2022/05/28

天台雲居(てんだいうんきょ)

天台雲居は、牛頭宗(ごずしゅう)のマスターだと言われています。以下の会話は、 天台雲居と華厳寺の僧侶との会話です。

***********

:あなたは人々に、自らの本性を理解するようにと説いてみえます。これはどういう意味ですか?

:本性とは、あらゆるものごとの本質のことであり、根本的な心のことです。それは仏性のことです。あなたは本性を自分の目で見ることはできません。認識をするそのもののことです。それは、姿形のない、分割することができない知性のことです。

それを言葉で説明することはできません。それが存在するともしないとも言うことはできません。それは長くも短くもなく、大きくも小さくもありません。それは、時間のない永遠に存在する意識であり、それを表すどんな言葉も超えています。それが仏性です。この仏性に目覚めるということが、自身の本性に目覚めるということです。

:あなたは、その本性は分割できない空間のような知性であり、存在するともしないとも言われましたが、もしそれが存在するともしないとも言えないのなら、どうやってそれを認識できるのですか?

:それを認識しようとしても、認識できるものは何もありません。

:もし認識できるものが何もないのなら、それを認識している主体は何ですか?

:それは認識するものと、認識しないものの両方です。

:あなたのおっしゃっていることが理解できません。

:それは、認識するものと、認識されるものの両方です。主体と客体の両方です。

:私には理解できません。そこには何か発見すべき究極真理があるはずです。それを知ることはできますか?

:あなたは誤解しています。あなたの、有と無に対する考えは混乱しています。あなたのやり方は二元的なやり方で、そこには何かを知る誰かがいることが前提となっています。それはあなたを誕生と死の世界に閉じ込めてしまう伝統的なやり方です。

目覚めた人というのは、主体と客体は相対的な偽の造物であり、究極的な意味においては意味のないものだということに目覚めた人のことです。そういう人たちは絶えずものごとを認識できるのですが、実際には何も認識していません。

「あなた」によって認識される何か究極の「もの」があると想像するのは間違いです。もしあなたが自身の本性を理解したいと思うのなら、方法はたった一つしかありません。主体と客体という明確な区別の観念を超えて、認識する者と認識される者という二元性を超えて行かなければなりません。それが仏性に目覚めるということです。

:では、その仏性はどこにあるのですか?

:それはどこにでもあり、どこにもありません。

:その仏性は、すべての人が持っているのですか?

:持っていない人などいません。

:このことに目覚めていない人はどうですか?彼らも持っているのですか?

:もちろん持っています。

:もしそれが、どこにでもあって、どこにもなくて、誰でも持っているのなら、このことに目覚めていない人はどうしてこのことを理解することできないのですか?

:なぜなら、そうした人たちは仏性のただ中にいるにもかかわらず、思考でものごとを観念化して、絶えず主体と客体という二元性をでっち上げているからです。そうやって人は誕生と死という終わりのない輪廻の中に自らを閉じ込めているのです。

自らの本質に目覚めている人は、仏性は存在、非存在とは関係がないということをよく知っていて、区別をもたらす意識によって作り出された想像上の偽の造物にとらわれることがありません。その結果、彼らは日々経験する世界を主体と客体に分割することがありません。

:それでも、目覚めた人と目覚めてない人の間には、何か根本的な違いがあるのではないですか? 目覚めた人は、そうではない人が成しえなかった何か特別なことを達成したのではないですか?

:彼らは、達成すべき特別なものは何もないという事実に目覚めたのです。仏性においては、目覚めた人と、そうでない人の間には何の違いもないということを理解しなくてはいけません。目覚めたとか目覚めていないといういうのは単なる言葉であって、ものごとの根底にある実在とは何の関係もありません。

それは単なるラベルにすぎません。言葉はそのものではないということを理解しなさい。もしあなたがラベルを追い求めるなら、観念の海でおぼれてしまうでしょう。私はそれを誕生と死の海と呼びます。

自らの観念の海におぼれないでください。あなたが作り出した観念と思考の構造物すべてを見抜くことが自らの本性を認識することとなります。それが仏性に目覚めるということです。

参考サイト

Records of the Transmission of the Lamp: Volume 2 (Books 4-9)

2022/05/25

わたしが人生について語るなら・アー・ユー・フリー?・老子と暮らす・美のエナジー 加島祥造詩画集・ 加島祥造詩集・ひとりたのしむ 熊谷守一画文集・街路樹 公園樹 庭木図鑑 ・草花 雑草図鑑

わたしが人生について語るなら 加島祥造
この本は加島祥造が十代の人に向けて書いたもの。この中で、「好きなことをやる」ことをすすめる。
以下引用
****p56から
世間ではよく子どもや若い人に「自分の好きなことを見つけてそれにむかって進みなさい」と言う。しかし、私が言いたいのは、それとはちょっと違う。どこが違うかというと、「自分の好きなことに向かって進む」というとき、それは将来のことを言っている。「好き」なことは遠くのほうにあって、そこへ向かって歩いていくために目標になってしまっている。でも本当の「好き」は、「今、このとき」の感情だ。「今」したいと思うことを「今」する。それが「好きなことをする」ことの本来の姿だ。
「今、好きなこと」をやって、それに満足したら、次のところへ行く。何か別の新しいものに出会って、そっちのほうが好きだと思えば、そっちに行けばいい。好きな対象も変わっていくし、好きなものを追いかける自分も変わっていく。それが成長なんだ。
****p99から
 私たち自身だって、呼吸しようとか、心臓を動かさなくちゃ、と思わなくたって、自然に生きていけてるだろう? これは、命そのものが持っている知恵やエネルギーのおかげなのだ。
 老子が言った命というのは、知恵とエネルギーでいっぱいの、大きな働きのことだ。どんぐりから人間まで、すべての命の源になっている神秘的な大きなもの。私たち人間が手を加える以前から働いている宇宙エネルギーだ。
 そして老子は、こういうふうに言う―ー私たちはみんな、とっても大きなもにつながっているのだ、ときにはその力を信じて、流れにまかせていればいいんだよ、と。

アー・ユー・フリー? 加島祥造
著者の22年にわたる27回の公演をもとにして書かれたもの。
「あなたは自由ですか?」と聞かれたら、何と答えるだろうか。そもそも自由とは何なのか。そうした問いに対しての答えを暗示してくれる本。
加島祥造(かじま しょうぞう、1923年1月12日 - 2015年12月25日)はもともとは英米文学教授、翻訳家。60代で教職を辞め、家族と分かれて一人で伊那谷で生活を始める。そこで英語版の「老子道徳経」に出会い、老子が説いたであろう本当の意味を自分なりに探求し、タオ老子(老子道徳経の加島流翻訳)を出版。その後、詩集 求めないがベストセラーとなる。

加島祥造の説く老子の教えは、非二元の教えなのではないかと思う。ただ、それは具体的には何かと読んでも、それほど鮮明ではない。それを知るためには、欲を捨て、一人自然の中に身を置くことによって体得するものなのだという。

*****以下本から抜粋p28

われわれはいつも、名のつくものでしか考えない。

これがタオだと口で言ったからって
それは本当のタオではないんだ。
これがタオだと名づけたからって
それは本当のタオではないんだ。
なぜって、それをタオだと言ったり、名づけたりする君自身が
タオにふくまれているからだ。
人間が名づけるすべてのものや
ものを知ったと思う人間たちのむこうに
名もないタオの領域が
はるかに広がっている。
その名のない領域から
まず天と地が分かれ
その天と地の間から
数しれぬ名前が生まれたというわけなんだ。
だからこの名のない領域
本当のタオを知るためには
欲を捨てなければならない。だって
名があればそこに欲が生じるからだ。
欲があったら、名のついたものしか見えないんだ。
名のない神秘の世界と
かぎりないほど数々の名のあるもの
このふたつは同じ源から出てくる。
ただ名がつくとつかぬの違いがあるだけさ。

****p104から

私たちは物が役立つと思うけれど
じつは物の内側の、
何もない虚のスペースこそ、
本当に役に立っているのだ。

老子と暮らす 加島祥造
エッセイ集。伊那谷で一人静かに暮らすことが、いかにすばらしいかを説いている。社会とある程度距離を置いて暮らすと、何が本当の幸せなのか、社会に合わせて生きることによって、どれほど自分を見失しなっているかについて説く。これを読んでいると、非二元の話を聞いているかのような錯覚におちいる。

p103から引用*****

「汚い」と「美しい」

名もない神秘の領域から、
天と地が分かれた。
この天と地の世界では、
ものに名がつくし、観念にも名がつく。

ところで、美しいものと醜いものがあるんじゃない
美しいと名のつくものは、汚いと名のつくもののおかげで
美しいと呼ばれるんだ。
おたがいに片っぽだけじゃありえない。
善だって、そこに悪があるからはじめて、
善として存在するんでね。
悪のおかげで、善があるってわけだ。

同じように、
いま存在しているものも、
存在しないものが裏にあるから、存在しうるんだ。
ちょうど、難しいことと易しいことが、
片っぽだけじゃあり得ないのと同じさ。
「長い」といったって、短いものと比べるから長いのさ。
「高い」といったって、低いものがあるから高いんだ。
歌だって、声とメロディーがあるから、歌なんだ。
「前」という観念だって、「後」があるからのことなんだ。

だから、本当に賢い人というのは、あまり手軽に判断しない。
こうと決めたって、ことは千変万化して、
絶え間なく動いてゆくからだ。
このタオの本当のリアリティを受け入れるとき、
君は何かを造っても、自分の腕を誇らなくなる。
よく働いて成功しても、その成果を自分のものにしなくなる。
仕事をし終わったら、忘れてしまう。
すると、かえって、
その人のしたことは、ほかの人びとに深く染み込むのだ。
(加島が訳した「老子」第二章から)

p213から****(加島の詩集『晩晴』より)

「年齢」抄

現在のなかに涙はない
涙は過去から浮き上がるのだ
現在のなかに恐怖はない
恐怖は未来からおりてくるのだ
現在の一瞬にあるのは
脈打っている命だ
それは
現在の一瞬が
白雪の山にむかって
つねに拓いてゆく道のなかにある

*****

加島さんのように一人伊那谷に住まなくても、都会にいても一人在ることは可能であるし、またそうでなければいけないと思う。それは、社会一般の既成概念に染まらないで、一人超然と在ることだと思う。

美のエナジー 加島祥造詩画集
どんな絵を描くのか、どんな書(言葉)が添えてあるのかと読んでみました。いわゆる文人画の画集です。絵も添えてある言葉も好きになれませんでした。

加島祥造詩集
もともと詩集というものをあまり読んだことがないので、評価が難しい。感動したとか、感銘を受けたということはなかった。

参考 NHKアーカイブ あの人にい合いたい 加島祥造
   ETV特集 ひとりだ でも淋(さび)しくはない

ひとりたのしむ―熊谷守一画文集
熊谷守一の絵と書、短いエッセイが載っています。絵も書もエッセイもまったくすばらしい。熊谷守一は、自分のやりたいことだけをとことんやって生きた人だと思います。子供三人を貧しさゆえに亡くしますが、それでも絵を描かなかった時期があった。そして死ぬまで、描きたい時に描き、生きたいように生きた。
書は、おそらく練習など一切やっていない人の書だと思うのですが、それがまたすばらしい。人から認められようなどという下心はまったく感じられない。生き方そのものが表れている。

街路樹 公園樹 庭木図鑑
草花 雑草図鑑
私は花や木名前をほとんど知らない。図鑑を買って読んでみることにした。よく売れているらしいし、携帯に便利なのでこれにした。でも、読んでみてわかったけど、写真ではよくわからない。道で見たあの木は何?あの花は?と調べてみてもわからない。今時はネットで検索した方がわかるということが判明。

2022/05/21

牛頭法融(ごず ほうゆう) 無心は心なり

この対話は景徳傳燈録(けいとくでんとうろく)四の中の、牛頭法融と太宗皇帝(唐)の太子の対話と言われているものです。

**************

太子:日常生活において、いつもとは違う環境を経験する時、それが自分の好むものなら気分が良くて、嫌なものなら動揺します。どうして私はいつもあれやこれやに悩まされるのでしょうか?

法融:あなたの気持ちや気分は外部の物とは何の関係もありません。

太子:ではどうして私はいつも動揺して安らぐことがないのでしょうか?

法融:違った環境を経験して、心地良いとか、不快だという感情を抱いた時は、その環境、あなたの思考、気分は完全に空(くう)であるということを理解しなくてはいけません。しかし、あなたは自身をその環境に抵抗する立場に置いてしまうため、好き、嫌いが生まれるのです。

その環境そのものは、「私は良い環境だ」とか、「私は悪い環境だ」とは言いません。それを観念化してしまうのは、あなたです。あなたはその環境を調べて、もしそれが好ましくないものなら、あれこれと理由をつけるのです。

そして、自身が信じているあらゆる種類の考えを当てはめるのです。そうやってものごとを現実のものとして具体化してしまい、あなたが客観性を与えた環境と、主体としてのあなたの間に大きな分離を生み出してしまうのです。

根底にある実在は、主体と客体とに分離してはいません。好まない環境を客観的な対象として、それを好まない「私」を作り出しているのはあなたです。それはすべて、あなたの創造的な思考の産物です。

あなたが理解しなければいけないことは、もし心の中で主体、客体という分離を作らなかったら、マインドは空であり、安らかだということです。私たちはそれを無心と呼びます。非観念の開放的な意識、心はものごとを追いかけません。

無心は空の空間のように、常にありのままです。しかし、あれこれ考えることによって、あなたはそれを主体と客体に変えてしまうのです。そうしたことによって、あなたの気分が生まれます。

環境にまつわるあなたの思考、気分が作られなければ、この無心は広大にして空であり、思考によって悩まされることはありません。こうした思考や気分はあなたの環境に対する反応なのです。私の説明をよく考えて、自分で直接理解するようにつとめてください。

太子:それはごもっともです。では、目を閉じている時はどうですか? 特別な環境を経験しなくても、私の頭の中でたくさんの思考や観念が動きまわっています。なぜですか?

法融:絶えずものごとを考えているあなたの習慣のせいです。あなたが目を閉じただけでは心は停止しません。こうした思考はあなたのあれこれの心配から生まれます。でも、もしあなたが、世界と呼ぶものに対する心配を解放すれば、やがては本性が現れます。それはあたかも、雲が去って、何もない青空が現れるようなものです。

太子:あなたは、私の習慣的な思考は実際にどこかで作られているわけではないので、それが消えることによって心の本質が明らかになると言ってみえるように思えます。でも、私の抱えている問題は、一つの思考が別の思考を生み、永遠に続くように思えることです。そのため、この過程から逃れることができるとは思えないということです。

法融:あなたはものごとを正しく見ていません。あなたの世界として作り出されているものは、あなたのメンタルの構築物です。あなたが住んでいるこの世界は観念的思考と記憶の産物であり、実在ではありません。それには全く実体がないので、あなたはそれに対して何もすることがありません。

あなたは、それがすべて空であると理解するだけいい。そうすることによって、あなたの心は分割することをやめ、あなたの心の中のイメージ化は自然と消えるでしょう。

これは、知識を得るということとは何の関係もないということを理解してください。私が話しているのは、根本的には何も知られていない知る働きの意識のことです。それが無心です。この開かれた意識の状態は、何かの知識のことではありません。

人の本来の性質は、ゆったりとして目覚めていて安らかです。外側に何かを探す必要はありません。もし私の言っていることに従うことができるなら、自分の思考を気にする必要などないということを、あなたは理解するはずです。

思考を追いかけないでください。いずれにせよ、思考は空です。そのままにしておきなさい。月影を見ても、月を見ることはできません。空(そら)に鳥が描いた軌跡をつかんでも、鳥をつかまえることはできません。

心も同じです。あなたが探せば探すほど何も見つかりません。あなたのそうした観念的な思考は、夢の中の出来事と同じように実体のないものです。それを去らせなさい。それは春の暖かい日差しで溶ける氷のように去っていくでしょう。

物の本質は空です。どんなにやってみても、空から逃れることはできません。というのも、それが真実だからです。どれだけそれを探しても、それは見つかりません。それは鏡の中の像のようなものです。あなたは像を見ることはできますが、鏡そのものを見ることはできません。

***

太子:私は日々の雑事で忙殺されています。これは障害ではありませんか? どこかで静かに座って、心を鎮めるように集中した方がよいのではありませんか?

法融:どうして活動が無心の障害になるのですか? 無心は活動中も活動していない時もそこにあります。ものごとを複雑にしてはいけません。心を使うべきではないとは誰も言っていません。

太子:教師の中には、もし道を実践したいのなら、静かにして話をしてはいけないという人もいます。それは正しいのですか?

法融:話たり、話さなかったりすることは無心と関係ありません。あなたが話そうと話さまいと、もともとの本質はずっとそこにある。しかし、そのことのためにだけ話をしたり、その話が真実と調和しないのなら、黙っていた方がはるかに良い。無心は話すこと、話さないこととは何の関係もない。あなたが何をしようとしまいと、そこには偉大な、自ら生じる意識の知性があります。

もしあなたが、自身の思考の完全な透明性を理解するなら、もう思考に悩まされることはありません。あらゆるものは現れては消える。それがものごとの本質です。それはただ流れていく。あらゆるものごとは谷間に響くこだまのようなものです。

***

太子:普通の人たちは、この世界を何か現実味があって触れることができるものとして経験します。しかし、光明を経験した人たちには、この世界が非現実のように見えると聞いたことがあります。それは正しいのですか?

法融:光明と、この世界が実在か非実在かとは何の関係もありません。もしあなたが憶測することをやめて、あなたの困惑した視点を捨て去れば、もうこのことについて尋ねることはありません。

太子:光明を達成するためには心を集中させなくてはいけないという教師もいます。

法融:無心と心を集中することとは何の関係もありません。心を集中することによって何かが向上するという考えは誤りです。最後には集中そのものが障害となり、ただ単に集中を練習することに執着するようになります。それは誤りです。もし誤った二元的な思考に固執するなら、集中した状態から出てきても、内側の不快や不安はそのまま続きます。

集中した状態から出てくると、しばらくは穏やかに感じるかもしれませんが、すぐに聴覚や視覚など、区別する心の作用がふたたび現れて日常生活の中で騒ぎ始めるでしょう。それではまったく役に立たない。そして最後には日常生活から完全に逃げ出したくなるでしょう。

それは、風が吹いたとたんに現れる波のようなもの。風がおさまったあとにあるのは、まったくの静寂。私があなたに説明しているのは、このことを理解できない狭量な人にあてたものではありません。

無心とは、誤った考えを暗闇から追い散らす炎のようなものであるということを理解しなさい。心は自然と思考のとらわれ、執着から自由となり、分割や制限がなくなります。マインドがそらのように広大で空になると、通りすぎる雲に悩まされることはもはやなくなります。

太子:光明を得ることを通してのみ物事の本質を知ることができるという人もいます。このことは、物事は人々の心にのみ現れていて、その知覚の対象となるものは実際には存在しないと暗示しているように思えます。

法融:知覚の対象となるものが存在するということが何を意味しているのか、あなたが深く考えているとは思えません。心の中に存在するものなのか、それとも知覚の対象として存在するものなのか、物を客観化しているのはあなただということを理解しなくてはいけません。

***

太子:もし光明を得たいのなら、自己修練を積まなければならないと教師たちは言います。そのため私は、より良い結果を期待して、大きく前進するため精神修養を積んでいます。しかし、あまりよい感じがしません。

法融:人々は決して達成できないものを達成しようと考え、決して見つからないものを探しています。問題は、あなたが物事を観念化して、何か達成すべきことがあると考えていることです。もしあなたが自己の心を訓練して目に見えた大きな進歩や個人的に何かを達成しようとするなら、あなたは完全に的外れなことをしています。あなたはまったく逆のことをしています。

***

太子:人生の浮き沈みの中で、どんなに努力しても、向上するのはほとんど不可能であるとわかりました。どうしたらよいでしょうか?

法融:もしあなたが道を達成したいのなら、物事の本質を理解しなくてはいけません。それは実際には簡単でもなければ、難しくもありません。

太子:説明していただけますか?

法融:あなたは心の性質を理解する必要があります。思考の構造を調べて、それがどう働くのかを理解する必要があります。注意して見ると、あなたは自身の心の中で創造された思考と観念で形作られているとわかるはずです。

そうしたものは、それ自体が不変の存在ではないということです。それらはすべて実体がなく、つかの間のもので、本質的にはでっち上げられたものです。あなたがものごとを体験するやり方は、自身が作り出した観念上の構造物に完全に影響されたものです。

ある日、思考がある方向へ動き、あるやり方で考えます。その次の日には反対方向へ動き、何か他のことを考えます。すべての構造物が空であることを理解することによって、あなたはそれから解放され、それは消えていきます。

これは、名前と形の観念、二元的主張の制限からの自由と呼ばれています。それは、存在と非存在、実在と不在、形と空、絶対と相対、輪廻と涅槃といった二元的な思考の超越です。でも実際に起こっていることのすべては、最初にこうした観念を作り出した心が創造された観念を信じることをやめ、追い求めることをやめるということです。

こうしたこと全体から自由になることが無心です。無心とは、心理的、精力的に動くことをやめた心のことであり、それゆえ自然と注意深くなります。それは命の自然な知性が障害なく働くことができる心のことです。

太子:あなたが説明されたことは聞いたことがありますが、どんな訓練をすればいいのかまだ知りません。

法融:あなたが探しているものは、何かを故意に否定したり、何かと意図的に訓練することによって得られるものではないということを理解しなくてはいけません。真の理解は、計算された意図のない完全な率直さと受容性から起こります。変容のために、あれこれを勧める人はまったく的外れです。それはまるで、鏡に映った像に対してあれこれするようなものです。

断定、否定、どんな態度もとらないでください。実在と空は異なる二つのものではありません。どこにいようと、出来事のただ中にいて、ただ自然で開放的で注意深くありなさい。道は、何かを手に入れようというあなたの思いや、意図的な行動を超えています。それは言葉では言い表せない不動のものであり、何にも依存していません。どうしてあれやこれやのもくろみでそれを理解できるでしょうか。

***

太子:多くの教師たちが、長期にわたる静的な瞑想を勧めています。それは必要ですか?

法融:不幸なことに、静寂主義的消滅が道であると考えている者が多い。そうしたやり方は道とは反対のものです。真理は、その人自身の計算で作り出すことはできない。

太子:経典や注釈書を学ぶことは必要ですか?

法融:知識を蓄えることや、分析的な洞察を追求することはほとんど役に立ちません。そうした行いは脳を疲れさせるだけです。

***

太子:正しい方向を示していただけるよう最終的な言葉をお願いします。

法融:物事の本質が一番重要です。しかし、物事に対して混乱しているなら、それはその本性とは異なるものとして現れます。実在の本質は不可分性にあるということを理解しなさい。不可分性が本性です。

あなたがそれをどう考えようと考えまいと、本性はそのままです。経験は主体と客体に分割されているように見える。しかし、それは単なる幻影に過ぎません。実在は常に一元であり、それは常に一元のままです。それが本性の特徴です。

それは、あなたが想像できるよりも、もっと身近にあります。あなたが、徹底的に空の原理を突き進んでいくなら、私の言っていることを理解するでしょう。

********

生徒:目覚めた人と目覚めていない人の違いは何ですか?

法融:目覚めていない人は何かを達成しようと奮闘し、目覚めた人は達成すべきことなど何もないと理解したということです。

生徒:達成と未達成の違いは何ですか?

法融:達成という考えは誤りです。実際自分で何かを手に入れることはできません。

********

参考サイト

Wikipedia 景徳傳燈録

Original Teachings OF CH'ANBUDDHISM

牛頭法融 Niutou Farong 

2022/05/18

私は存在しない

今日の佐々木閑先生のYouTubeは、まったく非二元の教えでした。
10分ぐらいから「私は存在しない」という部分に入りますが、それまで我慢して聞いてみてください。
仏教では、自我の主体の存在を認めていません。

わが夫 坂本龍馬・新説 坂本龍馬・岩崎弥太郎と三菱四代・燃えよ剣・なにか、わたしにできることは?・うつの世界にさよならする100冊の本

わが夫 坂本龍馬 一坂太郎
坂本龍馬の妻おりょうが、龍馬の死後30年以上後に語った二種類の談話録を現代語訳にして解説をつけたもの。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、実際の龍馬はどんな人だったのかと興味が湧いて読んでみた。結果として、龍馬がどんな人だったのかはよくわからなかった。一方で、おりょうがどんな人だったかはよくわかった。問題は、おりょうが龍馬の妻となって過ごした期間は、おそらく三年ほどの期間でしかないうえ、その大半で龍馬はあちこち出歩いていて、一般的な夫婦生活を営んでいないこと。しかも、それを30年以上たってから妻側から語ったものであるということ。

そもそも二人の出会いや、馴れ初めなどは話していない。龍馬の死後、おりょうがどんな人生をたどったのか、龍馬のまわりの人がどう接したのかはよくわかったが、そこはあんまり興味がなかった。この本の表紙になっている、おりょうの若い頃の写真というのも大いに疑問。ものすごい美人だったということになっているが、個人的には・・・

新説 坂本龍馬 町田明広
歴史学者である著者が、龍馬の実像とはかけ離れた伝説の真偽を、様々な資料をもとに検証した本。
*****
あなたの知っている坂本龍馬、フィクションではありませんか?
龍馬の名は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』など伝記小説から広まったため、実像と離れた「伝説」が生まれ、今なおそれが通説となっている。
歴史学者が丹念に史料を読み解くことでわかった龍馬の実像とは⁉
龍馬は薩摩藩士? 薩長同盟に龍馬は無関係? 亀山社中はあったのか? 大政奉還は龍馬のアイディア? など、新知見が満載。
「英雄フィルター」を外してみれば、龍馬の真価が見えてくる。』
*****
以上アマゾンの本の説明から転載。

司馬遼太郎の描く竜馬は、あまりにもかっこいい。どこまでが真実なのだろうかと思いながら「竜馬がいく」を読んでいた。ネットなどで調べると、司馬遼太郎の持つ歴史観(司馬史観)に異を唱える人が結構いる。幕末、明治の小説に登場する人物を、過度に美化して描いているという意見がある。

この本では、龍馬がやった伝説のいくつかは事実ではないのではないかと指摘している。例えば、長州藩に薩摩藩名義でグラバーから武器や軍艦を買ってやったのは、龍馬ではなく、近藤長次郎だという。また、亀山社中は存在しなかったこと、薩長同盟も龍馬はそれほど深く関わっていなかったことなど。

「竜馬がいく」では、海援隊は龍馬がオーナーのように書かれているが、実際には雇われ隊長で、土佐藩の許可のもとでやっていて、ずいぶんと印象が違う。

歴史小説を読む時に注意しなくてはいけないのは、あくまで小説だということ。小説である以上、作家の歴史観が入るし、時には史実ではないことを創作して読者を楽しませようとするということ。それを差し引いたとしても、やっぱり坂本龍馬はすごい人だったことにはかわりはないし、「竜馬がいく」はすばらしい小説だと思う。

岩崎弥太郎と三菱四代 河合敦
これはおもしろかった。岩崎弥太郎と、その後の三菱が発展していく様子がよくわかった。岩崎弥太郎と土佐藩の関係、海援隊との関係がよくわかる。「竜馬がいく」での岩崎は、それほどの人物でもなく、それほど活躍していないかのように描かれているが、実際はそうではなく、重要な働きをした人物だということがわかる。

土佐の貧乏郷士に生まれ、苦労しながらも成り上がって、一台で巨大海運会社を築き上げた。その後を継いだ三代の子孫がまたすばらしい。彼らは決して私利私欲で会社を大きくしたのではなく、国家、人々の発展のために尽くした人たちだとわかる。
UFJ、郵船、東京海上、キリンビール、ニコン、エネオス。数え上げたらきりがないほどの関連会社の基を築いた人たち。まったくおもしろかった。

燃えよ剣 司馬遼太郎
新選組副長土方歳三の物語。まったくすばらしい。土方歳三はとてもイケメンだったのですね。唯一残されている写真(函館時代の洋服姿のもの)を見ると、そのイケメンぶりが偲ばれる。物語としてもおもしろかったし、歴史の勉強として読んでも興味深い。
函館で最後まで残った幕府軍の幹部は最後には降伏するが、土方だけは最後まで戦って死を選ぶ。降伏した人たちは、その後新政府の要職につくが、土方だけは自らの美学を最後までつらぬいて死んでいった。なんと壮絶な生き方。新選組に対して抱いていた悪役のイメージが消えた。人の生き方はそれぞれであり、それを善悪で判断するのではなく、何を考え、どう生きるべきかを考えさせらる。

驚いたことに、司馬遼太郎はこの小説を連載するかたわら、「竜馬がいく」も連載していたという。同じ時代の人物を違った角度から描いている。一方は日の当たるヒーローであり、もう一方は戦うことの美学ばかり考えていた男。人の一生というのは、本人の意思とは関係なく、起こっていることなのだと改めて思う。写真だけで比べるなら、圧倒的に土方の方がかっこいい。何も比べる必要はないけれども。

なにか、わたしにできることは? 寺田真理子/翻訳
翻訳家の寺田真理子さんに興味があり、どんな本を翻訳してみえるのかと読んでみた。大人も読める絵本。
*****以下アマゾンより
毎日、朝食をとりながら、おじさんは新聞を読む。
そこには、全身がふるえあがるような記事もあり、おじさんは不安でたまらなくなる。
あるとき、口をひらくとこんな言葉がとびだした。
「なにか、わたしにできることは?」
おじさんのなかで、なにかが変わりはじめる… 

うつの世界にさよならする100冊の本 寺田真理子
寺田真理子さんは様々な事情でうつ状態になり、精神安定剤を飲みながら働いていたが、とうとう退職。療養する日々の中で、本を読むことによってうつを克服。その体験から、うつから抜け出すための100冊の本を紹介。

どんな本が載っているかというと、写真集、画集、谷川俊太郎の詩集、掃除、オーラソーマ、タロット、エッセイ、うつ脱出法、実用書など。自己啓発書、ノウハウ、エッセイに関する本が多く、小説は少ない。スピリチュアル系も少しはある。100冊のうち、私が読んだことがある本は4冊しかなかった。

興味の湧いた本も何冊かあり、読んでみようと思う反面、この人の本は絶対読まないと思う本も何冊かある。紹介されている本を読めばうつが克服されるかというと、読む人によると思う。ちょっと難しいなと思うのは、非二元の教えを理解すると、自己啓発本の大半が役に立たなくなってしまうということ。それでも気分的に落ち込むこともある。それで何か読みたくなる。何を読むか? ここに紹介された本の中には非二元の教えに沿うような内容の本もあると思うが、それは読んでみないとわからない。

ここに紹介された本を読むことが重要ではなくて、本を読むことによって、うつや心の不調を脱することができるという点が重要。私もたくさんの本に助けられたし、これからも本を読んでいく。何を読むかは、自分であれこれ読んで見つけるしかないと思う。
本をあれこれ手に取って、なんとかしようと思い始めたら、もう一歩脱出に近づいたということなのだと思う。

この本の最初の30ページは寺田さんの体験談やカウンセラーの方たちのコラムになっていて、それがすごく参考になった。また、途中ところどころで寺田さんのエッセイがあり、それがうつから抜け出すヒントになると思う。

2022/05/17

ゾクチェン

ゾクチェンって一体何だろうと思ってあれこれネットを見ていて、とてもわかりやすいYouTubeを見つけました。

(その後、この動画はリンク、シェア禁止になったので、削除しました)

この方はゾクチェンをカトマンズで学び、日本で教えてみえるようです。
箱崎先生の小さな瞑想教室

箱崎先生のYouTube

2022/05/14

牛頭法融(ごず ほうゆう) 心銘(しんめい)

心銘

心は不生である。
それをどこかで見つけることはできない。

あらゆる物は空(くう)である。
それなのに、どうして純、不純と言うのか。

あちらこちらと探せば探すほど、
それは遠のいていく。

心が停止すると、
あらゆるものごとはあるがままで完全である。

それを理解したなら、
もはや教義は不要となる。

はっきりと識別することができ、
正しくものごとの本質を見ることができるだろう。

もし心の一体性が失われれば、
どんな教えも役には立たない。

果てしなくあれこれと思いをめぐらせ、
どうして自らを疲れさせるのか。

命は不生なのだから、
未分割のままで姿を現す。

もし心の平安を望むなら、
無心こそが道である。

心ででっちあげたものがないとき、
それが最良のものである。

あなたは不知によって実在を知り、
その不知が知るべきことを知っている。

心に働きかけても、
決して自身を解放することはできない。

執着を手放し、忘れることができれば、
あらゆるものごとが自然と完全になる。

最上の真理は言葉では言い表せず、
何かを為すことや為さないことでは達成できない。

命に対する理解、感応は、
いつもその時その場で起こる。

あらゆるものが空となり、
あなたは空に慣れ親しむようになる。

光明を追い求めなければ、
それは自然と現れる。

思考は自然と現れては消えるが、
それはどこからもやってこず、どこへも行きはしない。

思考を実在と思わなければ、
それは自然と消える。

三界には何ひとつ実在のものはない。
仏陀も心も見つからない。

あらゆるものごとは無心の中で自然と現れる。
無心なくしては何も現れない。

ものごとを神聖と世俗に分けても、
自身の心を混乱させるだけだ。

想像上の完全さを追い求めることは、
目の前のごちそうを無視するようなものだ。

二元的な観念を放棄すると、
ものごとはただ単にあるがままである。

そうならば、役に立たない修行や儀式に従う必要はない。

開放的な意識の中で心はくつろぎ、束縛を離れる。

分割されていない三昧の中では、何も見えない。
そこには障害となるものは何もない。

開放的な意識の中では、すべてはあるがままである。
三昧の中では心は分割されていない。

あらゆるものが、ありのままであり、
それはすべて同じ真如(しんにょ)として現れている。

あらゆるものが現れては消える。
あなたが掴めるものは何もない。

あるのはそれだけ。
それは来ることもなく、去ることもない。

あなたが達成しなければならないことなど何もない。
頓教も漸教もない。

それはただあるがまま。
言葉で言い表すことはできない。

無心の中でくつろぎさえすれば、
何もすべきことはない。

あらゆるものごとの本質は空であり、
障害は自然と消えていく。

純、不純というものはない。
表面的、深淵というものもない。

過去を見つけることができず、
現在は手の届かないところにある。

あらゆるものごとが真如の中を漂っている。
そしてそれが本性である。

もしそれを捕まえようとしなければ、
それは自然とそこにある。

実在はもともと、あるがままにある。
作り出さなければいけない何かではない。

般若は自ら輝く知性である。
あなたが何を創造しようと、すべてはそれである。

帰るところはどこにもなく、行くべきところもどこにもない。
執着を捨てて、野望を忘れよ。

大きな喜びと慈愛が自然に広がり、
自然の落ち着きが力強くそこにある。

六感が自然に働けば、
開放的な意識が概念化によって曇ることはない。

そうすれば、心が妨害されず、
あるゆるものごとが自然と調和するだろう。

心と感情は同じ源を共有し、
調和して混乱はない。

開放的な意識は現象を排除しない。
それらはともに神秘的に混ざり合っている。

目覚めた人と目覚めていない人は違うように見えるが、
それでも彼らは根本的に同じである。

達成と未達成、
どうして良し悪しをつくりだすのか。

あらゆるものごとは存在しているように見えるが、
それは存在でも非存在でもない。

観念化する心は真の心ではない。
真の心は改善を必要としない。

分割があれば手放しなさい。
実在においては不分割のみが存在する。

あなたが掴むことができるものなどないということを理解しなさい。
そうであるなら、何を取り除く必要があろうか。

物が実在であるかのように話すのは意味がない。
言葉はあらゆる種類の幻影を作り出す。

感情なしでいようとしてはいけない。
ただ、観念化することをやめなさい。

無心の中では、あなたの偏った考えは消滅する。
不動の中では心の状況は消えてなくなる。

それを見つけようとしても無駄である。
なぜなら、見つけようとしているものが見ているものだからだ。

二元的な考え方を捨てなさい。
それすればそれはそこにある。

体験する時には、あなたの五感を開きなさい。
すべてが流れ込むように。

もし何物にもしがみつかなかったら、
すべてが無心の中で漂う。

物事にしがみつかなければ、
物事はいかなる問題も引き起こさない。

心は広大であり、安らかである。
しがみつくものも、手放すべきものもない。

あらゆるものごとは現れては消える。
その時、心はどこにあるのか。

最終的には心も対象物もない。
ただ、広々とした無心があるだけである。

自身の本性を認識しようとするのは、
水の中で水を見るようなものである。

聖人を他の人が理解することはできない。
なぜなら彼は分割できないものを分割しようとはしなからだ。

彼は、他の人が考えていることには興味がない。
彼の心は流れる水のように漂う。

もしあなたがものごとへ執着を手放せば、
心配事から解放さるる。

もしあなたがものごとを分割しないのなら、
時間というものを見つけることはない。

あなたは愚か者のように見えるかもしれないが、
実在の中に根をおろしている。

周りの環境が変化すれば、
あなたは柳の枝のように曲がるだろう。

どんな固定した視点も持たなければ、
そこには主体も客体もない。

あらゆる方向へ漂っていくと、
不分割なものだけが広がっている。

ものごとを考え抜こうとすれば、混乱を生むだけである。
そして混乱は分裂をもたらす。

もし動揺を心で鎮めようとすれば、
心はさらに燃え上がるだけである。

あらゆるものごとは不変の実体を持たない。
それらは皆、同じ門よりやってくる。

それは到着の門でも、出発の門でもなく、
不動の門でも、活動の門でもない。

理解力の乏しい人たちは、
このことが理解できない。

実在の中で、あなたは決して何一つ見つけることができない。
すべてのものごとは空である。

このことだけが真実である。
あなたはそれ以外、何も見つけられない。

真の知識は常に不知である。
そして、真の空は決して空ではない。

過去、現在、未来の賢人たちは
みな同じことを言うだろう。

この真実は不変的なものである。
その他には何もない。

もしあなたが、何にも執着しなければ、
安らげるような環境を作り出す必要はない。

心はもともと安らかである。
それは広大で、それ自体が光である。

それは束縛されていないもの。
自然と現れる何かである。

何もなすべきことはなく、あなたは好きなようにしてよい。
活動していようと休んでいようと、それは一つの真如である。

般若は活力にあふれた生命知性である。
三昧の本質は不動である。

それらは同じものの二つの側面である。
それは、一つの言い表せないものを現している。

何をすると決めたとしても、
評判や利益をあてにしてはならない。

教えるために、いかなる教義も作ってはならない。
空の家の中でしばらく安らかに休みなさい。

あなたは道の中に満足を見つけるだろう。
そこには広大さと自由があふれている。

何もすべきことはなく、何も手に入れるべきものもない。
もともとすべては分割できない完全なものである。

至福、喜び、愛としての広大な生命の活力が
この全体性から流れ出ている。

混乱のない心によって、
あらゆるものごとが調和している。

すべては未生のものとして存在しているということを理解したなら、
それは永遠にあなたとともにある。

賢者は誰しもこのことを理解しているが、
あなたがそれを説明する方法はない。

**************

牛頭法融(ごず ほうゆう:594年~657年)は、牛頭宗(ごずしゅう)の開祖。牛頭宗は唐代の禅宗の一派。

心銘では、もともとあらゆるものが完全であり、何も探す必要はないし、手に入れるべきものはないと言っているように思えます。

参考サイト

牛頭法融とはーコトバンク

Wikipedia 牛頭宗

Mind Inscription

牛頭法融 Niutou Farong (594-657)心銘 Xin ming

仏とは何か

2022/05/11

竜馬がいく・池田澄子百句・早わかり日本史 ・求めない・タオ老子・私のタオ・我慢の思想

竜馬がいく 司馬遼太郎
これを読むのはけっこう時間がかかりました。でも、読んでいる間、なるべくゆっくりとていねいに読みました。なぜかというと、読んでいて勇気が出るというか、元気がでる感じがして楽しかったからです。坂本竜馬は本当にすごい人だと思いました。臆するということがない。物事を大きく考えて、姑息な手を使わずに真正面から正々堂々とぶつかっていく。それでいて誰も考えないことを次々とやっていく。

幕末から明治維新という時代がそうだったのかもしれません。勝海舟、西郷隆盛、中岡慎太郎、徳川慶喜、松本良順、岩崎弥太郎、こういった人たちそれぞれが物語の主人公になりえる人たち。去年は渋沢栄一、今年になって関寛斎、胡蝶の夢と、幕末から明治にかけての本を読んでいるが、それぞれの登場人物がクロスしていて、同じ時代なのにそれぞれが違う視点で描かれていておもしろい。もっともっとこの時代のものを読んでいくつもり。
司馬遼太郎は感動の押し売りのようなところがなくていい。淡々と資料を調べて繋げて物語にしている。

池田澄子百句
真似できそうでできない池田澄子の句集。まったくすばらしい。
「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」
「ピーマン切って中を明るくしてあげた」
「想像のつく夜桜を見に来たわ」
「椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ」
「目覚めるといつも私が居て遺憾」
「蓋をして浅蜊あやめているところ」

早わかり日本史 河合敦
日本史の知識が不足していると痛感したので、高校生向けの参考書を読んでみた。これはなかなかいい。一回読んだだけでは頭に入らないので、またいつか読む。
もうちょっと網羅的でやさしい教材はないかとYouTubeで探したところ、まんが日本史というアニメを公開している人が二人いたので、全部通して見た。少しは日本史がわかるようになった。
それで思ったことは、NHKの大河ドラマを見ても、あまり歴史の勉強にはならないということ。参考書や本の方が勉強になる。

求めない 加島祥造
老子研究、タオイスト、加島祥造の詩集。タイトルにある「求めない」という言葉にあふれた詩集。まったくすばらしい。人間は求める生き物。だから求めないでいよう。日頃、「欲望を追わない」ことを実践しようと生きている私には響くものが多かった。冒頭部分を少し。

求めない
すると
簡素な暮らしになる

求めない
すると
いまじゅうぶんに持っていると気づく

求めない
すると
いま持っているものが
いきいきとしてくる

少ししか求めない
すると
その手に入った少しのものを
大切にする
ほんとうに味わう
そして、ほんとうに楽しむよ

タオ老子 加島祥造
「老子道徳経」の加島祥造流の翻訳本
私のタオ 加島祥造
「老子道徳経」と老子にまつわる加島祥造の遍歴の記録とエッセイ。

老子の言う「タオ(道)」とはいかなるものか、それがセイラー・ボブの言う「知性エネルギー」と同じものなのか、老子の教えは非二元の教えなのか、似たところはあるのか、そういったことが知りたくて読んだ。

加島さんによると、タオとは、万象万物の中に動くエナジーだと言う。
「宇宙に満ちているエナジーは、天地ををつくり、そこに生きるあらゆる生物のなかに働いている。彼(老子)はそのエナジーを仮に「道(タオ)」と読んだのであり、このタオが地球の生物すべてを生かしているーーこれが彼(老子)の思想なのだから、」・・・以上p37から引用。

これはセイラー・ボブの教えに似ていると思って読んだが、結論から言ってしまうと、「タオ(道)」と「知性エネルギー」が同じかどうかはわからない。でも似ている。そして、老子の教えが非二元の教えか、似ているところがあるかというと、同じではないし、似てもいないと思う。

大きな問題は、老子が残したと言われる書物は、「老子道徳経」のみがあるだけだということ。それは81章、5千数百字からなるもので、非常に短い。それが三千年近く前の古代中国語で書かれている。何が問題なのかというと、誰も正確に読み解ける人がいないということ。

これは加島さんの訳が悪いという意味ではありません。中国語に堪能な学者でも、西洋の研究者も、古代の中国語を正確には解釈できなのが現状らしいということです。これは中国の仏典を読む時にも同じハードルがあるのですが、仏典よりも千年以上前のものなので、もっとハードルは高くなっています。

そのため、いろんな人がいろんな解釈本を出している。「タオ老子 加島祥造」もその一つであり、氏はかなり自由な現代口語訳で訳している。

紹介のため第一章を載せる。

これが道(タオ)だと口で言ったからって
それは本当の道(タオ)じゃないんだ。
ころがタオだと名付けたって
それは本物の道(タオ)じゃないんだ。
なぜってそれを道(タオ)だと言ったり
名づけたりするずっと以前から
名の無い道(タオ)の領域が
はるかに広がっていたんだ。
まずはじめは
名の無い領域であった。
名の無い領域から
天と地が生まれ、
天と地のあいだから
数知れぬ名前が生まれた。
だから天と地は
名の有るすべてのものの「母」と言える。

こんな調子で始まるので、おお、これは非二元の教えかもしれないと思って読み進んでいくと、いつのまにか道徳的な教えにいきつく。

第44章から

君はどっちが大切かね
地位や評判かね?
収入や財産を守るためには
自分の身体をこわしてもかまわないのかね?
何を取るのが得で
何を失うのが損か、本当に
よく考えたことがあるかね?

名声やお金にこだわりすぎたら
もっとずっと大切はものを失う。
物を無理して蓄めこんだりしたら、
とても大きなものを亡くすんだよ。

なにを失い、なにを亡くすかだって?
静けさと平和さ。
この二つを得るには、
いま自分の持つものに満足することさ。
人になにかを求めないで、これで
まあ充分だと思う人は
ゆったり世の中を眺めて、
自分の人生を
長く保ってゆけるのさ。

そして、全部読んでも、非二元的な要素はあまり出てこなかった。読みようによってはそう読める箇所も随所にあるが、鮮明とは言えない。

ちなみに、この本では、老子が悟った人だとか、エンライトメントした人だとかいう話は微塵も出てきません。私はそういった方向から老子に興味を持っていたのですが、そういう話はありませんでした。

多くの人が、老子は悟った人だとか、覚醒した人だというようなことを言いますが、これはもう伝説の世界の話であって、その解釈となると、人によって様々な世界です。老子の思想としてではなく、加島祥造の思想として興味が湧いたので、もっと読んでいこうと思います。

我慢の思想 中野孝次
中野孝次のエッセイ集。内容は、「人が人となるためには最低限これだけの心構えは持ってほしい、とかねがね感じた心構えの五十章だと言っていい」と、「おわりに」にある。中野孝次の清廉な思いが詰まっている。身のつまされる思い。こんな心構えで生きていきたいもの。まったくすばらしい。

2022/05/07

慧能(えのう)②

六祖壇経(ろくそだんきょう)

(要約)

その一

一行三昧(いちぎょうざんまい)とは、どんなことに従事していようとも、無思考でいるということである。維摩経(ゆいまきょう)ではこう言っている。「マインドに雑念がなく、くつろいでいる時、他に何も為すべきことはない。それが涅槃である」。それゆえ、観念にとらわれず、無思考にとどまる状態は一行三昧と呼ばれる。

ものごとの表面しか見ない浅はかな人は、一行三昧とは、動かないで無理やり座って思考を抑えつけることだと思っている。彼らは、それが三昧(サマーディ)であると思っている。

無心とは、不動や無意識とは何の関係もない。そうしたことは生命エネルギーの自由な流れを妨げることとなる。命は自由に流れることを許されるべきである。生命エネルギーの流れを妨げると、締め付けを生むこととなる。

もしマインドがくつろいでいて、それでいて自然に注意深くあり、ものごとに執着していなければ、生命エネルギーはバランスがとれていて締め付けは起きない。もしマインドが張りつめていれば、不自然な状態となる。

もし、「座って動かないのが正しいことだ」というなら、あの舎利弗(しゃりほつ)が林の中で座禅していた時、維摩(ゆいま)に叱られたはずはない。

多くの教師たちは人々にあれやこれやの宗教的訓練を教える。そして人々はこうした種類の訓練を実践する。人々はこうしたことが何の役にも立たないということを理解しない。人々はこうした訓練に取りつかれるが、最終的にはまったく役に立たない。このような人が大勢いる。こうしたことを教えている人たちは大きな間違いをしている。

その二

釈尊の教えには、もともと頓教(とんぎょう:修行しないで、ただちに悟ることができるとする教え)と漸教(ぜんぎょう:長い修行のすえに悟ることができるとする教え)の区別はない。もし何か違いがあるとすれば、それは人々の天分の違いである。会得する人が早い人もいれば、遅い人もいる。

会得するのが早い人は即座に理解し、遅い人は徐々に理解する。もしひとたび自己の本性を理解したなら、早いも遅いも何の違いもない。頓教と漸教は便宜上の名にすぎない。

その三

私がこれから説く教えは、先人から代々受け継がれているものである。それは無心(ノーマインド)と呼ばれ、三つの原理から成り立っている。その根本的な原理は無念(無思考)である。無念とは、何かを考えていても、その思考にとらわれないで自由でいること。

そして次が無相である。無相とは形のないこと。すなわち、現象として現れているものごとにとらわれないでいるということである。そして三番目が無住である。無住とは、心の中の一切の束縛から自由であり、ものごとの本質と調和しているということである。

自身のマインドを見つめると、思考が際限なく次々とやってくる。しかし、そのすべては過ぎ去っていく。特定の思考が無期限に続くことはない。過去、現在、未来の思考が川の流れのように次から次へと続くが、もし思考に対して反応しなければ、あなたはその思考に束縛されることはなく、無条件の意識としてくつろぐことだろう。

反対に、特定の思考にしがみつけば、さらなる思考を生じさせ、それに縛られてしまうだろう。あらゆる状況において、やってくる思考に対して、しがみつくことも拒絶することもしなければ、あなたのマインドは常にオープンで、自然と注意深くあり、くつろいでいる。それゆえ、無思考がきわめて重要な原理といわれている。

無相とは、現象に対して執着、あるいは嫌悪がないということである。喜ばしいことが起こった時も、不快なことが起こって混乱した時も、その現象に惑わされなければ、あなたの本質は変わらずにバランスが取れている。それゆえ、無相が実体であると言われている。

無住とは、まわりの環境に惑わされないことである。すべてが空(くう)であると理解したなら、もう物にとらわれることはなくなる。どんな物が現れても、協調してやっていくことができるだろう。もし、多くのことを考えることをやめると、ものごとに悩まされることはなくなり、束縛のない意識の中でくつろぐことができる。

その四

あなたたちはこの教えの意味を正確に理解しなくてはいけない。それを理解できなければ、さらなる誤った解釈におちいることとなる。誤った解釈は、あらゆる種類の観念を生み、そこからまた誤った考えが生じ、貪欲と不快を生み出すこととなる。あなたは思考の性質を理解しなくてはいけない。

無とは、何がないことなのか。念とは何を念ずることなのか。無とは、主観と客観の対立がないことであり、人のマインドを迷わす煩悩がないことである。念とは、ありのままの本性を思うことである。ありのままであることが念(思考)の本性である。

思考を起こしているのは本性である。しかし、たとえもしあなたが、見たり聞いたり知覚したりしたとしても、本性と調和していて、現れるすべての現象にとらわれなければ、あなたは束縛されず、安らかでいられる。維摩経ではこう言っている。「現象として現れるものごとを区別していたとしても、内側の空がゆらぐことはない」

その五

この教えの本質とは、あなたがものごとを体験する時、現れてくるものごとに対して、執着も拒絶もしないということである。マインドがオープンでクリアーなら、六感は自然と機能する。あなたが、感覚の世界のただ中にいても、それにしがみつくことも拒絶することもなければ、あなたはそれとともに自由に流れていく。それが、般若波羅蜜多である。自己の束縛から自由でいることを無心(ノーマインド)と言う。

しかしながら、力づくで思考が起こってくるのを止めようとしたり、多くのものごとをさえぎろうとしたりすれば、自身を締め付けることになる。もしあなたが、完全にこの教えを実行するなら、最終的には束縛のない計り知れない平安を見つけるだろう。

その六

座禅とは、もともとマインドに執着することでもないし、清浄に執着するのでもなければ、不動でもない。マインドはもともと捉えどころのないものである。マインドは幻のようなものであるから、それに執着してはならない。清浄ということに執着すれなら、人の本性はもともと清浄であるから、妄想によってありのままをおかしくしていることになる。

座禅とは、常にオープンでくつろぎ、観念的な思考に束縛されないということである。外的には現象にとらわれず、内的にはマインドに動揺がないことが座禅である。無数の現象の中にいるときでさえ、内側が乱されていなければ、瞑想が自然と起こる。

外側の環境にとらわれてしまうことは混乱の原因である。外側の世界の現象にとらわれないでいることが禅である。内側の世界で乱されないでいることが瞑想である。それが座禅である。維摩経では、「あなたは一度も本性から離れたことはない」と言っている。梵網経(ぼんもうきょう)では、「あなたの本性は初めから同じままである」と言っている。

その七

本性はただあるがままである。いかなる欠点、混乱、無知もない。あらゆる思考はもともと内在する生命知性の輝きの放射である。無条件に意識の中でくつろぎ、ものごとの見せかけに固執しなければ、他に何をなすべきことがあろうか。自らにもともと備わっている本性に目覚め、目前の存在意識にとどまるなら、そこには段階的なものは何もない。そこには作り出されるべきものは何もない。

その八

目覚めたマインドと目覚めていないマインドの実体には何の違いもない。ただ一つの、もともとの本性があるだけである。愚かな人にそれが足りないわけでも、賢い人にそれが余分にあるわけでもない。目覚めた人にも目覚めていない人にも、それは同じようにある。それは見てわかるわけではないが、隠れているわけでもない。それは永遠のものでも、一時的なものでもない。それは、やってくることも、どこかへ行くこともない。それはには内側も外側も間もない。それは本性と呼ばれる。それは、不動、道と呼ばれる。

参考文献

六祖壇経 (タチバナ教養文庫)
世界の名著 禅語録

参考サイト

禅と悟り
禅の視点 - life -
イーハトーブ心身統合研究所
Wikipedia 慧能
Wikipedia 六祖壇経
Wikipedia Platform Sutra

以下はPDF(六祖壇経の英訳版)
THE PLATFORM SUTRAOF THE SIXTH PATRIARCH by PHILIP B. YAMPOLSKY
On the High Seat of "The Treasure of the Law" The Sutra of the 6 th Patriarch, Hui Neng
The Sixth Patriarch’s Dharma Jewel Platform Sutra

2022/05/04

仏教は非二元の教え

佐々木閑先生のYouTubeを見ていると、仏教は非二元の教えであると思うことが何度もあります。今回もまたそうでした。

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その3」 

2022/05/03

この世には実体がない

最近の佐々木先生の話は、まさしく非二元の世界です。

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その16」