2025/08/29

何がそれをしているのでしょうか?

ボブ:思考は見ることも聞くこともできません。思考は何もできません。では、思考によって生み出された存在が一体何をできるというのでしょうか?
では、何がそれをしているのでしょうか?

その生命のエッセンス、それがあなたを呼吸させ、心臓を鼓動させ、あなたを生かしているのです。それが思考を引き起こし、壁に絵を描いたり、何かにネジを締めたり、本を書いたり、あなたが今しているどんなことでも引き起こしています。

そして私たちは「私たち」がそうしている、「私」がそうしている、この思考が作り上げたイメージがそうしていると思っています。しかし、思考が作り上げたイメージは何もできません。
その生命のエッセンスこそがあなたを生かし、あなたの心臓を鼓動させているのです。
それがすべてをしているのです。
あなたはその生(life)なのです。

2025/08/26

それは実在ではないのです

ボブ:あなたは今見て聞いています。でも、「私は見ている」という思考は見ることができません。そのイメージは見ることができません。「私は聞いている」という思考は聞くことができません。「私は気づいている」という思考は気づきにはなり得ません。

思考には見る力も聞く力もなく、何かをする力はありません。思考がやっているのは翻訳したりラベルや言葉を貼りつけたりすることだけです。それが思考の能力であり、思考にできることの全てです。

しかし、私たちは思考が作り出したものを実在だと信じてきました。それが「私」だと信じてきました。私はボブ、オーストラリア人、いい人、そうでもない人、自尊心が低い、恐れを抱いている、落ち込んでいる。何年もかけてこのイメージを作り上げてきました。そして、信念のエネルギーが絶えずそこに注ぎ込まれ、それは一見具体的で、確かなものに見えます。
なぜなら、それが真実かどうかを確かめることがなかったからです。

しかし、調べてみると、それは崩れ去ります。
なぜなら、そこには何もないことがわかるからです。
それは実在ではないのです。

2025/08/22

「私」は虚構だということを調べてみるということです

ボブ:あなたはあれやこれや信じています。辞書的な定義で「信念」とは、理由もなく何かを疑うことなく受け入れること、確かな知識や証拠なしに事実とされるものを受け入れることです。確かな知識や証拠なしに物事を受け入れるのではなく、疑ってみてください。調べてみると虚偽は調査に耐えられなくなります。そして、信念は崩壊するのです。

質問者:つまり、「私」という信念の感覚に何度も立ち返れということですね。

ボブ:「私」は虚構だということを調べてみるということです。「私」とは、純粋な知性エネルギーにあなたが付け加えた一連の思考に過ぎないということを。「私」が見て「私」が聞いているというように、あなたは自分が何者かであるという概念的なイメージ、信念の集合体を身に着けてしまったのです。

2025/08/19

あなたが絶対的に確信できる唯一の現実は、自分自身が存在しているという事実です

ボブ:「見る者と見られる者」という概念は、一見、単一の「見る」ことを分割しているように見えます。しかし、それは「見る」という行為をいかなる形でも妨げてはいません。「見る」という行為は今も続いています。
しかし、私たちの在り方、そして私たちが抱いてきたあらゆる信念によって、私たちは「見る者」と「見られる者」、主体と客体、つまり二つのものが存在すると信じています。それが二元論です。私たちは二元論を非二元性の中に持ち込んでいるのです。

質問者:結局のところ、それが「私」が見ているという信念なのです。どうすればそれを乗り越えられるのでしょうか?

ボブ:そうですね、信念を見つめてみましょう。すると、信念は現実ではないことが分かります。信念は現実ではないことを認識するのです。あなたが絶対的に確信できる唯一の現実は、自分自身が存在しているという事実です。

2025/08/17

3 months later... Pointers on S with few snippets of Bob's life 2016-2021


S-START(始める)
ボブ:真実から始めてください――あなたが今この瞬間にそう認識しているかどうかのかかわらず――「あなたはもともとそれなのです」。何かや誰かになろうとして探求する必要はまったくありません。もしあなたが今、もともとあなたはそれなのだということを受け入れるなら、うわべ上でそれを見えにくくしているのは何なのかに気づくだけでいいのです。私たちがここで話しているのは非二元についてです。一なるもの、非二元、二つではないもの。あらゆるものが、その一つものです。もっと正確に言うなら、一つでさえないのですが、それはまた後にします。今、あらゆるものはそれです。何も除外されておらず、あなたも除外されてはいません。SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality

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これは三ヶ月前に公開されたものです。お馴染みのポインター満載です。

2025/08/15

マインドは敵ではありません

ボブ:マインドは敵ではありません。それは便利な道具です。
でも、理解されないとそれは自己破壊的になります。
なぜなら、その同じマインドが私たちにこう言うのです。
「私は十分じゃない」「私は恐れている」「私は不安だ」「私は幸せではない」「私はうつ病だ」と。
マインドはそれらの概念を生み出し、それに信念というエネルギーが注がれると、それが本当のように見えてくるのです。

質問者:見る者と見られるものは、実は「見るということ」そのものなんですね。
マインドにとっては、それはとても神秘的に感じられますが、実はとても普通のことなんですね。

ボブ:見る者と見られるものは、私たちが「見るということ」に対して与えた概念にすぎません。
ただの概念です。
でもそれは、「見るということ」をまったく妨げてはいません。
どんな形でも、見るということはちゃんと起っています。

2025/08/12

あなたは思考よりも先に存在しています

質問者: つまり、それはマインドを超えた別の概念ということですか?

ボブ: いえ、それは事実です。あなたは思考よりも先に存在しています。
それを理解してください。
もしあなたが何も考えていない時でも、あなたは思考より先に存在しているのではないでしょうか?
それはマインドを超えているということではないでしょうか?
そうすると、純粋な知性と思考の違いが分かります。思考が一時停止したり、止まったりしても、あなたは依然としてすべてのものを見ていて、知っています。
あなたは依然として、ラベルを貼ることなく、すべてのものを聞き、知っています。
そこへマインドが入ってきて、すべてにラベルを貼るのです。

2025/08/09

6 months later... Pointers on S and A plus snippets of his life in 2022-2023


S-Separation. Split.(分離 分割)
ボブ:私たちに推論する力がつき始めると、分離の感覚がやって来ました。「私」という思考がやってくるやいなや、その反対、「私ではないもの」や「私以外」がやって来ました。それとともに、分離したものと、「私」以外のものを信じるようになりました。

他にもたくさんのポインターが出てきます。

2025/08/08

エンライトメントなどというものはありません。それは作り話です。

エンライトメントなどというものはありません。それは作り話です。もし「私」がいなければ、もしここに(自己の)中心がなければ、そこに分離はありません。もし分離がないのなら、誰がそこにいるのですか、つまり、誰がエンライトメントするというのですか?
                                  セイラーボブ

2025/08/05

常に存在していたのは、ただ一つの本質だけなのです

ボブ:「見る」ということと同様に、「思考」もまた同じ構造を持っています。
たとえば「私は見ている」「私は椅子を見ている」という思考が浮かぶとき、
そこには概念的な分離が生じているように見えます。

しかし実際には、そのような分離が生まれる前に、
ただ「見るという行為」が起きているのです。
「見る者」は、「見る」という行為がなければ存在できません。
「見られる対象」も、同様に「見るという行為」がなければ存在し得ません。

「思考」についても同様です。
「考える者」は、「考える」という行為がなければ存在せず、
「思考」そのものも、「考える」というプロセスがなければ成り立ちません。

したがって、私たちはこの現実そのもの、
すなわち「〜している(–ing)」という現在進行の事実の中に留まるべきなのです。
「考えている」「見ている」「聞いている」——
これらは、まさにこの瞬間に実際に起きている出来事です。

それは、「これから考える」「かつて考えた」「考えられない」といった、
過去や未来の事柄ではありません。

「〜している(–ing)」というのは、今この瞬間に起きている活動のことです。
今、あなたは見ています。聞いています。観察しています。
味わい、触れ、匂いを感じているのです。

「生きているということ」は、まさにこの瞬間に存在しているのです。

そして、もし私たちがそれを概念によって分離しなければ、
それこそが「現実(アクチュアリティ)」であると言えるでしょう。
仮に分けてしまったとしても、それはあくまで概念による見かけ上の分離に過ぎません。
概念によって、この現実そのものが実際に分かれたことはないのです。

そもそも、「二つ」に分かれたことなど一度もなかったのです。
常に存在していたのは、ただ一つの本質だけなのです。

2025/08/01

そう分けているのは、あくまで概念に過ぎません

質問者: 観察者によって創られる現実というのはどうでしょうか?
もし観察者が何かを探していれば、それは見つかります。
それは思考によって作り出されたものです。
なぜなら観察者、あるいは目撃者は、結局はマインドの一部だからです。

ボブ:観察者というのは虚構です。
観察者とは、「観察している」と信じ込まれている存在です。
そして次のような思考が湧きます――「私はこれを観察している」と。
あなたは主体、つまり観察者を創り出しているのです。
そして、これが何であれ、それを客体として創り出しているのです。
でも実際には、ただの「観察」という働きがあるだけなのです。
そして気づくのです――観察なしには観察者は存在し得ない、と。
そして観察されるものも、観察がなければ存在し得ない、と。
だから、実際に起こっているのは「機能(functioning)」、つまり「観察という働き」そのものなのです。
それは観察者と観察されるものに分かれているわけではありません。
そう分けているのは、あくまで概念に過ぎません。

2025/07/29

それは思考より前に存在しています

ここには素のままの意識(naked awareness)があります。それでもあなたはここにいて呼吸し、見て、聞いて、味わい、触り、匂いを嗅いでいます。機能は依然として続いています。
しかし、もしあなたが思考を一時停止したら、思考はその瞬間に止まります。その瞬間、あなたは自分が思考以前にあることに気づくはずです。なぜなら、生(livingness)は思考より前にあるからです。
そして、すべての思考はその基盤の上で起こっていることに気づくでしょう。
それは思考より前に存在しています。
そしてまた次の思考がそこに入り込んできます。
もしあなたがその思考そのものなら、思考を止めたら、あなたは完全に終わりを迎えるはずですが、そうはなりません。
あなたはそのことを気づき始め、自然と一時停止が始まります。そして、それは「そこへは行くな」とか「完全に停止」とか「これは単なる概念だ」といった思考として浮かんでくるかもしれません。
まるで風船を針で刺すようなものです。思考に込められた意味は消え去り、散り散りになります。そしてしばらくすると、あなたはそれらのことを考える必要さえなくなるでしょう。それは自然な反応となるでしょう。
                                    セイラーボブ

2025/07/25

そこには「素のままの意識(naked awareness)」があるだけです。

質問者:私はそれが私の中にプログラムされている思考につながっているのだと思います。たぶん私はかなり管理された家庭で育ったんだと思います。私にとってすべては「コントロール」されています。
じゃあ、ネガティブな思考とか、そういったものをどうすればいいんでしょうか?
何度も読んだんですけど、「それをエネルギーとしてとらえる」といいらしいですね。
思考をただ通り過ぎていくエネルギーとして見る。
私はそれを観察していると自覚しているので、多少は距離が取れてる感じがします。
でも、それでもなお執着があるんです。
思考が起こる前に体がその感情を先に感じ取ってしまうんです。

ボブ:まさにその通りです。
思考、感覚、感情というのは同じものの三つの異なる側面なんです。
今すぐ涙が出てくるなんてことはないでしょう?
まず思考が浮かぶ——それがどこから来るのかはわかりません。
その思考がしばらくそこにとどまる。
そして次に「感覚」がやってくる。それも少しの間そこにある。
それから「感情」が出てくるんです。
私たちはそれを何度も何度も繰り返してきたので、感情が現れたとき、実はその前に思考があったことに気づかないのです。
まず「すべては思考に基づいている」と気づくことが大事です。
それに、私はこう言いましたよね——あなたはもう思考を眺めることに疲れている、と。
「フルストップ」を試したことはありますか?

質問者:考えるのをやめるということですか?

ボブ:そうです。ただ止めるんです。止めて、見てみてください。
思考を止めたとき、それを見てください。
思考がなければ、それについて何が言えますか?
すると気づくのです。
それは良いものでも悪いものでもない。
快でも不快でもない。
何のラベルも貼れない。
そこには「素のままの意識(naked awareness)」があるだけです。

2025/07/23

佐々木閑 仏教講義 11「唯識 その9」(「仏教哲学の世界観」第14シリーズ)


唯識が世界や個人をどのように考えていたのか、とても参考になると思うので備忘録として残しておきます。
佐々木先生は難しい仏教用語を使わずに説明されるので、とてもわかりやすいです。

2025/07/22

何かを変えようとしたり、努力する必要はありません

ボブ:調べてみると、抵抗があることに気づくでしょう。でも同時に、「無抵抗」でいようとすることもできないと認めることになります。それもまた一種の努力、つまり「抵抗しないようにする努力」になってしまうからです。

でも、抵抗を認識するということは、それを“反対側”から認識しているということになります。もし完全に抵抗していたら、それに気づくことすらできません。

「今、抵抗が起きているな」とか、「コントロールしようとしているな」とかに気づく時、
それは“コントロールしない立場”から認識していることになります。

それで十分です。何かを変えようとしたり、努力する必要はありません。ただ、反対側から認識するだけでいい。そうすれば、抵抗はどこにも居場所を見つけられなくなります。

2025/07/20

佐々木閑 仏教講義 11「唯識 その8」(「仏教哲学の世界観」第14シリーズ)


この話はとてもおもしろかったです。世界を見ているものは何なのか? それはモヤモヤしたもの。全然説明できないところがいいですね。唯識の世界観はなぜか納得してしまう説得力があります。説き方は全然違うのですが、非二元と同じことを説いています。

2025/07/18

「私」を手放すことは自然と起こります

質問者:手放すことに関して、私もまったく同じ問題を抱えています。あなたが話していることは、まさに今の私の状態です。「私」という存在をどこにも見つけられないという気づきがあって、すごく怖くなったんです。でも、完全に手放すことにはまだ抵抗があります。なぜなら、「私」というものが、自分が誰かに悪いことをするのを制御している存在だと思っているからです。

ボブ:同じことを言う人はかなり多いですよ。「自分が人を殺してしまうんじゃないか」って。でも、なぜそんなことをすると思うんですか? 今までそうしなかったでしょう? もしあなたの本質にそれがないのなら、そんなことはしないはずですよ。それに、あなたはもう手放しかけているんじゃないですか? 何が起きましたか?

質問者:まだ、自分の内側にある「コントロールを失うことへの恐怖」に抵抗を作ってしまっているんです。

ボブ:ひとつのことに気づけば、それは他のことにも広がっていきます。その一歩を踏み出すことへの恐れもなくなります。そこが重要なポイントです。探求して、何かが「偽りだ」と見抜いたら、もう二度とそれを本気で信じることはできません。だから、「私」を手放すことは自然と起こります。続けてください。

2025/07/15

手を放せ!

ボブ:そして私たちは、自分が身につけたもの、つまり概念的なイメージ、あるいは自我と言うものにしがみつくのです。崖から落ちた男のように。男は小さな木にしがみついてぶら下がっています。そして叫びました。

「助けてくれ!助けてくれ!上に誰かいるか?」。すると、声が聞こえてきます。「ああ!ここにいる」。男は尋ねます。「どうすればいいですか?」。すると、声は言います。「手を放せ!」。彼は周りを見回し、「他に誰かいないのか?」と叫びました。

私たちはこの自己中心性を手放します。それでどこへ落ちていくというのでしょうか? 人々はそんなことをすれば私たちを取り巻く世界が崩壊すると考えています。しかし、決してそうはならないと保証します。他の人たちもあなたに同じことを言うでしょう。

2025/07/13

佐々木閑 仏教講義 11「唯識 その6」(「仏教哲学の世界観」第14シリーズ)


外側の世界が実在するのかどうか。
ますますおもしろくなってきました。