2022/01/29

唯識 ⑤ 阿頼耶識 末那識(あらやしき まなしき)

私たちが自分の外側にあると思っている物を認識する場合を考えてみます。
外側の物の姿が、私たちの網膜に像として映ります。その映った像は何らかの信号に変えられ、神経系統経由で脳へと伝達され、脳はその信号を読み取って、脳の中で像を再構成します。

そうなると、外にある物を直接認識しているのではなく、脳が脳の産物を認識しているにすぎないということになります。つまり、心が作り出した像を心が認識しているということになります。心が心を認識している。この認識する働きを仏教では識(しき)と言います。

仏教では、目を単なる感覚器官としてとらえるのではなく、物を見てそれが何であるかを認識する働きがあるものとしてとらえています。物を見るとき、もちろん目で見るのですが、目だけで物を見ることはできません。目には神経系統がつながっていて、そこから脳へ何らかの信号が伝わり、脳がそれを情報として読み取って再現しています。

また、死体に目や神経や脳があるから物を見ることができるかというと、おそらく見ることはできず、何らかの生命としての作用がないと見ることはできません。そうしたことの全体をさして眼識(げんしき)と呼びます。他の感覚器官も同様に、五感はすべて、こころの作用として、眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜつしき)・身識(しんしき)と呼ばれます。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のことです。

そして、人間には五感の他にもう一つ認識する道具があります。それは思考、意識です。私たちは、五感以外で物を認識することができます。(昨日会ったあの人はきれいだったなぁ)と思ったとたんに、その人の映像が浮かびます。(あのカレーはおいしかったなぁ)と思ったとたんにおいしい味を思い出します。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つの識と意識によって、心は物を認識します。唯識より前の仏教では、認識作用としてこの六識を説いていました。以上の六つの識は私たちが容易に自覚できるものであり、いわば表層心と呼ばれるものです。唯識の人たちは、ヨーガ(瞑想)によって表層心を沈め、自己の心の内面深くを見つめることによって、心の深層には表層心とは別の識があるということに気づきました。

それが末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)です。一言で言うと、末那識とは、「私」がいると思っている自我執着心のこと。阿頼耶識とは、宇宙のあらゆるものがそこからやってくる情報倉庫のことです。

八識

・眼識(げんしき)……視覚
・耳識(にしき)………聴覚
・鼻識(びしき)………嗅覚
・舌識(ぜつしき)……味覚
・身識(しんしき)……触覚
・意識(いしき)………思考
              ここまでが表層心(六識)
…………………………………………………………………………………………
              ここからが深層心
・末那識(まなしき)………自我執着心
・阿頼耶識(あらやしき)……根本心

末那識(まなしき)

私たちはいつも、「私」が実在であると思っています。このブログを読んでみえる人の中には、いや、「私」は実在ではないと理解していると言う人がたくさんいるとは思いますが、それでも「私」はいるように見えます。

私は会社へ行く、私は悲しい、私は不幸だ。私は~である、私が~する、と私を主語にして考え、思い、主張し、争います。その一方で、私の家、私のお金、私の人生というように、あたかもそこに「私」がいて、何かを所有していると思っています。

一般的に、自我意識には先天的な自我意識と後天的な自我意識との二種類があると言われています。私たちは、生まれるとすぐに母親のお乳にしゃぶりついて、お乳を飲み始めます。本能的な自我があり、お乳を飲まないと生きていけないと知っているからです。

単細胞のゾウリムシが唯一やっていることは、自分とエサを見分けて、エサを食べることだそうです。ということは、どんな生き物にも先天的な自我があるということです。

そして、後天的な自我意識とは、生まれてからの環境によって身についたものです。親から名前を呼ばれ、服を着せられることによって、「私」の名前、「私」の服という概念が身に付き、「私」という概念が身についていきます。

そこには、常に単一の主となる存在、「私」がいると思っています。なぜ私たちは、その思いをなかなか捨て去ることができないのでしょうか。これに対して唯識は、深層に末那識(まなしき)という自我執着心が働いているからだと主張します。

この末那識は深層で働く心であり、眠っている時も働いています。いつもいつも、意識しないのに自我に執着する心があるということです。その「私」や、外の世界にある「物」はどこからやってくるのかというと、阿頼耶識からやってきます。

阿頼耶識(あらやしき)

アラヤシキのアラはサンスクリット語のアーラヤからきていて、蔵・倉庫という意味です。その蔵の中に、私たちが体験する一切が情報として蓄えられています。自分の体、物、山や川などの自然、太陽や月、宇宙。さらには視覚や感触の五感、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識、意識、末那識、これらすべてが阿頼耶識にあります。当然、迷いや悟りもそこにあります。

また、私たちの日々の行いもそこに記録されます。その行いは因果の法則によって、やがては結果となって表れてきます。悪い行いが阿頼耶識に記録されないよう、日々正しい行いをしなくてはいけないという教えでもあります。

人人唯識(にんにんゆいしき)ですから、一人一人の世界なのですが、その世界の中にあるすべてが阿頼耶識からやってきた世界です。逆の言い方をするなら、一人一人はそれぞれの阿頼耶識の中にいるということになります。体も環境も宇宙も、その阿頼耶識の中にあります。ただし、その世界は、前回のブログで書いたように、増上縁(ぞうじょうえん)によって、他の人の世界の影響を受けます。

唯識派がなぜ阿頼耶識というものを主張しはじめたかというと、それは輪廻思想と関係があります。仏教以前のインド社会はバラモン教であり、バラモン教では我(が:アートマン:私)の存在を認め、それが輪廻すると考えていました。そのため、人々は輪廻するのが当然であると信じていました。

ところが釈尊はそのような我、自分というものはないという無我説を主張して登場しました。私たちの体や心を観察しても、そのような我(私)は発見できません。肉体は日々変化し最後には消えていきます。心やまわりの世界も実体がなく、やがては消えていきます。諸行無常、諸法無我です。

では、我がないとしたら、何が輪廻の主体となるのか。輪廻していくものは何なのか。原始仏教では業(ごう)の相続体が輪廻の主体であると考えました。業とは行為にことで、サンスクリット語のカルマに由来します。自業自得のあの業です。

釈尊の生きた時代には、自分の行為には何ら報い、果報は存在せず、自分の行為には責任を持つ必要はないという考えがまかり通っていたようです。また、無我、私はいないのなら、何をしてもよいということになると思う人も出てきます。

しかし、釈尊は、自分の行為には責任を持つべきだと教えました。この世は主宰神が操っているのでもなく、運命が決まったているのでもない。何をやっても無意味だというのではなく、行為には必ず果報があるのだから、自己の行為が重要なのだと説きました。それが業の思想であり、その業が輪廻の主体であると人々は考えました。

しかし、業の相続体が輪廻の主体であるということを人々はなかなか納得せず、部派仏教の時代になると、それぞれの部派は様々な輪廻の主体を考えて説きましたがうまくゆかず、最終的に唯識派が、輪廻の主体は阿頼耶識であると主張し、一応の決着にいたりました。

阿頼耶識は、過去の業の結果を貯蔵しています。つまり、過去の業も貯蔵していて、それが未来に結果をもたらすというのです。説一切有部のように、過去と未来は存在するという立場に立てば、行為(業)が私たちの見えないような形で実在していて、それが影響力を行使しると考えることも可能ですが、唯識派では過去も未来も実在しないと主張しました。

あるのは現在だけで、過去と未来は存在しないというのが唯識の基本的な立場です。過去が存在しないということは、行為を行ってもそれは消えて無くなり、無に帰するということになります。それでどうして業として未来に結果を招くのでしょうか。

仏教では刹那滅(せつなめつ)を説きます。あるのは現在だけです。すべての現象は刹那に生じ、刹那に消えていく。では、どうしたら業が未来へと保持されるのでしょうか。もし、ある行為をしたときに、それがなんらかの形に変わって、刹那刹那に現れては消えることができれば、未来へと保持されることになります。

つまり、ある行為をしたときに、その行為が何らかの情報のようなものとなって残り、それが刹那刹那を超えていくことができれば、過去は消えてもさしつかえないわけです。体や意識は消えていくため、体や意識が情報を保持していくとは言えません。そこで、阿頼耶識というものが考えだされました。身体や心が死んだとしても、阿頼耶識が情報を運んでいくと考えたのです。

阿頼耶識も当然刹那滅なのですが、前回消滅した時の情報を保持したまま、また生まれてきます。つまり、輪廻の主体となって、業を運んでいくのです。それによって、そこには輪廻する人や魂のようなものはいないにもかかわらず、業の輪廻を説明することが可能となりました。

阿頼耶識には、自分が過去に行った行為が情報となって記録されています。自分の行いだけではなく、ありとあらゆる情報がそこにはあります。先祖が行ったこと、人類が行ったこと、生きとし生けるあらゆるものが行ったことが情報としてそこにあります。

また、私たちが何か行動すれば、それが情報となって阿頼耶識に保存されます。なぜそのようなことが起きるかということについては説明がありません。

阿頼耶識も末那識も不可知なものです。深層深くにあって、私たちが知ることができないものだというのです。これに関連して、阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p41から抜粋させていただきます。

 世親が著した『唯識二十論』は、「外界に事物が実在する」と見る他派からの批判に、一つ一つ反論することによって、「すべては唯だ識のみである」という唯識の根本主張を立証した書ですが、この書の最後の「結び」の頌(じゅ)がたいへん大切なので引用しましょう。
「私は自分の能力に応じて唯識性が成立することを論究してきた。しかし、その唯識性の全体は思推されない」
そしてさらに続きます。
「この唯識であることの全体は、私ごときものによっては思推されることはできない。なぜならば、それは概念的思考の対象ではないからである。ではそのすべては、だれの境界であるか。そこで、仏陀の境界であると説く。実に、その唯識であることの全体は仏陀・世尊たちの境界である。なぜなら、仏陀・世尊たちは、なんらの障害もなく、あらゆるあり方、あらゆる知るべきものを知りつくしているからである」
と、世親は述べているのです。


つまり、「唯識」の全体は仏陀、すなわち覚者となってはじめて真に理解できることであり、世親にも理解できないと言っています。もう、ツッコミどころ満載ですが、こらえてください。どうしてそうなっているのかは説明できんけど、そうなのだと言っています。

私は唯識の本を読んで、「ただ識のみがあるだけ」「心が心を見ている」「阿頼耶識からすべてが現れる」と読んだ時、ひどく感動して、ぜひともブログに書きたいと思いました。なぜかというと、唯識の世界観がセイラーボブの描く世界観にとても似ていたからです。

阿頼耶識という言葉を、知性エネルギーという言葉に置き換えてみてください。その世界観があまりにも似ている。どちらも、私たちが知りえるものではなく、言葉で表すこともできない。そしてすべてはそこから現れる。

参考YouYube『佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その3」』
このYouTubeは、唯識、阿頼耶識について明解に説明されています。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/01/26

死を考える・正岡子規の〈楽しむ力〉・宮尾本平家物語

死を考える 中野孝次 青春出版

著者は、一昔前の人たちの死は身近にあったという。
「死を自宅で迎えなくなって久しい。私の祖父の時代には、人々は自宅で死を迎えたが、今はほとんどの人が死を病院で迎える。そのため、死が人々から隠されてしまい、死というものに対する理解が希薄になった」という。

一昔前の死についての考察に始まり、よりよい死を迎えるためにはどうしたらよいのかと展開していく。現代においては、一日でも長生きすることが良いことだとされているが、そうではなく、より良く生きることこそが、よい死を迎えるためには必要なのだという。

より良く生きるとはどういうことか。それは、今ここを生きること。現代社会を生きる多くの人が、今ここを生きていないという。金、地位、名誉といった、未来のためにあくせく働いて、今を犠牲にして生きているという。

今を生きるためにはどう生きたらよいのか。それは、今になりきること。今になりきるにはどうしたらいいのか。おなじみのセネカ、エピクロスに加え、道元、大拙、盤珪を引用して、今をどう生きるべきかを説いていきます。

そして、「時間や空間は今を生きている人にはない」、なんて、どこかで聞いたようなことが書いてあり、ちょっと驚きました。
「生きているのは今この瞬間であり、そこには昨日も明日も死もありません。それは不生であり、不滅だ」といいます。まったく同じ話しを中野孝次から聞くとは思っていなかったので、ちょっと驚きました。大拙も同じことを言っています。この本は死についての本ではなく、いかに生きるかの本です。

p96から引用 (「徒然草・吉田兼好」の中野版現代語訳)
 そういうことだ。だから君が死を憎むならば、生を愛するがいい。生きて今あるよろこびを、日々に楽しまないでいてどうしょう。ところが愚かな人は、生きて今あるということの最高の楽しみを忘れて、ご苦労千万にもほかの楽しみを求める。この一番の財を忘れて、わざわざ骨折って他の財をむさぼる。そんなことで心が満たされることのあるはずがないのである。生きているあいだに生を楽しまないでいて、死に臨んで死を恐れるなどと、こんなバカな話はないではないか。大方の人が生を楽しまないのは、心の底から死を恐れていないせいだ。いや、死を恐れないのではない、死が近いということを忘れているからだ。ただし、もしここに自分は生死などということに一切心を労しないという人がいたら、その人は真の悟りを得た人だというべきだろう。 


正岡子規は34歳で亡くなったが、晩年の五年間はほぼ寝たきりだったという。
背中からは膿が出て、毎日一時間かけて妹に包帯を取り換えてもらい、排便も排尿も食事も全部布団の上の生活。

それでも驚くことに、寝たきりのまま新聞の連載を書き、俳句を詠み、絵を描いた。結核からくるカリエスの痛みに苦しみながら、モルヒネを飲みながら生きた。
この本を読むと、子規の闘病生活には微塵も暗さがない。苦しさはある。でも、子規は言っている。

p174
病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白みもない。

寝たきりの部屋で句会を開き、人を集めては和歌を詠み、小説について語り合う。
子規の生き方を読むと、生きるということはどういうことなのか考えさせられる。自分などは曲がりなりにも健康で生きているにもかかわらず、子規のように全力で今ここを生きていないと思い知らされる。

子規は毎日毎日食べたものを記録しているが、病人とは思えないほどの量を毎日食べていた。結核という病気の性格上、精をつけるために食べようとしたのだと思うが、健康な人よりもはるかに食べている。その記録を読むと、痛快ですらある。

病気ということと、生きるということは別個のもののように思えてならない。
子規が死ぬ前の日に詠んだ句。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰意一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき

糸瓜(へちま)の水は結核に効くといわれていて、子規は庭に糸瓜を植えて飲んでいた。
そしてまた子規はこんな言葉を残しています。

禅の悟りとは、どんな場合でも平気で死ぬことだと思っていたが、それは間違いで、どんな場合でも平気で生きていることだとわかった。

宮尾本 平家物語 一 青龍之巻 (文春文庫) 一巻~四巻  宮尾登美子

方丈記や徒然草、法然などの本を読むうちに、平安時代のことをもっと知りたいと思うようになり、YouTube で平家物語関連のサイトをあれこれ見た。そして、実際に平家物語を読もうと思い、宮尾登美子の平家物語を読んだ。

おもしろかった~。宮尾本の平家物語は、女性という視点に重きがあって、血のつながりに重点が置かれている。最初のうち、登場人物が多くて、誰が誰だかよくわからなくなり、一度読んだところを読み返したりしていたが、巻末に詳しい系図があるとわかって読むのが楽になった。

その系図は、平家、天皇家、源氏などがあり、複雑にからみあう人間模様がおもしろい。また、宮尾登美子の描く清盛像は、どちらかというと慈悲深い温かい清盛のようで、とても興味深い。一般的に言われている通説とは異なる解釈が随所にある。安徳天皇の最後に関しては、あっと驚く結末が待っている。今度はまた別の人の平家物語を読むつもり。

仏教、方丈記、エピクロス、中野孝次など、「欲望を追わない生き方」の本を読み、その一方で「どっぷりと欲望を追う」平家物語を読む。そして「すべては幻影である」というブログを書いている。そのいずれにも美学がある。そしてそのいずれにも共通の学びがある。

2022/01/22

唯識④ 人人唯識(にんにんゆいしき)

このブログの「物は実在か?」のところで、私たちは本当に物が存在するのかを確かめるすべを持っておらず、心の中の映像を見ているにすぎないと書きました。では、心の外側には物が存在しないのでしょうか?

一個のレモンは、心の中の像でした。その像を別の心が見ています。では、月や夜空の星はどうでしょう。夜空に広がる星々も、心の中の像です。宇宙の果てまで思いをはせたとしても、それは私の心の中の像でしかありません。

私は今、部屋のパソコンの前に座って、コーヒーを飲みながら、このブログを書いています。今、私の世界は、部屋とパソコンと、コーヒー、そして窓ごしに見える向いの家並みと空。それが私の世界であり、他の人の経験している世界とは関係がありません。

今この瞬間には、エジプトのピラミッドもアフガニスタンの人々も、思考を向けないかぎり存在しません。ということは、私の世界は私の視界や思考だけでできているということになります。すなわち、私の世界はすべて、私の意識の中にある、別の言い方をするなら、世界は私の意識の中にしかないということになります。

では、私の意識の外に、エジプトやアフガニスタンは存在しないのでしょうか? それを確かめる方法はありません。なぜなら、私たちは自分の意識の外へ出ることはできないからです。

唯識では、心の外の物の存在を認めません。前回のブログで取り上げた原子という視点に立つなら、唯識では実体としての原子(究極の物質)の存在を認めません。唯だ、識(心)だけが存在するという教えです。それでは私たちが目にしているものは一体何なのだということになります。

私たちが見ている物は心の内側にあるものであったとしても、それをもたらす何らかの外側の実在があるはずだと考えるのは自然なことだと思います。というのも、私たちが認識している世界が、何もないところから現れるはずもなく、なんらかの要因があるはずだと考えざるえないからです。

部派の中には、経量部(きょうりょうぶ)のように、心の外側に見ている対象が実在するという見方をしている部派もありました。つまり、法(構成要素)の実在を外側に認めつつ、認識は心の内部で行われるというのです。唯識派と経量部の間では、激しい論戦が行われたそうです。

個人的には外側に何かがあって、それを心の中で認識しているのだと考える方が自然だと思うのですが、それだと空(くう)を説く大乗仏教の教えではないし、非二元的でもなくなって、普通の考え方になってしまいます。

心の外側には世界はないとするなら、私たちは一体何を見ているのか? 物自体にあたるもの、外側の世界にあたるものはどこにあるのか? あるいは、私たちが見ているものは何なのか? 唯識では、それは阿頼耶識(あらやしき)であると説明します。

阿頼耶識とは、私たちの心の深層深くに存在する意識。その意識は情報倉庫のようなもので、私たちが目にしたり、体験したりすることの情報がそこにある。そこから、私たちが目にしたり、体験したりすることがやってくるのだといいます。阿頼耶識(あらやしき)についてはまた次回詳しく書きます。

もう一度、私たちが物を認識するしくみについて書きます。例えば、一本の木を見ているとします。目が木を認識して、それを何らかの信号に変え、神経系統を経由して脳に伝達します。脳はその信号を何らかの形で木という像に変え、脳はその像を認識して、脳の中にある情報の中の木と照合して、(木が立っている)と判断することになります。

つまり、脳の中で何らかの方法で像として作られたものを意識が見ているということになります。作られた像は意識の上に現れたものであり、それを見ていることになります。言い方を変えると、意識が意識を見ていることになります。

その場合、目が最初に入手する木の情報は外側からくるのではないかと考えますが、唯識では、その最初の情報そのものが阿頼耶識からくるというのです。そして、目も、脳も、木という情報も全部阿頼耶識からくるというのです。

今ふうに言うなら、木も目も脳も情報も、全部が阿頼耶識というヴァーチャルリアリティの中の出来事だというのです。さらに、その阿頼耶識も実在のものとは考えてはいけない、実体としてあるのではなく、説明のために仮にそう呼ばれているものであるという、おそろしい結末が待っています。

その阿頼耶識から広がったヴァーチャルな世界のことを、心(こころ)と言ってもいいし、意識と言ってもいいのですが、そこに「私」の世界がある。つまり、意識の中で、意識が作り出した木という像を、意識が見ているということになります。

ここで注意しなくてはいけないのは、その意識、心は、一人一人それぞれの意識、心のことであって、集団としての共通のものではないということです。集団としての意識やヴァーチャルな世界があるのではなく、それぞれ一人一人の意識の中で起こっているということ。

これを、人人唯識(にんにんゆいしき)と言います。別の言葉で言うなら、一人一人がそれぞれ別の宇宙(世界)を見ているということです。でもなぜ一人一人が一見同じような共通の世界を見ているのか? なぜ私の世界にもピラミッドがあり、別の人の見ている世界にもピラミッドがあるのか? なぜ私が見ている世界と他の人が見ている世界が同じように見えるのか? 私の世界が地球なら、他の人が見ている世界が、例えば火星や、はたまた天国のような場所であってもいいはずなのに、なぜ他の人も私と同じように地球という世界を見ているのか。

生物にはそれぞれのプラットフォーム(基盤となる環境)があり、人間には人間のプラットフォームがあって、それがそれぞれの阿頼耶識にあるため、同じ情報を持っているのだといいます。猫の世界やライオンの世界にはまたそれぞれ共通のプラットフォームがあって、猫同士で共通の世界を見ているのだといいます。

人間に生まれた場合、同じ世界の情報を阿頼耶識にもっているため、同じ世界をそれぞれの意識の中で見ることになります。それは一見同じものに見えますが、実はそれぞれが別々の世界(宇宙)を見ているということになります。一人一人の宇宙です。

例えていうなら、それぞれの人がヴァーチャルリアリティのゴーグルをつけて、それぞれの世界を見ているような状態です。そして、そのヴァーチャルリアリティの世界の外には何も存在しないというのです。

私たちは、共通の一つの世界に住み、同じ物を見ていると思っていますが、そうではなく、それぞれの世界で、それぞれの阿頼耶識からやってくる世界を見ているということになります。

例えば、三人で一本の木を見ているとします。常識的に考えると、三人の心の外に実在する一本の木を、三人で見ているのだと考えます。しかし、人人唯識(にんにんゆいしき)ですから、三人が共通の一本の木を見ているのではなく、それぞれ各人の世界(意識)の中で映像としての別々の木を見ているということになります。

その木はどこからやってきたのかというと、三人それぞれの阿頼耶識にある情報からやってきたものであり、一見、同じ一本の木を見ているように見えますが、そうではなく、それぞれがそれぞれの世界の中の木を見ていることになります。ここで一つの疑問がわいてきます。

その木はそれぞれの人の意識の中にあって、その意識の外には実体的な木は存在しないというなら、たとえば誰かが、その木を切ったら、それはその人の意識の中にある木を切っただけで、他の人の意識の中にある木を切ることにはならないのではないか。他の人の見ている木は残っているはずなのに、実際には一人が木を切れば、他の人が見ている木も切られてしまう。これをどう解釈したらよいのか。

これを唯識では、増上縁(ぞうじょうえん)という概念で説明します。増上縁があるために、ある人の行為が縁となって、他の人の世界に影響を及ぼすというのです。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/01/15

唯識③ 量子力学

私が読んだ唯識の本では、物が存在するかどうかという話をする時に、量子力学の話が出てきました。

量子とは何か?

量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手です。光を粒子としてみたときの光子やニュートリノやクォーク、ミュオンなどといった素粒子も量子に含まれます。
 量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)あるいはそれよりも小さな世界です。このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用せず、「量子力学」というとても不思議な法則に従っています。(文部科学省HPより)

要するに、原子やそれを構成する粒子のことですね。このブログの中では、その粒子の間は大きな空間である話や、粒子の中には質量がないものがあるということを書いたことがあります。

私が読んだ唯識の本ではどういうふうに書かれているかを抜粋させていただきます。

 物とはなにかという存在観を根底から変えた二つの科学的発見・発達が二十世紀にありました。それは「相対性原理」の発見と「量子力学」の発達でした。
 前者の相対性原理の発見によって、絶対時間と絶対空間はない、時空は四次元時空として存在するということがわかりました。
 後者の量子力学の発達によって、分子・原子ないし素粒子などから構成される「物」のありようがこれまでの物質観、広くは存在観を根底から覆しました。
 量子力学の発達によってミクロの世界での物のありようがマクロの世界でのありようとまったく異なるという事実が発見されたのです。すなわち量子力学によれば、物質を構成する究極の粒子すなわち素粒子は、ある大きさを持った粒子として存在するのではないという結論に達しました。しかもその存在のありようは、私たち観察する側の心のありようによって左右されるという事実も発見されました。
 量子力学のミクロの世界の解明によって次のような事実が発見されました。すなわち、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」という事実が解明されたのです。ニュートンまでの古典力学によれば、私たちは、これまで自分の前にある物、広くは存在のありようを、それから抜け出て、「それを客観的に対象として近くしている観察者」であると考えられていましたが、量子力学によれば、そうではなく、「その存在といわば[一つのセット]の中にある関与者である」という事実が判明したのです。
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p116より

 しかし、ほんとうにそのような「物」が、そして「物」を構成している原子・分子が、外界に厳として存在するのでしょうか。
 この問いに対して、古くは仏教の唯識思想、新しくは現代の量子力学、この二つがノーと答え、いずれも外界には私たちが考えるような「ある大きさを持った粒子」としての原子・分子は存在しないという結論に達したのです。
唯識の思想 (講談社学術文庫) p182より

 物質的存在は、ふつう分割、分解していくことができます。ですから、具体的な物質的存在に実体を求める場合、大体、原子論、それ以上は分割できない究極の存在に実体を求めようとすることになるわけです。今日、果たしてそれは、見出されているのでしょうか。近年、クォークの存在が立証されたというニュースが新聞にのりました。原子をさらに構成する素粒子の究極の物質と目されるものです。しかし、そのあり方は、実体としてあるのかどうかは、問題でしょう。
 物理学の方では、究極の存在が、一方では粒子としてとらえらるものの一方では波動としてとらえられるとか、その他様々な考え方があるようです。
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズムp69より

本に出てくるこれらの表現、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」、「ある大きさを持った粒子としての原子・分子は存在しないという結論に達したのです」、「物理学の方では、究極の存在が、一方では粒子としてとらえらるものの一方では波動としてとらえられる」。こうした表現の意味が、よくわかりませんでした。
そこで、YouTubeで量子力学に関するものをいくつか見ました。

内容を全部理解できたわけではないのですが、言っていることの意味自体はだいたい理解できました。量子は人が観察(測定)するまでは波のような存在であり、位置や速度を特定できないというのです。人が観察したとたんに位置または速度が特定できるのだそうです。つまり、人が観察していなかったら、量子は何だかはっきりしない波のようなものだというのです。

物として見えている物を構成する微細な量子は、私たちが注意を向けるまではそこに存在しないというのです。もっと正確に言うなら、どこかに存在するかもしれないが、その場所を特定することはできないというのです。驚きました。

量子力学が仏教の教えを証明しつつあります。私たちが考えているような物質はないのだということを証明するところまできています。




参考文献

2022/01/08

唯識② 世界は言葉でできている。

もし言葉(言語)が無かったらどうなるでしょうか? 言葉がなくても生きてはいける。動物は言葉が無くても生きているし、私たちの祖先だって、最初は言葉を持たなかったはずです。

言葉が無かったら、他の人とのコミュニケーションは難しくなるが、簡単なことはジェスチャーを使って伝えられる。お腹が空けば、言葉など使わずとも何かを探して食べるだろうし、本能に従って子孫も残す。

でも、市役所へ行って婚姻届けを書いて出すなんてことはできなくなる。そもそも、結婚という言葉が無かったら、二人で一緒に暮らして家庭を持って、法的に保護してもらいましょうということをどうやって相手に伝えたらいいのかわからない。市役所も婚姻届けも、言葉がなかったら成立しない。人間生活の中で起きる複雑なことは、言葉が無かったら成り立たたない。

では、思考はどうか。私たちは、思考の道具として言葉を使っています。ものを考えるとき、言葉が無いとどうなるか。言葉が無い場合でも、思考そのものはある。でも、言葉が無かったら、複雑なことを考えることはできない。おそらく、思考というよりは感覚に近いものだけになってしまうような気がします。

映像の記憶だけでも、思考することは可能だと思います。例えば、将棋の棋士が記憶している棋譜のように、手順を記憶していれば、場面を順に思い出すことはできる。行ったことがある場所への行き方は、映像としての記憶を再現すれば思い出すこともできる。

時間の感覚はどうでしょう。言葉が無くても、太陽が高く昇れば昼だとわかるし、太陽が沈めば夜だとわかる。日々の出来事を将棋の棋譜のように順に思い出していけば、以前のことを思い出せるかもしれない。昨日と一昨日ぐらいまでは区別がつくかもしれないが、一か月前とか一年前の区別がつくだろうか。カレンダーが無かったら、過去の記憶がグチャグチャになってしまうような気がします。私の場合、カレンダーがあってもグチャグチャなのだけど。

時々、クイズ番組で、起こった順に出来事を並べよというのがあるが、自分の記憶がいかにグチャグチャなのかを知って驚くことがあります。私の場合、保育園より前の記憶はほとんどない。それ以前の記憶は、アルバムの写真に置き換わってしまっている。

未来のことを考える場合は、言葉がなくてもその日の夜のことぐらいまでは考えることはできるかもしれないが、それより先のことは、言葉がなくては難しい気がします。

私たちの世界は、多くの部分が言葉でできている。フランス語では、蝶と蛾の区別がなく、どちらの場合もパピオンというらしい。英語ではウッドとツリーを分けるが、日本語では木という。日本語ではお兄さん、弟と一言で上下関係を表現できるが、英語ではブラザーしかない。日本語では牛というが、英語ではカウ、カトル、オックス、ブルといって、何だかよくわからない。

それぞれの言語、あるいは民族が別々の概念を持ち、それに対して言葉をあてている。極端なことを言えば、それぞれの世界はそれぞれの言葉でできている。

ということは、私たちが言語を通して認識いるものが、外界にそのまま存在してるということにはならないということになる。混沌とした世界の一部をその言語体系に即して切り取って定義づけして使っているだけであり、つまりそれはそれぞれの概念の反映と解釈できる。世界は言葉でできている。でも、世界はその言葉どおりには存在していないということになる。

例えば、お金。紙幣でもコインでもいいのですが、それはもともと紙か金属のかたまりにすぎません。その紙か金属のかたまりが、私たちの意識の中で思考となって現れたとたん、紙や金属ではなくなり、金という途方もない欲求の対象に変わる。

それは単なる紙か金属にすぎないのに、時によっては命よりも大事なもに見えてしまいます。それを手に入れようとして奮闘し、手に入れると満足感を味わうのですが、そうした価値観は、自身が思考の中で勝手に構築したものだと気づきません。

「私」という言葉に関してはどうでしょうか。セイラーボブはミーティングで、「私の手、私の足と言うのなら、私と手や足は別のものですか? その私とは一体なんですか?」という話をします。私の手と言うのなら、私と手は別のものとなる。私の心臓、私の脳と言うのなら、私は脳でも心臓でもないということなる。

私の心が痛む、というのなら、私は心ではないということになる。私の魂というのなら、私は魂ではないということになる。では一体、その私とは何なのか、どこにいるのかということになり、それは実体のないものであるという話をする。

全く同じ話が唯識の本にも書かれていて、私などいない、無我(むが)であると説いている。無我は仏教の基本の教え。仏教も非二元も、「私」は存在しないと教えるのに、私たちの心の中は「私」だらけです。

私の手、私の足、私の部屋、私の家、私の車、私の服、私の妻、私の母、私の子、私のお金、私の人生、私の気持ち、私の心。そして、日常生活においても、すべて「私」が中心です。私は起きる、私はごはんを食べる、私は会社へ行く、私はテレビを見る、私は泣く、私は怒っている、私は寝る。

その「私」が何かということを確かめようとしても、それはできません。目が自分の目を見ることができないように、主体が主体を見ることはできないからです。よくある例えで言うなら、月を指さすことはできても、指を指さすことはできないからです。

世界は「私」だらけです。生きていくためには、片時も「私」を忘れることはできません。「私」などいないと言って知らんふりしていても、私のお腹は空きます。「私」などいないと言っていたら、生存競争に取り残されて、生きていくことさえ難しくなります。

でも、よくよく考えると、「私」などというものはない。セイラーボブもそう言っているし、釈尊もそう言っている。私たちは、「私」という言葉があまりにも便利なために「私」という言葉を多用しますが、そこには「私」という言葉があるだけで実体はありません。

「私」がないのなら、何があるのか。初期仏教では、「私」はないが、体と心を構成する要素、五蘊(ごうん)はあるのだと説きました。それが発展して、部派仏教では五位七十五法となり、七十五の構成要素で世界を説明しました。

そして唯識ではさらに細かく分類し、構成要素は百となり、五位百法が説かれました。唯識では、何がこの「私」という思いを引き起こすのかについて、私たちの深層心理の中に、「私」という思いを引き起こすもととなる意識が存在するのだと説きました。それを末那識(まなしき)と言います。末那識についてはまた後日書きます。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/01/06

出家的に生きる人 服部潤氏(書家,詩人)

出家的に生きる人 服部潤氏(書家,詩人)

これは普段私が見ている佐々木閑先生の YouTube から転載です。
世俗の価値観を離れて、自分の道に生きる人を紹介してみえます。

2022/01/05

生きることと読むことと・本物の生き方・春宵十話

生きることと読むことと―「自己発見」の読書案内 (講談社現代新書)  中野孝次

中野孝次が読書について書いたエッセイ集。清貧の思想以来、中野孝次の本を飽きもせず読んでいる。この本には彼が今までにどんな本を読んできたのかということが書いてある。

中野孝次が勧めているのは古典が中心。特に印象に残ったものだけ書いておきます。
「パルムの僧院」スタンダール
「スタンダール」アラン・大岡昇平
「坊ちゃん」漱石
「源氏物語」
「バルザック」アラン
「方丈記」
「徒然草」
「平家物語」
「愚管抄」
「吾妻鏡」
「更科日記」

日本の古典に関しては原典を読んでいる。私も読んでみたいけど、原典は読めない。中野さんは最初からスラスラと読めたかというと、そうではないらしい。解説書を読みながら、少しずつ理解して全部が読めるようになって、そのあと何回も読んだという。私などはYouTubeで見てしまうのだけれど、古典は原典で読まないと良さがわからないのだそうだ。

「正法眼蔵」などの仏教関連になると、道元が作った言葉がたくさん出てくるので、解説なくしては読めないのだという。古典が読めるようになりたいという思いはあるが、戦前の学者が書いたものでもお手上げの私の場合、ちょっと手が出ない。

中野孝次のエッセイ集。中野さんのエッセイに流れている中心思想は、「清貧の思想」と同じ。金や地位を追うのではなく、人として恥ない生き方をするということ。そういう一生を生きた人たちにまつわるエッセイ。

書に関して書いてあるところでは、熊谷守一と中川一政の書がお気に入りだとあった。二人とも画家なので、絵の方は知っているが書の方は良く知らなかった。ネットで二人の書を検索してみて驚いた。

中野孝次さんは、美術や芸術を鑑賞する場合には、自分の中にある審美眼だけを基準として、人の言うことは全く気にしないという。それってものすごく大事だと思う。
調べてみると、熊谷守一も「欲望を追及しない生き方」をした人だとわかった。暖かくなったら、熊谷守一の絵や書を見に行きたい。

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫) 岡潔

岡潔の名前を初めて知ったのは、佐々木閑先生のYouTubeの中です。社会的な地位や金を追及しない人の話の中で出てきたと記憶しています。そしてアバタローの岡潔を見て、ぜひ本を読みたいと思って読みました。

これは岡潔が毎日新聞に書いたエッセイが中心になっているようです。初版は1963年。岡潔は数学の学者ですが、教育で一番大切なことは情緒を養うことだと言っています。情緒を育てるためには、人の気持ちを考えること、人を助けること、そういったことを親や社会が教えること。

この本が書かれたのは60年前で、敗戦から日本が立ち直って高度経済成長の真っただ中のころです。このエッセイでは、戦前の教育を受けた人なら誰もが知っているような神話の話や天皇、論語、仏教の話が引き合いに出されますが、私にはピンとこないような話が多かったです。

戦前の日本の教育では、神話、古事記、日本書紀、論語、天皇、仏教といったことを親や周りの人が子供に教えたと思うのですが、戦後の教育では、そうしたことを教えるのが一種のタブーになっていて、子供をどう教育したらいいのかわからなくなってきているような気がします。

1962年に起きた三河島惨事(死者160人を出した鉄道事故)を引き合いに出して、それは教育上の問題であると言ってみえます。この事故は、脱線の事故処理を手間取る間に、電車から降りて歩いていた乗客を別の列車がはねて、多数の死傷者を出した事故です。

自分の頭でどうしたらよいかを考えるような教育がなされていないのが原因、自分の頭で考えないような教育がなされている、その一因としては、テレビ、雑誌、映画の影響が大きく、そういったものに感情を支配される結果、知覚作用が働かなくなっていると、言ってみえます。(p112)

今から60年前に書かれたことです。前回の東京オリンピックが1964年ですから、テレビもそれほど普及していない頃に書かれたものです。それが60年後の今はどうでしょうか。人々は携帯で映画やテレビを見ている時代です。

状況は当時と比べてどうでしょうか? 人々の意識は当時の何倍も情緒から遠いものになっているような気がします。人々は必要以上に金を求め、テレビ、雑誌、映画どころではなく、四六時中携帯をのぞき込んでいます。

人が困っていても、助けようとはせず、SNSで見せびらかし競争に明け暮れています。これは人のことは言えない。岡潔のエッセイを読んで、情緒とは何なのか考えさせられました。ネットに費やす時間を大いに減らそうと思う今日この頃です。

2022/01/01

唯識① 唯識(ゆいしき)とは

釈尊の説いた教えは、自我を含めて対象への執着を離れよ、ということでした。自我への執着がむなしいことを示すために、五蘊無我説(ごうんむがせつ:個体を構成する五つの要素の上に我(私)は仮に有るとみなされているだけで、本当には存在しない)が説かれました。

釈尊が亡くなって百年ほどたつと、教団が分裂して部派仏教がおこります。そのなかでも有力だったのが説一切有部(せついっさいうぶ)でした。説一切有部は、我(が)は空(くう)であるが、法(ほう)は有るという教えをとなえました。我とは「私」のことで、法とは、構成要素としての物のことです。

部派仏教が経典の研究に明け暮れ、民衆と遊離していく一方で、人間は誰でも釈尊のような仏になることができるという大乗仏教が現れます。大乗仏教として、まず最初に「般若経」にもとづく、空(くう)の思想が起こります。

続いて、ナーガルジュナ(龍樹)に代表される中観派(ちゅうがんは)が起こり、もう一つ大きな学派として唯識派(ゆいしきは)が起こります。唯識派は正式には唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)もしくは瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)と呼ばれます。

瑜伽(ゆが)とはサンスクリット語でヨーガの意味であり、ヨーガ、すなわち瞑想によって真理を体得しようとするもので、唯識(ゆいしき)とは、ただ識(しき:こころ、意識)のみがあるという意味です。

中観派も唯識派も、どちらも空を説き、我も法も空であると説きましたが、唯識派は、とりあえず識(こころ)だけはあるという教えです。中観派は、言葉の誤謬や縁起によって空を説きましたが、唯識派はまた別のやり方で空を説きました。

般若の空の思想では、空があまりに強調され、ともすれば虚無主義におちいる可能性がありました。そのため、ヨーガを実践する人たちによって、少なくとも識(こころ)はあるという思想を起こしたのが瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきは)です。瑜伽行とはヨーガのこと。彼らはヨーガを実践することによって、心の奥深くに私たちが通常は気がつかない意識があるということを発見し、新しい思想を打ち立てました。

唯識思想では、般若の空思想が否定した部派仏教の諸概念を再び採り入れ、それをさらに発展させて独自の思想を形成し、五世紀頃、無著(むじゃく)と世親(せしん)によって体系化されました。

無著と世親は、インドの人で、インド名では無著はアサンガ、世親はヴァスバンドゥで、二人は実の兄弟です。二人とも、ガンダーラ(現在のパキスタンのペシャワール)の出身。その地方で有力だった部派は説一切有部であったため、二人とも最初は説一切有部で部派仏教を学びましたが、あとになって二人とも唯識派に転向します。世親はこのブログの部派仏教のところで書いた阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)の著者でもあります。

無著の代表作は「摂大乗論:しょうだいじょうろん」であり、この書によって唯識説がほぼ組織的にまとめあげられました。世親はこれを受けて、「唯識二十論:ゆいしきにじゅうろん」、「唯識三十頌:ゆいしきさんじゅうじゅ」を書きました。

唯識を理解するためには、無著、世親の書いた原典を読まないといけないのですが、私は漢文もサンスクリット語も読めないので、学者が書いた市販の本を読むしかありません。学術書を読むのは難しく、一般向けに書かれたものだけが対象となりますが、そうした本はそほど多くありません。私が読んだ唯識関係の本は入門書であり、参考文献として掲載したものがすべてです。そうした本をもとにしてこのブログを書いています。

それも、唯識の世界観や思想に関する部分のみであり、修行やヨーガの実践によって段階的に達成する方法については書きません。なぜかというと、それはこのブログの趣旨ではないからです。唯識三年俱舎八年を、入門書を何冊か読んだだけで理解するのは無理な話で、唯識や俱舎の内容の全体を理解しているわけではなく、あくまでも非二元的な部分についてのみです。

インドでは、イスラム国家の成立により、仏教そのものが消滅してしまいますが、唯識の教えは玄奘(げんじょう)などの三蔵法師(三蔵法師とは仏教を中国へ伝えた人々のこと)によって中国へ伝えられ、玄奘の弟子が法相宗を起こします。しかし、中国での唯識も、百年もしないうちに事実上消滅します。

日本へは、玄奘から直接唯識を学んだ遣唐使たちによってもたらされ、奈良時代には、興福寺、薬師寺、元興寺、法隆寺などで、さかんに研究されました。今日でも興福寺、薬師寺は法相宗の大本山となっています。そして、日本に伝えられた唯識思想は、仏教の基本学として宗派を超えて脈々と学ばれ続け、現在に至っています。

さて、唯識とは、読んで字のごとく、「ただ識のみ」ということです。それは、私たちがふつうあると思っている「私」や物は無い、ただ識(心)のみがあるということです。
仏教は、インド古来の思想である梵我一如の思想、つまり、ブラフマン(宇宙の本体)とアートマン(自己の本体)が一つであるという思想を明確に否定し、アートマンなどない、「私」などいない、無我であると主張して登場しました。

大乗仏教では、主体的存在(我)も、客体的存在(法)も、一切、空であると説きます。つまり一切の実体を認めません。唯識では、我、法の実体を否定して、唯だ識のみ、と主張します。

私たちは、ふつう、自分のまわりに、変わらない存在としての「物」があると思っています。(このブログを読んでいただいている方の多くは、物も「私」も実在ではないということはもうすでに理解されていると思いますが、唯識の思想を説明するために、一般論として書きますので、そのつもりで読んでください)

身のまわりを見渡すと、コップ、机、椅子など、壊れないかぎり、ずっとそこにある物にとり囲まれていて、変わらない「物」があると漠然と考えています。一方で、生まれてからずっと、変わらずに「私」がいると思っています。

体は成長とともに変化していきますが、どこかに変わらない私、魂のようなものが存在していると信じています。そこには、不変、不滅の実体がいると思っていて、それにしがみついています。

私たちは、そうした「私」や物が実体のあるものであると考え、それに執着し、たくさんの物や、より良い「私」を手に入れようとします。唯識では、そのような「私」も、物もない、あるのは、ただ識だけだと主張します。その識も、実体としてあるのではなく、説明のために仮にそう呼ばれているものであり、言うならば、空なるものとしての識だというのです。

釈尊のもともとの教えは、「私」や物に対する執着、煩悩を断つということでした。「スッタニパータ」に出てくるように、煩悩の激流を渡れ、ということでした。

物に執着していると、物を求めて物に振り回されて生きることになります。物を手に入れることに一喜一憂し、心が物にとれつかれて、平穏な心が失われます。「私」に執着すれば、同じように、他人より優れた「私」を手にいれようとして、葛藤の日々を送ることになります。

実体としての「私」や物に対する執着を捨てるということは、そうした執着によって失われた自由を回復するということです。それが仏教の目的であり、唯識の目的でもあります。

繰り返しになりますが、仏教では、「私」のことを我(が)と言い、物のことを法(ほう)と言います。この場合の法とは、構成要素として物質という意味です。そして、「私」に対する執着を我執(がしゅう)と言い、法に対する執着を法執(ほっしゅう)と言います。

唯識では、我も法も本来、存在しないということを示して、我執・法執からの解放を説きます。実体としての我、法は存在せず、唯だ識だけがあると教えるのが唯識です。

参考サイト

心の時代へようこそ
「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」「唯識の思想」の著者である立教大学名誉教授 横山紘一先生が、NHKのこころの時代という番組に出演された時の書き起こしがあるサイトです。少し長いので読むのは大変ですが、参考にはなります。766回から771回までの6回のシリーズになっています。

世親 Wikipedia

無著 Wikipedia

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)