2023/09/29

もしあなたが問題を認識したなら、あなたは問題を手に入れたことになる

2023.9.24ミーティング  59:55から

ギルバート:調査することは不可欠です。そして、その調査は誰がやっているのか? でも、ただ単にそれは印象(impression)にすぎないと認識することです。まわりを見渡してみると、印象がどこかに現れています。観念としては、それはここ(自分を指さして)、私、自身、何と呼んでもいいですが、「私」がそれを見ているとなります。

でも、おそらくそれは真実ではありません。おそらく、印象は、まさしくそれがある場所で起こっています。例えば猫を見る時、猫という印象は、まさしく猫がいる場所に現れています。でも、それはここ(自分を指して)に現れているという催眠にかかっています。そして、「私が見ている」というのは、分離した考えです。

なぜなら、顕現の中のどんなものの間にも実際には距離はないからです。それは、アウエアネス(意識)、あるいはコンスシアスネス(意識)の動的な現れであり、それには分離はないからです。あなたはそれです。それゆえ、私は分離した存在・人であるという思考は催眠術のようなものです。それは泡のようなものであり、はじけます。きれいな泡がはじけると、消えてしまい、子供は泣きます。

あるいは虹。虹を見つけて掴もうとしても、消えてしまいます。あなたが子供だったら、虹のふもとにあるはずの壺に入った金貨が掴めなくて、がっかりします。でも、その印象はどこに現れているのかを調べると、そこには分離はありません。知る働きは、エネルギーの動きであり、意識の動きです。すべてはそれなのです。分離はなく、すべては知る働きの活動なのです。

その活動は、私たちが見る世界の活動と同じものです。私たちは犬が野原を横切るのを見ます。それは同じものの同じ活動なのです。それは物ではありません。すると、すべてのものは分離しているという考えは崩壊します。それは、時間と空間の中の出来事ではないのです。

最近、インタビューを受け、「あなたの旅はどうでしたか?」「あなたの物語は何ですか?」と尋ねられましたが、それは間違っています。そうやって人々は個人に関連づけるのです。彼らは物語を聞きたいのです。「どうやってそれを手に入れましたか?」「それはどんなものですか?」。そうしたことは、誰かに投影した物語にすぎません。

「ボブ、あなたはエンライトメントした。それはどんなものか、教えてください」「エンライトメントするとはどんなふうですか?」といった具合です。私たちは、真似をすることで話すことを学びます。親が話すのを聞いて、音を真似します。鳥や動物たちも同じことをします。私たちには真似する能力があります。でも、それは私たちの本性ではありません。

私たちの本性は、すでに完成されたものです。それに何かを付け加えたり、取り除いたりする必要のないものです。それは輝いています。すべての人からその知性エネルギーが輝いています。いわゆる憂鬱や苦悩のせいで、曇っているように見える人もいますが、それは単なる幻影です。

空(そら)にとどまる雲はありません。太陽を不鮮明にする雲はありません。太陽ははるか遠くにあります。ボブが指摘したように、太陽が雲を作ります。海から水が蒸発して、水蒸気となり、雲となります。望遠鏡で雲を見ると、とても興味深いものが見えます。それは静止しておらず、動いています。水蒸気が空間の中へと消え、 空間から水蒸気が現れています。大きな白い球が絶えず変化しています。

宇宙には、どこにも静止した地点はありません。でも、自己の中心という思考が、うわべ上の静止した地点となり、あらゆる苦悩を引き起こします。それは実在ではありません。誰が問題を手に入れているのかを調べてみてください。何年か前に、ボブに向かって何か不満を言った時のことを覚えています。ボブは私にこう言いました。

「もしあなたが問題を認識したなら、あなたは問題を手に入れたことになる」(笑い)

2023/09/26

それは、疑い深いマインドで理解するよりもシンプルなことです

あなたはそれがわかった。でも・・・。あなたは理解した。でも・・・。
本当に? いいですか、「でも」は一瞬にしてあなたを現在から連れ出します。
というのも、「でも」は、未来の異なる状況を意味するからです。
それは、今ここにあるものではありません。それは、今この瞬間ここで、あなたが持っていない何かを意味します。
その繊細さを見てください。
あなたが心を開いて聞いている時、あなたはまさにその中にいたのに、どれほどすぐに「でも」がやってくるのか?
それは、疑い深いマインドで理解するよりもシンプルなことです。
                                    セイラーボブ

2023/09/22

それは言葉によるものです

2023.9.17ミーティング 0:37から

ボブ:みなさん、おはようございます。みなさんに会えてうれしいです。生(life)、そしてエネルギーがこの部屋の中に現れているのがわかります。私たちみんな、それぞれが、それをこの部屋にもたらしています。そしてそれが、私たちの話している非二元についてです。世界で最もシンプルなことです。非二元、二つではない。

それは、いにしえのすべての聖典で語られています。異なる言葉で語られ、うわべ上では分割しているように思えますが、それでもそれは非二元について語っているのです。一つのもの。もしそれが指し示していることが本当なら、どこへ行って、何をする必要があるでしょうか? もし、一つのものしかないのなら、探求をする必要があるでしょうか?

それが、それ以外のものとなることができるでしょうか? それから何かを取り去ることができるでしょうか? それは、私たちの目の前にあるのに、認識されておらず、無視されています。というのも、私たちは言葉を学んだからです。言葉によって、その他の観念、思考を手に入れ、分割できないとはっきり言われているものを、うわべ上で分割したからです。

それは、互いに依存しあっています。あらゆるものが、何か他のものと依存しあっています。そうしなければ、存在しえなかったし、これからも存在しえません。でも、言葉を使うために、分割できないものを、うわべ上では分割しています。

一つは、究極のものです。二つはそれ以外のものであり、それが一以外のものとなって現れ、問題となります。もし今そのことを考えなかったら、何が問題ですか? 物事は起こり続けています。それは死んだものや終わったもの、静止したものではりません。機能は働き続けています。一つのものを分割することができるでしょうか? 

一つのものが存在しなかったら、他のものは存在するでしょうか? 私たちは、エンライトメントしようとか、何かを成就しようと考えます。でも、もしあなたが、もうすでにそれだったとしたら、何になろうとして、何を成就しようというのですか? それゆえ、今それに気づいていようがいまいが、あなたはそれであるという事実から始めなさいと言われているのです。

どんな方法であろうと、そのことを認識していれば、それが存在するすべてあるということが絶対的に確かなことです。そしてそれがパターンとなり、無数の異なる姿形となって現れています。でも、それを分解してみると、すべては生(life)、エネルギーなのです。私たちはそれに異なるラベルを貼り付けます。神、偉大な存在、劣った存在、あれやこれや。そうした言葉によって、それを分割します。

みなさんの中に、自分は分離して存在していると思っている人はいますか? 調べてみてください。それは不可能だとわかるでしょう。そこには何か別の異なるものがあるように思えるですが、それはすべて一つのものです。そこには、異なる別のものはありません。そして、それは真実です。それは、何の中にありますか? 調べてみてください。この部屋の中の「私」や人々は今、この部屋の中にいますか?

その部屋は、何の中にありますか? それは空間(space)の中にあります。では、空間とは何ですか? 空間には中心がありますか? 境界は? ここから始まったという場所や、終わりはありますか? それとも、それはただあるがままですか? いわゆるこの体はパターン、姿形となって現れています。それは一見強固なものに見えますが、それを顕微鏡で見てみると、そこにはたくさんの隙間、空間があるということがわかります。

空間は、無/何ものでもないもの(no thing)です。中心や境界を見つけることはできません。私たちは、あちこちで空間を見ますが、その中心を見つけることができますか? 一羽の鳥が空を飛んで、空間の終りまで飛ぶぞと言うようなものです。それはどこにたどり着くことができるでしょうか? どこが終わりでしょうか? 始まりは? 無/何ものでもないものは認識する空と呼ばれています。空間は空です。

空。無/何ものでもないもの(no thing)。無/何ものでもないものから、何かがやってくることができるでしょうか? もし、私たちみなが、空間の内容物であるなら、空間の外へどうやって出ることができるでしょうか? できません。それは確かなことであり、いつもそうでした。でも、思考、感情、感覚によって観念化が始まります。それを見失って、あらゆる種類の観念、イメージが起こります。それは言葉によるものです。

2023/09/19

あなたは確かに知っています

人々は、「知的には理解できるのですが、それを体得(keep)することはできません」といいます。
どうして、「知的に」というラベルを貼るのですか?
理解しているか、していないかのいずれかです。「知的に」というラベルを貼ることによって、ふたたび分離を生み出しているのです。
あなたは知っているのに、知りたくない・・・。
あなたは確かに知っています。あなたは、「知らない」ことが現れる知る働きなのです。
「知らない」がやってくるたびに、その知る働きがなければ、「知らない」は現れることができないということを理解してください。
                                    セイラーボブ

2023/09/15

言葉は決してそれではありません

2023.9.10ミーティング 50:26から

ギルバート:何年も前、ボブはよくオークの木のどんぐりの話をしました。それぞれのどんぐりは、オークの木で地球をおおう潜在能力を持っています。それを臼にいれて粉々にすると、それは粉末になって吹き飛ばすことができます。すると、その潜在能力はどうなるのか?と、ボブはよく言ったものです。

それはどこからやってきたのか。一本のオークの木には、おそらく2000から3000のどんぐりが実ります。それらはお互いのことを知りません。彼らは、とても似かよった兄弟姉妹です。でも、何らかの共通点があります。それらは、地球、つまり大陸をおおう潜在能力があるのです。

では、私の潜在能力はどこにあるのか? あらゆるものが現れ出る究極・無限の潜在能力とは何なのか? そして、私はそれと分離しているのか? どうして私がそれと分離することができるだろうか?  観念上では、自身をそれから分離することはできます。可哀そうな私は何にもなりませんが、もし私がどんぐりだったら、オーストラリアをおおうことができるでしょう。

自身を調べてみることは、必須のことであり、本質的なことです。もし、苦難と混乱の人生を歩みたくないのなら、内側へ向きを変えて、見てください。目を閉じて、内側へ向きを変えて、その空間を見るのです。その空間には、後ろも左右も上下もありません。そしあなたが実際に注意深く調べてみると、それは空です。それは、あたかも空の舞踏場のようなものです。

そこでは、誰も自転車に乗っておらず、街角で枯れ葉をはいている人もいません。単なる空です。それは死んだ空ではなく、認識する生きている空であり、生(life)そのものです。おそらく、体は現れておらず、感覚が現れているかもしれません。目を開けた時だけ、体が形となって現れますが、すでに指摘されたように、私は体でもマインドでもありません。

私が体でもマインドでもないとしたら、私とは何なのか? 私とは何なのかを、対象物として実際に知ることはできません。それは純粋な主体、無限の潜在性の現れに違いありません。それは、一粒の種のようなものです。ニサルガダッタが言ったように、それは意識の種なのです。それは永遠に新鮮で永遠に新しいものが自身を表現しているのです。

オークの木を切り倒して、小さな破片にしても、それはどんぐりには戻りません。過去を未来にすることも、未来を過去にすることも、オークの木をどんぐりに戻すこともできません。また、その必要もないのです。なぜなら、生(life)が私たちとして、永遠に新鮮で永遠に新しいものとして、観念なしで、言葉なしで表現しているからです。

「私」とは何か? それを否定することはできません。言葉では、言葉がやってくるところのものを表現することはできません。今までの人生で語ったことすべてを、取り戻すことはできません。それは表現です。良いものもあれば、それほど良くないものもあるでしょう。そういったたわ言に対して、自らを罰することも可能です(笑い)。他の人が私を罰することでしょう(笑い)。ええ、実際そうでした。

「私」とは何なのか? 「私」とは何なのかを、対象物として知ることはできません。それは主体であり、無限の潜在能力。常に自身を表現する永遠に新鮮で、永遠に新しいもの。過去に語られたすべての言葉をもってしても、それを言い表すことはできません。誰かによって語られ、あるいは書かれたものでも、永遠に新鮮で、永遠に新しいものを言い表すことはできません。それは、腐ってしまうような、新鮮で新しいパンではないのです。

それは毎瞬毎瞬新鮮で新しいもの。毎瞬という言葉さえ時間を意味せざるえませんが、それには時間はありません。時間も死もない存在(spirit)なのです。私たちは言葉でそれを表現しますが、言葉は決してそれではありません。

2023/09/12

あなたは、みずから輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です

太陽は光です。光とはエネルギーの別名です。それはあなたの目を通して輝きます。それはあなたの目を通して放射されます。
クリスタルを太陽にかざすと、何が起こりますか? 光は違った色、パターンとなるのでしょう? 中に何が見えますか? たくさんの色、パターンが見えませんか? 
そのエネルギーのパターンは堅固で実在しているように見えますが、それも知性エネルギーなのです。
あたかも、クリスタルの中に知性エネルギーである光が放射されて輝くように、その中に世界や物事を作り出すようなものです。
あなたは、みずから輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。ただそれだけ。他には何もありません。
                                    セイラーボブ

2023/09/08

誰が努力をするというのですか?

2023.9.03ミーティング 46:13から

参加者:ボブ、ありがとうございます。あなたがおっしゃることには多くの気づきがあり、理性的なレベルではよくわかります。でも、それを体験的に習得することは私には困難です。私は聞きたいのです。私はインドの出身ですが、私たちは、言うならば異なる思想体系や内面の技術に接してきました。

長年かかって発展してきたヨーガ、タントラ、あるいはダルマなどの体系には価値がなく、そうしたことを試みることは的はずれだと、おっしゃるのですか? 私たちが理解、把握すべきことは、今この瞬間、ここだけであり、どんな努力も無駄だとおっしゃるのですか?

ボブ:あなたが調査をして、努力をする人がフィクションであるということがわかったなら、誰が努力をするというのですか? でも、一方では、あなたがそれをやると信じています。あなたが、あなただと信じているものが、くるりと向きを変えて調べるのですが、そもそも、生の本質(life essence)があなたを通して働かなければ、その行為もまったく起こりません。

生(life)があなたの行くべきところへ運んでいくのです。それが常に働いています。経典の中では、私たちの問題は無知であると言っています。それは私たちが鈍いとか愚かだと言っているのではなく、目の前にあることに背を向けていると言っているのです。あなたはそれであり、それがすべてだと言っているのです。でも、私たちはそれを信じることなく、その前にあれをやらなくては、これをしなくてはと言うのです。調べて、見てください。

ギルバート:あなたは、あらゆるやり方で、あらゆることを分割することができます。でも、段階的な道、例えばヨガ、宗教、キリスト教、善良なら天国へ行けるといったことはどれもみな、未来のことです。そこには、何かをしなくてはいけない誰かがいます。そして、このメッセージは、段階的な道を信じている人にはまったく人気がありません。

なぜなら、人々はエネルギー、時間やお金を段階的な道に費やしているからです。そうした人々は、「私はスピリチュアルな道の上を歩いている」と言います。でも、彼らはあなたに、その道の上にある小石一つさえ見せることはできません。なぜなら、それは比喩的な道だからです。

スピリチュアルな道などというのもは存在しません。それは単なる言葉です。そして、人生をスピリチュアルな道に捧げるというのは罠なのです。なぜなら、あなたが将来なろうとして費やしている人というのは、費やす必要のないものだからです。

「あなたはもともとそれなのだ、というところから始めなさい」とボブは言います。そして、あなたをそのことからそらしてしまうものを見てください。私たちを、それから引き離してしまうのは思考なのです。思考の流れが過去や未来へと導くのです。それは、この瞬間の直接性の中に存在することはできません。

なぜなら、実際には持続する時間はないからです。それは単なる微妙なバイブレーションです。でも、私たちはそうした思考に巻き込まれます。一つ例をあげると、誰かが、「私は良くない。私は何も達成していない」と言います。これはマントラです。仏陀は、「私たちは思考によって世界を創造する」と言いました。

誰かが、「私は良くない。私は何も達成していない」と言う時、それがマントラとなって、人生の体験を形成します。そしてその体験が、人をこのマントラの罠にはめるのです。マントラは、あなたのマインドが絶えずあちこちへとさまよっている時にはとても有効なものです。もしあなたに、グルや誰かから授かったマントラがあると、とても有益なものとなります。

なぜなら、あなたがマントラを唱えている間は、思考の流れが引き起こす通常のナンセンスに関わらずに済むからです。マントラを唱えている間は、成就の可能性が高いように見えるのです。アウエアネスはいつでも束縛はされていないのですが、本当の私を認識するということが、マントラを唱えている間は、よりたやすく思えるのです。

でも、思考の流れに囚われて、絶えず未来に何かを達成しようと努力していると、たとえば、瞑想やヨガ、教会へ行って祈るとか、そうしたことをすることで、「私」という未来の存在に関わることになるのです。ですから、ボブが言うように、この『私』が見つかるか調べてください。

彼がよく語るように、愚か者がやってきて、「ボブは『私』はいない言っている。彼は正しいのか間違っているのか?」と言うのです。あなたは自分で調べなくてはいけません。誰もあなたの代わりにはやってくれません。そしてそれは、実はとてもシンプルなことです。内側へと向きを変えて、見てください。この「私」を見つけることができるのか? あなたがそれを見つけることはありません。なぜなら、それはフィクションだからです。

そのフィクションの奴隷でいることは、まったく不要なことです。あらゆる心理的な苦悩がそこからやってきます。あらゆる可哀そうな「私」は、この分離した存在からやってきます。でも、分離は存在しません。ボブは、最初の本やその他の本の中で明確に指摘しています。「子供は、この『私』という言葉を学び、ある時点で外側の世界に目を向けると、そこには、『私』ではないものがある。それから傷つきやすさが生まれます」。なぜなら、あらゆるものが「私」ではないからです。

もしあなたが傷つきやすければ、この「私」という考えの周りに何らかの砦を築こうとします。でもそれは苦悩となるだけです。それは実在ではありません。でも、このことは人気がありません。ニューヨークタイムズも7時のニュースも取り上げません。ニュースの対象にはなりませんが、このメッセージはとてつもなく驚くべきものです。そしてそれはとてもシンプルです。私の言うべきことは以上です。

2023/09/05

何かをしようとすることで、それを妨げてしまうのです

もし、そのことを考えなかったら、どんな条件付けがあるでしょうか? 人々は条件付けについて話します。もし、そのことを考えなかったら、座って瞑想する必要も、どこかを探したり、条件付けを取り除こうとする必要もありません。
善良な人でありなさいと言われるかもしれません。でも、自愛や愛情やその他のことを身に着けようとすることは、それをしようとする存在がいることを意味します。
あなたは、自然の愛を見つけるでしょう。それは今この瞬間にここにあり、何かをしなくても、自然に努力なく現れています。
何かをしようとすることで、それを妨げてしまうのです。
                                   セイラーボブ

2023/09/01

Stop it!

2023.8.27ミーティング 48:13から

ギルバート:それは、「私」にまつわる悲しい物語です。悲しい悲しい「私」の物語。あたかも、自身のイメージが地面深くの箱に入っているようなものです。誰かがやってきて、「私」をこの箱から出してくれないかと期待しているのです。

それは悲しい物語です。というのも、誰もそれを掘り起こしてはくれないからです。すなわち、自分以外は誰も調査をすることができないからです。それは、「私」ではないのですが、それでも私にかかっています。意識それ自体が調査しなくてはいけないのです。

抑圧(depression)という言葉は、何かが押しつぶされているということを意味します。私は抑圧されているという時、調べてみるのです。誰が抑圧されているのか? 誰が悲しんでいるのか? 誰がその物語にふけっていて、その奇妙な楽しみを得ているのか? 以前誰かが私に、「誰も楽しんでいないのならどうなるのか?」と言いました。

でも、自己を中心とした活動にふけるということは、何らかの見返りを受け取っている何かがいるに違いありません。その見返りを受け取っているものを見つけてみると、それは「私」であり、フィクションなのです。

あなたは、悲しい「私」の物語と一緒に生きたまま箱に入って埋められていますか? 私はあなたに二語の言葉を贈ります。「メモする必要がありますか?」。いいえ。たった二語だけです。

Stop it!