ボブ:「見る」ということと同様に、「思考」もまた同じ構造を持っています。
たとえば「私は見ている」「私は椅子を見ている」という思考が浮かぶとき、そこには概念的な分離が生じているように見えます。
しかし実際には、そのような分離が生まれる前に、
ただ「見るという行為」が起きているのです。
「見る者」は、「見る」という行為がなければ存在できません。
「見られる対象」も、同様に「見るという行為」がなければ存在し得ません。
「思考」についても同様です。
「考える者」は、「考える」という行為がなければ存在せず、
「思考」そのものも、「考える」というプロセスがなければ成り立ちません。
したがって、私たちはこの現実そのもの、
すなわち「〜している(–ing)」という現在進行の事実の中に留まるべきなのです。
「考えている」「見ている」「聞いている」——
これらは、まさにこの瞬間に実際に起きている出来事です。
それは、「これから考える」「かつて考えた」「考えられない」といった、
過去や未来の事柄ではありません。
「〜している(–ing)」というのは、今この瞬間に起きている活動のことです。
今、あなたは見ています。聞いています。観察しています。
味わい、触れ、匂いを感じているのです。
「生きているということ」は、まさにこの瞬間に存在しているのです。
そして、もし私たちがそれを概念によって分離しなければ、
それこそが「現実(アクチュアリティ)」であると言えるでしょう。
仮に分けてしまったとしても、それはあくまで概念による見かけ上の分離に過ぎません。
概念によって、この現実そのものが実際に分かれたことはないのです。
そもそも、「二つ」に分かれたことなど一度もなかったのです。
常に存在していたのは、ただ一つの本質だけなのです。