2026/03/31

幸福について思うこと

テレビを見なくなって久しい。映画も見ない。そのため、最近の俳優やタレントをほとんど知らない。でも、ネットニュースは毎日見る。芸能関係のニュースの大半は知らない人のことなので、目にしても読まないが、昔テレビを毎日見ていた頃の人の名前が出てくると読む。

大抵は訃報で、病気で亡くなったというもの。ほとんどの人は病気で亡くなる。闘病生活の長短はあるけど、最後は必ず苦しんで死ぬことになる。老衰で死ぬ人も中にはあるが、老衰だって楽に死ねるわけではない。

そうしたニュースを見るたびに、一体幸福とは何だろうと思う。病気で苦しんでいる人は幸福だっただろうか? そんなはずはない。私の家族も病気で亡くなった。弟も父も楽な闘病ではなかった。結局人はどんなことをしても死から逃れられず、幸福のうちに死を迎えることはできない。

ルパート・スパイラは、人生の目的は幸福になることです、と言ったけど、最後にはどんな幸福も手放して死んでいくことになる。釈迦は、幸福を追い求めない道を説いた。それが唯一の幸福、あるいは安楽への道だと教えた。

人生には幸福な時もあり、不幸な時もある。できるだけ幸福でいたいと思うのは当たり前のこと。でも、幸福と不幸の背後にあるものは何かを知ることが非二元の教えなのだと思う。幸福でも不幸でもかまいはしない。その背後にいつもあるのは何かを知ったなら、幸福も不幸も取るに足らぬことだと思う。

どんなに幸福を求めてもがいても、最後は誰しも死んでいく。幸福も不幸もすぐに思い出になり、その思い出もやがては消えていく。そしてそこには永遠不滅のものだけがある。

2026/03/29

間違いない開運法 マドモアゼル・愛


森田療法についてのお話です。内容がまたすばらしい。

2026/03/27

思考を一時停止してみてください

質問者: 理解しようとしても、それはある意味無駄ですよね?  理解しようとして、心の中でイメージを描いても、ある意味無駄なんです。だってそれは何かを構築しようとしているんですから。素敵なイメージを描いて、すべてがうまく収まるようにと。

ボブ: それでは絶対にうまくいきません。思考を一時停止してみてください。それについて、何か正しいとか間違っているとか、何か言えますか? 良いとか悪いとか?  生を止めてしまったのでしょうか?  起こったのは、思考が一瞬停止しただけなんです。すべてがそのままであることに気づいたわけです。

質問者: すると思考が突然やってきて、「まだ十分じゃない」と言います。

ボブ: ええ、思考はそう言うでしょう。なぜなら、私たちは常にもっと大きくて、もっと良い感覚、もっと大きくて、もっと良い経験を求めているからです。

2026/03/24

生はさまざまな生き物として現れます

生はさまざまな生き物として現れます。それぞれの表れには、惹きつけられるものもあれば、そうでないものもあります。それは自然な表現の一部なのです。
でもそこに欲望や恐れ、嫌悪などが入り込むと、誤った自己同化が起こります。
欲望や恐れ、嫌悪を抱くことができるのは個としての存在だけだからです。
一方で自然に起こる好き嫌いは自然な表現の一部に過ぎません。
                                    セイラーボブ

2026/03/22

人間の仕事はたったひとつ「今、どういう感情を選択するか」 マドモアゼル・愛


いつか幸せになろうと努力しても、未来の幸せはやってこない。なぜなら未来など存在せず、あるのは今だけだから。ならば、今この瞬間に幸せでいること。幸せになるのではなく、幸せでいること。どうしたら幸せでいられるのか。この動画はそれを教えてくれます。

2026/03/20

あなたは流れそのものなのです

ボブ:自己中心性は死んだイメージです。自分自身について抱いているイメージは、過去の出来事、経験、そして条件付けに基づいています。私たちはそれに反応しているのです。それは死んだイメージです。それは川からバケツで水を汲み出すようなものです。川はそれを残して流れていきました。私たちは常に残されたものに反応しています。もしあなたがどんなイメージにも反応しないなら、あなたは川そのものです。あなたは流れそのものなのです。

質問者:思考もまた感覚ですね。あなたは言葉から意味を取り除いています。

ボブ:それはエネルギーの微妙な振動、それだけです。
 

2026/03/17

存在しているという感覚は、まさに今ここにあります

 “今ここに在る”という感覚に気づいてください。それは何かの感覚刺激ではなく、“存在しているという感覚”です。あなたが今この瞬間に存在していることは、誰にも否定できません。

『これはどういう意味だろう』と考えたり、理解しようと頭で整理し始めた瞬間、それはもう仮説や思考になっています。

存在しているという感覚は、まさに今ここにあります。それは疑いようがありません。言葉で完璧に説明しようとしなくていいのです。

思考はいつも、過去や未来、あるいは仮の状況についてのものです。つまり、今この瞬間に起きていないことについて考えています。たとえ「今」を説明したとしても、その時点でそれはすでに過去になっています。

思考を止めてみてください。そうすれば、必要なことはすべて、この“今この瞬間の直接性”の中ですでに分かっています。
                                    セイラーボブ

2026/03/15

Historical nonduality meeting with Sailor Bob on 6 March 2016 - 10 years ago

この動画は日本語で聞くことができます。(⚙マーク→音声トラック→日本語)

十年前の動画が、つい最近公開されました。まだボブが元気で一人で話している頃の動画です。日本語翻訳の精度がかなり上がってきていて、十分に理解できるレベルになっています。ところどころ不鮮明なところもありますが、今まで私のブログを読んでくださっている方なら、十分に理解できると思います。
私はこの動画の3週間ほど前、2月15日のミーティングでボブに会っています。懐かしい感じがしてうれしかったです。

2026/03/14

感情が苦しいとき、どうするか   マドモアゼル・愛


恐怖の感情に襲われたらどうしたらいいのか? セイラーボブは、「もしその感情に恐れというラベルを貼らなかったら、それは一体なんですか? それはただ単に起こっては去っていきます」という話をよくします。

この動画でマドモアゼル・愛さんはボブの話と全く同じ内容の話をしてみえます。そしてそれは森田療法の根本原理と同じです。私にもよく効きました。

2026/03/13

生活の発見会

以前、おたよりのコーナーで、私の強迫神経症や不安神経症の克服に「森田療法」が役に立ったと、森田正馬先生の本を紹介させていただきました。最近、和田秀樹先生(精神科医)のYouTubeで和田先生が森田療法と、その自助組織である「生活の発見会」を紹介されている動画を見ました。

驚くことに精神科医である和田先生は、不安障害に特に効果があるのは森田療法だと言ってみえます。森田療法が発明されてから100年以上経つのに、未だにそれが有効な方法だと言われるのです。そしてその森田療法を実践する自助団体が「生活の発見会」です。私も30年以上前にこの会に参加させてもらったことがあります。

同じような悩みを持つ方に役立つのではないかと思いますので、「生活の発見会」のサイトを紹介させていただきます。


参考までに和田先生の動画を掲載しておきます。

森田療法はセイラーボブの教える非二元と相通じるものがあると勝手に思っています。「あるがままを生きる」ということが二人の教えのキーワードだと思います。

2026/03/11

どうしてそれが今と違うものになり得るでしょうか?

それはすべて、見かけ上のアイデンティティに関するものです。私たちは、解決すべき様々な事柄が山ほどあると考えています。しかし実際には、これらすべての核心にあるのは自己認識です。私たちが今まさに取り組んでいるのはまさにそれです。そして、一度それを見てしまえば、他にできることは何もありません。自分自身の直接的で即時的な経験の中で、何が指し示されているのかを理解するのです。それは概念を獲得するようなものではありません。ただそれを見るだけです。それだけです。
それは、自分が何者ではないのかを知ることです。なぜなら、あなたは何者でもなく、この概念的な実体ではないからです。それは単なる概念です。概念に何ができるでしょうか。概念はどれほどの力を持つことができるでしょうか。
私たちは何かが今と違ってほしいと願っています。あるいは、何か特別な体験を期待しています。あるいは、心の中に何らかの理解が生まれ、すべてが解明され、パズルのピースが全て組み合わさるだろうと考えています。それは物事が今とは違うものになるという前提に基づいています。しかし、どうしてそれが今と違うものになり得るでしょうか?
                                    セイラーボブ

2026/03/09

もう一度セイラーボブの教えに戻って

ルパート・スパイラのことばかり長く書いたので、もう一度セイラーボブの教えに戻って一番大切なことを書いておきます。

セイラーボブがいつも繰り返し言っていた一番大切なことは、「私」が実在なのかを自分で調べる事。それだけ。

そこにはエンライトメントも一瞥体験もありません。誘導瞑想もミーティングもリトリートも個人セッションも要りません。

「私」が実在なのかを自分で調べる事。他の誰かは決してそれをやってくれないし、自分しかそれをやれません。

自分で調べてみなさい、というシンプルな教えです。

2026/03/07

セイラーボブ海上散骨のYouTube

Snippets from Sea Funeral day trip held in anniversary of Bob's passing, 6th of Feb 2026

海上からボブの遺灰を撒いた様子と、それに続く追悼の会の様子です。動画を日本語で聞くことができます。⚙マーク→音声トラック→日本語。

2026/03/05

マドモアゼル・愛さんのYouTubeから

十年以上前、営業の仕事をしていて、車を運転しながらCBCラジオの「テレフォン人生相談」をよく聞いていました。加藤諦三さんが司会をされている番組です。その中の回答者の一人にマドモアゼル・愛さんという方がみえて、私はその方の回答を聞くたびに深く感銘を受けていました。

今もそうですが、マドモアゼル・愛さんの素性は全く知りません。どうして女性のような名前を名乗っているのだろう、でも良いアドバイスをされる方だなと思っていました。最近YouTubeを見ていたら、マドモアゼル・愛さんの動画が出てきてYouTubeをやってみえると知り、時々見ることがあります。

最近見た中で、すごく感銘を受けたものがあったので掲載しておきます。

マドモアゼル・愛 良くなろうとしない

マドモアゼル・愛 幸福になる一番簡単な方法
 

この二つの動画は前回まで書いてきたルパート・スパイラに関連して載せているのですが、「人生の目的は幸福になること」という考え方自体が不幸を作り出しているような気がします。マドモアゼル・愛さんが言われる、「良くなろうとすること自体が現在の自分を否定していて、ますます悪い方にいく」という趣旨の発言に大いに賛同します。幸せも同じで、幸福を求めて、もがけばもがくほど不幸になるような気がします。

それにしても、一本目の動画の中で森田正馬先生の話が出てきたのには驚きました。神経症も同じで治そうともがけばもがくほど悪化する。Wikipediaで調べたところ、マドモアゼル・愛さんも若い頃ノイローゼで悩んだということでした。私は森田正馬先生の「あるがままを生きる」という生き方が好きです。あるがままを生きて、今幸福でいようと決めることこそが大切なのではないでしょうか。私たちが求める幸福はいつも未来にあるのですが、私たちは今しか生きられません。過度に幸福を求めることが不幸を生み出している気がします。

アシュターヴァクラ・ギーターの中の「幸福でありなさい!」という言葉を思い出します。あるがままで幸福でいることは可能だと思います。ひょっとするとルパート・スパイラも、そういう意味で人生の目的は幸福になることと言っているのかもしれません。それなら大賛成です。

2026/03/03

直観的な理解

ルパート・スパイラは良い教師だと思います。説き方は多少違いますが、セイラーボブと同じことを教えています。彼の説明はセイラーボブよりも緻密で論理的です。意識の局在化のモデル、個人の意識が半分で残りの半分は神の意識で世界が成り立っているという世界観などは多くの人にとってはとてもわかりやすいものです。でも、突き詰めて考えると、それを立証できるような科学的証拠は何もありません。

どんなに緻密で論理的な説明をしても、結局それはマインドを納得させるための道具であり、いくらやってもマインドを理屈で納得させることはできません。マインドは新たな「なぜ」や「でも」を連れて戻ってきます。

非二元の理解は、結局のところ直観的な理解だと思います。非二元を学んでいくうちに、ある時点で直観的な理解が起こります。エンライトメントでも一瞥体験でもなく、直観的な理解です。別の世界を見るとか意識がシフトするということではなく、ああ、これは真実だと思える瞬間。すべての疑いが消える瞬間。それは人それぞれに起こり方が違うのだと思います。

ルパート・スパイラの動画をたくさん見ているうちに次第にある種の違和感を覚えるようになりました。意識の局在化のモデル、個人の意識が半分で残り半分は神の意識で世界が成り立っているという世界観は、よくできた説明です。でも、一つのモデルや世界観で説明できるようなことだろうかと思うようになりました。

もともと非二元の世界は言葉では説明できない世界をいろんな教師がいろんな説明の仕方をします。それはそれでいいのですが、ルパートのように緻密に説明することが果たして良いのだろうかと思うようになりました。個人的にはセイラーボブのような、ある意味おおざっぱな説明で後は個人の理解に任せる方が理解しやすいような気がします。

そしてもう一点。ルパート・スパイラは「幸福」を強調しすぎるような気がします。幸福と感じるかどうかはマインドの問題であり、非二元の探求の目的とイコールではないような気がします。このあたりをうまく説明できないのですが、非二元を理解しても例えば病気やお金の問題などは起こってきます。いくら非二元を理解しても、避けられない不幸は起こってきます。幸福だけの人生を送ることができないのはあたりまえのことです。

人生には幸福な時もあれば不幸な時もあります。別の言い方をするなら、不幸な時があるから幸福な時がある。それはセイラーボブがいつも言うように一対のペアになっていて、良い時だけを取ることはできないと思います。そして幸福も不幸もマインドの産物です。セイラーボブの教える非二元は、そうした幸福や不幸の背後にいつもあるもののことを教えています。

非二元の教えを説く場合、非二元の説明とは別にそれぞれの教師の持つ人生観が説明に反映されます。その人生観とは、その人が生きた環境、時代、学んだことを反映しています。それは非二元の説明とは別のものだと思います。ルパートのように神という言葉を使う人もいれば、セイラーボブのようにエネルギーという言葉を使う人もいます。

それに対して違和感を覚える人もいれば、同調できる人もいると思います。好みや相性の問題と言っていいかもしれません。アル中で苦しんで探求の道に入ったセイラーボブと陶芸家として成功するかたわらで探求を続けたルパートでは当然異なる人生観を持っています。私はセイラーボブの持つ人生観が好きです。そしてその教えは、幸せになることをあまり過度に強調しておらず、ただ単に精神的な苦悩や束縛からの解放だけを強調しているように思います。

今年はセイラーボブ以外の非二元の教師のYouTubeをたくさん掲載しようと思っていましたが、やめることにしました。おそらく、それぞれの教師がそれぞれ違ったモデルや世界観を使い、それぞれの人生観を反映した説明をするでしょう。もともと言葉では説明できない世界のことを説明しているのでそうならざるをえません。一人一人それぞれの教師の教えに深く入って行けば行くほど、その説明は多様なものにならざるをえません。

そうした理由から、セイラーボブ以外の教師の教えを細かく検討しても、あまり意味がないと思うようになりました。いくら様々な教師の説明を学んでも、結局それはマインドを納得させるためのものであり、いわばマインドのえさでしかありません。大切なのは直観的な理解なのだと思います。そしてもともとこのブログはセイラーボブの教えを伝えるためのものであり、他の教師をたくさん取り上げても、かえってセイラーボブの教えを不鮮明にするのではないかと思うようになりました。

2026/03/01

一瞥体験についてもう一度

私はそれほど日本の方によって書かれた非二元の本やブログを読んでいるわけではないのですが、どんなことを言っているんだろうと思って立ち読みしたりネット上で人のブログを読んだりすることはあります。そして思うのですが、日本での非二元の教えの広がり方は欧米と少し違うのではないかという気がします。

日本で非二元を教えてみえる方もたくさんみえるのですが、その多くが一瞥体験から始まります。「私は一瞥体験した」「あれは一瞥体験だったに違いない」「私はそこにいなかった」「とても幸せな状態が続いた」などなど。そして、そのあと「あなたはいない」「私はいない」というフレーズが続き、非二元にまつわるよもやま話が語られます。

でも肝心の非二元の教えや非二元論について語られることはなく、「とにかく私の個人セッションを受けてみてください」となります。そして個人セッションを受けた人たちの「とっても良かった」「悩みがなくなった」という感想が続きます。非二元を教えてもらったのではく、悩み事を聞いてもらっただけではないかという感想ばかり。

非二元とかノンデュアリティという言葉はもともと日本にあった言葉ではなく、欧米から輸入されたものです。そうであるならば、少なくともそれを有料で教える人はその教えを誰から、あるいは何から学んだかを明示すべきです。そして、何を教えているかも説明すべきです。でも、その二つをちゃんと説明している人はほとんどいないように思います。

これではまるで、どこから仕入れたかわからない怪しげなものを中身も見せないでパッケージだけ見せて売っているようなものです。しかもそれが結構高額なのには驚きます。

非二元の教えは、突然起こるエンライトメントや一瞥体験のことを教えているのではありません。非二元の教えは師から生徒へと脈々と教え伝えられてきた教えです。セイラーボブの師はニサルガダッタ・マハラジで、ニサルガダッタ・マハラジの師はシッダラメシュヴァール・マハラジです。ルパート・スパイラの師はフランシス・ルシールで、その師はジャン・クラインです。そうやって師から生徒へと教え伝えられてきたものです。

非二元の教師として有料で人に非二元を教えるなら、ちゃんとした海外の師について学び、自分の師は誰であるのか明示すべきです。私がこのブログに登場させた海外の教師たちの多くはそうしています。そうすることでその人が教えていることの信頼性が担保されます。また、彼らは教えの内容を本やYouTubeで一般に公開しています。その上で熱意と情熱をもって人に教えていて、無料もしくはそれほど高額のお金を取りません。ニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールは無料で教えていたと聞きました。

非二元そのものは私のサイトでも学ぶことができます。でも、非二元の教師となって人に教えるとなると話は違います。ちゃんとした師について深く学び、その師が実際にどう生きているのかを目の当たりにしなくてはいけません。

百歩譲って、日本で誰か海外の教師の本を読んで非二元を学んだというのもありです。その場合には具体的にその本を明示すべきです。そうすれば生徒はその本を読んだうえで疑問点を聞くことができます。

海外の非二元の教師たちは自らの一瞥体験を語る人はほとんどいないように思います。まれには語る人もいますが、それはあくまでも理解の瞬間のことを言っているにすぎません。またセイラーボブのミーティングの参加者で一瞥体験を語る人はいませんでした。

これは私の勝手な想像ですが、日本で非二元の教えが広まる初期の段階で、誰か一足先に非二元の教師となった人が一瞥体験について語り、それを多くの人が真似て日本独特の非二元の教えが広がっていったのではないかと思っています。というのも、海外の非二元の教師たちは様々な説き方をするのに、日本で非二元を教えている人はほとんどワンパターンで、判で押したかのように一瞥体験から始まり、あとは「私はいない」の繰り返しです。その背景として仏教の影響からくる悟り、覚醒を信じている土壌が日本にはあったからかもしれません。

でも最大の原因は、日本語で手に入る非二元の情報が圧倒的に少ないということです。私がセイラーボブの「ただそれだけ」を読んだのは2014年ですが、その時点では日本で非二元について翻訳出版されていた本はほとんどなかったのではないかと思います。もちろん古典的なアドヴァイタの本やラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ダグラス・ハーディングなどの本はありましたが、「非二元」という分類では語られておらず、「非二元」という言葉を使う現代の非二元の教師たち(いわゆるネオ・アドヴァイタやダイレクトパス)の本が続々と翻訳され始めたのはそれ以降のことではないでしょうか。

そうした本が次々と翻訳出版されても、多くの人は彼らを覚醒した人たちだと思っていて、古くからのエンライトメントを説く教師たちと同列に見なしていました。翻訳された本をいくら真剣に読んでも非二元の理解はおぼつきません。そうなると、誰か先に非二元を広めた人の言っていることを鵜呑みにしてコピーするため、それが広まることになります。一瞥体験をすることが非二元を理解することの通行手形のようになって広まっていますが、一瞥体験と非二元は何の関係もありません。非二元の教えは何かを体験することや何かになることではないのです。

日本語で入手できる非二元の情報は限られます。でも、もし英語で非二元の情報を入手しようと思えば圧倒的に多くの情報が手に入ります。英語で出版された非二元の本はたくさんあるし、ネット上にもたくさんの情報があります。例えばルパート・スパイラを例に出すと、日本語に翻訳されたルパート・スパイラの本は3冊(プレゼンス1巻・2巻、気づいていることに気づいている)しかありませんが、英語版なら30冊以上あり、YouTubeには1000本以上の動画があります。有料になりますが、ルパートのサイトにはそれ以上の動画があります。

プレゼンス1巻・2巻を読んでも、ルパートがYouTubeで何度も語っている意識の局在化や時間の不存在、物の不実在のような、彼の教えの核となるような記述は出てきません。私はブログに掲載する動画を選ぶためにかなりの量のルパートのYouTubeを見ました。「プレゼンス」も読みましたし、彼のサイトやネット上の情報も読みました。それでもよくわからなくてギルバートとカリヤニに質問しました。そこまでやっても、彼の教えを完全に理解しているわけではありません。

日本語の彼の本を読んだだけで彼の教えの全体を理解するなんて全く不可能です。そうなると、足りない部分はありきたりの情報を付け足して勝手に想像することになります。それではルパート・スパイラの教えを理解したことになりません。非二元の説き方は人それぞれで同じではないのです。勝手に想像するのは危険です。

セイラーボブの教えている非二元も、Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition)やWhat's Wrong With Right Now?(ギルバート・シュルツ編纂 講話集)などの英語本を読めばもっとよく理解できます。セイラーボブの教えを人に教えようと思うなら、ボブの英語版の本を読むことや、ミーティングのYouTubeを見ることは必須となります。

英語なら正しい情報も怪しい情報も入手することができて、怪しい情報は淘汰されていきます。日本語だけで非二元を完全に理解しようとしても無理です。誰か先に理解した人の説明を鵜呑みにするしかありません。この状況は今もそれほど変わっていなくて、日本語に翻訳された本の数は限られているし、日本語でネット上で非二元を検索しても、その大半が「私はいない」ばかり繰り返す怪しげなサイトしか出てきません。

以前は覚醒、エンライトメントを探していたので、スピリチュアル系のブログやサイトを見ていた時期もあります。でも、そうしたサイトの中に、いつしか「非二元」や「私はいない」という言葉が登場して、いつのまにか非二元を語っている人もいます。でも内容は全然非二元論になっていなくて、「あなたの運命は事前に決まっている」と運命論を語ってみたり、「あの世の話」までしたりする人もいます。

非二元の教えは決してすべてがうまくいくというような教えではないのに、生活が思いのまま自然に起こってくるようになるとか、いつも幸せでいられるといった、非二元の本質とは全然関係のないスピリチュアルの話が非二元の教えであるかのように広まっています。

こうした日本での非二元の伝わり方に違和感を持つのは私だけだろうかと思っていたのですが、ルパート・スパイラのことをあれこれ調べているうちに同じようなことを思っている人を見つけました。

2026/02/27

一瞥体験の質問 

私はカリヤニとギルバートにFacebook経由で同じ質問をしました。私のへなちょこ英語ではダメなので、ChatGPTに英訳してもらいました。

Dear Kalyani,

How are you? I’m writing today because there is something I would like to ask you.
I learned non-duality from Sailor Bob, and I believe I understand non-duality. I understand that what is commonly called “enlightenment”—the idea of suddenly being enveloped in light one day, falling into ecstasy, and then living forever wrapped in bliss—is a foolish fabrication. I think the teaching of non-duality is fundamentally a matter of understanding.

Recently in Japan, many people have begun teaching non-duality, and there are many non-dual teachers online. Most of them start by saying that they had a “glimpse experience” and experienced non-duality. These glimpse experiences vary widely: experiences of there being no “me,” states in which a causeless sense of happiness continues for a while, experiences of being enveloped in unstoppable love, and so on.

I believe that we never actually experience the non-dual reality itself. I also believe that we do not glimpse the non-dual reality. A glimpse experience is, after all, just an experience—something like a pseudo-experience—and not non-duality itself.

So my question is: how should we understand the glimpse experiences that people talk about? Is it possible for us to glimpse the non-dual reality?

Recently, I’ve been watching Rupert Spira’s YouTube videos. In one of them, a questioner talks about a glimpse experience, and Rupert responds as if that glimpse experience were the happiness people are seeking. Watching that video made me feel doubtful about glimpse experiences. If possible, I would appreciate it if you could share your thoughts.
Rupert’s YouTube video: What Is Liberation https://youtu.be/UOMrtaE5OX8

日本語の原文を保存しておかなかったので、英文をまたChatGPTで翻訳したものを載せておきます。

拝啓 カリヤニ様

お元気でいらっしゃいますか。今日は、ぜひお伺いしたいことがあり、ご連絡いたしました。

私はセーラーボブから非二元の教えを学び、自分では非二元を理解しているつもりです。一般に「悟り」と呼ばれている――ある日突然、光に包まれ、恍惚状態に入り、その後ずっと至福に包まれて生きるようになる、という考え――は、愚かな作り話だと思っています。非二元の教えは、本質的には「理解」の問題だと考えています。

最近日本では、非二元を教える人が増え、オンラインにも多くの非二元の教師がいます。その多くは、「一瞥体験(グリンプス体験)」をした、つまり非二元を体験したことがある、と語るところから話を始めます。しかし、その一瞥体験の内容は実にさまざまです。「私」が存在しないという体験、理由のない幸福感がしばらく続く状態、抑えきれない愛に包まれる体験、などです。

私は、私たちは非二元の実在そのものを実際に体験することはないと考えています。また、非二元の実在を「垣間見る(グリンプスする)」こともないと思っています。一瞥体験というのは、結局のところ単なる体験であり、いわば擬似的な体験のようなものであって、非二元そのものではないのではないでしょうか。

そこでお伺いしたいのですが、人々が語る一瞥体験は、どのように理解すればよいのでしょうか。私たちは非二元の実在を垣間見ることが本当に可能なのでしょうか。

最近、ルパート・スパイラのYouTube動画を見ています。その中の一本で、質問者が一瞥体験について話し、それに対してルパートが、まるでその一瞥体験こそが人々の求めている幸福であるかのように答えていました。その動画を見て、私は一瞥体験について疑問を感じるようになりました。もし可能でしたら、あなたのお考えをお聞かせいただければ幸いです。

ルパート・スパイラのYouTube動画:
「What Is Liberation」
https://youtu.be/UOMrtaE5OX8

*************

それに対する二人の答えが、それぞれ違って興味深いものでした。了解を取ってないので、そのまま全部掲載できないので、部分もしくは要約を載せます。

まずはギルバート
ギルバートは、ビデオは見てないと前置きした上で簡単に答えてくれました。(Google翻訳)

***
すべての体験は知性(intellect)による作り事だ。
自己の中心は、主体(私)として想像されている。
非二元は言葉では表せず、記述不能で、沈黙そのものだ。
理解は誰にでもあるが、思考によって覆い隠されているように見える。
誤解こそが共通要因であり、それはすべて分離の夢だ。
***

まだ少し続きがあるのですが、ここまでで十分です。私にとっては最初の一行「すべての体験は知性による作り事だ。」で十分でした。これが私の求めていた答えでした。

そしてギルバートは、ボブの本をしっかり読んで自分で「私」が実在かどうかをちゃんと調べてみなさいという返事で、私の質問には直接答えませんでした。でも、それで十分でした。ギルバートの返事は、どうして今さらそんなことを聞くのかと言う感じで、座禅の時の警策ように私をピシャリと打ちました。


そしてカリヤニ
カリヤニからの返事は、この質問は多くの探求者が抱く疑問なので、ぜひ私のセッションを受けてみたら、というものでした。え~、私は十分に非二元を理解したと思っているし、初心者じゃないんだから、今さらセッションなんてと思ったのですが、どんなセッションをするのか興味があったし、無料でいいからというので受けることにしました。

日を改めてZoomでセッションをしてくれました。詳しい内容は了解をとっていないので控えさせていただきますが、カリヤニの説明はセイラーボブの教えを色濃く反映したもので、どんな体験も起こっては去っていくもの、幸福も不幸も起こっては去っていくものだということ。そして、体験に対してあれこれと判断しているというのはマインドにすぎないというものでした。

カリヤニは私が十分に非二元を理解していることは承知していましたが、親切にも詳しく説明してくれて、納得のいく説明でした。

*********

二人の答えは私の理解していることと同じでしたが、カリヤニもギルバートも私の問い(一瞥体験)には直接答えませんでした。彼らにしてみれば、こんな質問自体が論外で的外れだということです。どんな体験もマインドの中の出来事であり、非二元を体験することではありません。一瞥体験はマインドの産物です。そしてルパート・スパイラが何を話そうが、彼らにはどうでもいいことのようです。そんな些細なことをあれこれ考えるなということだと思います。おそらくカリヤニもビデオを見ていないと思います。

日本ではあまりにも多くの人が一瞥体験について語り、あたかもそれが非二元を理解する通過儀礼のように語られている現状があり、一度ちゃんと聞いてみたいと思っていたのですが、彼らにしてみれば、今さらどうして私がそんな初歩的なことを聞くのかと思ったい違いありません。彼らにしてみれば、人々が好き勝手に語る一瞥体験なんてどうでもよいことであり、非二元の本質を理解することとは何も関係ないということです。

私が取り上げた今回の動画でも、ルパートは一瞥体験を肯定しているわけではなく、幸せな状態に焦点を当てているにすぎないのだと思います。でも今回の件で私が思ったのは、このブログでセイラーボブ以外の非二元の教師を詳しく取り上げるのはよくないなということです。カリヤニも言っていたのですが、いろんな人がいろんな教え方をします。その細かい部分の整合性を確認しようとしても無理だということです。

唯識には唯識の説き方がり、ヒンズー教にはヒンズー教の説き方があります。ルパートにはルパートの説き方があります。それを良いとか悪いとかいっても始まらない。それぞれ自分に合う教師や教えを見つけて本質的なことを学べばよいのだと思います。その説明はそれぞれ違って当たり前です。

ルパート・スパイラの説き方は、ある意味とても理論的で、理屈で理解したい人には向くと思います。でも、例えば意識の局在化というモデルや、世界の半分は人の意識でできていて、残り半分は大いなるもの、あるいは神の意識でできているというモデルは理屈としてはわかるし魅力的ですが、果たしてそれが正しいのかどうかはわからない。世界は幻だという説明も、わかりやすいのですが結局は証明しようのないことです。

そして、ルパートは幸福を強調しすぎるような気がします。私としては幸福も不幸もマインドの中のことだと思っています。でも、ルパートは非二元が浸透し始めると最初に内側が変わり、そして外側が変わって幸せになっていくと言います。「幸せになれる」、それがルパートの人気の理由だと思うのですが、こういう説明に違和感を覚えます。こういう説明は引き寄せの法則や願望実現の教えに繋がりかねない気がします。そしてそれは非二元の本質とは外れているという気がします。

私としてはセイラーボブのような細かいところはあまり説明しない説明の方が受け入れやすいです。世界は知性エネルギーの働きだ! 以上おわり、あとは自分で調べなさい。の方がわかりやすい。今までさんざんルパートをほめて、たくさんのYouTubeを載せておきながら今になってなんだ、と言われそうですが、申し訳ありません。ルパート・スパイラがすばらしい教師であるという思いは変わりませんが、ルパートとのハネムーンが終わってしまいました。そろそろルパート・スパイラを卒業しようと思います。

今のところ、海外の非二元の教師のうち日本で情報を入手できる教師ではルパート・スパイラが質、量ともに一番ではないかと思います。しかもまだ健在で話し続けているということも重要です。ルパート・スパイラのYouTubeにはまだまだすばらしい動画がたくさんあるのですが、なにも私がブログに取り上げなくてもみなさんがご自分で見ていただければいいのかなと思います。

セイラーボブ以外の非二元の教師がどういう説き方をするのか知ることは役に立ったと思います。でも今後はボブ以外の非二元の教師に深入りすることはしないつもりです。そうすることで、かえってセイラーボブの教えが不鮮明になるような気がします。

2026/02/25

一瞥体験の後、続くプロセス  ルパート・スパイラ

「Rupert Spira 非二元のエッセンス」堀田真紀子さんのYouTubeから転載させていただきました。わかりやすい日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→日本語)。

堀田さんのYouTubeチャンネルに堀田さんによる解説があるので、そちらを参考にしてください。堀田さんのYouTube

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オリジナル動画は「What is Liberation?」です。

私はこの動画を見て、ものすごい違和感を覚えました。私のブログではエンライトメントはないということを繰り返し書いてきました。ルパートもエンライトメントとは昔から信じられてきた突然の至福体験ではなく、自己の本質を認識することだと言っています。

もしそうだとすると、一瞥体験とは何だろうという疑問がわきます。私たちが非二元の世界を見ることや体験することはないはずです。この動画では、質問者が数か月の間、地上の天国のような状態が続いたあと、それが消えてしまったと言います。質問者は、glimpseという言葉を使っていて、一瞥体験という訳になっています。その体験を一瞥体験と呼ぶかどうかという疑問は残るのですが、それに対して、ルパートはそれが私たちが求めている幸福であり、それを少しづつ取り戻す過程について説明しています。

私の考えでは、一瞥体験はマインド、あるいは思考の産物であり、私たちが求めている幸福などではないと思っています。このブログでも、一瞥体験を看板にして客寄せをする非二元の教師に対して否定的なことを書いてきました。

ルパートも今まで紹介してきた動画の中で一瞥体験を否定していて、それは単なる個人の体験にすぎないと言っています。でもこの動画でルパートは一瞥体験を肯定しているかのように思え、それが私たちが求めている幸福だと言っているように思えます。私は以前から、欧米ではほとんど一瞥体験を語る人がいないのに、どうして日本では一瞥体験のことを語る人が多いのだろうと疑問に思っていました。

そこで私は、カリヤニとギルバートでFcaebook経由でこのことについて彼らの意見を求めました。彼らが一瞥体験についてどう考えているのか聞きたくなったのです。長くなるので続きは次回とさせていただきます。

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2026/02/23

物質が意識で出来ているとはどういうことか?  ルパート・スパイラ

How Can Matter Be Made of Consciousness?
日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→英語(自動生成)→英語(自動生成)→自動翻訳→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

物質は意識でできているのでしょうか?思考、感情、感覚が意識でできていることは、容易に見て感じられます。しかし、意識のみのモデルは、私たち自身の有限な心の外側に現れる対象をどのように説明するのでしょうか?そして、それを私たち自身の直接的な経験でどのように検証できるのでしょうか?

ルパートは、ロンドンで眠りに落ち、自分がパリのジェーンであるという夢を見るメアリーの例えを用います。ジェーンは、私の思考は私の心の中に現れ、他のどこにも現れないと考えているので、明らかに意識からできています。しかし、パリの街路はどうでしょうか?目を閉じると私の思考は消えますが、友人のクレアの思考は消えません。つまり、パリの街路には、私の有限な心以上の何かがあるのは明らかです。そのため、ジェーンはパリの街路は物質と呼ばれる、自分自身の外にある何かでできていると考えています。しかし、メアリーの視点から見ると、パリの街路は彼女自身の心でできているのです。

メアリーは、宇宙を自らの内側で夢見る意識を表しています。この夢を私たちそれぞれの局所的な視点から見ると、それは私たちの外にあるものからできているように見えます。しかし、無限の意識の観点から見ると、意識は私たち一人ひとりが経験する個別の主体として局所化され、意識の非局所的な部分が世界として私たちに現れます。

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無限の意識から見れば、私たち一人一人の意識は夢のようなものであり、その夢の中で見る物質も意識でできているという話です。ジェーンとメアリーの例えは以前にも掲載したことがありますが、なかなか良い例えですね。

前回のYouTubeでは一つの意識が局在化(局所化)して私たち一人一人の意識となって別々の世界を見ているという例えを使い、今回は全然別の例え(メアリーの見る夢の中のジェーン)を使って説明する。このあたりがおもしろいですね。私は両方の例えが好きですが、どちらかというと前回のYouTubeの話がわかりやすいです。

セイラーボブは知性エネルギーがパターン化して世界を形造るという話をしますが、ルパートの場合は物質としての物が実在するという話をしないのが興味深いですね。もちろんボブも、椅子を指さして、「それは何ですか?」と聞くパターンがあって、私たちが椅子という定義づけをしなければ、そこには意識があるだけだという説明もします。

2026/02/21

現実とは何か?  ルパート・スパイラ

What Is Reality?
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

現実とは何か?もし世界が幻想だとしたら、世界のどこが現実なのだろうか?私たちの感覚知覚を超えた現実とは何だろうか?

ルパートは、世界の現実は有限の心に先行すると説明しています。私たちに物理的な世界として現れるものは、普遍的な心、つまり意識の活動であり、その本質は物質ではなく意識です。現実は、世界の中にある独立した主体、つまり有限の心の感覚知覚を通して知覚されたときにのみ、物質として現れます。

有限の心とは、無限の意識の局在であり、現実を知覚し、自身の限界に従ってその姿を創造します。だからこそ、私たちは世界を半分創造し、半分知覚していると言われています。

しかし、究極的には、現実は一つの、形のない不可分な全体であり、それは存在、つまり神の存在なのです。

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私たちが物を現実の存在として認識する原因は私たちの知覚(五感)にあるという話は私がこのブログに何度も書いたことであり、セイラーボブがいつも話す椅子の話と同じことを言っています。

五感で得た情報を無しにすると、それを椅子と認識することはできない。でも、そこに椅子は無いとしても何かがある。ルパートは、物は私たちの認識で半分できていて、残りの半分は、いわば全体としての意識のようなものでできていると言います。

このブログの唯識の量子力学のところ(唯識③量子力学)で書いた、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」ということと同じことを言っているような気がします。

セイラーボブは、私たちが椅子という定義づけをしなければ、そこには椅子はなく、ただ一つのものあるだけと言います。

ルパートは、物(世界)とは私たちの知覚の認識が半分で、残りの半分は全体の意識(無限の意識)でできているが、それが一体となったものが現実だと言っています。要するに無限の意識の活動が先にあって、局在化した私たちの意識(マインド)で見たものが物(世界)だと言っています。この説明は私にとって新鮮なものでした。

セイラーボブが、椅子の話をするたびに、椅子と認識しなかったら、そこには何があるのか、一つの意識と片付けてしまうのは乱暴な気がしていました。それをルパートはもっとわかりやすく説明してくれました。

私たちは知覚の外にあるその半分のもの(無限の意識)を知りたいと思うのですが、やはりそれを具体的に知ることはできないのではないでしょうか。ルパートは、それを突き詰めていくと、ものすごい喜びの瞬間が訪れると言っていますが、それはたぶん、理解した瞬間の喜びを比喩的に言っているのだと思います。