2019/06/30
あなたはずっと生かされている。
You've Been Lived All the Way Through
自身という存在を調べてみてください。そこには誰もいないし、これからもいない。あなたはそれが実体のないものであると知るでしょう。
精子が卵子に入った時、腕を少し成長させようとか、今日は指を成長させようと言ったでしょうか? 自然の働きである内在する知性エネルギーが細胞、胎児に満ちていて、自然に努力することなく、何をすべきかを知っていました。
あなたが生まれた時を考えてみてください。赤ちゃんは「私」という概念を持っていません。自分が分離したものという概念もありません。「私」という考え、概念は考える能力が発達する二歳か二歳半ぐらいに言葉を覚えるまではありません。
ある日突然、「私」というような言葉がやってきて、その「私」に何が起きるでしょうか? マインドはバイブレーションです。いつも反対の極へと振動します。過去でなければ未来へ。悲しみと幸福。愛と憎しみ。
「私」という考えがやってきた時に何が起きるでしょうか? それまでは、目の前にある者をあるがままに見ていました。そして、誰かが呼ぶ時の「幼いジョニー」や「私」という描写は私のことではないと考えます。
それが最初の分離です。その分離が不安や傷つきやすさをもたらします。そこから安全と完全を求めて探求が始まります。間違った考えを受け入れてしまったからです。分離した存在、個人。でも実際にはそうではありません。
遡って、調べてみてください。そこに「私」はいません。いつ「私」がいたでしょうか? 物事が起こった時、いつあなたが選択しましたか? 子供として、分離した存在として。いつ? どこで?
そしてあなたは理解するでしょう。自分が分離した存在であるという間違った信念を生きている時でさえ、生かされているのだということに気づくでしょう。もしこれを見破ったなら、もうあなたはふたたびそれを信じることができないでしょう。
信じることができなければ、それは強烈さを失います。あなたが信じないなら、それは力を無くし、足場を無くします。習慣はたびたび戻ってきますが、そこにはもう実体のある何かや、独立した存在はいません。それをますます見破るようになると、あなたを悩ますこともなくなります。そして最後にはそれに悩まされない地点に到達します。
(聞き取り不能な箇所は割愛しています)
2019/06/27
セイラーボブの言葉
自己認識するとはどういうことですか?
マインドを通して、「私はある」として現れる存在の感覚は、純粋な知性エネルギーです。それは、自分がいるということを知っているということです。それは、知る働きの活動であり、知る人でも、知る対象としてのものでもありませんが、知る働きがあるということを否定することはできません。
知る働きは知性を意味するのではありませんか? そして、知る働きは、実際には起こってくるものです。それは、この瞬間に起こっている活動です。どんな活動もエネルギーの動きです。知る働きの活動が常にそこにあります。
その同じ知性エネルギーがこの宇宙を機能させています。そこに誰かがいて、地球を太陽のまわりで回したり、季節を巡らせたり、星たちを軌道に乗せたりしているわけではありません。それは、そこに知性があるということを意味しているのではありませんか?
その内在する知性が、現れては消えていくすべての物の本質です。しかし、マインドにとってそれは何もないものです。それは何物でもありません。自分で見て調べて見てください。このことを否定できるかを。自身が存在していることに気づいていることを理解してください。あなたは自分がいるということを知っています。
それが起きるために、あなたは何をしましたか? それは自然に起こっています。それは絶えず自然にいつも起こっています。知性のバイブレーション、脈動、鼓動は自然に起こっています。それには始まりも終わりもありません。
ということは、そのことに対して、私は何もすることがないということですか?
ありません。何かをする人も、すべきこともないということを理解してください。そうすれば自然と落ち着いていきます。もしエネルギーが注がれなければ、物事は永らえることができません。それは生きてはいけません。何物にもすがることができません。
基準点はなく、受け入れられることも拒絶されることも、執着することも引き離されるもありません。物事は起こってきますが、長くは留まりません。改めようとしたり、修正したり、正そうとしたりすることが抵抗であり、それが苦難の始まりです。起こってくることに抵抗することが葛藤であり、葛藤は病です。
無抵抗を練習することはできません。「無抵抗でいる」とか、「注意深くある」と言うことはできます。でもそうすることはできません。なぜなら、何かをする「あなた」はいないからです。大切なことは認識することです。「これは抵抗だ」や、「これは不注意だ」はその対極から来るにちがいありません。それは、まさに無抵抗や注意からやってきます。
それを認識するその瞬間、初めはほんの一瞬かもしれませんが、あなたがそこにいます。でもそれはまたやってきて、あなたがはっきりとたえずそれを認識するようになります。そして、あなたがいない時がやってきます。
でもそこには、確かな確信があることをあなたは知るでしょう。それはあたかも空を覆う雲のようなものです。何が起こっていても、今ここにある意識がそこにあります。どんなにたくさんの雲が覆っていても、太陽は空にあります。
執着が雲を散らそうとしたり、雲を心配したりすることはありません。そこに太陽があるということを理解、認識するだけで十分です。改めようとしたり、修正したり、正そうとしたりしなければ、雲は自然と消えていきます。なぜなら、抵抗のエネルギーが注がれないからです。
雲は動いていきます。葛藤や抵抗にエネルギーや概念などで、それが去っていくことを妨げなければ。思考と葛藤するのはいつも思考です。それが私たちの問題の原因です。
それが起きるために、あなたは何をしましたか? それは自然に起こっています。それは絶えず自然にいつも起こっています。知性のバイブレーション、脈動、鼓動は自然に起こっています。それには始まりも終わりもありません。
ということは、そのことに対して、私は何もすることがないということですか?
ありません。何かをする人も、すべきこともないということを理解してください。そうすれば自然と落ち着いていきます。もしエネルギーが注がれなければ、物事は永らえることができません。それは生きてはいけません。何物にもすがることができません。
基準点はなく、受け入れられることも拒絶されることも、執着することも引き離されるもありません。物事は起こってきますが、長くは留まりません。改めようとしたり、修正したり、正そうとしたりすることが抵抗であり、それが苦難の始まりです。起こってくることに抵抗することが葛藤であり、葛藤は病です。
無抵抗を練習することはできません。「無抵抗でいる」とか、「注意深くある」と言うことはできます。でもそうすることはできません。なぜなら、何かをする「あなた」はいないからです。大切なことは認識することです。「これは抵抗だ」や、「これは不注意だ」はその対極から来るにちがいありません。それは、まさに無抵抗や注意からやってきます。
それを認識するその瞬間、初めはほんの一瞬かもしれませんが、あなたがそこにいます。でもそれはまたやってきて、あなたがはっきりとたえずそれを認識するようになります。そして、あなたがいない時がやってきます。
でもそこには、確かな確信があることをあなたは知るでしょう。それはあたかも空を覆う雲のようなものです。何が起こっていても、今ここにある意識がそこにあります。どんなにたくさんの雲が覆っていても、太陽は空にあります。
執着が雲を散らそうとしたり、雲を心配したりすることはありません。そこに太陽があるということを理解、認識するだけで十分です。改めようとしたり、修正したり、正そうとしたりしなければ、雲は自然と消えていきます。なぜなら、抵抗のエネルギーが注がれないからです。
雲は動いていきます。葛藤や抵抗にエネルギーや概念などで、それが去っていくことを妨げなければ。思考と葛藤するのはいつも思考です。それが私たちの問題の原因です。
2019/06/24
言葉や表現に惑わされないで。
覚醒意識、存在意識、目覚めた意識。
いろんな意識があるわけではありません。あるのはたった一つの意識。今ここにある意識です。それは普通の日常の意識です。
朝目が覚めてから夜眠るまで、あなたとともにある普通の意識のことです。
瞑想して手に入れる意識のことではありません。
リトリートに参加して人に教えてもらう意識のことではありません。
覚醒しないと手に入らない意識のことではありません。
あなたも私も誰もかれもが普通に持っている意識のことです。
その意識を手に入れるために、覚醒も目覚めも必要としません。
気づく必要も理解する必要もありません。
気づかなくても、理解しなくても、それは常にあなたとともにある意識のことです。
「私はそれを手に入れた」とか、「私にそれが起こった」とかいう類のものではなく、あなたはもうすでにそれなのです。セイラーボブがいくらそう説明しても、多くの人は、「ではどうやったらそれを手に入れられるどしょうか」「どうやったらそれを認識できるでしょうか」と尋ねてこじらせてしまいます。
あなたは何もする必要はありません。あなたはもうすでにそれを持っています。
それはあなたの日常の普通の意識のことです。それは、マインドや思考、感情、記憶が現れる空間のことです。
セイラーボブが教えているアウエアネス(意識)がそんな単純なことではないはずだ、とあなたは思うかもしれません。でも、そうなんです。それほどシンプルなことです。
私はそれを理解した瞬間に笑いました。
覚醒した人などという人はいません。目覚めた人などという人はいません。
聖人も大統領も、乞食も浮浪者も、皆同じ意識です。
あなたを覚醒や目覚めに導くと招くグルや教師にだまされないでください。
あなたが、私もそれを手に入れたいと思った瞬間に、今ここにある意識を見失い、ペテン師たちの手に落ちることになります。
神が、神とあなたの間に上下を作ったと思いますか?
あなたも神なのです。
すべてが神なのです。
神という言葉が嫌いなら、アウエアネスでも知性エネルギーでもかまいません。
あなたも私もそれです。
あなたはもうすでにそれなのです。
汝それなり。
すべては、他には何もない一つのものです。
手に入れなければならないものは何もありません。
手に入れる人はいません。
貴重な人生を、探求などという無駄なエンタテェィンメントに浪費するのをやめて、今この瞬間を楽しみましょう。
どんな環境にあろうと、どんな人生を歩いていようと、幸せだとか、不幸だとかのラベルを貼り付けないで。
Dance while you can!
いろんな意識があるわけではありません。あるのはたった一つの意識。今ここにある意識です。それは普通の日常の意識です。
朝目が覚めてから夜眠るまで、あなたとともにある普通の意識のことです。
瞑想して手に入れる意識のことではありません。
リトリートに参加して人に教えてもらう意識のことではありません。
覚醒しないと手に入らない意識のことではありません。
あなたも私も誰もかれもが普通に持っている意識のことです。
その意識を手に入れるために、覚醒も目覚めも必要としません。
気づく必要も理解する必要もありません。
気づかなくても、理解しなくても、それは常にあなたとともにある意識のことです。
「私はそれを手に入れた」とか、「私にそれが起こった」とかいう類のものではなく、あなたはもうすでにそれなのです。セイラーボブがいくらそう説明しても、多くの人は、「ではどうやったらそれを手に入れられるどしょうか」「どうやったらそれを認識できるでしょうか」と尋ねてこじらせてしまいます。
あなたは何もする必要はありません。あなたはもうすでにそれを持っています。
それはあなたの日常の普通の意識のことです。それは、マインドや思考、感情、記憶が現れる空間のことです。
セイラーボブが教えているアウエアネス(意識)がそんな単純なことではないはずだ、とあなたは思うかもしれません。でも、そうなんです。それほどシンプルなことです。
私はそれを理解した瞬間に笑いました。
覚醒した人などという人はいません。目覚めた人などという人はいません。
聖人も大統領も、乞食も浮浪者も、皆同じ意識です。
あなたを覚醒や目覚めに導くと招くグルや教師にだまされないでください。
あなたが、私もそれを手に入れたいと思った瞬間に、今ここにある意識を見失い、ペテン師たちの手に落ちることになります。
神が、神とあなたの間に上下を作ったと思いますか?
あなたも神なのです。
すべてが神なのです。
神という言葉が嫌いなら、アウエアネスでも知性エネルギーでもかまいません。
あなたも私もそれです。
あなたはもうすでにそれなのです。
汝それなり。
すべては、他には何もない一つのものです。
手に入れなければならないものは何もありません。
手に入れる人はいません。
貴重な人生を、探求などという無駄なエンタテェィンメントに浪費するのをやめて、今この瞬間を楽しみましょう。
どんな環境にあろうと、どんな人生を歩いていようと、幸せだとか、不幸だとかのラベルを貼り付けないで。
Dance while you can!
グレートオーシャンロード・メルボルン近郊
2019/06/21
ラベルで何かを分割することはできません。
私はある言葉を用います。それはキリスト教や他の伝承から来ていると思いますが、偏在、全能、全知です。それは一つのものごとの三つの側面を表しています。それは完全な存在、完全な力、完全な知性です。
それが究極のものであるなら他には何もありません。でも問題はラベルを貼って三つのものに分割してしまうことです。それは他に何もない一つのものです。ラベルで何かを分割することはできません。
それであなたはいつも、ただ「これ」を指し示しているのですね。このアウエアネスは分割することも区分することもできない。それはとてもシンプルですね。
ええ、シンプルです。一つであるということの他に、他には何もない一つのものという表現を使います。他の何かがあると思わないようにです。
あなたの言われることは、起こってくることが何であれ、life(命)そのものであると気づいていることですね。
ええ、そうです。あなたが life(命)そのものです。あなたが、命であり、そこには誰もいません。命があるだけだとニサルガダッタは言いました。それがすべてです。そこには命を生きる誰かがいるわけではありません。
そして、命はひとりでにつながっていきます。命は命から生まれ、命へとつながっていきます。
言葉で表現しようとすると、とても曖昧なものになります。言葉には限界があり、このことを正確に表現することができません。
そうです。それゆえ、マインドの中に答えは見つからないと言っているのです。マインドの機能はいつでも分割することだけです。それはいつも対極へと振動して、概念、イメージを使って分割をもたらします。
偉大な伝承を調べてみると、そこにはマインドはありません。それは、空のマインドや、ノーマインドと呼ばれています。そして、不生のマインド。
そしてマインドが何もないものであるなら、何もないものから何かが生まれることがあるでしょうか? 私たちが、物だと思っているものも思考にすぎません。そこにあるように見えているにすぎません。
(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)
2019/06/18
セイラーボブの言葉
本のタイトルは、What's Wrong with Right Now, Unless You Think About it?(今そのことを考えなかったら、何が問題ですか)です。
そうするためには、立ち止まって思考を止めなければなりません。
たとえ一瞬、一秒でもそうすると、それについては何も言うことができないとわかります。それでも、そのありのままの事実を否定することはできません。ありのままの事実に対して、良い悪い、好ましいなどと言うことはできません。
それは、ありのままなのです。ありのままということは、改めたり、修正したり、正したりしないということです。カメラを使って、部屋の中のすべてをそのまま写真に撮るようなものです。
カメラは、「これは気に入らない」とか、「あれをもう少し入れよう。あれが他よりいい」とは言いません。カメラはありのままを写します。それが機能としてあなたに起こっていることです。それはいつもありのままです。
でもその時に、「私」という記憶に関連づけが起きます。そこから、改めたり、修正したり、正したりが起こります。好みや好き嫌いによってそれが起きます。それがすべての問題の始まりです。
それが起きないという意味ではありません。それは起きるでしょう。その時、しっかりとそれを見て理解しなくてはいけません。理解とともにそれを起こるに任せます。そこにはもはや、それに縛られる誰かも何物もありません。
以前、「私」を信じていた時は、「私」に縛られていました。自己という束縛がそこにありました。その束縛こそが私たちの問題です。それが私たちの苦悩です。それが、あるがままに対する抵抗です。
そうするためには、立ち止まって思考を止めなければなりません。
たとえ一瞬、一秒でもそうすると、それについては何も言うことができないとわかります。それでも、そのありのままの事実を否定することはできません。ありのままの事実に対して、良い悪い、好ましいなどと言うことはできません。
それは、ありのままなのです。ありのままということは、改めたり、修正したり、正したりしないということです。カメラを使って、部屋の中のすべてをそのまま写真に撮るようなものです。
カメラは、「これは気に入らない」とか、「あれをもう少し入れよう。あれが他よりいい」とは言いません。カメラはありのままを写します。それが機能としてあなたに起こっていることです。それはいつもありのままです。
でもその時に、「私」という記憶に関連づけが起きます。そこから、改めたり、修正したり、正したりが起こります。好みや好き嫌いによってそれが起きます。それがすべての問題の始まりです。
それが起きないという意味ではありません。それは起きるでしょう。その時、しっかりとそれを見て理解しなくてはいけません。理解とともにそれを起こるに任せます。そこにはもはや、それに縛られる誰かも何物もありません。
以前、「私」を信じていた時は、「私」に縛られていました。自己という束縛がそこにありました。その束縛こそが私たちの問題です。それが私たちの苦悩です。それが、あるがままに対する抵抗です。
2019/06/15
幸せな一生も不幸な一生もありません。
幸せな一生も不幸な一生もありません。
幸せを感じる一瞬や、不幸だと感じる一瞬はあると思います。
でも、その一瞬も、マインドで幸せだとか不幸だとかいう概念を与えなければ、幸せでも不幸でもありません。
出来事が自然に起こって、自然に過ぎていくだけです。それが不幸だとか、幸せだとかいう概念を与えてしまうのはマインドです。
私は自分の人生を振り返ってみて、いつも自分は不幸だと思っていたような気がします。
でも実際は不幸でも幸せでもありませんでした。
人は不思議なもので、結婚していない人は、自分にパートナーがいたら幸せだろうに、と考えます。でも結婚している人は、こいつさえいなければ私はもっと自由になれるのにと考えるかもしれません。
結婚して子供のいない人は、子供がいればどんなに幸せだろうか、と思います。でも子供のいる人は、この子さえいなかったら、こんなにあくせく働かなくてもいいのにと考えるかもしれません。
エンライトメントを手に入れることができれば、きっと毎日が幸せに違いないと考えていると、それを手に入れていない自分は不幸だと考えます。私がそうでした。
こうした思いは、全部概念です。いろんなものごとにこうした概念を貼り付けて、幸せと不幸を作りだしています。
私はセイラーボブを学んでから、幸せ、不幸のラベル貼りをしなくなりました。すべては自然に起こってくるものだと知ったからです。
これからも、幸せだと感じることも、不幸だと感じることも起こってくるでしょう。
でも私は、それにラベル貼りさえしなかったら、それは単に起こっては去っていくことだということを理解しました。
これは、楽しいことが起こった時に喜ぶなとか、悲しいことが起こった時に泣くなということではありません。むしろ逆です。楽しいことが起こった時、この楽しいという概念を与えているのはマインドです。
それは去っていくものだとしても、おもいっきり楽しみたい。
悲しいことが起こった時、悲しいという概念を与えているのもマインドです。それは実体のないものであり、やがては去っていくと知っていれば、それほど巻き込まれないですみます。
私はメンタルが決して強い方ではなく、何か悲しい出来事があるとすぐにどっぷりと巻き込まれて尾を引くタイプでした。でも今は、すべてが概念だと理解しているので、それほど巻き込まれません。
セイラーボブの教えを理解してから、毎日が本当に楽になりました。
もちろん、これからもいろんなことが起こってくるでしょう。
でも私は、すべては概念であるということを理解しています。
私は時々友人とカラオケに行きます。
二人とも最近の歌は知らないので、何十年も前の歌ばかり歌うのですが、友人がよく歌う歌の一つに、伊勢正三さんの、「ささやかなこの人生」があります。
この歌は私も好きですが、この歌を聞くといつもセイラーボブの教えを思い出します。
歌の最後にこんなフレーズがあります。
やさしかった恋人達よ
ささやかなこの人生を
喜びとか悲しみとかの
言葉で決めて欲しくはない
幸せを感じる一瞬や、不幸だと感じる一瞬はあると思います。
でも、その一瞬も、マインドで幸せだとか不幸だとかいう概念を与えなければ、幸せでも不幸でもありません。
出来事が自然に起こって、自然に過ぎていくだけです。それが不幸だとか、幸せだとかいう概念を与えてしまうのはマインドです。
私は自分の人生を振り返ってみて、いつも自分は不幸だと思っていたような気がします。
でも実際は不幸でも幸せでもありませんでした。
人は不思議なもので、結婚していない人は、自分にパートナーがいたら幸せだろうに、と考えます。でも結婚している人は、こいつさえいなければ私はもっと自由になれるのにと考えるかもしれません。
結婚して子供のいない人は、子供がいればどんなに幸せだろうか、と思います。でも子供のいる人は、この子さえいなかったら、こんなにあくせく働かなくてもいいのにと考えるかもしれません。
エンライトメントを手に入れることができれば、きっと毎日が幸せに違いないと考えていると、それを手に入れていない自分は不幸だと考えます。私がそうでした。
こうした思いは、全部概念です。いろんなものごとにこうした概念を貼り付けて、幸せと不幸を作りだしています。
私はセイラーボブを学んでから、幸せ、不幸のラベル貼りをしなくなりました。すべては自然に起こってくるものだと知ったからです。
これからも、幸せだと感じることも、不幸だと感じることも起こってくるでしょう。
でも私は、それにラベル貼りさえしなかったら、それは単に起こっては去っていくことだということを理解しました。
これは、楽しいことが起こった時に喜ぶなとか、悲しいことが起こった時に泣くなということではありません。むしろ逆です。楽しいことが起こった時、この楽しいという概念を与えているのはマインドです。
それは去っていくものだとしても、おもいっきり楽しみたい。
悲しいことが起こった時、悲しいという概念を与えているのもマインドです。それは実体のないものであり、やがては去っていくと知っていれば、それほど巻き込まれないですみます。
私はメンタルが決して強い方ではなく、何か悲しい出来事があるとすぐにどっぷりと巻き込まれて尾を引くタイプでした。でも今は、すべてが概念だと理解しているので、それほど巻き込まれません。
セイラーボブの教えを理解してから、毎日が本当に楽になりました。
もちろん、これからもいろんなことが起こってくるでしょう。
でも私は、すべては概念であるということを理解しています。
私は時々友人とカラオケに行きます。
二人とも最近の歌は知らないので、何十年も前の歌ばかり歌うのですが、友人がよく歌う歌の一つに、伊勢正三さんの、「ささやかなこの人生」があります。
この歌は私も好きですが、この歌を聞くといつもセイラーボブの教えを思い出します。
歌の最後にこんなフレーズがあります。
やさしかった恋人達よ
ささやかなこの人生を
喜びとか悲しみとかの
言葉で決めて欲しくはない
2019/06/09
ただそれだけ
おたよりをいただきました。
Takuさん、こんにちは。
今私は「ただそれだけ」を6回目を読んでいます。
どこかでTakuさんは7回読んでセイラーボブさんに会いに行っ たと書いておられまし
た。じゃあボブさんに会いに行けそうもない私は8回読もうと決め ました(なんとな
く)。2回目くらいからはTakuさんが書いておられた和訳で変 更してほしい点を書き
入れて読んでいます。「ただそれだけ」とTakuさんのブログを ずっと読んでいると、
あきらかに「自分」というものが変化していきます(うわべ上)。 これからも楽しみ
にしています。
セツ
セツさん、おたよりありがとうございます。
私はセイラーボブに会う前に、「ただそれだけ」を7回読み、会ってからも何回か読みました。そして今でも時々拾い読みしています。
不思議なことに、何回読んでも新たな発見や深みがあって、飽きることがありません。
これは高木悠鼓さんの翻訳がすばらしいからだと思います。
私は、生意気にも、こういうふうに解釈したらどうでしょうかと、何か所かを変えて読むように提案させていただきましたが、それは理解するための方便であって、高木さんの翻訳が悪いという意味ではありません。
高木さんの翻訳は原文に忠実で正確。なおかつ読みやすいです。セイラーボブは権威をもって難しい表現を使う場合も多く、原文に忠実に翻訳すると、かえってわかりづらくなる時があります。翻訳家としては原文に忠実に訳さないわけにはいかないのでしょうけど。
それともう一つすばらしいと思うのは、セイラーボブの話すトーン(調子)についてです。私はミーティングで直接横で何度も聞いていますが、ボブの話すトーンを、高木さんは正確にとらえてみえると思います。
最初に私がブログでボブの spiel を書いた時は、今よりももう少し上から目線の偉そうなトーンで書いていましたが、どうも違う感じがして、結局途中で全部書き直して、高木さんの翻訳のトーンと同じトーンにしました。それが一番近い感じがします。
「ただそれだけ」は何度も繰り返して読むに値する本だと思います。でも、どこかの時点で、理解できないところや納得できないところを突き詰めて考えながら、じっくりと深く読むことが大切だと思います。
ブログの方は何かもっとわかりやすい方法はないかと考えています。これからもよろしくお願いします。
******
ついでに「ただそれだけ」についてもう少し。
セイラーボブ関連の本で一番よく読むのは、「ただそれだけ」(日本語版)です。
もう何回も通して読んでいますが、あらためてすばらしい本だと思います。
私はセイラーボブに会う前に、この本を7回読みましたが、書いてあることがサッパリ理解できませんでした。一番大きな間違いは、セイラーボブが覚醒した人だと思っていたことです。
覚醒した人の視点で語られ本だと勝手に思い込んで読んでいたことが理解を妨げていました。セイラーボブは覚醒した人ではない、覚醒なんてものはない、という視点で読むことが大前提です。
ボブのミーティングに出始めた頃、私はボブにエンライトメントがなぜないのか、どうして万物は一つなのか、という質問ばかり繰り返していました。
ある時、オーストラリア在住の日本人がミーティングに来た時に、ギルバートはその人に、「日本で(ただそれだけ)は、ちゃんと翻訳されているのか?」と聞いたそうです。
その日本人の方はもう何十年もオーストラリアに住んでいて、私よりもはるかに英語が堪能な方です。
私はその話を聞いてピンときました。たぶんギルバートは、私があんまりトンチンカンな質問ばかりするのでそう聞いたのだろうと思いました。
「ただそれだけ」の翻訳は何も問題なく、すばらしいと思います。
今も時々読み返しているのですが、セイラーボブの教えはこの一冊に詰まっています。
問題は読み手である私にありました。
もしセイラーボブが覚醒した人ではないという前提で読むなら、この本は全く別の本になります。
ミーティングに参加する英語ネイティブの人たちは、「どうしてエンライトメントはないの?」という質問をほとんどしません。参加したミーティングでも、YouTubeでも、ごく限られた例外を除いて、そういう場面を見た記憶がありません。
なぜそうなのだろうかと考えると、日本語で手に入るボブの本は、「ただそれだけ」しかないことだと思います。「ただそれだけ」は2011年に発売されました。英語版は2010年です。
英語ネイティブの人の大半は、2006年に発売されたジェームズ・ブラハの「LIVING REALITY」を読んだり、1998年のボブのアムステルダムでのインタビューを見たりしたあとでボブのミーティングにやってきます。その本やインタビューでは、エンライトメントなどないと、ボブははっきり言っています。
その前提がなくて、「ただそれだけ」を読むと、私のようにサッパリ理解できないのではないでしょうか。
セイラーボブの教えを完全に理解したあとで「ただそれだけ」を読んで、どうしてこれが理解できなかったんだろう、この本にすべて書いてあるじゃないか、と思いました。
エンライトメントも覚醒も特別な理解もシフトも起きないと知って読むと、普通の理解力でこの本を理解しようと読みます。実はそれがとても重要だと思います。
普通の理解力で読むしかないとわかっていても、やはり理解できない部分は残ります。セイラーボブの話は、ポインター(指し示すもの)であって、そのものではありません。
その理解できない部分を、ああでもない、こうでもない、と考えているうちに、だんだんと理解が起ってくるのではないかと思います。何か特別な理解が起きるわけではありません。
「万物は一つ」はどうしてそうなんだ?と聞かれても、だってそうじゃないか、としか言いようがありません。「どうして私はいないのか?」と聞かれても、自分で調べてみてよ、としか言いようがありません。
私は入手可能な英語版のセイラーボブの本は全部読んでいますが、「ただそれだけ」の内容が、その他の英語版の本と比べて劣ると感じたことはありません。
英語版の他の本を読めば、ボブの教えをスッキリ理解できるということはなく、結局のところ、ボブの言っていることを自分で調べるしか理解の方法はないのです。
そして、セイラーボブの教えを理解できても、できなくても、何の違いもありません。
セイラーボブも私もあなたも、何の違いもありません。セイラーボブが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではないからです。それはもうすでにある何かです。
ただそれだけです。
Takuさん、こんにちは。
今私は「ただそれだけ」を6回目を読んでいます。
どこかでTakuさんは7回読んでセイラーボブさんに会いに行っ
た。じゃあボブさんに会いに行けそうもない私は8回読もうと決め
く)。2回目くらいからはTakuさんが書いておられた和訳で変
入れて読んでいます。「ただそれだけ」とTakuさんのブログを
あきらかに「自分」というものが変化していきます(うわべ上)。
にしています。
セツ
セツさん、おたよりありがとうございます。
私はセイラーボブに会う前に、「ただそれだけ」を7回読み、会ってからも何回か読みました。そして今でも時々拾い読みしています。
不思議なことに、何回読んでも新たな発見や深みがあって、飽きることがありません。
これは高木悠鼓さんの翻訳がすばらしいからだと思います。
私は、生意気にも、こういうふうに解釈したらどうでしょうかと、何か所かを変えて読むように提案させていただきましたが、それは理解するための方便であって、高木さんの翻訳が悪いという意味ではありません。
高木さんの翻訳は原文に忠実で正確。なおかつ読みやすいです。セイラーボブは権威をもって難しい表現を使う場合も多く、原文に忠実に翻訳すると、かえってわかりづらくなる時があります。翻訳家としては原文に忠実に訳さないわけにはいかないのでしょうけど。
それともう一つすばらしいと思うのは、セイラーボブの話すトーン(調子)についてです。私はミーティングで直接横で何度も聞いていますが、ボブの話すトーンを、高木さんは正確にとらえてみえると思います。
最初に私がブログでボブの spiel を書いた時は、今よりももう少し上から目線の偉そうなトーンで書いていましたが、どうも違う感じがして、結局途中で全部書き直して、高木さんの翻訳のトーンと同じトーンにしました。それが一番近い感じがします。
「ただそれだけ」は何度も繰り返して読むに値する本だと思います。でも、どこかの時点で、理解できないところや納得できないところを突き詰めて考えながら、じっくりと深く読むことが大切だと思います。
ブログの方は何かもっとわかりやすい方法はないかと考えています。これからもよろしくお願いします。
******
ついでに「ただそれだけ」についてもう少し。
セイラーボブ関連の本で一番よく読むのは、「ただそれだけ」(日本語版)です。
もう何回も通して読んでいますが、あらためてすばらしい本だと思います。
私はセイラーボブに会う前に、この本を7回読みましたが、書いてあることがサッパリ理解できませんでした。一番大きな間違いは、セイラーボブが覚醒した人だと思っていたことです。
覚醒した人の視点で語られ本だと勝手に思い込んで読んでいたことが理解を妨げていました。セイラーボブは覚醒した人ではない、覚醒なんてものはない、という視点で読むことが大前提です。
ボブのミーティングに出始めた頃、私はボブにエンライトメントがなぜないのか、どうして万物は一つなのか、という質問ばかり繰り返していました。
ある時、オーストラリア在住の日本人がミーティングに来た時に、ギルバートはその人に、「日本で(ただそれだけ)は、ちゃんと翻訳されているのか?」と聞いたそうです。
その日本人の方はもう何十年もオーストラリアに住んでいて、私よりもはるかに英語が堪能な方です。
私はその話を聞いてピンときました。たぶんギルバートは、私があんまりトンチンカンな質問ばかりするのでそう聞いたのだろうと思いました。
「ただそれだけ」の翻訳は何も問題なく、すばらしいと思います。
今も時々読み返しているのですが、セイラーボブの教えはこの一冊に詰まっています。
問題は読み手である私にありました。
もしセイラーボブが覚醒した人ではないという前提で読むなら、この本は全く別の本になります。
ミーティングに参加する英語ネイティブの人たちは、「どうしてエンライトメントはないの?」という質問をほとんどしません。参加したミーティングでも、YouTubeでも、ごく限られた例外を除いて、そういう場面を見た記憶がありません。
なぜそうなのだろうかと考えると、日本語で手に入るボブの本は、「ただそれだけ」しかないことだと思います。「ただそれだけ」は2011年に発売されました。英語版は2010年です。
英語ネイティブの人の大半は、2006年に発売されたジェームズ・ブラハの「LIVING REALITY」を読んだり、1998年のボブのアムステルダムでのインタビューを見たりしたあとでボブのミーティングにやってきます。その本やインタビューでは、エンライトメントなどないと、ボブははっきり言っています。
その前提がなくて、「ただそれだけ」を読むと、私のようにサッパリ理解できないのではないでしょうか。
セイラーボブの教えを完全に理解したあとで「ただそれだけ」を読んで、どうしてこれが理解できなかったんだろう、この本にすべて書いてあるじゃないか、と思いました。
エンライトメントも覚醒も特別な理解もシフトも起きないと知って読むと、普通の理解力でこの本を理解しようと読みます。実はそれがとても重要だと思います。
普通の理解力で読むしかないとわかっていても、やはり理解できない部分は残ります。セイラーボブの話は、ポインター(指し示すもの)であって、そのものではありません。
その理解できない部分を、ああでもない、こうでもない、と考えているうちに、だんだんと理解が起ってくるのではないかと思います。何か特別な理解が起きるわけではありません。
「万物は一つ」はどうしてそうなんだ?と聞かれても、だってそうじゃないか、としか言いようがありません。「どうして私はいないのか?」と聞かれても、自分で調べてみてよ、としか言いようがありません。
私は入手可能な英語版のセイラーボブの本は全部読んでいますが、「ただそれだけ」の内容が、その他の英語版の本と比べて劣ると感じたことはありません。
英語版の他の本を読めば、ボブの教えをスッキリ理解できるということはなく、結局のところ、ボブの言っていることを自分で調べるしか理解の方法はないのです。
そして、セイラーボブの教えを理解できても、できなくても、何の違いもありません。
セイラーボブも私もあなたも、何の違いもありません。セイラーボブが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではないからです。それはもうすでにある何かです。
ただそれだけです。
2019/06/06
おたよりをいただきました。
拓さん
はじめまして。
ちょっと質問があり連絡しました。
「「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べる」この自分 で調べるというの
は、具体的にはどういうことを指しているのでしょうか。もし教え ていただけると助
かります。よろしくお願いします。
kei
「非二元を理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べることです。」なんて偉そうなことを前回のブログで書いておきながら、では具体的にはどういうことを指しているのかという鋭い質問をされると返事に困ってしまいます。
どういうふうに調べたらいいのかという具体的な方法を聞いてみえるのだと思いますが、決まったやり方があるわけではありません。
非二元、つまりはセイラーボブの教えを理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べて、それが実在ではないと知ることですが、それを知るためにはセイラーボブの教えそのものを理解しないといけません。
私の書いた文章は、あくまでポインターであって、パラドックスなのです。理解すべきことはたった一つでも、それを理解するためには、セイラーボブの教えの全体を理解しないといけません。なぜなら、その答えはセイラーボブの教えの全体を理解した時に自然に出てくるからです。
つれない言い方をすれば、このブログと「ただそれだけ」を何度も読んでください、ということになってしまうのですが、それでは質問の回答にはならないので、具体的な方法についていくつか書いてみます。
セイラーボブが講話の中で話す最も代表的な方法は、「私」という存在が体とマインドなのかを調べることです。もし体だというのなら、それはどこから始まったのか? どこに中心があるのか?
マインドだというのなら、あなたは思考なのか? どの思考があなたなのか? 思考がない時にあなたはいないのか? この続きは Spiel の中で出てきますので、ここでは書きませんが、そういった質問を自分に自問してみてください。
また別の方法としては、I am.(私はある)という存在の感覚を調べてみることです。
I am.(私はある)という存在の感覚はどこからやってくるのか? それは何なのか? 私は実際にある(いる)のかを自問して調べてみることです。このあたりのことは、「ただそれだけ」のp.111~135,190~200あたりが参考になると思います。
そしてもう一つの方法は、「今ここにある意識」について調べることです。
私の場合は、これが理解できたことが決め手となって、「私」はいないという理解が起きました。
私は、「私」という存在はマインド、つまりは思考だと思っていました。でも、調べてみると、思考の前に、「今ここにある意識」があり、思考はただ単に、「今ここにある意識」の中にやって来ては去っていく実体のないものであるということが理解できました。
そして、私が「私」だと思っているものは、そうして起こっては去っていく思考の記憶の累積にすぎず、実体のないものであるということを理解しました。
古いアルバムを見ると、子供の頃の写真があって、中には全く記憶のない写真もあります。自分の記憶にないということは、写真に残っていたとしても、自分だとは言えないのではないですか?
記憶にない写真が自分の子供の時の記憶になっていませんか? それは本当にあなたでしたか?
では、記憶にある場面の写真はどうですか? 確かにあの時遠足であそこへ行って皆と写真を撮った。その時の写真だ。でも、体は子供だし、何を考えていたかも思い出せない。でも、遠足に行った記憶はある。そうやって覚えていたとしても、それは記憶にすぎません。
そうした記憶が累積して。「私」を構成しています。では、その累積した記憶が私ですか? 記憶は思考であり、実体のないものです。やがては忘れてしまいます。では、私とは何ですか? 私とは思考ではありません。本当の私は写真の中にいるのではなく、その写真を見ている「今ここにある意識」なのではないですか?
名前、性別、体、言語、家族のこと、友達のこと、すべては後天的に学んだことで、それを「私」という思考にくっつけて自分だと思い込んで記憶しています。そうした記憶の累積を「私」だと思い込んでいますが、私は記憶の集積ではありません。記憶のある場所、思考の現れる場所である「今ここにある意識」こそが私であるということを私は理解しました。それは体でもマインドでもありません。
今ここで写真を見ている「今ここにある意識」は、名前、性別、体、言語、家族のこと、友達のことなどすべてとは全く関係なしに実在しています。それは、何も付け足されない裸のままの「今ここにある意識」です。それが本当の私です。それがセイラーボブがアウエアネス、知性エネルギーと呼ぶものです。
それが理解できた時に、ドミノ倒しのようにセイラーボブの教えの全体がクリアーになりました。でも、これはあくまで私の場合であって、理解の仕方や起こり方は人それぞれだと思います。
セイラーボブの話を何度も聞いているうちに、「私」は実在ではないと自然に実感するようになったという人もいます。
「ただそれだけ」を何度も読んでいるうちに自然に理解する人もいると思います。
またある人は、セイラーボブや、いろんな非二元の人の本を読むうちに、それしかないと思うようになった人もいると思います。
具体的な方法とあえていうなら、すぐには理解できなくても、「私」は本当に実在するのか、という問いを常に問い続けることだと思います。
この問いをどれだけ問い続けなければならないかは人によると思います。
私の場合は、4年かかりましたが、英語という壁があったことと、何かが起きるはずだという先入観があったためです。
「私」はいないということの理解聞くと、多くの人は、体が消えるとか、「私」が消えるような神秘的な体験をするはずだと考えます。でも、そういうことは起こりません。異次元の世界を見たり、至福に包まれたりすることもありません。
あくまでもそれは、理解です。「私」というものが記憶の累積にすぎず、実体のないものであるという理解です。それを理解したからといって、「私」という思考がもう起こってこないということではありません。
今までと同じように相変わらず「私」は実在のように見えます。でも、その思考の正体を知っているので、それほど「私」にわずらわされることはなくなります。
私のブログと、「ただそれだけ」を何度も読んでいただければ、理解するのにそれほど時間はかからないのではないかと思います。そのためにせっせとブログを書いています。また今後も書いていきます。
質問をありがとうございました。
あまり的確な返事ではなかったかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします。
はじめまして。
ちょっと質問があり連絡しました。
「「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べる」この自分
は、具体的にはどういうことを指しているのでしょうか。もし教え
かります。よろしくお願いします。
kei
「非二元を理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べることです。」なんて偉そうなことを前回のブログで書いておきながら、では具体的にはどういうことを指しているのかという鋭い質問をされると返事に困ってしまいます。
どういうふうに調べたらいいのかという具体的な方法を聞いてみえるのだと思いますが、決まったやり方があるわけではありません。
非二元、つまりはセイラーボブの教えを理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べて、それが実在ではないと知ることですが、それを知るためにはセイラーボブの教えそのものを理解しないといけません。
私の書いた文章は、あくまでポインターであって、パラドックスなのです。理解すべきことはたった一つでも、それを理解するためには、セイラーボブの教えの全体を理解しないといけません。なぜなら、その答えはセイラーボブの教えの全体を理解した時に自然に出てくるからです。
つれない言い方をすれば、このブログと「ただそれだけ」を何度も読んでください、ということになってしまうのですが、それでは質問の回答にはならないので、具体的な方法についていくつか書いてみます。
セイラーボブが講話の中で話す最も代表的な方法は、「私」という存在が体とマインドなのかを調べることです。もし体だというのなら、それはどこから始まったのか? どこに中心があるのか?
マインドだというのなら、あなたは思考なのか? どの思考があなたなのか? 思考がない時にあなたはいないのか? この続きは Spiel の中で出てきますので、ここでは書きませんが、そういった質問を自分に自問してみてください。
また別の方法としては、I am.(私はある)という存在の感覚を調べてみることです。
I am.(私はある)という存在の感覚はどこからやってくるのか? それは何なのか? 私は実際にある(いる)のかを自問して調べてみることです。このあたりのことは、「ただそれだけ」のp.111~135,190~200あたりが参考になると思います。
そしてもう一つの方法は、「今ここにある意識」について調べることです。
私の場合は、これが理解できたことが決め手となって、「私」はいないという理解が起きました。
私は、「私」という存在はマインド、つまりは思考だと思っていました。でも、調べてみると、思考の前に、「今ここにある意識」があり、思考はただ単に、「今ここにある意識」の中にやって来ては去っていく実体のないものであるということが理解できました。
そして、私が「私」だと思っているものは、そうして起こっては去っていく思考の記憶の累積にすぎず、実体のないものであるということを理解しました。
古いアルバムを見ると、子供の頃の写真があって、中には全く記憶のない写真もあります。自分の記憶にないということは、写真に残っていたとしても、自分だとは言えないのではないですか?
記憶にない写真が自分の子供の時の記憶になっていませんか? それは本当にあなたでしたか?
では、記憶にある場面の写真はどうですか? 確かにあの時遠足であそこへ行って皆と写真を撮った。その時の写真だ。でも、体は子供だし、何を考えていたかも思い出せない。でも、遠足に行った記憶はある。そうやって覚えていたとしても、それは記憶にすぎません。
そうした記憶が累積して。「私」を構成しています。では、その累積した記憶が私ですか? 記憶は思考であり、実体のないものです。やがては忘れてしまいます。では、私とは何ですか? 私とは思考ではありません。本当の私は写真の中にいるのではなく、その写真を見ている「今ここにある意識」なのではないですか?
名前、性別、体、言語、家族のこと、友達のこと、すべては後天的に学んだことで、それを「私」という思考にくっつけて自分だと思い込んで記憶しています。そうした記憶の累積を「私」だと思い込んでいますが、私は記憶の集積ではありません。記憶のある場所、思考の現れる場所である「今ここにある意識」こそが私であるということを私は理解しました。それは体でもマインドでもありません。
今ここで写真を見ている「今ここにある意識」は、名前、性別、体、言語、家族のこと、友達のことなどすべてとは全く関係なしに実在しています。それは、何も付け足されない裸のままの「今ここにある意識」です。それが本当の私です。それがセイラーボブがアウエアネス、知性エネルギーと呼ぶものです。
それが理解できた時に、ドミノ倒しのようにセイラーボブの教えの全体がクリアーになりました。でも、これはあくまで私の場合であって、理解の仕方や起こり方は人それぞれだと思います。
セイラーボブの話を何度も聞いているうちに、「私」は実在ではないと自然に実感するようになったという人もいます。
「ただそれだけ」を何度も読んでいるうちに自然に理解する人もいると思います。
またある人は、セイラーボブや、いろんな非二元の人の本を読むうちに、それしかないと思うようになった人もいると思います。
具体的な方法とあえていうなら、すぐには理解できなくても、「私」は本当に実在するのか、という問いを常に問い続けることだと思います。
この問いをどれだけ問い続けなければならないかは人によると思います。
私の場合は、4年かかりましたが、英語という壁があったことと、何かが起きるはずだという先入観があったためです。
「私」はいないということの理解聞くと、多くの人は、体が消えるとか、「私」が消えるような神秘的な体験をするはずだと考えます。でも、そういうことは起こりません。異次元の世界を見たり、至福に包まれたりすることもありません。
あくまでもそれは、理解です。「私」というものが記憶の累積にすぎず、実体のないものであるという理解です。それを理解したからといって、「私」という思考がもう起こってこないということではありません。
今までと同じように相変わらず「私」は実在のように見えます。でも、その思考の正体を知っているので、それほど「私」にわずらわされることはなくなります。
私のブログと、「ただそれだけ」を何度も読んでいただければ、理解するのにそれほど時間はかからないのではないかと思います。そのためにせっせとブログを書いています。また今後も書いていきます。
質問をありがとうございました。
あまり的確な返事ではなかったかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします。
2019/06/03
非二元を理解するためにすべきたった一つのこと
非二元を理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べることです。
師やグルを信奉することは本質的な解決にはなりません。彼らはメッセンジャーに過ぎないのです。非二元の人の本をあれこれたくさん読んだり、ミーティングやセラピー、リトリートに出たりしても本質的な解決にはなりません。
そうしたものに参加することは、自分が「正しい道の上にいる」と思っている人たちのマインドを大いに満足させます。かつては私もそうでした。たくさんのグループセラピー、リトリート、心理療法に参加して、自分は正しい道の上を進んでいる、成長していると思っていました。
そういったものに参加すると、ほんの何日かは良い気分になって、自分は変わった、もしくは変わりつつあるという感じがします。でもそうしたことは、参加者の自己満足であり、エンタテェィンメントにすぎません。
自分は正しい道の上を進んでいる、成長しているというのは幻想です。瞑想についても同じことが言えます。瞑想をすれば、正しい方向に進んでいて、いつかそこへ行きつくだろうというのも幻想にすぎません。道も成長もマインドが作り上げた幻想です。
達成すべき何かが、どこかにあるわけではありません。道も成長もありません。そこには成長する誰かはいません。
なすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べることだけです。誰かがそれをあなたの代わりにやってくれることはありません。自分でやる以外に方法はありません。
調べても調べても、自分がいるような気がして、ある時「いない」と思っても、完全に理解するまでは揺れ戻しがやってきます。でも、それを自分で最後までやるしかないのです。
そうするために、誰かの助けを借りようと、高額の料金を払ってもそれほど助けにはなりません。
今、ネット上には、セラピストやカウンセラーを名乗る人が大勢いて、高額な個人セッション、セラピー、カウンセリングで人々を勧誘しています。そうしたことは、一時的な気晴らしにはなるかもしれませんが、根本的な解決にはなりません。
私も、グループセラピーや心理療法、カウンセリング、リトリート、催眠療法などを山ほど経験しましたが、そのどれも役には立ちませんでした。そうしたものは、お金を払ってする気晴らし、エンタテェィンメントにすぎません。
あらゆる問題が「私」に関わっています。その私がいるのかいないかを自分で知ることこそが根本的な解決法です。それが、たった一つのなすべきことです。
そして、そこに「私」はいないと理解した瞬間に本当の「私」に気づきます。
それは、「今ここにある意識」です。「今ここにある意識」だけが実在で、それが「あなた」です。それは、セイラーボブが知性エネルギーと呼ぶもの。アウエアネスと呼ぶもの。
「今ここにある意識」にすべて世界が現れます。「今ここにある意識」はどこまでも純粋で、何物にも縛られず、常に新鮮。それが「あなた」です。
サビーナにもらったバッチ。
師やグルを信奉することは本質的な解決にはなりません。彼らはメッセンジャーに過ぎないのです。非二元の人の本をあれこれたくさん読んだり、ミーティングやセラピー、リトリートに出たりしても本質的な解決にはなりません。
そうしたものに参加することは、自分が「正しい道の上にいる」と思っている人たちのマインドを大いに満足させます。かつては私もそうでした。たくさんのグループセラピー、リトリート、心理療法に参加して、自分は正しい道の上を進んでいる、成長していると思っていました。
そういったものに参加すると、ほんの何日かは良い気分になって、自分は変わった、もしくは変わりつつあるという感じがします。でもそうしたことは、参加者の自己満足であり、エンタテェィンメントにすぎません。
自分は正しい道の上を進んでいる、成長しているというのは幻想です。瞑想についても同じことが言えます。瞑想をすれば、正しい方向に進んでいて、いつかそこへ行きつくだろうというのも幻想にすぎません。道も成長もマインドが作り上げた幻想です。
達成すべき何かが、どこかにあるわけではありません。道も成長もありません。そこには成長する誰かはいません。
なすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べることだけです。誰かがそれをあなたの代わりにやってくれることはありません。自分でやる以外に方法はありません。
調べても調べても、自分がいるような気がして、ある時「いない」と思っても、完全に理解するまでは揺れ戻しがやってきます。でも、それを自分で最後までやるしかないのです。
そうするために、誰かの助けを借りようと、高額の料金を払ってもそれほど助けにはなりません。
今、ネット上には、セラピストやカウンセラーを名乗る人が大勢いて、高額な個人セッション、セラピー、カウンセリングで人々を勧誘しています。そうしたことは、一時的な気晴らしにはなるかもしれませんが、根本的な解決にはなりません。
私も、グループセラピーや心理療法、カウンセリング、リトリート、催眠療法などを山ほど経験しましたが、そのどれも役には立ちませんでした。そうしたものは、お金を払ってする気晴らし、エンタテェィンメントにすぎません。
あらゆる問題が「私」に関わっています。その私がいるのかいないかを自分で知ることこそが根本的な解決法です。それが、たった一つのなすべきことです。
そして、そこに「私」はいないと理解した瞬間に本当の「私」に気づきます。
それは、「今ここにある意識」です。「今ここにある意識」だけが実在で、それが「あなた」です。それは、セイラーボブが知性エネルギーと呼ぶもの。アウエアネスと呼ぶもの。
「今ここにある意識」にすべて世界が現れます。「今ここにある意識」はどこまでも純粋で、何物にも縛られず、常に新鮮。それが「あなた」です。
サビーナにもらったバッチ。