2023/09/29

もしあなたが問題を認識したなら、あなたは問題を手に入れたことになる

2023.9.24ミーティング  59:55から

ギルバート:調査することは不可欠です。そして、その調査は誰がやっているのか? でも、ただ単にそれは印象(impression)にすぎないと認識することです。まわりを見渡してみると、印象がどこかに現れています。観念としては、それはここ(自分を指さして)、私、自身、何と呼んでもいいですが、「私」がそれを見ているとなります。

でも、おそらくそれは真実ではありません。おそらく、印象は、まさしくそれがある場所で起こっています。例えば猫を見る時、猫という印象は、まさしく猫がいる場所に現れています。でも、それはここ(自分を指して)に現れているという催眠にかかっています。そして、「私が見ている」というのは、分離した考えです。

なぜなら、顕現の中のどんなものの間にも実際には距離はないからです。それは、アウエアネス(意識)、あるいはコンスシアスネス(意識)の動的な現れであり、それには分離はないからです。あなたはそれです。それゆえ、私は分離した存在・人であるという思考は催眠術のようなものです。それは泡のようなものであり、はじけます。きれいな泡がはじけると、消えてしまい、子供は泣きます。

あるいは虹。虹を見つけて掴もうとしても、消えてしまいます。あなたが子供だったら、虹のふもとにあるはずの壺に入った金貨が掴めなくて、がっかりします。でも、その印象はどこに現れているのかを調べると、そこには分離はありません。知る働きは、エネルギーの動きであり、意識の動きです。すべてはそれなのです。分離はなく、すべては知る働きの活動なのです。

その活動は、私たちが見る世界の活動と同じものです。私たちは犬が野原を横切るのを見ます。それは同じものの同じ活動なのです。それは物ではありません。すると、すべてのものは分離しているという考えは崩壊します。それは、時間と空間の中の出来事ではないのです。

最近、インタビューを受け、「あなたの旅はどうでしたか?」「あなたの物語は何ですか?」と尋ねられましたが、それは間違っています。そうやって人々は個人に関連づけるのです。彼らは物語を聞きたいのです。「どうやってそれを手に入れましたか?」「それはどんなものですか?」。そうしたことは、誰かに投影した物語にすぎません。

「ボブ、あなたはエンライトメントした。それはどんなものか、教えてください」「エンライトメントするとはどんなふうですか?」といった具合です。私たちは、真似をすることで話すことを学びます。親が話すのを聞いて、音を真似します。鳥や動物たちも同じことをします。私たちには真似する能力があります。でも、それは私たちの本性ではありません。

私たちの本性は、すでに完成されたものです。それに何かを付け加えたり、取り除いたりする必要のないものです。それは輝いています。すべての人からその知性エネルギーが輝いています。いわゆる憂鬱や苦悩のせいで、曇っているように見える人もいますが、それは単なる幻影です。

空(そら)にとどまる雲はありません。太陽を不鮮明にする雲はありません。太陽ははるか遠くにあります。ボブが指摘したように、太陽が雲を作ります。海から水が蒸発して、水蒸気となり、雲となります。望遠鏡で雲を見ると、とても興味深いものが見えます。それは静止しておらず、動いています。水蒸気が空間の中へと消え、 空間から水蒸気が現れています。大きな白い球が絶えず変化しています。

宇宙には、どこにも静止した地点はありません。でも、自己の中心という思考が、うわべ上の静止した地点となり、あらゆる苦悩を引き起こします。それは実在ではありません。誰が問題を手に入れているのかを調べてみてください。何年か前に、ボブに向かって何か不満を言った時のことを覚えています。ボブは私にこう言いました。

「もしあなたが問題を認識したなら、あなたは問題を手に入れたことになる」(笑い)

2023/09/26

それは、疑い深いマインドで理解するよりもシンプルなことです

あなたはそれがわかった。でも・・・。あなたは理解した。でも・・・。
本当に? いいですか、「でも」は一瞬にしてあなたを現在から連れ出します。
というのも、「でも」は、未来の異なる状況を意味するからです。
それは、今ここにあるものではありません。それは、今この瞬間ここで、あなたが持っていない何かを意味します。
その繊細さを見てください。
あなたが心を開いて聞いている時、あなたはまさにその中にいたのに、どれほどすぐに「でも」がやってくるのか?
それは、疑い深いマインドで理解するよりもシンプルなことです。
                                    セイラーボブ

2023/09/22

それは言葉によるものです

2023.9.17ミーティング 0:37から

ボブ:みなさん、おはようございます。みなさんに会えてうれしいです。生(life)、そしてエネルギーがこの部屋の中に現れているのがわかります。私たちみんな、それぞれが、それをこの部屋にもたらしています。そしてそれが、私たちの話している非二元についてです。世界で最もシンプルなことです。非二元、二つではない。

それは、いにしえのすべての聖典で語られています。異なる言葉で語られ、うわべ上では分割しているように思えますが、それでもそれは非二元について語っているのです。一つのもの。もしそれが指し示していることが本当なら、どこへ行って、何をする必要があるでしょうか? もし、一つのものしかないのなら、探求をする必要があるでしょうか?

それが、それ以外のものとなることができるでしょうか? それから何かを取り去ることができるでしょうか? それは、私たちの目の前にあるのに、認識されておらず、無視されています。というのも、私たちは言葉を学んだからです。言葉によって、その他の観念、思考を手に入れ、分割できないとはっきり言われているものを、うわべ上で分割したからです。

それは、互いに依存しあっています。あらゆるものが、何か他のものと依存しあっています。そうしなければ、存在しえなかったし、これからも存在しえません。でも、言葉を使うために、分割できないものを、うわべ上では分割しています。

一つは、究極のものです。二つはそれ以外のものであり、それが一以外のものとなって現れ、問題となります。もし今そのことを考えなかったら、何が問題ですか? 物事は起こり続けています。それは死んだものや終わったもの、静止したものではりません。機能は働き続けています。一つのものを分割することができるでしょうか? 

一つのものが存在しなかったら、他のものは存在するでしょうか? 私たちは、エンライトメントしようとか、何かを成就しようと考えます。でも、もしあなたが、もうすでにそれだったとしたら、何になろうとして、何を成就しようというのですか? それゆえ、今それに気づいていようがいまいが、あなたはそれであるという事実から始めなさいと言われているのです。

どんな方法であろうと、そのことを認識していれば、それが存在するすべてあるということが絶対的に確かなことです。そしてそれがパターンとなり、無数の異なる姿形となって現れています。でも、それを分解してみると、すべては生(life)、エネルギーなのです。私たちはそれに異なるラベルを貼り付けます。神、偉大な存在、劣った存在、あれやこれや。そうした言葉によって、それを分割します。

みなさんの中に、自分は分離して存在していると思っている人はいますか? 調べてみてください。それは不可能だとわかるでしょう。そこには何か別の異なるものがあるように思えるですが、それはすべて一つのものです。そこには、異なる別のものはありません。そして、それは真実です。それは、何の中にありますか? 調べてみてください。この部屋の中の「私」や人々は今、この部屋の中にいますか?

その部屋は、何の中にありますか? それは空間(space)の中にあります。では、空間とは何ですか? 空間には中心がありますか? 境界は? ここから始まったという場所や、終わりはありますか? それとも、それはただあるがままですか? いわゆるこの体はパターン、姿形となって現れています。それは一見強固なものに見えますが、それを顕微鏡で見てみると、そこにはたくさんの隙間、空間があるということがわかります。

空間は、無/何ものでもないもの(no thing)です。中心や境界を見つけることはできません。私たちは、あちこちで空間を見ますが、その中心を見つけることができますか? 一羽の鳥が空を飛んで、空間の終りまで飛ぶぞと言うようなものです。それはどこにたどり着くことができるでしょうか? どこが終わりでしょうか? 始まりは? 無/何ものでもないものは認識する空と呼ばれています。空間は空です。

空。無/何ものでもないもの(no thing)。無/何ものでもないものから、何かがやってくることができるでしょうか? もし、私たちみなが、空間の内容物であるなら、空間の外へどうやって出ることができるでしょうか? できません。それは確かなことであり、いつもそうでした。でも、思考、感情、感覚によって観念化が始まります。それを見失って、あらゆる種類の観念、イメージが起こります。それは言葉によるものです。

2023/09/19

あなたは確かに知っています

人々は、「知的には理解できるのですが、それを体得(keep)することはできません」といいます。
どうして、「知的に」というラベルを貼るのですか?
理解しているか、していないかのいずれかです。「知的に」というラベルを貼ることによって、ふたたび分離を生み出しているのです。
あなたは知っているのに、知りたくない・・・。
あなたは確かに知っています。あなたは、「知らない」ことが現れる知る働きなのです。
「知らない」がやってくるたびに、その知る働きがなければ、「知らない」は現れることができないということを理解してください。
                                    セイラーボブ

2023/09/15

言葉は決してそれではありません

2023.9.10ミーティング 50:26から

ギルバート:何年も前、ボブはよくオークの木のどんぐりの話をしました。それぞれのどんぐりは、オークの木で地球をおおう潜在能力を持っています。それを臼にいれて粉々にすると、それは粉末になって吹き飛ばすことができます。すると、その潜在能力はどうなるのか?と、ボブはよく言ったものです。

それはどこからやってきたのか。一本のオークの木には、おそらく2000から3000のどんぐりが実ります。それらはお互いのことを知りません。彼らは、とても似かよった兄弟姉妹です。でも、何らかの共通点があります。それらは、地球、つまり大陸をおおう潜在能力があるのです。

では、私の潜在能力はどこにあるのか? あらゆるものが現れ出る究極・無限の潜在能力とは何なのか? そして、私はそれと分離しているのか? どうして私がそれと分離することができるだろうか?  観念上では、自身をそれから分離することはできます。可哀そうな私は何にもなりませんが、もし私がどんぐりだったら、オーストラリアをおおうことができるでしょう。

自身を調べてみることは、必須のことであり、本質的なことです。もし、苦難と混乱の人生を歩みたくないのなら、内側へ向きを変えて、見てください。目を閉じて、内側へ向きを変えて、その空間を見るのです。その空間には、後ろも左右も上下もありません。そしあなたが実際に注意深く調べてみると、それは空です。それは、あたかも空の舞踏場のようなものです。

そこでは、誰も自転車に乗っておらず、街角で枯れ葉をはいている人もいません。単なる空です。それは死んだ空ではなく、認識する生きている空であり、生(life)そのものです。おそらく、体は現れておらず、感覚が現れているかもしれません。目を開けた時だけ、体が形となって現れますが、すでに指摘されたように、私は体でもマインドでもありません。

私が体でもマインドでもないとしたら、私とは何なのか? 私とは何なのかを、対象物として実際に知ることはできません。それは純粋な主体、無限の潜在性の現れに違いありません。それは、一粒の種のようなものです。ニサルガダッタが言ったように、それは意識の種なのです。それは永遠に新鮮で永遠に新しいものが自身を表現しているのです。

オークの木を切り倒して、小さな破片にしても、それはどんぐりには戻りません。過去を未来にすることも、未来を過去にすることも、オークの木をどんぐりに戻すこともできません。また、その必要もないのです。なぜなら、生(life)が私たちとして、永遠に新鮮で永遠に新しいものとして、観念なしで、言葉なしで表現しているからです。

「私」とは何か? それを否定することはできません。言葉では、言葉がやってくるところのものを表現することはできません。今までの人生で語ったことすべてを、取り戻すことはできません。それは表現です。良いものもあれば、それほど良くないものもあるでしょう。そういったたわ言に対して、自らを罰することも可能です(笑い)。他の人が私を罰することでしょう(笑い)。ええ、実際そうでした。

「私」とは何なのか? 「私」とは何なのかを、対象物として知ることはできません。それは主体であり、無限の潜在能力。常に自身を表現する永遠に新鮮で、永遠に新しいもの。過去に語られたすべての言葉をもってしても、それを言い表すことはできません。誰かによって語られ、あるいは書かれたものでも、永遠に新鮮で、永遠に新しいものを言い表すことはできません。それは、腐ってしまうような、新鮮で新しいパンではないのです。

それは毎瞬毎瞬新鮮で新しいもの。毎瞬という言葉さえ時間を意味せざるえませんが、それには時間はありません。時間も死もない存在(spirit)なのです。私たちは言葉でそれを表現しますが、言葉は決してそれではありません。

2023/09/12

あなたは、みずから輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です

太陽は光です。光とはエネルギーの別名です。それはあなたの目を通して輝きます。それはあなたの目を通して放射されます。
クリスタルを太陽にかざすと、何が起こりますか? 光は違った色、パターンとなるのでしょう? 中に何が見えますか? たくさんの色、パターンが見えませんか? 
そのエネルギーのパターンは堅固で実在しているように見えますが、それも知性エネルギーなのです。
あたかも、クリスタルの中に知性エネルギーである光が放射されて輝くように、その中に世界や物事を作り出すようなものです。
あなたは、みずから輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。ただそれだけ。他には何もありません。
                                    セイラーボブ

2023/09/08

誰が努力をするというのですか?

2023.9.03ミーティング 46:13から

参加者:ボブ、ありがとうございます。あなたがおっしゃることには多くの気づきがあり、理性的なレベルではよくわかります。でも、それを体験的に習得することは私には困難です。私は聞きたいのです。私はインドの出身ですが、私たちは、言うならば異なる思想体系や内面の技術に接してきました。

長年かかって発展してきたヨーガ、タントラ、あるいはダルマなどの体系には価値がなく、そうしたことを試みることは的はずれだと、おっしゃるのですか? 私たちが理解、把握すべきことは、今この瞬間、ここだけであり、どんな努力も無駄だとおっしゃるのですか?

ボブ:あなたが調査をして、努力をする人がフィクションであるということがわかったなら、誰が努力をするというのですか? でも、一方では、あなたがそれをやると信じています。あなたが、あなただと信じているものが、くるりと向きを変えて調べるのですが、そもそも、生の本質(life essence)があなたを通して働かなければ、その行為もまったく起こりません。

生(life)があなたの行くべきところへ運んでいくのです。それが常に働いています。経典の中では、私たちの問題は無知であると言っています。それは私たちが鈍いとか愚かだと言っているのではなく、目の前にあることに背を向けていると言っているのです。あなたはそれであり、それがすべてだと言っているのです。でも、私たちはそれを信じることなく、その前にあれをやらなくては、これをしなくてはと言うのです。調べて、見てください。

ギルバート:あなたは、あらゆるやり方で、あらゆることを分割することができます。でも、段階的な道、例えばヨガ、宗教、キリスト教、善良なら天国へ行けるといったことはどれもみな、未来のことです。そこには、何かをしなくてはいけない誰かがいます。そして、このメッセージは、段階的な道を信じている人にはまったく人気がありません。

なぜなら、人々はエネルギー、時間やお金を段階的な道に費やしているからです。そうした人々は、「私はスピリチュアルな道の上を歩いている」と言います。でも、彼らはあなたに、その道の上にある小石一つさえ見せることはできません。なぜなら、それは比喩的な道だからです。

スピリチュアルな道などというのもは存在しません。それは単なる言葉です。そして、人生をスピリチュアルな道に捧げるというのは罠なのです。なぜなら、あなたが将来なろうとして費やしている人というのは、費やす必要のないものだからです。

「あなたはもともとそれなのだ、というところから始めなさい」とボブは言います。そして、あなたをそのことからそらしてしまうものを見てください。私たちを、それから引き離してしまうのは思考なのです。思考の流れが過去や未来へと導くのです。それは、この瞬間の直接性の中に存在することはできません。

なぜなら、実際には持続する時間はないからです。それは単なる微妙なバイブレーションです。でも、私たちはそうした思考に巻き込まれます。一つ例をあげると、誰かが、「私は良くない。私は何も達成していない」と言います。これはマントラです。仏陀は、「私たちは思考によって世界を創造する」と言いました。

誰かが、「私は良くない。私は何も達成していない」と言う時、それがマントラとなって、人生の体験を形成します。そしてその体験が、人をこのマントラの罠にはめるのです。マントラは、あなたのマインドが絶えずあちこちへとさまよっている時にはとても有効なものです。もしあなたに、グルや誰かから授かったマントラがあると、とても有益なものとなります。

なぜなら、あなたがマントラを唱えている間は、思考の流れが引き起こす通常のナンセンスに関わらずに済むからです。マントラを唱えている間は、成就の可能性が高いように見えるのです。アウエアネスはいつでも束縛はされていないのですが、本当の私を認識するということが、マントラを唱えている間は、よりたやすく思えるのです。

でも、思考の流れに囚われて、絶えず未来に何かを達成しようと努力していると、たとえば、瞑想やヨガ、教会へ行って祈るとか、そうしたことをすることで、「私」という未来の存在に関わることになるのです。ですから、ボブが言うように、この『私』が見つかるか調べてください。

彼がよく語るように、愚か者がやってきて、「ボブは『私』はいない言っている。彼は正しいのか間違っているのか?」と言うのです。あなたは自分で調べなくてはいけません。誰もあなたの代わりにはやってくれません。そしてそれは、実はとてもシンプルなことです。内側へと向きを変えて、見てください。この「私」を見つけることができるのか? あなたがそれを見つけることはありません。なぜなら、それはフィクションだからです。

そのフィクションの奴隷でいることは、まったく不要なことです。あらゆる心理的な苦悩がそこからやってきます。あらゆる可哀そうな「私」は、この分離した存在からやってきます。でも、分離は存在しません。ボブは、最初の本やその他の本の中で明確に指摘しています。「子供は、この『私』という言葉を学び、ある時点で外側の世界に目を向けると、そこには、『私』ではないものがある。それから傷つきやすさが生まれます」。なぜなら、あらゆるものが「私」ではないからです。

もしあなたが傷つきやすければ、この「私」という考えの周りに何らかの砦を築こうとします。でもそれは苦悩となるだけです。それは実在ではありません。でも、このことは人気がありません。ニューヨークタイムズも7時のニュースも取り上げません。ニュースの対象にはなりませんが、このメッセージはとてつもなく驚くべきものです。そしてそれはとてもシンプルです。私の言うべきことは以上です。

2023/09/05

何かをしようとすることで、それを妨げてしまうのです

もし、そのことを考えなかったら、どんな条件付けがあるでしょうか? 人々は条件付けについて話します。もし、そのことを考えなかったら、座って瞑想する必要も、どこかを探したり、条件付けを取り除こうとする必要もありません。
善良な人でありなさいと言われるかもしれません。でも、自愛や愛情やその他のことを身に着けようとすることは、それをしようとする存在がいることを意味します。
あなたは、自然の愛を見つけるでしょう。それは今この瞬間にここにあり、何かをしなくても、自然に努力なく現れています。
何かをしようとすることで、それを妨げてしまうのです。
                                   セイラーボブ

2023/09/01

Stop it!

2023.8.27ミーティング 48:13から

ギルバート:それは、「私」にまつわる悲しい物語です。悲しい悲しい「私」の物語。あたかも、自身のイメージが地面深くの箱に入っているようなものです。誰かがやってきて、「私」をこの箱から出してくれないかと期待しているのです。

それは悲しい物語です。というのも、誰もそれを掘り起こしてはくれないからです。すなわち、自分以外は誰も調査をすることができないからです。それは、「私」ではないのですが、それでも私にかかっています。意識それ自体が調査しなくてはいけないのです。

抑圧(depression)という言葉は、何かが押しつぶされているということを意味します。私は抑圧されているという時、調べてみるのです。誰が抑圧されているのか? 誰が悲しんでいるのか? 誰がその物語にふけっていて、その奇妙な楽しみを得ているのか? 以前誰かが私に、「誰も楽しんでいないのならどうなるのか?」と言いました。

でも、自己を中心とした活動にふけるということは、何らかの見返りを受け取っている何かがいるに違いありません。その見返りを受け取っているものを見つけてみると、それは「私」であり、フィクションなのです。

あなたは、悲しい「私」の物語と一緒に生きたまま箱に入って埋められていますか? 私はあなたに二語の言葉を贈ります。「メモする必要がありますか?」。いいえ。たった二語だけです。

Stop it!

2023/08/29

あなたは自ら輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。

ゾクチェンの経典で言われているように、あなたは自ら輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。
ただそれだけ。他には何もない。
あなたはずっとそうであったし、これからもずっとそうです。
自身を過小評価しないでください。
20年かそこらかかって探求したことを捨てて、自分が「それ」であると知って、この部屋を出ていくことができるのです。
これまでも、これからも「それ」であるというのは、すばらしいことではないですか?
それ以外のものにはなり得ないのです。
始まりもなく、終わりもなく、誕生も死もなく、時間も空間もなく、体でもマインドでもない。
                                    セイラーボブ

2023/08/25

あなたに選択権がありますか?

2023.8.20ミーティング  52:23から

ギルバート:ボブの最初の本には数百のポインター(ヒントとなる言葉)があり、その中の一つに、「言葉は物ではありません。水という言葉を飲むことはできません」というものがあります。水という言葉を文字で書くことはできます。パソコンで千回書いて、一万回プリントアウトすることもできますが、それが水になることはなく、水という言葉を飲むことはできません。

言葉は実在(being)ではありません。思考は実在ではありません。そして、アウエアネス(意識)には思考がありません。誰しも同じです。もしそれを深く考えると、何が起こるでしょうか? アウエアネスには思考がありません。明晰さ(clarity)。明晰さは、手に入れる特質ではなく、すでにあるものです。それを普遍的な特性、あるいは存在という事もできます。

すべては明晰で明らかです。そして、人は何ものにもなることはできません。実際それは蜃気楼(mirage)にすぎません。蜃気楼の中の水を飲むことはできません。あなたが人を探しても、見つけることはできません。それは単なる思考、イメージ、記憶のかたまりにすぎません。「私」という記憶が犯人のように見えるのです。その「私」が、記憶の図書館の長なのです。

その私は、うわべ上では好みがあります。ある物事を思い出すのを好み、他の出来事を忘れるのを好みます。でも、「私」の記憶はフィクションです。存在(being)のことを、人は究極のものと呼びますが、それを何と呼ぼうと、ラベルはそれではありません。そして、非実在から実在への旅は実在ではありません。

分離した存在という幻想は実在ではなく、それをあなたはどうすることもできません。実在が非実在に対して何かしなくてはいけないことがあるでしょうか? それに何ができるでしょうか? それが何かをする必要はありません。非実在は決して実在になることはありません。

「What's wrong with right now if you don't think about it.」の最後がこの話だったと思いますが、それは、「くつろいで、ありのままでいなさい(Relax, and be what you are.)」という大文字です。そして、あなたに選択権がありますか?(Do you have a choice?)

2023/08/23

唯識(ゆいしき)・世界は実在するのか

佐々木閑 仏教講義 9「仏教の宇宙 その22」(「仏教哲学の世界観」第12シリーズ)

去年一年がかりで、仏教の中にある非二元についてこのブログに書きました。その中でも特に、唯識の思想がセイラーボブの教える非二元の世界に近いことを言っていると書いたつもりです。でも、あまり上手に書けなくて、最後は佐々木閑先生のYouTubeをたくさん転載させていただきました。

現在進行中の倶舎論の話はいまいち非二元とは関係ないなぁ、と思って見ておりましたが、今回、唯識の教えの要点を的確に語っておられます。佐々木先生はそれを「もやもや」「不思議な力」と表現してみえます。

用語も説明も違いますが、佐々木先生の説かれる仏教は、セイラーボブの教える非二元と根本的には同じではないかという気がします。仏教に興味がない人も、ぜひこのYouTubeを見てください。おおいに参考になると思います。

2023/08/22

ただ、そのままにしておいてください

考えることや思考を取り除こうとすることは抵抗です。そうすることで、それを留めさせてしまいます。
実在は、非受容、非拒絶、非執着、非分離です。
ただ、そのままにしておいてください。
そのままにしておくと、そこには二元性に対立する独立した個人という考えはありません。
分離した存在という考えがあると、二元性の中へと戻ってしまいます。
非二元性という観念もろとも、捨ててしまうほうがましでしょう。
                                    セイラーボブ

2023/08/18

恐怖には理由がありません

2023.8.13ミーティング 1:06:06から

アニータ:私は実際に自分に尋ねてみました。そして、ここには(体を指さして)何もないということは明らかです。皆さんがどう見ているのかは知りませんが、それは私にとっては知的なものです。でも、ここには何ないということは明白です。だとすると、どうして私は、自分が私だと思っている人とこれほどまでに同化しているのでしょうか?

私が同化しているのは、この体の中にある何かだと思えるのです。体があって、その体が「私」はいると信じているようなものです。そのことを確認するために座って瞑想して、体の境界を消すのです。私にはその訓練が必要に思えます。というのも、そうすると、そこには何もないということがはっきりするからです。でも、この自己同化がどこからくるのかわかりません。

カット:思考です。

アニータ:何?

カット:それは思考からやってきます。もしあなたがそのことを考えなかったら、それは存在しません。

アニータ:そのとおりです。

カット:思考がなければ、あなたは同化することはできません。あなたは、自分が存在するということを知っています。でも、思考なしでは、自分が誰なのか、それが何なのか、どこにあるか、大きいのか小さいのか、宇宙全体なのか、無なのか。思考なしでは何ひとつわかりません。でも、あなたは、自分が存在するということは知っています。

アニータ:そのとおりです。そして、そこにはたくさんの恐怖があるということを認めます。

カット:どうしてそれが恐怖だとわかるのですか? あなたはそれにラベルを貼り付けています。

アニータ:ええ、ちょっと子供っぽくありたいと思っている時があります。たくさんの恐怖が根底にあって、それが体に痛みとして現れているように感じるのです。そしてここへやってくると、そのことに意識的になる助けになります。

ピーター:それが助けになっている。

アニータ:そうです。夜、家に一人でいる時にはそういう恐怖があるとか、子供っぽい瞑想は全くしません。たくさんの恐怖があって、私が深く入っていくのを止めているように思います。深く入っていくと、恐怖がやってきて、それができなくなるのです。

カット:あなたはそれを恐怖と呼んでいますが、ボブの言うことを信頼していますか? あるいは、このことを理解している他の人の言うことを信頼していますか? そうした人たちが指摘していることが信頼できると思っていますか?

アニータ:ええ、完全に全く信頼していますが、しかし、

カット:「しかし」。いいですか。その「しかし」によって信頼を放棄して、ポインターを見失っているのです。あなたは聞いたことがないかもしれませんが、ボブは何度も指摘しています。恐怖は観念であり、ラベルです。でも、それはまた肉体的な要素もあって、知覚を伴い、心臓が激しく打つかもしれないし、呼吸が激しくなるかもしれません。でも、そうしたことは、すべて思考がもとになっていることです。例えば、サーベル・タイガーが実際に部屋にいるような場合を除けば、恐怖には理由がありません。

恐怖がそこに依然としてあるなら、それは思考がもととなっています。それはとても繊細な思考です。ボブが何度か他の人にアドバイスをしているのを聞いたことがありますが、恐怖に直面した時の最悪のシナリオは、あなたが気を失うことです。あなたは死にはしません。ほんの数秒気を失うだけです。あなたが受け入るべきことは、数秒気を失うだけのことです。でも、それはおそらく起きません。

なぜなら、たくさんの人たちがここへやって来て、「OK、私は見続けることにしよう。真実のため、真実が成就するために喜んで死のう」と言いました。でも、最悪のシナリオは、マインドがはったりを利かして、「おまえを殺す。それは危険だ。やめろ。私と一緒にいろ。同化していろ」と言います。でもあなたがはったりを見抜いて、「OK、私は見つける」と言います。そして、あなたは、決してそれが起きないだろうと知ります。

私がみんなから聞いたことによると、あなたがはったりを見抜くと、マインドがあなたを気絶させることは決してありません。あなたはそれを見抜き、マインドはリラックスして、何も起きません。恐怖には根拠がありません。もしボブの言うことが信頼できるなら、自分で確かめてみてください。自分で見てください。

あるいは、その恐怖に明け渡して、調査することを止めて悩んでもかまいません。その後で恐怖に直面してみてください。そしてそれがあなたを殺すと言うのなら、何を殺すのですか? 体? マインド? それはソフトウエアにすぎません。では、何が殺されるのですか? 

ギルバート:ストーリー。

カット:ええ、ストーリーです。

ギルバート:恐怖は常に未来にあります。

カット:ええ、良い指摘です。恐怖は未来、未知です。

2023/08/15

「今」はいつ始まりましたか?

顕現の中には、どこにも静止した地点はありません。それは自然に起こっていて、時間はありません。
「今」はいつ始まりましたか?
「今」と言ったとたんに、今は終わっています。
「終わった」と言ったとたんにまた始まっています。
それは自然に起こっています。そこには時間は存在しません。
                                    セイラーボブ

2023/08/11

どんな言葉もそれではありません

2023.8.6ミーティング 43:43から

ギルバート:顕現の中には距離があります。「ここ」、「あそこ」があります。そして、私はまだ「あそこ」にはいないと考えます。でも、「あそこ」は存在しないのです。なぜなら、私が「あそこ」へ歩いていくと、「あそこ」が「ここ」になって、実際には「ここ」から出ることはできません。

たとえもしマインドの中で、夢の中へ入っていこう、あるいは、望んだ目的地に行こうと思っても、この直接性の外に出ることはできないのです。なぜなら、その直接性こそが生、永遠の命なのです。生には時間は存在しません。生はどこからやってきたのですか? 命はいつ始まりましたか? 科学者は、それはビッグ・バンだと言います。彼らは望遠鏡を打ち上げて、時間を遡ってそれを探そうとしますが、唯一存在する時間は今だけです。

直接性があり、時間は観念なのです。私たちは時間を想像することができ、うわべの上では空間も見ることができます。でも、空間を見ることができますか? 私たちは大きさを見ることができますが、部屋の大きさは空間の中にあるのです。目は空間の中に現れています。そして、最初に見るのが空間なのです。

そして、私とは何なのか?私はどこから見ているのか?見ているのは誰なのか?というのは、とても重要な問いです。それが直接指し示しているのは、見ることは自然に起こっているということです。あなたが、見ることを起こしているわけではありません。

朝目覚めると、見る働きはすでにそこにあります。ほんの一瞬、自分がどこにいるかわからないかもしれません。部屋の中にいて、ラベルが戻ってきます。ああ、起きてシャワーを浴びて、コーヒーを飲んで、仕事に行かなくてはいけない。どんなストーリーがやってきたとしても、存在意識の直接性の中には、ストーリーも「私」もありません。そして、それを認識することは可能です。そして、それが実在のすべてです。

メッセージとしては、それを調べてみることです。もしあなたが心理的に苦悩しているのなら、その苦悩している「私」は誰なのかを調べてみるのです。実際に調べてみると、「私」は見つかりません。なぜなら科学は、宇宙のどこにも静止した地点はないと告げているからです。それは動きであり、絶えざる変化の流れです。しかし、その絶えざる変化は、変化しないものの上に現れています。

noumenon(本体:哲学用語で現象の反対にあるもの)は顕現となって現れることはありません。存在(being)、知る働き(knowing)など、すべての可能性はnoumenon(本体)の中にあり、あなたがそれを体験することはありません。それはマインド、体験を超えたところにあります。でも、あなたはそれを否定することはできません。

昔ある人が、「神は死んだ」と言いました。その本が書かれた時、いかれた知識人たちがそれに飛びつき、神は死んだ、いや生きていると議論しました。それは単なる観念です。あなたは、自分が存在することを否定することはできません。あなたが誰であろうと、あなたが存在しているということを否定することはできません。というのも、私たちはみな存在そのものだからです。

あなたは、それが何なのかを対象物として描写することも知ることもできません。なぜなら、それは主体だからです。それは一つのものであり、唯一の主体だからです。それを神と呼ぼうと、呼びたければ「私」と呼ぼうと、それは問題ではありません。どんな言葉もそれではありません。

2023/08/08

本質的にはそれもまた知性エネルギーなのです。

忘れているように見えるかもしれませんが、思い出したり忘れたりするものはあなたではありません。
そのアウエアネスがなかったら、思い出すことも忘れることもできないということを理解してください。
忘れることを気にしないでください。
忘れることも、あなたが「忘れる」というラベルを貼るようなパターンとして現れるということをわかってください。
本質的にはそれもまた知性エネルギーなのです。 
                                  セイラーボブ

2023/08/04

あなたはそれを理解する必要はありません

2023.7.30ミーティング 45:19から

カット:コメントが来ています。彼女いわく、「物事が静止した世界の中を私が動くというより、私はいつも変わらずにいて、私の中を物事が動いていくという表現が好きです」。ええ、また私たちは過去数回のzoomミーティングで、似たような理解について話をしていますが、それは、命が私たちを生きているということです。すなわち、目や体は命によって生かされているということです。

私たちは、体が動くのを見ると、それを見たマインドがコメントをするのです。ええ、そのようにデザインされているからです。心臓は血液を送るようにデザインされています。体は危険を避けて心地良さと安全を求めるようにデザインされています。そしてマインドはコメントをするようにデザインされています。

そして、そのいずれもが、いかなる存在によっても行われてはいません。誰も行為者を見つけた人はいません。これはある人から受け取ったすばらしい認識ですが、言ってよいかどうかわからないので名前は伏せておきます。そのシンプルなポインターがマインドを最終的に開かせるのです。

あなたが真実を見破れば、そこには何かをする誰かはいません。それは確固たることです。命が体を生きています。そのことが、あなたにそのほかの単一性のあるゆることを明らかにしてくれます。そこに誰もいなければ、そこには分離、分割、分断する人は誰もいません。そしてまた、今朝、eメールでお便りが届きました。

これも誰からかは言いませんが、理解は、あるがままを認識することからやってくるというものです。あなた(ディーン)が言ったように、変えず、修正せず、正さない。ただ、あるがまま。そして思考。思考が、私が言った、私が聞いた、私がやった、私が影響を与えたと言います。でも、それは単なる思考です。それもその一部です。

そうした思考がなければ、それは単にあるがままです。そして思考は、でも、そこには依然として「私」はまだそれを理解していない、どうしたらボブやカットのようにそれが確かなものになるのかと言います。私にはその確かさがないというのは、すべて思考です。そこには確かな人は誰もいません。確実に理解している人がそこにいると考えても、そこには誰もおらず、空です。それは単なる思考、ブルシットです。なんと明らかなことでしょう。

それがわかると、マインドが開きます。そしてその件は終わります。それは脇に置かれ、あ~あ、それは今この瞬間だ、永遠に新鮮で永遠に新しく、生きている。そして思考。私が見ている。これが私だ。私が聞いている。などなど。それです。そういうわけで、私はこの集まりの話には、それがあふれていて好きなのです。ボブが話の終りに語ったように、誰もがそれを垣間見ていて、誰もが自然な状態に生まれるのです。

誰もが、かつては言葉より先にいました。誰もが、完全に感覚器官の体験に注意を向け、物語が入ってこないで、自由な注意力が起きるような瞬間にいたのです。みんな、夢の中へと落ちて、無からどういうふうに世界がやってくるかを見るのです。ディーンが指摘したように、顕現全体、姿形、対象物は名づけられていて、マインドによって解釈されています。

目を閉じると、同じことが起こります。昨日のことを思い出すと、その中に世界全体が現れます。それは完全に意識の中にあります。意識のアウエアネス、存在の中に、世界全体が現れるのです。あなたは誰なのですか? その存在の中の想像上の生命体ですか? それとも、存在ですか? それを否定することはできません。

そしてまたコメントが来ています。ルチカ。「世界全体が、私たちの中に投影されたものであるということを理解するのはとても難しいです。そのことで何か考えを。ボブ、カットありがとう」。

カット:すばらしい考えですね。でも、注意しなくてはいけないのは、中とか外とかはないということです。なぜなら、私たちの内側に投影されたという考えもまた、投影されたものだということです。中も外も投影です。それを行っている人は誰もいません。それは単に根底にあるソフトウエアが投影して見ているにすぎないということです。昨日ミーティングをしましたが、ある友人がその投影のことを詳しく説明しました。同じ根底にあるパターン、二元性。あらゆるものの根底にあるもの。体、空、ハッブル望遠鏡、動物の行動の中、あらゆるものの中にあるもの。

白と黒、幸せと不幸はどこにでもあります。それを理解するのは難しいことです。そして、ありがたいことに、あなたはそれを理解する必要はありません。

2023/08/01

彼らは古い信念にしがみついて、調べてみようとしないのです

伝統的な教師の中には、「この訓練をしなさい。あれをしなさい。何年もかかります」という人がいます。
彼らには多くの信奉者がいます。
彼らは、そのシンプルさ、自然さに気づくことがありません。
そしてもしあなたが、伝統的な信念を抱いているのなら、このことを理解するのは難しい。
尻込みしてしまうのです。
多くの人がそうです。彼らは古い信念にしがみついて、調べてみようとしないのです。
                                    セイラーボブ

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7月4日のブログで紹介した佐々木閑先生と横田南嶺老師の対談が再公開になりました。興味のある方はぜひご覧になってください。

佐々木閑先生のYouTubeで、またしても仏教の根本思想である「我は存在しない」という場面が出てきました。輪廻や煩悩という思想は、一般的な非二元の考え方とは相入れないかもしれませんが、根底にあるものは同じです。

そして臨済録も続いています。

2023/07/28

虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません

2023.7.23ミーティング 40:22から

ギルバート:昨日、ボブのためにパーティをしました(95歳の誕生日パーティ)。そして私はチョコレートケーキを作りました。

カット:あれは美味しかった。

ギルバート:あれはしびれるほど美味しいチョコレートケーキだった。今まで、それほどたくさんのケーキを作ったわけではないのですが、作ってみようと思ってやってみたら、よくできました。そして何人かの人にレシピを聞かれました。それは内緒にしておきます。でも、もし誰かに、このこと(ボブの教えていること)に対するレシピを聞かれたら、ボブのポインターの一つを教えます。

それは、マインドを見つめ、それがどのように機能するか調べなさいということです。それはとても強力なポインターです。マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べるのは実に強力なポインターです。そして、アウエアネス(意識)には思考がないということを付け加えたいと思います。その二つのポインターが一緒になれば、それで十分です。

マインドを見つめ、それがどのように機能するかを調べてみてください。そして、アウエアネスには思考はありません。うわべ上で物語、ストーリー、お祝い、死などに囚われているキャラクターは、意識(consciousness)の上に観念として現れているものです。では、その意識(consciousness)に気づいているものは何なのか? それに気づいているものは何なのかというのが鍵です。

それに名前を付けることはできません。また、否定することもできません。それが本当のあなたです。それが本当の私たちです。そしてそれは、他には何もない一つのもの。一つの意識(consciousness)であり、私の意識ではありません。あなたの意識であり、ボブの意識であり、カットの意識です。それは分割されてはいません。それを分割することはできません。何も分割されません。

それについて考える時、どうして観念が何かを分割することができるでしょうか? 思考や観念には実体や独立性がありません。ボブが言うように、あなたが調査すると、それは調査には耐え得ません。それは粉々になります。それゆえ、マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べることには潜在的な可能性があります。その潜在的可能性は仮想(numenon)、非顕現からやってきます。

顕現、見せかけには力がありません。それは夢なのです。そして夢の中にも夢があります。夢の中で見ている夢が「私」、私という信念なのです。その「私」は実在ではないということを知ると夢は落ちていきますが、意識(consciousness)という夢は残ります。しかし、その意識に気づいているものは夢を見ていません。ボブ、誕生日おめでとう。

マンジュ:ボブ、質問があります。どうして私たちは完全に自身のことを忘れてしまうのでしょうか? 私がこのことを理解した時、どうして私は自分のことをマンジュだと考えてしまうほど愚かなのかと思ったのです。一体、どうしてこれが私たち皆に起きるのでしょうか? そして最後には、皆がそのことをを理解するのですが、どうしてそのことを完全に忘れてしまって、自分のことを人だと思うのでしょうか? そしてその人が世界に出て、死ぬまで生きていると思うのでしょうか?

カット:ええ、ボブに聞いているのですね。(ボブに向かって)どうして私たちは、本当の自分を完全に忘れてしまうのでしょうか?

マンジュ:完全に。(誰かが、完全にではないと言った)

ボブ:私たちは言葉を身に着けます。言葉を学び、学校へ行き、さらに言葉を学びます。それぞれの言葉には違った意味があります。そして私たちは言葉を信じるようになります。でも、言葉は物ではありません。言葉とは何ですか? 言葉は音です。音とは何ですか? それは波動です。そこにはエネルギーの波動があります。同様に、体は土、空気、水、火、空間といった構成要素でできています。あなたは空気なのか、あなたは火なのか。あなたはその構成要素のいずれでもありません。

構成要素は亜粒子原子、純粋なエネルギーへと分解することができます。つまり、体とマインドはエネルギーに他ならないのです。エネルギーとは何ですか? 波動、動きです。波動として振動しているものが、実在であるかのように現れているにすぎません。海を見てください。海は動かないように見えますが、近寄ると何かが動いています。たくさんの小さな波があります。その一つ一つの波は水以外の何ものでもありません。それは決して変化しません。私たちは、言葉によってすべてを変えてしまいます。

聖書では、始めに言葉があったとあります。言葉が神とともにあり、言葉が神でした。あらゆる神は言葉なのです。あらゆるものが彼によって、言葉によって作られました。言葉によってあらゆるものを手に入れたのです。言葉無くしては、マインドには何もありません。私たちはそうした言葉を学び、言葉を信じたのです。信念という言葉を調べてみてください。信念は実在ではないとわかるでしょう。辞書で信念の定義を調べてみてください。

理由もなく、調べもしないで受け入れているものです。私たちはそれを調べもせず実在だと受け入れたのです。親が何かを告げると、調べもしないでそれを受け入れたのです。確かな知識や証明なしに、理由もなく、調べもしないで言われたことを受け入れたのです。それが真実なのか嘘なのか、それが真実に耐え得るのか調べてみてください。

海へ行って、バケツ一杯の青い水を汲んでくださいと言ったら、あなたは何と言うでしょうか? 馬鹿なことは言わないでと言うでしょう。というのも、海は青くはないと知っているからです。でも、海は青く見え続けます。空は青く見えます。でも、空は単なる空間にすぎません。蜃気楼の中の水。そして有名な、ロープがヘビに見える話。一本のロープがヘビだったことがあるでしょうか? いいえ。暗闇でロープを見て、ヘビだと思う人がいます。その信念ゆえに震えやあるゆる種類の反応が起こります。

私たちは、あまりにも多くの信念を身に着けました。そして、恐怖、怒り、落胆によって自身を動揺させています。でも、それが本当かどうかを認識、質問、調べてみてください。虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません。

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この日もミーティングのあと、レストランでボブの誕生パーティをやるということで、ボブはスーツを着ています。そして、今まで見たこともないほど多くの人がミーティングに参加しています。

みんなで食べて歌って楽しそうです。
ボブ、95歳の誕生日、おめでとう。