2022/02/26

唯識⑨ 唯識の教えていること。

唯識の教えていることの本質は何だろうかと考えると、「私が私だと思っている私は実在ではない」ということであり、それは非二元で教えていることと同じではないかと思います。

「心があるだけ、物は存在しない」「人人唯識」「阿頼耶識、末那識」「刹那滅」「縁起」、こうした言葉の説明をちょっと聞いただけでは、トンデモナイことを言っているように聞こえます。

物は実在しているではないか。一人一人が別々の宇宙に住んでいるなんて、なんてバカなことを言っているんだ。阿頼耶識、末那識なんてものが本当にあるのか、誰も見たことがないじゃないか。時間は存在しないなんてトンデモナイことを言うな。あなたは独立した存在であり、体もあるじゃないか。

難しい言葉や、用語の定義はどうでもいいと思います。でも、唯識で教えているトンデモナイことは、非二元で教えているトンデモナイことと全く同じだと思います。もちろん、用語や細かい思想体系は違います。一緒にするなという人もいると思います。でも、考えれば考えるほど、同じではないかという気がします。

本当に阿頼耶識や末那識があるか、人人唯識は本当かといったことは別にして、そうしたことを生み出した背景にある思想が素晴らしいと思うのです。

私はこのブログで唯識の全体を書いたわけではありません。書いたのは、本当に基本的な中心思想だけです。しかもできるだけ難しい用語は使いませんでしたし、細かな理論的説明も書きませんでした。また、修養、修行的な部分には一切触れていません。

唯識の全体を書こうとすれば、唯識三年俱舎八年ですから、全体を学ぶのに最低でも十一年を必要とします。また、修養、修行的な部分について書こうとするなら、それなりの実践を必要とするので、宗教に入っていくことになってしまい、非二元をベースにしたこのブログの主旨からそれてしまいます。

表面上の用語や、その定義の違いはどうでもいいのです。唯識、そして仏教の教えていることの本質が、非二元で教えていることと全く同じであると思えてならないのです。

「心があるだけ、物は存在しない」。これは、非二元で言うところの概念のラベル貼りと同じだと思います。世界は概念のラベルでできています。言葉どおりに世界が存在するわけではありません。

「人人唯識」。一人一人はそれぞれの宇宙の中で生きている。非二元的に言うならば、一人一人は思考に閉じ込められて、個人的な基準点を持って生きています。私たちは、この思考の中に閉じ込められた存在であり、基準点から世界を見ています。

「阿頼耶識、末那識」。阿頼耶識という言葉を、アウエアネス、あるいは知性エネルギーという言葉に置き換えてみてはどうでしょう。もともとどちらも不可知なものであり、私たちはそれが何なのかをはっきりと知ることはできないのですが、すべてはそこからやってきます。末那識によって、いるはずのない「私」がいるように見えてしまう。

「刹那滅」。時間は「私」が作り出した創造の産物にすぎません。

「縁起」。万物は一体のものであり、互いに関係性で成り立っているもの。言葉を変えて言うなら、そこに独立した存在はなく、空(くう)です。もしすべての人々が、縁起の思想、非二元(ふたつのものではない)の思想を理解したなら、争いはなくなるのではないでしょうか。

時々、部屋の窓から、向いの家並みと、それに続く空を眺めながら、そこに広がるのは自分だけの宇宙で、その外には何もないということに思いをはせています。

参考図書

唯識の入門的な本として、以下の三冊をおすすめします。ブログを書くにあたり、以下三冊を主に参考としました。

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム

2022/02/23

佐々木閑の仏教講義 5「出家的に生きるために」

佐々木閑先生の新しいシリーズが始まりました。

佐々木閑の仏教講義 5「出家的に生きるために 1」

人は、社会一般に信じられている価値観に従って普通に平凡に生きることが幸せなのかもしれません。でも中にはそうした価値観に沿って生きられない人がいます。私もその一人です。

そうした人の中には出家して僧となって仏道を歩む人もいます。でも、仏道でなくとも、出家的に生きている人はたくさんいます。佐々木先生は仏教の中での出家について講義される予定だと思いますが、仏教に興味のない人でも、どう生きたらいいのかの参考になると思います。

佐々木閑の仏教講義 5「出家的に生きる」再生リスト

2022/02/19

唯識⑧ 三性説(さんしょうせつ)

唯識では、世界を認識するやり方には三つがあると説きます。世界を三通りのやり方で見ることができるということです。それが三性説(さんしょうせつ)です。

三性説(さんしょうせつ)とは、おおまかにいえば、迷いの眼で見た世界、覚りの眼で見た世界、その両方に共通した縁起(関係性)で見た世界があるという、世界に対する三つの見方があるという教えです。

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)=迷いの眼で世界を見る見方
依他起性(えたきしょう)=縁起で世界を見る見方
円成実性(えんじょうじっしょう)=覚りの眼で世界を見る見方

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)

遍計所執性の文字通りの意味は、「遍く(あまねく)すべてのものを思い計り、それが実在であると執着すること」です。私たちの末那識、意識は世界を見て、そこにはものが実在すると思いこみ、それに執着します。私たちの世界に対する見方は、この遍計所執性です。唯識では、この見方は妄想であり、本当はそうではない、執着しているものは実在ではないと説きます。

私たちが誤ったものの見方をしてしまう大きな原因の一つは言葉です。例えば、「体」という言葉。体という言葉を思い浮かべた瞬間に、体が思考の中に登場します。その瞬間に存在の一体性は失われ、体が切り離されて物となります。そこへ、「私の」という修飾語がついて、「私」が登場します。

さらにそれを見て、「老けたな~」「もっとシェイプアップしなきゃ」と執着が生まれます。しかし、その体はこのブログで何度も書いたように実在ではありません。「見えているもの」は心の中の映像であり、心の外にあるものではありません。眼識、意識、末那識が認識した心の内側の像であり、実体のないものです。

私たちは言葉によって、存在しないものを存在すると思いちがえ、それに執着して生きているということになります。私たちがものごとを認識することができるのは縁起によってであり、物がそこにあるからではありません。

前回のブログげ書いたように、「私」は様々な縁起によって成り立っている存在であり、体もその縁起の中で成り立っています。ところが私たちの心は、その縁の方ではなく、物の外観にとらわれてしまいます。それが眼識、意識、末那識の持つ性質です。

依他起性(えたきしょう)

依他起性とは、「他に依って起こったもの」という意味です。原始仏教以来、「一切は縁起の法である」と説かれてきました、唯識では「縁起」を「依他起」と言い換えて、「一切は依他起の法」であると説きます。

縁も他によって起こるため、依他起(他に依って起こる)と縁起(縁によって起こる)は同じ意味となります。釈尊以来、「縁起の故に無我なり」というのが仏教の根本ですが、唯識では、縁起を依他起と言い換えました。前回のブログで説明したように、現象世界では、自らの力だけで生じたものはなに一つなく、すべては縁起によって生じており、つながった一体のものです。

私たちは、本当は一体のものであるものに名前をつけ、概念化して区別します。太陽、月、地球、私、あなた。それぞれが別々に存在していると思っています。しかし、太陽も月も私も地球も全部一つのものとしてこの瞬間に存在しています。

それに名前さえつけなければ、それは一体のもの、ただそれだけです。名前をつけたとたんにそこに実体があると錯覚します。そこにあるのは、別々の物ではなく、縁起としての関係性があるだけです。

円成実性(えんじょうじっしょう)

円成実性とは、「円となって全部が一つである完成した真実の世界」という意味です。遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)の世界も依他起性(えたきしょう)の世界も実在ではありません。それらは思考でとらえた世界です。

もし、「私」が消えたら世界はどうなるでしょうか。自分という基準点(視点)が世界から消えると、そこには一つの完成された世界、円があります。これは仏陀の見る世界です。残念ながら、私たちがこの円成実性の世界を見ることはできません。なぜなら、私たちは識(心)の外へ出ることはできないからです。私たちは常に識の内側にいて、遍計所執性、依他起性にとらわれています。

存在しないものに執着して生きるか、ものごとはすべて縁起によって起こっていると理解して生きるかのいずれかです。いずれにしても、そこには「私」がいて、無我ではありません。円成実性は、いうならば無我の世界です。

非二元でいうところの実在の世界と同じで、円成実性の世界を実際に見ることはできません。見ることも触れることもできない世界だけど、それが実在の世界であるということは理解でます。それが確信に変わる日まで、私たちは学び続けなくてはいけません。

三性説(さんしょうせつ)を知って、唯識の教えは非二元の教えそのものだと感じました。言葉や説き方はまったく違いますが、ある意味で仏教は非二元よりもわかりやすい。いや、先に非二元を学んでいるからそう思えるのかもしれません。

もし非二元の教えを学んでいなかったら、仏教で説く空(くう)、無、縁起という思想を理解できなかったかもしれません。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/02/16

聖地サンティアゴ巡礼・今日から始める楽しい俳句入門・存命のよろこび・蝉しぐれ・たそがれ清兵衛・初つばめ

聖地サンティアゴ巡礼 増補改訂版 日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会
コロナが収束したら、歩きたいなと思って読んでみた。結論から言うと、行く気がなくなった。巡礼の路と聞いて、日本で言えば熊野古道とか中山道のような山の中の道を想像したいたが、そうではない。
写真を見る限りでは木々がほとんどない高原のような道か舗装された道をひたすら歩いていくことになる。これでは立小便にも困るではないか。寒い季節には行きたくないし、夏に行けば毎日暑い日差しの中を歩くことになる。日本の旧街道を歩くような繊細さがないように思われる。
何人かのブログを確認したが、写真で見るかぎりではやっぱりそうだ。
東海自然歩道や日本の山を歩いてきた者としては魅力を感じなかった。
この本に関して言うと、何がどう感動するのかが全く伝わらず、単に町の特徴と宿のリストがあるだけ。ろくな地図も載っていないのにこんな重い本を持って歩くのは嫌。参考:NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会

今日から始める 楽しい俳句入門 鴇田智哉
わかりやすくて共感できる句が解説つきで載っている。とっても良い本です。こんな俳句が詠めるようになりたいもの。

存命のよろこび―古典にいまを読む 中野孝次
兼好、長明、良寛、道元、ヘッセ、西行の作品と生き方を通して、いかに生きたらよいかを考えさせられます。ただちょっと古典の引用部分は詳しい現代訳がない部分もあり、ハードルが高かったです。この人たちはある意味で世俗的な欲望を捨てて生きた人たち。その生き方はすがすがしい反面、とても厳しい。幸せとはそうした厳しさの中にこそあるものなのかもしれません。世の中が便利で豊かになった反面で人の心や生き方はこうした人々と比べて卑しいものになったきたような気がします。金や若さが人間の価値の尺度のようになってしまった今、どう生きるのが幸せなのかを考えさせられました。

蝉しぐれ (文春文庫) 藤沢周平
中野孝次が「藤沢周平はすばらしい、全部読んだ」と書いていたので読むことに。
切なさ、甘酸っぱさ、爽快感が残りました。こんなふうに清くありたいものです。

たそがれ清兵衛 (新潮文庫) 藤沢周平
これは短編集。表題作のたそがれ清兵衛はじめ、この短編に出てくる主人公たちは、うだつの上がらない下級武士たち。その誰もがのっぴきならない事情で藩の権力抗争へと巻き込まれていく。そして、うだつのあがらない表向きとは裏腹にめっぽう腕がたつ。
 たそがれ清兵衛はたしかにおもしろかった。でもあとは似たようなパターンでそれほどおもしろいと思わなかった。まだ藤沢周平の初心者なので、もう少し読まないと評価できない。

初つばめ―「松平定知の藤沢周平をよむ」選 (実業之日本社文庫) 藤沢周平
十作品からなる短編集。
この短編に出てくる人たちは江戸の街に住む普通の庶民。その誰もが、そうとしか生きられないような境遇の中で逃げることもできずに必死に生きている。そうした人たちが抱える切なさ、悲しさ、愛情のようなものを描く。
「蝉しぐれ」「たそがれ清兵衛」を読んでも、それほどすばらしいとは思わなかったけど、これはすばらしかった。どれとは書きませんが、そのいくつかで泣きました。
どうやら藤沢周平に咬まれたようです。毒が全身にまわるのかどうかはまだわかりません。

2022/02/12

唯識⑦ 縁起(えんぎ)

縁起については、初期仏教のところで十二支縁起について書きましたが、唯識関係の本にも出てきますので、もう一度考えてみたいと思います。

一般的には、「仏陀は縁起を悟った」と言われるほどで、縁起は仏教の中心的な教えです。十二支縁起では苦しみの原因は無明(無知)であると説きました。ただ、釈尊の説かれたもともとの縁起の教えは、「原因があるから結果がある」、「執着があるから苦があり、執着がなければ苦もない」、「善いことをすれば楽がくるし、悪いことをすれば苦しみがくる」といったシンプルなものだったに違いありません。

それが十二支縁起へと発展し、アビダルマの「倶舎論」では、輪廻の説明として使われるようになり、中観(龍樹)や唯識(世親)においても同じような使われ方をしました。

一方で、縁起の教えは、単に輪廻にかかわることだけでなく、存在の法則として現象界のありようを説明するために用いられました。すべてのものごとは、縁によって起こっているということ。わかりやすく言うと、「あれをやったからこうなった」「AがあるからBがある」「他者があるから自己がある」という教えです。

この縁起は、龍樹のところでも書いたのですが、縁起ゆえに空(くう)であるという大乗仏教の根本的な教えです。私はこの、縁起ゆえに空であるという説き方が非常にわかりやすくて気に入っています。縁起の話を読むと、いつもセイラーボブの話を思い出します。

過去のブログからのボブの言葉。

『あなたは体ではありません。完全に調べるまでは信じられないかもしれませんが。あなたはいつ、私の体と言いますか? あなたは、私のコートと言いませんか? 私の車、私の家、私の靴。あなたはコートですか? あなたは車ですか? あなたは家ですか? あなたは靴ですか? いいえ。それは単に私たちが別々のものに貼ったラベルです。だとすると、あなたは体ではないでしょう。

体が何でできているか調査してください。あなたは、体が構成要素でできていると知るでしょう。それはすべて、土、火、空間、エネルギー、五つの要素、水、火、空間など、体は構成要素でできています。もしあなたは自分が分離した存在、個人、人であると考えているなら、自身を構成要素と分離してみてください。

自分が分離していると言うなら、呼吸を止めて、どれだけ長く自分が空気無しでいられるかやってみてください。できません。水を飲むのをやめてください。どれだけ長く水無しでいられますか? 体の80%は水です。体温、火を取ってください。構成要素無しで、どれだけ長くいられますか? 空間から外へ出てください。空(くう)の外へ出てください。できるものなら。』


これは縁起の思想に他なりません。空間と体は切り離すことはできず、空間ゆえに体があり、構成要素ゆえに体があります。私たちは、非二元の教えで、物は実在ではないということを理解しようとするとき、量子論などを用いて、何とかして物が実在ではないということを理解しようとしますが、そうではなくて、縁起による理解がわかりやすいし、合理的なのではないかと思います。仏教的に言うなら、縁起ゆえに空(くう)である。非二元的に言うなら、独立して存在する実在はない、万物は一つの物であるということになると思います。

そこで、どんな縁起が考えられるのかを、自分(私)を中心に考えてみたいと思います。人間関係のつながりから考えると、まず最初に家族があります。両親、兄弟、祖父母、子供、孫。会社の同僚。クラスメート。友人。町内会の人。仕事関係。人間関係をたどっていくと、おそらく地球上で今生きている人のほとんどとつながっているのではないでしょうか。

父と母から祖先をさかのぼっていくと、人類発生までさかのぼることができるかもしれません。そのうちの誰か一人が欠けても、私は存在しません。人類発生のころから、精子と卵子のレベルで考えるなら、そのどれかの精子か卵子一つが欠けてもあなたはここにいません。今ここに私がいることはほとんど奇跡にほかなりません。

体はどうでしょう。生まれてから、どれだけの食べ物を食べてきたでしょうか。ということは、どれだけの生き物を食べてきたことか。魚、動物、直物。どれだけの命の上に私の体は今ここにあることか。これもある意味縁起ではないでしょうか。

あなたを育ててくれた人。あなたを教育してくれた人。あなたに影響を与えた人たち。あなたの考え方はそうした人々の影響によってできています。そしてあなたもまた、まわりの人たちに影響を与えている。

体は60兆個の細胞でできています。そして、体の中にはたくさんのバクテリア、菌、ウイルスが住んでいます。そしてまた体は人類発生時点から、延々と蓄積されたDNA情報を持っています。人類発生よりさらにさかのぼれば、ホモサピエンス、類人猿となり、さらには単細胞の生物へと進化の歴史をさかのぼることになります。

進化の歴史をさかのぼるということは、人類誕生以前の地球の歴史をさかのぼることになり、さらには地球の誕生、宇宙の誕生へとつながっていきます。

私たちの身の回りはどうでしょう。例えば服。綿は大地とつながっていき、大地は雨とつながり、雨は海とつながっています。科学繊維は原油とつながり、原油は太古の生物とつながります。

電気は発電所とつながり、発電所も原油とつながり、中東へとつながります。水道の水はどうでしょう。多治見市の水道は木曽川水系とつながり、長野県の山々とつながっている。水は雲から雨となってもたらされ、雲は海からもたらされました。

あなたの住んでいる家はどうでしょう。その木材はどこからきたのか。どこで育ったのか。道路は何でできているのか。その材料はどこからきているのか。

そう考えると、私という存在は、単なる独立した存在とは言えない。たくさんの縁でつながっている。数えきれないほどの原因と結果のくりかえりの結果として私がいる。すべては縁起でつながっているのであり、「私」という個人がポツンと単独でいるわけではないといえます。

多くの人は、「私」という存在は、宇宙の中の孤立した存在だと思っていますが、そうではない。宇宙は全部つながっている。たまたま「私」という存在の中に基準点(視点)があるにすぎず、万物は一つのもの。その一つのものを分割しているのは「私」の思考。思考で分割しなければ、そこには何もない。空です。

そんなことを千五百年も前の人たちが考えていたとは、仏教とは本当に深い思想です。

2022/02/10

思索の旅発見の旅・生きたしるし・生きること老いること・子規句集・道の一句・平家物語

思索の旅・発見の旅 (同時代ライブラリー) 中野孝次
著者が旅した十か所の国、地域にまつわるエッセイ集。大学教授でドイツ語が堪能なこと、作家であるため、いろんな国の文学者会議に参加していること、などにより、現地の人と深く交流している。こういう旅は深い教養と見識がないとできない。旅をするというのはこういうことなのだと感心させられる。

30年以上前に様々な刊行物に書かれたエッセイ集。中野孝次の人となりをほとんど知らなかったが、この本である程度知った。大学教授を55歳までしていて、その傍らで文筆業もしていた。山にの登り、たくさん外国を訪ね、犬を飼い、毎晩三合5勺の日本酒を飲んでいた。
一つ一つのエッセイが読みがいあり、深い。文章もすばらしい。2004年に亡くなっているけれど、生前の中野さんを知らなかった。私は中野さんを通して古典を読む楽しさを知った。もっともっと中野さんのものを読むことにする。
さらば、人、死を憎まば生を愛すべし。存命の喜び、日々楽しまざらんや。「徒然草」

どう生きたらよいのか、美しい生涯とは、品性を磨くとは、清く生きるにはどうしたいいのか。そういったことにまつわるエッセイ集。影響されたいことたくさん。

子規の句集を調べてみると、全集を別にすると、この本ぐらいしかない。量が多すぎるので、座右の書として時々読んでいる。子規の俳句はわかりやすい。子規に続く弟子格の人達の俳句がわかりにくくてお高くとまっているのはいかがなものか。高浜虚子が選者なのが気にいらん。

三重県が募集した俳句集。
読めない漢字が多くて困った。電子辞書で手書きしてもわからないものがある。
例えば
「旅人に道蹤いていく帰り花」黛まどか
これは「たびびとにみちついてゆく」ということがネットで調べてやっとわかった。俳句は常用漢字にない漢字や辞書にない漢字が多いけど、パッと読んで読めない俳句はあかんと思う。やさしい言葉でみんなが読めるものでないとあかん。

この平家物語は若年層の読者を対象としているものと思われる。おそらく原典のダイジェストとしてはよくできているのではないかと思われるが、読み物としてはあまりおもしろくなかった。挿絵がすばらしかった。

2022/02/05

唯識⑥ 非有非無(ひうひむ)

非有非無(ひうひむ)、「有にあらず、無にあらず」という言葉は、唯識を理解するために重要な言葉です。「あるとも言えないし、ないとも言えない」、「あるようでない、ないようである」という意味です。また、非有非空(ひゆひくう)も同じ意味です。
私は、この非有非無(ひうひむ)という言葉が大乗仏教を理解する鍵であり、そしてまた非二元を理解する助けにもなると思っています。

釈尊の教えの一つに、中道(ちゅうどう)があります。中道とは、極端な道を離れて、真ん中を歩んでいきなさいという教えです。この中道の教えの一環として、非有非無があります。あるでもない、ないでもない。極端な見方をしないということです。

私はこのブログの仏教入門のところで、以下のように書きました。

『釈尊は、当時の哲学者たちが論争を繰り返していた、哲学的な形而上学的(けいじじょうがくてき)論争に加わることをしませんでした。哲学的な形而上学的論争とはどういう意味かというと、例えば、「世界は有限か無限か」「身体と霊魂は同一か」「悟りをえた人にとって死後の世界はあるのか?」「アートマンは実在か?」といったようなことです。こうした問題に関して釈尊は肯定も否定もしませんでした。』

形而上学的(けいじじょうがくてき)って、よくわからない言葉ですけど、その意味は、「よくわからないような難解な」という意味のようです。要するに、よくわからないような質問にはお答えにならなかった。

唯識の場合、「物は実在か?」と聞かれたら、非有非無です。有るとも言えないし、無いとも言えない。
私たちは、物は存在するかしないかで考えます。でも、答えは、有るとも言えないし、無いとも言えないというのが唯識の答えです。

このことについて、唯識の本では、「言葉どおりに世界は存在しない」という説明がしてあります。このあたりのことは、ナーガルジュナ(龍樹)①のところでも書きました。要するに、言葉どおりに世界はないのだから、有るとか無いとか言うことはできないという説明です。

私は、この非有非無(ひうひむ)を非二元的に解釈しています。例えば、「物がある、ない」ということを考える時、誰が考えているのかというと、「私」です。「物がある、ない」という問いを投げかけた瞬間に、主体しての「私」を作り出してしまうわけです。

もし、「私」という基準点(視点・参照点)が無かったら、物はあるのか、ないのか?  もし、「私」という基準点がなかったら、質問そのものが消えます。そこには質問する人がいないので、そうなると、物があるのか、ないのかわからない。いや、「私」がいなくても物はあるでしょ、という人は、そう言うとき、「私」という基準点から判断しています。

もっとわかりやすい例を出すと、「私が死んでもこの世界は存在するのか」です。例えば、今この瞬間にあなたが死んだと想像してください。突然あなたはこの世界から消えます。そしたら、そのあと、この世界は引き続き変わらずにあるのでしょうか。

もちろん大多数の人は、「世界はある」と答えるでしょう。でも、よくよく考えてみてください。あなたがいなくなった世界を想像しているのは、今生きているあなたです。基準点(視点)は、今生きているあなたにあって、消えてしまったあなたにはありません。

もし、消えてしまったあなたに視点を置くことができるとしたらどうなるでしょう。消えてしまったあなたは、目もなければ脳もないので、考えることも見ることもできません。「いいや、空の上から見ている」とか、「あの世から見ている」と言うかもしれません。

でも、よくよく考えると、空の上にいる自分を想像しているのは、今のあなたなのです。それゆえ、あなたが死んだあとのこの世界は非有非無であり、あるともないとも言えないことになります。私が死んだあとの世界は非有非無であり、あるともないとも言えません。

そもそも、私たちは基準点(視点)のない世界がどういう世界なのかを全く知りません。このあたりのことはセイラーボブのところで何度も書いたことですが、主体が消えれば客体も消える。質問者が消えれば質問も消えるということです。仮定や質問自体が意味のないことであり、仮定や質問が消えれば答えも消えるということです。それこそが非有非無だと思います。

実在は、私たちという基準点(視点)とはまったく関係のないものであり、私たちの仮定や質問そのものがピントはずれだということになります。それゆえ、禅の公案に対しては、「お茶でも召し上げれ」という答えがくるのです。考えても答えの出ないことなのです。

私は輪廻も死後の世界もないと思っていますが、行ったこともないのに断定することはできません。死んでから帰ってきた人が誰もいない以上、死後の世界は非有非無、あるとも言えないし、ないとも言えません。

今朝見た夢の世界があったとも言えないし、なかったとも言えないように、今生きているこの世界が夢だとも夢ではないとも言えないのと同じです。

知性エネルギーも阿頼耶識も非有非無、あるとも言えないし、ないとも言えない。誰も見たことがないのですから。

同様に、釈尊が答えなかった形而上学的(けいじじょうがくてき)な問いに対する答えも非有非無、あるとも言えないし、ないとも言えないのだと思います。

大乗仏教の空の思想も同じで、非有非空であり、有るとも言えないし、空(くう)であるとも言えない。誰も空の世界を見た人はいないわけですから。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 

2022/02/02

法顕伝・実作俳句入門・子規漱石・B面の夏・平家ものがたり

法顕伝・宋雲行紀 (東洋文庫0194)
佐々木閑先生の YouTube を見るうちに、法顕伝を読みたくなって読んだ。
もう少し冒険談のようなものを想像していたのですが、旅の行程と、そこにはどんな仏教があったのか、どんな仏教遺跡があったのかということが淡々と書いてある。

驚くべきことは、法顕が中国を出発したのは紀元399年で、法顕が64歳の時。当時の平均年齢からすると、ものすごく高齢になってから出発している。行くときは何人か一緒に出発したのに、帰る時はたった一人。死別したり、別れたり。ちなみに、玄奘三蔵法師よりも、200年以上前。よくぞこんな旅行記が残っていることか。

インドにたどり着くまでに6年。インド滞在6年。インドから中国に帰るのに3年。合計15年の旅で、中国に帰ったのは78歳の時。帰ってからは持ち帰った経典の翻訳に従事。85歳で亡くなる。これを読むと、人間何かを始めるのに年齢はあまり関係がないかもしれない。でも、60歳を超えてタクラマカン砂漠を歩いてインドまで行ける人がどれだけいることか。



回想 子規・漱石 (岩波文庫)
高浜虚子という人の文章はひどすぎる。物語の構成力もない。この人が小説家として大成しなかったのもうなずける。これは読み物としては失格。漱石とのやり取りなど、資料としては意味があるかもしれないが。

角川俳句ライブラリー 新版 実作俳句入門
俳句の作り方の本をあれこれと読んでみたが、あまり良いものがない。この本も、読んでいて納得できない場面が多かった。以前買った角川学芸ブックス 新版 20週俳句入門の暗記用の句を言われたとおり全部覚えたけど、かえって下手になっただけ。俳句の作り方の本を読むのはもうやめ。実際に俳句を作る時間を多く持つようにする。だいたい、虚子とか碧梧桐とか秋櫻子とか、解説がないと意味がわからないような俳句ではどうしようもない。そういう人たちが子規の作った俳句の世界をお稽古ごとにおとしめたのだと思う。虚子とか碧梧桐とか秋櫻子の句を読んでも、はっと感動することがない。子規の俳句を継承しているとはいいがたい。

B面の夏 (角川文庫)
俳句もさることながら、ルックスがいいので師事してしまう。
一つだけ引用させてもらいます。

流星を受けそこねたる相模灘(さがみなだ)

学研まんが 日本の古典 まんがで読む 平家物語
これはいい。このシリーズで古典をさらっと読んでから難しい本を読むといいかも。

平家物語 (すらすらよめる日本の古典 原文付き)
確かにすらすら読める。抜粋ではあるが、原文もついている。なかなかいい。