2021/03/14

長期充電中です。

ブログとしては終了する予定でしたが、まだまだ書き足りない気がします。

セイラーボブは、仏教、禅でも根底には同じものがあると言っていて、盤珪や僧璨を引用することがあります
そこで、仏教、禅という切り口から非二元を見たらどうなるだろうかと考えて、その方面の書籍を読んでみようと思うようになりました。例えば、悟り、空、無ということは仏教、禅ではどう説かれているのかということ。そうすれば、違った角度から非二元を理解できるかもしれません。

別のブログを立ち上げようかとも思ったのですが、伝統的な仏教、禅に興味があるわけではなく、あくまでも仏教、禅の根底に非二元と同じものがどれほどあるのかということが知りたいだけなので、このブログに書くことにました。

2021/03/07

謝辞

ブログを読んでいただいたみなさん、おたよりをくださったみなさん、応援ありがとうございました。

セイラーボブに会い、私の精神世界の探求は終わりました。
とても長い間、精神世界の旅をしてきたと思っていましたが、ゴールにたどり着いてみると、そこはもともと私がいた場所であり、一歩も動いていませんでした。

探求そのものが幻想でした。
人間の意識が何か別の次元に変容するということはありません。

セイラーボブが教えていることは、いつも思考の背後にずっとある何かであり、今までも、そしてこれからも変わることなく存在する何かです。

それを手に入れる必要もなければ、セラピーやリトリートに参加して自分を変える必要もありません。

今この瞬間も、多くの人が出口のない探求を続け、自分ではない何者かになろうとあくせくし、そのほとんどの人が、自分は不完全な存在であるという思いを抱きながら生涯を終えます。

私はとても幸運でした。
セイラーボブに出会えたおかげで、あるがままの私で完全であるということを理解することができました。

そしてあなたも、あるがままの今のあなたで完全であり、何者かになろうとする必要はありません。
セイラーボブも私もあなたも、同じ一つのものの現れであり、完全なものです。

セイラーボブは繰り返し繰り返し私たちに同じことを語りかけています。
私たちは、あるがままで完全なものであり、もともとそれなのだと。

一人でも多くの人が精神世界の探求で大切な人生を浪費しないことを願っています。
一人でも多くの人がカルトに巻き込まれないで、生き生きとした人生を生きることを願っています。

2015 メルボルン

2021/03/06

エピローグ

深い森の中で一本の木が倒れた。木こりはドシーンという音を聞いた。

音とは何だろう。それはバイブレーション。バイブレーションが空間を伝わり、木こりの耳に届き、それを脳が変換してドシーンという音を感じることができる。

もしそこに木こりがいなかったら、ドシーンという音がするだろうか。
バイブレーションはあるかもしれないが、ドシーンという音はない。

海辺で一人の少女が青い海を見ていた。色とは何だろう。それは光の波長、バイブレーション。その波長が少女の目に届き、脳が青い色へと変換する。
もしそこに少女がいなかったら、青い海はあるだろうか。
色の波長はあるかもしれないが、青い海はない。

宇宙ステーションから一人の宇宙飛行士が丸くて青い地球を見ていた。形とは何だろう。それは光のコントラスト。光の波長が宇宙飛行士の目に届き、脳が丸くて青い地球へと変換する。
もしそこに宇宙飛行士がいなかったら、丸くて青い地球はあるだろうか。

もし、この世にあなたがいなかったら、そこに世界はあるだろうか?

2016 メルボルン郊外

2021/03/05

すべてはあるがままで完全なものです。

春が来ると桜が咲き、夏になるとセミが鳴き始めます。

アサガオは夜が明ける前に花を咲かせます。
ひまわりの花は日が昇ると太陽を追いかけます。

牡蠣は満月の夜に開き、サンゴは満月の夜に産卵します。
ウミガメは孵化すると、砂浜から這い出て海を目指して一直線に歩き始めます。

仔牛は生まれてすぐに立って歩くことができます。
サケは川で生まれ、遠くの海まで旅をして、また生まれた川へと帰ってきます。

こうしたことは、誰かから学ぶわけでもなく、自然に起こっていることです。
自然で起こっていることは、あるがままで完全なものです。

物事は自然に起こっているのです。
そしてすべては完全なものです。

花はただ単に咲いています。

何者かになろうとか、何かを思い悩んではいません。
ただ在るだけで完全なもの。
自然は完全そのものです。

そしてあなたも、その自然の一部です。

2017 タスマニア

2021/03/04

悩みや心配は不要です。

私たちの問題はすべて思考の産物です。
そして、心理的な苦悩は不要なものです。

What’s wrong with right now, if you don't think about it?
(もしそのことを考えなかったら、今何が問題ですか?)

この世界はすべて思考の産物です。
実際には、そこには誰もおらず、何もないのです。

生まれてしばらくすると、視界に様々なものが現れ、周りの人たちがありとあらゆる観念を植え付けます。私がママで、あの人がパパ。これがミルクで、あれが椅子。
そうやって徐々に世界が観念としてあなたの意識の中に現れて、世界を形作っていきます。

でも、あなたが定義付けしなければ、それはミルクでも椅子でもありません。世界はあなたの思考でできています。

そしてまた、周りの人や社会があなたに、何が幸せなのかも教えます。
良い仕事について、十分なお金を稼ぐこと。素敵なパートナーを見つけて、家庭を持って子供を育てること。家を買って老後に備えること。健康で長生きすること。

そうした条件付けによって、幸せとはこういうものだという世界観が構築されます。そして、その世界観から外れるような出来事が起こるのではないかと心配し、もしその世界観から外れるような出来事が起きると、「私は不幸だ」と、悩むことになります。

でも、実際には誰も幸せでも不幸でもありません。なぜなら、この世界を構築しているのは思考、観念であり、実際そこには何もないからです。そこにあるのは観念であり、幸せも不幸もあなたの思考の産物です。

あるように見えている世界は、命の本質が自然に現われているにすぎません。それに勝手な解釈を加えて悩んだり心配したりしているのは思考であり、いるはずのない「私」です。

誰かを恨んだり、うらやんだりする必要もなければ、自分がしでかした事を悔い悩む必要もないのです。あなたが解釈を加えなければ、そこには誰もおらず、何も起こってはいないのです。

かと言って、起こってくる思考や、そこにいるように見える「私」を消し去ることはできません。できることは、それは実体のないものだと気づいていて、物事を過度に深刻にとらえないことです。そこには誰もいないのですから。

2016 メルボルン

2021/03/03

あらゆる観念から自由でいること。

二元性の枠組みの中で物事を見るのをやめること。

私とあなた。自己と他者。主体と客体。見る者と見られる物。存在と不在。空と形。現実と非現実。完全と不完全。始まりと終わり。過去と未来。運命と自由意志。輪廻と解脱。現世と過去世。この世と天国。好きと嫌い。良いと悪い。正しいと誤り。快と不快。誰かが私を傷つけたと私は傷ついた。私は理解したと私は理解していない。私は幸せだと私は不幸だ。

こうしたことは全部マインドの産物であり、観念です。
私たちは、物事を二元性の枠組みの中で理解しようとします。

こうした枠組みはそれほど役に立たず、マインドを納得させる手段にすぎません。
マインドの中でスッキリしたとしても、実際には何かが変わったわけでも、解決したわけでもありません。

こうした区別は、あなたが観念として構築したものにすぎず、実体があるものではありません。こうした観念から自由でいると、自然な知性が流れ始めます。

何も理解すべきことはなく、何かすべきこともありません。
あらゆる観念から自由でいてください。
すべての問題はマインドの産物です。

無心(ノーマインド)、不生の仏心でいること。
どんな基準点からも自由でいること。

笑いたければ笑い、泣きたければ泣き、起こるに任せる。
何者にもなろうとせず、あるがままでいること。
すべてはあるがままです。

言葉にとらわれないでください。
名前や姿形にとらわれないでください。
名前や姿形は言葉であり、言葉は観念です。

もちろん、あらゆる観念から自由でいようとしても、難しいのはわかっています。
でも、「すべてはマインドの産物であり、観念にすぎない」と気づいていることはできます。
あなたが理由付けしなければ、問題などもともと何も無いのです。

生(せい)、命(いのち)はマインドの中で起こっているのではなく、今、目の前で起こっています。
それは、あなたの観念に関わりなく、自然に起こっています。
観念に迷い込むのをやめて、コーヒーでも飲みませんか?

2016 メルボルン

2021/03/02

世界は幻影である。

本当にそうでしょうか?

それを確かめるすべなど、あろうはずがありません。

例えば、私たちが眠っている間に夢を見て、「ああ、あれは夢だった」とわかるのは、夢から覚めた後です。そして、夢だとわかった後では、もう夢の中へ戻ることはできません。

世界が幻影であるとわかるためには、この世界の外に出なければなりません。つまり、死ななければ、この世界が幻影かどうかはわかりません。そして、死んだら、もう二度と戻ってくることはできないのです。

金魚は、自分が水の中にいるということを理解できません。金魚鉢の外から自分を見ることができないからです。

宇宙の全体はこうだ、といくら仮説を立てても、誰も宇宙の外へは出ることはできないため、宇宙の全体像は永遠の謎、仮説のままです。

万物は一つのものである。
万物が一つのものであるということを体験として知ろうとするなら、万物の外へ出ないと、それが一つのものであるかどうかはわかりません。

誰も万物の外へ出ることができない以上、それが一つのものであるということを体験した人はいません。

私はいないという体験も同じです。私の外に出ないと、それを確かめることはできません。でも、私がいない時、私がいないという状況を見ているのは誰ですか? そこにそれを見ている人がいなかったら、私はいなかったと後で思い出すこともできないはずです。

非二元の教えはこうした矛盾、逆説に満ちています。何か良い解決法はないかと人々は考え、エンライトメントという、おとぎ話を作りました。

誰かが最初に、「私は覚醒した」と言い始め、人々はその人を崇め、それを刷り込まれた追従者たちが同じような疑似体験をして、「私も覚醒した」と言い、そうした歴史が幾世にもわたって繰り返され、人々はエンライトメントを信じるようになりました。

私はいないということを体験するためには、私の外に出なければなりません。
万物は一つのものであるということを体験するためには、万物の外に出なければなりません。
世界は幻影であるということを体験するためには、世界の外に出なければなりません。

「私」が死ぬ時、世界は消滅します。なぜなら、世界は「私」の意識の中にしかないからです。でも、基準点を残された人たちに置くなら、依然として世界はそこにあります。

非二元の教えを知的に理解することは可能ですが、それを実際に体験することはできません。もし、それを実際に体験しようとして探求を続けるなら、一生迷路にはまり込んだままです。

非二元の理解は、頭であれこれと考えた理解ではなく、直感的、感覚的な理解であり、疑いようのない真実としての絶対的な確信です。それは機が熟せば自然と起こってくる洞察、理解です。

私たちは幻影の世界にいて、夢を見ています。
でも、この夢が覚めることは決してありません。

2015 メルボルン

2021/03/01

救済される時。

人がスピリチュアルの世界(精神世界)に興味を持つ理由は様々です。
でも、たいていの場合、何らかの問題を抱えていて、その解決策を精神世界に求めます。

対人関係、家族のこと、お金、仕事、失恋、心の病、強迫観念、憎しみ、悲しみ。そうした問題の多くは簡単には解決法が見つからないため、手っ取り早く悩みや重圧から解放される方法を探して、精神世界に入っていきます。

スピリチュアルの本を読んでも、グルや教師を訪ねても、グループワーク、セミナー、セラピー、リトリート、瞑想、なんたらのセッションに参加しても、問題は解決しません。

私もそうでした。
私は昔、こっぴどい強迫神経症に悩まされましたが、当時は強迫神経症という病名すら知らず、自分は狂人なのだと思っていました。あれこれの本を読み、催眠治療や様々なセラピーを受けたのですが、ますますひどくなるばかりでした。そうしてますます精神世界に傾倒していき、仕事を辞めてインドまでグルに会いに行ったり、チャネリングの会に参加したり、熱心に瞑想したり、どうしても自力で飛んでいるとしか思えない人たちと一緒に気功を習ったりしました。

そうしたことが、私を救済することはありませんでした。最終的に私を救済したのは、「強迫神経症を治す方法などない。人間とは多かれ少なかれ強迫観念を抱えて生きていくものだ」という理解でした。

具体的には、以前おたよりのコーナーで書いた、森田正馬博士の本を読んで、「強迫観念をあるがままに受け入れて、やるべき日常の仕事をする」ということを続けていくうちに、強迫観念は消えていき、そのうちに忘れてしまいました。

これは何も強迫神経症にだけに当てはまることではなく、人生で起きるすべての問題に当てはまることだと思います。人生には様々な問題が起きてきます。そのほとんどが、個人の力ではどうしようもない問題です。

非二元的に言うなら、「私」が引き起こした問題ではなく、自然に起こってくる問題です。でも、人は何とかして自分の力でその問題を解決しようとしてもがきます。バタバタと、もがけばもがくほど、物事は悪い方へと向かいます。

そんな時、「人生にはそうした問題はつきものだ、解決の方法などない、物事は自然に起こっているのだ」と、あるがままに見つめてみてはどうでしょうか。そうすると、物事は自然に良い方へと向かい始めます。

問題を解決しようとあくせくする間はエネルギーを浪費するだけで、解決へと向かいません。なぜなら、もともと問題などありはしないからです。

私を癒したのは、「解決の方法などない」という理解でした。
そんな貴重な経験をしたにもかかわらず、私はその後も覚醒、エンライトメント、解放を求め続けました。覚醒、エンライトメント、解放があると思っていたからです。

私はまた、「私は実在ではない、万物は一つのものである」ということがなかなか理解できませんでした。理解するためには何か特別な体験が必要だ、理解したら、何か特別な事が起きるはずだと思っていたからです。

それを理解する方法などないし、何も特別なことなど起こりはしないと理解した時、本当の意味での理解が起こりました。マインドの中には答えはないと心底理解したからです。
解放、救済、理解が起きるのは、「解放、救済、理解の方法などない」ということを心の底から理解した時です。それを探し求めている間は解放、救済、理解は起きません。

あなたが何も求めない時、そこには解放と喜びがあります。
なぜなら、その執着こそが自然なエネルギーの流れを妨げているものだからです。

最後によくあるスピリチュアルジョークをひとつ。

ある男が崖から落ちて、崖の途中の木にしがみついて、こう叫びました。
「おーい、誰か上にいるか。助けてくれ~」

返事がなかったので男はこう言いました。
「では、神はいないのか。もしいるなら私を助けくれ~」

すると神がこう答えました。
「よろしい、助けてあげよう。まず最初に、その手を木から放しなさい」

男はしばらく考えたあとで言いました。
「お~い! 誰か他の神はいないのか~」

2016 メルボルン