天台雲居は、牛頭宗(ごずしゅう)のマスターだと言われています。以下の会話は、 天台雲居と華厳寺の僧侶との会話です。
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問:あなたは人々に、自らの本性を理解するようにと説いてみえます。これはどういう意味ですか?
答:本性とは、あらゆるものごとの本質のことであり、根本的な心のことです。それは仏性のことです。あなたは本性を自分の目で見ることはできません。認識をするそのもののことです。それは、姿形のない、分割することができない知性のことです。
それを言葉で説明することはできません。それが存在するともしないとも言うことはできません。それは長くも短くもなく、大きくも小さくもありません。それは、時間のない永遠に存在する意識であり、それを表すどんな言葉も超えています。それが仏性です。この仏性に目覚めるということが、自身の本性に目覚めるということです。
問:あなたは、その本性は分割できない空間のような知性であり、存在するともしないとも言われましたが、もしそれが存在するともしないとも言えないのなら、どうやってそれを認識できるのですか?
答:それを認識しようとしても、認識できるものは何もありません。
問:もし認識できるものが何もないのなら、それを認識している主体は何ですか?
答:それは認識するものと、認識しないものの両方です。
問:あなたのおっしゃっていることが理解できません。
答:それは、認識するものと、認識されるものの両方です。主体と客体の両方です。
問:私には理解できません。そこには何か発見すべき究極真理があるはずです。それを知ることはできますか?
答:あなたは誤解しています。あなたの、有と無に対する考えは混乱しています。あなたのやり方は二元的なやり方で、そこには何かを知る誰かがいることが前提となっています。それはあなたを誕生と死の世界に閉じ込めてしまう伝統的なやり方です。
目覚めた人というのは、主体と客体は相対的な偽の造物であり、究極的な意味においては意味のないものだということに目覚めた人のことです。そういう人たちは絶えずものごとを認識できるのですが、実際には何も認識していません。
「あなた」によって認識される何か究極の「もの」があると想像するのは間違いです。もしあなたが自身の本性を理解したいと思うのなら、方法はたった一つしかありません。主体と客体という明確な区別の観念を超えて、認識する者と認識される者という二元性を超えて行かなければなりません。それが仏性に目覚めるということです。
問:では、その仏性はどこにあるのですか?
答:それはどこにでもあり、どこにもありません。
問:その仏性は、すべての人が持っているのですか?
答:持っていない人などいません。
問:このことに目覚めていない人はどうですか?彼らも持っているのですか?
答:もちろん持っています。
問:もしそれが、どこにでもあって、どこにもなくて、誰でも持っているのなら、このことに目覚めていない人はどうしてこのことを理解することできないのですか?
答:なぜなら、そうした人たちは仏性のただ中にいるにもかかわらず、思考でものごとを観念化して、絶えず主体と客体という二元性をでっち上げているからです。そうやって人は誕生と死という終わりのない輪廻の中に自らを閉じ込めているのです。
自らの本質に目覚めている人は、仏性は存在、非存在とは関係がないということをよく知っていて、区別をもたらす意識によって作り出された想像上の偽の造物にとらわれることがありません。その結果、彼らは日々経験する世界を主体と客体に分割することがありません。
問:それでも、目覚めた人と目覚めてない人の間には、何か根本的な違いがあるのではないですか? 目覚めた人は、そうではない人が成しえなかった何か特別なことを達成したのではないですか?
答:彼らは、達成すべき特別なものは何もないという事実に目覚めたのです。仏性においては、目覚めた人と、そうでない人の間には何の違いもないということを理解しなくてはいけません。目覚めたとか目覚めていないといういうのは単なる言葉であって、ものごとの根底にある実在とは何の関係もありません。
それは単なるラベルにすぎません。言葉はそのものではないということを理解しなさい。もしあなたがラベルを追い求めるなら、観念の海でおぼれてしまうでしょう。私はそれを誕生と死の海と呼びます。
自らの観念の海におぼれないでください。あなたが作り出した観念と思考の構造物すべてを見抜くことが自らの本性を認識することとなります。それが仏性に目覚めるということです。
参考サイト
Records of the Transmission of the Lamp: Volume 2 (Books 4-9)