2021/05/21

おたよりをいただきました。

拓さんへ

読者の方からお礼や理解できました等のメッセージがほとんどないとのことですが、それは日本人特有のシャイさ故では?と推察します。
拓さんのブログの熱心な読者であれば、解説のわかりやすさと丁寧さ、情報の豊富さ、それらを惜しみなくシェアしてくださっていることに、感激し感謝を感じていることと思います。

「セイラーボブアダムソンの教え(詳しく)」シリーズ記事をすべて紙にプリントアウトして、「ただそれだけ」とセットにして繰り返し読んでいます。誰もがつまづきやすいポイント(実感が持てないことや、本当に理解だけで良いのか?等)についても拓さんの実体験と照らし合わせながら懇切丁寧に説明してくださり、それがセイラーボブの教えを理解する上で、実に有益な手助けとなっています。
ギルバートとカタリーナのぶっちゃけトークのくだりも秀逸で、かゆいところに手が届く非常に分かりやすい説明で、本当にありがたいです。
また、セイラーボブおよび拓さんの解説を自分なりに理解した上で、あらためてラメッシ・バルセカール著「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」を読んでみると、ビフォーセイラーボブのときに読んだ際はいまひとつ理解できなかった点が今度はスムーズに理解できる感覚がありびっくりしました。そして「エンライトメントなんてものはなくて、直感的理解こそが悟りである」とはっきり書かれていることを再確認しました。
また「私という存在が実在なのかどうか自分で調べる」を折に触れておこなってます。布団の中やコーヒーを飲みながらするのですが、ハッ!とした閃きや気付きがありとても面白いです。確固として実在すると思っていた「自分」って、よくよく調べてみると不確定で流動的であり、物質やら観念やら記憶やら日々生まれては置き換わってゆく雑多な要素・パーツで構成された暫定的プロジェクトみたいなものでした・・・。
拓さんのお父様のエピソードもとても印象的なポインターとなりました。
本に書かれていることを闇雲にただ信じ込むのではなく、自分自身であれこれ思案を巡らせたのち辿り着いた閃きは、確かに確信となりますね。

本を読んでいる最中、あるいは「自分で調べる」ためにマインドを使って熟考したり思案しているなかでふとやってくる「ハッ!としたふいの直感的理解」というのは、(行為者なしの)「見ること」「聞くこと」などの純粋な認識活動と同じく「(行為者なしの)純粋な理解」だな、とも思いました。
「私という主体がこの本を読んで教えを理解する」でなくて、機が熟したときにふと「(私という行為者なしの)直感的理解がただ起きる」ということかなと。
そのことに気付いたときに、「エンライトメントという体験ではなくて、(知的)理解で本当にいいのか?」という問いへの答えがもたらされたような気がしました。

拓さんの書かれる文章は論理的でかつ読みやすく分かり易く、実体験から産み出されたリアルな言葉で、胸に響きます。ギルバート氏が言われたように、翻訳ではなくて、セイラーボブを完全に理解された拓さんとしての、ご自身独自の言葉・メッセージを一冊の本にまとめられてはいかがですか?
なんて差し出がましいことをいってすみません、そのくらいの魅力が拓さんの文章にはあります。

話は変わりますが、私は20代の頃(1990年代)東南アジア中心にバックパッカー的な旅をしていたことがあり、拓さんの世界旅行記のミャンマーやジョグジャカルタの記事を拝見してとても懐かしく思い出しました。
バガンのパゴーダに登って眺めた夕陽は最高でした。コロナが収束したらまた東南アジアを旅したいです。
私も、セイラーボブの教えを理解し真実を見抜いて、その上で「神様がくれた魂の一番おいしいところ」を余すところなく堪能しながら、深刻さにとらわれずspontaneouslyになるべく軽やかに生きていけたら、と思います。

追伸:
長々とすみません。的外れなことを書いているかもしれませんが、読み返しているうちにメッセージを送信する勇気がなくなってしまうかもしれないので、勢いのままに送信しちゃいます!
非公開希望というわけでもないですが、かといって公開希望でもなく、拓さんにおまかせいたします。

よろしくお願いいたします。
ひろ

おたよりありがとうございました。ラメッシのくだりは他の方にも参考になると思ったので公開させていただきました。

セイラーボブは、話を初めて聞きに来た人には" Ring the bell?"(ピンときましたか?)と気軽に聞いていました。そのため、理解するということは、それほど大げさに騒ぐようなことでもないのかもしれません。もちろん今だから言えることですが。

私が「知的にはわかるのですが・・・」とシリアスな顔で答えるとボブは「知的に以外にどんな理解がありますか?」と言ったものです。

「私は実在ではない」ということについては、仏教の唯識の思想でも同じことを教えていて、そこではかなり理論的に説明されています。最近読んだ本の中でわかりやすかったものを書いておきます。

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)

2021/05/18

おたよりをいただきました。

20年に及ぶスピリチュアルの探求(そして幻滅)ののち、ここ数か月ほど非二元の分野に興味をひかれ、ラメッシバルセカールやダグラスハーディング、ニサルガダッタマハラジなどを読み、「ここには真実が書かれている」という謎の確信を感じつつも、同時に理解する難しさを感じていました。そんなときセーラーボブの本を読み、「この人の説明はとてもわかりやすい!」と感激し、拓さんのHPにたどり着きました。そして拓さんの解説があることにより、セーラーボブが伝えようとしていることがより鮮明にクリアーに、そして、な~んだそういうことか~と「普通に」理解する事が出来ました。すばらしいHPを作成して下さり、それをこうして無料でシェアしてくださり、本当にありがとうございます!どうしてもひとことお礼を述べたくてメッセージ送りました。これからもっと読み込んでいけるかと思うと、喜びがじわじわとわきあがってきます。

よろしくお願いいたします。
ひろ

おたよりをありがとうございました。
こういうお礼のおたよりをいただくと、とてもうれしいです。何年もの間、せっせとブログを書いてきましたが、お礼や、理解できたというおたよりをいただくことはほとんどなく、ブログを書くモチベーションも下がり、そろそろホームページ化しようと、3月に休止したところでした。

やっとこういうおたよりをいただけるようになったと喜んでいます。
がんばってまたブログを再開しようと、モチベーションが上がりました。

ついでに私の近況を書いておきます。
その後、毎日せっせと仏教関係の本を読んでいます。

驚いたことに、そうした本を読んで、根本的にはセイラーボブと同じことを説いている人や経典がたくさんあるということを知りました。長年、スピリチュアルの本を読んできたつもりでいたのですが、仏教は形骸化した宗教に違いないと決めつけて、その方面の本は全く読んできませんでした。

でも、仏教関係の本の中で、「あるのは意識だけである」「私は実在ではない」「実在としての物は存在しない」「一切は空である」「主体と客体はなく、一つのものである」というフレーズをたくさん見つけました。そして、仏教で説いている悟りも、エンライトメントや覚醒ではなく、理解であると確信しました。

今せっせと本やサイトを読んで学んでいるのですが、使われている仏教用語が難しかったり、解説する人によって微妙な違いがあったりして理解するには時間がかかるため、ブログに書くのは、しばらく先になると思います。

参考になればという思いで、今後読む予定の本のキーワードを書いておきます。

龍樹(りゅうじゅ)、中観(ちゅうがん)、唯識(ゆいしき)、世親(せしん)、唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)、唯識二十論、法華経、華厳経(けごんきょう)、楞伽経(りょうがきょう)、達磨、黄檗(おうばく)、六祖檀経(ろくそだんきょう)

唯識(ゆいしき)とは読んで字のごとく、「ただ意識だけがある」という教えで、それが大乗仏教の根本思想であり、その教えが今日でも仏教の中で脈々と受け継がれています。「ただ意識だけがある」と聞いただけでもセイラーボブの世界を連想してワクワクしてきます。ブログ再開後はこうしたキーワードを中心に書いていく予定です。