です。

「万物は一つものである」
「私は体でもマインドでもない」
「本当の私はアウエアネス、意識であり、空である」
「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」
「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」
「すべては概念であり、概念のラベルを貼り付けなかったら、そこでは何も起こっていない」

こういったセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。
でも、日本に帰ってしばらくすると、(でも、それは真実なのだろうか?)という疑いが湧いてきて、確信、実感がありませんでした。

「私は体でもマインドでもない」や、「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」といったことは、自分で調べて理解することができます。それを理解する材料はこのブログの中に十分な量があります。

でも、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」といったことは、いくら自分で調べても、マインドの理解を超えています。セイラーボブの教えには、どうしてもマインドでは理解できない部分が残ります。

そういったことに対する理解、確信、実感を得たいと思って、セイラーボブの本や、YouTubeでボブのミーティング映像の中に答えを探しました。それを探す時に考えていたのは、セイラーボブや関係者の本の中に、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠がどこかにあるのではないかということと、もう一つは、彼らが非二元の教えを理解した時、その理解とはどういうことなのか、理解した時、何がどんなふうに起こったのかについてどこかで語っていないかということでした。

セイラーボブと、その関連書籍で入手可能なものは全部買って読みました。YouTubeも可能な限り見ました。カリヤニのサイトもギルバートのサイトも(以前のギルバートのサイトにはたくさんの記事がありました)くまなく読みました。

でも、どこにも、「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する納得できるような論理的な説明や、科学的な証拠は書かれていませんでした。
また、セイラーボブや周りの人たちが非二元の教えを理解した時に、何か神秘的な体験をしたとか、何か特別な理解が起こったという記述を見つけることもありませんでした。
大抵の人が言っているのは、非二元の話を聞いたり、読んだりしているうちに自然に理解したということです。

私はメルボルン滞在中、セイラーボブに、「理解するとはどういうことなのか」ということを何度も聞きました。
「あなたのおっしゃる事は知的には理解できます。でも、本当の理解が起きません」と。

でもセイラーボブはたいてい、
「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? 2+2は4でしょう?」という感じで、理解すると何かが起きるとか、知的な理解以外の何か特別な理解について語ったことはありませんでした。

周りの関係者に聞いても、「ボブの教えていることは真実だよ」というばかりで、論理的な説明や、科学的な証拠を示してくれた人は一人もいませんでした。理解した時に何かが起こったという人もいませんでした。

セイラーボブがいつも
「答えはマインドの中にはありません」と、あれほど繰り返し言っているのに、私はその本質的な意味を理解できず、あちこちと探しました。
その本質的な意味を理解するのに、4年かかりました。

「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠を探しても、それはどこにもありません。セイラーボブの教えを理解するために、いくらマインドの中を探しても理解できないということに気づきませんでした。

セイラーボブの教えを理解できない多くの人は、エンライトメント(覚醒)が起こったらセイラーボブの教えを理解できるはずだ、何か特別な体験が起きるはずだ、と思っていますが、セイラーボブはエンライトメントなんてないと言い、特別な体験について語ったこともありません。

また、ある人はニサルガダッタ・マハラジや、ラメッシ・バルセカールの本の中に何か答えがないだろうかと、彼らの本を読み始めますが、そこにも答えはありません。他の非二元の師の本を読んでも、そこにも答えはありません。
なぜなら、答えはあなたの中にしかないからです。

セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。

もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。

誤解を恐れずに書きますが、セイラーボブの教えを本当に理解するという意味は、直感的な理解です。マインドではなくて、ハートの理解です。

セイラーボブの教えを読んで、「これは真実だ」と心の底から感じたなら、それが理解できたということです。
それは、無理やりそれが真実だと信じるということではありません。無理やり信じることと、心の底から確信することとでは大きな違いがあります。

心の底から確信しているということは、教えに対して、もう二度と疑いや迷いが起きず、それが事実であると確信しているという意味です。

その確信は、さんざん探して、自問して、もうマインドの中には探す場所がないという地点まで行かないと、起きないのではないかと思います。私はそうなるのに4年かかりました。

その確信には、論理的な説明や、科学的な証拠は要りません。理由は不要です。だからこそ誰も人には説明できないし、非二元について書かれた本をたくさん読んでも理解が起きないのです。

セイラーボブは、ジェームズ・ブラハとの最初の電話での会話の中で、「理解がすべてです」。理解することが必要なだけです。と語っています。この理解には、理由は不要です。セイラーボブは、"Ring the bell?"(ピンときましたか?)という表現を使う時もあります。

真っ赤な薔薇を見て、美しいと感じるのに、何か論理的な説明が必要ですか?
誰かと恋に落ちる時に、何か論理的な説明が必要ですか?

そうしたことは、ハートの中で直感的に起きることです。

セツさんは。「ただそれだけ」を8回読んで、もう十分にマインドの中を探しました。
答えはマインドの中にはないということを十分に理解しました。

そこで今、「ただそれだけ」も、私のブログもちょっと脇に置いて、自分に問うてみてください。

「セイラーボブの教えていることは果たして真実なのだろうか?」と。

もし、「真実だ」と確信できるなら、本当に理解したということです。
「真実とは思えない」と思うなら、機が熟してないか、縁がなかったということです。

もしこれ以上、マインドの中に答えを探そうとするなら、「汝それなり」と言われて、12年間をマスターのもとで修業した人と同じ過ちを犯すことになります。

セイラーボブもニサルガダッタ・マハラジも、彼らの話は7~8回聞けば十分に理解できる話だと言っています。私もそうでしたが、考えすぎて、難しくしないでください。

2019/07/27

私は実在か?

以前もこのブログで、非二元を理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べることです。」と書いたのですが、この、自分で調べるという作業は、それほど難しいことではないと思うのですが、どうでしょうか?

たいていの人は、「私」はマインドと肉体だと思っています。私もそう思っていました。マインドは思考、感情、記憶といったもので構成されていて、その代表格は思考です。
思考について考えてみると、ほとんどの思考は、私の意思とは全く関係なく、私の意識に現れてきます。

(今日は昼食にカレーを食べよう)(昨日見たテレビのドラマは面白かった)とか、場合によっては、もう他に誰も覚えていないような昔の記憶がよみがえってきて、(あの時は悲しかった)とか、(あの時はあいつにあんなことをされてくやしかった)などと、脈絡なく思考はやってきます。

そうした思考を一つ一つ観察すると、それは全く自分の意思とは関係なく、自然に勝手に起こっていることだと理解できるのではないでしょうか?
もちろん、自分の意思でコントロールしているように見える思考もあります。
例えば仕事中に報告書を書く作業や、次の休みの旅行の計画を立てる時の思考などは、自分がコントロールしているようにみえます。

一つ一つの思考を詳細に観察してみてください。自分でコントロールしている思考がどれだけあるかということを。
そうすると、自分とは全く関係なく起こっている思考が大半だということに気づいてきます。

もし、自分でコントロールしていないのなら、思考は「私」ではないということになりませんか?

感情や記憶についても同じことが言えます。感情ほど自分でコントロールできないものはありません。私などは、朝起きて、何の理由もなくムシャクシャして、一日中さえない気分の時がしょっちゅうあります。

逆に、何の理由もなく気分の良い時もあります。感情も思考と同様に、「私」の自由にならないのなら、「私」ではないのではないですか? いや、私はコントロールできると言う人は、一日中楽しい気分でいられるはずですが、そんな人はそうはいないと思います。
また、私は自分の思考をコントロールしていると思っている人は、今日一日、寝るまでの間、猿のことを考えないようにしてみてください。5分もしないうちに周りが猿で一杯になることでしょう。

記憶についてはどうですか。記憶は「私」の都合のよいように書き替えられている可能性があります。古い友人と昔一緒に行った旅行の話をすると、お互いの記憶が食い違っていて驚くことがよくあります。そうした不鮮明な記憶の蓄積が「私」ですか?

思考や感情は、自分の意思とは全く関係なく起こっている自然現象だということを理解してください。
最初は、(いやそうはいっても、この思考が私だ)とか、(この思考は私の思考だ)(この感情は私のものだ)という思いがなかなか手放せないかもしれません。

でも、あきらめないで、少しずつ調べてみてください。
休憩時間にコーヒーを飲みながら、どんな思考がやってくるのか観察してみてください。
感情をコントロールできるのか試してみてください。
その思考や感情を起こしている誰かがいるのかを観察してみてください。

そして、思考や感情が、どこに現れてくるのかを観察してください。
それは、あなたの脳ですか? 胸のあたりですか?
思考や感情は、確かに現れてくるのですが、それは脳や胸のあたりではないとわかると思います。

それは、意識の中に現れてきます。それはどこなのかと聞かれても困ってしまいます。
なぜかというと、意識は空だからです。それを言葉では表すことはできないからです。
それがセイラーボブが教えているものです。

「私」が実在なのかどうかは、自分で調べる以外に方法はありません。
でも、それはそんなに難しいことではないのではないですか?
毎日、少しずつ観察していけば、自分がコントロールしている思考や感情はまったくないという答えに行きつくはずです。
思考や感情は自然に起こっていることです。
そこには「私」はいません。

2015年 メルボルンにて

2019/07/24

もし考えなかったら、過去は存在しますか?


Is There a Past if I Don't Think About It?

偏在、完全な実在の中では、時間などというものは存在しません。調べてみてください。
自身に尋ねてみてください。
もし考えなかったら、過去は存在するだろうかと。
そうするためには、ほんの一瞬思考を止めてください。

思考なしで、何を言うことができますか?
過去や未来があると言うことができますか?
いいえ。でも思考なしでもあなたが消えることもなければ、ばらばらになることもありませんでした。そこには剥き出しのアウエアネスがあります。

人々は、私は過去にいたとか、一瞬昔を生きようとします。でもそれはできないと知ります。それを思い出すことはできます。でも、あなたが思い出している現実は、今この瞬間に思い出していることです。
二分前に起こった思考でさえ、思い出さないと言う事ができません。それはもう過ぎ去ったことです。

未来も同じです。あなたは未来を予期して想像することはできます。でも未来を生きることはできません。
人々は、今に留まろうとしますが、今の外へ出ることはできないということを理解しません。
あなたは決して今の外に出ることはできません。

マインドそのものが時間です。
マインド、バイブレーション、思考は時間です。

今はいつ始まりましたか?
今がいつ始まったのか、いつ終わったのかを正確に指摘することができますか?
それを指摘することはできません。
それはいつも始まりであり、いつも終わりです。
実際には時は経過していないのです。

すべての問題は時間の存在を信じているせいで起こります。
「私」、いわゆる自分は、時間に縛られた概念上のイメージにすぎません。
私は生まれた。その概念に基準点が関連づけされました。それは実在ではありません。
そのために問題が起こりました。

***

セラーボブの現在
KatarzynaのFacebookによると、7月21日にセイラーボブの誕生日を大勢の人と一緒にレストランでお祝いしたようです。(セイラーボブは、1928年7月21日生まれ。91歳)
写真で見る限りでは、杖を使って自立歩行できるようで安心しました。ミーティングでは座っている映像だけなので、ちゃんと歩けるのかとずっと心配していました。

2019/07/21

アウエアネス(awareness)

アウエアネス(awareness)を私は「意識」と訳しています。
非二元の本を読んでいると、「気づき」と訳している人もいます。
でも、気づきと訳すと、そこに誰か気づく人がいるように思えてしまうので、よくないのではないかと私は考えています。

セイラーボブはまた、アウエアネス(awareness)を space-like awareness(空間のような意識)、seeing(見る働き)、seeing-knowing(見る働きー知る働き)、presence-awareness(存在意識)と表現することもあります。

私は、このアウエアネスを理解することこそがセイラーボブの教えの全体を理解する重要なポイントだと思っていて、「私はいない」や「万物は他に何もない一つのものである」という事は、それほど重要なことではないように思います。アウエアネスを正しく理解すれば、あとのことは自然に理解できることだと思います。

私は、わかりやすくするために、「今ここにある意識」という表現を使います。
世界は、今ここにある意識の中に現れます。
朝目を覚ますと、そこに世界が現れます。

また、夜空を見上げると、この今ここにある意識は遠くの星まで広がっています。
寝床で目を閉じて想像すれば、それは銀河の果てまで広がっていきます。
それには限界も境界もありません。これを言葉で定義しようとしてもできないし、一体これは何なのかと考えても理解できません。

それが私であり、あなたであり、すべてです。
すべての物事はそこに現れます。それは一つのものです。
それは誰かに与えてもらうものでもなければ、エンライトして手に入れるものでもありません。
それは、今ここにある意識。それが私です。

私は、この瞬間にしか存在しません。
すべての存在は、今ここにある意識の中にあります。

私たちが物を見る時、その背景にはアウエアネス(awareness・意識)があります。
でも私たちは直接アウエアネス(awareness・意識)を見ることはできません。

音も同じです。音もアウエアネス(awareness・意識)に現れますが、私たちは音の背後にあるものを認識することができません。

五感、思考はすべてアウエアネス(awareness・意識)に現れます。でも、私たちは直接アウエアネス(awareness・意識)を認識することはできません。
逆の言い方をすると、五感、思考を通じてしかアウエアネスを感じることはできません。
五感、思考そのものもアウエアネスです。

それゆえに人々はその存在に気づくことが容易ではありません。
でも、そこにあるのです。一番身近なところに。
それなくしては、景色も音楽も味も思い出も、何も認識することができません。

それが私です。I am that.

              タスマニア クレイドル山国立公園 2017

2019/07/18

SELF AWARE

この本はすばらしいです。



長年、セイラーボブとともにいたギルバート・シュルツが書いた本です。
もちろん根底にはセイラーボブの教えがあるのですが、切り口はギルバート独自のもので、アウエアネスとは何かをわかりやすく解説しています。

ギルバートはアウエアネス、知性エネルギーという言葉よりも、seeing-knowing、wakefulnessという言葉を好んで使います。それは、私たちの眼前に現れるもの。そこに世界が現れる。彼はそれをわかりやすく教えてくれます。

この本には、難解な教義や秘教的な要素は一切なく、目の前にあるアウエアネスを自身で理解できるように平易な言葉で書かれています。

総ページ数184ページですが、活字が大きいので、辞書片手に英語が読める人なら一日あれば読めると思います。英語そのものはそれほど難しくないですが、内容は濃いので、少しずつ日にちをわけて考えながら読む必要があります。この本は私の座右の書になりました。

私の場合、ギルバートの一言一言が、セイラーボブの教えを理解する助けとなりました。ギルバートがいなかったら、おそらくセイラーボブの教えを理解できなかったと思います。今でも毎日彼の facebook を読んでいますが、とてもためになることが多い。

ついでに、ギルバートが運営しているサイトを紹介しておきます。

thE uRban gUrU CaFe

ここにはギルバートが様々な非二元の人達にインタビューしたり、引用したりして作った100のオーディオクリップがあります。
ギルバートは非二元の人たちの目利きでもあり、ここに出てくる人たちは信頼に足る人達だと思います。もちろんセイラーボブも出てきます。ただし、英語が早いし、録音状態がよくないものもあって、聞き取りは私にはちょっときつい。

U.G Krishnamurti, Leo Hartong, Ramesh Balsekar, Rupert Spriar, Tony Parsons, Joan Tollifsonなど、私がもっと詳しく知りたいと思っている人々がたくさん出てきます。

私はまだそこまで手がまわりませんが、セイラーボブ以外で、このサイトに出てくるゲストスピーカーの本が参考になるのではないかと思います。入手困難なものもありますが、どういう人の本を読めばいいのか参考になります。日本語に翻訳されているものあります。
UGC speaker books

ギルバートのホームページも載せておきます。

GILBERT SCHULTZ SEEING-KNOWING

このホームページを読むだけでも、非二元が何なのかの理解の助けになると思います。

2019/07/15

おたよりをいただきました。

Takuさん、こんにちは。

僕は18才の時に不安神経症のようなものになり、毎日が暗闇の中という状況の時に、たまたま書店で、ある仏教の本に出会い救われました。とはいえ少し楽になったという程度でしたが、以後仏教書を読み漁るようになりました。


25才の頃、鈴木大拙の著書に出会い、ますます仏教に傾倒していきました。それから現在まで僕の人生は仏教とともにあったという感じですが、一昨年、ネット上で非二元(ノンデュアリティ )の教えというものに出会い、関連書を読んでいくうちにセイラーボブさんの教えに 出会いました。幼いころから本好きだった僕はそうやってたくさんの本を読んできましたが、Takuさんにとってセイラーボブさんの著書以外で今でも読む本やお薦め本などありますか?

セツ

精神世界や自己啓発の分野の本で、今でも読む本は、セイラーボブ関連の本だけです。
父が亡くなった時に実家の整理をするのにとても苦労したので、今一人暮らしの私としては、私が死んだ時に妹が整理するのに苦労しないようにと、断捨離を徹底していて、なるべく物を持たないように暮らしています。本は片っ端から断捨離しています。

今本棚にある精神世界の本は、セイラーボブ関連の本と、時間ができたら読もうと買ってあるMystique of Enlightenmentだけです。

セイラーボブ以前に読んだ精神世界の本をあれこれ思い返してみたのですが、お勧めできるような本が思い当たりません。
セイラーボブを知った今となっては、どの本も色あせて見えます。

精神世界以外の本では、ノンフィクションやエッセイが好きで、特に好きなのは伝記、評伝、旅行記、紀行物などですが、おそらくそういった本のことを聞いてみえるのではないと思います。

不安神経症のようなものになったと、おたよりにありましたので、そのあたりの関連で私の記憶に残っているお勧め本について書きます。
セツさんはもう不安神経症のようなものとは関係なくて、あまり参考にはならないかもしれませんが、病気治療の本としてではなく、自己啓発の本として読んでも役立つと思います。

私は過去に、不安神経症と強迫神経症で長く苦しみました。不安神経症の方は、突然に猛烈な不安感に襲われて、呼吸が苦しくなり、動悸が激しくなり、今にも死んでしまうのではないかという不安に襲われる症状でした。

強迫神経症の方は様々な強迫観念があったのですが、一番強かったのは高所恐怖症で、高いビルで仕事ができないほどでした。
そうした症状から救ってくれたのが、森田正馬博士の本でした。森田正馬 Wikipedia

森田正馬は、いまから100年以上前に活躍した精神科医、大学教授で森田療法の創設者です。
森田療法とは、一言で言うと、
「恐れや不安を取り除こうとするのではなく、そのままあるがままに受け入れて、自分の目的とする行動をする」です。

森田先生は患者を施設に入所させ、投薬療法をするのではなく、症状はそのまま受け入れて、健康な人と同じように日常の家事、労働に従事させるという方法を実践して、多くに神経症の患者を治療しました。

森田療法は、先生の死後も弟子たちに受け継がれ、アレンジされながら今日まで続いています。

森田先生の本を読んだのは、もう20年以上前です。
私が読んだのは、森田正馬全集でしたが、全集の中からこの二冊が再版されているようです。

神経衰弱と強迫観念の根治法―森田療法を理解する必読の原典
神経質の本態と療法―森田療法を理解する必読の原典

不安は、不安を何とかしようとすればするほど大きくなるので、そのままにしておいて行動するという考え方をする人が西洋にもいました。

不安のメカニズム―心の病から脱出するために (ブルーバックス 237)
この本は改訂されて新版が出ているようです。
完全版 不安のメカニズム: ストレス・不安・恐怖を克服し人生を取り戻すためのセルフヘルプガイド (単行本)
翻訳も内容も多少違うようですが、私が読んだのはブルーバックスの方です。
この本も助けになりました。特に、不眠症には効きました。

そして最後にもう一冊。

クヨクヨするな!どんな悩みも自分で解決できる

この本は神経症治療の本ではなく、日常に起こってくる様々なトラブルや悩みの対処法について書かれた本です。
著者の黒川康正さんは現役の弁護士です。

黒川さんの法律事務所には様々なトラブルをかかえた人たちが助けを求めてやってくるそうです。そして、その多くの人が、トラブルの内容そのものよりも、トラブルに対する恐れや心配のために、トラブルとなっている問題の本質を冷静に把握できず、問題をさらに大きくしてしまっている傾向があるそうです。

その対処法として、まず問題は何なのかを冷静に見極める。そして、最悪の場合、何が起きるかを考える。その解決法はあるのか。あるとしたらどんな方法があるのか。最良の方法はどれなのかを決めて対処する。といった順番に問題を解決していく手順が書かれています。

問題を解決するのに、心配や恐怖は不要で、冷静に対処すれば、どんな問題も解決できると書いています。
この本は実際に日常に起こってくるトラブルや悩みを解決するのに有効です。
セイラーボブの非二元の教えは、日常のトラブルを解決するのに即効性があるとはいえません。日常のトラブルで、さてどうしたものかと悩んだ時は、この本が解決のヒントをくれるかもしれません。

ここに書いた4冊の本はどれも断捨離してしまって今手元にないので記憶で書いていますが、何回も繰り返し読んだ本ですので、お勧めできます。

この4冊の本の根底にあるのは、セイラーボブや精神世界の本で言われている「あるがまま」「そのまま受け入れる」という教えが根底にあるように思われます。

おそらくセツさんはもっと違うタイプの本を期待してみえると思いますが、なかなか適当なものを思い出せませんので、これでご容赦ください。


2019/07/12

セイラーボブの言葉

探求そのものが罠なのです。あなたはもうすでに、あなたが探しているものなのです。あなたは、何か達成するか、手に入れるべきものがあると考えています。あなたがそれでなかったことなどなかったし、これからもそれ以外ではありえません。多くの人がこのことを耳にします。でも、一体どれだけの人がこのことをちゃんと調べ、最後まできちんとやりとげるでしょうか。一体何をしているんだ。これではダメだ。そう言ってまた別の誰かを探しに行くのです。別の誰かのところへ行き、話しを聞き、あれやこれやをやり、どこかで答えが手に入ると考えています。でも、答えがある唯一の場所は、あなたの中です。他の誰かにではありません。あなたはもうすでにそれなのです。何か質問はありますか?

根本的な質問は意識についてです。というのは、意識が働いた瞬間に分離が始まります。「私は在る」は分離です。

ええそうです。その、自分という感覚が分離をもたらします。分離の感覚が不安と傷つきやすさをもたらします。

私は、意識という言葉を使っています。「根底にある意識」が分離であると言うことはできますか?

どんな概念を使っても問題はありません。非常に多くの違った概念があります。概念や言葉では、それを指し示すことしかできません。私はあなたに、どこを調べるようにと言うことはできますが、それを言葉で捕まえることはできません。言葉は物ではないからです。
いいですか。もしそこに、存在の感覚がなかったら、もしあなたがそれでないのなら、それは存在することはできますか。意識、マインド、アウエアネス。どのようにそれを分割して呼んでもかまいませんが。それは、不生と呼ばれています。それには始まりがありません。それは生まれ出たものではありません。それには始まりはないのです。ですから、あなたは、それがあるとも言えないし、ないともいえません。それを概念や言葉や思考や観念で掴まえようとしたり、理解しようとしたりしても無駄です。あなたはその外に出ることはできないのです。

2019/07/09

おたよりをいただきました。

おはようございます。
拓さんは、もっと違う人生(より良い人生)が良かったと思うことはないですか?
よろしくお願いいたします。


何とも、哲学的な質問をいただいて、どう答えていいのか困っています。
「もっと違う人生(より良い人生)が良かった」と思ったことがない人なんているのでしょうか?

幸せそうに見えても、誰しも苦しみや悲しみを抱えて生きています。
精神世界に興味を持っている人は特にそうです。そうでなければ、精神世界の本を読んだりはしません。

私の場合は、「もっと違う人生(より良い人生)が良かった」というよりは、「あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」と思うことばかりの人生でした。

私は30歳の初め頃まで、公務員をしていました。ある時、ふとしたきっかけから、今でいうパニック障害になりました。電車に乗っていても、不安で不安で乗っていられなくなるくらいでした。

パニック障害と同時に強迫神経症もあり、毎日が何をしていても苦しくて恐怖の連続でした。
当時は、それがパニック障害、強迫神経症ということさえ知らずに、自分は気が狂ってしまったのだ思い誰にも相談しませんでした。それを克服しようと、催眠治療を受けたり、精神世界の本を読んだり、瞑想したり、グループセラピーに参加したりするようになりました。

ところが症状は一向に改善せず、毎日が苦しくて苦しくてしかたがありませんでした。
精神世界に深く傾倒していき、こんな苦しみはもう嫌だ、輪廻転生から抜けて、エンライトメント(覚醒)したいと本気で思うようになりました。
思い悩んだ挙句、仕事を辞め、インドへと旅立ちました。

エンライトメント(覚醒)さえ手に入れればすべての苦しみから解放され、私の症状も消えるだろうという、今から思えばとても浅はかな妄想に取りつかれていました。もちろん両親を悲しませることになり、それまで築いてきた人間関係も崩壊しました。

それからの私の人生はどんどん悲惨な方へ転がり始め、次から次へと不幸な出来事が重なっていきました。母が亡くなり、弟が癌で亡くなりました。

体調不良が何年も続き、いくつもの病院にかかりましたが原因不明で、今でもそれほど万全な体調というわけではありません。

新しい仕事に就いても、エンライトメント(覚醒)が頭から離れず、その仕事をずっと続ける気にはならず、転職もしました。
お金にまつわる大失敗から、貯金のほとんどを無くしたこともありました。

こんな私でも、一緒に家庭を持ちたいと言ってくれる人もいたのですが、エンライトメント(覚醒)病に取りつかれていた私は、家庭を持ったら探求どころではないだろうと、家庭を持ちませんでした。その選択もその後長い間私を苦しめました。

この間の20年間は、悲惨な出来事の連続で、毎日、「あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」と思う日々でした。

最後には、上司のこっぴどいパワハラに毎日悩まされながら、家では認知症の父の介護をするという日々が5年以上続きました。経済的にも苦しい時期で、会社を辞めることもできませんでした。

この20年間、外見上は普通に見えたかもしれませんが、私の内側はメチャクチャで、毎日土砂降りの泥沼の中をイカれた精神を騙しながら、やっとの思いで歩いているような日々でした。

父の介護が終わり、すべてを忘れたくて、会社を辞めて長旅に出ました。
一年半ほど旅をした頃にはずいぶんと気持ちも晴れて楽になってはいましたが、まだエンライトメント(覚醒)病があり、セイラーボブに会いに行きました。

そうしたら、セイラーボブはいきなり、エンライトメントなんてものはない、と言うのです。
私が何年も探したエンライトメントはないと言うのです。
それだけではなく、「私」もいないと言うのです。
あのムチャクチャな苦しみを味わってきた「私」はいなかったと言うのです。

時間はかかりましたが、私はセイラーボブのメッセージをしっかりと理解しました。
そして苦しみから解放されました。
あの日以来、あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」という思いは無くなりました。

今でも時々はそういう思いがやってくることはありますが、そこには「私」はいなかったことを知っているので、また昔の思考の癖がやってきたなとやりすごす程度で、それが苦しいとかはありません。

もう少しわかりやすく言うなら、起こるべきことは私の意思とは関わりなく起こったのであって、私に選択の余地などなかったのです。そういう風にしか生きられなかったのです。

本当の私とは、映画のスクリーンのようなものです。
スクリーンの上には、いろんな映画が写し出されます。悲惨な出来事や、つらい出来事、苦しい事、恐ろしい事。
私たちは、そのストーリーが自分に起こっていると思っていますが、そのストーリーの中には「私」はいません。

それは単なるストーリーです。映画が終わって電気がつけば、そこにあるのは真っ白なスクリーンだけです。そのスクリーンが私です。
スクリーンはストーリーが悲しいと言って泣くこともなければ、苦しいと言って逃げ出すこともありません。あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」と思うこともありません。

ただ、実際の私たちの人生のストーリーはずっと続いていくので、白いスクリーンを直接見ることはありません。

あなたの人生のストーリーがどんなに苦しいストーリーだったとしても、そこには「私」はいないということを理解してください。そうすれば、そのストーリーは昨日テレビで見た映画のストーリーと何も変わりません。

この人生を生きている「私」も、あの人生を生きている「あなた」も、そこには誰もいないということを理解してください。
「私」「あなた」は思考の産物であり、実体のないものだということを理解してください。

そうすれば、人の人生をうらやむことも、自分の人生から逃げ出したいと思うこともありません。
起こってくるストーリーを我慢して受け入れろとか、ストーリーは「私」の意思とは関係なく起こってくるのだからあきらめろと言っているわけではありません。

「神は手を持たない」という言葉があります。神はわれわれの手(行動)を通じてストーリーを変えようとします。自分の手で変えられるストーリーもあります。変える努力を惜しまないでください。

変えるように努力して、変わらなければ泣けばいい。でもそこに「私」を持ち込まないで、次にはどんなストーリーが待っているかわからないということを理解してください。

ほんの数年前まで、認知症の父を在宅介護しながら、パワハラの上司に怒鳴られても金に困っていて会社を辞めることもできず、苦しい毎日を生きていた私が、その数年後、2年にも及ぶ長旅をして世界をまわり、セイラーボブに会い、エンライトメント病からも解放されるなんていうストーリーが待っているとは夢にも思っていませんでした。

私が何かをしたわけではありません。ストーリーが勝手に展開していったのです。
これからも、良いストーリーも悪いストーリーも起こってくると思います。

「人間万事塞翁が馬」「禍福は糾える縄のごとし」。人生に起きる良いことだけを取ることはできません。悪いことも起こってきます。
でも、そのストーリーを良いとか悪いとか判断しなければ、それは単なるストーリーにすぎません。何が起こっても私は観客として見ているだけです。
悲しければ泣き、うれしければ喜ぶだけです。

私の人生を生きている「私」などいないということを理解してください。
そうすれば、私の人生も、もっと違う人生もありません。
それは単にストーリーです。

2019/07/06

セイラーボブの言葉

 推論する力が発達し始めると、分離の感覚が起きました。「私」という思考がやってくると同時に、その反対もやってきました。私ではないもの、すなわち私以外です。それを信じることによって、「私」とは分離した別の存在を信じるようになりました。

 その最初の分離感は二歳か二歳半の頃にやってきます。その時以降、「私」が完璧で完全でより強いものになるようにと、「外側」を探し、収集し、蓄え、付け足していくことが条件づけとなりました。「私」と「私以外」があると、分離感があり、不安で傷つきやすくなるからです。その条件づけにより、外側を探し、収集し、蓄積し獲得し、完璧で完全となるまで続けます。

そして、覚醒や悟りといった、霊的なものさえ作りだし、最初から分離などないということ理解しません。それは、こういった場所に出会うか、振り返って、今まで一度も疑問に思ったことがないことを調べて見るようにという何かを耳にするか手にするまで続きます。

2019/07/03

おたよりをいただきました。

いつも、ブログを拝読しております。
ひとりで本を読んでいるときよりも、分かりやすいです。ありがとうございます。

わたしは、理解と、同一化の間で行きつ戻りつしております。
理解したあとには、同一化からの恐れがやってきて、感情につかってしまうことを繰 
り返しています。

拓さんには、このような繰り返しは起こらなかったでしょうか?
また、起きていたとしたらどんな風に変化していったのでしょうか

今は、同一化のモードで孤独への恐れでパニックになっています。
このまま独りぼっちだったらどうしよう、と怖くて怖くて仕方ありません。
拓さんには、孤独の恐れはもうやってこないのでしょうか?

教えていただけたら、嬉しいです。
生きることはわたしにとってひどく怖いです。

よろしくお願いいたします。


同一化というのは、わたしはこの身体であり、思考や感情のぐるぐるから抜けられない状態のことを指しています。
そして、この心地悪さや恐れを改善するには行動しなくては、強くならなくては、美しくならなくてはみたいに焦る感じの状態のことです。
…苦しいです。


セイラーボブの教えを理解しても、体から抜け出すことはできません。
また、思考や感情のぐるぐるから抜け出すこともできません。
なぜなら、そうした思考はOさんのコントロールの外で起こっていることだからです。


その心地悪さや恐れを改善するために行動しなくては、強くならなくては、美しくならなくてはと焦ることも、Oさんのコントロールの外で起こっていることです。
私はこの体でも、起こってくる思考でもないと理解しても、コントロールできない思考は繰り返しやってきます。


その思考をどうにかしようとする必要はありません。どうにかしようとすればすれほど苦しくなります。
私たちが体を持っているかぎり、体という基準点は繰り返し現れて、体が実在であるかのように感じます。私たちが生きているかぎり、思考はやってきて、それを止める方法はありません。


心地悪さや恐れを改善するために行動する必要も、強くなる必要も、美しくなる必要もありません。唯一できることは、思考は自分とは関係なく起こってくる自然現象なのだと理解して、そのままにしておくことだけです。
そうすると、焦りや苦しみはだんだんと薄れていくと思います。


私は過去に強迫神経症で長く苦しみました。いくつかの具体例を挙げると、高い場所が怖くて行けなかったり、刃物が近くにあると怖くて震えたりするような症状でした。不潔恐怖で、何度も何度も手を洗わなければならない時期もありました。


様々な治療法を試みたのですが、唯一助けになったのは、森田療法でした。森田療法を簡単に説明すると、


「恐れや不安を取り除こうとするのではなく、そのままあるがままに受け入れて、自分の目的とする行動をする」


ということです。そしてそれはとても役に立ちました。今でも高い場所は怖いのですが、生活するには支障ありません。


焦りや苦しみ、恐れを取り除こうとすればするほど、それは強くなっていきます。
セイラーボブの教えを理解しても、同一化は引き続きやってきます。でも、それに気づいていて、そのままにしておけば、やがてはそうした焦りや苦しみ、恐れは去っていくと思います。


セイラーボブの教えを理解したら、思考がスッキリして、不安や焦りがなくなるということではありません。人間だから、生きている限り、苦しいこともいっぱいあります。セイラーボブの教えを理解したら、もう苦しいことは起きないというわけではありません。


でも、セイラーボブの教えを理解したなら、それは「私」の苦しみではないという理解が起きて、苦しみとの距離が生まれます。そしてその苦しみは単なる思考にすぎないということを理解すれば、それはやがて去っていくものだと理解できると思います。


苦しみや焦りはそのままにしておいて、日々の生活の中で自分のやりたいこと、すべきことを優先してやっていくことをおすすめします。


孤独の恐れについてですが、私はずっと独身で、今でも一人で住んでいます。
もう歳なので、今からパートナーや恋人を作ろうという気はありません。
孤独を感じることはしょっちゅうです。でも、それで苦しいということはありません。


不思議なことに、私の周りにいる人で、家庭を持っているは皆、独身の私がうらやましいとしか言いません。人間は不思議なもので、一人だと寂しいと言い、家庭を持っていると、やれ子供の学費が大変だ、旦那が酒を飲んで暴れるだの、別れたいだのと言います。

マインドは二元的に動きます。問題の本質を見抜かないかぎり、一人でいても家族がいても苦しみは続きます。そこには、そうしたストーリーに翻弄される「私」はいないということを見破ることが問題の本質です。

Oさんがおいくつなのかはわかりませんが、孤独を感じるなら、友人に会ったり、新しい出会いを求めて行動したりするのもいいことだと思います。苦しんだり、焦ったりはそのままにしておいて、行動してみてください。


もし、苦しみから逃れたいからと、苦しみにばかり焦点を当てていると、表情は暗くなって人が寄り付かないし、せっかくのチャンスも逃がしてしまいます。五感を開いて、ゆったりとした気持ちで行動してみてください。