2024/02/27

自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない

探求のどの段階においても、根本的な視点が見落とされている。それは、<意識>である<あなた>によって演じられている個人こそが、まさにずっと探し求めているものだということだ。探求者が何をしたところで、自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない。
                    ネイサン・ギル(すでに目覚めている

名古屋ゲートタワー 巡回警備ロボット

2024/02/23

すでにはっきりと目覚めている

生という劇は、<あなた>が指揮しながら<あなた>が見ている<あなた>とは別の創作物ではない。<あなた>──<意識>──は、この瞬間に劇として現れていて、すでにはっきりと目覚めている。だから目覚めることなどできない。<あなた>は<あなた>自身にはいつでも明白だ。隠されていることはない。
                        ネイサン・ギル(すでに目覚めている)

名古屋マリオット(大治町のつるし雛

2024/02/21

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その3」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

 

いきなり興味深い話から始まりました。
話が非二元そのもの。この先が楽しみです。
全部を転載するわけにはいかないので、今後はあまり転載しないようにするつもりです。
もしよかったらフォローしてみてください。

2024/02/20

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い」

佐々木閑先生のYouTubeチャンネルで新しいシリーズが始まりました。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その1」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その2」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
 

 ミリンダ王の問いについては、このブログでは中村元先生のYouTubeを掲載したことがあります「2021.10.30 初期仏教 無我・五蘊(ごうん)」。そのYouTubeで見るかぎり、ミリンダ王の問いは非二元の教えの意味あいの強いものでした。

初期仏教には五蘊(ごうん)という基本概念があり、人間は五蘊という五種の要素(色・受・想・行・識)でできていて、そのどこにも個人としての「私」は存在しないというものです。

そのミリンダ王の問いを、佐々木先生がシリーズで解説してくださいます。どんな話になるのか楽しみです。すでに、その2ではその片鱗が語られています。もしよかったらフォローしてください。

2024/02/16

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

この本は今まで読んだ非二元の本の中でも、とりわけ素晴らしい内容でした。最初から最後まで、いわゆる「行為者の不在」について説かれています。私たちは、「私」という存在が実在であるという催眠にかかっていて、それが人生というものを生きているように思っているが、実際には「私」はおらず、起こっていることは単なる劇のようなものだと言うのです。

最初の29ページが書下ろしになっていて、残りのページはミーティングの参加者との対話となっています。最初の29ページにネイサンのメッセージが凝縮されていて、あとの対話がその補足説明のような体裁になっています。本全体を通して、「私」は催眠によるものであり、実在しないということだけを説いています。あれもこれも説明するのではなく、「私」は実在ではないということだけを説いて、これだけ的を得た非二元の本となっている点は素晴らしいと思います。内容もよくてわかりやすい。

ネイサンは探求の途中で、いわゆる一瞥体験、自分がいないという体験をしますが、すぐに「私」が戻って来て混乱します。やがて、自分の本質は意識であるという理解に至り、どんな出来事も必要ではないという思いにたどり着きます。

本の紹介のために抜粋させていただきます。

p11から
 自分の本質を認識するのにどんな「出来事」も起こる必要はないとトニーは言っていた。そしてそのころ、1998年の9月にある事が起こった。僕は庭仕事をしていて、霧雨が降っていた。見上げると、「自分」がいないという微妙な感覚があった。自転車に乗って道を走りだすと、それはまるで映画のような感じだった。自分では何もしようとしていないのに、ひとりでに映画が進んでいるような。
「自分がそうやってふいに脱落してしまうと、理解したいという欲求はすっかり消え去った。自分の本質が<意識>だということを認識するのにどんな出来事も起こる必要はないとトニーは言っていたが、それでも僕がそういう出来事をどこかで待ち望んでいたのは明白だった。というのも、この出来事、この経験が起こったとき、それを僕は「目覚めの認可」としてとらえたからだ。自分でも気づかずに、自分の本質を確認してくれる何かが起こるのを待っていたのだ。
 僕はトニーに電話して、何が起こっているかを興奮気味に説明したが、「目覚めの認可」が起こったことで、言葉は「僕」の観点からではなく明晰さから生じていた。もはや僕が何かを手にしょうとしている分離した個人という視点──つまり探求と理解という観点から話しているわけではないことが、トニーにも伝わった。
 時間がたつにつれ、「僕」が巧妙に戻ってきて、この出来事──それはまさにその「僕」の不在だったのだが──は「僕」の悟りであり、「僕」の目覚めなんだと主張しはじめた。突然起こった解放感──「僕」がいない状態で生じた至福の感覚──に注意が集中した。その解放感こそが、ずっと待ち続けていた悟りなんだと。
 翌朝、目を覚ました。まだあるかな? ある! そしてそれから何日かすると、解放感が少しずつ消えつつあることに気づいたが、数日たつとその感覚は再び完全に戻ってきた。その感覚が戻ってきては消え、それから「僕」がまた現れて自分の不在という状態にしがみつこうとしたりするのが何週間か続いたあと、僕はトニーのミーティングに行った。そこにいると、至福の感覚がまた溢れてくる感じがした。けれども数日後にはすっかり消え去って、そこでまた「僕」としての催眠状態が起こった。トニーには何も言わなかったし、しばらくはミーティングにも行かず、僕は困惑していた。
 それから、「私」の不在が何年も続いた経験についてある女性が書いた本を読んだ。その経験のしばらくあと、その女性は「先生たち」から、それは悟りだと言われたという。やがて彼女は病気になって亡くなったが、彼女の友人が本に寄せたあとがきを読むと、亡くなる前にその出来事が終わってしまい、「私」が戻ってきたせいで、彼女は混乱して苛立っていたということだった。
「私がいきなり消えてしまうという出来事は、明晰さについて言えばむしろひどい混乱につながりかねないということが突然わかった。出来事は数秒で終わったり、10年かそれ以上続いたりするかもしれないが、「私」とは何かということ──単なるひとつの思考だということ──を理解せずにいると、「私」が戻ってきたときに、何かを失ったような感覚になったり、個人と同一化した状態に再び閉じ込められたような感覚に陥ったりする。個人と同一化していると、こうした「悟り」をもっと求めようとする感覚が生じて、探求という劇の興奮と緊張の中に戻った感覚も出てくる。
 そんなわけで、生のすべては大いなる劇なんだということがわかった。知だけが存在しているが「私」という思考、そして「私」のストーリーのように感じられるいろいろな思考による催眠のために、この知は見かけ上は隠されて見えなくなっている。<意識>としての僕たちの本質は、気づきであると同時に現れでもある。「私」というのはほかのあらゆるイメージと同じで、景色の単なる一部なのだ。その事実が見抜ければ、あるいはそれをありのままに見られるようになると、探求も緊張も自然に消え落ちる。
 もうひとつわかったのは、「私」を見抜くということは必ずしも突然の出来事として起こるとはかぎらず、生という劇の一部としてゆるやかに起こる場合もあるということだった。そうしたケースでは、溢れる至福という形ではなく、存在することの自然な気楽さが徐々にゆるやかにあきらかになる。
 混乱は消えた。自分の本質が<意識>だということを証明するためのどんな出来事も要らなくなり、「僕」が突然脱落する必要もなくなった。自分の人生も「スピリチュアル」な探求のすべても、<意識>の中の劇として生じているということは明白だった。そして、こうしたことすべてをめぐる混乱の意味、「霊性」や「悟り」が単純な明晰さとなぜ取り違えられてしまっているのかを理解した。自分の本質をそうやって認識することは、どんな出来事とも関係なかった。明晰さ──「私」や思考のストーリーの本質を見抜くこと──がなければ、どんな出来事もたちまち混乱のもとになってしまうこともわかった。
 庭で起こった出来事に特に重大な意味はないこと、どんな出来事にも意味がないことはあきらかだった。その出来事が起こったことで混乱状態が極限にまで達して、「認可」としての出来事が起こるのを密かに待っていたことがはっきりしたというだけの話だ。この明晰さは、「私」がいるかいないかによって左右されることはない。「私」が現れたとしても、それはありのままに見られるだけだ。
 この短いストーリーの締めくくりに。スピリチュアルな探求をしているあいだに僕は離婚し、結婚してまた離婚し、二人の娘が学校に通っていたころはほとんどひとり親だった。ケント州の小さな村に落ち着いて、健康状態は万全とはいえないが、最近まで地元で庭師として働いていた。いまは穏やかに簡素に暮らしている。

p29から
 ずっと探し続けていたものは、じつは探している主体そのものにほかならないということがわかった。究極の目標、究極の賞品は、じつはすでにあるものだったのだ。見つけるべきものも、見つける人も存在していない。気づきがあって、気づいている人はどこにもいない。はじめからずっと、<あなた>は<あなた>自身の壮大な冗談の標的だったのだ。どこを見てもどこを探してもそこにある壮大な現れ、単に<あなた>自身の劇か、もしくは存在しているという夢だ。何も存在していないし誰も存在していないが、気づきがあって、それによってすべてが現れている。この平凡は男性あるいは女性という現れもそのひとつだ。<あなた>は今、そしてこれまでもずっと、完全に目覚め、気づき、今を生きているが、<あなた>自身の壮大な劇の催眠にかかっているだけなのだ。
 ネイサンという登場人物は平凡な人生の中で、問題、試練、退屈と思えるものから逃れようとして悟りを求めた。平凡な人生は変わらず続いているが、今あるということから注意が逸れることはなくなった。非凡さの追求は終わった──生はただあるとおりにある。

質疑応答の中にも、引用したい箇所がたくさんあるのですが、引用するにはどれも長すぎます。これ以上引用すると、しかられてしまいそうです。素晴らしい内容なので、是非とも読んでください。

ネイサンは、この劇の全体に気づくと、生きることが気楽になると言っています。他の非二元の教師のように、「愛」や「至福」と言う言葉を使わずに「気楽になる」という表現がとてもしっくりきました。そしてそれは、たいていの人にとって、ゆっくりゆっくり起こることだと言います。もちろん、日常を生きていくために「私」という感覚はあるものの、「私」はいないと理解している状態だと言います。

非二元の教えを理解しても、悩みがたちどころに消えるということはありませんし、もう二度と問題が起こってこないということもありません。肉体がある以上、病気にかかることもあれば、日常生活での悩み事も相変わらず起こってきます。でも、非二元の教えを理解したなら、そうした問題にどっぷりと巻き込まれることはなくなり、「気楽になる」というのが適切な表現ではないかと思います。

ネイサン・ギルは衰弱性の病気にかかり、最後はみずから死を選んだそうです。まわりの人の話では、とても穏やかで静かな死だったそうです。思うに、それは非二元を生きたからこその穏やかな死ではなかったかと想像します。

タイトルの「すでに目覚めている」がネイサンの最も言いたいメッセージです。私たちはもともと目覚めています。なすべきことは何もありません。「私」という劇の催眠を見抜きさえすればいいだけです。それも「私」がすることではなく、起こってくることです。この本はすばらしい。ぜひ読んでください。

Amazonの著者紹介から
著者について
ネイサン・ギル Nathan Gill
1960年イングランド生まれ。建設、園芸に携わったあと、非二元についての
対話の集まりをロンドンおよびケントで展開し、
わかりやすく鋭いメッセージが人気を集める。2014年没。
他の著書に"Being : The Bottom Line"(2006年)がある。

古閑博丈さんのブログにネイサンの記事がいくつかあります(記事の末尾の「関連」からもいくつかのネイサン関連の記事にアクセスして読むことができます。

ネイサン・ギル関連YouTube(本人のチャンネルではないようです)

2024/02/13

気づきがあなたの自己です

経験に限らず、どこかの場所で起こることは何もありません。ものごとは気づきの中で起こりますが、その気づきがあなたの自己です。分離していない、あらゆるものの自己なんです。
         グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?)

1/31春日井市都市緑化植物園にて

2024/02/09

では、さとりとは何ですか?

気づきとしての自分の本質にはいちども分離が起こったことはないと揺るぎなく理解することです。悟っている、悟っていない、その違いが消えること、それが悟りなんです。
          グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?

紅梅(1/31 春日井市都市緑化植物園にて)

2024/02/06

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

この本の副題は「ダイレクトパスの基本と対話」となっています。私はダイレクトパスという言葉の意味を知りませんでした。そこで、それは何かということで、p188の「訳者のあとがき」を引用させていただきます。

 ひとことで言うと、この本はダイレクトパスの入門書だ。シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンが生んだ、現実の本質や自分の本質を誰でも直接確かめることができる方法。それがダイレクトパスだ。
 ダイレクトパスという名称は、「自分とは誰か」「自分とは何か」を問いつづけるラマナ・マハルシの自己探求を指すときにも使われることがあるが、アートマナンダのダイレクトパスでは、問い続けるというよりも実際の経験を具体的に確認していく。自分という人間やティーカップのような物体を含め、存在しているように感じられるものを調べる。

シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンはラマナ・マハルシとほぼ同時代を生きたインドのグル(アドヴァイタ)だそうです。(Wikipedia

本書は、最初の三分の一がグレッグの書下ろしになっていて、後半の三分の二はグレッグと参加者の対話が収録されています。
タイトルの「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」の、気づきの視点に立つというのはどういう意味なのかを最初に説明しています。

p12
 気づきは「意識」と呼ばれることもある。気づきと意識というふたつの言葉は、ここで扱う教えでは同じ意味を持つ。気づきは「存在」と呼ばれることもある。これは気づきが非実在でも空虚でもないということを表わしている。気づきは「知識」という言葉で呼ばれることもあるが、それは気づきによって無知が消えることを伝えている。また、気づきは「愛」と呼ばれることもあり、これは気づきが開かれていて、魅力的で寛容で親密で、そこには制限も苦しみもないという側面に注目した表現だ。

以前のブログで、「気づきと意識」について書いたことがあり、私の場合は「気づき」という言葉が苦手でした。ここでも、「意識の視点に立ってみたらどうなるんだろう?」というタイトルの方が人によってはわかりやすいような気がするのですが、そうすると後に出てくる「意識」という言葉とダブってしまうために、「気づき」とされたのだと思います。あるいは、実際にはその視点に立つ「人」は実在ではないけれども、実験的にその視点に立ってみようという意味で、「気づき」という比喩的な表現にされたのかもしれません。原題は「Stand as awareness 」となっています。

p20
どのように気づきの視点に立つのか?
 まずできるのは、二十四時間どこをとっても、そのほとんどのあいだ自分がすでに気づきの視点に立っているのを認めるということだ。たとえばさきほど挙げたような、主体と対象のあいだの隔たりが経験されていない時間がそれだ。

そして、気づきの視点に立ったあと、いくつかの実験によって、物が実在なのか、それとも単なる気づきなのかということを調べていきます。最初はコーヒーカップです。コーヒーカップを見て、それを見る時、何が経験されているのかを調べていきます。するとそれは、視覚であり、色と輪郭であるとわかります。色と形を経験することによってコーヒーカップを認識しているが、実際にコーヒーカップそのものを認識しているのではなく、単に色と形を認識しているにすぎない。それは、単なる気づきの中のものだということを理解します。

今度は、同じ実験を体を見ることによってやります。体の中に気づきがあるのか、気づきの中に体があるのかを調べていきます。すると、体は気づきの中にあるのであって、体の中に気づきがあるのではないということがはっきりします。同じ実験を心(マインド)についても行います。そうやって次々に実験をしていって、そこにあるのは気づきだけであるということを体験します。この手法をダイレクトパスと呼んでいるようです。

私はここまで読んだところで、これはどこかで読んだことがあるぞと思いました。これは仏教の唯識のところで出てきた説明とよく似ています。唯識では、ただ識だけがあるというところを、グレッグ・グッドは気づきだけがあると説明しています。

そして、どんなものも気づき以外のなにものでもないと感じられるようになった状態を、「観照が実現した状態」と呼んでいます。そして、観照がしっかりと定着すると、観照は純粋意識へと消えてなくなり始めると説いています。観照を崩壊させる実験で、観照を崩壊させる方法を説いていますが、このあたりはちょっと難しいところで、まるで中観(ナーガルジュナ)の説明を読んでいるような印象を受けます。ここも、その説明の仕方が中観のそれとよく似ています。

グレッグ・グッドは大乗仏教にも造詣が深いそうで、おそらく唯識や中観派の教えの影響を受けていると思われます。仏教ではダイレクトパスより二千年も前に同じことを説明していますが、グレッグ・グッドのすばらしいところは、同じ内容を現代の人向けにわかりやすく説明しているところにあると思います。

そのあとは対話集になっています。対話の中で、質問者から、グレッグの悟りはどのように起こったかという質問がありました。それに対してグレッグは、最初は観照が起こり、最後にはそれが純粋意識の中へ消えていくという二段階の経過で起こったと説明しています。このくだりは、注意深く読まないと、グレッグ・グッドにエンライトメント、あるいは覚醒が起こったと勘違いしてしまいます。

これはあくまで理解の過程を説明しているにすぎません。純粋意識とは、それを何と呼ぼうと私たちがもともとそうである普通の意識のことです。純粋でない意識なんてありません。
そして、その理解がどんな風に起こるのかは人様々です。私たちがグレッグ・グッドと同じ道筋をたどらなくてはいけないということではありません。これは毎回言うように、健康食品の広告の但し書きと同じで、「個人の感想です」。何かのきっかけで理解したと思う人もいれば、自然に理解したと思う人もいると思います。

p147
(質問者)あなたのように、そう確信できるようになる方法はあるんですか?

(グレッグ)とても真剣に調べることです。私が言っている気づきは脳の働きではありません。この気づきは、すべての見かけがそれに対して現れているそれなんです。気づきから遮断されているときを見つけられますか? 気づきがないときがあるでしょうか? 熟睡しているときでもあなたは気づきとしてあって、対象が存在しないという事実を認識しています。気づきは存在しています。あなたが存在なんです。

この本は、物は実在か、世界は実在かということを体験的に理解したいという人にはとても有効な本だと思います。こうした実験的な方法が自分には合うだろうと思われる方は、グレッグのもう一冊の本、ダイレクトパスにはたくさんのエクササイズが載っていたと記憶しています。

****************

Amazonのサイトから
著者について
グレッグ・グッド Greg Goode
南カリフォルニアで育つ。カリフォルニア州立大学で心理学、ドイツのケルン大学で哲学を学び、ロチェスター大学で哲学の修士号と博士号を取得。アメリカ哲学実践者協会(APPA)認定の哲学カウンセラー。
西洋哲学、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、大乗仏教など広い知見をベースにした自己探求を、著作やコンサルティングを通じて指導している。
著書に"The Direct Path:A User Guide"、"Emptiness and Joyful Freedom"などがある。
妻メイとニューヨーク在住。


グレッグ・グッドのYouTubeチャンネルな無いようですが、ホームページの中にいくつかの動画があります。→動画(video)

2024/02/02

ジル・ボルト・テイラー(TED Talks)


とても興味ぶかいTED Talksを見つけました。日本語字幕版の貼り付けができないので、日本語字幕で見る人はこちらで見てください。→日本語字幕付き

脳科学者のジル・ボルト・テイラーは、自宅で左脳に脳卒中を起こし、体の自由が失われて体の感覚が消えていきました。体と外部との境界が消え、文字が読めなくなり、言葉を発することができなくなるさ中、宇宙との一体感、至福、ニルバーナ(極楽)を経験します。そしてその状態が手術までの二週間続いたそうです。その境地は、多幸感に満ちた平安、思いやりの境地だったと言います。
救急搬送されて一命をとりとめ、手術を受けますが、左脳の機能が完全に回復するのに8年かかったそうです。

彼女が今もその状態に入ることができるのかはわかりません。左脳の働きを人為的に停止させて、右脳だけの状態になることは、おそらく不可能ではないかと思います。もちろんその状態がエンライトメントではないし、そうした状態を求めることに意味はないと思います。そんな状態になったにもかかわらず、それを見ていた意識はしっかりとあったということに驚きました。つまり、言語や体の自由を奪われても、それを見ている意識があるということです。
 人間の脳、とくに右脳はもともと「私たち」は一つのものだということを知っているのではないかと思いました。

ジル・ボルト・テイラーの本は日本でも出版されています。また読んだら紹介したいと思います。

2024/01/30

意識を我々は無視している

学校で教師が黒板に「私」と書き、何が見えるかと生徒に尋ねたとしたら、生徒の大半は「私」という文字が見えますと答えるだろう。「私」という文字が書かれた黒板が見えますと答える生徒はまずいない。一つの文字が注目され、それよりも巨大な黒板が無視されるのとちょうど同じように、あらゆる現象の永遠の背景である<意識>を我々は無視している。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見駅 駅ピアノ

2024/01/26

悟りからは何も得られない

悟りからは何も得られない。なぜなら悟りとは、悟ることのできる自分が存在しておらず、分離の感覚も個人として存在している感覚も幻だったとわかることだから。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見 永保寺 止掛塔(しかとう)とは、掛搭する(修行者の入門を受け入れる)ことが出来ません!ということ。シカトの語源だそうです(ネタ元)。

2024/01/23

「夢へと目覚める」レオ・ハートン

「夢へと目覚める」レオ・ハートン

非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではありません。ましてや覚醒でも目覚めでもありません。彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。この本はそのことを全く平易な言葉でわかりやすく教えてくれています。悟りとはなにか、本当のあなたとは何かを、これほどわかりやすく説明している本はないのではないでしょうか。

本を紹介するために、一部を引用させていただきます。

p24
 あなたはもうすでに向こうにいる。悟り、あるいは自己認識は、少数の選ばれた人のためにあるようなものではない。それはあなたの本質であり、たった今まさにここにあると本書は断言する。最初から読み進めるのがいいとは思うが、本書は悟りを開く方法を段階を追って教えるマニュアルではないし、そのようなものではありえない。それから、これは自己改善や知識の獲得についての本でもない。これは、実際一度も忘れられていなかったことを思い出すという逆説に関する本だ。自分とは本当は誰か、何なのかということがテーマであり、どうあらねばならないか、どうなるべきかを説く本ではない。

p37
悟りは、少数の選ばれた者にしか成就できないような、起こる可能性が低い至難の業ではない。それどころか、悟りはそもそも成就可能なものではなく、悟りを自分のものにできる個人的存在がいるという幻想が取り除かれることを通じてそれ自体を明らかにする。それは<純粋意識>として今ここに完全にある。どこか別の場所で、あるいは達成される日が来るまで未来のどこかで待っているわけではない。悟りは時空内の出来事ではない。逆に、時空が<純粋意識>のなかの出来事であって、<純粋意識>はあなた、私、そして存在するすべてとしてそれ自体を絶えず現わしている。それはここに並んでいる言葉であり、これらの言葉を読むことであり、言葉が現れている背景だ。それは入っては出ていくあなたの息であり、心臓の鼓動であり、淹れたての朝のコーヒーの香りであり、歩道に落ちている犬の糞であり、星々であり、惑星であり、そしてすべてが起こっている広大な空間だ。それはこのすべてであり、それと同時にこのすべてを超えている。それはすべてを包含し、知覚し、創造し、破壊する者だ。

p97
 あなたは本当にこの意識なのだ! 本書を通じてここまでずっとそうだったように、これも文字通りに受け取ることを勧めたい。もし<一なるもの>しか存在しないのであれば、それが存在するすべてであり、あなたはそれでしかありえない---それの一部(離れるもの)ではなく、そのものだ! 千の湖に映る月という魔法に惑わされてはならない。あるのはそれでひとつの<自己>であり、それが多として現れているだけだ。それはこの現象を観照し、映し出し、生成し、破壊し、包含し、維持しながら、この現象である何もなさだ。

p191
 悟りとはどのようなものかと質問した人たちが、その返答を聞いてから、「それは単なる言葉、概念です。以前も聞きましたがそれでは足りません。私が知りたいのはそれが実際どんなものなのかということです」と言って答えを退けるのを見たことがある。そのような探求者が待ち望んでいるのは、特別な出来事を通じた確認か、あるいはもしかしたら至高体験んなのかしれないが、そう望むことによって、探している<目覚め>がすでに完全に今あるという認識を先延ばしにしている。彼らが見落としているのは、見るということをしているそれ---すべてに共通しているもの---あらゆる現象を維持しているひとつの普遍のキャンバスが今ここにあるという事実だ。それは見かけ上のあらゆる多様性の土台にある基層だ。

p203 翻訳者(古閑博丈さん)のあとがきより
 英米のネット書店では本書に対する絶賛のレビューが多く投稿され、またセイラー・ボブからは「共鳴と認識の大きな歓び。見事だ!」という賛辞が寄せられている。

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本のタイトルは「夢へと目覚める」というすばらしいタイトルなのですが、目覚めること自体がまた夢なのです。目覚める「私」は実在ではないのですから。

この本には、「純粋意識」という言葉が何回も出てきます。原語は何なのかは確認していませんが、文脈から判断すると、この「純粋意識」というのは、他の非二元の教師たちが、awareness(アウエアネス)、気づき、意識と呼んでいるもののことです。間違えてはいけないのは、それを手に入れなくてはいけないとか、それを体験しなくてはいけないと考えないことです。

この「純粋意識」とは、もともと私たちがそうであるもののことです。もっとわかりやすく言うと、思考(マインド)の背景にある意識のことです。日常の普通の意識のことです。意識に純粋でない意識なんてありません。おそらくレオ・ハートンは思考と明確に区別するために「純粋意識」という表現を使ったのだと思います。

「私はまだそれを体験していない」「私はそれを手入れていない」と言うのは的外れであり、非二元を理解していないということになります。これだけはっきりとレオ・ハートンが書いていても、深読みして、(いや私はまだその状態にはない)(彼らには何か特別なことが起こったはずだ)という人がいるかもしれません。それを手に入れるための覚醒も目覚めも起こりません。もともとそうなのですから。

私たちは、この意識を「私」の意識だと思っています。でも、逆なのです。意識の中に「私」が現れているのです。「私」の意識ではないのです。じゃあ、それは何なのかと聞かれる方は、ぜひこの本を読んでください。

 レオ・ハートンは21歳の時にある種の神秘体験、超越体験、至高体験と呼ばれる状態を経験します。そしてそれを悟りだと思ったそうです。でも、あとになって、それは単なる体験であり、意識の上を流れていく雲のようなものだとわかったそうです(p145)。このあたりのくだりはとても参考になるところです。

この本の中には多くの賢人の言葉が引用されていて、その言葉もすばらしいものばかりです。信心銘、ルーミー、ニサルガダッタなどなど。セイラーボブのミーティングで出てくる話もいくつかありました。また、ボブがミーティングの中でこの本について語ったこともありました。

この本で語られる説明は、私にはものすごく腑に落ちるわかりやすいものでした。読みやすいし、解釈に困るようなところはありません。すばらしい本です。絶賛おすすめします。ぜひ読んでみてください。

Amazonの著者紹介
著者について
レオ・ハートン(Leo Hartong)

1948年、オランダのアムステルダムで貧しい夫婦のもとに生まれる。
自宅で降霊術がおこなわれるなどスピリチュアルな環境で幼少期をすごす。
10代でハシシをおぼえ、問題児として行政の矯正施設に入れられるが、 脱走して路上生活を経験。
結婚し子どもをもうけ、陸路でインドまで旅をするなどの生活を送る。
読書や瞑想を重ね、ウェイン・リカーマンらのミーティングに通ううちに
現実と自己の本質に目覚める。
2018年に膵臓がんのため他界。(参考:古閑博丈さんのブログ

その他
レオ・ハートンでネット上を検索しても、ほとんど情報はありませんでした。YouTubeも一本も見当たりません。本人のサイトも抹消されているようです。古閑博丈さんのあとがきによると、基本的にはサットサンやトークをしていなかったということです。著作は、この本の他に「From Self To Self」があります。

写真(この一枚だけ

2024/01/19

解放とは

解放とは、最終的な正解にたどりつくことでも、素晴らしい解答を覚えることでもありません。解放とは、私たちの苦しみと混乱の根底にある想像上の問題(思い違い)を見抜くことです。どんな答えも、どんな解答も、どこからか拾ってきてそれに固執してしまえば、それがまた新たな問題になってしまいます。
                       ジョーン・トリフソン(つかめないもの

名古屋 ノリタケの森 イオンモール内

2024/01/16

自分がすでにそうであるもの、すでにここにあるものになる方法はありません

自分がすでにそうであるもの、すでにここにあるものになる方法はありません。瞑想やサットサンやこのような本や先鋭的な非二元のミーティングに少しでも役に立つ点があるとしたら、それは、何かが欠けているという幻想、時間が存在していてその時間の中で何かを達成することができるという幻想、変容しなければいけない誰かが存在していうという幻想の正体を暴くところにあります。
                        ジョーン・トリフソン(つかめないもの

多治見駅 凧

2024/01/12

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン

セイラーボブの教えを理解するために最適な本は、LIVING REALITY(未邦訳)だと思います。そのLIVING REALITYの裏表紙に、三人の非二元の教師が推薦文を書いています。レオ・ハートン、グレッグ・グッド、そしてジョーン・トリフソンです。そのため、この三人はセイラーボブの教えを支持しているか、あるいはまったく同じことを教えていると思われます。

ジョーン・トリフソンはセイラーボブと面識があります。古閑博丈さんのブログで、セイラーボブと会っているくだりがあります。LIVING REALITYの中でも、セイラーボブがアメリカに行ったら再会したいというくだりがあります。

さて、この本の感想ですが、この本はとても読みやすかったです。非二元の本を読んでいると、時々翻訳された日本語の意味がはっきりとわからない時があります。でも、この本にはまったくそれがない。古閑博丈さんのブログや本を読んでいつも思うのは、翻訳からくるストレスがまったくないということ。これは高木悠鼓さんにも言えることで、この二人の翻訳は安心して内容に集中できるのでありがたいと思っています。

本の内容もすばらしいものでした。本の構成は27の表題からなる書下ろしになっていて、それぞれの最初にいろいろな賢人の短い言葉が引用されています。最初の項目「」の頭には、セイラーボブの言葉(生はつねに生を糧にして生きています。生はあらゆるかたち、あらゆる姿をとって現れます。それでもそれは同じ生であり、同じ知性=エネルギーです。そしてあなたはその生なのです。)があって、嬉しく思いました。セイラーボブの言葉はその一回だけで、あとはブッダやラマナ・マハリシなど様々な人の言葉が掲載されています。賢人たちの言葉もすばらしいのですが、書下ろしの内容もすばらしいものです。

本の紹介のために何か所か抜粋させていただきます。

P50から
 いわゆるスピリチュアルな覚醒の旅は、どこか別の場所にたどり着くこととも、新しい何かを手に入れることとも関係ありません。それはもっとも明白はことを認識するということであり、また、自分のまさに目の前にあってもっとも親密で呼吸よりも近く本当の意味では避けることも見落とすこともできない何かを見かけの上で覆い隠している誤った観念や蜃気楼のような空想の正体を見抜く(またはそこから目覚める)ということです。
 覚醒や悟りという言葉を耳にすると、私たちはよく、砂の上に引かれた魔法の線を「私」が未来のいつかに飛び越えて「覚者」となり、ある種の完璧な(そしてもし可能であれば永久に心地良い)境地に永遠に定着できるのではないかといった想像をします。それはおとぎ話であり、幻想です。そういう考えかたから目を覚ますことこそが、覚醒です。

P55から
 「自己がない」というのは、「あなた」がこれまで経験したことがないような魅惑的で神秘的な経験のことではありません。
 成長の過程で、今ここにいて気づいているという否定しようがない感覚が、一つの心身の内側にいる分離した個別の人間だという観念と混ざってしまいます。私たちが毎瞬、実際に経験していることーー境界なしにあるということーーが、主体と客体、自己と他者とに概念の上で分割されます。蜃気楼のような分離した「自分」、空想上の客体が、<究極の主体>(あらゆるものとしてありながらあらゆるものを見守り、位置を持たず、気づきながら今にあるということ)と取り違えられてしまうのです。目が覚めているときの生という映画は、ひとりひとりが別々のものを観ているように感じられます。そのため、私たちのそれぞれが意識の分離して独立した単位(心)であって、他とは切り離された体の内側に閉じ込められているその個人が、「外側」にある客観的な物質世界、人によってさまざまに違って見える世界を見ているのだと考えます。
 けれども、世界は「外側」にあるでしょうか? そして「内側」に意識の分離した単位(心)があるのでしょうか? あなたが私の映画に現れていて、私があなたの映画に現れているとしたら、この見かけ上では別々の映画は、ひとつひとつの宝石が他のすべての宝石の姿を映している<インドラの綱>の宝石のようなもの、もしくはどんな小さな部分も全体を包含しているホログラムのようなものだということはありえないでしょうか?

p214から
 瞑想などのスピリチュアルな実践をはじめたばかりだったり、先鋭的な非二元のミーティングや本に接しはじめたばかりだったりする人たちは、これは自己を向上させてどこかにたどり着くという話なのだとたいていは思い込みます。道なき道(直接の道)とは、じつはそうした考えの本質を見抜くことにほかなりません。それは究極的には、宇宙の他の部分から切り離された「自己」はここにはいないという発見です。明晰さと混乱のあいだ、「わかる」と「わからなくなる」のあいだ、境界のない気づきとの一体化と一人の個人との同一化のあいだ、そうした両極のあいだを行ったり来たりしている「私」はいません。「スピリチュアリティ」と「それ以外の生」のあいだの境界は、実際には存在しません。あるのは、今あるとおりの<ここ・今>という境界のない直接性だけです。
 どんな境地も経験も、やって来ては消えていきます。非二元の絶対は経験ではありませんし、永久にせよ一時的にせよ「人」が至る境地でもありません。「人」というのは、非二元的な無境界性の内側で現れて消えていく一時的な見かけです。

非二元の本というのはどれも、一種のパラドックスになっていると思います。たいていの人は、非二元の教師たちは、私たちとは違う意識の状態にあると思っていて、自分もそうなりたいと思って本を読みます。

自分も悟りを手に入れたい。エンライトメントしたい。一瞥体験をしたい。彼らのように理解を手に入れたい。特別な理解が起こるはずだ。でも、最後まで読んでも何も起こりません。何も起こらないばかりか、彼らが何のことを言っているのかよくわからないまま終わってしまいます。すると、(ああ、やっぱり私はまだエンライトメントしていないから理解できないのだ)となって、また別の本を読むことになります。

非二元の本を正しく理解するためには、彼らは私たちと何も違わない普通の人だということを前提に読むことです。彼らに何かが起こって、特別な意識の状態になったに違いないという誤った思い込みをなくして読むことです。もし、彼らが私たちと同じ普通の意識の状態にあるのなら、一体何のことを話しているんだろうという視点に立つと、彼らの話している内容に注意が向かい、自分にも理解できることだという目で読むことになります。そうすると、彼らの話していることは何も特別難しいことではなくなります。

私はセイラーボブに会う前に「ただそれだけ」を7回読みましたが、何のことだかさっぱりわかりませんでした。でも、教えを理解した後では、これほどわかりやすい本はないと思っています。他の非二元の教師の本も同じです。彼らが特別な意識の人だという思い込みを捨ててしまえば、やがては「わかっちゃった人たち」の仲間入りです。

何がわかるかというと、それは説明できません。それは「つかめないもの」だからです。ジョーン・トリフソンはこの本の中で、最初から最後まで繰り返し「つかめない」ものを説明してくれていますが、私たちがそれをつかむことはできません。

非二元の教えを理解していない人がこの本を読むと、繰り返し繰り返し「つかめないもの」のことが書いてあって、あ~、わからんとイライラするかもしれません。でも、私にとってはこの繰り返しがとても心地よくて、(そうそう、そうそう)と最後まで楽しく読むことができました。ジョーン・トリフソンはセイラーボブと同じ香りがします。偉ぶったところや気取ったところがなく、普通の人感満載です。また一人好きな教師が増えました。

ジョーン・トリフソンについて
1948年 米生まれ 女性 75歳。

Amazonの著者紹介より
ジョーン・トリフソン Joan Tollifson
アドヴァイタ、仏教、先鋭的な非二元を好んでいるが、 どんな伝統にも属していない。
著書に『Bare Bones Meditation』『Awake in tne heartland』
『Painting the sidewalk with water』がある。

本の最後の訳者のあとがきにジョーン・トリフソンの詳しい経歴などが書いてありますが、それを勝手に要約して書いてもしかられるので、掲載を控えさせていただきます。古閑さんのブログに短い略歴が掲載されていますので、そちらを参考にしてください。英語版のWikipediaには名前がありませんでした。ジョーン・トリフソンのサイトに自己紹介がありますので、リンクしておきます。

ジョーン・トリフソンのYouTubeチャンネルは見当たりませんでしたが、YouTubeでJoan Tollifsonを検索するとたくさんの動画が出てきます。どんな人か。比較的再生回数の多いものを一つ掲載しておきます。




2024/01/09

直接の体験をよく見てみること

つまり、人生を本当に理解するただひとつの道は、自分が生きている直接の体験をよく見てみることだけなのです。
                         ティモシー・フリーク(気づきの扉

我が家のさざんか

2024/01/05

「気づきの扉」ティモシー・フリーク

気づきの扉

とてもわかりやすい本です。理解できないような言葉は出てきません。易しい言葉で書かれていて、100ページに満たない本なので、一時間もあれば読めてしまいます。
七つの洞察を提示していき、それが本当なのかどうかを自分で考えていく体裁の本になっています。内容は、非二元のことを学んできた人なら全部知っていることです。それでいて陳腐な感じがしません。あらためて気づかせてくれることがたくさんあります。

p45
この、身体でも心でもない、謎めいた「私」とはいったい何なのでしょうか?
それは、身体や心を見つめている意識です。

「意識」という言葉がシンプルに使ってあるのをとてもうれしく思いました。わかりやすい本です。

Amazonのサイトから
著者について
ティモシー・フリーク 哲学者、思想家。キリスト教のグノーシス思想を研究した『THE JESUS MYSTERIES』(原題)が英国、米国でベストセラーになったほか、世界の宗教、神秘思想を幅広く研究した著書多数。またBBCやヒストリー・チャンネルなどのドキュメンタリー番組にもしばしば登場し、『ミステリー・エクスペリエンス』と題したワークショップも人気がある。旅をしながら人々の意識を変えていく「スピリチュアル・エンタテイナー」だった古代の哲学者にならい、自らを「スタンドアップ哲学者」と呼ぶ。英国南部グラストンベリー在住。

the urban guru cafeでティモシー・フリークを取り上げているので、この本を買いました。

ティモシー・フリークには日本語版の公式オフィシャルサイトがあります。詳しい情報はそちらで読んでください。




2024/01/02

悟りとは

悟りとは、自分は個人ではないという絶対的な理解です。
                     フランシス・ルシール(今、永遠であること

多治見市 永保寺

2023/12/29

ハートが理解するには簡単なものです

この見方は途方もなく難しいだけではなくて、心(マインド)には把握することのかなわないものです。ですが、この見方はハートが理解するには簡単なものです。とても簡単で、ほぼ即座に把握することができます。
                    フランシス・ルシール (今、永遠であること

              多治見市永保寺                 

2023/12/26

「今、永遠であること」フランシス・ルシール

今、永遠であること

とても良い本です。フランシス・ルシールは、ルパート・スパイラの師だということで、興味をもって読みました。ブログに引用させてもらうところに付箋を貼って読みましたが、この本も付箋だらけになってしまって、どこを引用しようか迷ってしまいます。この本は全編が質疑応答の形式をとっていて、最初に質問があって、それにフランシス・ルシールが答えます。

それぞれの質問に対する答えが長いのと、答えが格調高い語り口なので、その前後を読まないと理解できない部分が多い。前後まで引用すると、とても長くなってしまって、どうしたものかと。あんまりたくさん引用すると𠮟られますが、本の宣伝だということで許していただいて、何か所か引用させていただきます。

p88
 子育てをしながら、家計を支えながら、個人的な不幸せを抱えながら、真実を追求したいと思うのであれば、どのようにすればよいのでしょうか?

 知性を通してできます。理解するために、物質的に自分の生活を変える必要はありません。今すでにあるもの、自分が何者なのか、自分の知覚、感じ、考えとは何なのか詳細に問いかけることから始めます。わたしたちの現実(リアリティ)をこのように探っていくことは単に概念的なものではなく、人生のすべての面に及ぶものです。

 非常に忙しい生活のさなか、このように追及していくことは可能なのでしょうか?

 もちろん可能です。それにこの方法だけが、あなたの幸せはあなたにあり、あなたの宝物であり、外側の状況には何も関係がないことを明確にしてくれるのです。もしあなたの幸せが外側の要素、例えば調和に満ちた状況といったものに依存するものなら、郵便局にいるときや、騒々しいところにいるときにその美しい体験はなくなってしまいます。ですから、こういった体験は真にあなた自身の幸せではなく、単に幸せな状態ということです。

 幸せそのものは外側の何にも依存しないとわかっているのですが……。

 その理解を得るには大変な成熟さが必要になります。ほとんどの人は、幸せは何かしらの客体にあると思っているのですから。

p93
 この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられたのですか?

 この質問の裏にある質問は、こうですね。「この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられますか?」

 そのとおりです!

 この世界は幻想だと言うとき、この世界はないという意味ではありません。わたしはただ、この世界は気づきから切り離されたり隔てられている客体としてはない、と言っているのです。言い換えると、古典物理学がわたしたちに信じさせようとしているように世界は自律的ではありません。これは知覚として認識されれば否定されることはありませんが、認識されなければ、あると証明できません。

 ですが、幻想はそのまま、幻想と呼ばれるもののまま、見かけ上はあるということは認めてらっしゃいますか?

 認めています。幻想はふたつの要素からなっています。根本的な現実(リアリティ)と、重ね合わされて幻想の概念です。暗がりにロープがあるとして、それを間違って蛇と思ったりします。ですが、明かりをつけると、蛇というものの現実(リアリティ)はただのロープだということがわかります。蛇など初めからいなかったのです。蛇はまったくの幻想でした。幻想とは、非実在です。蛇はいませんでした。蛇の現実(リアリティ)はロープだったのです。

p121
 自分は分離した人物であるという自己認識から、真実に気づいている状態に意識を移行するには、どうすればよいのでしょうか?

 「人物らしさ」が偽物だと知るのに人物ができることは何もありません。個人は個人としての自己認識にしつこく固執しますが、この自己認識から自由になる瞬間があります。自己認識から距離をとり、自分であるこの現存(プレゼンス)を垣間見る、つまり気づきを得るチャンスは、この瞬間にあります。
 わたしたちにとって、一番大切なものとは何でしょうか? わたしたちの体の一部ではありません。命を救うためであれば体の切断手術がされていることからも、これは明らかです。一番大切なものとは、体全体でさえありません。わたしたちが真に愛しているのは、意識です。真に問われているのは、意識は体の中にあるのか、体が意識の中にあるのか、ということです。自分の置かれている環境や、先生たち、広く信じられている物質主義から、わたしたちの体は世界にあり、わたしたちの頭脳は体の中にあって、この頭脳の一機能が意識であると条件付けられています。非二元の視点では、この図はまったくの正反対です。本源的な現実(リアリティ)は気づきであって、この内に心(マインド)があります。この体、この考え、残りの宇宙はすべて、心(マインド)の内にあります。それでは、このふたつの立場のうちどちらが真実だと、どうやって決めるのでしょうか? わたしたちの論理的な装置である心(マインド)では、この問いに対する答えを出すことはできないと理解することが大切です。これらの立場からひとつを選ぶとすると、これは信念であり、信仰による行為になってしまいます。これが明確にわかっていれば、わたしは世界の中にいて、わたしはわたしの体である、という概念からすでに自由になっています。この世界での実在とは信仰による行為であり、絶対的は真実ではない、ということを理解しているのです。そして、もう一方の可能性にオープンになります。心(マインド)は心自身の内にあるものしか知らないので、心(マインド)では決められません。心(マインド)を超えたものを、心が知ることはできないのです。心(マインド)にできるのは、きめられないということを理解することだけです。心(マインド)が、自分では本源的な答えを見つけられないということを理解すると、静かになります。私たちの本質が自分を掴む可能性は、この静寂のうちにあります。自分では掴むことができません。ただオープンになり、迎え入れることしかできないのです。

p178答えの途中から
 より多くの知識や能力を積み重ねることで、この探求を終わらせることは決してできません。この探求は学習するものではなく、もしろ積み重ねた概念、信念、習慣といった捨て去るものなのです。そういったものがこのシンプルさ、自発性、自分の本質であるよろこびを体験することを妨げています。
 あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもないというわたしの助言を調べることで、本当に自分であるものを理解する道が拓けます。これを調べるのであれば、知的な次元、体感覚の次元の両面で、徹底的に追及されなければなりません。これを調べた結果、得られる理解は、「わたしは誰なのか?」という問いに対する答えですが、これは心(マインド)を超えたところ、時空間の先にある、あなた本来の美と永遠性にまであなたを運んでいく体験となります。この体験で、あなたは自分が探し求めていたものだったと知ることになります。これが問いの終りであり、すべての問い、すべての探求、すべての恐れや願望の終りになります。

フランシス・ルシールは何も特別なことは言ってはいません。自分で調べてみなさいと言っているのです。そして、その到達点は「確信」という言葉を使っています。私は以前、このブログにおたよりをいただき、「理解するとはどういうことなのか?」という質問をもらいました。その時、「確信」という言葉を使ったのを覚えています。非二元の教師たちが語っている内容を客観的に証明できるような方法はありません。詰まるところは本人が揺るぎない「確信」の地点に到達できるかどうかだと思います。そして、その確信を得るためには自分で調べるしかないとフランシス・ルシールも教えています。

ルパート・スパイラの「プレゼンス」の時も思ったのですが、この本は非二元の教えを理解していないと読みこなせないような気がします。すばらしい本でした。

フランシス・ルシール Francis Lucille

Amazonの著者紹介より
フランス国立理工科高等教育機関、フランス国立航空宇宙学科高等教育機関で
化学を学んだ後、1973年、ヴェーダ哲学や仏教の文献から東洋の叡智を見つける。
これをきっかけとして自己同一性を深く探求し、1975年、スピリチュアルの指導
者であるジャン・クラインに出会ってまもなく、その探求が終わる。
現在、米国在住。ヨーロッパと米国でリトリートを行っている。

補足
1944年生まれ 79歳 フランス生まれ
J.クリシュナムルティの本を読んだことにより探求が始まる。もともとはフランス軍のために洗練された武器の設計・開発する科学者だったが、辞めて、探求の道へと入った。

日本語でネット上で検索しても、フランシス・ルシールに関する情報はほとんどありませんでした。