佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その48」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/07/12
記憶は架空のもである 私は実在しない
引き続き、佐々木閑先生のすばらしい話が続いています。この話などは非二元そのものです。あまり転載させていただくのもどうかと思いますが、備忘録として残しておきたいと思います。
2024/07/09
求めない生き方
この話は非二元とはあまり関係ないかもしれませんが、思うところあって転載させていただきます。
昨今の「持続可能な成長」とか、「環境にやさしい」とかいうフレーズを耳にするたびに、そんなまやかしではなく、「求めない生き方」こそが解決策ではないかと思えてなりません。
必要以上に快適に生活しようとすること、過度においしいものを食べようとすること、もっとGDPを増やそうとすることよりも、求めない生き方の中にこそ幸せがあるような気がします。できるだけそうやって暮らしていこうと思っています。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その47」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/07/05
すべてはそれなり
すばらしい話があります。これもまたインドの伝承で、ムクタナンダからのものです。
ある男が生の本質を知りたくてグルを訪ます。生の本質は何なのですかと尋ねるとグルは、「汝それなり、すべてはそれなり」と答えます。
男はその言葉に打たれて理解します。グルの家を出て、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言って歩きました。
村人たちが向こうから走ってきて、「逃げろ象がやって来るぞ」と言いました。
男は、「ああ、我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言いました。
野生の暴れた象が角を曲がって男に向かって突進してきました。
男は象を見て、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言いましたが、象は男をつかんで木へと放り投げました。
数日後、手足を骨折して入院した男をグルが見舞いに行くと、男は言いました。「どうして言ってくれなかったのですか? 私の身体を見てください」
するとグルは、「人々が象が来るから逃げろと言ったのを聞かなかったのか? 彼らもまたそれなのだ」
ピーター・ローリー
2024/07/02
ここでは何も悪くはありません
いいですか、いつもここへ立ち戻ってください。今ここ、この瞬間、現在へ。
ここでは何も悪くはありません。
それと同じで、考えなかったら過去は存在するでしょうか?
考えなかったら、未来はあるのでしょうか?
セイラーボブ
2024/06/28
もし最初の感覚にラベルを貼りつけなければ、それは去っていきます
どこかへ行こうとして渋滞にあったときを例にしましょう。イライラします。それを何とかしようとしないで、ラベルを貼らないでおけば、それは単なる感覚が起こったにすぎません。批判しなければ、それは感覚にすぎず、去っていくのです。
最初の段階で、巻き込まれるとか、巻き込まれないでいようとかしないで、通り過ぎる車のようにただやりすごせばいいのです。古い習慣がやってきて権利を主張して、私のイライラ、私の失望と言いだします。失望、イライラは起こります。でも、もし最初の感覚にラベルを貼りつけなければ、それは去っていきます。
カリヤニ
2024/06/25
根底にあるものは何か
佐々木閑先生のYouYubeを見ていると、一言で仏教と言っても、いろんな教えや考え方があって面白いなと思います。世界の認識の仕方一つとっても、初期仏教と説一切有部や唯識では同じではありません。でも、根底にあるものは「諸法無我」であり、それは変わりません。
同じことが非二元の教えでも言えるのではないでしょうか。説き方は人それぞれであり、場合によってはそれぞれが互いに矛盾したことを言っているように思える場合もあります。でも、根底にあるものは「私には実態がない」ということであり、それから外れていなければいいような気がします。
でも、私はエンライトメントある派のマスターを支持しません。エンライトメントある派のマスターを支持しないというのは少し狭量だと思われるかもしれませんが、そこだけはどうしても譲れません。それを許してしまうと、そこには誰かエンライトメントする人がいることを認めてしまうことになります。
エンライトメントある派のマスターも存在していてかまいませんし、エンライトメントを目指している人たちのことをとやかく言うつもりもありません。でも、彼らの教えていることは非二元ではないし、彼らを非二元を教えるマスターと同じように扱うのはよくありません。そして、非二元の教えをエンライトメントとごちゃ混ぜにして理解しようとするのは間違っていると思います。非二元の世界にエンライトメントはありません。
2024/06/21
そこには一つのエッセンスがあるだけです
この肉体がなくなったあとでも、このマインドが続くのかということですね。
そこには一つのエッセンスがあるだけです。
一滴のしずくが海に落ちます。
その同じ一滴のしずくをまた海から取り出せると思いますか?
うわべ上では海に入っていくように見えますが、その一滴もまた海なのです。
セイラーボブ
2024/06/18
魂、あるいは霊は実在するのか
私は非二元を学んでから、魂も霊も実在しないと思っています。
仏教ではどうでしょうか。この話もまた興味深い話でした。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その39」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/06/14
あなたは生かされています
小さな胎児は母親の温かさ、心拍、呼吸に身を任せています。胎児は何の苦もなく成長します。そしてこれはまた、「私が考えた」、この「考え」や「イメージ」には何の力もないことの証となります。
それには力はありません。それが「私」なのです。これが起こっていることだとわかってください。
あなたは生かされています。
あなたは生そのものなのです。
セイラーボブ
2024/06/11
目覚めようとするいかなる試みも、私たちをそれから遠ざけます
私たちはみな、目覚めやエンライトメントに対して間違った思い込みをしています。そしてそれが障害となっています。目覚めようとするいかなる試みも、私たちをそれから遠ざけます。なぜなら、私たちは、このもともとあるアウエアネス(意識)のことを話しているからです。
2024/06/07
なるという未来の時間は存在しません
「なる」ということは、何かになるという未来の時間を投影しています。
なるという未来の時間は存在しません。
現実とはまさにこの瞬間です。それが生きるということです。
この瞬間をもう一度生きることはできません。この瞬間、いまここを。
セイラーボブ
2024/06/04
この世のどこにも我はない
佐々木閑先生のYouTube「ミリンダの問い」を時々見直しています。そしてあらためて仏教は非二元の教えそのものだと感じています。非二元の教えを学んだからこそ佐々木閑先生の教える仏教がよくわかるのだと思います。
佐々木先生は、「我」はどこにもないということを理解することは、仏教の悟りへの修行の重要なステップだとYouTubeの中で言われましたが、おおいに納得できます。「私」が実在ではないとわかれば、欲や煩悩は自然と消えていくのではないでしょうか。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その4」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この回などはセイラーボブのスピールを彷彿させます。まったくすばらしい。
2024/05/31
2024/05/28
2024/05/24
非二元的な生き方
非二元を学んで理解して、その後で「非二元的な生き方」があるかというと、そんなものはないと思います。非二元の教えの目指しているところは心理的な苦悩からの解放だけです。その後はどんな生き方をするかは、人それぞれ個人の意思にかかっていると思います。
「私」が実在ではないということを理解して、それならもっとやりたいことをやって自由に生きようとする人もいるでしょうし、以前にも増して成功や願望実現へ向けて精を出す人もいるでしょう。精神的な問題や悩みが無ければ、成功する確率は高くなるかしれません。
私も精神的には随分と楽になりました。それで私の生き方が変わったかというと、非二元を学んだから生き方が変わったということはないように思います。すべては起こってくることだと思うと、何かをどうかしようという思いもあまりおこりません。その影響もあると思うのですが、佐々木閑先生の教える仏教を学んで多いに納得することがありました。そして今は、できるだけ「欲望や願望を追及しない生き方」をしようと思っています。
年齢的にもこれから世に出て何かをしようという年齢ではないし、どうしても何かが欲しいという願望もありません。もっと英語が上手になりたいとか、もう少しビビらないようになりたいとかいうささやかな願望はありますが、大したことではありません。とりあえず食べるものがあって、その上健康ならありがたいなと思う程度です。
もともと多少ドロップアウト気味に生きてきたこともあって、佐々木閑先生の説く仏教には随分と救われました。もちろん、「欲望や願望を追及しない生き方」の人が増えてしまっては、経済も社会もうまくいかなくなってしまうので、そういう生き方は社会では息苦しさを感じる少数の人に限定されるべきものなのでしょう。できるだけ人や社会に迷惑をかけないようにして、「欲望や願望を追及しない生き方」をしていこうと思っています。
「人並みに」とか、「人と同じように」生きなくてもいいんだよ、というお許しをもらった気がして救われた気持ちです。どうせある意味でヴァーチャルな世界に生きているんだから、自分の思うように生きればいいのだと思います。
佐々木閑先生はたびたび「欲望や願望を追及しない生き方」(佐々木先生の使われる表現とは多少違うかもしれませんが同じ意味だと思います)が仏教の目指すところだと語ってみえます。私には、それが幸福をもたらす鍵のような気がしてなりません。
参考:出家的に生きるために
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その33」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/05/21
今そのことを考えなかったら、何が問題なのですか?
問題が起こっているように見えます。必要に応じて行動が起こります。
では、何が問題ですか?
みなさんにお尋ねします。「今そのことを考えなかったら、何が問題なのですか?」
何が問題なのかを見ようとする前に一瞬の間があります。
何かが問題となる前には必ず思考があるということを理解してください。
その問題について議論して時間を浪費してはいけません。
セイラーボブ
2024/05/17
世界は幻か?
前回のブログの「ミリンダの問い その29」は、仏教が世界をどのように認識しているのかがわかって、とても良い話でした。ミリンダ問経にあるような初期仏教では、世界は実在するが、「私」は実在ではないという立場をとっています。さらに仏教が発展して大乗仏教になると、世界も実在ではないと説く人たちが現れます(唯識など)。
セイラーボブに会った最初の頃、世界が実在なのかどうかが知りたくてしかたがありませんでした。セイラーボブは、ヒンズー教を引き合いにだして、世界はマーヤー(幻)だと言われているという話を時々します。それで私は、世界が自分の意識の外にあるのかどうかが知たくてしかたなかった。私が眠っている時にエジプトのピラミッドは消えているのか? メルボルンのヴィクトリア通りの建物は消えているのか?
そういう質問をしたことがあるのですが、ボブはいつも決まって「そこにあるのは何ですか?」と言って、部屋の隅にある椅子を指すのです。そこから、それが椅子なのかどうか? それは実在か? という話になっていくのです。私としては、もっと単純に、私たちが見ている世界は実在なのかどうかが知りたかったのですが、いつもはぐらかされたような印象を受けました。
非二元の教師たち皆が世界は幻だと言っているわけではないのですが、そのように解釈できるように語る人もいます。ジャン・クラインは、「意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます」と言っています。
個人的には、おそらくジャン・クラインの言う通りなのだと思います。おそらく、私の意識が消えれば世界は消えるだろうと思います。例えば、私が死んだら世界は消える。私が空の上から残された人たちの活動を見るなんてことにはならないと思っています。参照点が消えればもうこの世界を見ることも感じることもないだろうと思います。ただ、まだ生きている人に参照点を置くなら、そこには依然として世界はあるでしょう。
でも、それも想像にすぎません。いくら考えてみたところで、私たちは五感を通してしか世界を認識できないのだし、五感の外に出て確かめることは不可能なので、意識の外に世界があるのかどうかは確かめようのないことです。私が死んだあとに世界はどうなるかも、確かめようのないことです。
人によっては、世界は実在しないという考え方は行き過ぎで、世界も身体も実在するが、「私」は実在しないという初期仏教の考え方の方がしっくりいくという人もいるのではないでしょうか。昔の私だったら、覚醒した人はそういった意識の外の世界さえ見えているはずだと思っていましたが、今ではそんなことはまったく信じていません。
以前は、非二元の教えを理解する上で、世界は幻であるということを理解しなくてはいけないと思っていましたが、今はそうは思っていません。非二元の教えの核は「私」は実在ではないということです。世界が実在かどうかは考えてもしかたがないことだと思います。現実問題として健康診断にも歯医者にも行かなくてはいけません。身体は無いなんて言ってられない。
以前、非二元にまったく興味のない友人に、「ひょっとするとリンゴは脳の産物で、実際には存在しないかもしれない」と言ったところ、ひどく怒られて、あんまり変な本ばかり読んでるいからそうなるんだと言われたことがあります。世界は幻だなんて言おうものなら・・・。
認識論については、今のところ前回のブログ(ミリンダの問い その29)が一つの答えになるのではないでしょうか。科学は、物質は存在しないということを証明する手前まで来ていますが、まだそれは量子力学の段階でしかありません。現段階ではまだよくわかっていません。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。
わからないものはわからなくていいのではないかと思います。非二元の教師が、世界は幻だと言ったとしても、彼らでさえも確かめることはできないと思います。現実的なことを言えば、私の世界は私の意識の及ぶ範囲だけであり、それ以外はないと同じではないかと思います。
2024/05/14
仏教の認識論 私とは何か?
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その29」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話、おもしろいですよ。
非二元を学ぶ人必見。ぜひ見てください。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その30」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話は非二元そのものです。
2024/05/10
2024/05/07
時間は生あるものにしか存在しない
非二元の教えの中で、時間に関するところは理解が容易ではないところではないかと思います。時間は思考の中にしかないと言われても、なかなか理解できない人が多いのではないでしょうか。
仏教ではどうか? 「ミリンダの問い その24」では、「時間は生あるものにしか存在しない」という説明が出てきます。そして「ミリンダの問い その25」はもうほとんど非二元の世界。もちろん仏教と非二元では時間に関する考え方は違うのですが、似たような捉え方をしていたんだなと参考になりました。そして佐々木先生は、もし人間がいなかったら時間とは何なのかと問うてみえます。とても興味深いところです。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その22」
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その23」
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その24」
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その25」