2022/09/30

生きている限り、「私」を消すことはできない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その12」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

「誰が輪廻するのか?」。その問いが間違っている。
今回もまたすばらしい話です。これは、下手な非二元の本よりも非二元です。

佐々木閑先生の説明は、セイラーボブの説明を一層わかりやすくしてくれる気がします。

2022/09/24

理解がすべてである

マハラジが繰り返し言っていたように、「理解することがすべてである。エンライトメントとは、達成すべき何かではないということを理解することである」。

エンライトメントは対象物ではないため、達成することはできない。エンライトメントは、「達成すべきものではない」ということのシンプルな理由は、私たちがそのエンライトメントだからである。何かを達成するとか達成しないとかいう問題は、もしその何かが本当の私たちとは違っている場合に起きる。

本当の私たちとは、いかなる対象物でもない永遠の主体、「私」である。
したがって、エンライトメント、光明とは、探求者が探しているものは自分自身であり、実在としては探求者も探求すべきことも探求も存在しないということを理解することである。

この「探求者」「探求すべきこと」「探求」の三つが存在するのは、一時的な観念化の中だけであり、観念化が終われば探求も終わり、そこに残るのは自分自身を認識することもない永遠の主体だけである。
                 ラメッシ・バルセカールの言葉(カリヤニのFBより
         
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「理解」ということについて、もう一度考えてみたいと思います。以前、おたより(2019.9.3)のコーナーでも理解について書いているので、そちらも参考にしてみてください。

理解するとはどういうことなのか? ぶっちゃけた話をすると、私の理解は知的な理解です。文章やボブの発言を聞いて、それを理解するということです。そこには、(自分がいない体験をした)とか、(私がいない世界を一瞥した)という体験はありません。特別な理解や体験ではなく、普通の理解です。もし特別な体験があるなら、それは一瞥体験かエンライトメントということになりますが、そうではありません。

セイラーボブはそうした体験を否定しています。一瞥であれエンライトメントであれ、それが体験であるなら、いつかは去っていきます。それに、たいていの人が体験する一瞥体験は、(そんな感じがした)(あれが一瞥体験に違いない)(自分はそこにいないかった気がした)程度のものであり、マインドの産物にすぎません。それは、非二元とは何の関係もありません。

非二元とは、あらゆるものが「二つではない」と言っているにすぎません。もし、それを体験した自分と、体験していない自分がいるなら、二つの自分がいることになり、非二元ではなくなります。この世界の他に非二元の世界があると体験したなら、その時点で二つの世界があり、非二元ではなくなります。

そして次に来る問いは「おまえは非二元を理解したと言っているが、それは単に『私』は実在ではないと信じているだけではないか?」です。これもぶっちゃけて言うと、そうです。

でも、「信じている」とはどういうことでしょうか。私の場合は、「それが真実であるに違いないと確信しています」。以前、おたよりをいただいた時も、この確信という言葉が問題になりましたが、やはりこの表現が一番適切ではないかと思います。

また地球の例を出しますが、私たちは、地球が丸いと確信しています。でも、ほとんどの人は実際に宇宙空間に行って丸い地球を見たわけではありません。でも、写真や科学の授業で学んで、地球は丸いと確信しています。それと同じ程度に、「私は実在しない」と確信しています。

すると、次に来る問いは、「それが理解するということなら、お前のブログや非二元の人の本を読んでいるたいていの人は、非二元を理解したことになるではないか?」というものです。そのとおりです。非二元で教えていることは全然難しいことではありません。誰でも理解できることです。私の理解もセイラーボブの理解も、これを読んでいただいている人の理解も同じものです。ネット上では、もうたくさんの人がサイトやブログで非二元のことを書いていて、あたりまえに非二元(私は実在ではないということ)を理解しています。

たいていの人は「非二元を理解した」という特別な人になりたいという潜在的な願望を持っています。私もそうでした。でも、理解した人、理解していない人には何の違いもありません。理解していない人は、理解した人は自分が知らない何かを知っている、あるいは体験しているにちがいないと勝手に思っているだけです。でも実際は何の違いもありません。

そして最後に来る問いは、おそらく、「おれはお前のブログを理解したし、他の非二元の人の本も理解した。でも何も変わらない。あいかわらず悩みごとでいっぱいで、苦しいばかりだ」というものです。

非二元の教えを理解することは難しいことではありません。言葉が理解できれば誰でも理解できます。「私は実在しない」と確信することも難しいことではないでしょう。時間をかけて、何度も何度も調べればわかることであり、誰にでもできます。誰にでもできるからセイラーボブは教えているのです。偶発的にしか起きないエンライトメントなら、教えても無駄ということになります。

では、セイラーボブの理解と私の理解、あなたの理解では何が違うのでしょうか? それは、その理解を生きているかどうかだと思います。理解そのものは誰の理解であれ変わりません。

私は、「私は実在ではない」と理解していると思っています。でも、またぶっちゃけた話をすると、実生活の中で、「私がいる」という体験をたくさんします。もし「私は実在ではない」ということが完全に身に染みるとどうなるかというと、体の感覚が消えます。そうすると歩いていても人にぶつかるでしょう。私はいないのですから。私と人の区別がつかなくなって会話もできなくなります。そこまでいってしまうと、社会生活が困難になるので、そこまでなりたいとは言いません。その一歩手前まで、「私は実在ではない」と身に染みた場合は、どういうことが起きるでしょうか?

いくつか例をあげると、まず、人と自分を差別することがなくなるはずです。私はいないのですから、他の人もいません。そうなると差別が消えて、他の人も私も、一つの物語の登場人物がスクリーンに映っているにすぎないと思うようになるでしょう。

でも、私の場合、依然として人を差別している自分がいます。無意識に肌の色や国籍で人を差別している自分がいます。もちろん、そうしたことは以前より減ってきてはいます。でも、依然として、後進国の人や、アフリカの人を見るとき、自分を基準に据えて差別している自分がいます。

また、コンプレックスも依然としてあります。人と比べる自分がいるのです。もし「私」がいないのなら、優越感も劣等感もなくなるはずです。でも私は依然として、劣等感も優越感もあるし、人と比較している私がいます。もちろん、それは実体のないものだといことは十分理解しています。

自分にまつわる物語についても同じことが言えます。「私は実在ではない」のなら、自分にまつわる物語は消え、過去を後悔することも、未来を不安に思うこともないはずです。でも実際には完全にそうなってはいません。もちろん、これも、以前よりは随分減ってきています。

また、「私は実在ではない」のなら、金に対する欲望も消えていくはずです。それを所有する「私」はいないのですから。財産、地位、名誉に対する執着、欲望も同様に消えていくはずです。これは随分となくなりました。お金はとりあえず暮らしていけるだけあればいいし、何かが欲しいという欲望は随分減りました。これを消すのはそれほど難しくはありません。我慢すればそのうち消えていきます。

何が問題なのかというと、非二元を理解することと、それを生きることとは別だということです。理解の度合いが違うという表現を使うとまた誤解を招くので使いませんが、心底理解したら、差別やコンプレックスや欲望、自己にまつわる物語、心理的な苦悩は消えていくはずです。それが帰属する「私」がいないのですから。

セイラーボブを実際に横で見ていると、そういった差別やコンプレックス、欲望、自己の物語、心理的な苦しみが私より少ない、あるいはほとんどないように思えます。同じように非二元を理解していても、それを生きているかどうかが違うように思えます。

セイラーボブの教えを理解すると、しばらくは調子の良い時期が続きます。でも、ハネムーン期間が過ぎると、やがてまた「私」が戻ってきます。そしてまた調べて、また調子の良い時期が続き、また「私」が戻ってきます。この繰り返しです。

私個人のことを言えば、以前と比べて随分と楽になりました。「もう何も悪くはない」です。そして、それは年々ますます楽になっていく感覚があり、理解が深まっているのだと思っています。でも、実際には理解に深いも浅いもなく、ある種の修練ではないかと思います。セイラーボブもニサルガダッタの家を出てから、古い思考(私)が戻って来て、そのたびに(私は実在しない)と調べたと言っています。

長い間に身についた条件づけや「私」を消し去るには、やはりそれなりの時間がかかるのだと思います。
何度「私は実在しない」と調べても、依然として「私」は戻ってきます。それはこの体がある以上、ずっと続くのだと思います。

「私」は実在のように見える、という説明の佐々木閑先生紹介の図形を見るのが好きなので、またこの動画を載せておきます。 

 佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その44」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ)

2022/09/23

宗教とは何かを考える

非二元とは関係ない話でしたが、良い話だったので、個人的な備忘録として載せておきます。特に、人は何らかの宗教を生きている、それが会社だったり、TVのCMだったりする、というところ。

【日曜説教:令和4年9月】宗教とは何かを考える | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2022/09/22

肉体が滅ぶ時、断ち切られる自己は存在しない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その11」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


私とは五蘊の集まりにすぎない。五蘊は自己ではない。

2022/09/21

ルーパ(肉体)は壊れゆくものである

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その10」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


五蘊(色・受・想・行・識)の語源解説。色とはパーリ語でルーパ。

セイラーボブは、「ナーマ・ルーパ」(名前と形)というヒンディー語を引用したことがあります。

2022/09/16

盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む 第11回 (2022年9月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第11回 (2022年9月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

五蘊について詳しく説明されているので、昨日、一昨日の佐々木先生のYouTubeと併せてに見るとわかりやすいと思います。
鏡の例え話、夢の話などは、セイラーボブの話とだぶってよくわかります。

2022/09/15

この手は私ではない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その9」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


これはわかりやすかったです。
「仏教は快楽を得るための教えではなく、苦しみを取り除く教え」という言葉が良かった。セイラーボブの教える非二元もそうだと思います。

2022/09/14

私とは何か

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その8」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


私とは何か? 心なのか、肉体なのか? 
自分とは何かを軽々しく問うてはならない。間違った問いからは間違った答えしか得られない。

セイラーボブは、「誤りの始まりは無知からである」と言うけど、これは仏教の縁起でいう「無明」と同じことを言っている。

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佐々木閑先生のYouTubeの転載を続けています。佐々木先生のYouTubeは現時点で400本以上ありますが、今までは、非二元的だと思える話はそれほど多くありませんでした。三蔵法師の旅や、仏跡をめぐる話もあって、非二元とは直接関係ない話が大半です。

でも、前のシリーズに入ってから、急に非二元的な話が増えました。今現在は、阿含経の相応部(五蘊)の話をしてみえますが、相応部の因縁編と蘊編に非二元的な話がたくさんあるということがわかりました。

相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇I (パーリ仏典 第3期3)(佐々木先生が出典を説明してみえるYouTubeはこちら)をアマゾンで買って読もうかと思って調べたら、因縁編ⅠとⅡだけで36000円以上する。(片山一良さんの相応部の本は全部そろえると10万円以上かかる)。愛知県図書館にあるとわかったので借りる手もある。(私の家から片道二時間ぐらい)

でも、おそらく自力で読んで理解するのは大変だろうし、佐々木閑先生が講義してくださるYouTubeを見た方がわかりやすい。どのYouTubeが非二元的だったかという備忘録の意味もあって、このブログに掲載していきたいと思います。(第7シリーズまでは板書を全部ノートに書き写していたのですが、時間がかかる割には記憶に残らないので、今は二、三回見て、なるべく内容を覚えるようにしています)
そういうわけで、しばらく佐々木閑先生のYouTubeを転載させていただきますので、よろしくお願いします。

佐々木閑先生のYouTubeは、非二元を理解する大きな助けになると思います。また、非二元を語る上で、仏教を学ぶことは必須なのではないかと思います。

2022/09/10

自由意志はあるのか?

以前このブログで、ベンジャミン・リベット博士の実験のことを書きました。

脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳
「死ぬのが怖い」とはどういうことか
マインド・タイム

「指を動かそうと思う0.35秒前に、脳から指を動かせという指令が出ている」というのがリベットの実験結果です。それで、果たして人間に自由意志はあるのか・ないのかが問題となりました。そのことについて考えてみます。

確かセイラーボブは動画の中で「自由意志でもないし、運命論でもない」と言っていたように記憶しています。ボブがこの類の話をするたびに、じゃぁ一体どっちなんだと思ったものです。

私としては、「あるのはこの瞬間だけである」ため、自由意志を考えたとたんに未来を思考として持ち込むことになり、自由意志のある・なしを考えることそのものがナンセンスだということで納得していました。運命論も同じで、運命を持ち出したとたんに時間という観念を持ち込むことになります。もし、時間などないのなら、自由意志も運命論も考えることそのものがナンセンスです。

問題は、私たちのマインドは「自由意志がある・ない」、「運命は決まっている・いない」と、二元的に割り切ろうとするところにあると思います。要するに、そうした思考はマインドの餌でしかないのです。

最近になって、佐々木閑先生のYouTubeで、なるほどなぁという説明に出会ったので、もう一度載せておきます。佐々木先生曰く、「世界に実体はあるのか?」という問いそのものが誤りであるというのです。「世界に実体はあるのか?」と聞いたとたんに、その前提として、何かの存在を前提としています。その問いに答えること自体が、その存在の有無を容認してしまっているというのです。

そもそも非二元の教え(仏教においても同様)では、自由意志や運命論の主体となる「私」はいないのですから、自由意志や運命論の有無を問うこと自体がナンセンスなのです。それを問うた瞬間に、「私」という存在を前提としてしまっているのです。
セイラーボブも同じようなことを言っていて、「質問が質問者であり、質問がなければ質問者は消える」と言っています。

自由意志があるのか・ないのかを議論すること自体がナンセンスなのです。
この説明は、「死後の世界はあるのか?」「エンライトメントはあるのか?」など、あらゆる問いの答えとしても有効です。もともと「私」は実在でなく、生きてさえいないのですから、死後の世界があるのか、エンライトメントがあるのかと問うこと自体が間違いなのです。

世界に実体はあるのか? 佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その16」

問いが間違っている。(11分ぐらいまでは我慢して聞いてください。そこからが本題)

2022/09/09

自分は存在しないということを理解する機能が自分にはある

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その7」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

「自灯明 法灯明」は私の大好きな言葉です。

ここのところ、佐々木閑先生のYouTubeの転載を続けていますが、佐々木閑先生が紹介してくださる阿含経・相応部の経典は非二元の教えだと言えると思います。

今までの佐々木先生のYouTubeは全部(パーリ語講座を除いて)見ていて、非二元に関連すると思われる箇所はたいていこのブログに取り上げています。すばらしい内容ですが、もっと早く相応部の講義をやっていただけたら、私の下手な仏教のシリーズを書かなくてもよかったのではないかと思う今日このごろです。でも、それを書く途中であれこれ調べているうちに佐々木先生に出会えたのだから、必然といえば必然なんですけど。

仏教、非二元に限定しなくても、佐々木先生のYoTubeは学ぶことが多いし、おもしろいので、これからもどんどん取り上げさせていただきます。

佐々木先生の非二元関連(と私が勝手に思っている)YouTubeは、仏教その他禅・Buddhismにありますので、もし見逃した方は見てみてください。

2022/09/08

欲望を追わない

阿含経では、「欲望を追うな」と教えています。

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その3」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

では、セイラーボブはどう言うかというと、欲望を追うなとも、追えとも言いません。セイラーボブ個人はどうなのかというと、はたで見る限り、欲望を追っている人には見えません。年齢的なこともあるのでしょうが、それほどお金に執着があるようには見えません。

ミーティングの入場料が一回20ドル(約1900円)、個人面談90分60ドルです。それが高いのか安いのかは意見が分かれるところですが、メルボルンの物価を考えると、妥当なのかなとも思います。ニサルガダッタ・マハラジやラメッシはお金を取らなかったと聞いたことがありますが、本当かどうかは知りません。

オーストラリアの年金制度では、国民は年金(保険料)を払い込む必要はなく、すべて税でまかなわれているそうです。それも、日本の生活保護水準よりも多いぐらいの額がもらえるそうなので、セイラーボブは全然お金に困らない。だから、本当は入場料なんて要らないのかもしれませんが、無料にすると、来る人が多すぎて困るのかもしれません。

もし、「エゴは作り話である」ということを理解すると、その人は欲望を追いかけるでしょうか。欲望、たとえばお金。それは、私がいると思っているから欲しくなるのではないでしょうか。地位や名誉。家族。そうしたものは、「私の」という枕詞をともなうものです。

もし、「私」が実在ではないのなら、お金や地位や名誉に執着する必要はないような気がします。「私」がいないのなら、誰のためにあくせくしているのでしょうか? セイラーボブの教えていることは、仏教(阿含経)で教えているのと同じで、結局は欲望を追わないことなのではないでしょうか? もし欲望を追わないのなら、悩み事のほとんどは消えてしまいます。執着を捨てられないから悩んでいるのであって、それができれば苦労はしないと言われると困るのですが、そこが仏教の教えの大事なところです。

これは私の勝手な解釈ですが、非二元も欲望を追わないことを教えているような気がします。

2022/09/07

「あなたのものではないもの」は捨てなさい

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その6」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

あなたのものではないものとは「私」、五蘊。そもそも自分自身が私のものではない。それに執着することが苦しみを生む。それを捨てることが安楽への道。
年老いて、死んでゆく自分の体にも執着しなければ、何も恐れるものはない。

「わたしのものはあるのか」2022/9/5【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2022/09/03

非二元を理解するとどんな良いことがあるのか?

先週のブログで、非二元を理解してからは問題が解決するのが速くなった、とジェームズ・ブラハが書いていると書きました。

セイラー・ボブは、「私」は実在ではないと理解すると、「心理的な苦悩が消える」と言いました。ニサルガダッタ・マハラジは、「もう何も悪くはない」と言いました。

「私」は実在ではないということを理解すると、どんな良いことが起きるのかは人それぞれではないかと思います。でも、非二元の教えを理解したからといって、その瞬間から幸せになれるということではないと思います。

人が、「私は幸せだ」と言う時には必ず、比較・区別があります。「以前の私より幸せだ」「あの人より幸せだ」。そして、「私は幸せだ」と言った瞬間に、その対極にある不幸を生み出します。というのも、今ある幸せは、必ず変化して、対極へと動くからです。

私は、自分が幸せだとも、不幸だとも考えないようにしています。どちらもマインドの産物であり、幸せと不幸は必ずペアになっているからです。生きていれば幸せな瞬間もあれば、不幸な瞬間もあります。幸せな瞬間だけ続いて欲しいと思っても、そんなわけにはいきません。不幸な瞬間がなければ幸せはないからです。

じゃあ、「私は実在ではない」と理解すると、どんな良いことがあるのか?

私が思うには、物事に対する対応の仕方が変わるのだと思います。私が実在でなければ、人との差別や区別が消え、思いやりや慈しみが生まれます。争う必要も、過度に欲望を追ってあくせくすることもなくなります。

これは以前にもブログにあげた佐々木閑先生のYouTubeですが、そのあたりのことがとても参考になるので、もう一度掲載させていただきます。

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その44」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ)

 

佐々木閑先生のYouTubeを今後も何本か当ブログで掲載予定ですが、佐々木先生の更新はほぼ二日に一回あるため、掲載が追いつきません。もっと早く見たいという方は、佐々木閑先生のYouTubeで、オンタイムで見てください。

特におすすめは、現在進行中の、佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)(仏陀が蓮の花を持っている絵のもの)です。

2022/09/02

「私」はありもしない架空のもの

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その5」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

五蘊・五取蘊を荷物の比喩で説明。
煩悩を含んだ五蘊を運んでいるのは架空の人である。渇愛(無明)を断てば架空の私は消える。
「私」がいるという思考も、本当はいないと理解する思考も私にプログラムされている。

2022/09/01

この世に永続するものは何もない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その4」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

自分自身に執着しないこと。