2022/09/30
生きている限り、「私」を消すことはできない
2022/09/24
理解がすべてである
2022/09/23
宗教とは何かを考える
2022/09/22
2022/09/21
ルーパ(肉体)は壊れゆくものである
佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その10」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)
2022/09/16
盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む 第11回 (2022年9月)
2022/09/15
この手は私ではない
佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その9」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)
2022/09/14
私とは何か
佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その8」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)
佐々木閑先生のYouTubeは、非二元を理解する大きな助けになると思います。また、非二元を語る上で、仏教を学ぶことは必須なのではないかと思います。
2022/09/10
自由意志はあるのか?
以前このブログで、ベンジャミン・リベット博士の実験のことを書きました。
脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳
「死ぬのが怖い」とはどういうことか
マインド・タイム
「指を動かそうと思う0.35秒前に、脳から指を動かせという指令が出ている」というのがリベットの実験結果です。それで、果たして人間に自由意志はあるのか・ないのかが問題となりました。そのことについて考えてみます。
確かセイラーボブは動画の中で「自由意志でもないし、運命論でもない」と言っていたように記憶しています。ボブがこの類の話をするたびに、じゃぁ一体どっちなんだと思ったものです。
私としては、「あるのはこの瞬間だけである」ため、自由意志を考えたとたんに未来を思考として持ち込むことになり、自由意志のある・なしを考えることそのものがナンセンスだということで納得していました。運命論も同じで、運命を持ち出したとたんに時間という観念を持ち込むことになります。もし、時間などないのなら、自由意志も運命論も考えることそのものがナンセンスです。
問題は、私たちのマインドは「自由意志がある・ない」、「運命は決まっている・いない」と、二元的に割り切ろうとするところにあると思います。要するに、そうした思考はマインドの餌でしかないのです。
最近になって、佐々木閑先生のYouTubeで、なるほどなぁという説明に出会ったので、もう一度載せておきます。佐々木先生曰く、「世界に実体はあるのか?」という問いそのものが誤りであるというのです。「世界に実体はあるのか?」と聞いたとたんに、その前提として、何かの存在を前提としています。その問いに答えること自体が、その存在の有無を容認してしまっているというのです。
そもそも非二元の教え(仏教においても同様)では、自由意志や運命論の主体となる「私」はいないのですから、自由意志や運命論の有無を問うこと自体がナンセンスなのです。それを問うた瞬間に、「私」という存在を前提としてしまっているのです。
セイラーボブも同じようなことを言っていて、「質問が質問者であり、質問がなければ質問者は消える」と言っています。
自由意志があるのか・ないのかを議論すること自体がナンセンスなのです。
この説明は、「死後の世界はあるのか?」「エンライトメントはあるのか?」など、あらゆる問いの答えとしても有効です。もともと「私」は実在でなく、生きてさえいないのですから、死後の世界があるのか、エンライトメントがあるのかと問うこと自体が間違いなのです。
世界に実体はあるのか? 佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その16」
問いが間違っている。(11分ぐらいまでは我慢して聞いてください。そこからが本題)
2022/09/09
自分は存在しないということを理解する機能が自分にはある
「自灯明 法灯明」は私の大好きな言葉です。
ここのところ、佐々木閑先生のYouTubeの転載を続けていますが、佐々木閑先生が紹介してくださる阿含経・相応部の経典は非二元の教えだと言えると思います。
今までの佐々木先生のYouTubeは全部(パーリ語講座を除いて)見ていて、非二元に関連すると思われる箇所はたいていこのブログに取り上げています。すばらしい内容ですが、もっと早く相応部の講義をやっていただけたら、私の下手な仏教のシリーズを書かなくてもよかったのではないかと思う今日このごろです。でも、それを書く途中であれこれ調べているうちに佐々木先生に出会えたのだから、必然といえば必然なんですけど。
仏教、非二元に限定しなくても、佐々木先生のYoTubeは学ぶことが多いし、おもしろいので、これからもどんどん取り上げさせていただきます。
佐々木先生の非二元関連(と私が勝手に思っている)YouTubeは、仏教その他、禅・Buddhismにありますので、もし見逃した方は見てみてください。
2022/09/08
欲望を追わない
阿含経では、「欲望を追うな」と教えています。
佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その3」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)
2022/09/07
「あなたのものではないもの」は捨てなさい
佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その6」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)
あなたのものではないものとは「私」、五蘊。そもそも自分自身が私のものではない。それに執着することが苦しみを生む。それを捨てることが安楽への道。
年老いて、死んでゆく自分の体にも執着しなければ、何も恐れるものはない。
2022/09/03
非二元を理解するとどんな良いことがあるのか?
先週のブログで、非二元を理解してからは問題が解決するのが速くなった、とジェームズ・ブラハが書いていると書きました。
セイラー・ボブは、「私」は実在ではないと理解すると、「心理的な苦悩が消える」と言いました。ニサルガダッタ・マハラジは、「もう何も悪くはない」と言いました。
「私」は実在ではないということを理解すると、どんな良いことが起きるのかは人それぞれではないかと思います。でも、非二元の教えを理解したからといって、その瞬間から幸せになれるということではないと思います。
人が、「私は幸せだ」と言う時には必ず、比較・区別があります。「以前の私より幸せだ」「あの人より幸せだ」。そして、「私は幸せだ」と言った瞬間に、その対極にある不幸を生み出します。というのも、今ある幸せは、必ず変化して、対極へと動くからです。
私は、自分が幸せだとも、不幸だとも考えないようにしています。どちらもマインドの産物であり、幸せと不幸は必ずペアになっているからです。生きていれば幸せな瞬間もあれば、不幸な瞬間もあります。幸せな瞬間だけ続いて欲しいと思っても、そんなわけにはいきません。不幸な瞬間がなければ幸せはないからです。
じゃあ、「私は実在ではない」と理解すると、どんな良いことがあるのか?
私が思うには、物事に対する対応の仕方が変わるのだと思います。私が実在でなければ、人との差別や区別が消え、思いやりや慈しみが生まれます。争う必要も、過度に欲望を追ってあくせくすることもなくなります。
これは以前にもブログにあげた佐々木閑先生のYouTubeですが、そのあたりのことがとても参考になるので、もう一度掲載させていただきます。
佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その44」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ)
佐々木閑先生のYouTubeを今後も何本か当ブログで掲載予定ですが、佐々木先生の更新はほぼ二日に一回あるため、掲載が追いつきません。もっと早く見たいという方は、佐々木閑先生のYouTubeで、オンタイムで見てください。