はじめまして。
ちょっと質問があり連絡しました。
「「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べる」この自分
は、具体的にはどういうことを指しているのでしょうか。もし教え
かります。よろしくお願いします。
kei
「非二元を理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べることです。」なんて偉そうなことを前回のブログで書いておきながら、では具体的にはどういうことを指しているのかという鋭い質問をされると返事に困ってしまいます。
どういうふうに調べたらいいのかという具体的な方法を聞いてみえるのだと思いますが、決まったやり方があるわけではありません。
非二元、つまりはセイラーボブの教えを理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べて、それが実在ではないと知ることですが、それを知るためにはセイラーボブの教えそのものを理解しないといけません。
私の書いた文章は、あくまでポインターであって、パラドックスなのです。理解すべきことはたった一つでも、それを理解するためには、セイラーボブの教えの全体を理解しないといけません。なぜなら、その答えはセイラーボブの教えの全体を理解した時に自然に出てくるからです。
つれない言い方をすれば、このブログと「ただそれだけ」を何度も読んでください、ということになってしまうのですが、それでは質問の回答にはならないので、具体的な方法についていくつか書いてみます。
セイラーボブが講話の中で話す最も代表的な方法は、「私」という存在が体とマインドなのかを調べることです。もし体だというのなら、それはどこから始まったのか? どこに中心があるのか?
マインドだというのなら、あなたは思考なのか? どの思考があなたなのか? 思考がない時にあなたはいないのか? この続きは Spiel の中で出てきますので、ここでは書きませんが、そういった質問を自分に自問してみてください。
また別の方法としては、I am.(私はある)という存在の感覚を調べてみることです。
I am.(私はある)という存在の感覚はどこからやってくるのか? それは何なのか? 私は実際にある(いる)のかを自問して調べてみることです。このあたりのことは、「ただそれだけ」のp.111~135,190~200あたりが参考になると思います。
そしてもう一つの方法は、「今ここにある意識」について調べることです。
私の場合は、これが理解できたことが決め手となって、「私」はいないという理解が起きました。
私は、「私」という存在はマインド、つまりは思考だと思っていました。でも、調べてみると、思考の前に、「今ここにある意識」があり、思考はただ単に、「今ここにある意識」の中にやって来ては去っていく実体のないものであるということが理解できました。
そして、私が「私」だと思っているものは、そうして起こっては去っていく思考の記憶の累積にすぎず、実体のないものであるということを理解しました。
古いアルバムを見ると、子供の頃の写真があって、中には全く記憶のない写真もあります。自分の記憶にないということは、写真に残っていたとしても、自分だとは言えないのではないですか?
記憶にない写真が自分の子供の時の記憶になっていませんか? それは本当にあなたでしたか?
では、記憶にある場面の写真はどうですか? 確かにあの時遠足であそこへ行って皆と写真を撮った。その時の写真だ。でも、体は子供だし、何を考えていたかも思い出せない。でも、遠足に行った記憶はある。そうやって覚えていたとしても、それは記憶にすぎません。
そうした記憶が累積して。「私」を構成しています。では、その累積した記憶が私ですか? 記憶は思考であり、実体のないものです。やがては忘れてしまいます。では、私とは何ですか? 私とは思考ではありません。本当の私は写真の中にいるのではなく、その写真を見ている「今ここにある意識」なのではないですか?
名前、性別、体、言語、家族のこと、友達のこと、すべては後天的に学んだことで、それを「私」という思考にくっつけて自分だと思い込んで記憶しています。そうした記憶の累積を「私」だと思い込んでいますが、私は記憶の集積ではありません。記憶のある場所、思考の現れる場所である「今ここにある意識」こそが私であるということを私は理解しました。それは体でもマインドでもありません。
今ここで写真を見ている「今ここにある意識」は、名前、性別、体、言語、家族のこと、友達のことなどすべてとは全く関係なしに実在しています。それは、何も付け足されない裸のままの「今ここにある意識」です。それが本当の私です。それがセイラーボブがアウエアネス、知性エネルギーと呼ぶものです。
それが理解できた時に、ドミノ倒しのようにセイラーボブの教えの全体がクリアーになりました。でも、これはあくまで私の場合であって、理解の仕方や起こり方は人それぞれだと思います。
セイラーボブの話を何度も聞いているうちに、「私」は実在ではないと自然に実感するようになったという人もいます。
「ただそれだけ」を何度も読んでいるうちに自然に理解する人もいると思います。
またある人は、セイラーボブや、いろんな非二元の人の本を読むうちに、それしかないと思うようになった人もいると思います。
具体的な方法とあえていうなら、すぐには理解できなくても、「私」は本当に実在するのか、という問いを常に問い続けることだと思います。
この問いをどれだけ問い続けなければならないかは人によると思います。
私の場合は、4年かかりましたが、英語という壁があったことと、何かが起きるはずだという先入観があったためです。
「私」はいないということの理解聞くと、多くの人は、体が消えるとか、「私」が消えるような神秘的な体験をするはずだと考えます。でも、そういうことは起こりません。異次元の世界を見たり、至福に包まれたりすることもありません。
あくまでもそれは、理解です。「私」というものが記憶の累積にすぎず、実体のないものであるという理解です。それを理解したからといって、「私」という思考がもう起こってこないということではありません。
今までと同じように相変わらず「私」は実在のように見えます。でも、その思考の正体を知っているので、それほど「私」にわずらわされることはなくなります。
私のブログと、「ただそれだけ」を何度も読んでいただければ、理解するのにそれほど時間はかからないのではないかと思います。そのためにせっせとブログを書いています。また今後も書いていきます。
質問をありがとうございました。
あまり的確な返事ではなかったかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします。