2025/11/22

植物は生来の知性に満ちています

質問者: それは非観念的な意識です。植物が太陽の方を向いているのさえも、非観念的な意識と言えるのではないでしょうか。実は、それこそがアウエアネス(意識)なのです。植物は太陽の位置を認識しています。しかし、植物にはマインドがありません。非観念的な意識なのです。

ボブ: ええ、植物は生来の知性に満ちています。地中に根を張り、土から栄養分を吸収します。私たちにはそんなことはできません。小さな植物の葉っぱを噛むくらいです。植物ならできるんです!なんて素晴らしいのでしょう!

2025/11/20

何も存在しない ルパート・スパイラ

Nothing exists    Rupert Spira
歯車マーク→音声トラック→日本語、もしくは自動翻訳(字幕)で見ると、日本語で見ることができます。

YouTubeの解説から(Google翻訳)

アジャーティヴァーダとは、何も存在しない、あるいは存在するように見えるものさえ存在しないという主張です。しかし、それが明らかに私たちの経験と矛盾する場合、どのようにしてそう言えるのでしょうか? ヴィヴァルタヴァーダは少なくとも、世界が存在するように見えることを認めています。では、私たちはこれをどのように理解できるでしょうか?

ルパートはこう言います。「もし無限が真に存在するすべてであるならば、その視点こそが唯一の真の視点でなければなりません。そして、その視点から見ると、無限以外のものは存在できないだけでなく、無限以外のものの出現さえも経験することができません。なぜなら、出現を経験するには、有限の視点から経験しなければならないからです。」

「ですから、無限の純粋な自己経験においては、顕現はおろか、顕現の出現さえも存在しません。一方、私たちの有限で限定された、局所的な視点からは、たとえここで私たちが行っているように、その顕現の実在性に疑問を抱いたとしても、世界の出現は間違いなく存在します。」

**********

一般的に、「何も存在しない」と言う時、それは私たちの視点から見た場合を言います。
このYouTubeでルパートは全く別の視点で説明します。私たちが個人のマインドとしてとらえている世界は現実としてそこにある。しかし、無限のもの(ここではボブの言うアウエアネスをそう表現している)の視点に立つと、そこには何もない。無限のものは私たちのマインドの視点に立って世界を見る事ができない。

マインドという主体があって初めて世界という客体を見る事ができるが、無限のものがマインドという主体になることはできない。そのため、無限のものの視点に立つと、そこには何もないということになる。サンスクリットの経典に書かれている意味は、無限のものの視点に立って書かれたものであり、そこには何もないと説く、という説明です。

ルパートの説明は、無限のものの視点に立って説明しているという点が新鮮で説得力があります。いくら私たちが「何もない」状態を体験しようとしても、それはできません。無限のものの視点に立つことができないからです。

2025/11/18

佐々木閑先生のYouTubeから 哲学者田山令史先生との対談

この動画では唯識の話が出てきます。話を聞いていると、非二元の話のようにも思えました。直接非二元とは関係ないかもしれませんが、興味深い話なので掲載させていただきます。

哲学者田山令史先生との対談第1回(場所は先斗町のレストラン,オードビー)

哲学者田山令史先生との対談第2回(場所は先斗町のレストラン,オードビー)

2025/11/16

深い瞑想のあと、なぜ純粋な意識を思い出すことができないのでしょうか? ルパート・スパイラ

Why Don’t I Remember Pure Awareness After a Deep Meditation?  Rupert Spira
歯車マーク→音声トラック→日本語、もしくは自動翻訳(字幕)で見ると、日本語で見ることができます。

YouTubeの解説から(Google翻訳)

なぜ深い瞑想の後、純粋な意識を思い出すことができないのでしょうか?これは、私たちが真に無限の意識を経験していないことを意味するのでしょうか?

ルパートはこう言います。「無限の意識を思い出すことはできません。なぜなら、すべての記憶は有限の心の中で起こり、有限の心が知っていることはすべて、その限界によって条件付けられているからです。すべての記憶は、定義上、一時的で有限です。」

「しかし、意識の経験を思い出す必要はありません。なぜなら、あなたは今、気づいているという経験をしているからです。意識は常に自分自身を認識しています。たとえそれが背景に消え去っているように見えても。それは私たちにとって最も根源的で、明白で、親密な経験です。私たちがそれを見落としているのは、他のことに気を取られているからです。」

**********

質問者は、瞑想してその状態に入ろうとするとすると落ち込むような感じになって、意識の比較的ある状態ではその状態を思い出すことはできないので、私は間違っているのか?と尋ねます。するとルパートはマインドは存在(being)については何も知らないし、知ることもできないから、その状態を思い出すことはできないと説明します。

意識(ここではconsciousnessを使っている)は意識を知っているが、人間のマインドでそれを知ることはできない。なぜなら、人間のマインドには限界があり、意識を知ることはできないから。役者のジョン・スミスは自分がジョン・スミスであり、リア王を演じていると知っているが、リア王はジョン・スミスを知ることはできない。

人間のマインドで知り得ることは「私は在る」という存在の感覚だけである。意識は自ら輝いて、自らを照らすことはできない。同様に、意識は自ら輝いているが、私たちがそれを知る直接の方法はなく、静寂や詩を通して感じることしかできない。

なお、この動画の副題は、Consciousness is always knowing itself.(意識は常に自らを知っている)となっています。

2025/11/14

それはただの「純粋な理解」なのです

質問者:ボブ、メッセージは聞こえています。でも、それを本当に理解できているかどうか自信がありません。自分が理解してるということを確認できる何かを探しています。ちょっと変な感じがします。ここで話されていることを本当に理解しているかどうか、何か確証が必要かという点について、もう少し詳しく調べてみたいのです。

ボブ:では、あなたにとって何が“それ”を確認してくれるのですか? あなたは「理解している」と信じてるのか、それとも「理解している」と知っているのかどちらですか?

質問者:私は自分が存在していると知っています。

ボブ:「知っている」。それが確証ではないですか?

質問者:それを否定することはできません。それを「知っている」ということは、どうしようもなく確かです。

ボブ:どうしようもなく確かなこと。それが確証です。

質問者:でも、そこから繋がりを感じられません。二つに分かれてしまうのです。ここに「理解」があって、これは非二元についての理解。で、こっちに「自分が存在していると知っている」という感覚があります。たぶん本当は一つのものなんでしょうけど、私の中では分かれています。「非二元を理解している」と「自分が存在していると知っている」。そうやって、私はそれを二つに分けてしまいます。でも、本当は一つなのかもしれません。

ボブ:では、「それを理解している」のは誰なんですか? そこに“理解”があるのは確かです。でも、それは「あなた」が理解してるということではありません。「あなた」の理解?  あなたが「それを理解してる」のだとすれば、それは「あなた」という実体がその理解を概念的に捉えようとしてるということになります。でも、それはただの「純粋な理解」なのです。誰もそれを確認する必要はありません。

2025/11/12

直観と意識の本質  ルパート・スパイラ

Intuition and the Nature of Consciousness  Rupert Spira
歯車マーク→音声トラック→日本語、もしくは自動翻訳(字幕)で見ると、日本語で見ることができます。

YouTubeの解説から(Google翻訳)

直感とは何でしょうか?そして、いわゆる第六感に従うと、なぜ私たちはシンクロニシティを経験するのでしょうか?

ルパートはこう言います。「直感は有限の心の一部ですが、覚醒状態ではアクセスできない有限の心の中の領域、つまり個人的無意識または集合的無意識、つまり表面下で繋がっている有限の心の一部なのです。」

「シンクロニシティ体験は、覚醒状態という明確に区切られたパラメータから純粋意識へと移行するにつれて起こります。限界がなくなり、心と心の境界はますます曖昧になります。だからこそ、10年間思い出していなかった誰かのことを考え、部屋に戻るとその人からのメールが見つかることがあるのです。」

***********

時間とは何か、空間とは何か、そして直観とは何かについて話しています。
質問者は「直観とは何ですか?  それを調べていくと、シンクロニシティが自分に起こっていることに気づきます」と尋ねます。それに対してルパートは、私たちが無限の宇宙(ここではアウエアネスのことをそう呼んでいる)と分離されているのは目を覚ましている時だけであり、実際には時間も空間も存在しない。時間と空間はマインド産物である。無限の宇宙と私たちのマインドの外側の間には微妙な境界があり、そこから直観はやってくる、と説明しています。(別のビデオでは無限の宇宙にはあらゆる情報があって、そこから情報を知ることができる人もいる。そうやって過去に亡くなった人の情報を知ることができる人たちがいると考えると、過去生を記憶している人たちの説明がつくのではないか、というのがありました)

ルパートは自分の子供が三歳の時に納屋が家事になる前に納屋から煙が出ている絵を描いたことがあるとう例をあげて直観を説明しています。時間と空間はマインドの産物であり、実際には存在しないということをはっきりと語っています。

2025/11/10

ボブが亡くなって9か月 ボブの2023年、2024年のビデオとポインター

9 months later - Snippets of Bob's life and pointing from 2023/2024
日本語で視聴できます。

最初にカットがキーワードを言って、そのキーワードに沿ってボブの話が続きます。カットのキーワードは「A for analogies again」という感じで語られますが、自動翻訳はまったく機能せず、「え~・・・」とか訳すので、無視して、その後に続くボブの話(短いポインター)だけ聞いてみてください。ボブの声はきれいに翻訳されているので、十分にポインターの役目を果たすと思います。これはカットとボブが共著で書いた「Bags of pointers to nonduality」からの朗読です。

動画の背景には2023年2024年頃、まだボブが外出できた頃の外出の様子やパーティの様子が流れます。

2025/11/08

非二元論入門  ルパート・スパイラ

An Introduction to Non-Duality
歯車マーク→音声トラック→日本語、もしくは自動翻訳(字幕)で見ると、日本語で見ることができます。

YouTubeの翻訳はどういう仕組みなのか知りませんが、字幕と音声は別の翻訳になっていて、字幕より音声の方が誤訳が少ない印象です。この動画は音声の翻訳がかなり自然なので、日本語音声がお勧めです。

YouTubeの解説(Google翻訳)

ルパート・スパイラによる非二元論入門。
非二元論は、人生におけるあらゆるものは、分離して区別されているのではなく、繋がり、一つの全体の一部であると説明しています。非二元論は、私たちが世界を「私」と「あなた」、あるいは「思考」と「現実」といった別々のものに分割して捉える従来の見方を超越する、無限に偉大な現実、すなわち一つの統一された全体性が存在することを示唆しています。
この理解を追求する中で、私たちは必然的に、誰もが常に切望してきた平和と幸福は、すでに私たちの存在の本質であり、私たちはこの存在をすべての人、すべてのものと共有していることに気づくでしょう。

**********

ルパートのYouTubeは、時系列や再生回数は気にせずに、私が見ていいなと思うものを掲載してきました。これからもそうするつもりですが、そのために、このような入門というタイトルの動画を今さらながら掲載しています。すいません。
ルパートは非二元を学ぶことの目的は幸福の実現であり、そのために為すべきことは自己の本質を知ることだと言っています。非二元を学ぶ目的は幸福の実現(あなたの本質はもともと幸福である)にあるというルパートの言い方が好きです。前向きで希望を持たせてくれます。
この動画を最初に掲載すればよかったのですが、見つけたのが最近なので、遅まきながら今掲載させていただきます。

それにしてもルパートは説明が上手ですね。わかりやすいです。

2025/11/06

その知る働きは今ここにあります

ボブ:そこには知ること、純粋な知る働きがあります。それは他には何もない一つのものです。

質問者:それを知っても卒業証書はもらえません。つまり、そういう理解が起こったということです。でも、「今、あなたは知っています!」と誰かに認めて欲しいのです。

ボブ:ええ。今、あなたは理解したと言いました。今、あなたは知っています。まだ理解できないことがあるでしょうか? 例えばあなたは、これを知っている、あれを知っている、という思い込みがあります。知っていることに何かラベルを貼っています。でも、今あなたは知っています。その知る働きは今ここにあります。ただ純粋な知る働き。それに何かを加える必要はありません。何かを取り除く必要もありません。それを確かめることができたのではないでしょうか?

質問者:何かを知っていなければならないという考えを捨てればそうなります。

ボブ:ええ、では、何かを知っていなければならないという考えを捨ててください! 捨ててしまいなさい!あなたは知る働きを知る者と知る対象へと分割します。「私はこれを知らなければならない」と。あなたは知る働きを主観と客観に分割しました。その知る働きを否定することはできません。それで確認できたということです。それだけです。そして私たちは「ああ、でも!」と言います。「でも」に踏み込んだとき、あなたは遍在性から遠ざかっています。

2025/11/04

実在は在る。しかし「そこには世界」は存在しない。  ルパート・スパイラ

There Is a Reality, but No World ‘Out There’     Rupert Spira
歯車マーク→音声トラック→日本語、もしくは自動翻訳(字幕)で見ると、日本語で見ることができます。

YouTubeの解説から(Google翻訳)

現実とは何か?世界は実在するのか?そして、なぜ無限の存在はそれを経験できないのか?もしかしたら、経験できるかもしれないが、私たちには理解できない方法で経験しているだけなのだろうか?

ルパートはこう言います。「世界には何か現実的なものがある。しかし、それは見た目通りではない。現実には、存在するのは無限で意識のある存在だけである。つまり、私たちが今見ているのは無限の存在だが、有限の心はそれを自身の限界と一致する形で認識している。だから、私たちがそれを見るとき、世界を見るが、「そこに」世界は存在しない。少なくとも、思考によって通常考えられているような形では。

「無限はそれ自体では客観的な経験を持たないが、意識のある存在であるため、存在の経験を知っている。だからこそ、至高の教えは、真に存在するすべてである現実には、創造も破壊も存在も外見もないと説くのだ。」

「もし私たちの経験が心を通してのみ知られるものならば、私たちは現実の本質を知ることはできないでしょう。しかし、有限の心を介さない経験が一つあります。それは、存在への意識です。ですから、私たちが現実の本質にアクセスできる唯一の方法は、存在への意識を経験することです。」

***********

この話はとても難しいです。なぜ私たちが意識が何なのかを知ることができないかを説明しています。オレンジ色の眼鏡を通して見ると、白い雪を見ることはできない。役者のジョン・スミスはリア王を演じているが、リア王はジョン・スミスを認識しない(この例えはなかなか良いです。役者は自分がどんな役を演じているのか知って演じているが、物語の登場人物は自分が誰かによって演じられていることを知らない)。コウモリなどの動物は別の世界を見ている(これはボブも使う例え)。目が目を見る事はできない。こうした例え話を使いながら、なぜ私たちは無限のもの(ここではアウエアネスとは言わずにこう言っている)を認識することができないのかを説明しています。そして私たちが見ている世界は個人というものに閉じ込められた意識が見ている世界であり、それを現実だと思っているが、そうではないということを話しています。

2025/11/02

マインド以前に存在する本質とは何か? カリヤニ・ローリー

What Is the Essence Prior to Mind? | Kalyani Lawry | The Key Philosophy Quest | E04
日本語字幕(自動翻訳)で見ることができます。

二人ともきれいな英語でゆっくり話すので自動翻訳がかなり正確です。インタビュアー(哲学教授)はマインド以前にあるものは何かとカリヤニに尋ね、カリヤニがそれを「それはどこで起こっているのでしょうか」「子供のころから変わらずにあるものは何か」と問いかけることで答えていきます。

カリヤニの話はセイラーボブから学んだということがはっきりわかる話で、ボブの説明をおおむね踏襲していますが、最後のヴェーダに出てくる土鍋の話は聞いたことのない話でした。哲学教授が持ち出したプラトンの洞窟の比喩の話は精神世界の話に時々出てくる話です。

カリヤニの話は非二元をちゃんと理解している人にはやさしい話に思えますが、初めて聞く人には何のことやらサッパリわからないのではないでしょうか。質問者の問いかけを聞いていると、そんな印象をうけました。