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YouTubeの解説(Google翻訳)
逆説的な精神的教え、すなわちアジャーティヴァーダ(何も存在しない、あるいは存在しているように見えることさえないという主張)とヴィヴァルタヴァーダ(少なくとも世界は存在しているように見えることを認めている)を、私たちはどのように理解できるでしょうか?
ルパートはこう言います。「アジャーティヴァーダは絶対的に真実ですが、それに基づいた教えはあり得ません。あなたはどうお考えですか?たとえこの分野においてさえ、世界も心も苦しみもないと言うのは失礼でしょう。ですから、すべての教えはアジャーティヴァーダから一歩下がり、ヴィヴァルタヴァーダの観点、つまり現象の観点に立って語るのです。そして、それは当然のことです。」
「しかし同時に、私たちは特異な集団です。私たちは真実を知りたいと願い、山の頂上まで行くことを恐れません。ですから、たとえ自分の経験と合致させられなくても、現実の観点から見れば、世界も心も苦しみもないことを理解しているのです。」しかし、それは虚無主義的な哲学ではありません。私たちの日常生活や、私たちが感じている現実、苦しみ、悲しみ、喜びを否定するものではありません。」
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質問者は深いレベルで無限の意識(ここではボブのいうアウエアネスのことをそう表現している)とつながることができないが、どうしたらいいのかと尋ねます。それに対してスパイラは、例えばコップを見る場合、コップと距離を置いて私という主体がなければコップを見ることができない。物を見るには主体と客体の関係が必要だと説明します。
目は目を見ることができません。そこには主体と客体という関係が成り立たないからです。無限の意識は無限の意識を離れて無限の意識を見ることはできません。そこには客体となるいかなる点も場所もないからです。無限の意識は無限の意識のことしか知らず、それ以外のことは何も知りません。
私たちが無限の意識を知ろうとしても、無限の意識には客体になるような点がなく無限のものなので客体にはなりえない。そのためそれを客体として知ることはできない。私たちが唯一できることは、意識に気づいているという事実だけ。
この話はとっても難しい話でした。