Takuさん、こんにちは。
今私は「ただそれだけ」を6回目を読んでいます。
どこかでTakuさんは7回読んでセイラーボブさんに会いに行っ
た。じゃあボブさんに会いに行けそうもない私は8回読もうと決め
く)。2回目くらいからはTakuさんが書いておられた和訳で変
入れて読んでいます。「ただそれだけ」とTakuさんのブログを
あきらかに「自分」というものが変化していきます(うわべ上)。
にしています。
セツ
セツさん、おたよりありがとうございます。
私はセイラーボブに会う前に、「ただそれだけ」を7回読み、会ってからも何回か読みました。そして今でも時々拾い読みしています。
不思議なことに、何回読んでも新たな発見や深みがあって、飽きることがありません。
これは高木悠鼓さんの翻訳がすばらしいからだと思います。
私は、生意気にも、こういうふうに解釈したらどうでしょうかと、何か所かを変えて読むように提案させていただきましたが、それは理解するための方便であって、高木さんの翻訳が悪いという意味ではありません。
高木さんの翻訳は原文に忠実で正確。なおかつ読みやすいです。セイラーボブは権威をもって難しい表現を使う場合も多く、原文に忠実に翻訳すると、かえってわかりづらくなる時があります。翻訳家としては原文に忠実に訳さないわけにはいかないのでしょうけど。
それともう一つすばらしいと思うのは、セイラーボブの話すトーン(調子)についてです。私はミーティングで直接横で何度も聞いていますが、ボブの話すトーンを、高木さんは正確にとらえてみえると思います。
最初に私がブログでボブの spiel を書いた時は、今よりももう少し上から目線の偉そうなトーンで書いていましたが、どうも違う感じがして、結局途中で全部書き直して、高木さんの翻訳のトーンと同じトーンにしました。それが一番近い感じがします。
「ただそれだけ」は何度も繰り返して読むに値する本だと思います。でも、どこかの時点で、理解できないところや納得できないところを突き詰めて考えながら、じっくりと深く読むことが大切だと思います。
ブログの方は何かもっとわかりやすい方法はないかと考えています。これからもよろしくお願いします。
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ついでに「ただそれだけ」についてもう少し。
セイラーボブ関連の本で一番よく読むのは、「ただそれだけ」(日本語版)です。
もう何回も通して読んでいますが、あらためてすばらしい本だと思います。
私はセイラーボブに会う前に、この本を7回読みましたが、書いてあることがサッパリ理解できませんでした。一番大きな間違いは、セイラーボブが覚醒した人だと思っていたことです。
覚醒した人の視点で語られ本だと勝手に思い込んで読んでいたことが理解を妨げていました。セイラーボブは覚醒した人ではない、覚醒なんてものはない、という視点で読むことが大前提です。
ボブのミーティングに出始めた頃、私はボブにエンライトメントがなぜないのか、どうして万物は一つなのか、という質問ばかり繰り返していました。
ある時、オーストラリア在住の日本人がミーティングに来た時に、ギルバートはその人に、「日本で(ただそれだけ)は、ちゃんと翻訳されているのか?」と聞いたそうです。
その日本人の方はもう何十年もオーストラリアに住んでいて、私よりもはるかに英語が堪能な方です。
私はその話を聞いてピンときました。たぶんギルバートは、私があんまりトンチンカンな質問ばかりするのでそう聞いたのだろうと思いました。
「ただそれだけ」の翻訳は何も問題なく、すばらしいと思います。
今も時々読み返しているのですが、セイラーボブの教えはこの一冊に詰まっています。
問題は読み手である私にありました。
もしセイラーボブが覚醒した人ではないという前提で読むなら、この本は全く別の本になります。
ミーティングに参加する英語ネイティブの人たちは、「どうしてエンライトメントはないの?」という質問をほとんどしません。参加したミーティングでも、YouTubeでも、ごく限られた例外を除いて、そういう場面を見た記憶がありません。
なぜそうなのだろうかと考えると、日本語で手に入るボブの本は、「ただそれだけ」しかないことだと思います。「ただそれだけ」は2011年に発売されました。英語版は2010年です。
英語ネイティブの人の大半は、2006年に発売されたジェームズ・ブラハの「LIVING REALITY」を読んだり、1998年のボブのアムステルダムでのインタビューを見たりしたあとでボブのミーティングにやってきます。その本やインタビューでは、エンライトメントなどないと、ボブははっきり言っています。
その前提がなくて、「ただそれだけ」を読むと、私のようにサッパリ理解できないのではないでしょうか。
セイラーボブの教えを完全に理解したあとで「ただそれだけ」を読んで、どうしてこれが理解できなかったんだろう、この本にすべて書いてあるじゃないか、と思いました。
エンライトメントも覚醒も特別な理解もシフトも起きないと知って読むと、普通の理解力でこの本を理解しようと読みます。実はそれがとても重要だと思います。
普通の理解力で読むしかないとわかっていても、やはり理解できない部分は残ります。セイラーボブの話は、ポインター(指し示すもの)であって、そのものではありません。
その理解できない部分を、ああでもない、こうでもない、と考えているうちに、だんだんと理解が起ってくるのではないかと思います。何か特別な理解が起きるわけではありません。
「万物は一つ」はどうしてそうなんだ?と聞かれても、だってそうじゃないか、としか言いようがありません。「どうして私はいないのか?」と聞かれても、自分で調べてみてよ、としか言いようがありません。
私は入手可能な英語版のセイラーボブの本は全部読んでいますが、「ただそれだけ」の内容が、その他の英語版の本と比べて劣ると感じたことはありません。
英語版の他の本を読めば、ボブの教えをスッキリ理解できるということはなく、結局のところ、ボブの言っていることを自分で調べるしか理解の方法はないのです。
そして、セイラーボブの教えを理解できても、できなくても、何の違いもありません。
セイラーボブも私もあなたも、何の違いもありません。セイラーボブが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではないからです。それはもうすでにある何かです。
ただそれだけです。