セイラーボブは「私は、本来自分であるところの「私は在る」(I AM)に語りかけている」というように使います。(ただそれだけp.111から)
また、ニサルガダッタ・マハラジの「I am that(私は在る)」でも、「私は在る」を使っています。
私は、人間に使う場合は、「いる」を使うべきであり、「ある」はおかしいと思い、私のブログでは(I am)は、「わたしはいる」と訳している場面がたくさんあります。
ところが最近、翻訳の勉強をしようと、昔読んだ本を読み返していて、その中に、「ある」という表現をいくつか見つけました。
「翻訳英文法 トレーニング・マニュアル」安西徹雄/バベル・プレス p.70から
Some birds cannot fly well.
「うまく飛べない鳥もある」
There were a number of girls in the tavern; some were sitting with men, others by themselves.
「居酒屋には女たちが大勢いた。男といっしょにすわっている者もあれば、自分たちだけで固まっている者もいた」
また、注意していると、他でもけっこう見かけます。
「私を待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ」走れメロスから
そこで、広辞苑で「ある」を調べました。
あ・る[有る・在る]
ものごとの存在が認識される。もともとは、人・動物を含めてその存在を表したが、現代語では、動きを意識しないものの存在に用い、動きを意識しての「いる」と使い分ける。人でも、存在だけをいう時には「多くの賛成者がある」のように「ある」ともいう。
セイラーボブが、I am. と言う時は、(自分が存在する)という感覚を表して、I am.と言っているので、「私が在る」という訳が正しいことがわかりました。
ブログを訂正しようと思っていますが、あちこちで「私はいる」と訳した記憶があり、全部読み返さないといけないのですが、諸事情により、すぐにはできません。そこで、ここで、「私は在る」が正しいと書いてお詫び申し上げます。
ああ、日本語は難しい。
「私はいる」でも「私は在る」でも似たようなものだと思いますが、「私は在る」と先人たちが正しく訳しているのに、私はわざわざ直して・・・。反省。
「私は在る」という感覚が、マインドで行ける一番近いところです。どこに近いかというと、「それ」にです。「それ」が「私は在る」という感覚となって、マインドに現れます。でも実際には私はいません。(私は在りません)
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