2019/01/15

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑥

どうしたら理解は起きるのか

セイラーボブの教えそのものはそんなに難しいことを言っているわけではないので、ミーティングに数回出るか、本を一冊しっかり読めば何を言っているのかはわかると思います。ニサルガダッタ・マハラジは彼の話を6、7回程度聞けば十分理解できる話だと言っていて、セイラーボブも同じことを言っています。(Living Realityから)
つまり、セイラーボブの話は、6、7回程度聞けば十分理解できる話です。

私の場合は自由な長旅の途中だったことや、メルボルン滞在が楽しかったので、5か月も滞在してミーティングに出続けました。メルボルンの町は年末から春先(メルボルンでは夏)にかけては気候も良く、テニスの全豪オープンやオーストラリアデイ、F-1などの行事が目白押しで町全体が活気にあふれていました。また、ある調査によれば、世界で一番住みやすい都市だそうです。(メルボルンでミーティングに出ない時は何をしていたのか興味ある方はこのあたりのブログを読んでみてください。)

また一方でボブの英語がひどすぎて、何を言っているのかよくわからず、理解するためには本を買って読んだほうが手っ取り早いと思って図書館で本を読んでいた時間が多かったせいもあります。

ボブの教えを要約すると、
・私という存在は思考に植え付けられた条件付けにすぎず、実在ではない。
万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない。
世界は意識の中に現れる。
・私たちが見ている物は実体のないものであり、空(くう)である。
・エンライトメント(覚醒)はフィクションである。
・あるのはアウエアネス(意識)があるだけである。
というようなところです。

セイラーボブのミーティングに出てボブの話を聞いていると、(そのとおりだ)(それしかない)(理解できた)という気持ちになります。2015年に日本に帰って何日かたつと、何か釈然としない理解の浅い部分があることに気づきました。

それでまた2016年にもミーティングに参加しました。ミーティングに出ると、また、(そのとおりだ)(それしかない)(理解できた)という気持ちになりました。2018年にブログにコメントをいただいて、教えをはっきりとした実感をともなう当たり前の事実として確信していないということを思い知らされました。

そこから3か月ほど毎日ボブの本を読み、YouTubeを見て教えを学びなおしました。
毎日本を読みながら、ある時ふと、自分のやっていることはエンライトメントを探している人と同じではないかと気がつきました。

私は、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを、実感を伴うあたりまえの現実として確信したいと思っていましたが、「エンライトメント」という言葉を「実感」や「確信」に置き換えただけで、エンライトメントを探す人と同じように、体験を求めているということに気づきました。

いくつかのヒントがきっかけとなって理解が起きました。その理解というのは、
実感を伴うあたりまえの現実として確信することはできないし、実感や体験を得ようとしても無駄であり、それは不可能であるという理解です。
「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを、知的に理解していれば十分であって、実感を伴うあたりまえの現実として確信することはできないし、実感や何らかの体験を得ようとしても無駄です。そんなことは起きません。

最初にヒントをくれたのはギルバートでした。ギルバートの電子ブック "Who do you think you are"(現在入手不可)を読んでいて、こういう一説がありました。

すべてのものごとは、知ること(knowing)の中で起きる。あなたは「どうしてそんなことがわかる?」と聞くかもしれない。そしたら私はこう答える。「そんなこと知りようがないじゃないか」

知ること(knowing)とはアウエアネス(意識)と同じ意味で、この会話の要旨は、万物は意識の中に現れる。それに対して、あなたは「どうしてそんなことがわかる?」と聞くかもしれない。そしたら私はこう答える。「そんなこと知りようがないじゃないか」という意味です。

またギルバートはYouTubeにあるインタビューの中で、「アウエアネスを理解しようと思ってもそれはマインドでは理解できない。答えはマインドの中にはない。例えばそれは死を理解しようとするのと同じで、死がどんなものかは誰にもわからない。死ぬことがこのうえなくすばらしい可能性だってあるじゃないか。誰にそんなことがわかるかね」と言っています。

次にヒントをくれたのはカターナでした。ミーティングのYouTubeの中で、誰かが、「私はいないということに実感が持てない」と言った時や、類似の質問に対して彼女はこう説明しました。(正確にではなく、発言要旨の再現です)

「(私はいない)ということをいくら考えても、(私はいる)という思いは消えることはない。なぜなら、もし私という主体が消えたら世界が消えて何も認識できなくなって、(私はいない)という認識も消える」

「もし私がいなくなったら、体も消えて、世界を見ることも実感することもできない」

「空(くう)の世界を見ようと思っても、そこに何もないのなら、何も見えない」

「例えば金魚鉢の中の一匹の金魚が、ある日突然、(私とは一体何だろう)と思っても、自分の姿形を外から見ることはできない。金魚が、自分が金魚鉢の中の金魚だと認識するには、金魚の外、さらには金魚鉢の外に出ないとわからないが、それはできない。人間も同じで、もし自分が何者か知ろうと思えば、体の外に出て、さらにはこの世の外に出ないとわからない。でもそんなことはできない」

「ニサルガダッタ・マハラジは、この世は夢であり。私たちは夢の中に生きているという。でも私たちはその夢から醒めることはない。夢から醒めるためには、夢の外へ出なくてはならず、死ななければ出られない。同様に、(私)という基準点が完全に消えるのは死ぬ時である」

「私がいない、ということを体験しようとしてもそれはできない。あなたが、(私)という基準点を完全に無くすのは肉体を離れた時であり、死んだ時である」

「この世がマーヤー(幻影)だといくら言っても、実際には生きている限り世界は現われ続ける。(私)という基準点は生きている限り現われ続ける」

「思考を止めたいと思ってもそんなことはできない。それが起きるのは死ぬ時」

皮肉なことに私はセイラーボブからではなく、ギルバートとカターナの発言で、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを、知的に理解していれば十分であって、実感を伴うあたりまえの現実として確信することはできないし、実感や何らかの体験を得ようとしても無駄であるという理解が起きました。

もし仮に、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを体験的に理解できるような体験が起こったとしたら、それはエンライトメントではありませんか? 私は、「エンライトメント」という言葉を「体験」や「実感」という言葉に入れ替えただけで、結局エンライトメントを探していました。

セイラーボブは再三にわたり、「あなたはこのことをマインドでは理解できない。なぜなら答えはマインドの外にあるからだ」と言っていますが、エンライトメントの時と同じように、またしてもボブの言葉を素直に受け取ることなく何度も見逃し続けていました。

他には何もない一つのものを理解しようとするのは罠です。それを手放してください。
                           A sprinkling of Jewelsから

私たちが実際に生きている世界は二元性の世界であり、非二元性の世界ではありません。ですから、そこには「私」も「あなた」いるし、「空(くう)」でもない。どんなことをしたってそこには世界はある。

どんなことをしたって、「私」も「あなた」も消えない。万物が空(くう)から現れる瞬間を見ることもなければ、他には何もない一つのものを実際に見ることもない。それはあたりまえの事なのに、人はその不可能な体験を欲しがる。そして多くの人がつまずく。実感が持てないと。

セイラーボブは「海の水は実際には青くはないが青く見える。あなたにバケツ一杯の青い水を汲んでこいと言ってもそれはできない」というフレーズで、「私」は実在ではないが、実在しているように見えるということを説明する時に使います。これはほとんど毎回ミーティングで言っています。でも私は、青い海の水を探していました。

私はそのメッセージを全く理解せず、(私がいないという実感)(私がいないという体験)を探していました。そんな実感や体験をする日は永久にやってきません。それではエンライトメントを探している人と同じことをしています。もしその日がやってくるとすれば、死ぬ時かエンライトメントした時かトリップした時です。エンライトメントはフィクションです。

エンライトメントのところで書いたアポロの宇宙飛行士のように、一時的に(私がいないという実感)(私がいないという感覚)を体験する人がいることは私も否定しません。でもそれは、あくまで体験であって、去っていくものであり、実在ではありえません。そんな体験は不要です。ボブの教えているのはそういう体験ではなく、今ここにある意識です。それがすべてです。

(もしそういう体験が起きたら理解できるのに)という考えは未来を意味しています。ボブの教えに時間はなく、あるのは今ここだけです。ついでに書いておきますが、「未来も過去もない。時間はない。あるのは今だけだ」という教えも、二元性の世界の住人である私たちには、時間はあるよう見えます。海の青い水と同じです。実際に時間なんてないと実感できるのは、肉体を離れた時です。生きている間は実感することはできません。

セイラーボブを学ぶ多くの人がここでつまずきます。多くの人が「実感できいない」「知的には理解できるが実感、確信がもてない」。非二元の教えは、パラドックスであり、多くの矛盾を抱えています。ミーティングのYouTubeでも参加者の質問はこの点に集中します。そして皆、いくらセイラーボブが「答えはマインドの中にない」と言ってもメッセージをちゃんと理解しません。そして多くの人がそのまま停滞するかボブのもとを去って、また別の師を探しに出かけるのです。気づいてないだけで、理解はそこにあったというのに。

体験も実感も不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。そして笑いました。あれほどあちこち探し回ったものが、「今ここにある意識」だったなんて。そんなシンプルな事だったのかと腹の底から笑いました。その瞬間から今まで抱いていた疑念は無くなりました。

私は今では、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを理解、確信しています。もう揺らぐことはありません。

でも、実感や確信が持てないから自分は教えを理解できてないと思わないください。そんな実感や確信があってもなくても同じです。ボブは「答えはマインドの中にない」、考えてもわからないと繰り返し言っています。

もし無理やり信じ込もうとすれば、今までの概念を新しい概念に置き換えるだけになってしまいます。それは罠です。(わからない)(言っていることはわかるけど)(そうは思わない)いずれもOKです。そのままにしておいてください。

ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。ではどうしたらいいのかというと、それが事実であるという信念(faith)と確信(conviction)を持って行動することです。これはセイラーボブの発言ではなく、ニサルガダッタ・マハラジの言葉です。(Living Reality. p.280から)

ジェームズ:ニサルガダッタの言葉の中に私の好きなものがあります。「解放というのは獲得するとかいう問題ではなく、あなたはずっと自由だったという信念と確信の問題だ。そしてその確信にもとづいて行動する勇気の問題だ」


マインドの中の「私」は実体のないもので、実在を理解することができません。人々は知的には理解できると言いますが、確信を持てないと言います。でも、知的な理解しかないのです。それ以上は何も起きません。そこからは、信念、確信、勇気が必要なだけです。そして機が熟せば、理解、確信は自然に起こってきます。

ボブの教えを妄信するのではなく、いつもそのことを心においておく。そうすると本当の意味での理解が起きます。
さんざん探しても見つからないので、あなたは思考を止めます。するとそこに意識があります。

必要な理解はたった一つ。今ここにある意識がすべてであり、それが私であり、私の思考が止まっていても、その意識の中に世界は現れているという理解だけで十分です。アウエアネスのところで説明したトラムの話を思い出してください。

多くの人がセイラーボブの教えはエソテリック(秘儀、秘教)の教えだと勘違いしていて、何か特別な体験が起きるのではないか、特別な理解があるのではないかと考えています。何も起きません。何の体験も不要です。そういう体験を求めることこそが落とし穴です。

以下はセイラーボブのホームページからの引用です。

真理や真実は蓄えたり、蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできない。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。昨日理解したことは少しも役に立たない。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)すなわち、知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません」
                              Sailor Bob Adamson


これはちょっと蛇足ですが、ボブは私のようにマインドの納得を求める人に向けて、
肉体などないということを原子の話で説明します(「ただそれだけ」p.196.l.9)

ちょうどこの肉体が、要素、つまり、空気、土、火、水、空間からできている個体のように見えるのと同じことです。これらの要素は、原子より小さな粒子に分割でき、最終的には無物性に至ります。

ボブは、物質の中へどんどん入っていくと、原子になり、素粒子なって、何もなくなる、という話をよくします。私はいつもこの話を聞くたびに、いくら小さくなっても、そこには何かあるのであって、決して無ではないんじゃないかと思っていました。最近このブログを書くために素粒子を調べて驚いたのですが、最近の素粒子研究では、素粒子には大きさがないとする理論があるそうです。(Wikipedia 素粒子)

セイラーボブは動物や自然科学のドキュメンタリー番組を見るのが好きだそうですから、きっとそういう番組で見たんでしょうね。
いずれにしても、こういう説明も不要です。私が、セイラーボブの教え(入口)で使った、森で倒れる木の音がするかどうかというような話も実は不要です。

どんなにマインドを納得させるような説明をしても、マインドはまた裏口から出て行って質問や疑問を探してきます。
セイラーボブは、理解はマインドのものではなく直感のものだといいます。例えば、
エリザベス通りを歩いていて、向こうから、いかつい男が猛スピードでこちら走ってきたら、あなたはとっさに避けるでしょう?
あなたは、頭の中で、(あの男は時速何キロぐらいでこっちへ向かっていて、私は何キロぐらいで歩いていて、もし避けないと・・・。なんて考えていないで、一瞬に理解して避けるでしょう?と。

以下は (Living Reality.p.173)から引用。

私は誰か?

ジェームズ:ラマナがかつて教えた技法に「私は誰か?」と自問するものがあります。人々は何年も何年も自問しました。

ケリー:彼らは答えなんてないということを理解しないで、答えが見つかるのを期待したからさ。

ボブ:質問する人が質問そのものなのです。もしその質問がなされなければ、質問する人も質問もない。質問する人、すなわち質問がなければ、あなたはこの瞬間、直感とともにあります。

以下は (Living Reality.p.212)から引用。

エメット:あなたがニサルガダッタのところに通っていた時、どこかの時点で「理解した」という時があったのですか?厳密に?

ボブ:彼は、私は体でもなければマインドでもないと指摘しました。そして私はそれを理解しました。でも、それがどこかの時点で起こったと言うことができるのでしょうか? そうすると、またあなたは時間にとらわれてしまいます。表面上は、それは最初に彼に会った時だと言えるでしょう。私は彼の言うことを聞く準備が十分できていました。でももし私がいつ理解したかをあなたが考える時、あなたはまた時間にとらわれてしまいます。そしてあなたは概念化し、考え始めます。「そうなるために、私はこれこれとこれをしなければいけない」と。私が彼の言うことを理解した時、私が理解したのは、私が(それ)ではなかったことなど一度もなかったということです。もちろん古い習慣はすぐには無くなりませんでした。でももし何かが嘘であると理解したら、もう決してそれを信じることはできません。昔の考えがやってきてもそれはすぐにゴミだとわかったので捨てました。それを放っておいたのです。固執することも執着することもありませんでした。
そしてそれに抵抗すること、すなわち、「こんなのは嫌だとか、ある状態にならなければいけない」はありませんでした。考えや習慣を変えようとしたり改めようとしたり修正しようとはしませんでした。それをすることは、ありのままを思考で変えようとすることです。習慣パターンがやって来た時、それはありのままです。それを変えようとする唯一の方法は思考によってです。もしそれを抵抗せず自然な状態のまま放置しておけば、それは自然になくなります。雲は空に張り付いているわけではありません。思考はあなたのどこかに張り付いているわけではありません。

セイラーボブは、自らの理解の体験をあまり詳しく語りません。聞かれても、多くの場合、「それはストーリーだ」と言って受け付けません。その理由は、もしボブが、あの時こうだった、ああだったと語ると、聞いた人はそれと同じことが起きないといけないと思い始めます。するとやがてマインドは同じストーリーをでっちあげてしまいます。
エンライトメントでも同じことが起こります。エンライトメントしたという人の話を読めば読むほど、マインドはそれを求め、エンライトメントというストーリーをでっちあげます。そうしてトリップが始まります。

以下は (Living Reality.p.271)から引用。

ボブ:答えはマインドの中にはありません。マインドがやってきたら停止(full stop)してください。停止すると何が残りますか?それでもあなたには意識があります。そしてそこにある意識はあなたに起こったことで汚されることはありません。その意識は思い出す限りあなたとともにありました。あなたの体は変化し、あなたの思考も変化し、そしてあなたの自分へのイメージも変わりました。変化しないものは何ですか? 決して変化しないのは「物ではないもの」、認識する空、すなわち純粋な意識です。それは鏡の中に映った像のようなものです。あらゆる種類の像が鏡に映りますが、鏡はそれに汚されることはありません。あなたはわかっているので、映った像が鏡ではないと言うことはできません。でも、鏡無しでその像が独立した実体を持つか理解しようとしてみてください。それはできません。あなたは映った像があるとも言えないし、ないとも言えません。それはあるがままです。それは見せかけです。それは私たちと同じです。そして私たちが映った像として現れていたとしても問題はありません。また映った像が擦り取られたとしても問題はありません。鏡は同じままです。

セイラーボブが教えているのは非二元の世界で、私たちの住んでいるのは二元性の世界です。じゃあ、その非二元というのはどこにある世界の話だということになりますが、私たちが見ているのと同じ世界のことです。

私たちは肉体を持っています。肉体を持っている私たちは、五感でしか世界を認識できません。もし、肉体がなかったなら、そこにはセイラーボブの言う非二元の世界が広がっているはずです。でも、私たちは肉体を離れるわけにはいかないので、その世界は私たちの理解を超えています。

セイラーボブは様々なポインター(ヒント)を使ってそれを私たちの伝えようとしています。そして多くの人が、非二元の世界と現実の世界をゴチャゴチャに考えて混乱しています。
ボブの教えを理解しても、体が消えるわけでもなければ、世界が消えるわけでもありません。またそういう体験をすることもありません。

セイラーボブが私たちの見えない非二元の世界を見ているとか、そういう世界を垣間見た経験をしたわけではありません。セイラーボブも私たちと同じように、二元的な世界にいて、二元的な世界を見ています。

セイラーボブの教えの肝腎なところは、「私はいない」とか、「世界は幻影である」というところではありません。セイラーボブの教えの肝腎なところは、「今ここにある意識だけが実在であり、思考は実在ではない」ということです。

以下は「ただそれだけ」p.227,l.3から引用。

それでも、それは依然として分離した身体、分離した実体として現れ続けるでしょう。物事は依然として起こり続け、対立物のペアとして現れ続けます。もしそれがなければ、世界には何も現われなかったでしょう。

2019/01/12

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑤

アウエアネス・awareness(意識)

セイラーボブはミーティングで、「アウエアネス・awareness」という言葉を頻繁に使います。ボブはこのアウエアネスのことを「知性エネルギー」「空」「認識する空」「seeing」「スペース」「それ」など、様々な言葉で言い換えします。

ボブの使うアウエアネスの意味は、「意識」のことです。私たちが日常、普通に持っている意識。誰かが気絶すると、「意識がなくなった」とか、「意識が戻った」とか言うあの意識のことです。

もっと詳しく言うと、思考(言葉)、イメージ、記憶などの背景にあるもの。思考(言葉)、イメージ、記憶などがやってくるスペースのようなもの。「背景にあるもの」、「やってくるスペース」という言い方は正確ではないかもしれません。思考やイメージもアウエアネスそのものなのですから。

その意識の中に様々のものがやってきます。思考、記憶、言葉、イメージなど。朝、目が覚めると、意識の中に一日がやってきます。目を開けると意識の中に目覚まし時計がやってきて、(会社へ行かなくちゃ)という思考がやってきます。そこから一日中、意識の中に一日の出来事が次々にやってきます。

あなた、私、椅子、建物、海、山。全部意識にやってきます。私たちには、物心ついた頃から意識があります。そのためこれを個人の意識だと思っていますが、そうではありません。逆なんです。個人がアウエアネス(意識)の中にいるんです。

宇宙の果てまで、このアウエアネス(意識)があるだけです。それがセイラーボブのいう「他に何もない一つのもの・one without a second」であり、「ただそれだけ」のそれです。

そのアウエアネス(意識)の中に「私」という個人が現れます。そうするとその個人はその意識は自分のものだと錯覚しますが、そうではありません。あなたも私も、猫や犬もアウエアネス(意識)の中にいて、アウエアネス(意識)を自分のものだと錯覚しています。

机や椅子もそうなのですが、机や椅子の場合には「知性エネルギー」と言った方が適切なのかもしれません。というのも、机や椅子は人間のように感覚器官がないために、それを意識として認識することができません。でも、机や椅子もアウエアネス(意識)の中にいるのであり、アウエアネスそのものです。

私たちの意識がなくなると、全世界が消えるのか?ある意味そうです。私たちは五感と思考を使って世界を認識しています。もし肉体を離れてその機能がなくなると、私たちは何も認識できなくなって、そこに何があるのかわからなくなります。このあたりのことは、セイラーボブの教え(入口)に書いたので読んでみてください。
コウモリは超音波を使い、犬は人の100万倍以上の嗅覚を使って世界を認識しています。私たちとは全く別の世界(アウエアネス)を感じ取っています。

さてここで、セイラーボブの教えを勝手に一行に要約してしまうとこうです。

「あなたは体でも思考でもなく、アウエアネス(意識)である」

それだけのことをボブは様々な言い替えや例え話で私たちに伝えようとしています。
ボブが使うawareness(アウエアネス・意識)の別の呼び方を書き出してみます。
・intelligence energy(知性エネルギー)
・cognizing emptiness(認識する空)
・space もしくは space-like awareness(空間のような意識)
・nothing(「無」あるいは「空」)
・presence-awareness(いまここにある意識)ゾクチェンの言葉。さらに付け加えて、non-conceptual, ever present, self-shining, one without a second, just this nothing else(概念化されず、永続で、自ら輝き、他に何もない、ただ何もないもの)という時もある。
・omnipresence, omniscience, omnipotence(偏在、全知全能のもの)聖書から
・Advaita(ヒンズー教)ad=not, vaita=two 二つではないもの
・non-duality(非二元)advaitの英語訳
・one without a second アドヴァイタ(他に何もない一つのもの・mahavakyasから)
・not two
・sat-chit-ananda =being存在-awareness意識-loving愛(ヒンズー教)
・刀でも切れず、火でも燃やせず、風でも乾かせず、水でも沈められないもの
 (ヒンズー教聖典ギータから)
・シバのダンス
 (ヒンズー教)この世に現れるものはすべて神の遊び、気晴らし。神が無知を装って様々な形となって現われ、ふたたび自分を再認識する様子を言う。実際には何も起こっていない。エネルギーのパターンが現れているだけ。
・non-conceptual awareness(概念化されない意識)
・naked awareness(むきだしの意識)
・seeing(見ること)五感はすべて自然に起こるアウエアネスの現われ。
・hearing(聞くこと)そこには見る人も聞く人もいない。
・smelling (かぐこと)
・touching (触れること)
・tasting (味わうこと)
・being (本性・本質)もしくはbeingness 我々の本性は意識(アウエアネス)
・wakefulness(起きている状態)
・timeless spaceless bodiless mindless birthless deathless pure presence awareness(時間もなく空間もなく体もなく思考もなく死もない純粋な今ある意識)
・natural state(自然な状態)
screen (映画のスクリーンがアウエアネスで映し出される映画が世界の例えで使う)
mirror (鏡がアウエアネス(意識)で映し出されるものが世界の例えで使う)
sun (太陽がアウエアネス(意識)で雲が思考の例えで使う)
クンダリーニ(エネルギーもアウエアネスの現われ)
以下は「ただそれだけ」中で使われている表現
・それ
・偉大なる完全さ
・非概念的意識
・思考が現れ、それ自身を信じ始める前の空っぽさ
・穢れのない原初のもの
・偏在、全能、全知であるもの
・思考によって分断されない単一なるもの
・二番目のない一なるもの
・一つでさえないもの
・空間的意識
・認識する空
・純粋な気づき
・意識
・非概念的
・永遠に新鮮
・自ら輝くもの
・存在意識
・まさにこれであり、それ以外の何物でもないもの
・不生の仏心
・ブラフマー(ヒンズー教の創造神)から草むらまで(ギータ)

これは全部、アウエアネス(意識)の別の呼び方です。ボブはアウエアネス(意識)と思考の関係をこれらの言葉使って説明します。いくつかボブの使う例え話を書きます。

一番頻繁に出てくるのが鏡の例えです。ボブの家の居間の壁には大きな鏡があって、ボブはその鏡を使ってしょっちゅうこの例えを使います。
鏡がアウエアネス(意識)で、その中に映るものが世界であり思考です。鏡には人々が映ったり去ったりしますが、その背景である鏡(意識)は何の影響も受けません。嫌な思考や悲しい出来事が起こっても、私たちの本質は鏡(意識)であり、それが映し出されたもの(思考や出来事)に影響されることはありません。

次は映画のスクリーン。スクリーンがアウエアネス(意識)で、映し出される映画が世界や思考です。映画の間はそこに世界が現れ、楽しいことや嫌な事が起こります。でもいったん映画が終わるとそこには白いスクリーンがあるだけです。「何も起こってないんだよ」なんて言う時も多いです。

太陽もしくは空をアウエアネス(意識)、それを覆い隠す雲を思考に例えるときもあります。私たちの本質が太陽であり空であると知っているなら、どんな雲(思考や出来事)が覆い隠しても不安になったり悲しんだりすることもありません。

ボブがアリンタ農場を洪水で失い、病気で苦しんでいた時も、「だいじょうぶ、万事うまくいくだろう」という感覚があった(「ただそれだけ」p.66)というのは、思考が私ではないということを理解していたからです。彼がエンライトメントしていたからではありません。

さてこのアウエアネス(意識)をはっきりと認識するにはどうしたらいいでしょうか。思考の背景にあるものなので、思考が止まっていればはっきりとそれを認識することができます。

私がボブに聞いた時は「花」ではなく「TAKU」と繰り返し唱えてストップするように言われました。(「ただそれだけ」p.108参照)そうするとそこに一瞬、アウエアネス(意識)がはっきりと認識できます。

また別の例をあげるなら、熟睡した朝、目を開ける前、思考がやってくる前のほんの一瞬、思考のない瞬間があって、そこでアウエアネス(意識)を鮮明に感じることもできます。

わざわざそんなことをしなくても、慣れてくればいつも思考や感情の背景にあるのがわかるようになります。それは瞑想したり何たらのコースやセミナーに参加したりして手に入れるものではなく、いつも普通にある日常の意識のことです。

それには段階も高い低いも浅いも深いもありません。鍛えることもなければ、失われたり、獲得したりするものでもありません。時々ボブのミーティングでも勘違いしている人がいて、「今日はアウエアネスに集中できた」とか「今日はアウエアネスがなかった」という人がいますが、集中していようがボケっとしていようが、いつもあるものです。

私の時もそうでしたが、ボブが質問者から「アウエアネスとは何ですか?」と聞かれて答える典型的なパターンは、トラムの音の会話です。ボブの家の前にはトラムが二路線走っていて、しょっちゅうトラムの音が聞こえます。

質問:アウエアネスとは何ですか?

ボブ:Aren't you aware that tram? That is awareness. (トラムの音に気づいていますか? それがアウエアネスだ)

それまでトラムの音など全然気にしていなかった質問者に、今走っていったトラムの音に気付いているか?と聞きます。このやり方は英語ネイティブには有効ですが、日本人にはどうかなぁ、と思います。aware (気づく) と awareness (意識)で韻を踏んでいるわけですが、日本語で韻を踏んで訳すと、「トラムの音に気付いてないのか?それが気づきだ。」となって、意味不明になってしまいます。

人間の五感はすべてアウエアネスの現われです。耳で聞いていると思っていますが、実際に聞いているのはアウエアネス (意識)です。目で見ていると思っていますが、実際に見ているのはアウエアネス (意識)です。脳で考えていると思っていますが、考えているのはアウエアネス (意識)です。

最近私は丸善に行った時は、脳科学のコーナーに行って、意識に関する本を立ち読みします。でも驚いたことに、意識が何なのか、いつ発生するのかということは科学的にも医学的にもまだ何も解明されてないそうです。

セイラーボブが言うように、死んだばかりの死体には目も耳も脳もあるのに、それだけでは見ることも聞くことも考えることもできない。コンピューターに電気が通らないと何も機能しないのと同じで、人間には知性エネルギーが機能しないと見たり聞いたりできない。

ボブのホームページから

意識 (awareness) は、それ自身で存在するものであり、それを手に入れたり無くしたりするための努力や誰かを必要としない。自然な状態は決して失われない。それは見せかけではないので消えたりしない。それはいつも変わらない。それは物ではない。概念上の考える人や概念上の思考は概念化されない自然な状態を見かけ上で見えにくくしてしまうということを理解しなさい。ほんの一瞬でも思考を止めてみれば自然な状態は全く明白だ。止まって見てみなさい。その見ることの中で純粋な意識が姿を現わす」
                             – Sailor Bob Adamson

自らの自然な状態を思い出しなさい。基準点(自己の中心)を持たず、いかなる実体も独立した存在形式も持たない、純粋で、偏在、空間のような、現われ続ける、自然な今ここにある意識を。自然な状態(顕現と空、空間と内容物の統一体)を思い出さなければ、錯覚が起き、見せかけへの執拗な固着、私と他者、うわべの二元性、が起きる。固着がなければそこには自然な状態としての自由があり、錯覚は消え均等性(非二元)が残る。それは自然な状態であり、それがあるだけで、他には何もない。自然さ(平静)として自然に残るのは、誰にも何に対しても瞑想することのない自然な(努力の要らない)瞑想である。何かを得ようとしたり避けようとしたりすることのない、今までもずっとそうであった努力の必要のない実在。それを何度も何度も繰り返し思い出しなさい」
                             – Sailor Bob Adamson

「いまここにある意識を調べてみる時、見る「物」はなく、ただ自然な概念化されない見る行為そのもの(seeing)

けがあり、実際そこには主体も客体もない。これを調べてみるとき、 awareness (意識)consciousness (意識)マインドとラベルが貼られているものには、主体も客体も現われないということはすぐに理解できる。主体も客体も空であり、空が見ているのである(認識する空)。空は空によって空 (から)になることもなければ、空で満たされることもない。その概念を取り去ると、言葉も思考もない、形容することのできない空が残る。真空でも空白でもなく、まるで晴れ渡った空いっぱいの光のような、生き生きとして自ら輝く、自らを認識する空。それを自分で確かめなさい。あなたの他には誰もそれはできない。それは自明のこと。見ること (seeing) は絶え間のないことだということを理解し続けなさい。あらゆる疑い、疑問や議論、概念上の探求者がまたやってくるだろう。それでも概念化されない空は平穏なままだということを理解しなさい」
                             – Sailor Bob Adamson


以下は Presence-Awareness からの引用です。(p.106)

31.ただそれがあるだけ
ボブ:そこにはただそれがあるだけです。すべてのものがそれです。他には何もない一つのものが、様々な姿形となって現れているだけです。他に使われる例えとしては(空間のような意識)が空間に例えられます。空間を同じような見方で考えてみてください。すべての物は空間の中にありますね。空間の外では何か仮定したり考えたり想像することができません。あなたが何かをする瞬間、それはどこで起きますか?何の中で現れたりやってきたりしますか? それは空間の中で現れたりやってきたりするのではないですか。もしそれが何か確かな物として現れるなら、その確かな物は何の中に現れますか? 空間の中にです。同様に、この純粋な知性エネルギーすなわちアウエアネスは空間のようなもので、すべてを含んでいます。体、マインドやすべてのものがそこに現われます。それは他に何もない一つのものです。ですから、それはあなたでもあるに違いありません。しかし、あなたはそれを思考やマインドで理解することはできません。それはマインドの中にはありません。マインドは物なので、物ではないものを理解しようとしません。

今までの人生で私たちは自分の役目を果たしてきましたが、どれほど空間に気づいてきたでしょうか? もし私があなたに、最初に見えるものは何ですか聞くと、あなたはたぶん、壁か何かが見えると言うでしょう。「ええ、最初に見えるのは空間です」と言う人はほとんどいないでしょう。いつもそうです。あなたが目を閉じている時でさえ、あなたの眼球と瞼の間には空間があります。アウエアネスについても同じです。あなたがきちんと物事を見始めると、最初に起こることは、もっともっと空間に気づき始めるということです。逆に言うと、すべてはアウエアネスの中で起こると知っているなら、最初にそこにアウエアネスがあることを認識し、感覚や感情、すべてがそのアウエアネスの中に現れます。あなたは空間を切ったり、掴まえたり、かきまぜたり、どうすることもできないと知っています。アウエアネスも同じです。それをどうすることもできないのです。何者もそれに触れることはできません。どんな傷もドラマもトラウマも決してそれを汚すことはできません。

別の言い方すると、「認識する空 (くう)」です。認識することはいつも起こっています。すべてを認識しているのは純粋な意識です。すべての物はただそのように現れる。認識する空。あなたはそれをどう理解しますか?「おや、私は今空 (くう) を見ている。今私は空に気づき始めた」彼らが言っているのは認識している者自体が空 (くう) ということではないだろうか?認識しているのは空 (くう) である。それを理解しなさい。あなたが注意して見る時、ここで最初に理解するのは、頭などないということです。そこにはただ空があるだけだ。すべてをそこから見ている。あなたが詳しく認識する空の中を調べてみると、そこにはいかなる見る人も考える人も意思決定者もいないとわかるでしょう。それはまったくの空 (くう) である。その中に物事が現れる。この体、頭の両側面、体の正面、これらはすべて、鏡の中の反射のようなものです。鏡の特性は反射すること。それは澄んでいて何もないが、近くに来たものを反射する。鏡に映し出されたものは鏡を汚したり触れたりすることはありません。

それを調べてあなた自身が空 (くう) そのもの、物ではない、と理解しなさい。すべてのものがその空間のようなアウエアネスすなわち空の中に現れては消えるということを理解しなさい。空は真空だとか空白だという意味ではありません。それは認識する。それは純粋な意識。この宇宙を機能させている知性と同じもの。パターンが現れては消えていく。

難しく考えないでください。要するに私たちの意識のことを言っているだけです。
そこにあるのは空間であり、そこにあるのは意識です。

ボブの使うアウエアネスの別の言い方で私が一番好きなのは、presence awareness。「存在意識」と訳される場合が多いけど、それだとわかりづらく、何か別の意識があるように思えてしまうので、私のブログでは「今ここにある意識」と訳しています。

ボブが教えようとしていることのすべては、「私は体でもマインドでもなく、今ここにある意識だ」ということです。

あなたは今までの人生で大成功を収めたかもしれないし、取り返しのつかない失敗をしたかもしれない。これから何かを手に入れようとしているかもしれないし、失おうとしているかもしれない。

でも、そんなことは「あなた」とは関係なく起こってくることであり、それは「あなた」ではありません。「あなた」は、「今ここにある意識」。ただそれだけのことです。

2019/01/09

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)④

エンライトメント(覚醒)パート2

以下は、Living Reality p.8からp.18までの引用です。ジェームズ・ブラハがセイラーボブをアメリカに招待する前に、ボブに初めて電話をかけて、エンライトメントについて聞いています。(翻訳・掲載は著作権者であるジェームズ・ブラハの了解を得ています)

最初の会話

ジェームズ:私は思考の果たす役割を理解しようとしています。人は思考によって自己実現ができるでしょうか?

ボブ:いいえ。思考はエンライトメントとは何の関係もありません。あなたともに今あって、いつもともにあるのは、自然な今ここにある意識です。もしあなたが思考やマインドの中を探しても、マインドができるのはそれを言葉に翻訳することだけです。
あなたは今、見ていますよね?

ジェームズ:はい。

ボブ:さて、もし今部屋の中を見渡して見たものにラベルを貼ろうとしても、あなたがラベルを貼ろうと見分けがつくのは少しの物でしかありません。実際は、あなたは部屋の中の物全部を見ています。あなたはマインドを通してラベルを貼ることができるものよりももっと多くの物を見ています。あなたは四つか五つの物にラベルを貼るかもしれませんが、すべてのものを見ています。

ジェームズ:その通りです。

ボブ:ええ、それが pure intelligence(純粋なる知性)すなわち pure functioning awareness(純粋な機能する意識)[presence awareness(今ここにある意識)、自然な状態の別の呼び方]と思考するマインドの違いです。マインドは言葉に翻訳する、それがマインドのするすべてです。
それは、「私はこう考える」とか「私はこう感じる」と言います。それがマインドのするすべてです。
しかし、見ること、聞くこと、実際の体の機能はマインドがラベルを貼る以前に働いています。それはいつでも全部、今この瞬間に働いています。

ジェームズ:私はたくさんのアドヴァイタの本を読んできて最近気づいたのですが、エンライトメントを何か物、達成する物として追いかけてきました。それは馬鹿げています。

ボブ:そのとおりです。

ジェームズ:わかってはいるんです。でも「人生を無駄にしてはいけない。それが何であれ、達成できるものなら何でも達成したいという思いが繰り返しやってきます。エンライトメントを起こすなんてできないとわかってはいるんです・・・。

ボブ:いいですか、エンライトメント、解放、他何やかやはマインドがでっちあげたものです。それらはラベル、概念です。

ジェームズ:そのとおり、でも私は今どうしたらいいのでしょう?

ボブ:あなたは何もしない。あなたは分離した存在として何かをしたことなどなかった。でも、行動は起こってきます。
それは精子と卵子があなたを生み出したのと同じです。あなたはその時どこにいましたか?

ジェームズ:わかります。でもどうしたらいいんですか?

ボブ:ただ人生が展開するのに任せてください。いままであなたが生きてきた人生のように。あなたは、自分が「私」と思っているものはマインドであり、それは何もしたことはなかったということを理解しなくてはいけません。
それには何かをする力はありません。それがやっているのは起こっていることを言葉に翻訳しているだけです。
出来事は今までと同じように起こってきます。でもあなたはもうそれを分離した存在、すなわちトラブルを起こす個人に結びつけることはありません。
すべての心理上の問題を引き起こすのは、分離した個人、分離しているという考えです。分離はありません。すべてのものは同一のものです。
もし自然を見たなら、あなたはすべてのものに同一性を見るでしょう。
昼の次には夜、静けさの後には音、潮が寄せては引いていく、季節がやってきては去っていく。
私たちはこうしたものすべてにラベルを貼ります。すべてを区別して。でも実際は一つのものです。すべては意識です。それは水の上の波のようなもの。波は水にほかなりません。海に立つ一つの波も海にほかなりません。マインドの中、ラベルを取り除けばそこに区別はありません。すべては一つのものです。すべては意識です。

ジェームズ:例えば今晩私は、「セイラーボブに電話しよう・・・」と考えました。

ボブ:ええ、思考は単にある時やってきます。それが実際におこり、あなたは電話を取り、ダイヤルしました。そこにはダイヤルした人は存在しません。電話をするという思考が電話したわけではありません。それは単に起こること、もしくは起こったことを言葉にしたにすぎません。

ジェームズ:オーケー。いいでしょう。解放を物のように追い求めるのは馬鹿げているとわかりました。でも、毎日、「私は(私)という主体を取り除きたい」という思いがやってきます。

ボブ:もしあなたが詳しく見れば、この「私」という主体は独立した存在ではないとわかるでしょう。あなたは、意識や気づいている状態無しに「私」という思考を持てますか?

ジェームズ:それじゃあなたは「私」という主体を持つことは悪いことではないと?

ボブ:ええ。それはやってくるでしょう。でももうあなたはそれが実体のないものだということを知っています。いいですか。海へ行くと海の水は青く見える。でも、あなたも私も海からバケツ一杯の青い水を汲むことはできないと知っています。

ジェームズ:そうですね。

ボブ:あなたは青い海や青い空を見ることをやめることはできないが、その真実を知っています。水の蜃気楼についても同じです。あなたは決して蜃気楼の水を飲むことはできません。

真実を知れば、それにとらわれることはなくなる。旧約聖書の言葉を覚えておいてください。「真実を知れば、あなたは解放される」真実を知れば、あなたは分離した一個の存在ではない。かってもこれからも。

「ジェームズ」という独立した主体についても同じです。それは現われ続けますが、あなたはその真実を知っている。あなたはもうそれにとらわれることはありません。それは足場を失いました。

ジェームズ:ええ、それは徐々に足場を無くします。

ボブ:そうです。

ジェームズ:たとえそうでなかったとしてもどちらでも問題じゃありません。

ボブ:そのとおり。どちらでも同じこと。本質は同じ。それは独立した主体ではありません。あなたに意識や認識がなかったら、独立した主体という思考を持つこともありませんでした。生命の本質があなたの体から去る時、まだ体には目や耳、鼻や心臓があるが、そのどれも機能することはありません。それはまるであなたのコンピューターの中にある情報のようなもので、もし電気がなかったら何の役にも立ちません。

あなたはその機能としての知性エネルギー、今ここにある意識であり、それには始まりもなければ終わりもありません。それはいつもそうであり、これからもそうです。エネルギーはそれぞれのパターンとして振動し、それぞれの姿形となります。あたかも海の水が青く見えていて実際にはそうでないように。

自己同化はそのまま続きます。まず最初にあなたはそれが偽りであることを見抜かなければなりません。あなたが概念の中で、自分が独立した存在であるという立場をとれば、それが「あるがまま」に抵抗し、エネルギーの流れを止めてしまう。そこからすべての問題が発生します。

ジェームズ:では、なすべきことはただ単に「あるがまま」ということですか?

ボブ:そうです。詳しく調べれば、あなたはそれ以外のものではありません。いいですか、あなたは今意識がありますね?あなたは「それ」です。

ジェームズ:はい。

ボブ:あなたはそうなるために何かしなければなりませんでしたか?

ジェームズ:何も。

ボブ:それは自然に起こってくるもの、自ら輝く意識です。それはそれ自身で機能します。そしてその今ある意識の上にあらゆる種類の違ったパターンが現れます。

ジェームズ:問題は、あなたが今言ったことを私は全部理解していて、明日おそらくとても良い気分で平和な感じがして、もう中毒のように探すことはないと思いますが、でも2、3日すると、恍惚とした至福やあらゆる種類の奇跡が連続して起っている話を誰かが書いている本を思い出してしまうのです。
そして、それが得られるように、自分という主体が完全に無くなって欲しいと思ってしまうのです。

ボブ:いいですか、あなたの個人としての主体は二歳のころ、あなたが言葉を覚え始めたころ始まりました。その時に自分は分離した存在だという感覚が始まり、一体性を求めるようになりました。でも今、あなたははっきりと偽の主体を見抜きました。まさしくそれです。
でも、毎日毎日、何年にもわたって強化され続けた古い習慣はすぐに戻ってきます。今、あなたが古い習慣に気づいた瞬間に、そこにはエネルギーが向かわなくなります。エネルギーなしでは何物も生きられません。
あなたがそれを見抜いた今、どうしてもう一度それを信じることができるでしょうか。

ジェームズ:それでは、あなたが言っているのは、理解するということですか?

ボブ:はい。偽物を見抜くことで、あなたはもうそれを信じることができなくなります。見かけの上ではそれにとらわれていても、エネルギーはそこからすぐになくなり、その先頭は切り落されます。
自己という主体、すなわち偽の基準点はしばらくはやってくるでしょうが、あなたが古い習慣に戻ることに気づいていれば、最終的にはその習慣はなくなります。あなたは何か無くした習慣はありますか?

ジェームズ:もちろん。

ボブ:この習慣もただ見抜くだけで無くすことができます。

ジェームズ:私が分離した存在だと感じるのはたいてい誰かといる時です。何か当惑したり、傷ついたりしたような感じがして、後になって、それは馬鹿げていると気づくのです。なぜなら傷ついたり当惑したりするジェームズはいないからです。ジェームズは偽の主体、偽の基準点です。

ボブ:そのとおり。人との交流は起こります。それが宇宙の機能の仕方です。ものごとは起こります。でもそこに人々がいるわけではないとあなたは知っています。もしあなたが自分は独立した存在ではなく、そこには自己の中心はないとはっきり理解すれば、他の人も独立した存在ではなく、そこにも中心はないと知るでしょう。そうすることであなたは落ち着いていられます。そうでしょう?

あなたは人々が何なのかを知りました。99パーセントの人がこのことを知らないか理解できないでいます。彼らは自分が何なのかを知りません。たとえエンライトメント、それは未来を意味し、未来などないですが、を説く人であっても偽の自己の中心から行動しています。

それゆえ他者はあなたに概念を抱いています。そしてあなたは自分に概念を抱いています。さてどっちの概念が正しいですか?

ジェームズ:両方とも正しくありません。

ボブ:そのとおりです。あなたは自分に対して抱いている概念を信じることはできません。それはゴミです。そしてまた他者があなたに抱いている概念も信じることができない。それゆえ、その点においては誰もあなたより優れていないし、劣ってもいない。みんな平等です。

そしてあなたは必要があれば誰かと議論もするでしょう。でも、それを受ける自己の中心、基準点がないためにあなたはそれを真に受けることもない。相手は真に受けるかもしれないが、それは彼らの認識です。その事が彼らの考えを変えることになるかもしれません。人々をこの教えに向かわせるというのは一般的には苦痛なこと、そうでしょう?

そうやって物事は起こっていきます。でも現実はいつもこの瞬間にあります。あなたは決してこの瞬間をもう一度生きることはできません。もし私たちが昨日のことで悩んでいたり、明日のことを懸念していたりしたら、十分に生きることができません。私たちの意識の半分が過去や未来のことで占められているために、すべてのことが起こっている今を十分に生きることができません。

ジェームズ:ええ、私が私の命を生きる時・・・

ボブ:あなたはあなたの命を生きることはできません。あなたの命は、生かされているのです。

ジェームズ:オーケー。私の命が生かされているのなら、私がエンライトメントするという考えを持たない方がいいのですか?

ボブ:いいですかジェームズ、エンライトメントとは何かあなたが今まで持っていないという物を意味しています。そのことがあなたを今から遠ざける。そのことが偏在、それがそこにあるすべてなのですが、そこからあなたを遠ざけ、期待と想像のありもしない未来へと向かわせる。そうやってあなたは自分で自分を罠にはめています。

ジェームズ:それが今まで30年間染みついた習慣的パターンです。

ボブ:ええ、でももしそれが習慣的パターンなのだと気づいたら、もうそれを信じることはできなのではないですか?今あなたはそれが習慣的パターンであると知り、それが本当ではないと理解したので、それはひとりでに無くなります。

ジェームズ:オーケー。

ボブ:今あなたはそれを無理やり無くすことはできません。なぜなら、「あなた」という概念がそれを無くそうとあなたを巧みにだましているからです。それはあなたに二元性をもたらし、ふたたび偽の基準点をもたらします。

ジェームズ:それは本当に強力な習慣です。時々、エンライトメントを追い求めない自分や、もうエンライトメントはたくさんだと感じる瞬間があると、罪悪感を感じます。

ボブ:ジェームズ、あなたは今までもそれだったし、これからもそれです。あなたはもともとあなたが探しているものなのです。そこから始めてください。

あなたは何もする必要はありません。あなたはあなたの見ることを邪魔しているゴミを、こすり取るだけでいいんです。あなたが見ることを邪魔しているゴミに気づいてください。それくらいシンプルなことです。あまりにもシンプルすぎて見過ごしてしまいます。

ジェームズ:瞑想やヨーガなどのテクニックをしないといけないという指導者たちはどうですか?それは一体どうしてですか?それは役にたちますか?

ボブ:例えば、それは、少しはマインドを穏やかにするには役立つでしょう。太陽が十分に照らすように雲を少し薄くしてくれるでしょう。ある人達にとって、瞑想は単に起こってくるでしょう。

でももしあなたが、この教えの率直さを理解するなら、そういったことはどれも不要です。何かをするためにどこかへ行く必要もありません。今ここにある意識というのは、あなたそのもののことです。ただその意識の中でリラックスしてください。

ジェームズ:わかりました。ええ、私と話をしてくださって感謝しています。電話するのは簡単ではありませんでした。少し勇気が要りました。

ボブ:ええ、もしあなたが自分には自己の中心は無いと理解したなら、他者にもそれが無いと知るはずです。そうなれば他者に対する恐れは消えていきます。誰かが優っているわけでも、誰かが劣っているわけでもありません。

ジェームズ:友達のケリーがラメッシ・バルセカール(インドの著名な指導者であるニサルガダッタの弟子)に会いに行きます。それは彼にとっては興奮する出来事です。私も時々目覚めた指導者に会いに行こうかと考えるのですが、彼らが具体的に何をしてくれるだろうかと考えてしまいます。彼らは私にエンライトメントを与えてはくれません。私はしばらくの間はいい感じがするかもしれませんが、またしばらくすれば以前と同じように感じるでしょう。いい感じというものはやってきては去っていくものです。それはある種の至高体験のようなものです。

ボブ:それが問題なんです。多くの探求者たちは体験で行き詰ってしまいます。すべての体験はマインドの中で起こります。それはマインドのものです。1970年代にニサルガダッタに会った時私はムクタナンダのところにいました。その当時はムクタナンダのアシュラムにいたんです。中にはムクタナンダのアシュラムへ30年も通っている人がいて、体験で行き詰っていました。彼らはそこから離れようとしなかったのです。

ジェームズ:あなたが言っているのは、至福体験のことですか?

ボブ:そうです。人々はあらゆる種類の体験をしますが、それは束の間のものです。人々はクンダリーニを体験(エネルギーの背骨上昇)や、至福体験など、あらゆる体験をします。でもそれはいずれも、やって来ては去っていきます。それらはあなたが探しているものではありません。今ここにある意識は体験を超えていて、体験よりも前からあるものです。そこに体験が起こってきます。

多くの人が静けさと静寂を得たいと思っています。私にとっては、おしゃべりが起こっていようと静かであろうと問題ではありません。そのどちらも体験にすぎません。いまここにある意識は体験を超えていて、体験する以前からあります。私は長く静かである時もあれば、心の中のおしゃべりが続く時もあります。どちらでも私にとっては同じことです。

ジェームズ:あなたは静けさをより好むのではないですか?

ボブ:いいえ。なぜならそれは体験にすぎないからです。私は体験を超えています。私とは何かというと、そこですべての体験が起こる場所のこと。つまり、体験する人でも体験でもなく、体験する行為そのもの(experiencing)です。それは、見る行為そのもの(seeing)と同じです。そこには、見る人と見られるものが現れて、見る人が偽の主体となり、見られるものが偽の客体となります。でも、それらはいずれも見る行為そのものの(seeing)中にあります。もし、見る行為そのものがなかったら、そこには見る人はいません。もし、見る行為そのものがなかったら、見られるものもありません。

ジェームズ:それでは浄化の技法や瞑想やヨーガはまったく必要がないということですか?

ボブ:何も必要ありません。もちろんそれが起こったとしても何も問題ではありません。でも、それらがもたらすのはいずれも体験にすぎません。それはやってきては去っていくものです。

ジェームズ:わかります。

ボブ:いいですか、あなたは私と話をしていて、今ここにある意識は変化しましたか?

ジェームズ:いいえ。

ボブ:思考はやってきては去っていきます。フィーリングもやってきては去っていきます。でも、いまここにある意識は清らかなままで、自然でずっとそのままではないですか?

ジェームズ:はい。

ボブ:それがあなたです。マインドにとって、それは物ではありません。それはマインドにとって恐怖、混乱のもととなります。なぜなら、マインドは何か物をとらえることに慣れているからです。マインドは物ではないものを理解できません。なぜなら、マインドそのものが物だからです。
あなたはそれです。

ジェームズ:あなたの師、ニサルガダッタは(I Am Thatの会話の中で)、「(私は在る)に留まりなさい」と言っていました。

ボブ:ええ。でも注意してください。彼は思考や言葉としての「私は在る」のことを言っているのではありません。彼が言っているの、自分が存在するという感覚、自分がその感覚であるということを知ること(knowing)を言っています。あなたは、自分が存在するという意識から逃れることはできません。

ジェームズ:わかります。でもアドヴァイタの教えは何かパラドックス(矛盾)のようです。なぜなら、非二元は一つを意味していて二つではありません。それはどうすることも、どこへ行くこともないということです。しかしニサルガダッタは私たちに、いつも「私は在る」で自分がいるという感覚にフォーカスするよう教えています。それは命令のように聞こえます。

ボブ:そうです。でも覚えておいてください。ニサルガダッタはあらゆる種類の人たち、あらゆる種類のレベルの異なる人々に教えていました。究極的にはどんなレベルもないのですが。ある人達にとっては彼が何のことを言っているのかまったく見当がつきませんでした。そのため彼は、それぞれの人に異なることを言ったのです。彼は同胞である多くのインドの人たちには教えを教えることはできませんでした。なぜなら彼らは彼らの宗教を堅く信じていたからです。彼らには祈りや詠唱で彼らの道を進ませたのです。

ジェームズ:そうすると、それは単にどうあるかの問題で、どう意識しているかということですね。

ボブ:そうです。そしてそれは今、自然で努力なくあなたとともにあります。あなたが自分の中に、自己の中心、すなわち基準点がないと気づいたら、そこにあるのは何ですか?

ジェームズ:すべてです。

ボブ:空です。そしてそこで起こってくるものはすべて、いにしえの人たちが「認識する空」と呼ぶものです。認識するというのは知的な要素、知ることそのもの(knowing)
それがあなたです。それゆえ、「知性エネルギー」は二つのものではありません。それはすべての物が現れては消える空を自ら認識する空のことです。

無からは何も生まれません。すべてのものは空の中に現れます。ですから本質的には見せかけもまた空なのです。別の言葉で言えば、すべての現われは単に見せかけにすぎないのです。

ジェームズ:はい。それは読んだことがあり、理解しています。終わった話を蒸し返すつもりはないのですがちゃんと聞いてもう一度確認したいのです。このエンライトメント、解放、自己実現はすべて、本当に理解するということなのですか?

ボブ:はい。ニサルガダッタが言うように、「理解がすべてです」。理解することが必要なだけです。いにしえの聖人パタンジャリが語ったことを考えておいてください。彼は正しい理解について語っています。それが、彼が強調したことです。(注:非二元の人には「knowingness・知ること」という言葉を好む人もいます。なぜなら彼らは「理解」という言葉が彼らの意に反してそこに理解する誰かがいるような感じを与えてしまうからです)

マインドはあなたではないということだけは忘れないでください。マインドは単なる翻訳者です。こどもの頃、まだ物心がつく前、あなたは自然な状態から苦労することなく振舞っていました。まだ物事にラベルを貼りつける前のことです。あなたは自然な状態にいました。あなたは見ることそのもの(seeing)、聞くことそのもの(hearing)で、まだ「私」という存在を知りませんでした。「私」は物心がつき始める頃始まりました。

その時点から、すべての物事がマインドに蓄えられ始めました。そこからすべての学習が始まったのです。しかし、自然な状態はそれでも働いていて、心臓の鼓動を打ち、爪を伸ばし、食べ物を消化し、思考を引き起こしています。

ですから、自然な状態は今でも働いているのですが、うわべ上はため込んだもので見えづらくなっています。ため込んだものは雲のようなものです。それは見かけ上で自然な状態を邪魔しています。

私たちの焦点はマインドの中のものに注がれ、それを繰り返し、それを信じるようになり、習慣的パターンが形作られます。それは私たちが立ち止まって、何が起こっているのだろうと自問するまで続きます。
でもあなたは、自然な状態が今も今までもここにあるということを理解しなければいけません。

ジェームズ:それを調べるのは私たちですか?思考は単にやってきては去っていくだけ、そうでしょう?

ボブ:そうです。私たちは何もすることはありません。思考をマインドから去らせるだけです。そこにあるのは他に何もない一つのものです。それはこれほど簡単なことです。
いにしえの人たちは時代を超えてそれを、非二元、他に何もないものと語り継いできました。

仏教の教えであるゾクチェンではそれを、「非概念的、永遠に新鮮、自ら輝く今ここにある意識、それ以外の何ものでもないもの」と表現します。イスラエルの人々は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」と言います。

ジェームズ:それで、私の思考はどこから来るのですか?

ボブ:それは認識する空からやってきます。それは空にあらわれたエネルギーの振動パターンにすぎません。

ジェームズ:私たちはそれに対してはどうすることもできないのですか?

ボブ:ええ。「私たち」というのは、空の中に現れた別の振動パターンにすぎません。本質的に、思考は空と同じものです。それもまたあの一つのものなのです。
ですから、そこでは何も起こっておらず、誰のためにでもないのです。
(以上で、Living Reality からの引用終了)

***

セイラーボブの教えは、ある時エンライトメント(覚醒)が起こって後はハッピーに生きられるという教えではありません。ある意味では幸福になるための教えでさえありません。
セイラーボブの教えは、幸福も不幸も思考の産物であると理解するための教えです。セイラーボブの教えは、「私」という存在や、起こってくる問題は単に思考の産物にすぎないということを理解して、今この瞬間を生き生きと生きるための教えです。

セイラーボブは私に何度も言いました。

あなたはすでに、あなたが探しているものです。そこから始めてください。

あなたはなぜエンライトメントを探すのですか? 自分がそれを持っていないと思っているからではないですか? あなたはもともとそれだったと知ったなら、もう探す必要はないのではありませんか?

エンライトメントはフィクションです。

2019/01/06

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)③

エンライトメント(覚醒)パート1

30年近く前、私はインドのアシュラムで毎日瞑想に励んでいました。当時そのグルは地球上で200人の人が覚醒すれば、それが種火となって野火のように広がり、世界中で多くの人が覚醒するだろうと言いました。
あれから30年経ちましたが、誰かが覚醒したという話を聞きません。

10年ほど前、当時全米で大人気の指導者は、今地球上で多くの人が目覚めようとしている、新しい地球がやってくると言いました。私も目覚めたい、新しい地球の一員でありたいと思い、その人の本は全部買って読み、CDやDVDもたくさん買いました。
あれから10年経ちましたが、誰かが目覚めたという話を聞きません。

一体何が起こっているのでしょうか。
私は30年近く、あっちのグル、こっちのマスターとさまよいました。多くのマスターが覚醒や目覚めを説くのですが、それに至る確実で具体的な方法をはっきりと教えてくれた人は一人もいませんでした。

多くのグルはスキャンダルまみれになって表舞台から去るか、釈然としない話で民衆をたぶらかしながら金まみれになっていたずらに月日が去っていくというパターンばかりでした。

グルホッピングに嫌気がさして世界を巡っていたところ、ある人からオーストラリアにいるマスターのことを教えてもらい、今度のマスターはどんなふうにエンライトメントや目覚めを説くのだろうと期待してメルボルンへセイラーボブに会いに行きました。

そしたらいきなり「エンライトメントなんてない!」と言われて驚きました。
だって私、30年もエンライトメントを探していたんですもの。
セイラーボブの本には12年間グルのもとで修行して「汝それなり」と言われる人が出てきますが、私なんてもっと長い。
その大半は書籍を通じてですが、会いに行った人もいるし、セミナーみたいなものも数多く出ました。

今まで誰も、「そんなものはない!」なんて言わなかった。あれこれの瞑想をしろ、このテープを聞け、何たらのコースをやれ。そんなのばかり。
私はセイラーボブに会って初めて、エンライトメントなんてものはないと理解しました。

私がここでエンライトメント(覚醒)と言っているのは、ある時何かのきっかけで意識に変化が起きて覚醒が起こり、真理が理解でき、とめどない恍惚感や至福につつまれ、悲しみも悩みもなくなり、いったんそれを達成したなら二度と失わない状態。地球上で多くの人がそれを達成しようとグルや指導者のもとで瞑想したり修行したりしているが、めったに得られない状態のことを言っています。(enlightenment は正確にはエンライトゥンメントと表記すべきでしょうが、中間にある en はほとんど発音されない場合が多いので、当ブログではエンライトメントと表記しています)

インドのグルも、全米で大人気の指導者も、それを手に入れたと自らの著書で書いていました。丸善の精神世界のコーナーに行くと、同じようなことを言っている人の本がたくさん売っています。

それを手に入れなかったら生きている意味などない、逆にいうなら、それさえ手に入れさえすれば、至福に満たされ、永久に輪廻転生から解放されるというような本ばかり。

私はそこで本を買ったり立ち読みしたりするのがライフワークのようになっていた時期があって、そこで売っている本の大半は何が書いてあるかを知っていました。ただここ最近10年間ぐらいは、グルホッピングに嫌気がさして足が遠のいていたことと、父親の介護や長旅に出ていた時期があって、これほど非二元関連の本が書棚に並ぶようになっていたことは知りませんでした。

私がそうした本を読んでいて常々思っていた疑問は、多くのマスターが「今ここを生きろ」「あるがままを生きろ」と説く一方で瞑想を奨励し、エンライトメントや目覚めなどの未来を説くことです。

エンライトメントや目覚めを目指すというのは、何かになろうとしていて、今ここではなく未来を生きているわけで、あるがままを受け入れていません。言っていることが矛盾しているのになぁ、といつも思っていました。

多くのマスターの教えは、覚醒や目覚めを手に入れさえすれば、悩みとは無縁で幸福に生きることができるという教えですが、セイラーボブの教えはある意味では幸福になるための教えではありません。

セイラーボブの教えは、幸福も不幸もマインド(思考)が勝手に作り出している実態のないものだということを理解するための教えです。
人間が生きていれば、不幸な時もあれば幸福な時もある。幸福は不幸があるから成り立つのであって、幸福だけでは成り立たない。
もし幸福しかないなら、それが普通の状態になって、幸福ではなくなってしまう。もし不幸だけならそれが普通になって不幸でも何でもなくなる。

「エンライトメントなんてない!あなたはもともとそれなのだ」なんて言った人はセイラーボブが初めてでした。
私はうかつにもエンライトメントがあるかどうかを疑ってみたことはなかったのですが、普通に考えれば、そんなものはないということはわかりそうなものでした。

1.幸福感や至福が永続するならそれが日常になってしまって、幸福や至福ではなくなってしまう。

2.何世にもわたって修行してもめったに手に入らないもので、もし今回の一生でも手に入らないなら、この人生も無駄にしてしまうことになる。そんなものに煩わされるのはやめてこの人生を楽しむほうがいい。

3.覚醒したと言っているマスターたちのやっていることが金儲けにすぎないことが多い。エンライトメントや目覚めを追及するあまり、あまりにも多くの人があまりにも多くのものを失う。金、仕事、地位、名誉、家族、人間関係、精神。最悪のケースではカルト事件に巻き込まれて犯罪者にまでなってしまう。

4.エンライトメント(覚醒)が具体的に何なのか、どんな状態なのか誰も知らない。

エンライトメント(覚醒)や目覚めは人間にとって最高の欲の現われではないでしょうか。お金では買えない。どんなに出世しても手に入らない。一旦手に入れれば来世まで持っていける。
こんないおいしいものを商売にしない手はない。仕入れ原価はタダ。儲かってしょうがない。しかもめったに手に入らないものだから、お客が手に入れられなくても返金補償も責任もない。

手に入れられなかった人はまた別のマスターを探して丸善の精神世界のコーナーで青白い顔をして立つだけ。
私はこれを覚醒産業と名付けることにしました。

なぜ人はこうも簡単に覚醒産業に騙されてしまうのでしょうか。
最大の理由は、私たちがエンライトメントについて何も知らないということ。

私たちは勝手にエンライトメントがすごくいいものだと想像しています。
でも実際はそれがどういうものなのかを誰も知りません。知らないからこそ無性に欲しくなる。

ある時少年がクモに噛まれて手先から糸を飛ばせるようになってビルからビルへ飛び移るようになったら。スパイダーマンはアニメの世界の話だ、現実じゃないと言います。

新聞記者が電話ボックスで着替えてマントを着て空を飛べるようになったら。スーパーマンは映画の世界だ、ありえないと言います。

でも誰かが、グルのもとで瞑想していたら覚醒が起こって、それ以来幸福感がとめどなくあふれ出て止まらなくなった、悩みも苦しみ全部消えた、私はとうとう手に入れた。こんなことを言おうものなら、みんな私も欲しいと言い出して、話を聞きにいきます。どうしてこうも簡単に信じてしまうのでしょうか。覚醒なんて、そんなことが起こるわけないじゃないですか。

エンライトメント(覚醒)はフィクションです。

なぜここでエンライトメントに対して辛辣なことばかり書いているかというと、セイラーボブの教えを学べばエンライトメントなんてないとわかるからです。
ボブのミーティングではエンライトメントはジョークでしかありません。

私がミーティングで覚醒のことばかり聞くものだから、ある人がこうジョークで言いました。
「オーストラリアには10万ドル出すとエンライトメントを請け負ってくれる人がいるんだ。必ず最後までやってくれる人なんだけど、どうする?」
本当にそういう広告を出している人がいるんだそうです。

私のような人がミーティングにやってきて「どうしてエンライトメントはないのですか?」なんて聞こうものなら大盛り上がりです。誰かまたそういう質問をしてくれないかと楽しみにYouTube越しに見ていますが、なかなか現れません。みんなそのへんはちゃんと理解している。

あまり辛辣なことばかり書いてもいけないので、ここでちょっとエンライトメント(覚醒)という言葉を取り巻く状況について考えてみたいと思います。

英語の enlightenment の意味は、啓発、教化、啓蒙、悟り、という意味の名詞です。日本語の「覚醒」とぴったりと同じではありません。日本語で「覚醒する」と言った場合は、何かが起こって意識が幸福感に包まれて悩み事がなくなる状態、いわゆるエンライトメントをさす場合と、「真理を理解する」という意味で使われる場合と二通りあると思います。

私が「覚醒なんてない」と言う場合は前者の意味を言っています。
ところが、この使い分けがはっきりしていない場合が多く、例えば本に「私は覚醒した」と書いてあると、読者はたいてい前者の意味にとってしまうのではないでしょうか。

精神世界の書物や翻訳では、このあたりが混同されている場合が多いように思います。英語で realize (理解する・悟る)、awake (目覚める)、understand (悟る・理解する)などは、どちらの意味にも解釈できてしまいます。

マスターやグル、指導者たちが、enlightenment, realize, awake, understand を使った場合にどういう解釈が可能か考えてみます。

①自ら、「覚醒した」と宣言している場合。
ある時、光に包まれて恍惚となって、悩みが消え、幸福感が永続していると自分で言っている人たちの場合。こういう人たちは、自分の一時的な体験を語っているに過ぎないと思います。彼らは、「覚醒した人」などという存在はいないと十分に知っているはずです。ですが、「覚醒した人」という看板は金になるために、なかなかそれが一時的な経験にすぎないとは言いません。
この部類の人たちは、言っている内容を聞けば本物かどうか十分わかるので、私はもう一切信用していません。
私の判断基準としては、未来のある時点で、永続する覚醒や目覚めが起こることを説く指導者たちは全部ニセモノだと思っています。

②enlightenment, realize, awake, understand を、「真理を理解した」という意味で使っているマスターやグルの場合。
私は、多くの信頼に足るマスターやグルたちは、この部類に入るのではないかと思っています。時の試練に耐えて未だに読み継がれている人々たちは、この部類に入るのではないかと思っています。
彼らの中には、覚醒体験がもとで真理を理解した人もいるでしょう。彼らは「覚醒した」という看板をあげることはしないのですが、回りの人間が、その人の一時的な覚醒体験を聞いて勝手に覚醒(エンライトメント)したと思い込んでいる場合が多いのではないでしょうか。彼らを見分ける特徴は、何物かになる必要などないということを「理解する」教えを説いていることです。

③翻訳に伴う問題の場合。
精神世界で使われる言葉(英語)はぴったりと日本語にあてはまるものばかりではないうえに、どうとでも解釈できてしまう幅がある。mind などが良い例で、何通りにも解釈できてしまう。翻訳者もよく理解できてなくて、覚醒なのか理解なのか、ぼかして翻訳する結果、読み手もよくわからないまま、この人は覚醒した人だと思い込むことになる。このケースもけっこうあるのではないでしょうか。

いずれにしても、セイラーボブの世界にはエンライトメント(覚醒)はありません。
セイラーボブは、「覚醒した人」という看板を完全に否定しています。彼はお金にも名声にも興味がなく、彼の家の居間に入れるぐらいの人が聞きに来れば十分と考えています。

ある時、ボブの家にインドからやってきた人が、彼の前にひれ伏し、彼の足先に触れさせてくれと言ったそうです。インドでは、覚醒した人の足先に触れると御利益あるという習わしだそうです。
その時セイラーボブはひどく怒って、その人をたたき出したという話が残っています。

セイラーボブの教えはadvaita・アドヴァイタ(非二元)の教えです。

advaita はサンスクリット語で、ad=not, vaita=two です。つまり二つではないもの。
もしエンライトメントを認めるとなると、普通の意識の他に覚醒した意識があることになり、その時点でもう矛盾してしまいます。

セイラーボブの教えには今ここしかありません。覚醒するというと、未来の時間を認めることになります。

セイラーボブの教えでは「私」はいません。それなら誰が覚醒するのか。覚醒して何者になるというのか。それではアドヴァイタではなくなってしまいます。

セイラーボブは自分に起きたことを、enlightenment と言ったことはありません。彼が使う言葉はいつも understandingです。awake(目覚める)でもrealize(悟る)でもなく、understanding(理解)です。

ボブが教えているのは、私たちの日常にある普通の意識(awareness)のことです。瞑想して手に入れたり、覚醒が起こって手に入れたりする意識のことではなく、普通の意識のことです。

今あなたはがこのブログを読んでいる普通の意識のことです。文字を追っているのはマインド(思考)かもしれませんが、その背後にある意識のことです。今ちょっとお休みして文字から目を一瞬離して思考を止めて、焦点を少し遠くのものへとずらしてみてください。

そこにある、そのむき出しの意識こそがセイラーボブの教えているそれであり、知性エネルギーであり、アウエアネス(意識)です。
それはあまりにも身近にあるため、誰も気づこうとさえしません。

何も付け足すことも取り除くこともできず、いつも新鮮な意識のことです。
それは修行や訓練で得るものではなく、高めることもできない。
それには段階も程度もなく、高い低いもない。個人のもののように見えるが誰のものでもない。

誰かに指し示すこともできないし、人から譲り受けることも譲り渡すこともできない。普通の、日常の意識のことです。そしてそれはエンライトメント(覚醒)とは何の関係もないものです。

グルやマスターたちは、握りこぶしの中にあたかもダイアモンドがあるかのように見せかけてあなたに差し出します。でもその拳が開かれることは永久にありません。なぜならそこには何もないからです。エンライトメントはフィクションです。

ただし、セイラーボブも、体験としての覚醒体験や目覚めを否定しているわけではありません。ある時何かが起こって、悩みが全部消え、光に包まれて恍惚感に浸るというような経験は程度の差こそあれ、多くの人にある経験です。

またそうした経験がきっかけとなって、自分が肉体でも思考でもないということを突然理解することも起こりうることだと思います。

しかしそれはあくまでも一過性の経験であって、それが永続するようないわゆるエンライトメント(覚醒)はないと思います。

30年ほど昔、パリである日本人の青年に会いました。その青年は旅先で時々ドラッグをやるそうです。ドラッグが何だったかははっきり覚えていませんが、大麻のような弱いものではなかったと思います。

青年いわく、ドラッグをやると、気分が澄み渡って幸福感に包まれ、自分がどうして生きているのか、宇宙の真理が何なのか、すべてがはっきりわかるというのです。
それで、毎回、それをあとでわかるようにノートに書き留めるんだそうですが、ドラッグが覚めて読み返してみると、何を書いているのかさっぱりわからないそうです。

この青年が言うように、体験として一時的に真理が理解できるような意識状態はあるのではないかと思います。ただし、それはあくまで体験であって、別次元の意識になるとか、それが永続する状態はありえないと思います。

多くのグルやマスターたちが客寄せのために自慢げに話す覚醒体験は、あくまでこうした一過性の体験にすぎないのではないでしょうか。

宗教や精神世界の人たちの覚醒体験をここで取り上げてどうこう言うのは差し障りがあるので、そうした世界とは遠い世界の人間の覚醒体験を取り上げてみたいと思います。

私が昔読んだ立花隆の「宇宙からの帰還」に出てくる宇宙飛行士のエド・ミッチェルの話が有名です。

月探検の任務を無事に果し、予定通り宇宙船は地球に向かっているので、精神的余裕もできた。落ち着いた気持で、窓からはるかかなたの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。地球は無隈の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎるほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあった幾つかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は物質の偶然の集合にすぎないのか。宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果として生成されたのか。我々はこれからどこにいこうとしているのか。すべては再び偶然の手の中にあるのか。それとも、何らかのマスタープランに従ってすぺては動いているのか。こういったような疑問だ。

  いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考えつづげるのだが、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといったほうがよいだろう。それは不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験(至高体験)だ。詩的に表現すれば、神の顔にこの手でふれたという感じだ。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。
 世界は有意味である。私も宇宙も偶然の産物ではありえない。すべての存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。そのプランは生命の進化である。生命は目的をもって進化しつつある。個別的生命は全体の部分である。個別的生命が部分をなしている全体がある。 すべては一体である。一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている。この全体の中で、人間は神と一体だ。自分は神と一体だ。自分は神の目論見に参与している。宇宙は創造的進化の過程にある。この一瞬一瞬が宇宙の新しい創造なのだ。進化は創造の継続である。神の思惟が、そのプロセスを動かしていく。人間の意識はその神の思惟の一部としてある。その意味において、人間の一瞬一瞬の意識の動きが、宇宙を創造しつつあるといえる。

こういうことが一瞬にしてわかり、私はたとえようもない幸福感に満たされた。それは至福の瞬間だった。神との一体感を味わっていた。

 ――その神というのはつまるところ何なのか。神的プロセスを表現する概念ということだが、もう少し説明するとどういうことなのか。(立花による質問。以下同様)
 神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神(コスミック・スピリット)であるといってもよい。宇宙知性(コズミック・インテリジエンス)といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。人問の意識はその思惟の一つのスペクトラムにすぎない。宇宙の本質は、物質ではたく霊的知性なのだ。この本質が神だ。

 ――では、この肉体を持った個別的人間存在は何なのか。人は死ねぱどうなるのか。
 人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ。前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた動物にすぎず、本質的には肉と骨で構成されている物質ということにたろう。そして、人間はあらゆる意味で有限で、宇宙に対しては無意味な存在ということになろう。しかし、エゴに閉じ込められていた自意識が開かれ、後者の存在を認識すれば、 人間には無限のポテンシャルがあるということがわかる。人問は限界があると思っているから限界があるのであり、与えられた環境に従属せざるをえないと思っているから従属しているのである。スピリチュアルな本質を認識すれば、無限のポテンシャルを現実化し、あらゆる環境与件を乗りこえていくことができる。

 人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。神と一体になるのだ。後者にとっては、肉体は一時的な住み処であったにすぎない。だから、死は一つの部屋から出て別の部屋に入っていくというくらいの意味しかない。人間の本質は後者だから、人問は不滅なのだ。キリスト教で人が死んで永遠の生命に入るというのも、仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているのだろう。だから、私は死を全く恐れていない。

 ――そういう認識が一瞬にして生まれたということだが……。
 そうなのだ。瞬間的だった。真理を瞬間的に獲得するとともに歓喜が打ち寄せてきた。その感動で自分の存在の基底が揺すぶられるような思いだった。より正確にいえば、いまことばであれこれ説明しているように、論理的に真理を把握したわけではない。ことぱでは表現できないが、とにかくわかった、真理がわかったという喜びに包まれていた。いま自分は神と一体であるという、一体感が如実にあった。それからしぱらくして、今度はたとえようもないほど深く暗い絶望感に襲われた。感動がおさまって、思いが現実の人間の姿に及んだとき、神とスピリチュアルには一体であるべき人間が、現実にはあまりにあさましい存在のあり方をしていることを思い起こさずにはいられなかったからだ。

 現実の人間はエゴのかたまりであり、さまざまのあさましい欲望、憎しみ、恐怖などにとらわれて生きている。自分のスピリチュアルな本質などはすっかり忘れて生きている。そして、総体としての人類は、まるで狂った豚の群れが暴走して崖の上から海に飛び込んでいくところであるかのように行動している。自分たちが集団自殺しつつあるということにすら気づかないほど愚かなのだ。人間というものに絶望せずにはいられない。私の気分はどんどん落ち込んでいった。ところが、またしばらくすると、先ほどの神との一体感がよみがえってきて、感動的な喜びに包まれる。するとまたしばらくして絶望感に打ちひしがれる。こうして無上の喜びと、底知れぬ絶望感と、極端から極端へ心が揺れ動きつづけた。それが三十時間にもわたってつづいたのだ。その後は、地球への帰還の準備で忙しくなり、忙しさにとりまぎれて、そういうことは考えなくなった。

 しかし、地球に戻ってから、この体験を反芻し、哲学書、思想書、宗教書などを読みふげるようになった。もともと哲学、神学に興味をもって読んではいたが、やはりそれまではキリスト教の立場からのものが中心だった。しかし、今度は心をもっと広く開いて、あらゆる宗教、あらゆる思想に偏見なく接するようになった。私が持ったあの神との一体感、あれが特定宗教の神との一体感であって、その神だけが真実の神であり、他の宗教の神は虚妄であるとは私には思えなかったからだ。
                以上はこのサイトから引用しました。

エド・ミッチェルの体験はあくまで体験であり、この文章の中にもあるように、30時間でもとの意識状態に戻っています。体験の内容の是非はともかく、そういう体験を否定するものではないという例として引用しました。

アポロの宇宙飛行士たちは宇宙から帰ったあとで、宗教家になったり神秘主義に傾倒したりする人の割合が一般の人よりも高いそうで、それがこの本のテーマでもあります。

体験としての覚醒体験はあると認めます。それがきっかけとなって、真理に目覚めることもあると思いますが、それはあくまで一過性の体験だと思います。そうした体験が突然起こって、まったく次元の違う意識状態になって、それが続くと言うことはありえないと思います。

また、私たちがその体験だけを追い求めるのは間違っています。仮にそれらしき体験が起こったとしても、どう解釈すべきなのかわからないし、マインドが引き起こしている可能性だってある。またそれは、セイラーボブの教えを理解するためにはまったく必要のないことです。

一番始末が悪いのは、ちょっとそうした体験をして、(自分は覚醒した)と思い込んで、それを売りにしている覚醒産業の人たちです。上は世界的に有名なグルから下は町のセラピストまで。あまりにもそうした輩が多すぎる。

覚醒した人なんてのはいません。みんな同じ人間です。特別な意識や覚醒した意識なんてものもありません。普通の日常の意識があるだけです。

経験はそれがどんなに素晴らしいものであっても実在ではない。それは本質的に、やってきては去っていくものだ。自己実現は獲得するものではない。それはむしろ、理解するということだ。いったん到達したら失うことはない。  Nasargadatta Maharaj, I am Tthat

以下は What's Wrong with Right Now unless you think about it.p.100から引用。

質問:あたかも何か達成したとか、何かになるというエンライトメントという誤った概念は・・・

ボブ:何が、そして誰がエンライトメント(覚醒)するのですか? それは、自分は覚醒する、もしくは自分は完全でも一体でもないと信じている「私」にすぎません。もしそれを調べてみるなら、その「私」は単なるイメージにすぎないとわかるでしょう。それは、自分では理解することができません。それは判断することができない。それはどんなパワーも持ち合わせていません。

どうしてパワーを持っていないその思考が、完全で一体のものになりえるでしょうか?思考の本質的な特徴は分割することです。すべての思考のやり方は両極に分割すること。もともとの特徴が分割することなら、どうして一体のものになりえるでしょうか?

あなたは、一体性が起きるのは、そこに思考がない時だけだということを理解できるでしょう。そうすればそこには常に一体性があります。

質問:私たちはこのメッセージを聞いて、思考のない状態を探すのですが。

ボブ:ええ、それもまた間違いです。なぜなら、思考や理解がどう機能するかを理解するだけの問題だからです。そうすれば思考は自然と消えます。あなたは「私」が何も変えることができない事を理解します。その「私」はマインドであり、マインドでマインドを変えることはできません。

以下は小冊子 Sailor Bob Adamson Inter-view(ボブの家でのみ販売)からの引用です。

質問者:ボブ、エンライトメントというようなものはあるのですか?

ボブ:「エンライトメント」という言葉は、誰かエンライトメントする人がいるということ、何か手に入れるものがあるということ、何かなすべきことがあることを意味します。いいですか、最初に、誰かがいるという考えが浮かんだとたん、あなたは分離した存在がいるという考えを持ったということですが、それは二元性です。そしてそれは同時に未来のある時点で何かになるという考えを持つということであり、それもあなたを偏在から遠ざけます。そしてまた何かが、そして誰かがあなたにそれをもたらすという考えは、それもまたあなたを、あなたは全能、全知、偏在であるという知恵から遠ざけます。あなたは完全なものです。エンライトメントという考えは、探求者と言われる人たちにずっと探求をさせ続ける間違った考えです。探求者と言われる人たちはいつも探し続けている。探求者は決して発見者になることはありません。

2019/01/01

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)②

「ただそれだけ」の読み方

私はセイラーボブに会う前に、ただそれだけ―セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え を7回読みました。

この本は著者であるカリヤニが、セイラーボブの生涯と教えをわかりやすく書いたもの
ですが、当時の私には何のことだかさっぱりわかりませんでした。

私と同様、多くの人がこの本を理解できない最大の原因は、セイラーボブがエンライトメント(覚醒)した人だという先入観を持って読むからです。

この本を正しく読むには、セイラーボブがエンライトメント(覚醒)した人ではなく、私たちと同じ普通の人だということを理解して読む必要があります。

もし、セイラーボブが覚醒(エンライトメント)した人だという先入観を抱いて読むと、この本はまるで禅問答のような本になってしまい、何のことを言っているのかさっぱりわからなくなります。
ネット上の書評を読んでも、多くの人がセイラーボブは覚醒した人だと思い込んでいます。

エンライトメント(覚醒)についてはまた次回詳しく書きますので今回は深入りしませんが、セイラーボブはエンライトメント(覚醒)した人ではありません。セイラーボブの世界にエンライトメント(覚醒)はありません。

この本の中にも、セイラーボブが覚醒した人ではないということが書いてあるところが何か所もあるのですが、先入観を持って読むと、それを正しく読み取ることができません。

そこで今回私が、この本の読み方を解説させていただこうと思います。
解説する一方で、何か所かの表現を、こういう表現に読み変えてみたらどうかという提案をさせていただきます。

これはあくまでも理解しやすいようにと便宜上提案するだけで、翻訳に問題があるということではありません。
高木悠鼓さんの翻訳には全く問題がないどころか、いつもながら読みやすくすばらしいと思います。

私は昔、高木悠鼓さんや山川紘矢さんのような精神世界の本専門の翻訳家になりたいと思っていた時期があって、精神世界の本を何十冊も日本語版と英語版両方を買って対訳読みした時期があります。

高木さんが翻訳されたサネヤロウマンのシリーズやダグラス・ハーディングの本なども読みましたし、高木さんが主催したダグラス・ハーディングのセミナーにも出たことがあります。
ですから、高木さんの翻訳がいかに正確かつ適切で読みやすいかということはよく知っています。

また、一日も早く高木さんにもっとセイラーボブの本を翻訳して世に出してもらいたいと思っているぐらいですから、高木さんの翻訳が悪いというつもりは毛頭ありません。あくまでも、読者の先入観を取り除き、理解しやすくするためにやることですので、その点はご了解ください。

では始めます。
お手元に「ただそれだけ」と鉛筆、もしくはシャープペンシルをご用意ください。私が説明した箇所に、アンダーラインを引くなり書き込みのメモをするなりしてください。
私の手元にあるのは2011年11月25日発行の初版です。

私が、こう読んだらどうですかという提案を順番にしていきますので、それが一通り済んだら、最初から通してもう一度この本を読んでいただきたいと思います。

まずタイトル
「ただそれだけ」のそれというのは何かということから始めます。それは意識(awareness アウエアネス)です。それはこの本の113ページ、最後から2行目に書いてある。(今後、ページはp.と表示。行は lineの略の l. で表示。ただしページの最初にある表題は行数に含めない)

p.113,最後から2行目
意識が存在するすべてであり、それが真実のあなたなのです。あなたはその意識そのものであり、けっしてそこからはずれることはできません。それを探す必要などないのです。

「意識が存在するすべてであり、それが真実のあなたなのです。」は原文では、
"awareness is all there is and that is what you truly are."です。

この意識(awareness)というのは、私たちの意識のことです。思考や記憶、感情の背後にある日常の普通の意識のことです。気絶すると、「意識がなくなった」とか「意識がもどった」とか言いますが、その意識のことです。

この意識はエンライトメントで達成したり、瞑想したりして得る意識ではなく、普段の日常にある普通の意識のことで、探す必要もないと言っています。

その意識だけがあり、そこに世界が現れるというのがセイラーボブの教えです。
この意識(アウエアネス)については、別の回に詳しく書きますのでここでは深入りしません。

p.ⅵ,最終行(ボブからの挨拶)
努力なく認識することが、そこに留まる自然なやり方です。本書を読むことを通じて、努力のない認識が起こりますように。

ボブは前書きの挨拶の中で、努力なく自然にやりなさい、と言っている。瞑想や修行に励めとは言っていない。普通に読めばわかる本だと言っています。

p.4 , l.4
(訳注:元々は、真理、または真理を覚醒した人との交わりという意味であるが、一般的には、グルと共にひとときを過ごすという意味で使われる)

この訳注は英語版にはありません。「覚醒した人」という表現が誤解を生むので、全文抹消してください。

p.9,l.7
ボブが「理解」と呼んでいることは、滅多に得られないものではなく、霊的エリートの専有物でもありません。それは、明晰に見るということで、本当に見たいと思うすべての人たちに開かれています。

ボブは「理解」と言っていて、エンライトメント(覚醒)とは言っていません。特別な人しか手に入れられない何かではなく、理解したい人すべてに開かれていると言っています。

p.10,最後から2行目
非二元性は、「第二のない一なる」ものとして語られます。


私は最初、この「第二のない一なるもの」という表現が理解できませんでした。
なんとなく、一つしかないんだな、ということはわかりますが、なぜ第二という序数で表すのかわかりませんでした。

「第二のない一なるもの」という表現に、ものすごい違和感を覚えたのですが、この表現はこの本の中に何回も繰り返し出てきます。
何度読んでも違和感が消えないので、英語でボブが何と言っているか調べました。

Nonduality is spoken about as one without a second.

他にどういう時にボブがこの表現を使うかというと、例えばアドヴァイタの教えを引用して、
「ヒンズーの教えのアドヴァイタではこれを、"one without a second"、または"not two" と呼ぶ。なぜかと言えば、一なるものという表現ですら一なるもの以外の何かが存在するということを暗示しかねないからだ」。

ボブは必ず one without a secondと言っています。one without the second ではありません。the ではなくて、a なんです。

ジーニアス(辞書)で second を引くと、通例 the second は、第二の、二番目の、という意味で、a second は、もう一つの、別の、他の、という意味です。

ボブが言いたいのは、もう一つのものがない、別のものがない、つまり、他に何もない、ということだと思います。second という一語でも第二と言う意味はあるので、「第二のない一なるもの」という訳が間違いだとは言いませんし、素人の私がプロ中のプロの高木さんの訳をとやかくいうつもりはありません。

ただ、私のブログでは、one without a second は、「他に何もない一つのもの」もしくは「他に何もないたった一つのもの」という表現を使っていますのでよろしくお願いします。

ついでにもう一つ。
reference point という言葉をこの本の中では「参照点」として訳してあります。この表現も意味がよくわかりませんでした。高木さんは「何かを参照する点」という意味で使ってみえると思います。それはそれで適切な訳だと思うのですが、他に何か良い表現はないかと探したところ、「基準点」という和訳があって、その方がわかりやすいではないかと思います。

「参照点」でも「基準点」でもほぼ同じ意味だと思うのですが、私のブログでは「基準点」という表現を採用していますので、ちょっとややこしいかもしれませんが、よろしくお願いします。

p.11,l.5
完全に覚醒した人から「あなたはそれである」という事実を指摘されることは、きわめて効果的です。

「完全に覚醒した人」を、「完全に目覚めた人」に変えてください。原文では a fully awake person となっています。高木さんは、この場合の覚醒をいわゆるエンライトメントという意味ではなく、(真理を理解した)というような意味で使ってみえると思いますが、バイアス(先入観)のかかった人は(エンライトメントした人)のことだと読み間違えるので、覚醒という言葉をなるべく排除していきます。

p.11,最後から4行目
(本当に悟った人は、必ずしも自分が仏であると思うものではない。

この、悟った人の部分は原文では Buddhas となっています。ここもまぎらわしいので、「悟った人」を「仏」に変えてください。

p.13,最後から3行目
何が悟りを妨げているのか?

ここは、「悟り」を「理解」に変えてください。原文は realization です。

p.14,最後から3行目
ボブは完全に自分の本質に覚醒しいています。

「覚醒」を「理解」に変えてください。原文は、Bob has fully realized his true nature.です。

p.40,l.9
「数日後、仕事へ行くため、駅に歩いていく途中で、『バン』という音がして、あたり一面が光り輝き、私の前に一人の男性が光を放っているイメージが現れた。その男性は、あの小さなテーブルの上の写真に写っていた人だった。その人はマハリシのグルだったんだ」。当時、この手の経験を理解していなかったボブは、自分の心が何かに乗っ取られつつあるのではないかと思ったそうです。それにもかかわらず、まるで一番高いビルの上から空中を歩いて降りることができるかのような多幸感を、彼は感じました」

ここでボブは一種の至高体験と多幸感を体験しています。ボブは、エンライトメントは否定していますが、一瞬の覚醒体験や至高体験は否定していません。それは単に経験であり、ボブの教えようとする何かではありません。

p.53,最後から3行目
アドヴァイタでは気づき(awareness)を、意識と五つの鞘・・・

原文では
Bob says, "Nisargatta was from Advaitan tradition and they break up awareness into consciousness, five sheaths・・・

高木さんは最初のawareness を (気づき)と訳して、次のconscious を(意識)と訳してみえます。
この本の中で、高木さんは、awareness を(意識・気づき)もしくは(意識)と訳し、conscious を(意識)と訳す場合が多いです。

英語の場合、consciousness は日本語で言う場合の「意識がある」「気絶した」と言う場合の意識で、awareness は、外側の情報によって、気づく、または意識している状態ですので、高木さんは awarenessに(気づき)という訳語をあててみえると思います。
でも私は(気づき)という訳語をあてると、そこに誰か気づく人がいるように誤解してしまうのでよくないのではないかと考えています。

セイラーボブの使う awareness は、「気づく人のいない気づきそのもの」を言っているのですが、それだと複雑になってしまうので、単に「意識」でいいと思います。

英語の場合は、Are you not aware? It's awareness.「気づいて(aware)いないのか?それが意識(awareness)だ」というふうに韻を踏んで使えるのでアウエアネスを説明する時に便利なのですが、日本語では「気づき」と「意識」は別の表現なので「気づいてないのか?それが意識だ」と言っても何のことだかわからなくなってしまうので、やむおえず、「気づき」という訳語をあてざるえないのですが、awareness=「意識」の方がわかりやすいと思います。

それじゃ awareness も consciousnessも「意識」という訳になって同じ訳になってしまうじゃないかと思われるかもしれませんが、私は同じでもやむえないと思っています。英語で読めばそのニュアンスの違いはわかるのですが、日本語にはそのようなピッタリする表現がない。(awareness と consciousnessの厳密な違いは用語集を見てください)

これはあくまで、ボブの教えを理解しやすいようにやっていることで、翻訳の美しさや整合性は考えていませんのでよろしくお願いします。

セイラーボブは、私がミーティングに出たころは awareness を使っていて、YouTubeで見る限り今もほとんど awareness を使っていますが、ジェームズ・ブラハの本では、同じような状況ではたいてい consciousness を使っています。

この本には awareness も consciousness も何回も出てきますが、どちらも「意識」という訳でいいと思います。awareness にぴったりと一語で対応する日本語はありませんが、「意識」という表現が一番近いと思います。

いずれにしろ、一つしかないものを表現しているので、それをあまり厳密に定義づける必要はないと思います。「知性エネルギー」というラベルを貼るのか、「意識」というラベルを貼るのか、「気づき」というラベルを貼るのかの違いだけです。

p.57,l.5
「自分は肉体でも心でもなく、私はそのことを理解することができた。

まず、「心」という表現ですが、原文では mind です。ボブは mind という言葉を、思考(thought)、感覚(feeling)、感情(emotion)でできたもの、と定義しています。ボブの使う mind にぴったりと対応する日本語はないのですが、ボブが言おうとしている意味に一番近い日本語は、「思考」だと思います。

「心」としてしまうと、どこかポジティブなもの、精神のようなものを連想してしまいます。mind は「思考」と考えるのがいいと思いますが、ボブは「mind は thought(思考) のかたまりだ」「あなたは mind でも思考でも体でもない」というふうに使う時もあるので、「思考」として訳すと不都合な場面もあります。

そこで、この本の中で、「心」と出てきたら、「マインド (mind)」と読み替えてください。そのマインドは思考と同じ意味だと覚えておいてください。

これはあくまで、ボブの教えを理解するためにやっている読み替えであることを理解してください。
mind に対応するぴったりの日本語がないので awareness とconsciousness の時と同じように訳しづらくわかりづらくなっています。

 次にボブは、同じ文章の中で、「理解できた」と言っています。「エンライトメント(覚醒)した」とは言っていません。もし自分が肉体でも心でもないという理解がエンライトメント(覚醒)によって起こったなら、大喜びしてそう書くはずです。

p.57,l.9~p.58,l.4まで
ボブはニサルガダッタと最初に会ったとき、彼の言っていることの本質を理解しました。
彼は心が唯一の問題だということを理解し、それを明確に見たなら、自分は二度とそれに引っかからないと思ったのです。そのセッションが終わって、玄関から外へ出ると、彼はすぐに心に捕らえられました。とはいえ、心が唯一の問題であることを理解したので、以前とは違った感じでした。彼が心に引っかかったように見えたとき、彼は自分自身にこう言いました。「おいおい、ちょっと待て、これは先日も見たことだ。これは一体何なのか?」。それは彼を制止し、彼はもう一度見て、それが、「ただ、おなじみの古い心の糞が、もっと出てきただけ」であることを見たのです。
「こういった古い習慣のパターンは長年のもので、すぐには止まらなかった」と彼は言います。「しかし自己憐憫や恨みに根ざした心のおしゃべりが再び始まっても、そこには何もなく、だからそれは長くは続かないことを思い出したんだ」。ボブがその偽りを見るたびに、それは強烈さを失い、苦しみは和らいでいきました。

ボブはニサルガダッタの言っていることを理解したあとでも、何度も何度も同じパターンの思考が戻ってきた、と言っています。つまり、エンライトメント(覚醒)して突然何かが変わったわけではなく、何度も何度もニサルガダッタの話を思い出して、やがて思考にとらわれることが減っていったということです。

p.61,最後の行
(訳注:真理についての理解、すなわち「悟り」)

原文にないので消してください。悟りという言葉が覚醒を連想させます。

p.62,l.4
理解がすべてなのです。

エンライトメント(覚醒)ではなく、理解です。

p.66,l.6
「そんな状況にもかかわらず、その間ずっと、「だいじょうぶ、万事うまくいくだろう」という明晰な感覚があった。どんな困難が押し寄せてきても、その下には常に一種の幸福感があったんだ。

多くの人は、この一節を読んで、ボブがエンライトメント(覚醒)していたから幸福感があったのだろうと思っていますが、そうではありません。ボブは思考にとらわれなかったために、精神的苦悩にとらわれなかっただけです。思考にとらわれなければ苦悩はなく、私たちの意識には一種の幸福感があるとボブは言います。この幸福感については、別の回に「至福」というテーマで説明します。

p.80,l.2
(訳注:ニサルガダッタ・マハラジのもとで覚醒したインド人。邦訳に『誰が構うもんか?!』ナチュラルスピリット刊がある。)

原文にないので全文抹消してください。ラメッシ・バルセカールはセイラーボブが行った時よりも後の時代にニサルガダッタ・マハラジの通訳をした人です。ラメッシが覚醒したなら、ボブも覚醒したというバイアス(先入観)が入ってはいけませんので抹消してください。

ついでに書いておきますが、Living Realityに出てくる話では(Living Reality.p.170)、ラメッシは、彼の教えを話す許可をごく限られた人にしか出さなかったそうですが、その場合、enlightenment (覚醒)という表現を使わなかったし、嫌ったそうです。彼は決まって、total understanding(完全理解) と言ったそうです。

高木悠鼓さんはラメッシの本をたくさん翻訳してみえるのでそのあたりのことは十分承知してみえるであろうし、「覚醒」という言葉をエンライトメントという意味ではなく、(真理を理解した)(自己の本質を理解した)というような意味で使ってみえると思います。参考:高木さんのブログから

p.81,l.9
『What's wrong with right now Unless you think about it?(あなたがそれについて考えなければ、今ここに何か間違っていることがありますか?)

これはボブの教えの本質です。思考がすべての苦悩を生み出していることを理解してください。すべての苦悩から逃れる方法はたった一つ。Full Stop.(ピリオド)

p.83表題
使者ではなく、メッセージ

ボブは常々、使者を信奉するのではなく、メッセージを理解しなさいと言っています。
ボブの教えは、グルの臨在のもとで覚醒するというような教えではないのです。極端なことを言えば、メッセージさえちゃんと理解していさえすれば、使者は誰でもいいのです。

今現在(2018年12月)、セイラーボブのミーティングでは、ボブの体調が万全ではないため、ボブに頼まれてカタリーナが主に話し、ボブはそれほど話しません。カタリーナはボブの教えをしっかり理解しているので、ボブの代わりに話しても何も問題ありません。

カリヤニはボブとは別の場所で月2回ミーティングを開いていました(2018.12.23をもって終了)。セイラーボブは私が二回目のミーティングの滞在を終えてオーストラリアを離れる時私に、日本のみんなに(ボブの)教えを教えて、と言いました。使者は教えをちゃんと理解してさえいれば誰でもいいのです。

ボブの教えは、覚醒や目覚めではありません。誰にでも理解できて、誰もが使者になれるものです。教えを理解することなく、覚醒や目覚めを求めようとすれば、「汝、それなり」と一喝されるだけです。

p.84,最後から4行目
得るものも、達成する人も存在しないのです。心で理解しようとするいかなる試みも、単に想念の流れを持続させるだけです。無思考という目標に到達しようとして、考えることはそれ自身を忙しくします。-それは回し車の中のリスのように行動します。心がめざしているのは、自らが想像している「理解」という概念なのです。それは思考が別の思考をつかまえようとしているだけなのです。そして、それは不可能なことです。
 ニサルガダッタは、「自分自身の観念の泥から抜け出そうと、もがかないようにしなさい。もがけば、もっと深みにはまる。ただ静かにしていなさい」と言いました。あなたは出口を考え出すことはできないのです。それは何も解決できません。ただ静かにして、心のおしゃべりを止めることによって、思考の流れを止め、単に思考を休止することです。

どうしたら真理を発見できるでしょうか。言い替えるなら、どうしたら、自分は肉体でも思考でもないたった一つのものだということが理解できるでしょうか。

セイラーボブは、口癖のように、"Answer is not in the mind"(答えは思考の中にはない)と繰り返し言います。考えても答えは得られないと言うのです。なぜなら、「私」は思考でも体でもなく、その外にあるものだからです。

探すのをやめて、思考の流れを止め、単に思考を休止すると、そこに答えがあります。思考を休止すると、そこにあるのは、意識です。それがあなたであり、あなたが探しているものです。
 
p.85 ,l.7
「あらゆる活動を超えた静寂への通路」
同l.9以降
「偉大なる完全さ」「非概念的意識」、思考が現れ、それ自身を信じ始める前の空っぽさ。戯れのない原初のもの。偏在、全能、全知であるもの。思考によって分断されていない単一なるもの。二番目のないもの。一つでさえないもの・・・ただ、それ。

難しい言い回しをたくさん使って表現していますが、これは全部アウエアネス(意識)のことです。
私たちの日常の、普通の意識(アウエアネス)のことです。覚醒した意識や瞑想で達成したサマーディではなく、普通の日常の意識です。ただそれがあるだけであり、それが私たちの本質です。

意識(アウエアネス)と理解についてはまた別の回のテーマにしてあるので、ここでは深入りしません。

p.89,l.8
「私はそれである、これはそれである、あらゆるものはそれである」

このページにある太字のそれは全部、私たちの意識のことです。日常の普通の意識のことです。私はこのブログの中で、ボブが言っている「他に何もない一つのもの」は、私たちの意識であると言い切っていますが、正確に言うと少し説明が必要です。

私が、「他に何もない一つのもの」とは意識(アウエアネス)であるという言う場合、人間という基準点(参照点)に立って言っています。これが例えば、机や椅子という基準点に立って言うならば、「知性エネルギー」と言うべきかもしれません。

人間には感覚器官があるために、それを意識としてとらえることが可能ですが、机や椅子には感覚器官がないため、それを意識としてとらえることができません。しかしながら、人間も机も椅子も一つのもの。別の表現をすれば、人間も机も椅子も知性エネルギーの中にあって、知性エネルギーそのものです。

私がボブに「アウエアネスとは何ですか?」と聞くとボブは決まって、
Are you not aware of the tram?(トラムの音に気付いていないのか?)
It's awareness.(それがアウエアネスだ)
と言ったものです。

私はこの禅問答のようなやりとりの意味が最初よくわかりませんでした。でも何度も同じやりとりをしているうちに、その意味が理解できました。aware(気づく)とawareness (意識)を重ねて韻を踏んで、(あなたの意識がアウエアネスのことだよ)と言っているのです。人間の五感はすべてアウエアネスの現われであり、知性エネルギーの現われです。

思い返してみると、意識は私たちの幼いころから、どんな時もあったのですが、それがいつどこからやってきたのか、またそれが一体何なのかを私たちは知りません。

哲学者、脳科学者、医者、ありとあらゆる人が意識とは何なのかを研究、探求してきたのですが、答えをみつけた人はいません。

p.90,l.5
「空間的意識」「認識する空」「純粋な気づき」「意識」

これらの表現は、知性エネルギー、つまりは「意識」の別の表現です。

p.91,l.10
 この宇宙はエネルギーの認識活動です。私たちが「これを知っている、あれを知っている」という以前に、その裸の認識活動ないし裸の知性、裸の意識が存在しており、後になってそれがいろいろな観念に翻訳されるのです。その認識活動は現在進行形です。それはただ知ることでも、知る者でも、知られるものでもなく、知り続けています。

わかりやすく要約すると、思考より以前に意識があり、それは私のものでも誰のものでもなく存在し、起こり続けているという意味です。

意識は個人のものではありません。意識の中に個人があるのです。もっと詳しい説明が必要な方は、セイラーボブの教え(概略)を読んでください。

p.92,l.12
「気づき/意識 awareness」といった用語を使うことができるだけです。

そこに誰か気づく人がいるように思ってしまうので、「気づき/」を消してください。

p.93,l.4
けれども、[本質としての]私たちが表現しているものが、この見かけ、現象なのです。

ここは少しわかりづらい表現になっていますが、要するに、私たちも世界も実在のものではなく、見かけだけの現われにすぎないという意味です。

p.93,l.9
皆さんはたくさん本を読んだり、修行をしたり、偉大なマスターたちの説法を聞いたり、いろいろなことをやってきたかもしれませんが、それらの何一つとして、けっして非―物、無を超えたことはなかったのです。

ここで言う「無」とは知性エネルギーのことです。「無を超えたことはなかった」という意味は、知性エネルギー(意識)の外へは行ったことがなかった、つまり、エンライトメントしたことはなかったという意味です。

あなたは、知性エネルギーであり、意識そのものです。

p.95,l.1
どうすれば純粋意識の中に留まることができるのでしょうか?

「純粋意識」という部分は、原書では、awareness となっています。翻訳者の高木さんは、awareness を、この本の他の箇所では「気づき/意識」もしくは「意識」と訳してみえますが、ここでは質問者の意図を汲み取って「純粋意識」と訳してみえます。
つまり、質問は、
「どうすれば awareness の中に留まることができるのでしょうか?」です。ここで言っている awareness(意識)とは、私たちの日常の普通の意識のことです。特別の意識と普通の意識が二つあるのではなく、普通の意識だけがあるにすぎません。

質問者はボブの使う「awareness」が特別な意識状態であると思って質問しています。その後につづく答えの中でボブは、特別な意識なんてものはなく、私たちの普段の日常の意識がそれであり、それを得たとか、失ったというのは思考にすぎないんだよということを言っています。

p.96,l.7
大は銀河から、小は素粒子までーその見かけはたえず変化しています。しかしその本質は、非顕現であり、けっして変化したことがないのです。それはすべての変化を包含しますが、変化はそれを包含することができません。

銀河から素粒子まで、見かけは絶えず変化するが、その本質は知性エネルギー(意識)であり、それが変化することはない。また、知性エネルギー(意識)は銀河や素粒子を包含するが、銀河や素粒子が知性エネルギー(意識)の外に出ることはないという意味です。

p.103,l.8
つまり、質問がなければ、質問者は存在しません。

「私とは誰か?」「どうしたら本当の理解が起きるのか?」「万物はなぜ一つなのか?」と、「私」が質問をし続けるかぎり、「私」は消えません。質問者は質問と一体だからです。
質問することをやめて(思考を止めて)、今ここにあるのは意識(アウエアネス)だけだということを理解すれば、質問も質問者も消えます。

あなたが、「私は実在ではない」「万物は一つのものである」ということの理解や実感を、思考で探せば探すほど答えはみつかりません。
これは禅の公案と同じで一種のパラドックス(逆説・矛盾)です。ボブは、思考を使って、自分が実在するのかどうか自分で確かめなさいと言っていますが、思考を使って探せば探すほどみつからないのです。

あなたが真剣に探せば探すほど見つからないのですが、探さなくては理解は起きません。あなたがあきらめずにとことん探せば、ある時理解が起こります。答えは思考の中にはないという理解が。

p.104,l.1
ただ存在意識のみがあり。

英語版では「存在意識」の部分はpresence awareness です。この部分は難しく考えないでください。今ここにある意識、つまりは普通の意識のことです。
この本の中に何回か、高木さんが presence awareness を「存在意識」と訳してみえる箇所が出てきますが、「今ここにある意識」、もしくは単純に、「意識」と読み替えてください。

P.104,l.3
あらゆる現象は、詳しく見ていくことによって、あなたを故郷へ導いてくれるでしょう。
原文は
Bob: All pointers will take you home if you look into them.です。
「pointers」 を「現象」と訳されていますが、ポインターとは、ヒント・指し示すもののことであり、この場合はセイラーボブの例え話のことを言っています。

p.109,l.6
その休止の間、別の思考が起こる前、存在するのは裸の意識のみです。

花、花、花、花、花・・・・ストップ。の後に思考が現れる前にある裸の意識こそが、ボブの言うアウエアネス(意識)です。

それは、思考の背景にいつもある私たちの普通の意識です。それが知性エネルギーの現われであり、空であり、汝それなりのそれです。

P.111,表題
私は、本来の自分であるところの「私は在る」(I AM)に語りかけている。

この I amとは、思考が知性エネルギー(awareness)を一番近く感じられる感覚のことです。実際には私はいないが、私たちはこの「私は在る」という感覚に様々なもの(出来事、経験、条件付け、自己イメージ)を付け加えて、分離した個人がいると思い込んでいます。

I amが具体的には何かというと、アウエアネス(意識)、知性エネルギーと言っても差し支えありません。要するに、アウエアネス(意識)がアウエアネス(意識)に語りかけているという意味です。

p.113,最後から2行目
意識が存在するすべてであり、それが真実のあなたなのです。あなたはその意識そのものであり、けっしてそこからはずれることはできません。それを探す必要などないのです。

ここは最初に「ただそれだけ」のそれは何かと説明したところですが、大切なのでもう一度書いておきます。

p.119,l.7
「不生の仏心」

「不生の仏心」とは何かというと、生まれる前の人の心のことをいい、そこには思考(言葉)がないため、問題もないという意味です。不生の仏心も知性エネルギー(アウエアネス)のことです。

p.119,l.7
という悟りが彼に閃いたのです。

「悟り」に対応する部分は英語版では、dawn on になっています。「理解」に替えてください。

p.147,l.9
ボブ、三十年前に起ったこの理解、この覚醒について

「覚醒」を「目覚め」に替えてください。英語版は awakening になっています。しかもこれは質問者の発言で、ボブのものではありません。

p.161,l.2
この「悟り」とは、

「悟り」の部分は原書では enlightenment になっています。
質問のすぐ後にボブは、
自分の自然な状態の何がそんなに特別でありえましょうか?と言っています。

つまり、もともとエンライトメントしている状態が自然な状態であると答えているのです。

p.163,l.6から11まで
ここに出てくる「心」を「マインド」と読みかえてください。そのマインドは「思考」と同義です。前にも書きましたが念のため

p.167,l.4
そこには純粋な覚醒状態、気づき、存在のみがあります。

原文は、
there is just pure wakefulness, awareness, being-ness.です

この文章を、
「そこには、起きている状態、意識、本質のみがあります」に替えてください。
要するに、普通の私たちの意識があると言っているわけで、覚醒した特別な状態があるわけではないということ。

つまり、それについて考えなければ、普通の意識(アウエアネス)があるだけだと言っています。

p.172,l.8
誕生したのは、自己中心すなわちエゴなのです。

原文は、
That which was born is the self-center.となっています。

自己の中心というのは、(自分がいる)と勝手に思い込んでいる思考のことで、生まれるのも死ぬのも思考なのであって、その思考が死ぬ時、永遠の命のみ(つまりはアウエアネス・意識)があるという意味です。

p.178およびp.179
この2ページに出てくる全部の「存在意識」を「意識」と読み替えてください。
原書ではpresence awareness となっています。「存在意識」とするよりも「今ある意識」とした方がわかりやすいと思いますが、単純に「意識」のほうがもっとわかりやすい。

これは前にも説明しましたが、私たちの日常の普通の意識のことです。
私たちは、この意識を瞑想で高めようとか、意識に集中しようとかする必要は一切ありません。ましてや覚醒の必要などありません。高い意識や特別な意識なんてものはありません。あるのは普通の意識だけです。

その意識をなんとかしようとするのはマインド(思考)の仕業であり、そのこと自体が問題を引き起こし、今ここから遠ざけてしまいます。

意識をなんとかしようとするのではなく、それを見えなくしているものの正体に気づくことが大切です。

p.181表題
存在するすべては、現在進行形の経験である

この後には質問に答えてわかりにくい表現がつづきますが、ボブが言いたいのは、「行為をする人は実在ではなく、行為そのものがあるだけだ」ということです。

p.193,l.5
しかし、悟りに関していえば

この「悟り」は原文では enlightenment です。
しかし、悟り(enlightenment)に関して言えば、誰が、何を悟ることができるでしょうか?それは単に事実に気づくというだけのことです。

つまり、エンライトメントなんてものはありません、忘れてきた鍵を思い出す程度のことだと言っています。もちろん、この「忘れてきた鍵を思い出す」というのは、自分が意識そのものだったということを思い出すということです。

p.201表題
あらゆるものが、"それ"である。

このページにそれがたくさん出てきます。もう一度確認のために言いますが、それとは、知性エネルギー=アウエアネス=意識のことです。私たちの普通の意識のことです。

p.217表題
目覚めている意識の味わい

このページと次のページには「目覚めている意識」という表現が何度も出てきますが、特別な意識ではなく、日常の普通の意識です。「目が覚めている時の意識」と言った方が誤解がないかもしれません。

p.225表題
私は存在意識である

存在意識の裏にある英語は presence awareness です。 presenceは「存在」とか「臨在」という意味ですが、ここでボブの言っているのは、自分が今ここに存在しているという意識・認識のことです。
わかりやすくするために、「私は意識である」と読み替えてください。

p.226,l.1
それは今ここであなたとともにあるのと同じ認識ー認識の内容ではなく、これやあれを知ることではなく、あなたが否定できない純粋な認識そのもの

ここに出てくる「認識」は原書では knowing です。ボブ流に言うなら、「知ろうとしている主体のいない知ろうとする働き」です。knowingもseeingも知性エネルギーの現われであり、別の言い方をすると、awareness(意識)です。「認識」「意識」と読み替えると理解しやすいと思います。「意識」に替えてください。

p.226,最後の行
この見かけ上の身体、このエネルギーのパターンを、それを形成している空間、空気、水、火から分離できますか?

ボブはまた別の話の中で、「私たちの体の8割は水でできている。ではあなたは水なのか?」と聞いています。私たちは思考によって勝手に「私の体」というラベルを貼りつけて、分離した一個のものだと考えていますが、実際には水や空気、炭素、カルシウムなどの複合体であり、しかもそれは空間と切り離しては存在できないものです。

言い替えるなら、体というものを分離した一個のものであると定義づけているのは思考にすぎず、それ自体を周りから分離することは不可能だということです。

p.227,l.3
それでも、それは依然として分離した身体、分離しいた実体として現れ続けるでしょう。物事は依然として起こり続け、対立物のペアとして現れ続けます。もしそれがなければ、世界には何も現われなかったでしょう。

セイラーボブの教えの、(私は実在ではない)(万物は空である)というようなことを理解しても、それを実際に体験するようなことは起きません。多くの人が体験を探してつまずきます。このことはまた別の回に、「どうしたら理解は起きるのか」というテーマで説明しますが、ここは覚えておいてほしいのでアンダーラインをしておいておください。


p.227最後から3行目
 悟りないし覚醒を求めていっても、獲得できるものは何もない、と私たちが言うとき、私たちは正直にそう言っているのです。何もない、のです。理由は単純で、あなたはすでにそれであるからです。あなたはそれなのです。

説明は不要だと思います。素直に読んでください。エンライトメントはありません。

以上で私の説明は終わりです。
私が説明した箇所に注意しながら、もう一度この本を最初から最後まで通して読んでみてください。
きっと努力のない認識が起きると思います。