2023.9.24ミーティング 59:55から
ギルバート:調査することは不可欠です。そして、その調査は誰がやっているのか? でも、ただ単にそれは印象(impression)にすぎないと認識することです。まわりを見渡してみると、印象がどこかに現れています。観念としては、それはここ(自分を指さして)、私、自身、何と呼んでもいいですが、「私」がそれを見ているとなります。
でも、おそらくそれは真実ではありません。おそらく、印象は、まさしくそれがある場所で起こっています。例えば猫を見る時、猫という印象は、まさしく猫がいる場所に現れています。でも、それはここ(自分を指して)に現れているという催眠にかかっています。そして、「私が見ている」というのは、分離した考えです。
なぜなら、顕現の中のどんなものの間にも実際には距離はないからです。それは、アウエアネス(意識)、あるいはコンスシアスネス(意識)の動的な現れであり、それには分離はないからです。あなたはそれです。それゆえ、私は分離した存在・人であるという思考は催眠術のようなものです。それは泡のようなものであり、はじけます。きれいな泡がはじけると、消えてしまい、子供は泣きます。
あるいは虹。虹を見つけて掴もうとしても、消えてしまいます。あなたが子供だったら、虹のふもとにあるはずの壺に入った金貨が掴めなくて、がっかりします。でも、その印象はどこに現れているのかを調べると、そこには分離はありません。知る働きは、エネルギーの動きであり、意識の動きです。すべてはそれなのです。分離はなく、すべては知る働きの活動なのです。
その活動は、私たちが見る世界の活動と同じものです。私たちは犬が野原を横切るのを見ます。それは同じものの同じ活動なのです。それは物ではありません。すると、すべてのものは分離しているという考えは崩壊します。それは、時間と空間の中の出来事ではないのです。
最近、インタビューを受け、「あなたの旅はどうでしたか?」「あなたの物語は何ですか?」と尋ねられましたが、それは間違っています。そうやって人々は個人に関連づけるのです。彼らは物語を聞きたいのです。「どうやってそれを手に入れましたか?」「それはどんなものですか?」。そうしたことは、誰かに投影した物語にすぎません。
「ボブ、あなたはエンライトメントした。それはどんなものか、教えてください」「エンライトメントするとはどんなふうですか?」といった具合です。私たちは、真似をすることで話すことを学びます。親が話すのを聞いて、音を真似します。鳥や動物たちも同じことをします。私たちには真似する能力があります。でも、それは私たちの本性ではありません。
私たちの本性は、すでに完成されたものです。それに何かを付け加えたり、取り除いたりする必要のないものです。それは輝いています。すべての人からその知性エネルギーが輝いています。いわゆる憂鬱や苦悩のせいで、曇っているように見える人もいますが、それは単なる幻影です。
空(そら)にとどまる雲はありません。太陽を不鮮明にする雲はありません。太陽ははるか遠くにあります。ボブが指摘したように、太陽が雲を作ります。海から水が蒸発して、水蒸気となり、雲となります。望遠鏡で雲を見ると、とても興味深いものが見えます。それは静止しておらず、動いています。水蒸気が空間の中へと消え、 空間から水蒸気が現れています。大きな白い球が絶えず変化しています。
宇宙には、どこにも静止した地点はありません。でも、自己の中心という思考が、うわべ上の静止した地点となり、あらゆる苦悩を引き起こします。それは実在ではありません。誰が問題を手に入れているのかを調べてみてください。何年か前に、ボブに向かって何か不満を言った時のことを覚えています。ボブは私にこう言いました。
「もしあなたが問題を認識したなら、あなたは問題を手に入れたことになる」(笑い)