ボブ:かつては私も、分離した一個の実体、一人の分離した人、まあそういう表現を好むなら、一個の分離した肉体だと思っていましたが、その後、現実を調べていくうちに、そうではないことがはっきりとわかりました。今では、分離した何かがあるという考えにもとづいて何かを行うことさえできません。二元性のベールがあまりにも厚いとあなたは言いますが、観察してみると、そうではありません。私たちは今ここで直接体験していることのシンプルさを見逃しているのです。それは、そういう意識状態に入るとか出るという問題ではありません。意識が存在するすべてであり、それが真実のあなたなのです。あなたはその意識そのものであり、けっしてそこからはずれることはできません。それを探す必要などないのです。では、ちょっとそれから逃れようとしてみてください。気づかないようにしてみてください。
ときどきそれ[自分が意識そのものであること]がわからなくなるとあなたはおっしゃいますが、しかし、そのことを思い出したとき、あなたが覚えていない間、あなたは消えていたわけでも崩壊したわけでもなかったことに気づきます。それがしばらく見られなかったとか、そこになかったと言うことができるためには、それは何の上で起こったのでしょうか? 意識の外で何も起きることはできなかったはずです。意識は偏在するものなのですから。
私たちは空に輝く太陽を比喩として使うことができるでしょう。たとえ雲が太陽を遮っていても、太陽は空を去ったわけではありませんね? どんなことも太陽が消え去ったことをあなたに確信させることはできません。雲を形成しているのも太陽自身であることを理解してください。太陽が放つ熱が水を蒸発させ、それが雲となり、温められた空気が原因で風が起こります。雲は空に貼りついているわけではありません。だから、それはふき飛ばされるのです。それから、今度はその雲が凝縮して、雨になって降ってきます。太陽はただ輝いていただけなのに、雲ができたのです。
あなたである意識についても同じことが言えます。それは自ら輝いています。一見、思考という雲に意識が覆われている場合もありますが、意識はどこかへ行ったわけではありません。また、心に貼りついて離れなかった思考も存在したことはありません。どんな思考もそこにくっついたことはなかったのです。思考はただ現れては消えるだけです。それなのに私たちは、自分が一個の実体であるという信念の中で、思考に執着するのです。「私」という思考が他の思考につきまとうのです。ですから、思考がいつも思考に対して争ったり、抵抗したりしています。それが葛藤を生み、私たちに分離をもたらしているのです。
質問者:何か別のものを得たいと思うことが、苦しみを生むように思います。
ボブ:そうです。他に何も得るものはありません。あなたはすでにそれなのです。
(「ただそれだけ」p.113)