2020/02/29

セイラーボブの言葉

(あなた)が考える(あなた)という存在は幻影です。
何者か、もしくは分離した誰かとしての(あなた)がいるという考えは、何か周知のことを受け入れたり拒絶したりする原因となります。

幻影が自らを欺く話をします。知る人と知ることというのは、自然な概念化されない知る行為そのもの(knowing)を見かけ上分割した概念にすぎません。(私はいる)という思考を信じることは、絶えず変化し続ける客体としての世界に見せかけの現実味を与えますが、それでもすべては本質においては変化することのない自然な知る行為そのもの(knowing)に他なりません。

思い起こし、思い出し、さらに思い出してください。私はそれであり、それが私です( I am That I am.)。それは意識。誰に対してどんな活動、思考、出来事や事件が起こるというのでしょうか。

出来事や活動はあたかも草が自然に生えるように、誰が優っているとか劣っているかではなく、そういうふうにしか起こりようがないということを理解してください。自ら働きかける知性エネルギー、まさにそのもの、それ以外のものではありません。

自ら輝く今ここにある意識は努力の結果ではありません。その意識が突然そこにあることを期待して何かをする必要があるわけではありません。今ここにある意識はあなたが気づいていなくても、うわべ上見えなくても、いつも今ここにあります。それは作り出したり破壊したりする何かではありません。

概念上の思考は雲のようなもので、見かけ上では太陽を見えなくします。概念化されない自然な状態でくつろぐのはいつも今ここにある意識です。

何度も何度も何度も思い出してください。何が現われようが消えようが、それを認識することはいつもそうなのです。自ら認識し、自ら輝く。ただそれだけ、他には何もありません。

2020/02/22

空間のようなアウエアネス(意識)

セイラーボブが言う、「空間のようなアウエアネス(意識)」とは、今ここにある意識のことです。そこにすべてが現れます。あなたが見ている端末、このブロブの文字、壁、椅子、空気。そこに世界のすべてが現れます。

そこには様々な物が現象となって現れています。でも実際には、あなたが見ている端末、このブロブの文字、壁、椅子、空気の背景にあるものを見ることはできないので、その存在に気づくことがありません。

私たちは、「見る働き」「知る働き」を通して、この世界を認識しています。
それはあまりにも明白なのですが、私たちはその「空間のようなアウエアネス(意識)」を認識することなく、見落として暮らしています。それを人に説明しようと思っても、それには境界がなく、名前もないため、どう説明していいのかさえわかりません。

そこに、感情、思考、体、世界が現れます。それは瞑想や修行で手に入れる何かではなく、いつもそこにあるもの。それは、誰かに取られたり、傷つけられたりすることもなく、いつもそこにあるもの。

時々は、思考という雲や、ストレスという雨が降って見えなくなることもあるけれど、いつもその背景にあるもの。それはいつも今ここにあって、変化することもなければ、どうこうすることもできないもの。
それが「あなた」。「汝それなり」。

私たちは、この世界を「見る働き」「知る働き」を通して認識しています。
そこには、見ている「私」は存在しておらず、「見る働き」だけがあります。
そこには見ている人(主体)も、見られているもの(客体)もなく、「見る働き」「知る働き」だけがあります。

朝、一人でゆっくりとコーヒーを飲んでぼんやりとしている時、何も思考が浮かんでこない時、そこに「私」はいません。そこにはコーヒーカップとコーヒーの香りがあるだけで、「私」はいません。

そこにいるのは、一人ぼっちの拓でもなければ、ブログを一生懸命書いて何かを伝えようとしている拓でもありません。そこには誰もいません。

でもひとたび思考がやってきて、昔の嫌な思い出や、今抱えている問題が頭に浮かぶと、たちまち「私」が現れます。でも私は、そこには「私」はいないということを知っています。
「私」は記憶の蓄積であり、マインドが作り上げたイメージにすぎません。

そうしたイメージや記憶の蓄積があなたではありません。
「今ここにある意識」があなたであり、あなたが過去にやらかした失敗や不幸な出来事は、「今ここにある意識」のどこにもなく、煩わされる必要など全くないことです。

私たちは、過去のどうしようもない出来事を思い出して、(あの時ああすればよかった)(あんなことをしなければよかった)と考えて、多くのエネルギーを使い、実際にやってくるかどうか定かではない未来に煩わされて怯え、「今ここにある意識」を認識することさえありません。

「今ここにある意識」を認識することで、多くの問題が問題ではなくなります。実際には何も問題などないからです。
私たちの問題は、たいていマインドで作られます。そしてその問題をまたマインドで解決しようとあくせくします。

どんなに準備をしても、ものごとはそんな風には起こらないと知っているのに、マインドは何度も何度も未来の予行演習をしてエネルギーを浪費します。

「今ここ」にいることさえできれば、何も問題などないのです。なぜなら、すべての問題はマインドの産物だからです。

「今ここにある意識」を認識すること。そこには「私」はいないと理解することがすべてです。それはエンライトメントや覚醒などという難しいことではなく、理解です。

メルボルン:大道芸人

2020/02/15

セイラーボブの言葉

真理や真実は蓄えたり蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできません。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。

昨日理解したことは少しも役にたちません。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。

エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)、すなわち知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。

強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません。

2020/02/08

今ここにある意識だけが実在です。

今ここにある意識だけが実在です。
昨日の意識も一年前の意識も、子供の頃の意識も実在ではありません。
明日の意識も一年後の意識も実在ではありません。

今ここにある意識だけが実在です。
それを空間のようなアウエアネスと呼ぼうが、純粋意識と呼ぼうが、今ここにある意識と呼ぼうが同じものです。
そこに、あなたの思考が現れ、世界が現れ、すべてが現れます、

今ここにある意識だけが実在です。
それが真実だとすれば、もっと良い意識を手に入れようとしても無駄なのではありませんか?

誰かの教えに従って瞑想すれば、もっと良い意識が手に入るのではないか、誰かの教えを学べば、もっと高い意識を手に入れられるのではないかというのは間違いではありませんか?

あれこれすれば、明日はそれを理解できるだろう、いつかは理解できるだろうという思いは完全な思い違いです。今理解できなければ、永遠に理解はできません。

唯一あるのは、今ここにある意識だけです。それがすべてです。
だとしたら、瞑想や誰かのメソードを使って、覚醒やエンライトメントを得ようとするのは間違いではありませんか?

あなたがどんな瞑想やメソードを実践しても、それであなたの意識が高次の意識になることはありません。
私も様々な瞑想、メソードを試しましたが、どれも根本的な解決にはなりませんでした。

すべての瞑想が役に立たないというつもりはありません。
ある種の瞑想は、マインドを静かにしたり、ちょっとした神経症を癒したりするには役立ちました。でも、それだけでした。

瞑想が終われば、マインドはまた騒がしくなり、またイライラが始まり、また瞑想を求めるようになりました。
それは一種のドラッグのようなもので、瞑想ができない日は落ち着かず、何のための瞑想かわかりませんでした。

瞑想をして得られる安らぎは、瞑想をまったくしない人の普段の状態と何も変わらないということに長い間気づきませんでした。
いくら瞑想しても、瞑想が私の意識を高次の意識にしてくれることはありませんでした。

瞑想は、根本的な解決にはなりませんでした。
根本的な解決になったのは、マインドがすべての問題の根源であるという理解でした。
もし私のマインドが無かったら、何も問題はありませんでした。

もしマインドが無ければ、そこには澄み切った、今ここにある意識だけがあります。
その意識だけが実在です。
それが「私」です。

2016 ケアンズ

2020/02/01

一つの本質が、パターンとなり、姿形となり、すべてとなって現れています。


It's that One Essence that is Appearing, Patterning, Shaping and Forming as Everything

冒頭、ボブの家の前を走るトラムの映像あり。

自分自身に問いかけて調べてみてください。
私はこの体なのだろうか? 私はこのマインドなのだろか?
私は分離した存在なのだろうか? 私は人なのだろうか? 私は個人なのだろうか?

そしてもしあなたが理解すれば、私が言っていることは、まず第一に、非二元は他に何もない一つのものであり、他には何もないもの。それは自ら輝き、永遠に新鮮な今ここにある意識。ただそれだけです。

他に何もないものという意味は一つのものでさえありません。なぜなら、一つのものという言葉は他に何かあることを連想させるからです。
そしてもう一つの意味は、私はこの体であるはずがないということを理解しなくてはいけません。私はこのマインドであるはずがない。私は分離した存在であるはずが全くない。

他に何もない一つのものであることを明確に指摘することによって、非二元の中には二元性は全くないということを言っています。それでも多くの二元性があなたの周りじゅうに現れています。

すべての顕現は二元性です。
それ以外ではありえないのです。二元性なくして、どんな現れもパターンも姿形もありません。そういうわけでそれは、見せかけと言われているのです。そういうわけでそれは、幻影やその手の言葉で呼ばれています。

そして、現れは実在ではないことを指摘しています。本質としては実在です。
一つの本質が現れ、パターンとなり、姿形となり、すべてとなって現れているのではないですか?

あなたが体ではないとしたら、何ですか? もしあなたが体を詳しく調べても、そこからあなたが始まった、それが私だという場所はみつかりません。
体は単に構成要素とエネルギーからできているとわかるでしょう。
思考の他にはマインドなどというものはないとわかるでしょう。

では私とは何でしょうか?
あなたは、この生命のエッセンスと呼ぶもの、つまり、自分はあると知る働きを否定することができますか?

生命の流れの中で、それはパターンとなり、体を通じて表現され、細胞を置き換え、呼吸をさせ、あたかも宇宙で物事が自然に努力なく起こっているように、すべてを自然に努力なく行っています。

人々はこれを神や至高の存在と関連付けて考えます。でも、誰かがそこに座っていて、糸を引いていたり、雨を降らせていて、もしあなたが祈ればそれを正してくれるというわけではないのです。

自然の中に中心や基準点がありますか? このショー全体を仕切っている点がありますか?
それはより良い呼び方で呼ぶとすれば、知性エネルギーに満ちています。それが姿形となって現れているということは、それが知性に満ちていることを意味しているのではありませんか?

その知性エネルギーが今この瞬間に呼吸をさせているのであり、あなたと分離した宇宙にだけ働いているのではありません。あなたもその自然の一部です。それがあなたに呼吸をさせ、細胞を置き換え、爪を成長させているのではありませんか?

それを認識するために、あなたは何をすべきですか?
あなたは今それを認識することはできませんか?
あなたはその存在を否定することができますか?

あなたは、生命の本質、「私がある」ということを知る働きを否定することができますか?
あなたは、「私は存在しない」と言うことはできないと知るでしょう。

あなたが何であるかをあなたは知りません。
そしてあなたは、現象としての現われを、調べもしないで実在だと思っています。
それが問題となっています。