人がスピリチュアルの世界(精神世界)に興味を持つ理由は様々です。
でも、たいていの場合、何らかの問題を抱えていて、その解決策を精神世界に求めます。
対人関係、家族のこと、お金、仕事、失恋、心の病、強迫観念、憎しみ、悲しみ。そうした問題の多くは簡単には解決法が見つからないため、手っ取り早く悩みや重圧から解放される方法を探して、精神世界に入っていきます。
スピリチュアルの本を読んでも、グルや教師を訪ねても、グループワーク、セミナー、セラピー、リトリート、瞑想、なんたらのセッションに参加しても、問題は解決しません。
私もそうでした。
私は昔、こっぴどい強迫神経症に悩まされましたが、当時は強迫神経症という病名すら知らず、自分は狂人なのだと思っていました。あれこれの本を読み、催眠治療や様々なセラピーを受けたのですが、ますますひどくなるばかりでした。そうしてますます精神世界に傾倒していき、仕事を辞めてインドまでグルに会いに行ったり、チャネリングの会に参加したり、熱心に瞑想したり、どうしても自力で飛んでいるとしか思えない人たちと一緒に気功を習ったりしました。
そうしたことが、私を救済することはありませんでした。最終的に私を救済したのは、「強迫神経症を治す方法などない。人間とは多かれ少なかれ強迫観念を抱えて生きていくものだ」という理解でした。
具体的には、以前おたよりのコーナーで書いた、森田正馬博士の本を読んで、「強迫観念をあるがままに受け入れて、やるべき日常の仕事をする」ということを続けていくうちに、強迫観念は消えていき、そのうちに忘れてしまいました。
これは何も強迫神経症にだけに当てはまることではなく、人生で起きるすべての問題に当てはまることだと思います。人生には様々な問題が起きてきます。そのほとんどが、個人の力ではどうしようもない問題です。
非二元的に言うなら、「私」が引き起こした問題ではなく、自然に起こってくる問題です。でも、人は何とかして自分の力でその問題を解決しようとしてもがきます。バタバタと、もがけばもがくほど、物事は悪い方へと向かいます。
そんな時、「人生にはそうした問題はつきものだ、解決の方法などない、物事は自然に起こっているのだ」と、あるがままに見つめてみてはどうでしょうか。そうすると、物事は自然に良い方へと向かい始めます。
問題を解決しようとあくせくする間はエネルギーを浪費するだけで、解決へと向かいません。なぜなら、もともと問題などありはしないからです。
私を癒したのは、「解決の方法などない」という理解でした。
そんな貴重な経験をしたにもかかわらず、私はその後も覚醒、エンライトメント、解放を求め続けました。覚醒、エンライトメント、解放があると思っていたからです。
私はまた、「私は実在ではない、万物は一つのものである」ということがなかなか理解できませんでした。理解するためには何か特別な体験が必要だ、理解したら、何か特別な事が起きるはずだと思っていたからです。
それを理解する方法などないし、何も特別なことなど起こりはしないと理解した時、本当の意味での理解が起こりました。マインドの中には答えはないと心底理解したからです。
解放、救済、理解が起きるのは、「解放、救済、理解の方法などない」ということを心の底から理解した時です。それを探し求めている間は解放、救済、理解は起きません。
あなたが何も求めない時、そこには解放と喜びがあります。
なぜなら、その執着こそが自然なエネルギーの流れを妨げているものだからです。
最後によくあるスピリチュアルジョークをひとつ。
ある男が崖から落ちて、崖の途中の木にしがみついて、こう叫びました。
「おーい、誰か上にいるか。助けてくれ~」
返事がなかったので男はこう言いました。
「では、神はいないのか。もしいるなら私を助けくれ~」
すると神がこう答えました。
「よろしい、助けてあげよう。まず最初に、その手を木から放しなさい」
男はしばらく考えたあとで言いました。
「お~い! 誰か他の神はいないのか~」
2016 メルボルン