2023/06/30

もしあなたがマインドの召し使いになるなら、苦悩することになります

2023.6.25ミーティング 40:15から

参加者:あなたがおっしゃったことを理解しようとしていますが、あなたがおっしゃったのは、考えていること自体が思考だということですか?

カット:いいえ。考えている人、つまり「私が考えている」という思考の「私」が考えているのではないということです。私が考えているという事自体が別の思考なのです。私が考えているという思考は、思考の内容であり、そこに考える人はいません。そこに「私」がいて、それが考えているというのは想像です。でも、真実は、そこには考えている「私」はおらず、「私が考えている」という思考にすぎません。そこには誰もおらず、他の思考と同じように、「私が考えている」という思考があるだけです。

ジュリア:ただ、そう主張しているだけです。あなたが考えているという主張があるだけです。この幻想の中で、うわべ上それが考えているように見えているだけです。ここには何かを考えている人は誰もいない。もし、あなたが考えていると言うのなら、思考が起こるのを止めるためにはどうしますか? 脳の中のシナプスが働いて思考が起こるのですが、あなたがシナプスを働かせているのですか? それともそれはただ起こっているのですか?

参加者:瞑想している時気づいたのですが、

ジュリア:あなたは瞑想しているの?(笑い)

参加者:いいえ。言葉のあやです。思考は私のせいではなく、起こっています。それはよくわかります。思考は私によって起こるのではありません。それがわかるのにしばらくかかりましたが、それははっきりとわかりました。でも、あなたたが言うことが理解できないのです。

カット:思考はあなたによって起こるのではないと言いましたね?

参加者:ええ。

カット:では、ボブの言ったことに対する質問は何ですか? もし、私が考えるという思考は、思考を考える人ではなく、単なる思考だというのなら、それを起こしている「私」はいないということになります。

参加者:オーケー。

カット:それはすでにあなたが理解したことです。そうでしょ。

参加者:どうしてこんな簡単なことが、ぼんやりとしか理解できないのかわかりません。

カット:もし体の他の機能を調べてみるなら、例えば髪が生えること、あなたが髪を生やしているのですか?

参加者:いいえ。

カット:でもあなたは、ええ、私は髪を伸ばしている、短く切ったけど、もっと長くするつもりだと言います。まるで、あなたが伸ばしているかのように。髪が自然に伸びるように、見る働きは自然に起こっています。思考は自然に起こっています。もちろん、あなたが髪の毛にとって健康なものを食べれば、健康な髪が生えるでしょう。あなたが幸せなら、思考は、より幸せなものとなるでしょう。見る働きなどもすべては相互に作用していて、外側で起こっていることと分離しているわけでありません。

あなたが髪を成長させていないのと同じように、あなたがあなたの思考を考え出しているわけではないのです。では、「私」は一体何をしているのか? それはそこにいる必要さえないというのに。おそらく「私」はまったく余分なものです。髪は自然に生え、思考はやってきて、見る働きも自然に起こっています。

ボブ:呼吸も。

カット:呼吸も自然に起こっています。「私」には何の仕事もありません。唯一の仕事は、自然がすでにやったことを自分の手柄にすることだけです。

参加者:ボブが語ったセンテンス、「もし思考の・・・」、いいえ、ええっと、彼は何と言いましたか?

カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。

参加者:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。

カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。私が考えていると言っている思考が、実際には考えていないのなら、どうなるのか? それは深淵な言葉です。もし、私は見ていると言っている「私」が見ていないとしたら、どうなるのか? ボブが言うように、思考の「私は見ている」には目がありません。体には目がありますが、私は見ているという思考には考えるための脳も見るための目もありません。思考は単なる音です。それは何もできません。

参加者:私が今この質問をしているのは、以前、一年ほど前のことですが、このことははっきりとわかっていました。それは、深い理解(realization)というより、いくぶん知的な理解(understanding)でした。見ることは起こっています。つまり、聞くことと一緒に起こっています。そこには、聞いている人はいません。それは聞く働きにすぎません。同様に、見る働きも同じだとわかります。そこには、見ている人はいません。見る働きがあるだけです。

でも、それは深い理解(realization)ではなく、シンプルなことで、つまり、どうして以前はこんなことがわからなかったのだろうという程度のものです。もしそれが真実なら、なぜ私は理解(realize)しないのでしょうか? 何が私の理解を邪魔しているのでしょうか? 私には、解消しなくてはいけない自己同化があまりにもたくさんあるからではないでしょうか?

カット:ええ。そこには、「私」という観念があります。あなたは、「私」には見ることができず、見ることは起こっていると理解しています。その「私」は髪を伸ばすことはできず、髪は自然に伸びています。でも、あなたは、依然として、「私」が理解(realize)できると信じています。そこには誰もいないのに、どうしてそれが理解できるでしょうか? 「私」がいない時、そこには理解があります。

参加者:そのことはわかります。それはとてもシンプルです。そこには何もありません。でも、あまりにも私は自己同化しています。それは何かエネルギーのようなもの。それが何なのかはわかりませんが、悪い習慣です。どうやったら、その悪い習慣を乗り越えることができるでしょうか?

ギルバート:その習慣は単なる習慣だと知ることです。理解に到達するためには、理解すべきことの直接的な体験が必要です。この場合、今この瞬間、自分で思考を考え出すことができるかやってみることです。一つの思考を自分で考え出すことができるか。できますか? 

参加者:できるように思います。

ギルバート:オーケー。本当ですか? 

参加者:いいえ。

ギルバート:それが直接の体験です。あなたは、一つの思考も考え出すことはできないと体験しました。そうやって、理解は努力なく自然に変化していくのです。つまり、身に着けた誤った知識を消し去るための洞察力が必要なのです。その知識が「私」の元となっています。知識とは、実際には無知のことです。いにしえのインドの経典にあるように、avidya(アヴィジャ:知恵)と vidya(ヴィジャ:無知)は同じものです。彼らはそれ以上のことを言いませんが、それは深い理解であり、私たちには自分でそれを理解する必要があります。

あなたが自分だと思っているものや、蓄えたすべての知識は、無知以外の何ものでもありません。そしてそれがあなたに問題を引き起こすのです。それを調査することによって消し去る必要があります。ボブが言うように、「私」を見つけることができるかを、自身で調べることです。「私」を見つけることができますか? この「私」を、あなたは見つけることができません。

参加者:自己同化が起こるたびに、その「私」を探す必要があるということですね? 毎回。いつも、絶えず。

ギルバート:アイデンティティ(自己同化)とは何ですか? 「私」のアイデンティティとは何なのですか? この「私」が実在かどうか調べるために、「私」は何かに自己同化しますが、それは決して実在ではありません。人々、愛する誰か、物などに執着します。誰かが私の財布を盗んだ、あるいは車、その他の何かを盗んだとしても、それは私のアイデンティティではありません。私のアイデンティティとは何ですか? それは「私は在る」です。

「私は在る」という知識です。それは皆に共通のものです。でも、私たちはそんな風に生きることに慣れていません。すべては「私」に関わっています。自身が安全だと感じるために、物事を手に入れ、ため込むのです。でも、安全などというものはありません。というのも、それはすべてフィクションだからです。それは完全な全くのフィクションです。それはありふれた知識ではないので、新聞や7時のニュースではやりません。「私」はフィクションです。世界のあらゆる苦悩は、それが元となっています。

一つの思考を考え出すことができますか? あなたは、あらゆることを考え出すことができるアウエアネス(意識)、コンシャスネス(意識)から独立した存在ですか? いいえ。そこにあるのは意識(コンシャスネス)だけであり、その意識(コンシャスネス)がすべてを行っているのです。そこには、どこにも分離した存在はいません。

仏陀は空(くう)を見つけました。彼は、自我(self-nature)はどこにも存在しないと言いました。つまり、あらゆる苦悩の原因となる自己という観念、分離した個人は幻想なのです。それはとてもシンプルです。自身の空間、時間、プライバシーの中に、「私」を見つけることができるかを調べるのです。今それをやってみるのです。

見つかりません。なぜなら、それはフィクションだからです。それは、皆が信じているとてもありふれたフィクションです。そのため、世界は苦悩、戦争などで満ちていますが、それは幻想なのです。それはまったくの幻想です。

私たちは皆、一つの本質がうわべ上で別々の存在として現れたものです。その本質を知る必要があります。なぜなら、あなたはその本質だからです。「私は在る」は知識です。「私は在る」は実在の本質なのです。実在は静寂です。実在には言葉は不要です。実在は静寂であり、あなたはその静寂とともに座ることができます。

そしてあなたは、マインドを観察して、それが動きであり、じっとしていることができないということを理解することができます。瞑想することはできますが、マインドはじっとしてはいられないのです。というのも、それは生(命)であり、動いているからです。その静寂・実在の中に座って、マインドを見つめ、その動きを見て、自分はそのマインドが同化しているものではないと知ることができます。

あなたは、マインドが同化している何かではありません。あなたは、それを目撃者として見つめ、それが何をしているのかを見るのです。すると、あなたはマインドが何なのかを理解します。ニサルガダッタが言ったように、マインドは良い召し使いだが、悪しきマスターです。もしあなたがマインドの召し使いになるなら、苦悩することになります。でも、苦悩する人は誰なのか? ごめんなさい。独占してしまいました。

カット:いいえ。すばらしかった。

2023/06/27

探求はエンライトメントなどというものはないという理解とともに終わる

探求はエンライトメントなどというものはないという理解とともに終わる。
探求することによって、あなたは自己を解放したいと思うが、自己を解放するために何をしようと、それをやっているのは自己なのだ。
どうしたらこの単純なことを理解してもらえるだろうか。
「どうやって」と問うべきではない。私があなたに言えるのは、そう問うことでさらに探求心を強めてしまうということだ。
それこそがあらゆる疑問から来る問いである。「どうやって、どうやって、どうやって?」                          
                             U.G.クリシュナムルティ

2023/06/23

そこには行為者はいません

2023.6.18ミーティング 1:11:12から

ジーン:やってきては去っていく意識・思考を、そのままにしておくということは理解しました。それには賛成です。心理学をたくさん学んだせいかどうかはわかりませんが、感知することができる思考のさらに下に潜在意識としての信念が動いていると思います。

そのうちの、どれほどが広がっている感情、運命、あるいは何と呼んでもいいのですが、それを操作しているのでしょうか。それは、私が自分に植え付けたものかもしれません。つまり、成長する課程において、世界は安全・幸福な場所ではないと自身に植え付けた観念なのかもしれません。

そしてそれは実際、私がどうすることもできないレベルで動いています。そのため私はいつも中毒という問題を抱えています。ネガティブな感情から逃れようとして、どれほど何度もこの困難を乗り越えようと努力したことでしょうか。するとまた、別の中毒がやってくるのです。ムードを変えようとする行動のことです。

酒、ドラッグ、セックス、猛スピードでの運転、私は詳しくはありませんが、極端な情事などは、自分ではコントロールすることができない感情から逃れるためのものです。それはある感情であり、潜在意識下で起こっていることだと私は思っています。そして私は、この生活のやり方を、どうしたらいいのかわかりません。

カット:残念ながら、何もすることはできません。どんな生活のレベルにおいても、何もすることはできません。そしてそれが、このメッセージの断固とした基本です。そこには行為者はいません。何が起ころうと、たとえそれがPTSD、子供の時に遺棄されたことからくる根深い感覚であろうと、それは単なる解釈であり、その感覚は実際の世界で起こる必要はなかったものです。

もちろん、どんなことでも起こりえます。そしてそれが起きなかったとしても、そこには行為者はいません。それに対しては何もすることができません。認識することだけが唯一の道です。もし、ボブの人生のストーリーを見てみるなら、30歳の時、喧嘩をして歯を失いました。その時点で14年もの間、アル中でした。ホームレスの無職、就労不適格者、疲れて果てて道に横たわっていました。

彼にとって、世界が安全な場所だというのはジョークでした。しがみつく何ものもありませんでした。絶望してAA(断酒会)に戻りました。しらふになるためです。そして、8~9か月後にまたそこを出ました。そしてまた、酒を飲み続けたのです。なぜなら、そこには自己の中心だけがあったからです。そこにはその感覚だけがあったからです。そこにはエゴの感覚だけがあり、エゴは脅され、世界は安全な場所ではありませんでした。

そして、自分はどうしたらいいのか。鈍感になるためにできることは何でもやった。酒でもなんでもやった。「私」が中心にいる間は、何をやってもだめなのです。まったく無駄です。認識は、「私」を超えたところからやってきます。ボブの場合、何者かが自分に人生で二度目のチャンスを与えてくれた、ということは、自己の中心の外に何かがあるのかもしれない、それは神かもしれない、実在、あるいは生、知性かもしれないということから始まりました。

そして今、探求そのものは幻想、マインドの想像物です。それは、マインドの外にある何かです。でも、探求はボブを成熟、準備の整った地点へと連れていきました。疲れ切った思考のパターンが、探し求め、自らを苦しめ、夢を見させ、熱望させ、そして最後にギブアップして、やすらぎへと導いたのです。というのも、それにできることは何もなく、それは機械的なプログラムであり、何もできないからです。それはある意味、自己という視点からは完全に無力であり、何もできないということを受け入れるようなものです。

それは、生に対して理解が生まれるようなもの。生がいつもあなたにそうしてきたように、あなたの世話をいつもしているということへの理解。あなたは今ここにいて、あなたの心臓は脈を打っている。あなたは健康で、寝る場所がある。ボブは以前よりもひどい状態ですが、それでも生(命)は彼の世話をしています。

ミーティングの記事はここまで。

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ここからはどうでもいい話。
私はセイラーボブに会った初期の段階から、どうしてボブの英語はこんなに聞き取りにくいんだろうと思っていました。モゴモゴ言って、とっても聞き取りにくい。英語ネイティブの人にとっても聞き取りにくいのだそうです。YouTubeの自動字幕装置もほとんどお手上げです。

そしてもう一つ思っていたのは、ボブの歯が上下とも異常にきれいだということ。なんとなく、入れ歯かなぁと思っていたのですが、総入れ歯と思ったことはなく、それほど突き詰めて考えたことはありませんでした。でも、今回と前々回のミーティングの中でカットが語ったことによると、ボブがまだアル中だった頃にケンカをして、歯を全部なくしたと言っています。

それから考えると、ボブは少なくとも30代の前半から総入れ歯だったということになります。だからあんなにモゴモゴと不鮮明な話し方になるんですね。それにしても、ケンカをして歯を全部なくすとは、どれほど荒れた生活をしていたんでしょうか。よくそんな境遇から立ち直ったなぁと思います。

2023/06/20

成ることは在ることではありません

そして不完全性と分離が起こります。それが探求の始まりです。しばしばそれには終わりがありません。自分で調べて見抜かない限り、それは続きます。
成ることは在ることではありません。
今この瞬間ここで、意識のない人、実在しない人、存在しない人はいません。
                                    セイラーボブ

2023/06/16

草はひとりでに生える

2023.6.11ミーティング 36:18から

カット:(携帯を見ながら)今日は27人から30人ぐらいの人がオンラインで参加しています。質問はありませんが、いくつかのメッセージがきています。何人かの人から皆さんへおはようのメッセージが届いています。ラムから、「今日のボブは、まるで10年前のようで、エネルギーがみなぎっていた」。ギルバートから、「人々の欲求を満たすためではないポインター。自然ですばらしい。それを知的に理解しようとすれば失敗する。それで何も悪いことはない。あるがままは、あるがまま」。

そしてまたラム、「カットはボブに何を食べさせたのか」。(ボブに向かって)彼はあなたのエネルギーが良かったけど、何を食べさせたかですって。(笑い)ええ、もちろん愛情です。それに、皆さんからいただいたもの。ディーンの有機野菜園で作ったすばらしい作物などをスープや汁に、違った形の愛として入れています。JBから、「とてつもなく素晴らしいスピールでした」。そしてサラから、「ありがとう」。オンライン参加者からは質問は届いていません。誰か質問したい人やシェアしたい人はいますか? カビーシャ、質問ですか?

カビーシャ:質問かどうかはわからないのですが、ボブの話でちょっと感じることろがありました。何かをする必要はないというところです。それはとても強力でした。というのも、私は生涯を通して、善良であろうと努力したり、両親や教師にほめられるように努力してきたりして、子供の頃からそうするようにと社会に条件づけされてきたからです。

そのため、努力を要しない? ワオ! とてもショックでした。でも、私は天国へ行くつもりなのではないか? 私の言っていることがわかりますか? それは奮闘するエネルギーです。そして、あなたは、努力は必要ないと言いました。それが今日とても胸を打ちました。どうやってそうしたらいいのかわかりません(笑い)。

カット:あなたがやる必要はないのです。

カビーシャ:まさしく、そのとおりです。(笑い)ああ、どうしよう、私は努力しようとしている。(笑い)

カット:やらないようにと努力しなくていいのです。(笑い)

カビーシャ:ええ。サンキュー、ボブ。

ボブ:サンキュー。私も何年も努力しましたよ。

カビーシャ:そしてまた、スピリチャアルの道では、エンライトメントや、なんやかんやを達成するまで、努力することにエネルギーを注ぐことで手一杯です。それはたぶん、なんやかんやなのですが、それは、ただ在る状態にリラックスすることではありません。それは常に私たちを取り巻いているのに、私たちは夢の中で努力してその周りをかけずりまわっているのですね。サンキュー。

ボブ:サンキュー。

カット:すばらしいですね。努力するという概念は、その根底に様々な仮定を含んでいます。ありのままではいけない。何か違ったものになるため、変えるためには何かに向かって奮闘しなくてはいけない。そのため、この瞬間を受け入れるかわりに拒絶するのです。拒絶するということは、違うものになって、この瞬間から分離することになります。もはやあなたはこの瞬間にいません。この瞬間にある何かから、傷つけられたり抑圧されたりすることになります。

そしてまた、あなたが言ったように、努力、奮闘することは、将来、何かが起きること、成し遂げることを意味します。今、この瞬間がいけないというだけでなく、おそらく後でいつか別の瞬間が来るということを意味しますが、後はありません。どんな未来の瞬間も、今この瞬間の想像の中にあるだけです。そして、「私」と、この知る働きのフィールドには分離はありません。

でも、努力することは驚くべきことです。あなたは実際耳にしました。というのも、それはあらゆる苦悩、苦しみを含んでいるからです。私は人間であり、分離している。私の外にあるのは世界であり、それと折り合いをつけなくてはいけない。そして、世界は間違っていて、私はそれを変えるために努力をしなくてはいけない。そしてまた、私はよくない、自分を変えなくてはいけない。

カビーシャ:私たちは、原罪を背負っているために、それほど勝ち目がありませんでした。そうでしょ? 最初から背負っているのです。あなたは原罪とともに生まれた。ええ? 私は何もやっていなのに。私はただの赤ちゃんなのに。(笑い)

カット:原罪についてボブは、私たちが言葉を覚えたために天国から追い出されたと言っています。子宮から出た時ではないのです。その時点では原罪、分離はありません。でも、私たちは言葉を学びます。私たちは善悪の木から食べるのです。両親から、これは良くない、これは良い、私はここにいて、世界はここにあると学びます。

そうして分離が創造されます。たくさんの概念、たくさんの言葉。一歳半から二歳半の頃。それは言葉によります。ある言葉はより易しいでしょう。概念ができあがり、まわりの人を真似ることによってそれを学びます。それが、天国から追い出される瞬間です。善悪の知識、言葉によって、分離の感覚がやってきます。

42:32から55:40まで省略。

55:40から
カビーシャ:歌を歌ってもいいですか?(一同拍手)

[Spring comes and the grass grows by itself sitting silently doing nothing.]
(何もしないで静かに座ると、春がきて草はひとりでに生える)

あとはこの繰り返しで、みんなで合唱でした。

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カビーシャの歌の歌詞の出典は何だろうと思って、ネットで英文を検索してみました。すると、驚くことに、この言葉は松尾芭蕉の言葉であるという画像がたくさん出てきました。そこで、芭蕉の言葉を日本語で検索して、それらしい言葉か俳句があるかと探したがみつかりませんでした。

調べていくうちに、その情報源は、OSHO(ラジニーシ)の「草はひとりでに生える」であり、どうもOSHOが芭蕉の言葉であると誤って語ったことが、ネット上で拡散したものらしいとわかりました。(参考:草はひとりでに生える

もともとの出典は景徳伝灯録(中国、北宋の禅の書)のようです。(参考:茶席の禅語選黄檗宗大本山塔頭 宝善院) おそらく、カビーシャは禅の本から歌詞を取っていると思われます。

この言葉の禅的な解釈は禅の専門家にお任せして、非二元的な解釈をするなら、行為者の不在ということだと思います。私たちはもともとそれなのだから、必要なことは、ただ理解することだけです。
このミーティングの中のスピールでも、ボブは、「私」がそれをやるのではなく、生(命)が自然にそれ(理解)を起こすのだと言っています。カビーシャの質問も、そのスピールに対するものです。

2023/06/13

それはいつもここにあります

ニサルガダッタは、「私は在るという感覚に留まりなさい」と言いました。
思考や言葉の「私は在る」のことを言っているのではありません。存在の感覚のことを言っているのです。自然発生的な存在の感覚に留まると、それから出ることはできないと気づくはずです。
曇りの日に外に出て、空に太陽がないと言いますか? 太陽は自ら輝いています。
でも、あなたには太陽が見えません。十分な光がありません。
あなたは太陽がそこにないと言ってまわることはしません。もし真っ暗だったら、空に雲があることもわからないでしょう。
太陽が見えなくても、あなたはそこに太陽があると知っています。
自然発生的な実在も同じです。それはいつもここにあります。
                                    セイラーボブ


2023/06/09

それは単なる感情、ラベルにすぎないと理解することです

2023.6.4ミーティング 36:17から

参加者:ボブ、カット。目覚め、個人の目覚め、つまり、自分自身になるために、マインドとトラウマが、どんな役割を果たすのか、少し話していただけますか?

カット:(ボブに向かって)何か話したいですか?

ボブ:いいえ。

カット:それは落とし穴のある質問ですね。なぜなら、まず第一に、個人が目覚めることはもちろんないからです。ええ、これは言葉のあやであるということはわかっています。ええ、条件付け、トラウマは、あなたも知っているように、存在します。例えば、動物にもトラウマがあります。でも、動物はそれを阻止したり増大させたりすることはありません。というのも、動物はいつも自然な状態にいるからです。

もし動物、例えばオオカミが罠にかかったら、あるいは、犬が虐待されたり、猫がいじめられたりしたら、彼らの脳は生存のための反応を身につけます。もちろん、それは結局は役に立たないものとなります。人間のトラウマを考えると、例えば退役軍人や虐待の犠牲者は、その瞬間を生きのびるために何らかの戦略を身につけますが、そうした戦略は、もはや役に立たなくなっても持ち運ばれます。そしてそれがさらなる苦悩を生み出すのです。

人間と同じように、動物にもトラウマがあるのは事実です。人間の特定の行為に対して、特定の反応をするように条件づけられます。そしてその反応がしばらくは続くのですが、時がたつと、抵抗や悪い感覚は消えていきます。そして、トラウマがあってもなくても、そこには自然な状態があります。

人間の場合は、トラウマを何度も生きることになります。私たちには物語という別のソフトウェアがあります。時には、トラウマをもう一度生きることは、トラウマの解消になることがありますが、トラウマを強めてしまうこともあります。一つのやり方がすべてに当てはまるとは言えません。

ボブは、そうした場合はいつも、本当のあなたである静寂の状態に戻って、何が自然に起こるか見守ってくださいと言います。というのも、顕現として現れるすべてのものには適所があるからです。セラピー、指圧、瞑想、何でも自然に起こってきます。物語だけが特定の物語を強化し続け、トラウマを持続させ、トラウマが「私」の目覚めを妨げているという物語さえ生みます。あらゆることが「私」が目覚めることを妨げているとなります。

もちろん、「私」が目覚めることは決してありません。どんな物語もそこにあります。それは実際には落とし穴のある質問ではありません。それはどんな場合も個人によって異なるという問題です。そしてそれは、トラウマをどう定義するかによります。もしあなたがボブに、彼の人生の前半30年について尋ねたら、どれほど多くのトラウマが起こったかを言うことはできないほどです。ケンカをしてほとんど全部の歯をなくした屈辱や、クビになったこと、虐待されたことなど、たくさんのことがありました。

トラウマ的な反応を一度も経験しなかった人が世界にいるのかは知りません。脳が発達して空間を観念化する途中で、母親や世話をしてくれる人を無くした人さえいます。それが(頭を指さして)、コンピューター、機械によってトラウマと翻訳されて反応を起こします。誰しも、ある程度はそうした反応を経験していて、それにトラウマというラベルを貼って非難して、その犠牲者となるのです。

そのかわりに、ボブが言うように、トラウマをあるがままに見つめ、もしそのことを考えなかったら、そこにトラウマはあるのか?と言うこともできます。もしそれにトラウマというラベルを貼らなかったら、もしそれに、汚れた重苦しいラベルを貼らなかったら、そこにトラウマはあるのでしょうか? それは単なる条件付けされた反応です。それがそのようになされても、自然はすべてを、無判断の清浄な空間のような意識によって、変えることなく、変更することなく、正すことなく解消します。それが解消のプロセスです。もちろん、それでも生き残るための手立ては必要です。あなた自身にはトラウマになるような経験や、トラウマについて熟考したことがありますか?

参加者:いいえ。今日ここへ車で来る途中、家族の集まりのことについて話していました。それはある意味、家系に引き継がれたトラウマのようなものです。それは行動の中の、何かパターン化されたようなもので、ある種の行動、条件づけされた振る舞いのようなものです。それは、誰か他の人からのものではなく、そのトラウマに直接悩まされるということではなく、遺伝的にあるもののことです。そのことについてずっと考えてきました。

もちろん、今この瞬間、空間の広がりの中には、何一つ固着したものはありません。でも、それでもやはり、収縮となるような行動はあります。そのために、それを理解したいと思ったのです。それで、あなたの考えに興味があったのです。

ボブ:思考、フィーリング、感情はどれも機能です。思考が最初にやってきて、フィーリングが感情をもたらします。そして私たちは、恐れ、怒り、不安と、どんなラベルも貼り付けます。ラベルとして貼り付けた言葉によって、実際よりも悪くしてしまうのです。それは単なる感情、ラベルにすぎないと理解することです。私たちは、それが絶えず変化しているということ見ようとせず、それにかまわずそのままにするかわりに、それに執着して、そこに留まるのです。それを続けて、最後には強化してしまうのです。

2023/06/06

私たちの問題はどれも、不安と傷つきやすさから起こります

私たちの問題はどれも、不安と傷つきやすさから起こります。自身の分離に気づく前、すなわち自分が分離していると気づく前、つまり、自分は分離した存在だと信じ込む前には、不安も傷つきやすさも感じることはありませんでした。
今やそれを感じ、温かくて愛情ある家族をまわりに求めます。もし、温かくて愛情ある家族がいれば、より安心して、傷つきにくく感じるのです。
                                    セイラーボブ

2023/06/02

それが、深い苦悩をもたらすことはありません

2023.5.28ミーティング 49:06から

ボブ:それは空間のような意識と言われていて、意識とは空間のようなものです。その意識の中に中心を見つけることはできますか? 中心、あるいは始まりを見つけることができますか? 境界はありますか? 境界も始まりもありません。ただそこにあるのです。空間の外で、何かを仮定・考えることはできますか? それは、空間の中だということに気づくはずです。

空間は物ではありません。それには姿・形がありません。空間の外では何も仮定することができません。いわゆる、物はすべて空間の内容物なのです。空間は物ではありません。物が物ではないものから生まれるでしょうか? いいえ。ということは、空間のような意識が、うわべ上でそのように見えているだけなのです。

あなたはどこから来ましたか? あなたの両親の本質は、空間の内容物なのです。あなたは空間の内容物ではありませんか? あなたはその外に出ることができますか? 

参加者:ボブ、そのことに関して短い質問があります。空間がなかったら、そこには何もないのですか?

ボブ:ええ、あらゆるものは、物ではないもの/無(no thing)であり、物ではないもの/無がすべてなのです。空間さん、こんにちは!(一同笑う)

カット:今日はたくさんの人が来ていますが(参加者が多く、キッチンや玄関にも座っている)、それでも部屋の中には空間があります。(笑い)
そこに、たくさんの意識(アウエアネス)があります。ボブがいつも尋ねるように、「あなたには意識がないのですか?」。そこに意識があって、それが体・マインドを通して現れています。それがそこにあることは否定できません。

存在、実在がそこにあり、それが唯一重要なものであり、その他のことは過ぎ去っていく物語です。それは変化していく現象。それはエンターテインメントです。ある状況においては、それが展開して、とてもつらいもの、押しつぶされそうなものと感じるかもしれません。あたかも、川が流れて岩にぶつかって、大きな渦を作るようなものです。

それは私たちが出会った、オンラインショップの宅配便の人のようなものです。彼は、可哀そうなことに、四か月前に奥さんを亡くしました。娘はてんかんで病院にいます。四か月の間に、父親、母親などに次々と不幸が続き、彼はそうしたドラマで煮え立っていました。私は当事者ではなく、彼は沸騰状態でした。

ええ、生とはそういうものです。明晰さがあろうと無かろうと、生は川の流れのようなものです。動物を見ると、彼らは自然な状態で生きています。彼らは傷つけられ、争いをかいくぐり、干ばつや洪水にあい、あらゆることが起きます。でも、心理的な苦悩は、それに付け足されたものです。

災難、苦痛、病気、老齢など、うわべ上に現れるものを避けることはできません。それは夢の中のことであり、夢のルールの一部です。その形には始まりと終わりがあります。あらゆるものが形となって、車、衣装、乗物、体となって現れ、それは重力の法則を受け、建てられ、朽ちていきます。

でも、苦悩、精神的な苦悩、心理的な苦悩は、付け加えられたものです。というのも、その配達人が別の配達のために数日後にやってきたのですが、彼は完全に明晰な空間の中にいました。「こんにちは、またお会いできてよかった。今度は玄関を間違えませんでしたよ」と言ったのです。

驚いたことに、今回彼は、マインド・ドラマ・物語の中にはおらず、存在する幸せの中にいました。私たちも、癌、子供の死、病気、何であれ、周りの状況に関わらず、同じように生きることが可能です。周りの状況のことを考えると、それが重くのしかかってきますが、その解釈の外に出てリラックスして、奇跡の展開とともに、ただ在るようにする。もしもっと湿っぽいドラマが起こっても、それに注意を向けなければ、それを体験することはありません。

心理的な苦悩は、そうした考え・物語に注意を向けることから起こります。ええ、もちろん、それを否定することはできません。世界には飢えもホロコーストも、どんな考えもあります。でも、もしそのことを考えなかったら、それを経験することはありますか? その思考を持ち出さなければ、その思考を具現化しなければ、その思考に多くの心を向けなければ、それを経験することはないのです。

それが実在かどうかを議論することはしません。なぜなら、世界は単なる現象にすぎないからです。もしこれが実在ではなく、例えば過去や他の場所が実在であったとしたら、何が問題ですか? でも事実として、直接の現在進行形の体験のレベルにおいては、あなたは自分が存在するということを知っています。そして、物語を具現化して信じることがなければ、それだけのことです。

そして、純粋な実在の中には苦悩は存在しません。もしそれを、罪悪、恥辱、悔恨と呼ばなかったら、自身のことを犠牲者と呼ばなかったら、世界を裏切り者と呼ばなかったら、それに上張りを貼らなかったら、苦悩は存在しません。たとえもしそこに上張りがあったとしても、それはシネマ・映画・ネットフリックス・スクリーンと同じです。それは見せかけです。それを映画と同じように眺めると、それがあなたを傷つけることはありません。それが、深い苦悩をもたらすことはありません。