2026/02/21

現実とは何か?  ルパート・スパイラ

What Is Reality?
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

現実とは何か?もし世界が幻想だとしたら、世界のどこが現実なのだろうか?私たちの感覚知覚を超えた現実とは何だろうか?

ルパートは、世界の現実は有限の心に先行すると説明しています。私たちに物理的な世界として現れるものは、普遍的な心、つまり意識の活動であり、その本質は物質ではなく意識です。現実は、世界の中にある独立した主体、つまり有限の心の感覚知覚を通して知覚されたときにのみ、物質として現れます。

有限の心とは、無限の意識の局在であり、現実を知覚し、自身の限界に従ってその姿を創造します。だからこそ、私たちは世界を半分創造し、半分知覚していると言われています。

しかし、究極的には、現実は一つの、形のない不可分な全体であり、それは存在、つまり神の存在なのです。

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私たちが物を現実の存在として認識する原因は私たちの知覚(五感)にあるという話は私がこのブログに何度も書いたことであり、セイラーボブがいつも話す椅子の話と同じことを言っています。

五感で得た情報を無しにすると、それを椅子と認識することはできない。でも、そこに椅子は無いとしても何かがある。ルパートは、物は私たちの認識で半分できていて、残りの半分は、いわば全体としての意識のようなものでできていると言います。

このブログの唯識の量子力学のところ(唯識③量子力学)で書いた、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」ということと同じことを言っているような気がします。

セイラーボブは、私たちが椅子という定義づけをしなければ、そこには椅子はなく、ただ一つのものあるだけと言います。

ルパートは、物(世界)とは私たちの知覚の認識が半分で、残りの半分は全体の意識(無限の意識)でできているが、それが一体となったものが現実だと言っています。要するに無限の意識の活動が先にあって、局在化した私たちの意識(マインド)で見たものが物(世界)だと言っています。この説明は私にとって新鮮なものでした。

セイラーボブが、椅子の話をするたびに、椅子と認識しなかったら、そこには何があるのか、一つの意識と片付けてしまうのは乱暴な気がしていました。それをルパートはもっとわかりやすく説明してくれました。

私たちは知覚の外にあるその半分のもの(無限の意識)を知りたいと思うのですが、やはりそれを具体的に知ることはできないのではないでしょうか。ルパートは、それを突き詰めていくと、ものすごい喜びの瞬間が訪れると言っていますが、それはたぶん、理解した瞬間の喜びを比喩的に言っているのだと思います。

2026/02/19

外側に世界はあるのか?  ルパート・スパイラ

Is There an Outside World?
日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→英語(自動生成)→英語(自動生成)→自動翻訳→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

別個の外の世界が存在する証拠についての議論。

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外側には世界は無いということは非二元では当たり前のこととして説かれます。ルパートの説明は、私がこのブログの科学的アプローチの「脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳」や仏教その他の「物は実在か」のところで書いたことと途中までは全く同じ説明です。

外側に世界があると思っているのは、五感を通してやってくる感覚にすぎないということです。私たちは五感を通して得た情報から、そこに物があると推測しているにすぎず、そこに実際に物(世界)があるかどうかは、確かめようがありません。ここまでは、このブログのあちこちで何度も書いたことと同じです。

でも、ルパートの場合、そこから先の説明が違います。
私たちは皆同じ一つの世界を見ていると思っているが、そうではなく、一つの意識(アウエアネス)がそれぞれの人の意識となって、それぞれの世界を見ていると言うのです。その部屋の中にいる75人がそれぞれ75の世界を見ている。でもそれは一つの意識が見ているにすぎない。そこに世界があるのではなく、一つの意識の投影を見ているにすぎない。

以前にも書きましたが、この説明のモデルは仏教の唯識の世界観と酷似しています。仏教では阿頼耶識の情報がそれぞれ個人の意識(それぞれの世界)に投影されると説明しています。

動画の終盤に「空は形、形は空」という言葉が出てきますが、それは外の世界があるという前提で語られるので「空は形、形は空」と言うが、もともと外の世界などない、と説明しています。

部屋の中にいる犬を例に出して、犬には自我がないため自他の区別がなく、純粋な経験だけをしている、生まれたばかりの人間の赤ちゃんも自他の区別はなく、純粋な経験だけをしていると説明しています。

「物は実在しない」、「世界は私の意識の中にだけある」ということはセイラーボブの説明で十分理解していましたが、ルパートの説明もとてもわかりやすくていいと思います。確信を持って世界は幻だと理解できると思います。

2026/02/18

ミーティング内容の変更のお知らせ

現在、毎週日曜日に行っているミーティングは毎月一回月末に行うことになり、それ以外の日曜日はZoomによるミーティングになる予定だそうです。冒頭で変更の発表がありました。

Thought will show up. Nonduality explorations Sailor Bob's style. 15 Feb 2026

2月6日のfacebookで、カットが船上からボブの遺灰を海上へ撒く様子が流されました。

https://www.facebook.com/reel/1365211128684645
https://www.facebook.com/sailorbobadamson

最近になって公開されたボブの過去の動画があるので掲載しておきます。

ボブの言葉を集めた本を自分で朗読したもの   

ジョン・ホイーラーが来た時の動画
   
アメリカ、コネチカット訪問時のミーティング

2026/02/17

意識(アウエアネス)が眠りに落ちることはない  ルパート・スパイラ

Awareness Never Falls Asleep
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

このビデオクリップでは、ルパートが、深い眠りが何もない状態ではなく、意識が満ち溢れた状態である理由について説明しています。

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この動画はとても貴重で重要な動画です。
日本語の自動翻訳に誤訳があるので指摘しておきます。最初の方のところで、「眠りに落ちる遷移(せんい)を経ます」というところは、「眠りに落ちる経過をたどる」という意味です。そのあと、「眠りに落ちた目は意識の目ではありません」というところは、I(私)をeye(目)と誤訳しています。正しくは「眠りに落ちた私は意識としての私ではありません」という意味です。

この動画でルパートは、私たちが意識(アウエアネス)がなかったことなど一度もないし、これからもない、だれも意識のない経験をしたとこがないし、することもないと説明します。私たちが眠りに落ちて夢を見る時、意識はあって夢を見ています。深い眠りの時も意識はあるが、思考がないだけでそこには意識があると説明します。このあたりの説明はセイラーボブとまったく同じです。

伝統的な考え方では、私たちが生まれた時、その肉体に意識が宿り、死ぬとその意識は消えてしまうと考えているが、そうではなく、意識は永遠不滅のものであり、生まれることも死ぬこともない。そしてその意識(アウエアネス)がどれほど幸福に満ちたものか、その永遠不滅の幸福こそが本当の私たちだと教えてくれます。

そして最後のジョーク。ビル・ゲイツが天国にいるスティーブ・ジョブズにメールを送ったら返事が来て「天国はとても良いところだが一番いいのは、ここには窓も門もない」と言ったと笑わせます。これは「天国には窓(Windows)はなく、門(ゲイツ)もいない」というジョーク。

2026/02/15

理解の三つの段階  ルパート・スパイラ

The Three Stages of Understanding | Rupert Spira
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

理解の段階と、認識、気づき、意識の定義についての議論。

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質問者は awareness(意識、気づき)、consciousness(意識)と knowing(知る働き)の違いについて尋ねます。

それに対してルパートは三つの表現は同じもののことを言っているが、説明には三つの段階があるため、それぞれ段階に合わせて使い分けていると言います。

第一段階は awareness(意識・気づき)であり、この言葉を使うことによって、対象物に気づいている何ものかの存在を暗示させます。この段階でよく使われる例えは空と雲の例えです。空という awareness(意識・気づき)の中に雲である思考や感覚が現れます。

第二段階では、スクリーンの例えが使われます。スクリーンに現れる映像はスクリーンと分離しておらず、一体の物です。そこには対象物に気づいている何ものかは存在せず、awareness(意識、気づき)そのものが自らを気づいて(あるいは意識して)います。consciousness(意識)とスクリーンは分離しておらず、一体のものです。

第三段階では主体や対象物をまったく想起させないように knowing(知る働き)ということばでそれを表わします。思考や知覚はスクリーンに現れる何かではなく、 knowing(知る働き)そのものであるという理解です。そこには何も存在しない。そこに現れる思考も知覚もすべてknowing(知る働き)そのものであるという理解です。この段階では主体も客体も消え、knowing(知る働き)だけがあります。

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セイラーボブは主に awareness(意識・気づき)と knowing(知る働き)という言葉をよく使います。空と雲の例えもスクリーンの例えもしょっちゅう使います。このあたりの説明はルパートもセイラーボブもまったく同じことを言っています。私の場合はもう散々聞いているので、awareness(意識・気づき)と  knowing(知る働き)はまったく同じものだと理解していて、どちらを使われても違和感を感じません。knowingという言葉は日本語に訳しづらい言葉だと思いますが、知っていることや知識という意味ではなく、現在進行形の知る活動そのもの。それが私たちの本質だというのです。consciousness(意識)は人間の意識のことで、人間の側から言えばconsciousness(意識)になるだけで、awareness(意識・気づき)や  knowing(知る働き)と同じもののことです。そこには気づく何ものも存在せず、知る働き、いわば純粋な知性があるだけです。

2026/02/13

アウエアネス(awareness)とコンスシャスネス(consciousness)

ルパート・スパイラの動画を見ていると、アウエアネス(awareness)とコンスシャスネス(consciousness)という言葉がしょっちゅう出てきます。私は、このブログの用語集のところでも書きましたが、アウエアネスは普遍的な意識のことで、コンスシャスネスは人の意識のことだと理解しています。私は「awareness」を「気づき」と訳すのがしっくりこず、このブログでは「意識」と訳しています。そのため、アウエアネス(awareness)もコンスシャスネス(consciousness)も「意識」と訳しています。

私の場合は、
「space of awareness」→「空間のような意識」
「pure awareness」→「純粋な意識」

でも、ほとんどの人は、
「space of awareness」→「空間のような気づき」
「pure awareness」→「純粋な気づき」
と訳してみえます。

YouTubeの自動翻訳では、「意識」と訳す場合と「気づき」と訳す場合とあって一律ではなく、文脈によるようです。辞書で調べると、たいていの辞書は「awareness」を「1:気づいていること・知っていること 2:意識・認識」としています。

そのため、「気づき」と訳しても「意識」と訳しても間違いではなく、翻訳者の捉え方による。私の場合、非二元の話に出てくる「awareness」は、たいていの場合「意識」と訳した方が良いように思える。

本質的な意味さえ理解していれば、それを「意識」と訳そうと、「気づき」と訳そうといいのではないかと思っています。ところが、原文の英語ではちゃんと表現の違いがある。そこで、今流行りのAIに聞いてみました。

質問
「非二元の教えの中で語られるawarenessとconsciousnessの違いは何ですか?」

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Google AIの答え

Awareness(アウェアネス):純粋な気づき 
性質: 境界のない、無限で、すべてに行き渡る純粋な「気づき」や「存在」そのもの。特定の対象や内容を持ちません。
役割: すべての経験(コンシャスネス)の基盤、あるいは「スクリーン」のようなものです。何が現れても、その存在自体は変化しません。
非二元との関係: 非二元の核心であり、これが真の自己(アートマンやブラフマン)であるとされます。個人的な「私」という感覚を超えたものです。 

Consciousness(コンシャスネス):対象を伴う認識 
性質: 特定の対象(思考、感情、感覚、外界の事物)に対する「意識」や「認識」の状態。常に何かを「意識している」という形をとります。
役割: 反映された気づき、あるいは経験のプロセスです。意識が向けられた対象によって変化し、限定されます。
非二元との関係: 個人の自我(エゴ)や特定の心理的・物理的状態と関連しており、非二元の教えでは、これは一時的な現象、あるいは「純粋な気づき」の反映であると見なされることが多いです。
 
まとめ
端的に言えば、awarenessは映画の映写される「スクリーン」そのものであり、consciousnessはスクリーンに映し出される「映画の映像」である、というアナロジーで説明されることがあります。スクリーン(awareness)は映像(consciousness)に影響されず、常にそこにありますが、映像は変化し続けます。非二元の探求は、映像ではなく、その不変のスクリーンに気づくことを目指します。 

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ChatGTPの答え

非二元(ノンデュアリティ)の文脈では awareness(気づき) と consciousness(意識) はしばしば違う階層の概念として語られます。伝統や教師によって用語の使い方は多少異なりますが、代表的な区別をわかりやすくまとめると以下のようになります。

■ 1. Awareness(気づき)
◎ 非二元での意味
変わらずいつも在る「純粋な気づき」そのもの。
何かを観察している主体ではなく、主体と客体の分離以前の基盤そのもの。
個人的ではなく、普遍的。
体験の内容(思考・感情・感覚・世界)に依存せず、それらをそのまま照らしている開かれた空間のようなもの。

◎ たとえ
スクリーンのようなもの。
映画(思考や感情)がどれだけ変化しても、スクリーン自体は変わらない。

■ 2. Consciousness(意識)
◎ 非二元での意味
「何かに意識が向いている状態」としての意識。
ここでは awareness から現れる機能的な側面として扱われる。
たとえば「赤い花を見ている」「自分の体を感じている」といった、対象がある経験としての意識。
対象との関係(知覚、認識、注意)が関わるため、主体=私がまだ残っている段階。

◎ たとえ
映画のストーリーや映像そのもの。
観ている内容は常に変化し、注意の向け先も変化する。

■ 3. 核心的な違い
項目           Awareness             Consciousness
立ち位置         基盤 / 本質             現れ / 機能
変化           変わらない             絶えず変化する
個人的 or 非個人的     非個人的             個人的側面を含む
              主体‐客体 超えている      主体‐客体がまだある
非二元における役割    最終的な「真我」などと同義     経験の流れとして扱われる

■ 4. 非二元系の主な伝統での傾向
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(Ramana Maharshi 等)
Awareness(pure awareness)はアートマン/ブラフマンと同義
Consciousness は mind や個別意識を含む層

禅や大乗仏教系の非二元
Awareness ≒ 空性・如(にょ)/本性
Consciousness ≒ 識(六識・八識)としての経験の流れ

現代非二元(Rupert Spira, Adyashanti 等)
Awareness = Knowing, Being
Consciousness = awareness の活動・対象化したもの

■ 5. シンプルなまとめ
Awareness = 経験の「背景」
Consciousness = 経験の「内容」

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AIはいずれも「awareness」を「気づき」と訳している。
でもやっぱり「意識」という訳の方がしっくりくるような気がします。
それは、主体のない気づき、あるいは神の気づきのことだと理解していれば問題はないけれど、「気づき」と訳すと、そこに何かに気づいている主体がいるように錯覚する。また、何かを注意深く気づいていないといけないと思ってしまう。主体も客体もない気づきのことだけど、それを想像するのは難しい。

英語の場合、aware(気づく・動詞)が名詞化してawareness(気づいていること・意識)となるが、日本語にはそれに相当する言葉がない。日本語の「気づき」と「意識」は同じではない。
本質的な意味さえわかっていれば、どっちでも良いと思います。私のブログでは、引き続き、awareness=意識という訳でいきます。

2026/02/11

私たちの本性は体験に先立つ  ルパート・スパイラ

「Rupert Spira 非二元のエッセンス」堀田真紀子さんのYouTubeから転載させていただきました。わかりやすい日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→日本語)。

堀田さんのYouTubeチャンネルに堀田さんによる詳しい解説があるので、そちらを参考にしてください。堀田さんのYouTube

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これぞ非二元の教えの神髄のような動画。まったくすばらしい。


2026/02/09

時間を実際に経験することは決してない  ルパート・スパイラ

Time Is Never Actually Experienced
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

13 歳の少年が、「なぜ私たちは寝ているときに時間の感覚を失うのでしょうか?」と質問します。

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ルパートは13歳の少年に向かって、時間はあるように見えるだけだけ、そして世界もあるように見えるだけだと説明します。それを理解しても世界の見え方は変わらないが、世界に対する経験が変わり、美や愛を経験するようになると教えます。

時間に関する部分の説明はセイラーボブと全く同じです。過去や未来は私たちのマインドの中にあるだけで、実際に過去や未来へ行くことはできません。

しかし、どうして13歳の少年がミーティングに参加して質問しているのでしょうか。英語版を聞いてもらえばわかるのですが、声がまだ幼い。でも、とっても聡明そうです。

2026/02/07

時間は幻想である  ルパート・スパイラ

Time Is an Illusion
日本語字幕で見ることができます(⚙️歯車マーク→字幕→英語(自動生成)→英語(自動生成)→自動翻訳→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

時間は幻想なのでしょうか?もしそうなら、なぜ私たちの過去に関する知識はそれほどリアルに感じられるのでしょうか?過去の記憶は、時間が存在する証拠ではないのでしょうか?

ルパートは、あなた自身の経験について、紛れもなく真実である二つのことがあると言います。一つは、あなたには時間の経験がないということです。私たちは過去について考えることはできますが、過去について考えることは過去の証拠にはなりません。証拠を見つけるには、実際に過去を訪れ、それを経験しなければなりません。

二つは、時間に関するあなたの知識は思考と相関関係にあり、時間が思考を引き起こすという推定は、経験では実証できない推定です。経験は、因果関係の矢印は実際には逆方向、つまり思考が時間の見かけを作り出すことを示しています。

私は、時間が存在しないとあなたに納得させようとしているのではありません。時間は私たちが考えているようなものではないことを示唆する二つの経験的事実を示しているのです。これらの二つの事実を参考に、時間、過去、そして未来に関するあなたの経験を深く考察し、心を開いて考えてみてください。この考察があなたをどこに導くかを見極め、性急に結論を出さないでください。

記憶は過去の証拠だと決めつけないでください。記憶には他の解釈も考えられます。

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私のパソコンでは日本語字幕を出すのに何回もやらないと出ません。ひょっとするとパソコンが古いからかも。

このあたりの説明はセイラーボブの説明とほぼ同じです。私の場合は時間が存在しないということを理解するのに随分と時間がかかりました。
どの動画だったか思い出せないのですが、ルパートは他の動画の中で、マインドは過去の記憶の情報を一度に受け入れる事ができないので、時間というものを生み出して、そこに出来事を記憶として納めているという説明がありました。あれはわかりやすかった。ただ、その部分をブログで取り上げなかったので、どの動画だったかわかりません。

2026/02/05

すべては意識に現れたマインドの中の夢  ルパート・スパイラ

Everything Is Just a Dream in the Mind of Consciousness
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

すべては夢なのでしょうか?何か存在するのでしょうか?もし存在しないとしたら、何が起こっているのかをどう説明できるのでしょうか?

ルパートは、何も存在しない、と断言します。起こっているのは、ただの見かけ上の出来事です。夢の中では、浜辺、木々、水、砂、人々など、すべてが存在しているように見えます。しかし、目が覚めると、そこには何もなかったことに気づきます。夢の中では現実に見えた時間と空間は、覚醒状態から見ると全く非現実的なのです。

私たちは一種の夢のような状態にあり、時間と空間にある物体は、私たちの限られた視点からは現実のように見えます。しかし、目が覚め、夢の状態から覚醒状態へ、そして覚醒状態から意識へと一つ上のレベルへ移行すると、まるで夢から目覚めたかのような状態になります。ここには物体はなく、時間も空間もありません。そこにあるのは意識だけです。

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ルパートは時間も空間も物を実際には存在せず、うわべ上でそう見えるだけだと説明します。そして私たちは「神のマインドの思考」だと言います。物があるように見えるのは局在化された私たちの視点を通して見るからにすぎないと言います。

前回の動画のような説明はわかりやすいのですが、こういう非論理的な説明も好きです。セイラーボブの説明も非論理的でしたが、直観に訴える力がありました。結局、いくら理屈で説明してもそれを科学的に立証する方法はありません。一番大切なのは直観的な理解のような気がします。

2026/02/03

物は実在ではない

前回のブログに掲載したルパートのYouTubeが参考なるので、もう一度取り上げてみます。

私たちの持つ古典的な考え方では、世界70億の人が同じ一つの世界を見ていると思っています。でもそうではなく、一つの意識が70億の世界を見ているとルパートは説明します。物は実在(existence: 動画では「存在」と訳されている)の中に思考となって現れるのであって実在ではない、と言うのです。

私たち一人一人はそれぞれ別の意識があって、それぞれが同じ世界を見ていると思っているが、実際には一つの意識が個人の意識となって局在化し、別々の世界を見ていると言うのです。この世界観は仏教の唯識の世界観とほぼ同じではないでしょうか。唯識も人人唯識(にんにんゆいしき)といって、一人一人が別の世界を見ているといいます。その大元の情報源が阿頼耶識(あらやしき)です。ルパートの説明はひょっとすると唯識思想をヒントにしているのかもしれません。

セイラーボブは「世界は幻である」「世界は意識の中にだけある」「あなたがラベルを貼らなければ、そこに物は実在しない」「万物は一つのもの」「一つの意識だけがある」という言い方で、世界は実在ではないということを説明します。でも、ルパートのような緻密な説明を聞いたことがありません。

私はセイラーボブの説明で、世界は意識の中にだけ現れているということは十分に納得していましたが、ルパートの説明を聞いてさらに深く納得しました。ただ、ルパートの説明する世界観が正しいかどうかを立証する方法はありません。また、ルパートもスクリーンや夢の例え話を使って、いわば非論理的な説明をする時もあります。もともと異次元、あるいは次元の無い世界の話を単純なモデルにして説明しているだけなので、実際にはどんな世界なのか想像することさえ難しいのだと思います。

もちろん勘違いしてはいけないのは、現実世界には物質もあるし、体も世界ある。それが無いなんてことを言っているわけではない。人間の体や目を通して見れば、当然世界はある。肉体がある以上、古典的な考え方に縛られるのはあたりまえのこと。

以前、非二元には全く興味のない友人に、「リンゴは実在ではない」ということを説明しようとしてうまくいかず、最後には怒らせてしまって、「変な本ばかり読んでいるからおかしくなるんだ」と言われたことがあります。今度はきっとうまく説明できると思います。でもきっと、「変なYouTubeばっかり見てるからおかしくなるんだ」と言われるでしょう。

2026/02/02

物は実在しない;実在の中に物が現れる  ルパート・スパイラ

Objects Don't Have Existence; Existence Has Objects
日本語で聞くことができます(⚙️歯車マーク→音声トラック→日本語)。

YouTubeの解説(Google翻訳)

我々が知覚している世界以外の世界、物体の存在を知っているという仮定、そして意識は身体の産物であり身体に限定されているという仮定についての議論。

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質問者は、なぜ無限の意識の中に世界が現れるのかわからないと質問します。それに対してルパートは、世界は意識の中にだけあるということをわかりやすく説明します。

この内容はセイラーボブが言っていることと同じで、私が何度もブログに書いてきたことです。ただし、説明の仕方がセイラーボブとは違って、もう少し緻密です。

ルパートの説明は、私が「科学的アプローチ」や「仏教その他」(佐々木閑先生の説明)で書いた、世界は意識の中にしかないという説明と基本的には同じです。違うのはその最初の部分に一つの意識(アウエアネス)があるという点が違います。また、一つの意識がたくさんの世界になるというくだりは唯識の世界観ととても似ています。

この動画の日本語訳の「心」→「マインド」、「気づき」→「意識」、「存在」→「実在」に変えて聞くともっとよくわかると思います。

2026/02/01

佐々木閑先生の新しいシリーズが始まりました

佐々木閑 仏教講義 12「新説・インド仏教史 その1」(「仏教哲学の世界観」第15シリーズ)

楽しみです。