あなたはトマス・ア・ケンピスの「キリストに倣(なら)いて」から引用されました。それは何でしたか? もう一度お願いします。
愛の力の証が、これ以上強い形で私に示されたことはありませんでした。あなたが作りたもうた存在としての道を踏み外した時、あなたから遠く離れて道に迷った時、あなたはまた私をあなたに仕えるよう戻してくださり、あなたの愛し方を教えてくださいました。
(ここの翻訳は正確ではないかもしれません。セイラーボブが引用しているのは、
The Imitation of Christ by Thomas a Kempis「キリストに倣いて」の3巻、Of inner comfortの中の、”when I had no being you made me; that when I strayed far from you, you brought me back again to serve you, and you taught me how to love you.”という部分です。日本語版が手元にないので、どう翻訳されているのか知りません)
ええ。もちろん、力についての概念は人によりますが、それが本質の自然な状態なのです。それに気づいた時はいつもそうなのです。
天に何者かがいるということではないのですね。
誰もいません。天にあることは、いつでもどこにでもあることです。
あなたの手や足よりも近くにある。あなたの心臓よりも近くにある。
ボブ、思いやりについて話してくれますか。というのも、多くの人は非二元を何か温かみのない、超然としたもののように誤解しています。でもそうではありません。
献身は二つのやり方で表現されます。万物を愛することと、思いやりです。そしてその二つが、すべてのものの本質の中にあります。そこに思いやりがなくて、どうして愛することができるでしょうか。そこには分離はなく、思いやりは献身の自然な現われです。
聖典では、汝自身を愛せ、汝の隣人を愛せと言いますが、もし自分のことを愛せないなら、どうして隣人を愛することができるでしょうか。
思いやり、愛情はすべてのものの中に現れています。思いやりは、学んで身につけるようなものではありません。それは、誰にでも自然に備わっているものです。そして誰もがそれを経験しているはずです。
(一部聞きとり不能な箇所を割愛しています)