2022/03/30

春琴抄・日本語の作文技術・実戦 日本語の作文技術・中学生からの作文技術・天平の甍・風の果て・あい永遠にあり・容疑者Xの献身

春琴抄 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎の「文章読本」を読んだので、どんな文章を書くのか興味が湧いて読んでみた。まず文章について書くと、この小説は句読点を極端に省略した文体で書かれている。通常、文章と文章の間にある「。」が省略してある箇所がたくさんあって、最初のうち、とても読みにくかった。おそらく意図してそうしたものと思われる。

物語に関して言えば、大筋はなんとなく知ってはいたが、全然おもしろくなかった。なぜこれが名作なのか全くわからず。

日本語の作文技術  本多勝一
この本を買うのは三回目です。過去二回はずっと昔に断捨離。また読みたくなって買いました。吉川英治の「新平家物語」のブツ切りの文章を読んで、自分も最近同じ傾向があるのではと思い、もう一度この本を読み直そうと思いました。
句読点の打ち方や、長い修飾語の語順をどうすると読みやすい文章が書けるかについて書かれています。いくつかの原則を守るだけで、かなり読みやすい文章を書けるようになります。

なかテン「・」の打ち方について考えさせられました。私が文章を書く場合、「クジラ、ウマ、サル、アザラシなどは」というようにテン「、」を使いますが、本多さんは、なかテン「・」を使うべきだと言っています。なるほどなぁという理由が書いてあるのですが、市販の本では「、」を使った書き方が多い。

また、例えば「セイラー・ボブ」という表記も「セイラー=ボブ」としているそうです。その理由は納得できるものですが、一般的には「セイラー・ボブ」が多い。

今回特に参考になったのは、漢字とひらがな、送り仮名の使い方。漢字とひらがなについては、文章が読みやすくなるように、その場その場で漢字にするかひらがなにするのか決めているということが参考になった。また、送り仮名についても、送るかどうかは、読みやすくなるように、文章によって決めるということ。

また、私はこのブログに翻訳文も書いていますが、翻訳調になってしまうことがあります。なぜ翻訳調になるのかも書いてみえます。この本に書いてあるいくつかの原則を守るだけで、翻訳調を防ぐことができます。文章を書く技術の本としては、今のところこの本がベスト。もう断捨離はしません。

実戦・日本語の作文技術 本多勝一
この本では、句と節の定義が「日本語の作文の技術」と違い、読んでいて少し混乱するところがあります。「日本語の作文の技術」では、『節を先に、句を後に』となっていた箇所が、この本では『句を先に』となっています。「日本語の作文の技術」も『句を先に』に直すべきだと思います。

前半は「日本語の作文技術」の内容の延長ですが、後半は『日本語をめぐる「国語」的状況』となっています。そこでは本多さんがいつも主張されている言語帝国主義、植民地用語としての英語について書いてあります。

長年英語を学び、そして今でも学んでいる身としては考えさせらることがたくさんありました。なぜ英語だけが世界の共通言語であるかのようにまかり通っているのかという疑問。それは言葉による支配、西洋文化を自分たちの文化よりも優れた文化として妄信している卑屈さの表れではないかということを改めて考えさせらました。

その昔私は本多さんの大ファンで、かたっぱしから読んでいた時期があったのですが、途中からちょっとついていけないと思うようになって読まなくなりました。これを読んで、また読んでみようかと思うようになりました。

中学生からの作文技術 本多勝一
内容は「日本語の作文技術」の文章の一部をそのまま転載して中学生向けに編集したもの。基本的にはこれだけ読めばいいような気もします。
本多さんの三冊を読んで、あらためて自分の文章を読みかえしたみたが、本多さんの文章技術をそれほどはずしてはいないと思いました。そりゃあ過去に何回も読んでいるからそうなんですけど、詳しく見ると、不要な句読点を打っていたり、誤解釈されそうな箇所もある。これを機に気を付けていきたい。

天平の甍 井上靖
遣唐使として唐へ渡った僧・普照(ふしょう)が、二十年の歳月をかけて鑑真を日本に連れてくる話。おもしろかった。奈良時代の日本の仏教がどんな状態だったのか、当時の唐の様子や遣唐使たちの生活はどうだったのかがよくわかる。また、どれほど多くの報われない遣唐使がいたのか、どれほど多くの人が仏教を日本に伝えるために努力したのかがわかる。

風の果て(上) 藤沢周平
風の果て(下) 藤沢周平
とてもおもしろかった。ともに青春を過ごした仲間たちがどのような道をたどっていくのか。蝉しぐれよりもこっちのほうが良かった。

あい 永遠に在り 高田郁
実在の人物・関寛斎の妻・あいの物語。まったくすばらしい。こんなふうに一途に生きられたなぁ。

容疑者Xの献身 東野圭吾
う~ん。イマイチ。

2022/03/26

達磨(だるま)②

心の外に仏陀なし

心は仏陀であり、仏陀は心である。心の外には仏陀はいない。そして、仏陀の外に心はない。過去の仏陀、現在の仏陀、未来の仏陀たちは、この同じ心のことを指している。

しかし、混乱した人々はこのことを理解しない。彼らは他を探し続ける。始まりのないほど遠い過去から、終わりのない未来まで、あなたがどこへ行こうと、何にかかわろうと、この心から離れることはできない。それゆえ、心は仏陀であると言われている。仏陀とは、それを理解している人のことである。凡庸な人とは、それを理解しない人のことである。

心はすでに光を放ち、静かに輝いている。それを完全なものにする必要はない。心の外で仏陀となるために何か達成すべきことがあると想像するのは重大な誤りである。その仏陀がどこで見つかるというのか。それがどこからやってくるというのか。

それを例えるために空(くう)の空間を考えてほしい。どうやってあなたは空の空間をつかむことができるだろうか。空の空間というのは名前にすぎない。実際それには形、大きさ、サイズがない。それを見ることはできない。あなたはそれをつかみあげて落とすことはできない。

同様に、想像上の仏陀をさがすということは、空の空間をつかもうとするのと同じである。それはできない。あなたが想像する仏陀は、あなたの心の投影にすぎないというのに、どうやってそれを見つけようというのか。あなた自身の心の外には、見つけるものは何もない。不幸なことに、自身のもともとの心を理解しない人たちは、あれこれと考え、自らの間違った考えにしがみつく。そのやり方では決して解放されることはない。

もし私の言うことを信じなければ、あなたはもっと深い穴に落ちることになる。私の言うことに耳を傾け、あなた自身の心がすでに仏陀であるということを理解しなさい。もし私の言うことに従うなら、あなたが心の外をさがすことはない。仏陀は仏陀によって解放されず、仏陀を心で見ることはできない。

あなたはもうすでに仏陀なのだから、仏陀像を崇拝してはいけない。イメージ上の仏陀に対して祈るような行為にかかわってはいけない。仏陀自身は経典で学ぶこともなければ、教えを守ることもない。仏陀は立派な行為には興味がない。仏陀が善意の原因となることはない。

もしあなたが本当に仏陀を知りたいのなら、一つだけ方法がある。あなたは自身の本質を知らなければならない。私は率直に言っている。もしあなたが自身の本質を知らなければ、仏陀の名を唱え、神聖な経典を読み、礼拝をして誓いを守るというすべての宗教的な行為は全く価値のないものとなる。自身を解放するということに関しては、何の足しにもならない。

仏陀の名を唱えることは将来あなたが何らかの幸福を手にいれるために役立つかもしれない。経典を読めば、知識を増やすのに役立つかもしれない。誰かを助けることはあなたに幸運をもたらすかもしれない。しかし、こうした行為のどれも、あなた自身の本質を理解する助けにはならない。たとえもし万巻の経典すべてを読んだしても、あなたは生と死の海を泳いで自身のカルマを作り続けるだろう。あなたがそうしたことから自由になることはない。

自身の本質を理解しない者は、仏陀に関して無意味なたわ言を言うにすぎない。それゆえ、もし彼らが十二縁起のすべての章を暗唱していて説明することができたとしても、それはたわ言にすぎない。もしそうした人々があなたに、いわゆる宗教的な行いや、あれやこれやを行うことによって何か達成すべきことがあると言うのなら、それは日常的な行いに関する伝統的な教えにすぎない。それは誕生と死の領域の中にあるもの。それはあなたの本質とは何の関係もない。

私の言うことをしっかりと聞きなさい。仏陀とは、主張したり拒絶したりすることとは関係ない。どのような考えや信条に執着していようと、それはあなたが道を達成することをさまたげる。もしあなたが物事に対して自身の考えに執着するなら、そこには仏陀のための余地はない。

自己の本質とは、本質的に空である。そこには純、不純はない。遵守すべきことは何もない。何かを完全にする必要もない。何かを達成する必要もない。仏陀とは、良いことや悪いことをすることとは関係ない。仏陀とは、あれやこれやをすることとは関係ない。仏陀とはまさしく何もしない者である。

あなたが、自分であれやこれやをしなくてはいけないとか、あれやこれやの観念を身につけるやいなや、もはや仏陀の余地は残されていない。あなたの心に仏陀という観念が浮かんだ時点で、それはもう仏陀ではない。それゆえ、仏陀について考えてはならない。観念化してはならない。

そしてまた、無為の意味を誤解している人たちがいる。そうした人たちは、無為とは休止して何もしないことだと思っている。なんという見当ちがいだろう。同様に、それは心を常に空の状態に保つことだと考えている人もいる。それも間違いである。こうした人たちは何もわかっていない。

そしてまた、すべてはもともと初めから空なのだから、自分の思い通りにふるまい、たとえそれが人を傷つけたとしても、自分のやりたいことをやるという人たちもいる。こうした人たちは愚かな酔っ払いのようなものだ。その結果は悪いカルマを積むことだけだ。私が言いたいのは、もしあなたが本当に無為を理解したいのなら、あなた自身の本質を理解することだ。

さて、この心は初めから今ある心と何の違いもない。それは生まれたこともなければ死ぬこともない。それは現れることもなければ消えることもない。増えることもなければ減ることもない。正しかったこともなければ間違っていたこともない。男性であったことも女性であったこともない。若かったことも老いていたこともない。

聖人であったことも普通の人であったこともない。それは原因と結果を超越している。それには形がない。それは空の空間のようなもの。それをつかむことも離すこともできない。心では理解できない。

私が心について話すと、人々はそれを見たがる。「わかりました。ではそれはどこにありますか。もしそれがあるなら見せてください」。彼らは心のただ中にいる。それは朝から晩まであなたの手足を動かし、あれゆる奇跡的な事をやっている。

心は計り知れないほど神秘的で、その機能には制限がない。もしあなたがそれを自身の目で見ようとさがしているなら、決してそれを見ることはない。それは見えるようなものではない。あなたがそのただ中にいても、それを見ることはできない。それゆえ経典では、如来だけがそれを完全に理解できると言っている。

もし仏陀に突然出くわしたとしても、少しも気にとめてはいけない。私は仏陀だったと興奮してはいけない。そうではない。それが何か特別なことだと思ってはいけない。それは単なる幻覚にすぎない。あなたの心がトリックを演じているにすぎない。特別な見せかけや現象が現れても、構わないでおきなさい。私は万一に備えて言っている。

人々は簡単にこうしたことに巻き込まれて、まったくあべこべに理解する。私が話をしている心には姿形がないということを理解しなさい。仏陀には形はない。仏陀にはどんな姿もない。本質には次元も時間もない。

霊や神を礼拝して助けを請うのをやめなさい。それをすれば、自らトラブルを招くことになる。それをやめなさい。形に執着してはならない。それゆえ経典の中では、形あるものはすべて一時的なものであり、究極的には幻影であると言っている。仏陀にはどんな性質も外観もない。

もっとはっきり言えば、仏陀は驚くほど目覚め、気づいている。それが機能として働いている。時々目をまばたきさせ、眉を上げさせる。腕を動かし、足を動かす。こうしたことはすべて、驚くほど目覚めた知性の働きである。

次回へつづく

2022/03/23

自分らしく生きる・覚えておきたい極めつけの名句1000・反応しない練習・苦しまない練習・考えない練習・敦煌・よろずや平四郎活人剣 (下)・夜消える・暗殺の年輪

 自分らしく生きる 中野孝次
エッセイ集。
君はいま、本当に心の充足を感じながら生きているか? 道具や機械、組織や制度に支配されず、本当に自律的な人生を生きているか?あり余るほどの“モノ”に囲まれ、情報や娯楽が氾濫する日常生活。過剰な生産=消費のサイクルの中で、自分らしさを失わずに生きるには、人はいったい何を必要とし、何を必要としないのか。現代を真摯に見つめてきた著者が、迷える若い世代に呼びかける熱い魂のメッセージ。」本の表紙より
 筆者のメッセージは「常に自分の信じるところによって生きよ」ということ。人は世間の価値観や条件付けの中で生きている。それがいかに意味のないことかを問うている。

覚えておきたい極めつけの名句1000
音読用に購入。俳句というのは本当にどうでもいいようなささいなことを詠んで、それでいて「う~ん」とうならせてしまう。
これを音読して名句に親しむつもり。

反応しない練習 草薙龍瞬
苦しまない練習 小池龍之介
考えない練習  小池龍之介
三冊ともタイトルが気になって読んでみました。同じような内容なので一括して感想を書いておきます。
参考になるところはあったのですが、違和感が残りました。何が違和感なのかというと、「練習」ということ。
この本三冊に共通しているのは、反応しないこと、苦しまないこと、考えないことに対して、どういう風に対処したらいいのかということが書いてある。でも、何も根本的な解決になっていない。
セイラー・ボブの教えのように、「『私』は実在しない!以上終わり」とバッサリやった方がすっきりします。それは「練習」ではなくて「理解」なのだと思います。
いちいちの問題に、ああしましょう、こうしましょうとやっていると、玉ねぎの皮向きと同じで永久に終わらない。
二人とも僧侶なので、「無」や釈尊の教えからバッサリとやる方法が書いてあるのかと思ったけど、それはなかった。

敦煌 井上靖
仏教のことをブログに書くために仏教関係の本を読んだ時、何度も何度も出てきた敦煌文書。どのように発見され、その多くがどうやって国外に持ち出されたかは仏教関係の本で知った。その敦煌がテーマになっている小説なので読んでみた。
まったくすばらしい。あっという間に読んでしまった。
物語は主人公の意図とはまったく関係なく、予想もしない方向へと展開していく。わくわくして読んだ
以下本の扉より
「官吏任用試験に失敗した趙行徳は、開封の町で、全裸の西夏の女が売りに出されているのを救ってやった。その時彼女は趙に一枚の小さな布切れを与えたが、そこに記された異様な形の文字は彼の運命を変えることになる……。
西夏との戦いによって敦煌が滅びる時に洞窟に隠された万巻の経典が、二十世紀になってはじめて陽の目を見たという史実をもとに描く壮大な歴史ロマン。」

夜消える  藤沢 周平
短編集。いまいちかなあ。

暗殺の年輪  藤沢 周平
短編集。ぞっとするような話ばかり。でもそれがよかった。

よろずや平四郎活人剣 (下) 藤沢周平
おもしろかった~。主人公のキャラクター大好き。

2022/03/19

禅(ぜん) 達磨(だるま)①

「禅」という言葉を広辞苑でひいてみました。

ぜん【禅】
① 略。
②〔仏〕(梵語dhyyanaの音写。禅那とも)心を安定・統一させる修行法。禅定(ぜんじょう)。六波羅蜜の第五。
③禅宗の略。

明鏡国語辞典では、

ぜん【禅】
①雑念を捨てて精神を集中させ、無我の境地に入って真理を悟ること。「座禅・参禅」禅那の略。
②禅宗。 「禅僧・禅問答」
③「座禅」の略。

禅という言葉は、古代インド語であるパーリ語の dhyana(静かに考えるという意味)の俗語形jhanaが中国語で音写されて禅となったものだそうです。

インドでは、仏教以前からヨーガ(瞑想)による修養がさかんに行われてきました。仏教もその影響を受けていて、仏教の基礎的修道論である三学(戒・定・慧:かい・じょう・え)の一つに定(禅定)があります。三学とは仏語で、仏道修行に必要な三つの大切な事柄のこと。悪をやめる戒め(戒)、心の平静を得るための禅定(定)と、真実を悟る智慧(慧)のことです。

禅という漢字は現在の中国語ではchan(チェン)、日本語ではzen(ゼン)と発音され、欧米では両者を併用するようですが、二人の鈴木(鈴木大拙:たいせつ鈴木俊隆:しゅんりゅう)の活躍によって、アメリカでは zen と呼ばれる場合が多いようです 。英語表記では、Ch’an もしくは Zen。

禅とは、仏教の修養法(瞑想)のことであり、仏教経典の中に、その修養法について書かれたものがあって、それが中国へもたらされました。達磨以前に禅を中国へ伝えた人もたくさんいたのですが、中国での禅は達磨以降に大いに発展したことにより、禅は達磨から始まったと言われています。このブログでは達磨以降の禅について書く予定です。達磨以前の中国の禅の歴史について興味のある方は、禅と悟りというサイトを参照してください。

中国で発展した禅は、禅宗と呼ばれるようになります。釈尊が説いた初期仏教と禅宗の最大の違いは、作務(さむ)です。釈尊の説かれた仏教では、たとえば畑で作物を育てるというような生産活動は禁止されていましたが、禅宗では修行の一環として作務に積極的に取り組むようになりました。

もともとの仏教では、修行に専念するため、生産活動に従事することは禁止され、托鉢などをして社会に依存していましたが、禅宗においては作務そのものが修養の一環となったのです。

中国における禅の系譜

開祖 菩提達磨(だるま・ボーディダルマ:生年不明 、釈迦から28代目とされる)
二祖 大祖慧可(えか:487年~529年)
三祖   鑑智僧璨(そうさん:推定500年~505年頃 信心銘の作者)
四祖 大医道信(どうしん:580年~651年)
五祖 大満弘忍(ぐにん:601年~674年)
六祖 大鑑慧能(えのう:632年~713年 六祖壇教の作者)
八祖 馬祖道一(ばそどういつ:709年~788年)

さらに六祖慧能が起点となって、それから急速に禅が中国国内に広まり、五家七宗と呼ばれる禅の興隆時代へと入っていきます。(詳しくは禅の視点 - life -を参照してください)

日本における禅の歴史

12世紀に入り栄西禅師が中国へ渡って禅を学び、印可を受けて日本に戻ることによって、禅が本格的に日本へともたらされます。

日本の禅宗で現在も残っているのは、臨済宗、曹洞宗、黄檗(おうばく)宗の三宗です。栄西と道元は中国へ渡って学んだ僧であり、隠元は中国からやってきた僧です。

臨済宗(開祖は栄西:1141年~1215年、一休、盤珪、白隠)
曹洞宗(開祖は道元:1200年~1253年、良寛、永平寺)
黄檗宗(開祖は隠元:1592年~1673年、いんげん豆や煎茶をもたらした)

ちなみに、文化庁がまとめた平成28年版(平成29年2月発表)の「宗教年鑑」によると、曹洞宗の信者数は351万人、臨済宗妙心寺派は36万人だそうです。私の家は臨済宗妙心寺派です。中国で起こった禅が脈々と私までつながっているというのはおもしろいですね。

達磨(だるま)

達磨については詳しいことがわかっていません。その存在すらも疑う学者も多いようです。伝説として伝わっていることを簡単にまとめておきます。

南インドの香至国(こうしこく)の第三王子で、本名を菩提多羅(ぼだいたら)という。520年にインドから金陵(南京)へやってきた。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。南朝梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、インドからやって来た高僧(達磨)を喜んで迎え、質問した。

「あなたはどんな教えで人々を救済されるのか」
「どんな教えも持っていません」
「私は王となって以来、寺を建て、人を救い、写経もし、仏像も作ったが、いかなる功徳があるだろうか」
「何もありません」
「どうしてないのか」
「それはみな形として現れた善行ですが、真の功徳とはいえません」
「真の功徳とはどういうものか」
「廓然無聖」(かくねんむしょう:大空のようにからりと晴れあがったもの)
「私と話している者は誰だ」
「まったくわかりません」

達磨は梁を去り、洛陽の嵩山(すうざん)少林寺に行くが、入場を断られたたため、近くの洞窟に入り、壁に向かって座禅をした。

ある寒い雪の日、達磨が壁に向かって座禅をしていると、一人の男がやってきて弟子入りを請うたが無視される。男は何年にもわたって修行し、経典を読みあさったが、納得がいかず、達磨を訪ねたのだった。

男は夜通し立ち尽くし、やがて雪は膝の上まで積もった。そこで達磨が話かけると、男は達磨に弟子入りを願い出た。しかし達磨は冷たく言った。

「仏の道はたやすい道ではない。覚悟がなければ道は開けぬ」

すると男は刀を取り出して自分の左腕を切り落として差し出し、弟子入りが世俗的な動機ではないということを示した。

「おまえが腕を切り落としたのどうしてか?」達磨は尋ねた。

「私の心は安らかではありません。どうか私の心を安らかにしてください」

「ではその心を出して見せろ。安らかにしてやろう」

「心を探しましたが、つかまえることはできません」

「これでお前の心は安らかになった」

達磨はその男を弟子として認めた。それが二祖、慧可である。達磨は嵩山で9年間座禅をしたが、その間弟子に取ったのは慧可だけだった。

達磨は150歳で亡くなったとされる。達磨の死後3年後、宋の役人がパミール高原の葱嶺(そうれい)という場所で達磨に出会ったという。その時達磨は一本のさおをかついで歩いており、そのさおの先にはサンダルの片方だけがぶらさがっていた。

役人が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る。あなたの主君はすでに亡くなられた」と答えたという。役人は帰国してから主君が亡くなったことを知り、このことを話してまわった。それを聞いた孝荘帝が不思議に思い、達磨の墓を開けさせると、棺の中にはサンダルが片方のみ残されていたという。

***

達磨の語録とされるものに、「二入四行論」(ににゅうしぎょうろん)があります。これは、達磨が弟子に示した教えを記録したものとされてきた禅の典籍で、自己修養の入り方・行じ方に関するものですが、その説明は私の手に余るので、専門家の説明を聞いてください。

【禅とこころ / 禅の思想に学ぶ】第1回 達磨の教え | 花園大学総長 横田南嶺

【禅とこころ / 禅の思想に学ぶ】第2回 達磨の教え | 花園大学総長 横田南嶺

参考サイト

禅の視点 - life -
禅と悟り
Wikipedia 鈴木大拙
Wikipedia 鈴木俊隆
Wikipedia 禅
Wikipedia 達磨
夏期講座 令和二年特別編】:「無門関 第四十一則

参考図書

禅とは何か-それは達磨から始まった (中公文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門
禅の語録 20 導読 (シリーズ・全集) 

2022/03/16

ひらめく! 作れる! 俳句ドリル・俳句のための文語文法 実作編・俳句 ・文庫 俳句発想法 100の季語・俳句鑑賞入門 ・俳句歳時記夏 ・俳句歳時記春

 ひらめく! 作れる! 俳句ドリル 岸本 尚毅 ・夏井 いつき 
俳句の練習ドリル。俳句の一部が空欄になっていて、そこに 自分で作ったフレーズを入れて練習するというもの。でもこれだと単なる言葉遊びになってしまう。どういう句を作るとかというヒントが欲しいかったが、そういう点では全く役にたたなかった。

角川俳句ライブラリー 俳句のための文語文法 実作編  佐藤 郁良
日本語の文法を学んでも日本語が上達しないのと同じで、俳句を文法から学ぼうとするのは無理だということがわかった。

俳句 (講談社学術文庫)  阿部 ショウ人
こういう俳句がダメだという例がいっぱい書いてある。分厚い本で読みずらい。途中で、ダメな例を読んでも上達しないし、ダメな俳句はワシでも作れるということに気づいて、読むのをやめた。

文庫 俳句発想法 100の季語 ひらのこぼ
100の季語にそれぞれいくつか有名な人の俳句が載せてある。こういうことを俳句にすればいいのかと大いに参考になった。

俳句鑑賞入門 山口誓子
有名な句に山口誓子が解説したもの。解説がわかりやすく、文章がすばらしい。読み物としてすばらしい。

俳句歳時記 第五版 春 (角川ソフィア文庫)
俳句歳時記 第五版 夏 (角川ソフィア文庫)
他の歳時記も欲しくなって買った。

2022/03/12

華厳経・楞伽経(けごんきょう・りょうがきょう)

中村元先生の 『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) を参考にして、非二元的な部分を要約して掲載させていただきます。

華厳経(けごんきょう)

事事無礙(じじむげ)

「事」とは現象、あるいは現象界の事実。「無礙」とは物質的に場所を占有しないということ。事事無礙ということば自体は華厳宗の言葉で、ものごとは一つ一つお互いに異なっているのではなく、溶け合っているという意味。

「じじむげ‐ほっかい【事事無礙法界・事事無碍法界】仏語。華厳宗でいう四法界の一つ。現象世界のすべてのものごとが相互に関連・融合し、そのままで真実の世界を完成していること。究極のさとりの眼から見た存在の世界のあり方。コトバンクから

私たちは通常、自然界において、物理的な空間に何か物があると、その場所を他の物が占有することはできないため、その物は独立した存在だと考えています。でも、実際には、例えばミクロの世界を考えた場合、その物体以外の物も存在していて、互いに共存していると考えることもできます。

そしてまた、物質と物質は様々な因果によってつながっています。例えば人間は、その体だけでは存在できず、空気が必要であり、適当な温度、空間などが必要です。もちろん、よって立つ地球が必要であり、太陽が必要です。

そうして考えると、人間は地球とも宇宙ともつながっていると言えます。このように、物と物が決して無関係ではなく、見えないところで結ばれている。それを法界縁起といいます。そう考えると、私、他人という区別がなくなります。

華厳経の根底にあるのは縁起の思想です。縁起の思想は仏教の中心思想であり、いかなるものも孤立して存在するのではなく、すべてのものは相寄って存在するという思想です。

この縁起のつながりは、人と人とのあいだに限りません。人と物もそうです。あなたの着ている服が綿であるなら、その綿は中国やインドとつながっていて、それを栽培した人、日本へ運んだ人、縫製した人とつながっています。

当然、綿は大地とつながっていて、太陽の光とつながっています。つまり、宇宙とつながっています。そう考えると、この世のあるゆる物がつながっています。

非二元的に解釈するなら、縁起ゆえに万物は一つのものと言えるのではないでしょうか。そこには独立した物は存在しない。また、独立した物が存在しないがゆえに空であると言えるのではないでしょうか。

さて経典に入ります。と言っても、経文を書くことができないので、(やればできるかもしれないけど、あまり意味がないので)経文の漢文書き下しを書きます。経典そのものを知りたい方は参考サイトで見てください。奈良の東大寺では、儀式の時に、この唯心偈(ゆいしんげ)を三回唱えることになっているそうです。

****

唯心偈(ゆいしんげ)抜粋

心は工(たく)みなる画師(がし)の如(ごと)く 種種の五陰(ごうん)を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾(しか)り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉(ことごと)く了知す 一切は心從(よ)り転ずと

その意味は、

心は巧みな画家のようなものであり、あらゆるものを描きだし、
この世界の中にはそれ以外のものはない。
心と同じように、仏もそうであり、人々もそうである。
心と仏と人々も皆、この三者は同じように、心が描きだしたものである。
仏たちはこのことを知っている。すべては心から現れていると。

***

世界はどこに現れているのか。心、意識です。巧みな絵描きが書いたように、心に世界は現れている。これはすでに書いた唯識の教えと同じことを教えているのだと思います。そして、心と同じように仏も人々もそうだと言っています。

中村先生は「心がなければ、外界のものも在るとは認められないわけで、心があってこそ、在るということができます。仏も同じです。衆生もまた同じです。心と仏と衆生のこの三つは区別のないものです。つまり仏は、私たち凡夫から遠く離れたものだと人々は思いがちですが、そうではなく、仏も本来は衆生であり、それをさらにつきつめて考えると心にほかならないというのです」と言ってみえます。

つまり、心が仏であると言ってみえます。

楞伽経(りょうがきょう)

楞伽とは、スリランカのランカを音写して漢字をあてたものだそうです。内容としては、釈迦がランカー島(スリランカ)を訪れて、ラーヴァナ王と対話するというものです。伝説によれば、楞伽経を中国に伝えたのは達磨であり、禅宗に大きな影響を与えました。

内容は唯識で教えていることと同じです。漢文書き下し文は長いし、掲載するのが大変なので省略して、書き下し文のみ掲載します。

***

あるとき、仏は大勢の菩薩(ぼさつ:修行者のこと)とともに、大きな海辺のそばの摩羅耶山(まらやさん)の頂にある、スリランカの町の中にいらっしゃいました。「城」というのは城壁に囲まれた都市のことです。そのもろもろの菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)はことごとくすでに、五法(ごほう)、三性(さんしょう)、諸識(しょしき)の義に通達していました。

摩訶薩は「マハーサッドヴァ(mahasattva)」の音を写したもので、「立派な人」「偉い人」という意味です。また無我の義でふつういわれるのは法(ほう)無我と人(にん)無我ですが、法無我というのは、個体存在としての我というものは、そのとおりには存在しないで、もろもろの要素から構成されているということです。

そしてもろもろの対象は、自分の心の現し出したものであることをよく知っています。いかなる対象でも、自分の心に意識されているから存在するのだということをいっています。
(以上『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) p180より)

***

仏は修行の方法について尋ねられて、それに答えています。ここでも漢文は省略して、説明文のみ掲載します。

***

ここでは(大修行)を説いているわけですが、それは苦行をしたり、特別の実践法を行うことではなくて、真理を観ずることにほかならないのです。それは四種類のしかたがあります。
(一)現象世界の種々なるすがたは、自分の心の現し出したものだという道理を体得することです。唯識の理(ことわり)を知ることだといってもよいでしょう。
(二)現象世界の諸事物が生起し、住(とどまり)、消滅するのは、仮のすがたである、と知ることです。
(三)外界の事物には実体がない、ということを知るのです。空の理を体得するのです。
(四)真理は自分で直観しなければならない、ということです。

(以上『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) p210より)

***

まとまりのないブログになってしまったかもしれませんが、全体をまとめるのは大変なので、非二元的な部分のみ抜粋して書きました。

こうして見ると、大乗仏教、禅というのは非二元そのものだという気がします。

参考文献

『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)

参考サイト

Wikipedia 華厳経

Wikipedia 楞伽経

総本山智積院HP

名文電子読本・解説サイト(華厳経 唯心偈)

円覚寺 唯心の教え

2022/03/09

文章読本・翻訳語成立事情・理科系の作文技術・久保田万太郎句集

翻訳家の夏目大さんがYouTubeで、「翻訳をする人の必読書三冊」として紹介してみえるので、その三冊(文章読本 (中公文庫)翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)理科系の作文技術(リフロー版) (中公新書))を読んだ。

文章読本 (中公文庫) 谷崎潤一郎
驚いたのは、谷崎潤一郎は作品によって文体や句読点の打ち方を意図的に変えているということ。
ある小説ではひらがなを多用したり、ある小説では句読点をあまり打たないようにしたり、逆に頻繁に打ったりしているという。そんなことまでして小説を書いているとは知らなかった。
参考になった点は句読点の打ち方。読み手が一息ついて欲しいところに打っているという。この点は多いに納得。
それと、私はこのブログで文章を翻訳して載せているが、本来訳さなくてもよい代名詞や指示代名詞を訳しているということがよくわかった。この本は多いに参考になた。

この本は驚くことばかり。私たちが日常で何げなく使っている言葉の中に、明治以前には日本語になかった言葉がたくさんあり、それは翻訳によって新しく作られた言葉だという。
たとえば、「恋愛」「社会」「個人」「美」「自然」「権利」「自由」「彼」「彼女」。
そして、その訳語が、本来の英語とズレていて、そのまま今でもズレたまま使われているという。
たとえば「恋愛」とは何だ?と聞かれても何となく理解はしているが、はっきりとは説明できない。「社会」なんてもっとわからない。こうした言葉は、翻訳されて何度も何度も目にするうちに、「だいたいこういう意味で、こういう状況で使われる」という暗黙の了解ができてみんなが使っているだけで、実はよく意味がわかっていないという。「自由」などは、日本語では「俺の勝手だ」という意味で「俺の自由だ」と言うが、もともとの"liberty"にはそいう意味はなかったという。
それと、セイラー・ボブのブログの中で『I Am That 私は在る』の「私は在る」という訳はおかしい、「私はいる」が正しいのではないかと書いて覚えがあるが、この本でも同じことを言っていて、「私は在る」は日本語としては間違いだという。
私は存在するという訳から、私は在るという訳になったのではないかと筆者は指摘している。この本も多いに参考になった。

この本は理系の報告書を書くときのテキストとして100万部以上売れているそうです。例として引き合いに出されているものの多くが理系の研究報告のようなものが多く、ついていけない部分が大半。個人的にはあんまり参考にならなかった。

以上の三冊はある程度参考になったのですが、これを読んだからといって、技術的に文章や翻訳が上手になるということはないような気がします。私が今まで読んだ作文の技術に関する本では、本多勝一さんの日本語の作文技術が一番良かったです。
翻訳関連では安西徹雄 翻訳英文法ー訳し方のルール翻訳英文法トレーニング・マニュアルが良かった。
翻訳に関して言えば、夏目大さんのYouTubeがとても参考になります。夏目さんは翻訳学校の先生もやってみえます。

久保田万太郎俳句集
あれこれの本を読んでいるうちに、久保田万太郎の句がいいなあと思って買ってみた。座右の書にして少しづつ読むつもり。座右の書が増えてきて、困ったな~。断捨離派ではなくなりつつある今日この頃。ささやかな欲望に捕らわれつつある今日この頃。
一句載せておきます
神田川祭の中をながれけり  

2022/03/05

華厳

華厳経とは何かというと、奈良の大仏様のもととなった経典です。
では奈良の大仏様(毘盧遮那仏)とは何か?
あれは釈尊そのものではありません。

吉田叡禮さんの説明によると、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ、略して盧遮那仏:るしゃなぶつ)は釈尊が悟った「大宇宙の真理」のことを言うそうです。すべての仏の集合体と言ってもいいし、宇宙にまんべんなく広がるパワーと言ってもいい。そういったものの象徴としての仏だそうです。(ようわからん)

華厳経とは具体的に何かいうと、もともとはインドにあった経典の一部を、四世紀末から五世紀初頭に中央アジアのコータン(現在の新疆ウイグル自治区)で編纂されたと言われています。

華厳とはどう意味かというと、華(はな)で厳か(おごそか)に飾ると言う意味。華厳とは、花で飾られた荘厳な仏の世界の教えという意味。

華厳経に何が書かれているかというと、大きく分けると四つの要素からなる。(実際に教えを説くのは廬舎那仏ではなく、脇を固める菩薩が説いていきます)

①廬舎那仏が不動のまま地上から天へ行って、また地上に降りる。
釈尊が菩提樹の下で悟りを開くと、釈尊は動かないけれど、廬舎那仏は7つの世界を移動する。

②「蓮華蔵世界」を中心とする宇宙観
蓮華蔵世界の説明

③華厳の哲学的世界観

④善財童子が53の師に会って修行をする話。

私が華厳経の中に非二元があるというのは、③の部分です。
華厳経の中には様々な思想が説かれています。唯心、如来蔵思想、空もあります。その中でも中心となる思想は「一即一切・一切即一:いっそくいっさい・いっさいそくいち」「一入一切・一切一入:いちにゅういっさい・いっさいいちにゅう」「事事無碍法界:じじむげほっかい」「融通無碍:ゆうづうむげ」です。

「一即一切・一切即一」「一入一切・一切一入」とは何かというと、「一つのものが全部・全部が一つのもの」「一瞬が全体であり、全体が一瞬である」という意味です。「事事無碍法界」とは、事物と事物とが、さまたげなく溶けあっている世界。

今回は私が説明するよりも、専門家にお願いすることにしました。

華厳経の世界観1「唯心思想」吉田叡禮

唯心の思想というのは、他の多くの仏教の根底にあります。空の思想も同様です。

華厳経の世界観3 「ミクロとマクロ」吉田叡禮

華厳の教える世界は、宇宙の隅々まで、どこへ行ってもそこには仏がいる世界です。
これはまさしく非二元の世界ではないでしょうか。

吉田叡禮さんのYouTubeチャンネルはとても勉強になります。吉田叡禮さんは、華厳経と中国の初期の禅が専門だそうです。華厳経を詳しく知りたい方は、華厳に関するものを順番に見ていくといいと思います。専門に学ぶ学生向けのものが多く、ちょっと難しいかもしれません。

参考文献
仏教の思想 6 無限の世界観<華厳> (角川ソフィア文庫) 
講座・大乗仏教 3 華厳思想 
『華厳五教章』を読む 
華厳とは何か 〈新装版〉
華厳思想 (1960年) 
華厳の思想 (講談社学術文庫) 
鈴木大拙全集〈第5巻〉般若経の哲学と宗教.華厳の研究.金剛経の禅.楞伽経.楞伽経研究序論 (1981年)

参考サイト
NHKこころの時代:さとりへの道―華厳経に学ぶ(652回~657回)

2022/03/02

三屋清左衛門残日録・よろずや平四郎活人剣・新平家物語・子規365日・夏井いつき365日季語手帳

三屋清左衛門残日録 (文春文庫) 藤沢周平
そんなにおもしろくなかった。身につまされるような話が多くて、しんどい感じがした。読んでいるうちに、若気の至りというか、自分もやってきたような過ちがあれこれ思い出されて考えさせられた。そういうことにちゃんと向き合えるような歳になったということかもしれない。

新装版 よろずや平四郎活人剣 (上) (文春文庫) 藤沢周平
これはおもしろかった。冷や飯喰いの下級武士浪人が、ひょんなことから揉め事の仲裁屋を始め、揉め事を解決していく。揉め事はどれも江戸の庶民の他愛のない話。痛快、爽快な読後感。

新・平家物語(一) (吉川英治歴史時代文庫) 吉川英治
半分読んだところで中止。何がいけないかというと、物語の設定が史実と違いすぎる。まず、物語の冒頭で清盛は父忠盛の命令で親戚へ借金をしに行く。忠盛は貧乏でしょっちゅう清盛を借金に行かせたことになっているが、これは史実と違う。忠盛は日宋貿易で莫大な金を設けていたし、官位も高く裕福であった。
次に、清盛と他の兄弟が血のつながった兄弟のように描かれているが、これも違う。母である祇園女御と同居していたような設定になっているがこれも違う。乳母(めのと)というシステムを無視している。
そして、極めつけは吉川英治の文章。やたらと句読点が多くて読みづらい。いわゆる講談調で書かれていて読みづらい。文章に宮尾登美子や藤沢周平のような品格がない。これを全16巻最後まで読むのはしんどい。
YouTube恐るべし。現代語訳の平家物語の朗読があった。代わりにこれを聞くべ。
【古典朗読】現代語訳 平家物語(1)/尾崎士郎

子規365日 (朝日文庫)
この句集は子規の俳句が一日一日その季節の季語にあわせて載せてある。子規の句を季節毎に載せてあるという点で優れている。子規句集 (岩波文庫) の方は2,306句載っていて、あんまりよくないものもあるが、これは夏井さんが選んだ365句だけなので読みやすい。座右の書としたい。

この本も一日一日その季節の季語と俳句が載っている。毎日参考にしていく予定。ただ、今は使わないだろうなぁという季語も多い。歳時記を見た方が便利かも。