ルパート・スパイラ(ザ・グレイテスト・シークレット)
2023/11/28
2023/11/24
エンライトメント、あるいは目覚めとは
過去二回のブログでは、ルパート・スパイラがエンライトメントについて語っているYouTubeを掲載させていただきました。それによって、ルパート・スパイラがエンライトメントをどう考えているのかがはっきりしたと思います。
特に、前回のブログでは、エンライトメント、あるいは目覚めということの定義をはっきり語っています。そこには、何も神秘的な要素はありません。あるのは、認識、あるいは理解です。そして、その理解がどのように起きるかもはっきりと語っています。くどいようですが、もう一度その部分を掲載させていただきます。
「この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。
そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。
その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」
大切な部分は、「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」という部分です。要するに、そうやって個人としての「私」は実在しないということを理解・認識していき、さらには、「私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」
このとをルパート・スパイラはエンライトメント・目覚めと呼んでいるわけです。そこには突然何かが起きるとか、体が光に包まれるとか、自分はいなかった体験をするということは出てきません。これはものすごく重要なメッセージだと思います。
「すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始める」。そういう意味で言うなら、私はすでにエンライトメントしています。また、このブログをずっと続けて読んでいただいている方の多くもすでにエンライトメントしてみえると思います。私は、(エンライトメントある派)のマスターや教師は支持しないし、このブログでは取り上げません。でも、こういう意味のエンライトメントなら支持します。
かつては、グルやマスターの話をYouTubeで誰でも聞けるなんてことはありませんでした。私がセイラーボブに会いに行った9年前ですら、ボブのYouTubeの動画は2~3本があっただけです。ルパート・スパイラのYouTubeで一番古いものは12年前です。ありがたいことに日本語字幕を付けてくださっている方もみえます(4年前から)。
YouTubeが盛んになる以前、非二元関連の情報は翻訳されたごく限られた本しかありませんでした。すると、いくら翻訳者の方が正確に訳しても、読み手の方では勝手に想像して、非二元の教師たちは全員覚醒・エンライトメントした人たちだと思い込んでしまいます。ネット上で、「ただそれだけ」の書評を書いてみえる人の記事を読んでも、ほぼ全員が、セイラーボブをエンライトメントした人だと思っています。あれだけYouTubeで明確に「エンライトメントはない」と本人が言っているにもかかわらずです。ルパート・スパイラにも同じことが言えます。
YouTube以前は、直接会いに行くしか方法がありませんでした。でも今はYouTubeがあります。これってすごいことだと思います。ニサルガダッタ・マハラジの言葉だって聞けるわけですから。
そして、セイラーボブのミーティングにズームで参加することもできます。ルパート・スパイラもオンラインのセミナーをやっています。英語という壁があるので、少しハードルが高いのですが、どうしても知りたい疑問があればメールという手もあります。
インターネットの発達に伴い、もうそろそろ、彼らが私たちとは違う特別な意識の状態にある人たちだという幻想を手放してもいいのではないでしょうか。そこにあるのは、同じ一つの意識、存在(being)だと教えているのですから。
「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」
戻っていく(理解する)ためには、彼らが私たちとは違う特別な人たちだという先入観を捨てて、何も特別なことは起きないということを理解したうえで、手に入る媒体を通じて学ぶことだと思います。そしてそれは、誰にでも可能なことです。
2023/11/21
「エンライトメントとは何か?それはどのように起こるのか?」ルパート・スパイラ
What is Enlightenment? How Can it Happen For Me?
Enlightenment is possible for everyone
エンライトメントとは何か?それは私にどうやって起こるのか?
エンライトメントは誰にでも可能です。
最近、エンライトメント、あるいは目覚めとは何ですかという質問がありました。このことについては、あまりにも多くの誤解があるので、それについて話そうと思います。
私たちの多くは、エンライトメント、目覚め、解放について聞くために、肉体的、あるいは知的に東洋へと向かい、インド、日本、中国、チベット、タイなどを訪れました。こうした国の文化は西洋文化に比べて並外れて魅力的なものであるため、私を含めて多くの人は、エンライトメント、あるいは目覚めをこうした国の並外れて魅力的な文化と混同しました。
エンライトメントそのものが、何か並外れた魅力的なもの、私たちの想像を超えた奇跡のような体験だと信じ、その結果、私たちが読んだり聞いたりしたこの奇跡的な体験をゴールとして作り上げたのです。これほど真実とかけ離れたことはありません。エンライトメント、あるいは目覚めは並外れて魅力的な体験ではありません。実際それは、体験でさえありません。
それは単に私たちの存在の本質を認識(recognition)することです。存在の本質とは、あらゆる体験の根底にあり、さらに言うなら、いかなるものの中にも浸透しているもののことです。こうした理由から私は、認識する方法によるアプローチをしばしば説いています。認識とはもちろん、いつも知っていたにもかかわらず見落とし、あるいは無視したり忘れたりしてしまったことをふたたび知るという意味です。
私たちが見落としたり、無視したりしていることとは何でしょうか? それは私たちという存在(being)、本質としての自己(essential self)のことです。なぜそれを無視したり見落としたりしてきたのでしょうか? それは、私たちが体験、思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性などといった内容の虜になったからにすぎません。
こうしたことが、私たちの注意を独占したために、存在(being)のシンプルな事実を忘れたり見落としたりしたのです。存在(being)は私たちの体験の、いわば背後、あるいは根底にあるものです。エンライトメント、あるいは目覚めと呼ばれるものは、私たちの存在(being)の本質的な性質(essential nature)を認識することにすぎません。
物事の本質的な性質とは、それから取り除くことも分離することもできない性質のことです。私たちから取り除くことができるものをすべて取り除いた時に残るものが私たちの本質です。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性など、こうしたことはすべて私たちに現れ、遅かれ早かれ消えていきますが、私たちには、決して現れることなく、変化することなく、消えることのない一面があります。それは存在(being)、あるいは気づいている存在(being aware)というシンプルな事実です。
そして、認識するという方法は、自身から取り除くというやり方ですが、文字通り取り除くという意味ではなく、想像力を使って自身の中に入っていき、捨て去ること、拒絶するのではなく、私たちの本質ではないものを捨て去ることです。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識などを捨てるのです。そうやって、これ以上何も捨て去ることができない本質的な自己、すなわち存在(being)までさかのぼっていきます。
あたかもそれは、夜に服を脱ぐようなものです。私たちは夜ベッドに入る前に、裸になるまで順に服を脱いでいきます。突然裸の体になるわけではありません。体は日中私たちの体を包んで覆っていた服の層の下から現れるのです。一方、認識による方法も同じようなやり方で進んでいきます。
いわば、脱いでいくのです。私たちの存在( being)が着ている体験、思考、イメージ、フィーリングなどの層を全部脱いでいくのです。そして、ある時点で、これ以上は脱ぐことができない裸の本質的な自己(essential self)、すなわち存在(being)が現れます。この存在(being)になるのではありません。私たちは経験の中ではいつも服を着ていますが、本質的にはこの存在(being)にすぎないなのです。
大多数の人にとって、このプロセスは一度に起きるようなことではありません。一度に起こったとしても、たいていは習慣の力によって、思考、イメージ、フィーリングなどのせいで、私たちの存在(being)は、ふたたび覆い隠されてしまいます。実際には、スクリーンの上に映画が映し出されてもスクリーンが消えるわけではないのと同様に、私たちの本質的な存在(essential being)が消えるわけではないのです。
でも、私たちの存在(being)は、体験した内容によって色付けされ、うわべ上では修正され、その本質的な性質(essential nature)はベールで覆われたり、不鮮明に見えたりするのです。そしてその場合、私たちは再び、認識する方法に乗り出さなくてはいけません。再び逆の道をたどり、層となっている経験を通り抜けて、裸の存在(being)まで戻らなくてはいけません。
これをやるたびに、私たち自身、すなわち存在(being)から私たちを連れ出す外的な経験の持つ力が弱まっていくのがわかります。そうして私たちは私たち自身を見つけるのです。それは短い一瞥や、一時的に私たちの存在(being)を味わうということではなく、その中にそれとして確立されるのです。
私たちが経験したことによって身についた性質が、私たちの存在(being)から脱がされていくに従って、私たちの思考の特徴となっている不安が消えていきます。そしてそれは平安として体験されます。私たちの苦しい感情の特徴である欠乏の感覚が消えていきます。そしてその体験は、私たちが幸福として知っているものです。別の言葉で言うなら、平和と静かな喜びは私たちの存在(being)の本質そのものです。
それは、理解を超えた平和と呼ばれています。それは、私たちの体験の中で起きることや起きないことに左右されることのない平和です。それは原因のない平和、喜びです。その平和、喜びは体験の中に原因があるのではなく、私たちの存在(being)の本質そのものなのです。この、生まれながらの平和と喜びは、経験したことによって私たちの存在(being)と混同されて不鮮明になってしまいました。
この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。
そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。やがて私たちの存在(being)は、実際には私たちの存在ではないと感じ始めます。
別の言い方をするなら、私たちの存在(being)は個人としての私たちに帰属しているものではないのです。私たちの存在(being)は経験したこによって身につけた性質を脱がされ、単なる存在(being)として現れます。それはまったく親密であるにもかかわらず、非個人的で無限なものです。その結果、私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。
その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。
そしてこの認識はもちろん、人々や動物との関係性に対しては私たちが愛と呼ぶもののことであり、物や自然に対しては美と呼ぶもののことです。数週間後、あるいは近い将来、私は週末にオンラインで認識による方法をやるつもりです。そこで私たちは本質的な自己(essential self)へと戻る数々の道を探検します。そしてまた、ふたたび経験の内容へと戻る道、特に体を感じ、世界を認識する方法によって、私たちの存在(being)の本質を認識するだけでなく、あらゆる人や物と私たちの存在(being)を分かち合うことをもっと感じる方法をやります。
では、皆さまのご健勝と平安をお祈りします。またすぐにお会いできますように。お元気で。
2023/11/17
「私が未だに悟れないのはなぜ?」ルパート・スパイラ
Rupert Spira 非二元のエッセンス 私が未だに悟れないのはなぜ?
このYouTubeはまったくすばらしい。字幕をつけていただいた方に感謝します(歯車アイコンをクリック→字幕→日本語)。
このYouTubeの中で、ルパート・スパイラは悟り(エンライトメント)とは何なのかを端的に説明しています。
セイラーボブのミーティングで何十回も聞いたフレーズに似た言葉が出てきました。
「私はまだ目覚めていないのですが」という質問者の問いに対して、
「You are not awake? (あなたは目覚めてないのですか?)」とルパートは問いかけました。
セイラーボブだったら、Are you unaware right now?と聞くところです。ボブの場合は、「それが awareness だ」と続くところですが、この質問者はその意図を理解せず、会話を先へと進めてしまっています。
続いてルパートは、「あなたはまだ、何かが起きることを期待していますね。それが問題です」と答えています。
もし、非二元の教えを理解したら、何かエンライトメントのようなことが起きるはずだと思い込んでいると、非二元の教えを理解することができません。私もそうでした。
このYouTubeの中でルパート・スパイラは、悟り(エンライトメント)とは、何かを体験することや、何かになることではないと明言しています。彼らは私たちと何も違わない普通の人です。
説明の仕方や使うフレーズが、あまりにもセイラーボブと似ているので驚いています。
2023/11/14
「気づき」と「意識」
私は「気づき」という言葉が苦手でした。非二元の本を読んでいて、「気づき」という言葉が出てくると、そこに気づいている人がいるように思ってしまい、とたんに不鮮明になってしまいます。私はセイラーボブ以外の非二元の教師の本をあまり読んではいませんが、書店の精神世界のコーナーにあるような非二元の本はたいてい立ち読みしたことがあります。その時、「気づき」と出てくると、わかりづらく感じていました。
カリヤニに、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言ったのも、その程度の理由で、じっくり本を読んで言ったわけではありません。前回ブログに書いた、ルパート・スパイラの「プレゼンス」では、それこそ山のように「気づき」という言葉が出てきます。そこで、この「気づき」という言葉の裏にはどんな英語があるのか、ちゃんと調べようと思い、「プレゼンス」英語版を買おうと思って調べたところ、日本語版の三倍もする。円安の影響かどうか知らないけど、あんまりなので買うのをやめて、ルパート・スパイラのYouTubeを何本か見て確認しました。
それから推理すると、「気づき」に相当する言葉は awareness。やっぱりな、と思う一方で、どうして、ある本では「意識」と訳され、またある本では「気づき」と訳されるのだろうかと思いました。翻訳家によって違うのかと思って、あれこれ調べてみましたが、そうでもないらしい。高木悠鼓さんは、「ただそれだけ」では、「意識」を使い、「何でもないものが あらゆるものである」では「気づき」が多い。古閑博丈も「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」では「気づき」なのに対して、「すでに目覚めている」では「意識」が多い。
おそらく、こうした本に出てくる言葉の原語は、awareness もしくは aware だと思います(「プレゼンス」には一部に cosciousnessという言葉もあります)。私の場合、非二元の本として最初に読んだのが「ただそれだけ」なので、「意識」という言葉がしっくりきて、「気づき」だと違和感がありました。
awareness という言葉は、英語の場合、「気づき」という意味と「意識」という意味があって、英語ネイティブは、awareness と聞いたとたんに、「気づき」と「意識」が同時に頭に浮かぶわけですが、日本語にはそんな便利な言葉はないので、どちらかの訳語をあてなくてはいけません。また、非二元の教師によっては、awareness と consciousness の両方を同時に使う人もいて、その場合には consciousness を「意識」と訳して、awareness を「気づき」と訳すなどの区別が必要になると思います。
今回、「プレゼンス」を読んでいくうちに、「気づき」という言葉に対する違和感や苦手意識がなくなりました。最初のうちは「気づき」が出てくるたびに「意識」と直して読んでいましたが、途中からどっちでも同じではないかと思うようになったからです。
「気づき」とするか「意識」とするかは、翻訳家の方も気分でやってみえるわけではなく、原文の微妙なニュアンスを嗅ぎ取って、どちらかに決めてみえるのだろうと思います。というのも、「プレゼンス」の1巻では、ほぼ「気づき」だったものが、2巻の後半には「意識」という言葉が使ってあって、その場面では「意識」という言葉の方がしっくりくる感じを受けました。そして今は、「プレゼンス」の場合は、前述の一部の場面を除いて、「気づき」という言葉の方が的確だと思っています。気づきという言葉については、古閑博丈さんのブログが参考になると思います(気づきとはルパート・スパイラ)
この「気づき」という言葉に対する苦手意識が消えたことや、カリヤニからロンダ・バーン、ルパート・スパイラを教えてもらったことで、もっといろんな人の本をちゃんと読んだ方がいいのではと思いました。セイラーボブのミーティングだけせっせと見て、セイラーボブのことだけをせっせと書いて、まるでセイラーボブ教、セイラーボブ原理主義みたいになっているのではないか。セイラーボブの言っていることを理解したからといって、非二元の教え全体を理解したと思うのは短絡的ではないのか。もっと広い視野で非二元を捉えるべきではないかと思いました。
そして、図書館で、
人生を変える4つの質問 バイロン・ケイティを借りました。
ほとんどがよく見聞きする人や本です。今ごろになって、何を読んでいるのかと言われるかもしれませんが、もしセイラーボブを通じて非二元を理解する前にあれこれ読んだとしても、おそらくチンプンカンプンで、非二元難民なっていたと思います。
少しずつ読んで、思うところを書いていきたいと思っています。こういう本の性格上、そんなに急いで読んでも役に立たないので、ゆっくりやっていきます。
2023/11/10
「プレゼンス」ルパート・スパイラ
カリヤニと話をした時、ふとしたきっかけで私が、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言いました。するとカリヤニが、「ヨーロッパの教師の中では、ルパート・スパイラがわかいやすい」と教えてくれました。
ルパート・スパイラの名前は知っていましたが、本は立ち読み程度にしか読んだことがありませんでした。せっかくカリヤニがすすめてくれたのだからと、入手してじっくりと読んだところ、すばらしい内容でした。
読み始めは、少し理解するのが難しいところがあり、何回か同じところを読むことがありましたが、次第に慣れて、それほど難しく感じなくなりました。私はセイラーボブに会う前に、「ただそれだけ」を7回読みましたが、さっぱりチンプンカンプンでした。この本は、「ただそれだけ」より難しい気がします。
何が難しく感じさせるかと考えてみました。独特の言い回しと、それを使って緻密かつ厳密に話すこと。また、詩的、感覚的言い回しが多いことではないかと思います。
セイラーボブは、私たちの本質を「意識(アウエアネス)、知性エネルギー、実在、認識する空」などと表現しますが、ルパートの場合は、「気づき、現存、自己、気づいている現存、真の自己、現存の空の空間、気づいている空間、純粋な気づき、気づきの光、いつもここにある存在、見る事、つなぎ目のない全体性、唯一の自己、知、知の光、自身の存在の光、愛」といった表現を使います。こういった表現は、大胆に解釈すれば、「意識」あるいは「気づき」のことを言っているのですが、まず最初にそれが理解できていないと、難しく感じるかもしれません。この本では「気づき」という言葉が中心になっていますが、「気づき」については次回書きたいと思うので、ここでは深入りしません。
内容はというと、非二元の教えの本ですから、「私は実在ではない」ということであり、セイラーボブが教えていることとまったく同じです。説明に使われる例えも、セイラーボブと似ているところもあります。空間の例え、スクリーンの例え、ラベルを貼り付けているといった例えは何回も出てきます。
第1巻の最初は、「私は在る(I am)」から始まります。自分が存在するということは、誰でも知っています。存在するということは、つまり presence であり、それが本のタイトルになっています。そして「私」はただ現存するだけでなく、気づいている存在です。そして私たちは、このシンプルな気づきに、様々な要素を付け足して、体と心(マインド)の中に私がいるという信念が生まれます。そうした信念を私だと思うことによって、様々な苦悩が生まれる課程を順に説明していきます。このあたりの説明は、セイラーボブとよく似ています。
ブログに引用するといいなと思う箇所に付箋を貼って読みましたが、結果的にほとんど全ページに付箋を貼ってしまい、貼る意味がなくなってしまいました。どんな感じで説明されているのか、ちょっと引用させていただきます。このブログで、「物は実在か?」という記事を書いた時、私たちが見ているレモンには実体がないという内容の記事を書きましたが、それとよく似た説明があって、おもしろいなと思ったので、引用させていただきます。
第2巻p150から
リンゴの記憶が心(マインド)の中のイメージにすぎないというのは事実です。しかし、実際のリンゴを見るとき、それもただのイメージにすぎないということを私たちは見落としています。私たちがリンゴについて知っていることは、この場合、「見ること」だけです。そして、リンゴに触るとき、私たちが知っているのは「触ること」だけです。リンゴを味わうとき、知っているのは「味わうこと」だけです。
通常考えられているような形で、私たちが実際のリンゴを体験することはありません。つまり、分離独立して存在する対象物のリンゴを体験することはないのです。
ですから、実際の体験において、記憶の中に現れるリンゴの実質と、「現実の時間」の中に現れる実際のリンゴの実質には、何の違いもありません。それらについて私たちが知っている唯一の知識は、心(マインド)からーーー見る事、味わうこと、触ること、嗅ぐことからーーーでできています。そして、心(マインド)の実質は気づきだけです。
気づきが、それ自身の不在や消滅を体験することなどできるでしょうか? この、常に現存し、いつもここにある気づきが私たちであり、すべての体験の唯一の実質です。私たちはそのことを直接的に、親密に、即座に体験します。体験のこのシンプルな事実を表面的に忘れてしまうと、リンゴや対象物、世界といったものが実在するように見えるのです。
ここだけ読んでも素晴らしいと思いますが、全体がこんな調子で続きます。では、私たちが、実在すると思っている「私」「体」「世界」は、実際には気づきが気づいている対象にすぎないということを理解するにはどうしたらいいのか。
驚くことに、これもセイラーボブと同じで、自分で調べることだと言っています。ルパートの場合は「探求」「探す」という言葉を使っています。そのやり方は、第1巻に順に説明されています。最初に、「分離した自己」次に「体」、そして「世界」を調べていきます。ことの性質上、このあたりの説明は抽象的に思えるかもしれませんが、やり方が書いてあるだけでも私にとっては貴重な本です。
ルパートによると、調べることはそれほど難しくはなく、「私」や「体」が実在ではないということを理解することも、容易にできることだと言います。でも、それを理解したからと言って、「私」や「体」に対する認識や、ボブの言葉で言うなら条件付けのようなものは、すぐには無くならないというのです。その説明はこの本の中で何回も表現を変えて出てきますが、一番印象に残った箇所を引用させていただきます。
第1巻 p135から
私たちの実際の体験において、分離した内側にある自己は存在しない、存在していなかったということがはっきりわかると、それは再生されません。ですが、ひとたび真の性質へと溶け込んだからといって、架空の存在の古い余韻が体と心(マインド)から完全に洗い流されるわけではありません。
それは、波が浜辺に打ち寄せることで、こどもたちが浜辺に描いた砂の絵が少しずつ消えていくのと似ています。波が打ち寄せれば、絵は部分的に消えますが、その線がどれだけ深く掘られたかによって、波がどれだけ打ち寄せなければならないかが違ってきます。
同じように、分離した内側にある自己の思考と感情の残滓(筆者注: ざんし=残りかすのこと)は、心(マインド)、特に体に爪痕を残します。透明で開かれた、愛に溢れた私たちの真の性質が本当の意味で浸透するには、いくらかの時間、場合によっては数年を要することもあるのです。
ボブのミーティングでも、「あなたの教えは理解しましたが、『私』は消えません」、「知的には理解しました。でも、『私』がいるような気がします」といった類の質問が未だに後を絶ちません。そんな時ボブは、「自分で調べてみてください」「『でも』はあなたをそれから遠ざけます」「今そのことを考えなかったら、条件付けはありますか?」といった、ニサルガダッタ譲りの一喝で終わらせてしまう傾向があり、それがいつも参加者のジレンマになっている感じがします。
ボブは、「私」が消えるには時間がかかるなんてことは決して言いません。「時間は存在しない。それは即時だ。あなたはもともとそれだ」の一点ばりです。ルパートも、「時間はあなたの記憶の中にしか存在しない」と言っていますが、私が消えるには時間がかかると、ちゃんとわかりやすく説明してくれています。
ルパートは、一回や二回の調査ではだめで、調査して、自分は実在ではないという体験を何回も積み重ねることが大事だと言っています。一番やってはいけないのは、その体験をすることなく、「私はいない。体は実在でなない」とマントラのように自分に言い聞かせることだそうです。これは状況を悪化させるだけだと言います。
ここで勘違いしてはいけないのは、物理的な「体」や「私」という認識が消えると言っているのではないということです。そんなことが起きれば、体は家具にぶつかってしまうし、車に轢かれてしまうでしょう。「私」という認識が消えれば、社会で生きていくことさえできなくなります。あくまでこれは、自分は「体」でも「思考」でもなく、「私」は実在ではないという理解のことを言っています。
セイラーボブのように、「あなたはもともとそれだ」と一喝する教師もいれば、ルパート・スパイラのように、「すぐには消えないよ」と優しく説く教師もいていいと思います。
ルパートもボブと同じように、私たちの本質を覆い隠す思考を雲に例えています。「私」「体」「世界」が実在するという思考、雲の後ろには何があるのか。そこには、平安、幸福、愛があると言います。セイラーボブも、サット・チット・アナンダ(存在・意識・愛)として、愛を引き合いに出すこともありますが、ボブの場合は「知性」「ほのかな至福」といったことを強調するのに対して、ルパートの場合は「愛」を強調しています。
これは、健康食品の宣伝の注意書きのようなもので、「個人の感想です」ので、あまり表現にとらわれない方がいいと思います。そして、私はまだ、平安、幸福、愛を感じないからダメだと思う必要もないと思います。ルパートもボブも、私たちはもともとそれなのだと言っています。
ここでルパートが言っている平安、愛、幸福とは、マインドや体が感じる平安、愛、幸福のことではありません。愛する家族がいて幸せだというのはマインドの幸福です。暖かいお風呂に入って幸福だというのは、体の幸福です。そうではなく、愛する人が去った悲しみに打ちひしがれている時も、吹雪の中を歩いている時も、マインドや体の背後にいつもあるものことを言っています。
やってはいけないのは、ルパート・スパイラやセイラーボブが私たちとは違う意識にあるのではないかと思って、それを探してしまうことです。彼らは特別な人ではなく、私たちと何も変わりません。もし彼らが私たちとは別の意識状態にあると思って、それを探し求めるなら、エンライトメントを探し求める人と同じ誤りを犯すことになります。たった一つの、同じ意識があるだけです。
ルパート・スパイラについて
Amazonの著者紹介より
ルパート・スパイラ Rupert Spira
幼少の頃から現実の本質に多大な関心を寄せていた。
20年以上にわたりピョートル・ウスペンスキー、ジドゥ・クリシュナムルティ、ルーミー、シャンカラチャリヤ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ロバート・アダムスらの叡智を探究した後、1996年、彼の師となるフランシス・ルシールに出会う。
ルシールの導きにより、ジャン・クライン、アートマナンダ・クリシュナメノンらの教えに触れ、さらには経験の真の性質を知るに至る。
現在はイギリスに暮らし、ヨーロッパおよびアメリカ各地で、ミーティングやリトリートを定期開催している。
Wikipedia を参考にして、私なりに略歴をまとめてみます。
Rupert Spira
1960年3月13日ロンドン生まれ イギリス人 現在63歳。職業:著述家・スピリチュアル教師・哲学者・陶芸家。1977年、ロンドンで開催されたマイケル・カーデュの陶芸展に触発され、ウエスト・サリー芸術デザイン大学に入学して美術を学ぶ。1980年から1982年まで、マイケル・カーデュのもとで陶芸家の見習い修行をする。
大学卒業後の1984年、自身のアトリエを持つ。
どんな作品を作っているのかgoogleで画像検索してみました。陶器に言葉を書き込んだものも見られます。
陶芸家として成功していたようで、日本で個展を開催したこともあり、作品は東京国立近代美術館にもあるようです。(情報源はここ)
ザ・グレイテスト・シークレットの賢人リストによると、元陶芸家となっているので、今は陶芸家としては活動していないのかもしれません。
スピリチュアル関連
15歳のときにルーミーの詩を読んだことが、スピリチュアルな旅の始まり。ロンドンのコレット・ハウスでフランシス・ロールズ博士に師事した。フランシス・ロールズ博士は神秘哲学者ウスペンスキーとグルジェフ、そしてスワミ・シャンタナンダ・サラスワティのマントラ瞑想を学んだ人物。その結果、古典的なアドヴァイタ(非二元論)にも興味を持つようになる一方、メヴレヴィ・ターニング(祈りと瞑想を組み合わせた神聖な動きの一種)を通してスーフィズムの研究も続けた。また、ニサルガダッタ・マハラジとラマナ・マハルシの教えを読み、1970年代後半にはブロックウッド・パークで行われた J.クリシュナムルティの最後の集会に参加した。1990年代半ば、ロバート・アダムス、フランシス・ルシールとの出会いが彼をアートマナンダ・クリシュナ・メノンのダイレクト・パスの教えに導いた。20年以上にわたる瞑想と修練の結果、自己の本質に目覚め、以後、講演やリトリートを主催。日本でもセミナーを開いたことがあるそうです。
スピリチュアル関連の経緯は、古閑博丈さんのブログによくわかるインタビュー記事があります。
このチャンネルには1000本以上の動画があります。ちょっとした宝物を見つけた気分です。一本だけ紹介させていただきます。この動画の中でルパートは、エンライトメントは東洋で信じられているような神秘的かつ途方もないものではなく、単に私たちの存在(being)の本質を気づくことだと言っています。
日本語で字幕をつけてみえるYouTubeチャンネルもあります。「Rupert Spira非二元のエッセンス」。まだよく見ていませんが、ありがたいことです。
ルパート・スパイラについては、古閑博丈さんのブログ(resonanz360 塩人間の海底探検)にたくさんの記事があります。全部読ませていただきました。古閑さんは、この本が世に出るずっと以前にルパート・スパイラのリトリートに何度も参加されているようです。また、ルパート・スパイラのホームページのQ&Aや教えの概要の翻訳が掲載されています。今のホームページとは連動していないようですが、教えを理解する助けにもなり、貴重なものだと思います。リトリートの体験記もあって、どんな様子なのかを知ることができます。
thE uRbaN guru Cafe には、3回のインタビューがあります。(ポッドキャスト・英語)
ちなみに、「ザ・グレイテスト・シークレット」では、ルパート・スパイラの言葉は17回引用されていて、おそらく最多だと思います。
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ルパート・スパイラのファンになりました。そしてもし、ルパート・スパイラのセミナーに出たことがある方、あるいは陶芸展で会われた方がみえるなら、「こんな感じの人だったよ」「こんなこと言っていたよ」、何でも結構ですので、シェアしていただけるとありがたいです。
2023/11/07
黄檗 Huang-po
カリヤニのおすすめの禅マスターは、黄檗(Huang-po)だそうです。
黄檗は、このブログでも一度取り上げています(黄檗希運)。あの時は、どこかの英文サイトから拝借して書いた記憶があるのですが、どこだったかよく覚えていません。もう一度、黄檗について学びなおそうと思って、何か参考になる本はないかと調べたのですが、黄檗に関する本はあまりない。一冊だけ手頃なものを見つけたので、アマゾンで買った。
おそらくこれは読めないだろういうことは、注文の時点で察しがついた。著者は有名な仏教学者の宇井伯寿。この時代の人の文章は、古くて読めない漢字が使ってある。文章も漢文調だったりする。復刻版なので、現代語に直してあるかもしれないと思って買ったが、だめだった。この時代の人の文章はおいそれとは読めない。鈴木大拙にも同じことが言える。鈴木大拙全集を読もうとしても、全く歯がたたなかった。
黄檗に関する記録はそれほど多くないようなので、おそらくこの本の元となったものが英訳されたのではないかと思います。
英語版としては、これが良さそう。
今、時間的な余裕があまりなくて、英語の本をじっくり読もうという気になりません。また時間に余裕ができたら読もうと思っています。一応備忘録として書いておきます。この本の参考サイト(Buddhist Wisdom)。
カリヤニがおすすめのヨーロッパの非二元の教師は、ルパート・スパイラだそうです。次回はルパート・スパイラについて書きます。
2023/11/03
引き寄せの法則と非二元の教え
前回のブログで、ロンダ・バーンの「ザ・グレイテスト・シークレット」について書きました。でも、私の中のひねくれ爺さんが、もう少し言いたいことがあるというので書いています。
一般的に非二元の教えでは、自由意志はないと言います。そもそも、その自由意志の主体である「私」はいないというのが非二元の教えの根幹ですので、自由意志があるかないかと問うこと自体がおかしい。もし、「自由意志はある」と言えば、その主体である「私」がいることになる。もし、「自由意志はない」と言っても、そこには自由意志を持っていない「私」がいることになってしまう。
それゆえ、自由意志があるとかないとか問うこと自体が間違い。「私」は実在ではない。そこで終わり。では、「引き寄せの法則」はあるのか? これも同じ理屈が成り立つような気がします。誰が引き寄せるのかと問うてみれば、答えは明らかな気がします。そこに、「引き寄せる私」がいないのなら、引き寄せの法則は成り立たない。
でも、そのあたりの整合性を、ロンダ・バーンはこの本の中でまったく説明していません。もちろん、誤った思い込み、信念を消し去れば、そこにあるのは意識だけだという趣旨の説明はしていて、非二元の説明としては全く正しいのですが、じゃあ、今までの本で、思考や信念の力で金や物、幸せを引き寄せましょうと言っていたことはどうなるのか、という疑問がわきます。
ロンダ・バーンの引き寄せの法則の基本は「信念、あるいは思考は現実化される」というものです。そしてロンダ・バーンはこの本の中で、否定的な思考を持てば、否定的な現実を引き寄せてしまうので、否定的な思考を持たないようにと言っています。
でも、そもそも、肯定的な思考だけを持つということが可能でしょうか? 肯定的な思考の裏には必ず否定的な思考が潜んでいます。肯定的な思考だけ持つことが可能なら、誰も悩んだりしません。思考で現実を引き寄せることが可能なら、誰も願望が実現して欲しいと思って「引き寄せ本」を読んだりしません。
ロンダ・バーンは、「否定的な思考、信念は、それを意識した瞬間に消える」と書いています。このあたりは非二元の教師と同じことを言っていて間違いではありません。でも、思考は現実化されるという前提が間違っている気がしてなりません。
変節漢の私としては、「引き寄せの法則」ある派の立場に立って、理屈を考えてみました。非二元の教えでは、私たちが見ている現実社会は夢、幻想であり、例えていうなら、意識というスクリーンの上に映し出された物語だという例えがよく使われます。ロンダ・バーンもスクリーンの例えを使っています。
もし私たちの見ている現実が、夢や物語であるなら、そこには「私」がいて、その「私」には自由意志があって、仕事を選んだり、結婚相手を選ぶ自由意志があると思っていてもいいと思います。夢や物語の中にはなんだってある。体だってあるし、「私」だっている。
本当は「私」は実在ではないけれど、夢や物語の中では「私」が存在するように見える。それゆえ、自由意志もあるように見える。なんかややこしい話になってきました。
夢だ物語だと言ってみても、実際には現実問題として、会社に行って働かなくてはいけないし、家族だって養っていかなければいけない。そうなると、意思を使って起きて会社へ行き、意思を使って働かなくてはいけない。
それが夢であろうと物語であろうと、そこには夢や物語のルールがあって、どうせ夢なんだからと働かなければ食っていけない。夢だからとむやみに人を傷つけたら刑務所に行かなくてはいけない。私たちはそういう世界に生きている。自由意志がなかったら、マクドナルドにもスタバにも行けない。カフェモカにホイップ増量も頼めない。(セイラーボブは、それは自由意志ではなく、起こってくることだと言うでしょうけど、ややこしくなるのでひとまず脇に置いておいて)
ニサルガダッタ・マハラジが言うように、夢を夢だと理解して、その夢の中で自由意志でも引き寄せの法則でも何でも使って生きていけばいいのではないでしょうか? と、ここまで、引き寄せの法則ある派の立場で考えてみました。でも、こんな理屈がなり立つなら、夢や物語の世界には、転生や輪廻や天国だってあることになってしまう。
「ザ・グレイテスト・シークレット」は、手っ取り早く非二元の教えを学ぶことができる(ロンダ・バーンは非二元という言葉は一切使っていないが)。そういう意味では画期的な本だといえる。でも、何か釈然としないものを感じる。非二元の教えを学ぼうとする場合、いろんな人の本をあれこれと読むよりも、一人の人の本をじっくり読んだ方がいいような気がします。人によって説き方が違うし、言っていることが細部で多少違う。あれこれ読んでもかえって混乱してしまうような気がします。
ちょっと思ったのは、ロンダ・バーンの引き寄せ本を読んで、今まで願望の実現に必死になっていた人が、いきなりこの本を読んで、「私」は実在ではないという教えをすんなり理解できるだろうかということ。じゃあ、今まで必死になっていた「私」は何なのかということになりはしないかということ。
amazonのサイトの書評を読む限り、この本を違和感なく受け入れている「引き寄せの法則ある派」の人も結構いるようですので、あんまりとやかく言わなくてもいいのかもしれません。引き寄せの法則はあってもなくても、それは夢の中なのだと気づいていれば、それでいいのかもしれません。
個人的には「引き寄せの法則」はないと思っています。でも、宝くじでも当ったら、「夢の中では引き寄せの法則はある」と言うに決まっています。私の場合。