2025/11/04

実在は在る。しかし「そこには世界」は存在しない。  ルパート・スパイラ

There Is a Reality, but No World ‘Out There’     Rupert Spira
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YouTubeの解説から(Google翻訳)

現実とは何か?世界は実在するのか?そして、なぜ無限の存在はそれを経験できないのか?もしかしたら、経験できるかもしれないが、私たちには理解できない方法で経験しているだけなのだろうか?

ルパートはこう言います。「世界には何か現実的なものがある。しかし、それは見た目通りではない。現実には、存在するのは無限で意識のある存在だけである。つまり、私たちが今見ているのは無限の存在だが、有限の心はそれを自身の限界と一致する形で認識している。だから、私たちがそれを見るとき、世界を見るが、「そこに」世界は存在しない。少なくとも、思考によって通常考えられているような形では。

「無限はそれ自体では客観的な経験を持たないが、意識のある存在であるため、存在の経験を知っている。だからこそ、至高の教えは、真に存在するすべてである現実には、創造も破壊も存在も外見もないと説くのだ。」

「もし私たちの経験が心を通してのみ知られるものならば、私たちは現実の本質を知ることはできないでしょう。しかし、有限の心を介さない経験が一つあります。それは、存在への意識です。ですから、私たちが現実の本質にアクセスできる唯一の方法は、存在への意識を経験することです。」

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この話はとても難しいです。なぜ私たちが意識が何なのかを知ることができないかを説明しています。オレンジ色の眼鏡を通して見ると、白い雪を見ることはできない。役者のジョン・スミスはリア王を演じているが、リア王はジョン・スミスを認識しない(この例えはなかなか良いです。役者は自分がどんな役を演じているのか知って演じているが、物語の登場人物は自分が誰かによって演じられていることを知らない)。コウモリなどの動物は別の世界を見ている(これはボブも使う例え)。目が目を見る事はできない。こうした例え話を使いながら、なぜ私たちは無限のもの(ここではアウエアネスとは言わずにこう言っている)を認識することができないのかを説明しています。そして私たちが見ている世界は個人というものに閉じ込められた意識が見ている世界であり、それを現実だと思っているが、そうではないということを話しています。