2025/05/30

それは一つの本質なのです

質問者: わかりました。でも、「絵」や「手」というラベルは、それほど問題ではありません。「私は在る」というラベルが問題なのです。それが問題となるのはどんな時でしょうか?

ボブ: 「私は在る」が何か実体のあるものだと信じている時です。あなたが自分自身だと信じている想像上の存在には実体がありません。

質問者: 私はラベルを現実のものとして受け取ってしまいます。それが問題なのですね。

質問者: 私たちは「私は在る」は無害だと言います。「私」という言葉自体は無害なのです。言葉は私たちがそれに付け加えたものです。私たちは、「私は在る」に出来事や記憶や経験などを付け加えます。すると、一見問題があるように見えます。でも、誰にとって? 誰が問題を抱えているのでしょうか?

ボブ: 私たちは物事に様々なラベルを貼ります。どんな視点から見ているかに関わらず。ある人にとってあなたは兄弟かもしれません。ある人にとっては夫かもしれません。ある人にとっては叔父や友人かもしれません。特定のパターン、形、形態に、様々なラベルを貼り、「あなた」と呼ぶのです。金塊を手に入れて、それを彫ってブレスレットや飾りやイヤリングにします。何か違うものに。でもそれはただの金なのです。私たちはそれを様々なラベルで呼ぶとき、そのラベルが何か違うものだと思い込んでいます。そうではないのです。それは一つの本質なのです。

2025/05/27

「世界」もまたラベルなのです

ボブ:自分の体を見てください。たくさんの異なる部分に気づくはずです。でも、「あれは私とは別物だ」とか「これは私とは別物ではない」とは言いません。すべては一つなのです。「手」「指」などとラベルを付ける必要はありません。私たちはそれを「体」と呼び、体全体のことを言っているのです。

質問者:なぜラベルを付ける必要があるのでしょうか? 人に伝えるためでしょうか? というのも単に生きていくだけなら、ラベルは必要ないのに。

ボブ:誰かと話すためにはラベルを使う必要がありますよね?

質問者:例えば「指が痛い」とか。

ボブ:かつて人々は手話で話していました。推論する能力は言葉を使うという、より良い方法へと発達しました。

質問者:世界はラベルでできているのでしょうか? ラベルのない世界はあるのでしょうか?

ボブ:「世界」もまたラベルなのです。

2025/05/23

子供はそれを「これ」とか「あれ」とか別個のものとして分類しません

ボブ:ラベルを貼る前から、すべてが何であるかを知っていることに気づいてください。わかりますか? ラベルを貼らずに部屋を見回してみてください。すべてが何であるかを、あなたは知っていますよね?

質問者:そうですね、あなたはそれが何であるかを知っていると言いますが、私はそれを認識していると言います。しかし、認識するためにはラベルが必要です。私はそれが絵だと知っています。「絵」というラベルを貼る以前に、絵を見たことがあるからです。

ボブ:たとえラベルがなくても、椅子とギルバートが別々のものだということはわかるでしょう。ラベルを何も学んでいなくても、その違いはわかるはずです。 実際にはラベルは必要ないのです。ギルバートに座ろうとはしないでしょう?

質問者:ええ、しません!

ボブ:たとえあなたが今この世に生まれてきたとしても、その違いに気づくはずです。小さな子供だって違いがわかるのです。子供はそれを「これ」とか「あれ」とか別個のものとして分類しません。

2025/05/21

U. G .クリシュナムルティ『悟りという謎』

過去30日間、このブログで一番読まれた記事はU. G .クリシュナムルティ関連です。今googleで「U. G .クリシュナムルティ」を検索すると私のブログがかなり上位に出てくるので、そこからの訪問者が多いのかなと思っています。

そこで、参考になればと思って書くのですが、現在高木悠鼓さんのYouTube(シンプル堂)で、「U. G .クリシュナムルティ『悟りという謎』」というシリーズをやっています。内容は『The Mystique of Enlightenment(悟りという謎)』という本の紹介です。

私のブログでも、この本の一部を取り上げましたが、高木さんのYouTubeでは、もっと詳しくやっていただけるようです。いつもながら、高木悠鼓さんはありがたい情報を提供してくださり、感謝しています。

2025/05/20

すべてはバイブレーションです

ボブ:すべてはバイブレーションです。思考もバイブレーションです。それを思考や観念で捉えようとするのはやめましょう。「ああ、そうだ、すべては一なるエッセンスだ。これがそのバイブレーション、表現の仕方だ」などと。なぜなら、それは非観念だからです。観念で捉えることは決してできません。私たちは常に観念を使っていますが、どんな観念も当てはまりません。

質問者:では、「私は在る」は、人が持つことができる最も基本的な観念なのですか?

ボブ:先ほども言ったように、それは原初の思考、最初の思考です。

2025/05/13

自由意志はないのか

前回のブログの続き。

非二元ではよく「自由意志はない」という言葉を耳にしますが、その意味は自由意志を持つ主体としての「私」は実在しないという意味です。でも、多くの人がこれを誤解していて、自由意志がないのだから何をやっても無駄だとか、結果はもう決まっているというふうに解釈している人がいます。

そうではないのです。そもそも、自由意志を持つ「私」が存在しないのです。そういう意味で自由意志はないのです。私たちの行為や努力は起こってくるものであり、その行為や努力は無駄ではありません。うまくいく場合もあればうまくいかない場合もある。そんなの当たり前のことです。

自由意志がなければ、自販機でコーラを買うこともできなければ、ブログを書くこともできません。そういう意味で言うなら自由意志はあります。でも、その自由意志の主体の「私」は実在ではない。コーラを買おうという気持ちも、ブログを書くという行為も、自然に起こっているということです。

私たちは、「私」が実在であると思い込んでいるために、「私」が選択していると思い込んでいます。でも、選択をしているように見える「私」は実在ではないのです。だったら何を悩む必要があるでしょうか。勇気を出して起こるがままに任せて、やりたいことをやってみたらどうでしょうか。

自由意志を持っている「私」も自由意志を持たない「私」も実在しません。自由意志の有無を論じること自体が間違いなのです。

2025/05/09

あまりにもデタラメな非二元論が横行している

私は日本人の方が書いた非二元関連の本をほとんど読みません。でも時々 Amazonが、「あなたにおすすめ」と言ってそうした本を紹介してくるので、その本のコメント欄を読むことがあり、だいたい何が書かれているかがわかります。

でも、あまりにもデタラメな非二元論が横行しているような気がします。一番多い間違いは、「私たちの未来はすでに決まっている」というものです。こんな無茶苦茶なものが非二元論であるはずがありません。

未来は決まっていません。そもそも、未来なんてないのです。時間は私たちのマインドの中にしかないのですから。それに、もし仮に未来を想像するとしても、それを生きる「私」は実在しないのです。「私」が実在しないのに、どうして未来が決まっているのでしょうか? その未来を生きているのは誰なのでしょうか?

非二元とは、二つではないということ。「あなた」も「私」もなく一つのもの。今も未来もなく一つのもの。だから非二元なのです。

「私」は実在しない。「私」は思考の産物。時間は私たちのマインドの中にしかない。こうしたことは非二元の基本です。そんなことも理解しないで、非二元の名を冠した本を書くとはけしからん。

そうした人の中には個人セッションまでしている人もいる。未来はすでに決まっているから努力をしても無駄だ、人生を投げやりに生きろとでも教えているのでしょうか? すべてがすでに決まっているなら、生きることの意味は何なのでしょうか? 努力することに意味はないのでしょうか?

こうした本を読んだ人は、非二元は人々の夢や希望を奪ってしまう厭世的なたわごとだと思って非二元を離れていってしまうでしょう。そうではないのです。あらゆる可能性は今この瞬間に開かれています。あ、いけません。少し時間の観念が入りました。

非二元論は、私たちの間違ったものの見方を教えてくれているだけです。運命論ではありません。非二元は、もっと明るく楽しく生きるためのものです。

2025/05/02

実際には何もないのです

質問者:では、あなたが「何も起こっていない」と言うとき…本当に何も起こっていないということですか?

ボブ:ええ。

質問者:何も起こっていないようには見えません。ただ…何もない? まるでこのすべてが幻想か何かだということですか?

ボブ:さっき何と言いましたか?  空間の内容物すべては空間の中に現れているということです。空間も他のものと同じように現れているので、実際には何もないのです。私たちは何も起こっていない、何もないと言います。
無数のものがあるように見えますが、実際にはそれらはすべて空なのです。純粋な知性、つまり知性に満ち溢れた空によって、パターンや形が形作られ、驚くべきパターンを形成します。奇跡的な、いわば素晴らしいパターンです! つまり、実際には何もないのです。