2024/03/29

「われ在り I AM」ジャン・クライン

「われ在り I AM 」ジャン・クライン著 伯井アリナ訳

この本は当初読む予定に入れていませんでしたが、ジャン・クラインはフランシス・ルシールとルパート・スパイラの師にあたる人だということで興味が湧き、読んでみました。

非二元の本の中には、いくら読み込んでもよく理解できないところがあるものがありますが、この本にはそれがとても多い。でも、本の最初に編集者のエマ・エドワースの言葉があって、この本は心で理解するのではなく、「詩を読むように読めばいいのです」とあり、また、巻末の訳者のあとがきでは、一見平易に見える彼の言葉を理解するのは容易ではないので、エドワースの言うように味わってくださいと書いてある。

でも、それって本としてどうなんでしょうか。挫折しそうなところを我慢して最後まで読みました。こまかいところではよく理解できないところもあるのですが、全体として言っていることは納得できることであり、とても良い内容だと思います。ジャン・クラインは「真我」という言葉でそれを表わしています。真我(セルフ)なんて言葉を使われると、ベーダとかインドを連想してしまいます。純粋意識という言葉も使っているのですが、こういう言葉を使われると、何者かにならないといけないような印象を受けるのですが、決してそうではありません。

本の紹介のため、少し引用させていただきます。

p33から

 どうすれば絶え間なく揺れ動く思考の流れから抜け出すことができますか?

 現れては消えていく思考の流れをひたすら観察してください。それらを拒絶したり助長したりしてはなりません。決してそれを導こうとしてもなりません。ただ、淡々と注意深く見ていてください。そうすればすぐに、あなたは思考や感情、感覚などがこの無方向的で注意深い意識、つまりあなたの開放性の中に現れるのを感じられるようになるでしょう。それはあなたがいるからこそ存在するのです。ゆえに、それらの現れはそれらの故郷である、真のあなたを指し示します。最初にあなたは、自分が自分自身の思考に介入し、それを抑圧したり、逆にそれらに飲み込まれてしまったりしていることに気づくでしょう。あなたがそんなことをするのは、孤立させられ、今まさに死にそうになってきる自我(エゴ)が不安を感じているせいです。しかし、能動性や受動性といった心の習慣から自由になると、あなたは自分本来の静かな注意の状態になってゆくでしょう。

 では、完全に無念無想にならなくても、この本来の注意の状態になれるのですか?

 この状態は思考の不在によって起こるのではありません。それは、その中で思考が現れては消えていく場です。それは思考の「背後に」あります。ですから、無理やり心の揺れ動きをなくそうとするのではなく、ただ頭の中を明瞭にしていてください。単にすべてを歓迎するような開放性を保ってさえいれば、自分のネガティブな感情や欲望、恐れなどを受け入れ、理解できるようになるでしょう。ひとたび無方向的な注意の中で受け入れられれば、これらの感情はひとりでに燃え尽きてしまい、後には静寂だけが残ります。現れてくるものすべてに気づくように、注意深くしていてください。すると、まもなくあなたは自分が思考に巻き込まれることなく、それを傍観していることに気づくはずです。これが事実として確立すれば、思考が生じようと生じまいと、あなたはそれに縛られなくなります。

p65から

 進歩しよう、向上しようと努力すればよけいに混乱するだけです。外面的な部分だけを見ていると、自分は不動の状態に達したとか、自分にはさまざまな変化が起こっているとか、私たちは進歩しているから恩寵は目の前だとか思うかもしれません。しかし、実際には何も変わっていません。私たちは自分の持っている家具を並べかえただけです。これらはすべて心(マインド)の中で起こる活動であり、想像の産物です。
 本当にするべきことは、それよりはるかに簡単です。なぜ、それをそんなにややこしくするのでしょうか? 本来のあなたは、いつもここにあり、いつも完璧です。それを浄化する必要はありません。それは決して変わりません。なぜなら、真我には暗闇がないからです。あなたは真理を発見することも、それになることもできません。なぜなら、あなたは真理だからです。真理に近づくためにすべきことは何もありません。学ぶべきこともありません。自分は絶えず、本当の自分から遠ざかろうとしているのだと気づいていてください。投影するために時間とエネルギーを浪費するのをやめてください。それをやめて生きてください。怠けるのでも受動的になるのでもなく、清明で目覚めた意識で生きるのです。この目覚めた意識は、予想されたり期待したりするのをやめると見つかります。これもまた、あなたにとってのサーダナです。
 現実には改善の余地などありません。それは完璧そのものです。それなのに、いったいどうすれば、あなたは今以上完璧さへ近づくことができると言うのでしょうか? あなたが完璧さに近づく方法などありえません。

p77から

 どうすれば自我の考えを捨てることができますか?

 私たちの中には、錯覚による根深い信念体系があります。それは、対象や私たちの周りにあるものはすべて自分とは分離していて、自分の外にあるというものです。さらに私たちは自分を身体や感覚、心などと同一視し、私とあなたが分離した世界を作り出します。この私たちの信念を最大限に広げ、自分の感情や身体、思考などを、他の木や鳥などのような対象として見ることは、初めのうちは非常に役に立ちます。そうすることによって、私たちと心身との非合理で密接な関係の間にいくらか距離を置くことができるからです。
 やがて私たちは、自分の思考、「私」という考え、感情、好き嫌いなどは皆等しく、知覚の対象なのだとわかります。そして、この観点によって、私たちは自然に、「自分は知る者である」と認識し、個人的な実体であるという考えはまったく無意味になります。

p179から

 何をして何を考えていても、私たちは気づき(アウェアネス)そのものです。それなのになぜ、気づきになろうとしたり、それについて考えたりするのですか? もし、私たちが気づいていなければ、私たちは自分自身がどんな状態にあるのか、知ることができなかったはずです。もし、気づきがよくある精神機能の一つに過ぎなかったら、それは他の機能と同じように消えてしまったでしょう。しかし、気づきは決して消えません。私がこのことをあなたに証明しようとすれば、どうしても議論になってしまいます。気づきであることこそが証明だからです。しかし、気づきを発見する方法を教えることならできます。ですから、私を信じてください! 最初は受け売りの情報になるでしょう。しかし、人の言うことをずっと信じているだけではなりません。それを自分のものにしてください。

ちょっと引用しすぎました。ここまで読み返してみて、良い本だなあ、と改めて気づかされます。ジャン・クライン、フランス・ルシール、ルパート・スパイラは、同じ系列の人たちで、同じような説き方をします。それは決して平易ではないのですが、どうしたらそれを理解できるのかを詳しく説いています。

そしてまたこの三人は、師を持つことの大切さも説いています。今の時代、ネットの発達により、本を読むだけでなく、サイトやYouTubeで彼らが教えていることを詳しく学ぶこともできるし、ネット経由でミーティングやリトリートに参加することもできます。はたして師を持つことがそれほど必要なのかとも思います。

私の場合は幸運にも師(セイラーボブ)に巡り合うことができ、師のもとに長く滞在することができました。最終的にはセイラーボブが何を教えているのかも理解できました。ただ、メッセージ以上にありがたかったのは、セイラーボブが本当に非二元を体現して生きているのを間近で見ることができたことです。また、カリヤニとピーターの存在も大きかった。一言で言うなら、伝染する安心感のようなもの。

実際に師と面と向かって対話するのが一番良いとは思うのですが、実際に会わなくても自身の師となるべき人を見つけて、本や YouTube で深く学べば十分な気もします。非二元を教えている人はたくさんいます。でも、師と呼べるような存在に巡り合うことは、非常に難しいことのように感じます。ましてや近くで親しく交わることはもっと難しいのではないでしょうか。

Amazonの著者紹介
ジャン・クライン Jean Klein
1912年10月19日、ドイツのベルリンで生まれる。
ラマナ・マハルシとクリシュナ・メノンの伝統を継ぐ
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論・学派、哲学)のマスター。
ノンデュアリティー(非二元)に関する著作が多数ある。
インドで数年間過ごし、アドヴァイタとヨーガを深く究めた。
1955年、ついにノンデュアリティーの真理を体得。
1960年からヨーロッパで、その後にアメリカで指導を始めた。
1998年2月22日他界。


YouTubeでJean Kleinを検索すると、かなりたくさんの動画が出てきます。たくさんの映像が残っていて驚きました。生前から結構有名だったようです。どんな人か。一つだけ貼り付けておきます。

古閑博丈さんのブログには、ジャン・クラインのインタビュー記事があります。

2024/03/26

TEDTalks- ヘザー・ラニエ: 物事の「良し悪し」は思い込みに過ぎない


日本語字幕付きのものが貼り付けできません。日本語字幕付きは以下で見てください。


とても良かったので、転載させていただきました。もしよかったら見てください。

2024/03/22

「存在し、存在しない、それが答えだ」ダグラス・E・ハーディング

TO BE AND NOT TO BE

65ページまで読んで挫折しました。何のことを言っているのかよくわからない箇所が何か所もあって、読み進められませんでした。日を改めて再度読もうとしましたが、無理だったので、ところどころ拾い読みしましたが、全部通して読んではいません。

高木悠鼓さんの本は何冊も読んだことがあり、いつも読みやすいと思っているので、翻訳のせいではなく、原文がそうなっているのだと思います。私の場合、非二元の本を読んでいて挫折するのはよくあることで、「I AM THAT」も「意識は語る(あ、これも高木さんでしたね)」も挫折しました。科学の本では「時間の終りまで」や「すごい物理学講義」で挫折。

私は神経が細かいというか几帳面というか、ちゃんと理解できないと読み進められない性分。せっかく買った本なのに、読めないという敗北感は大きいのですが、読めないということがわかっただけでもよしとします。

ちゃんと読んでないのに内容を紹介するというのは僭越ですが、読んだ範囲で紹介すると、この本はもともとは一話読み切りの記事として雑誌に掲載されたものを集めて編集したものだそうです。書下ろしのエッセイ風の文章があり、その中に言葉による説明・図解・実験があって、それによって読者が自分の本質とは何かを見るように意図されています。

文章はキリスト教に関するものが多く、引用もイギリス文学からのものが多いため、おそらくイギリスの国内で販売された雑誌に掲載されたものではないでしょうか。あまり馴染みのない話ばかりで、そのあたりも読み進められない一因かもしれません。話の内容は非二元に限定されたものではなく、スピリチュアル一般に対するダグラス・ハーディングの世界観が中心になっています。

私はかつて高木悠鼓さんが日本で主催されたダグラス・ハーディングのワークショップに出たことがあります。正確な日時はわからないのですが、場所は京都でした。ネットで調べると、1996年4月にダグラス・ハーディングは東京でワークショップをやっているので、おそらくその前後だと思います。

どういう経緯でそのワークショップを知ったのかはよく覚えていません。ダグラス・ハーディングの本を読んだあと、おそらくブッククラブ回のニューズレターかなんかでワークショップを知ったような気がします。当時はまだエンライトメントを探していたころで、ダグラス・ハーディングは覚醒した人だと思っていました。

何を読んだかはまったく覚えていませんが、当時、内容はまったく理解していませんでした。まだ、非二元なんて言葉は一般的になっていなかったと思います。ワークショップは昼食をはさんで一日。通訳はヒューイ陽子さんでした。ワークショップでのダグラス・ハーディングは、普通の洋服を着た英国人で、覚醒した人というのはローブでも着ているものだと思い込んでいた私はちょっと拍子抜けした感じがしました。

ワークショップの内容はまったく覚えていませんが、何のことを話しているのかさっぱりわからなかった記憶があります。紙袋の両端から二人でのぞき合って何かしましたが、何のためにそれをやっているのか理解できませんでした。ワークショップが終わったあとは、すっかりダグラス・ハーディングのことは忘れていました。20年後、セイラーボブのところへ行き、ボブの口からダグラス・ハーディングの名前をたびたび聞くにつけ、彼が非二元の教師だと知りました。セイラーボブはダグラス・ハーディングと面識があります。ダグラス・ハーディングがメルボルンでワークショップをした時に、その準備をサポートしたと言っていました。

ダグラス・ハーディングのワークショップの資料をネットであれこれと調べていたら、高木悠鼓さんのYouTubeチャンネル(シンプル堂)で、ダグラス・ハーディングの1996年4月の東京でのワークショップの動画が公開されているのを見つけました。このブログに貼り付けできないので、高木悠鼓さんのYouTubeチャンネル(シンプル堂)で見てください。


この動画は二日間のワークショップを27本の動画に分けて公開されたもので、それぞれが約20分あります(27本×約20分)。本を挫折した私は、動画ならなんとかなるかと思って全部見ました。通訳の方はおそらくヒューイ陽子さんではないかと思うのですが、とてもわかりやすく、すばらしい内容でした。

ダグラス・ハーディングは、簡単な実験を使って参加者を覚醒へと導きます。ダグラス・ハーディングは「覚醒する(awake)」という言葉を使うのですが、こんな覚醒なら大歓迎です。むしろこれこそが本当の覚醒なのだと思います。

ダグラス・ハーディングは、「非二元」だとか、「あなたはいない」というフレーズを使いません。実験によって、本当の自分はなんであるかを参加者が自分で気づくようにと導いていきます。そして最後には自分が何であるかを教えてくれるのですが、ネタバレになるといけないので書きません。ぜひとも動画を通して見てください。

私が参加した京都のワークショップは一日で終わるものでしたが、この動画のワークショップは二日続きのもので、ダグラス・ハーディングの奥さんやアラン、エリックといった人たちも出てくるので、私が受けたワークショップとは内容が違うのかもしれません。あるいは京都は短縮版だったのかも。

ダグラス・ハーディングが、「非二元を生きる」とはどういうことかについて語っている場面はとても参考になりました。また、奥さんの話もよかった。Urban Guru Cafeにはキャサリン・ハーディング が4回登場します。どうして奥さんが話すのかよくわかっていませんでしたが、キャサリンもダグラスと一緒にいろんな国でワークショップをやっていたのだということがわかりました。

この動画の公開は11か月前で、比較的最近です。おそらくそれ以前は有料で販売されたものではないでしょうか。この動画はそこらの非二元の本よりも、はるかに非二元の理解に役に立つものだと思います。

京都でダグラス・ハーディングのワークショップに出てから28年たって、やっとダグラス・ハーディングが何を教えていたのかを理解しました。1996年当時、「非二元」という言葉はまだ一般的ではなかったし、非二元関連の本はまだ多くなかったと思います。ラマナ・マハルシ関連やダグラス・ハーディングの本はありましたが、「非二元」という言葉では分類されてはいませんでした。非二元の本がさかんに翻訳され始めたのは2010年以降ではないでしょうか。ニサルガダッタもトニー・パーソンズもまだ翻訳されていないはるか以前の1996年にダグラス・ハーディングを日本に呼んだこと、しかも今それを無料で見られることを高木悠鼓さんに感謝します。

今はダグラス・ハーディングが何を言っているかわかるのですが、1996年当時の私が理解できなかったのも無理はないかと思って動画を見ました。探しているものや場所が全く違っていました。言うならば、ダグラス・ハーディングは私にとって28年先の教えを教えてくれていたわけで、私には時期尚早、エンライトメントを探して暗闇をさまよっている時期でした。やっとこの動画が理解できる地点にたどりついたところです。

あまりにも貴重な動画です。ぜひこの動画を見ることをおすすめします。

 Amazonの著者紹介
ダグラス・E・ハーディング(Douglas E.Harding)
1909年にイギリス生まれ。
厳格なキリスト教原理主義の家庭に育ったが、
21歳のときに独自に人生を探求するために、自分の宗教と決別した。
30年代、ロンドンで建築の仕事をしていたとき、自分とは本当は何なのかに興味をもった。
そして30代の前半、仕事でインドに滞在していたとき、自分の本質に覚醒する。
以後建築の仕事を続けながら、人間の本質と宇宙の構造について研究を続け、
53年にその研究をまとめたThe Hierarchy of Heaven and Earth(天と地の階層)を出版。
その後、一般向けに書いた『心眼を得る』(図書出版・絶版)は欧米でロング・セラーとなっている。
建築家を引退後は、著作活動をしながら世界中に招かれワークショップをおこなう。
90代になっても、「私とは本当は何か」を多くの人たちと分かち合うことに献身し、
2007年に97歳の生涯を終えた。


The Headless Way ー 頭がない方法 (高木悠鼓さん主催)


シンプル堂サイト(ダグラス・ハーディングは高木悠鼓さんが詳しく紹介してみえます)

2024/03/19

目覚めるということは

目覚めるということは、人生の海に浮かぶどんな波からも自己を防衛できないこと、本当のあなたという存在はとても広大で無条件で自由であるために、あらゆるものがそこにあることを許さずにはいられないことを認めることだ。
        ジェフ・フォスター(もっとも深いところで、すでに受け容れられている

3月9日名古屋栄。 名古屋ウィメンズマラソン前日とあって、参加者らしき人を何人か見かけました。

2024/03/15

あなたは開かれた空間

時代を超えてあらゆる真のスピリチュアル・ティーチャーが思い出させてくれているように、本当のあなたは分離した人物ではなく、個としての自己ではない。考え、感覚、音、感情といった体験の小さな波すべてが生まれては消えていく開かれた空間なのだ。あなたは、まさにあなたが探し求めているものそれ自体である。
          ジェフ・フォスター(もっとも深いところで、すでに受け容れられている

3月9日名古屋プリンセス大通り。オカメザクラが満開でした。

2024/03/12

「もっとも深いところで、すでに受け容れられている」ジェフ・フォスター

もっとも深いところで、すでに受け容れられている

この本は正直ちょっと手ごわい本でした。373ページもあって、全部が書下ろしになっています。たいていの非二元の本には質疑応答の部分があって、質問に対して答えが展開していくパターンが多いのですが、その場合は何について話しているのか展開が読めます。でも、この本は話の展開が予想できない上、説明が長い。よく言えば詳細かつ緻密に説明が続くのですが、悪く言うと冗漫で繰り返しが多い。

私は非二元の本を読む場合はなるべく先入観を持たないようにと、全部読み終わるまでは著者のプロフィールを読んだり調べたりしないのですが、この本の場合は読むのがしんどくなって途中で調べました。驚いたことに、この人は1980年生まれで今年44歳です。YouTubeもちょっと見てみたのですが、若い。一体何歳の時にこの本を書いたのかと元本の著作権を見ると2012年。32歳の時にこの本を書いている。

では一体何歳でここまでの理解に到達したのか。Wikipediaによると、20歳の頃に鬱をわずらい、様々な本を読み、26歳の時に分離の感覚が消えたのだという。その後、何冊かの本を書き、ミーティングやリトリートを主催して32歳の時にこの本を書いている。驚きました。セイラーボブは現在95歳。トニー・パーソンズは91歳。このブログに掲載した非二元の教師で存命の人は大半が70代です。ティモシー・フリークは比較的若いのですが、それでも63歳です。

非二元の教師として有名な人は、悩みや問題を抱えてあれこれと探求して、試行錯誤を繰り返してやっとの思いで非二元にたどり着く、というのが私のイメージです。それを26歳でたどり着いた。それがわかって、彼の本の手ごわさの原因がわかった気がしました。若さゆえの情熱、冗漫さ、多弁さなのではないでしょうか。手ごわい本ではあるものの、内容は非常に良いと思います。本の紹介のため、少し引用させていただきます。

p58から

 たまに、私にどうやったら悟りを得られるのかと聞いてくる人たちがいる。その人たちは、私が悟りを開いていると信じていて(私がそうだとは決して言ったことはないのだが)、どうやったら私のようになれるのかを私が教示できると思っている。そこで私はよく、「そうですね、では悟りという言葉はどういう意味ですか? 悟りを得ると、あなたの体験はたった今のありのままの状態とどう違ってくるのでしょうか?」と言う。そうすると、こういった返答がよく返ってくる。「悟りを得たら、恐れがなくなるのだと思います。悲しみや苦痛が消えていくのだと思います。悟りが、自分自身にまつわるあらゆる悪いことを取り払ってくれるのだと思います」
 わかるだろうか、誰しも本当に「悟り」を得たいとは思っていないのだ。望んでいるのは、今現在ある不満足、悲しみ、痛み、怒り、欲求不満、倦怠感といった気持ち、あるいは愛されていない、望まれていない、満たされていないといった気持ちから逃げること──要は、苦しみを終わらせたいのだ。それなのに、その苦しみにたった今真正面から向き会うことをしないで、その中にある全体性を見ないで、将来やってくる出来事や状態、体験が苦しみを終わらせてくれるのを待っている。その人たちは、誰しも皆そうであるように、ただふるさとへ帰りたいだけなのだ。ところが、自分のストーリーの中で、将来たどり着けるふるさととして、悟りを得るという発想に固執しているのである。

普通、非二元の教師は、「あなたが私だと思っている私は実在ではない」というようなことを最初に言っておいて、なぜそうなのかという説明をするというパターンで話を展開させていくが、ジェフの場合はそうではない。最初に人々の持つ悩みや問題から入っていく。そして、その背後には何があるのかを解き明かしていき、最終的に「あなたは開かれた意識の空間である」というところへ話をすすめていく。その説明は理詰めで続いていき、もちろんそこにはエンライトメントも覚醒もない。この説明はとてもわかりやすい。私もジェフの言うように、悟りを求めていたのではなく、苦しみから解放されたいだけだった。

p80から

 次に、受容という観念をもっと深く見ていこう。その言葉は、だいぶ間違って解釈されているように思える。
 海としてのあなたという存在は、すべての波を受容しているということになる。それは単に、海はすべての波そのものであるからだ。つまり、受容する以外に選択肢はないのだ! 海は、ある波を受け入れてある波を拒絶するなどということはしない。それは無条件の受容であり、受容に関して人が持っている観念をはるかに超えたものだ。海が受容するということは、非受容か受容かといった相反する概念を超越している。受容とは海と切り離せないということであり、それゆえ相反するものは存在しないのだ。すべての波が、海によってすでに受容されている。そして、本質的にはあらゆる波がすでに受容されているという事実こそが、この本の言わんとすることのすべてだ。これが生命の最も深い受容であり、それは個としてのあなたが実現できるものではない。
 実際ここで扱っている問題は、この最も深い受容を実現しようとすることではなく、あらゆる体験の中でそれを認識すること、それがわかること、それが気がつくということだ。深い受容を実現する必要などない。それはすでに起こっているのだ。後は、この瞬間、すべての瞬間に、すでに起こっていることにただ自然のままに気づくだけだ。体験のあらゆる波、あらゆる考え、あらゆる感覚、あらゆる感情、あらゆる音、あらゆる匂いはここに存在することがすでに許されている。波が現れるときには、あなたという存在によってすでに受け入れられているのだ。波がやってくること自体がすなわち受容である。水門はすでに開かれていて、この瞬間は、たった今あるがままの通りになることが許されている。人は、すでに許されていることしか体験しないのだ!
 あなたという存在は、すでに今の瞬間をありのままに受容している。あなたという存在は、あるがままをすでに受け入れている。そうでなければ、今現れていることは現れていない。あなたという存在は、今現れているものがどんなものであれ抵抗することはできない。というのは、それが今現れているすべてであるからだ。すべてのものが、あなたという存在にとって、決して抵抗できないものなのだ。
 私が受容について話すとき、私たちがこれまで条件付けされて理解しているような意味では受容という言葉を用いていない。その言葉は新しい意味合い、つまり、この生命の最も深い受容を指し示している。それはすでに起こっている受容、許しだ。私があるがままを受容して許すことを提言するときは、それがあなたの注意をその事実に向けさせる近道だからだ。事実とはすなわち、この瞬間、思考や感覚、感情、視覚、音、匂いはすでにここに存在することを許されているということである。なぜなら、それはすでに現れているのだから!
 思考や感情を受容することとは、この瞬間に、そういった思考や感情がすでに受容されている、すでにそこにあることが許されているということに、ただ穏やかに、自然のまま気づくことだ。それはすでにそこにあるのだ。受容することとは時間をかけて達成されるものではなく、決して終わることのない今の瞬間の現実である。
 あなたという存在が受容そのものであるがゆえに、あなたが受容することなどできない。あなたは実際分離した人物ではなく、あるがままのあなたそのものがこの瞬間に対する肯定なのだ。

ここでジェフの言う「海」とは個人として現れているように見えている個人のことであり、「波」とは、その個人に起こってくる様々な事象のことです。あらゆる波はどれも海の中に起こっているものであり、それを変える必要もないし、変えようとしても無駄だと言っています。

私たちは、何か嫌な思いや感情、問題が起きると、何とかしてそれを変えようとします。でも、そうした波を変えようとすること自体が無駄だと言っているのです。それはすでに受容されていると言っているのです。つまり、あるがままです。

p168から

 私が言っている自由とは、そういうことではない。それは、ありのままの人生から逃避することや、自分でないものでいるふりをすることとはまったく関係ない。自由とは、完全に、徹底的に正直でいることに尽きる。すなわち、現実をありのままに見ること、それを(認めるという言葉が持つ二つの意味において)認めることだ。認めるとは美しい言葉だ。それには、「真実を伝えること」と「許し入れること」という二つの意味がある。今起こっている体験を認めること──実際に今何が存在しているかについて真実を伝えること──とは、今存在しているものは人生の中にあることが認められている。そして、それらの波の存在を認めることこそが、ここで教えていることの絶対的な中核だ。目覚めるとは、要は本当の自分という存在を認めることなのだ!
 本当の癒しとは、苦しみから逃避して、未来のどこかで全体性に到達することではない。それは、たった今、ここで、苦しみの真っ只中に全体性を見ることだ。「whole(全体)」と「heal(癒し)」の語源が同じであるのも不思議ではない。癒されることとは、全体性を今ここで再発見することなのだ。真の癒しとは、痛みから逃避して未来にある全体性に到達することとはまったく違う。最初にどんなにか逆説的に聞こえたり直観に反するように思えたりするかもしれないが、真の癒しは実際まさに痛みの中にある。
 あなたは、「いつか」癒されるのではない(繰り返すが、それは探求者の声だ)。あなたはすでに癒されている。あなたという存在は、たとえそれに気づいていなくても、すでに全体そのものだ。それは、海にある波が海そのものからずっと切り離せないのと同じことだ。痛みの中にあるときでさえ、あなたは癒されている。

p204から

 痛みと病気は、人生のストーリー、コントロールすることのストーリーを粉々に打ち砕いてくれる──ここが本当に大切なポイントだ。痛みや病気で苦しんでいる裏にあるのは実は、こうあるべきだったのにという夢に対する嘆きである。こうあるべきだった、今はこうあるべきだ。将来はこうあるべきだといった観念を持たなければ、そこにあるのはただあるがままだ。人生で向き合わなければいけないのは、この瞬間の絶えず変化し続ける風景だけなのだ。そして、私たちはこの瞬間があるべき姿とちょっと違うなどと知る由もない。この状況は今ここにあるような形になるはずではないなどということがわかるはずもない。私たちの人生が宇宙のどんな種類の台本からもは逸れてしまったなどということがわかるはずもない。そもそも宇宙の台本などというものが存在するのかもわかりえない。
 病気のストーリーや、人生の計画通りにいっていないというストーリー、こうあるべき、こうあるべきでないとう概念を超えて、私は今ここにいる。呼吸をしている。心臓が鼓動している。音が聞こえる。あらゆる思考、感覚、感情が舞っている。痛みも多少あるだろう、恐怖も多少はあるだろう。愛されていない気持ち、捨てられたような気持ち、絶望的な気持ち、弱々しい気持ち、疲れ果てた気持ち、寂しい気持ちもあるだろう。次にどの波が浮かんでくるのかは誰にもわからない。ここにあるこの空間の中ですべてが深く受容されているということが偉大なる発見なのだ。たとえ起こっていることを受容できないと今は感じていても、今起こっている体験はいつでも本当の私という存在によって深く受容されている。本当の私という存在は、すでにすべてをその中で許していて、すべてを承知している。生命の水門は永久に開かれている。だから、今現在の体験に意識を戻してみたとき、たとえたった今それを耐えられないように感じるとしても、この瞬間が耐えられないということは決してない。それは、まさに海にとってたえられない波などないのと同じだ。本当の私という存在は、すべてのものを包み込み、許し、認める。痛みや病気のなかでさえ、そこには人知を超えた平和が存在する。

あれこれ事情があって、私は痛みや病気に対していつも大きな不安を抱えています。重い病気になったらどうしよう。痛みに耐えられるだろうか。非二元の理解はどうなるだろうかと。でも、この文章を読んだ時、きっと大丈夫だろうという気になりました。病気になったら病気のまま生きていけばいいし、痛かったら痛いまま生きていけばいい。それをどうこうしようとジタバタせずに、治療を受け、良くても悪くてもあるがままに生きていけばいいという気になりました。

この本はくどい本なので、今回は特別許していただいて、くどいほど引用させていただいています(もちろん良い本ですので、ぜひ読んでください)。

p361から

 悟りとは、すべての波を受容できるほど強くあることとはまったく関係ない。それは、どんな形であれ、波をコントロールすることとは違う。今の瞬間から逃避することではない。悟りを得た人という自分のイメージを掲げて、いかに自分が四六時中スピリチュアルで恍惚状態にあって平和な気持ちでいるかを証明することではない。それは本当のあなたという存在──徹底的なオープンさ、傷つきやすさ、無防備さ、弱さ──を発見することであり、ある意味、今浮かんでいる波から逃れることがますます不可能になることだ。しかし、この弱さは本当の弱さではまったくない。この弱さの中にあるのが最大の強さなのだ。それが、生命の最も深い受容である。この受容を「行う」必要はない。あなたはそのようにできているのだ。

この文章はあと6ページほど続いてこの本は終わります。その最後の6ページがとてもすばらしい。最後まで引用させてもらおうかと思ったのですがやめました。というのも、この最後のページがこの本の核となる部分であり、そこを全部引用するのはよくないだろうと思いました。

それに、この最後のページは、長々とこの本を読んできた人のご褒美のようなもので、そこだけ抜粋してもよく理解できないのではないかという気がします。興味のある人はぜひ本を手にして読んでみてください。

私たちは苦しさから抜け出したいために探求をして、やがて非二元の教えに出会います。非二元を理解すれば、心は平安になり、もう二度と悩むことなどないだろうと期待します。でも、そんなことは起こりません。問題や悩みは以前と同じように起こってきます。でも、ジェフ・フォスターは、そうした問題や悩みもすべて含めて、あらゆることは「もっと深いところで、すでに受け容れられている」というのです。二十代でこの理解に到達したなんて、なんとすばらしいことでしょう。

Amazonの著者紹介
ジェフ・フォスター Jeff Foster
イギリス、ブライトン周辺に在住。ケンブリッジ大学で天文学を学ぶ。
長く鬱を患ったのち、20代半ばスピリチュアルの悟りの概念に夢中になり、実存の究極の真実に対する徹底的な追及を始める。
ワトキンス・レビューによる、世界の「最もスピリチュアルな影響力のある現存する100人」の2012年の投票で51位。



2024/03/08

解放は起こる何かではありません

解放は起こる何かではありません……それはすでにあります。しかし探求者にとっては、それはまだないと信じられているわけです。探求者がいないとき、解放だけがあること、存在だけがあることが、誰でもないものによって見られるのです。ですから、肉体 ー 精神が夢見る人として機能することをやめるとき、このことの深部にあるのはただ存在だけです。
             トニー・パーソンズ(何でもないものがあらゆるものである

名古屋駅 笹島交差点 左側の低いビル群は再開発取り壊し予定です。

2024/03/05

誰も目覚めを経験しません

誰も目覚めを経験しません。なぜなら、誰も目覚めないからです。目覚めはそれとともに誰もいないという理解をもたらすのです。
              トニー・パーソンズ(何でもないものがあらゆるものである

                多治見駅 陶壁 多治見は焼き物の街です。

2024/03/01

「何でもないものがあらゆるものである」トニー・パーソンズ

何でもないものがあらゆるものである

私は高木悠鼓さんが翻訳された「ただそれだけ」を読み、メルボルンへセイラーボブに会いに行き、非二元の教えを学ぶことができました。非二元もセイラーボブもすべて高木さんが翻訳された本から始まったことです。感謝に堪えません。高木さんの仕事はいつも先駆的ですばらしと思うのですが、この本もまたすばらしい本でした。いつもながら、高木さんの翻訳はわかりやすくて読みやすい。

本の内容はすべて質疑応答になっています。質問者の質問も適切なものが多く、その質問に対してトニーは徹底的に「私」を排除するように答えていきます。

本の紹介のため、少し引用させていただきます。

p30から
 あなたは見かけの分離した個人としてここに来て、そこで座って何かを探し求めていると仮定しましょう。それはすでにこれです。起こっているように見えることは何であれ、これです。起こっていることは何であれ、この部屋の誰にも起こっていないのです。この部屋には何かが起こっている誰もいないのです。起こっていることがあるだけです。これが空間です。これが空っぽさです。これが何でもないものです。ここに座っているのは何でもないものであり、その何でもないものの中に起こっていることは、肉体の感覚、音を聞くこと、感情を感じること、考えることです。考えることもまた誰でもないものに起こります。誰も今まで何も考えたことがありません。なぜなら、誰もいないからです。ですから、考えること、感じること、この声を聞くことが起こっているのです。
 あるものすべては、生命が起こっているのです。あるものすべては、生の感覚です。生の感覚は存在です。それ以外には何もありません。そこに座っているのは生の感覚だけであることが、突然に見られるかもしれません。誰もあなたに生きていることを教えることはできません。ただ存在だけがあるときに、あなたに在ることを教える傲慢さを誰がもっているでしょうか? あなたは変わらなければならないと言う傲慢さを誰が持っているでしょうか? 何でもないものとあらゆるものだけがあります。これは理解を超え、人間のハートと心(マインド)を超えています。
 私たちは一緒に話し合い、言葉を使うことができますが、言葉は超越した何かを指摘したり、指摘し続けるだけでしょう。言葉は分離があるという心の中の幻想を破壊するかもしれません。なぜなら、心は物語作家であるからです。ここで崩壊する可能性があるのは、分離した個人といったものがあるという観念です。もちろん、為される必要がある何かがあるとか、かつて何かをやったことがある誰かがいるという観念も崩壊します。
 ですから、達成すべきことも、理解すべきことも何もなく、存在しているのはこれです。ただこの生の感覚が誰のためでもなく、わき起こっているのです。
 解放はエネルギー的な転換です。それは向こうの世界にいる分離した誰かであるという収縮から、ただあらゆるものがあるという自然で非常に普通の感覚へ戻る転換です。ですから、その収縮があらゆることの中へ拡大し、あなたが自分だと思っていたものがあらゆるものになるのです。
 このコミュニケーションはトニー・パーソンズとは何の関係もありません。それはトニー・パーソンズが所有しているものでも、達成したものでもありません。それは個人的な努力や活動を知ることとは何の関係もありません。トニー・パーソンズはこの部屋の中の他の誰とも何の違いもありません。トニー・パーソンズはその腕を振り回しながら話している単なる肉体精神機構にすぎません。
 問題は、探求するときに私たちはあらゆることを個人化することです。私たちはこんなことを言いがちです。「私に何が待ち受けているのか? 私はこれから抜け出るために何をすることができるのか? 私はこれになるために何をしなければならないだろうか?」。これが混乱です。あなたは何もする必要がありません。なぜなら、あなた──これ──はすでに為されているからです。それは為されています。生の感覚が起こっています。存在がシンプルに在り続けています。
 そして、自分は何かを見つけなければならない、何か新しく異なったことを見つけなければならないといつも思っているこの探求者が抜け落ちるとき、突然そこに完全はくつろぎがあり、これであるという完全な喜びの中に落ちるのです。存在を知るということではなく、ただシンプルに直接的に存在します。

この本を読む時は、「何でもないもの」「あらゆるもの」「存在」という言葉の裏にある原語の意味を頭の片隅に起きながら読むといいと思います。本の表紙のデザインを見てもらうとわかるとおり、「何でもないものがあらゆるものである──無、存在、すべて──」という題名の下に、nothing  being  everything という単語がデザインされています。

つまり、「何でもないもの」の原語はnothing (無)、「あらゆるもの」はeverything (あらゆるもの)、「存在」はbeing(存在)です。その意味を読者に感じて欲しいからこそ表紙にデザインされているのだと思います。nothing という言葉はセイラーボブも頻繁に使います。このブログの中でも何度も出てきたのですが、いつもどう訳したらいいのか迷います。英語のnothingは、「無」「空」という意味と「つまらないもの」という意味があり、英語ネイティブが nothing と聞けば、その両方の意味が頭に浮かぶはずです。

それを訳す場合にはどうしたらいいのか困ります。私の場合、適当な訳語が思いあたらないので、「何ものでもないもの/無」としてブログに書いています。高木さんの「何でもないもの」という訳語は、なるほどなと思いました。その「何でもないもの」が「あらゆるもの」であるというのは非二元の教えの本質であり、別の言葉で言うなら、一つのものです。

「生」という言葉はセイラーボブもよく使います。おそらく言語は「 life 」だと思います。私のブログでは「生」あるいは「命」と訳していますが、やっぱり「生」という言葉の方がしっくりくるとわかりました。

そしてもう一か所引用させていただきます。

p100から
 ですからこれは、あなたや私や誰かが何かを得るというメッセージではありません。これは何も得るものがないという理解です。……求められてきたものは、決して失われたことがないという理解です。
 これは求めることや求めないことについてではありません。それはアドヴァイタや非二元主義という概念を超え、気づきや注意深さの状態に到達するという観念も超えています。どんな目標もありませんし、何も提供されていません。これは知ることを完全に超えています。どんな目標もありませんし、何も提供されていません。これは知ることを完全に超えています。ですから、これは個人としているには最悪の場所です。なぜなら、希望するものが何もないからです。
 これは本当は描写です。つまり達成を超えている何か、失われたり、掴まれたり、獲得されたりできない何かの描写を、みんなで分かち合っているのです。
 分離があるかぎりは喪失感があり、完全ではない何かがあるという感覚があります。ですから、探求者はその空虚感を何かで埋めようとします。そして、一部の人は「悟り」と呼ばれている何かを待望します。なぜなら、悟りがこの喪失感を満たしてくれるものになるかもしれないと感じられるからです。それは私たちがまったく理解しないある秘密への答えになりうるだろう、というわけです。
 私たちが悟りについて読むとき、まるで誰かがその秘密を発見したかのように聞こえます。でも、そんな秘密を発見した人は誰もいないのです。
 悟った人というような人はいません。それは完全に間違った概念です。しかし問題は、探求者をやっていると、探求のエネルギーのせいで、私たちは誰か他の人が発見した何かを自分も見つけることができるという考えに押しやられ、惹きつけられます。なぜなら私たちは、努力は結果を生むと信じながら成長したからです。ですから、もし努力が結果をもたらし、私たちが悟りとか解放と呼ばれている何かについて聞いたなら、私たちは努力することができ、解放されたり、悟ったりすることができる……私たちが噂を聞いているすぐ近くに住むこの男とか、サットサンをしているあの女性のように。彼らは私が欲しがっている何かをもっている。もし私もあそこへ行けば、どうやってそれを得るのかを学ぶことだろう。
 夢の中では、悟りや解放は達成できる何かであるという考えがまだあります。ですから、あなたは選択をもつ個人であり、そして今、個人として自己探求や瞑想や何かをすることを選択でき、いずれ悟ることができるという考えを再強化する教えがあるのです。
 あなたは世界中へ出かけて、何か得るものを提供する教えを見つけることができます。しかしながら、探求者にまったく何も提供しない妥協なきメッセージを見つけることはまれです。
 この生の感覚は、何でもないものがあらゆるものであることです。それはただ生が起こっていますが、誰かに起こっているのではありませせん。ここで一組の全経験が起こっていて、それらは空っぽさの中で起こっているのです……それは自由落下の中で起こっているのです。それはただ起こっていることです。あるものすべては生です。あるものすべては存在性です。それをもっていたり、もっていなかったりする人は誰もいません。生をもっている人はおらず、他の誰も生をもっていません。ただ生があることだけがあるのです。

この本を読んで感じたのは、用語の使い方がセイラーボブとよく似ているということです。nothing, being, everything 、life (生)など。また、ボブのよく使う「intelligence energy(知性エネルギー」という言葉を他の非二元の教師から聞いたことはありませんでしたが、トニー・パーソンズは使っています。例えばp88。

どんなレベルでも誰もそれをやっていませんし、やっている人は誰もいません。それはただ知性的なエネルギーです。

そして、もっとも似ていると思ったのは、トニー・パーソンズもセイラーボブと同じように、妥協のない断固とした非二元の教師であり、質問に対してきっぱりと「私」や「時間」は存在しないと言い切るところです。質問者の「何かになる」とか「何かをする」という言葉に鋭く反応して、「誰もいない」「何も起こっていない」と言い切ります。

まるで、ボブの家の居間でボブの話を聞いているような感じがしました。私はトニー・パーソンズの経歴は知りません。調べてみたのですが、よくわかりませんでした。セイラーボブよりは6歳若いのですが、非二元の教師としてはボブよりも有名のようです。おそらく世界に知れたのも、トニー・パーソンズの方が先だと思います。セイラーボブはトニーの本を読んだことがあり、ある程度トニーの影響を受けているのではないかと思われます。それほど語り口が似ています。

個人的には、あれこれと説明する教師よりも、「誰もいない」「何も起こっていない」、以上終わり! と断定的に言いきるような厳格な非二元の教師が好きです。非二元の教えは結局のところ頭で考えても理解できないことであり、「なぜ?」は要らないのだと思います。「誰もいない」「何も起こっていない」と何度も聞いているうちに理解が起こってくるものだと思います。

これはちょっと蛇足ですが、以前このブログの中で書いた「深い森の中で一本の大きな木が倒れたとする。そして、そこには人間が誰もいなかったとする。その場合、果たして木が倒れる音がするだろうか?」(参考記事)という命題が誰の言葉なのかが本書の中で出てきたので書いておきます。

p178
森の中で木が倒れても、それを聞く人は誰もいない……(訳注:「誰も見ていない森の奥で倒れた木は存在しているといえるのか」というアイルランドの哲学者・聖職者ジョージ・バークリーの命題の引用)

もっと近代の人の言葉かと思っていたのですが、ジョージ・バークリー(Wiki)は結構昔の人なんですね。

Amazonの著者紹介から
トニー・パーソンズ Tony Parsons
1933年にロンドンで生まれる。
21歳のとき見かけの目覚めがあり、長年この「公然の秘密」を分かち合ってきた。
著書に『The Open Secret(公然の秘密)』『Invitation To Awaken(目覚めへの招待)』
『As It Is(あるがままに)』『All There Is(存在するすべて)』がある。



古閑博丈さんのブログには、トニー・パーソンズに関するいくつかの記事があります。

2024/02/27

自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない

探求のどの段階においても、根本的な視点が見落とされている。それは、<意識>である<あなた>によって演じられている個人こそが、まさにずっと探し求めているものだということだ。探求者が何をしたところで、自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない。
                    ネイサン・ギル(すでに目覚めている

名古屋ゲートタワー 巡回警備ロボット

2024/02/23

すでにはっきりと目覚めている

生という劇は、<あなた>が指揮しながら<あなた>が見ている<あなた>とは別の創作物ではない。<あなた>──<意識>──は、この瞬間に劇として現れていて、すでにはっきりと目覚めている。だから目覚めることなどできない。<あなた>は<あなた>自身にはいつでも明白だ。隠されていることはない。
                        ネイサン・ギル(すでに目覚めている)

名古屋マリオット(大治町のつるし雛

2024/02/21

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その3」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

 

いきなり興味深い話から始まりました。
話が非二元そのもの。この先が楽しみです。
全部を転載するわけにはいかないので、今後はあまり転載しないようにするつもりです。
もしよかったらフォローしてみてください。

2024/02/20

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い」

佐々木閑先生のYouTubeチャンネルで新しいシリーズが始まりました。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その1」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その2」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
 

 ミリンダ王の問いについては、このブログでは中村元先生のYouTubeを掲載したことがあります「2021.10.30 初期仏教 無我・五蘊(ごうん)」。そのYouTubeで見るかぎり、ミリンダ王の問いは非二元の教えの意味あいの強いものでした。

初期仏教には五蘊(ごうん)という基本概念があり、人間は五蘊という五種の要素(色・受・想・行・識)でできていて、そのどこにも個人としての「私」は存在しないというものです。

そのミリンダ王の問いを、佐々木先生がシリーズで解説してくださいます。どんな話になるのか楽しみです。すでに、その2ではその片鱗が語られています。もしよかったらフォローしてください。

2024/02/16

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

この本は今まで読んだ非二元の本の中でも、とりわけ素晴らしい内容でした。最初から最後まで、いわゆる「行為者の不在」について説かれています。私たちは、「私」という存在が実在であるという催眠にかかっていて、それが人生というものを生きているように思っているが、実際には「私」はおらず、起こっていることは単なる劇のようなものだと言うのです。

最初の29ページが書下ろしになっていて、残りのページはミーティングの参加者との対話となっています。最初の29ページにネイサンのメッセージが凝縮されていて、あとの対話がその補足説明のような体裁になっています。本全体を通して、「私」は催眠によるものであり、実在しないということだけを説いています。あれもこれも説明するのではなく、「私」は実在ではないということだけを説いて、これだけ的を得た非二元の本となっている点は素晴らしいと思います。内容もよくてわかりやすい。

ネイサンは探求の途中で、いわゆる一瞥体験、自分がいないという体験をしますが、すぐに「私」が戻って来て混乱します。やがて、自分の本質は意識であるという理解に至り、どんな出来事も必要ではないという思いにたどり着きます。

本の紹介のために抜粋させていただきます。

p11から
 自分の本質を認識するのにどんな「出来事」も起こる必要はないとトニーは言っていた。そしてそのころ、1998年の9月にある事が起こった。僕は庭仕事をしていて、霧雨が降っていた。見上げると、「自分」がいないという微妙な感覚があった。自転車に乗って道を走りだすと、それはまるで映画のような感じだった。自分では何もしようとしていないのに、ひとりでに映画が進んでいるような。
「自分がそうやってふいに脱落してしまうと、理解したいという欲求はすっかり消え去った。自分の本質が<意識>だということを認識するのにどんな出来事も起こる必要はないとトニーは言っていたが、それでも僕がそういう出来事をどこかで待ち望んでいたのは明白だった。というのも、この出来事、この経験が起こったとき、それを僕は「目覚めの認可」としてとらえたからだ。自分でも気づかずに、自分の本質を確認してくれる何かが起こるのを待っていたのだ。
 僕はトニーに電話して、何が起こっているかを興奮気味に説明したが、「目覚めの認可」が起こったことで、言葉は「僕」の観点からではなく明晰さから生じていた。もはや僕が何かを手にしょうとしている分離した個人という視点──つまり探求と理解という観点から話しているわけではないことが、トニーにも伝わった。
 時間がたつにつれ、「僕」が巧妙に戻ってきて、この出来事──それはまさにその「僕」の不在だったのだが──は「僕」の悟りであり、「僕」の目覚めなんだと主張しはじめた。突然起こった解放感──「僕」がいない状態で生じた至福の感覚──に注意が集中した。その解放感こそが、ずっと待ち続けていた悟りなんだと。
 翌朝、目を覚ました。まだあるかな? ある! そしてそれから何日かすると、解放感が少しずつ消えつつあることに気づいたが、数日たつとその感覚は再び完全に戻ってきた。その感覚が戻ってきては消え、それから「僕」がまた現れて自分の不在という状態にしがみつこうとしたりするのが何週間か続いたあと、僕はトニーのミーティングに行った。そこにいると、至福の感覚がまた溢れてくる感じがした。けれども数日後にはすっかり消え去って、そこでまた「僕」としての催眠状態が起こった。トニーには何も言わなかったし、しばらくはミーティングにも行かず、僕は困惑していた。
 それから、「私」の不在が何年も続いた経験についてある女性が書いた本を読んだ。その経験のしばらくあと、その女性は「先生たち」から、それは悟りだと言われたという。やがて彼女は病気になって亡くなったが、彼女の友人が本に寄せたあとがきを読むと、亡くなる前にその出来事が終わってしまい、「私」が戻ってきたせいで、彼女は混乱して苛立っていたということだった。
「私がいきなり消えてしまうという出来事は、明晰さについて言えばむしろひどい混乱につながりかねないということが突然わかった。出来事は数秒で終わったり、10年かそれ以上続いたりするかもしれないが、「私」とは何かということ──単なるひとつの思考だということ──を理解せずにいると、「私」が戻ってきたときに、何かを失ったような感覚になったり、個人と同一化した状態に再び閉じ込められたような感覚に陥ったりする。個人と同一化していると、こうした「悟り」をもっと求めようとする感覚が生じて、探求という劇の興奮と緊張の中に戻った感覚も出てくる。
 そんなわけで、生のすべては大いなる劇なんだということがわかった。知だけが存在しているが「私」という思考、そして「私」のストーリーのように感じられるいろいろな思考による催眠のために、この知は見かけ上は隠されて見えなくなっている。<意識>としての僕たちの本質は、気づきであると同時に現れでもある。「私」というのはほかのあらゆるイメージと同じで、景色の単なる一部なのだ。その事実が見抜ければ、あるいはそれをありのままに見られるようになると、探求も緊張も自然に消え落ちる。
 もうひとつわかったのは、「私」を見抜くということは必ずしも突然の出来事として起こるとはかぎらず、生という劇の一部としてゆるやかに起こる場合もあるということだった。そうしたケースでは、溢れる至福という形ではなく、存在することの自然な気楽さが徐々にゆるやかにあきらかになる。
 混乱は消えた。自分の本質が<意識>だということを証明するためのどんな出来事も要らなくなり、「僕」が突然脱落する必要もなくなった。自分の人生も「スピリチュアル」な探求のすべても、<意識>の中の劇として生じているということは明白だった。そして、こうしたことすべてをめぐる混乱の意味、「霊性」や「悟り」が単純な明晰さとなぜ取り違えられてしまっているのかを理解した。自分の本質をそうやって認識することは、どんな出来事とも関係なかった。明晰さ──「私」や思考のストーリーの本質を見抜くこと──がなければ、どんな出来事もたちまち混乱のもとになってしまうこともわかった。
 庭で起こった出来事に特に重大な意味はないこと、どんな出来事にも意味がないことはあきらかだった。その出来事が起こったことで混乱状態が極限にまで達して、「認可」としての出来事が起こるのを密かに待っていたことがはっきりしたというだけの話だ。この明晰さは、「私」がいるかいないかによって左右されることはない。「私」が現れたとしても、それはありのままに見られるだけだ。
 この短いストーリーの締めくくりに。スピリチュアルな探求をしているあいだに僕は離婚し、結婚してまた離婚し、二人の娘が学校に通っていたころはほとんどひとり親だった。ケント州の小さな村に落ち着いて、健康状態は万全とはいえないが、最近まで地元で庭師として働いていた。いまは穏やかに簡素に暮らしている。

p29から
 ずっと探し続けていたものは、じつは探している主体そのものにほかならないということがわかった。究極の目標、究極の賞品は、じつはすでにあるものだったのだ。見つけるべきものも、見つける人も存在していない。気づきがあって、気づいている人はどこにもいない。はじめからずっと、<あなた>は<あなた>自身の壮大な冗談の標的だったのだ。どこを見てもどこを探してもそこにある壮大な現れ、単に<あなた>自身の劇か、もしくは存在しているという夢だ。何も存在していないし誰も存在していないが、気づきがあって、それによってすべてが現れている。この平凡は男性あるいは女性という現れもそのひとつだ。<あなた>は今、そしてこれまでもずっと、完全に目覚め、気づき、今を生きているが、<あなた>自身の壮大な劇の催眠にかかっているだけなのだ。
 ネイサンという登場人物は平凡な人生の中で、問題、試練、退屈と思えるものから逃れようとして悟りを求めた。平凡な人生は変わらず続いているが、今あるということから注意が逸れることはなくなった。非凡さの追求は終わった──生はただあるとおりにある。

質疑応答の中にも、引用したい箇所がたくさんあるのですが、引用するにはどれも長すぎます。これ以上引用すると、しかられてしまいそうです。素晴らしい内容なので、是非とも読んでください。

ネイサンは、この劇の全体に気づくと、生きることが気楽になると言っています。他の非二元の教師のように、「愛」や「至福」と言う言葉を使わずに「気楽になる」という表現がとてもしっくりきました。そしてそれは、たいていの人にとって、ゆっくりゆっくり起こることだと言います。もちろん、日常を生きていくために「私」という感覚はあるものの、「私」はいないと理解している状態だと言います。

非二元の教えを理解しても、悩みがたちどころに消えるということはありませんし、もう二度と問題が起こってこないということもありません。肉体がある以上、病気にかかることもあれば、日常生活での悩み事も相変わらず起こってきます。でも、非二元の教えを理解したなら、そうした問題にどっぷりと巻き込まれることはなくなり、「気楽になる」というのが適切な表現ではないかと思います。

ネイサン・ギルは衰弱性の病気にかかり、最後はみずから死を選んだそうです。まわりの人の話では、とても穏やかで静かな死だったそうです。思うに、それは非二元を生きたからこその穏やかな死ではなかったかと想像します。

タイトルの「すでに目覚めている」がネイサンの最も言いたいメッセージです。私たちはもともと目覚めています。なすべきことは何もありません。「私」という劇の催眠を見抜きさえすればいいだけです。それも「私」がすることではなく、起こってくることです。この本はすばらしい。ぜひ読んでください。

Amazonの著者紹介から
著者について
ネイサン・ギル Nathan Gill
1960年イングランド生まれ。建設、園芸に携わったあと、非二元についての
対話の集まりをロンドンおよびケントで展開し、
わかりやすく鋭いメッセージが人気を集める。2014年没。
他の著書に"Being : The Bottom Line"(2006年)がある。

古閑博丈さんのブログにネイサンの記事がいくつかあります(記事の末尾の「関連」からもいくつかのネイサン関連の記事にアクセスして読むことができます。

ネイサン・ギル関連YouTube(本人のチャンネルではないようです)

2024/02/13

気づきがあなたの自己です

経験に限らず、どこかの場所で起こることは何もありません。ものごとは気づきの中で起こりますが、その気づきがあなたの自己です。分離していない、あらゆるものの自己なんです。
         グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?)

1/31春日井市都市緑化植物園にて

2024/02/09

では、さとりとは何ですか?

気づきとしての自分の本質にはいちども分離が起こったことはないと揺るぎなく理解することです。悟っている、悟っていない、その違いが消えること、それが悟りなんです。
          グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?

紅梅(1/31 春日井市都市緑化植物園にて)

2024/02/06

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

この本の副題は「ダイレクトパスの基本と対話」となっています。私はダイレクトパスという言葉の意味を知りませんでした。そこで、それは何かということで、p188の「訳者のあとがき」を引用させていただきます。

 ひとことで言うと、この本はダイレクトパスの入門書だ。シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンが生んだ、現実の本質や自分の本質を誰でも直接確かめることができる方法。それがダイレクトパスだ。
 ダイレクトパスという名称は、「自分とは誰か」「自分とは何か」を問いつづけるラマナ・マハルシの自己探求を指すときにも使われることがあるが、アートマナンダのダイレクトパスでは、問い続けるというよりも実際の経験を具体的に確認していく。自分という人間やティーカップのような物体を含め、存在しているように感じられるものを調べる。

シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンはラマナ・マハルシとほぼ同時代を生きたインドのグル(アドヴァイタ)だそうです。(Wikipedia

本書は、最初の三分の一がグレッグの書下ろしになっていて、後半の三分の二はグレッグと参加者の対話が収録されています。
タイトルの「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」の、気づきの視点に立つというのはどういう意味なのかを最初に説明しています。

p12
 気づきは「意識」と呼ばれることもある。気づきと意識というふたつの言葉は、ここで扱う教えでは同じ意味を持つ。気づきは「存在」と呼ばれることもある。これは気づきが非実在でも空虚でもないということを表わしている。気づきは「知識」という言葉で呼ばれることもあるが、それは気づきによって無知が消えることを伝えている。また、気づきは「愛」と呼ばれることもあり、これは気づきが開かれていて、魅力的で寛容で親密で、そこには制限も苦しみもないという側面に注目した表現だ。

以前のブログで、「気づきと意識」について書いたことがあり、私の場合は「気づき」という言葉が苦手でした。ここでも、「意識の視点に立ってみたらどうなるんだろう?」というタイトルの方が人によってはわかりやすいような気がするのですが、そうすると後に出てくる「意識」という言葉とダブってしまうために、「気づき」とされたのだと思います。あるいは、実際にはその視点に立つ「人」は実在ではないけれども、実験的にその視点に立ってみようという意味で、「気づき」という比喩的な表現にされたのかもしれません。原題は「Stand as awareness 」となっています。

p20
どのように気づきの視点に立つのか?
 まずできるのは、二十四時間どこをとっても、そのほとんどのあいだ自分がすでに気づきの視点に立っているのを認めるということだ。たとえばさきほど挙げたような、主体と対象のあいだの隔たりが経験されていない時間がそれだ。

そして、気づきの視点に立ったあと、いくつかの実験によって、物が実在なのか、それとも単なる気づきなのかということを調べていきます。最初はコーヒーカップです。コーヒーカップを見て、それを見る時、何が経験されているのかを調べていきます。するとそれは、視覚であり、色と輪郭であるとわかります。色と形を経験することによってコーヒーカップを認識しているが、実際にコーヒーカップそのものを認識しているのではなく、単に色と形を認識しているにすぎない。それは、単なる気づきの中のものだということを理解します。

今度は、同じ実験を体を見ることによってやります。体の中に気づきがあるのか、気づきの中に体があるのかを調べていきます。すると、体は気づきの中にあるのであって、体の中に気づきがあるのではないということがはっきりします。同じ実験を心(マインド)についても行います。そうやって次々に実験をしていって、そこにあるのは気づきだけであるということを体験します。この手法をダイレクトパスと呼んでいるようです。

私はここまで読んだところで、これはどこかで読んだことがあるぞと思いました。これは仏教の唯識のところで出てきた説明とよく似ています。唯識では、ただ識だけがあるというところを、グレッグ・グッドは気づきだけがあると説明しています。

そして、どんなものも気づき以外のなにものでもないと感じられるようになった状態を、「観照が実現した状態」と呼んでいます。そして、観照がしっかりと定着すると、観照は純粋意識へと消えてなくなり始めると説いています。観照を崩壊させる実験で、観照を崩壊させる方法を説いていますが、このあたりはちょっと難しいところで、まるで中観(ナーガルジュナ)の説明を読んでいるような印象を受けます。ここも、その説明の仕方が中観のそれとよく似ています。

グレッグ・グッドは大乗仏教にも造詣が深いそうで、おそらく唯識や中観派の教えの影響を受けていると思われます。仏教ではダイレクトパスより二千年も前に同じことを説明していますが、グレッグ・グッドのすばらしいところは、同じ内容を現代の人向けにわかりやすく説明しているところにあると思います。

そのあとは対話集になっています。対話の中で、質問者から、グレッグの悟りはどのように起こったかという質問がありました。それに対してグレッグは、最初は観照が起こり、最後にはそれが純粋意識の中へ消えていくという二段階の経過で起こったと説明しています。このくだりは、注意深く読まないと、グレッグ・グッドにエンライトメント、あるいは覚醒が起こったと勘違いしてしまいます。

これはあくまで理解の過程を説明しているにすぎません。純粋意識とは、それを何と呼ぼうと私たちがもともとそうである普通の意識のことです。純粋でない意識なんてありません。
そして、その理解がどんな風に起こるのかは人様々です。私たちがグレッグ・グッドと同じ道筋をたどらなくてはいけないということではありません。これは毎回言うように、健康食品の広告の但し書きと同じで、「個人の感想です」。何かのきっかけで理解したと思う人もいれば、自然に理解したと思う人もいると思います。

p147
(質問者)あなたのように、そう確信できるようになる方法はあるんですか?

(グレッグ)とても真剣に調べることです。私が言っている気づきは脳の働きではありません。この気づきは、すべての見かけがそれに対して現れているそれなんです。気づきから遮断されているときを見つけられますか? 気づきがないときがあるでしょうか? 熟睡しているときでもあなたは気づきとしてあって、対象が存在しないという事実を認識しています。気づきは存在しています。あなたが存在なんです。

この本は、物は実在か、世界は実在かということを体験的に理解したいという人にはとても有効な本だと思います。こうした実験的な方法が自分には合うだろうと思われる方は、グレッグのもう一冊の本、ダイレクトパスにはたくさんのエクササイズが載っていたと記憶しています。

****************

Amazonのサイトから
著者について
グレッグ・グッド Greg Goode
南カリフォルニアで育つ。カリフォルニア州立大学で心理学、ドイツのケルン大学で哲学を学び、ロチェスター大学で哲学の修士号と博士号を取得。アメリカ哲学実践者協会(APPA)認定の哲学カウンセラー。
西洋哲学、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、大乗仏教など広い知見をベースにした自己探求を、著作やコンサルティングを通じて指導している。
著書に"The Direct Path:A User Guide"、"Emptiness and Joyful Freedom"などがある。
妻メイとニューヨーク在住。


グレッグ・グッドのYouTubeチャンネルな無いようですが、ホームページの中にいくつかの動画があります。→動画(video)

2024/02/02

ジル・ボルト・テイラー(TED Talks)


とても興味ぶかいTED Talksを見つけました。日本語字幕版の貼り付けができないので、日本語字幕で見る人はこちらで見てください。→日本語字幕付き

脳科学者のジル・ボルト・テイラーは、自宅で左脳に脳卒中を起こし、体の自由が失われて体の感覚が消えていきました。体と外部との境界が消え、文字が読めなくなり、言葉を発することができなくなるさ中、宇宙との一体感、至福、ニルバーナ(極楽)を経験します。そしてその状態が手術までの二週間続いたそうです。その境地は、多幸感に満ちた平安、思いやりの境地だったと言います。
救急搬送されて一命をとりとめ、手術を受けますが、左脳の機能が完全に回復するのに8年かかったそうです。

彼女が今もその状態に入ることができるのかはわかりません。左脳の働きを人為的に停止させて、右脳だけの状態になることは、おそらく不可能ではないかと思います。もちろんその状態がエンライトメントではないし、そうした状態を求めることに意味はないと思います。そんな状態になったにもかかわらず、それを見ていた意識はしっかりとあったということに驚きました。つまり、言語や体の自由を奪われても、それを見ている意識があるということです。
 人間の脳、とくに右脳はもともと「私たち」は一つのものだということを知っているのではないかと思いました。

ジル・ボルト・テイラーの本は日本でも出版されています。また読んだら紹介したいと思います。

2024/01/30

意識を我々は無視している

学校で教師が黒板に「私」と書き、何が見えるかと生徒に尋ねたとしたら、生徒の大半は「私」という文字が見えますと答えるだろう。「私」という文字が書かれた黒板が見えますと答える生徒はまずいない。一つの文字が注目され、それよりも巨大な黒板が無視されるのとちょうど同じように、あらゆる現象の永遠の背景である<意識>を我々は無視している。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見駅 駅ピアノ

2024/01/26

悟りからは何も得られない

悟りからは何も得られない。なぜなら悟りとは、悟ることのできる自分が存在しておらず、分離の感覚も個人として存在している感覚も幻だったとわかることだから。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見 永保寺 止掛塔(しかとう)とは、掛搭する(修行者の入門を受け入れる)ことが出来ません!ということ。シカトの語源だそうです(ネタ元)。