2018/11/27

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)①

はじめに

2016年2月にセイラーボブのミーティングから帰り、そのことをブログに書いた後2年間はボブに関しては特に何もしなかった。

関係者の Facebook でボブのミーティングがライブ中継されていたので、ボブがミーティングを続けていることは知ってはいたが、ほとんど見ることもなく、本を読んだりすることもなかった。

2018年1月、私のブログを読んだという人からコメントをもらった。
今書いているこのブログは2018年11月に立ち上げたもので、このブログにある、セイラーボブ・ミーティング・2015、同2016は、もともとは私の旅ブログ(拓の世界一周旅日記)の中で旅のブログの一環として書いたもので、そちらにコメントをもらった。

その方は数年間、非二元の勉強をされていて、できれば私に直接会って話を聞きたいという内容だった。

非二元の教え=セイラーボブの教えかどうかはよく知らない。でも、ボブはいつも、彼の教えはヒンズー教の教えであるアドヴァイタをもとにしていると言っている。

サンスクリット語で、Ad=not 、vaita=two、つまりは非二元の教えである。
どうしたものかと迷った。

2016年2月にボブのもとを去る時、ボブは私に「日本に帰ったら、もっとみんなに(ボブの教えを)教えて」と言った。

私はそれほど社交的ではないし、人前に出て話したりするタイプではない。ミーティングを開いて人に教えるなんてガラじゃない。
ボブのことを旅ブログに書くことで、ボブとの約束は果たせたのではないかと考えていた。

直接会うことにも抵抗はあったが、私が困ったのは、その人に直接会って話すことではなかった。直接会って、ボブの教えを話すことはそれほど難しくはない。
ただ、誰かに直接会って話すということを考えた時、もっと大きな問題を抱えている自分に気づかされた。

ボブの教えを学んで、その教えを正しく理解した人たちが次にやることは、ボブの教えを人に伝えること。

2015年にボブに初めて会った時、「ただそれだけ」を書いたカリヤニはもうミーティングには来ていなかったが、ボブとは別の場所でミーティングを主催してボブの教えを広めていた。

2015年当時はギルバートがボブのミーティングの世話係をしていた。世話係といっても、入り口で参加者から20ドル集めて後でまとめてボブに渡す程度のことでしかないのだけど。

そのギルバートは2016年に私がミーティングに行ったときにはもうボブのもとにいなかったが、自分のサイトでボブの教えや、非二元の教えを人に伝える活動をしていた。

2016年のミーティングの時は、サビーナが世話役をやっていたが、サビーナも2017年の途中からミーティングを離れ、自分のサイトでボブやニサルガダッタの教えについて語っている。

ボブのまわりにいた人は、ボブの教えを理解するとボブを卒業して、自分で教え始める。それはボブの意向でもある。

ボブはいつも、「メッセンジャーを信奉するのではなく、メッセージを理解しなさい」と言う。

大切なことは、ボブを信奉することではなく、ボブの教えを理解すること。
ボブの教えを理解した人たちは、今度は自分がメッセンジャーとなって、ボブの教えを伝えていく。

メッセンジャーとなった人たちは、とりたててセイラーボブの名前を全面に出さないで、非二元、もしくはアドヴァイタの教えとして説いている人もいる。

カリヤニ、ギルバート、サビーナを見ていると、彼らはボブの教えを完全に理解していて、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを、実感を伴うあたりまえの現実として確信している。

だからこそ、人に教えている。
振り返って、自分はどうかといえば、ボブの教えを理解してはいる。しかし、「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れた見せかけである」というようなことを、実感を伴うあたりまえの現実として確信しているだろうか。

話を聞かせてほしいと言われたことで、それをはっきりと確信をもって実感していないことを気づかされた。もし私が実感を伴うあたりまえの現実としてボブの教えを確信しているなら、コメントしていただいた人に会わないまでも、電話なりメールなりで、丁寧に教えてあげたと思う。

確信がないからためらったのだと思う。
私は正直にこうコメントを返した。

「コメントありがとうございます。
日本で私がボブの話、もしくは非二元の話をする機会は今のところありません。
正直に言ってしまえば、人に話せるほどの確信をもった理解に至っておりません。
ボブが何を言っているのかは理解しているつもりですが、どこか絶対的な確信を持てない自分がいます。

ボブのミーティングは今のところ、Sabinaのfacebookで生中継で見ることができます。日本との時差は2時間です。
生中継でなくてもよければSabinaのサイトにもYouTubeがたくさんあります。

詳しくは私のブログの2015年1月9日セイラー・ボブ・アダムソン②(メルボルン)に案内してありますので、そこで見てください。(コメント欄にアドレスが貼り付けできないようです)

私も、もう一度メルボルンに行く予定ですが、諸事情によりちょっと先のことになります。
YouTubeで見る限り、ボブの英語がますますわかりづらくなってきたなあ、急がなきゃ、なんて思っていますが、今のところは元気にしてくれています。」

私は、情けなさと敗北感でいっぱいだった。
もう一度セイラーボブのミーティングに行こうと思ったが、諸事情により、すぐには行けそうになかった。

そのコメントに返事をした後でも、ボブに関しては特に何をするでもなく時間が過ぎた。
2018年の夏頃、ボブのミーティングの配信が止まり、ボブが人工関節の手術のため入院したことを知った。

ボブの中継をそれほど頻繁にチェックしていたわけではないので、正確にどのくらいミーティングを休んでいたのかははっきりわからない。
病気明けに配信されたミーティングの様子を見て驚いた。
ボブはげっそり痩せて、やつれていて精彩がなかった。

足への負担を減らすための食事制限で体重をずいぶん減らしたという。
おまけにパーキンソン病も患っているという。

ミーティングでは、あまり活発には話さなくなり、カタリーナがボブの代わりに話をして、途中でボブが口を挟むという形式に変わった。

カタリーナは私が2016年に行った時にもミーティングに来ていたが、まだそれほど中心的なことはやっていなかった。
カタリーナはボブの教えをよく理解しているし、カタリーナの英語はボブよりはるかにわかりやすい。それはそれで助かるのだけれど、それを見ているうちに、もう一度ボブに会いたいという思いが無くなってしまった。

私の思い出の中には迫力のある元気な頃のセイラーボブがいる。2015年に半年滞在した時は、毎週日曜日のミーティングのあとにボブを囲んでみんなでイケヤのフードコートなどに行ってわいわいとランチをしたりした楽しい思い出がある。

回りの人も時々私と遊んでくれて、メルボルンには楽しい思い出がたくさんある。
その思い出の中にいる大半の人は、もうミーティングには来ていない。
もう一度ボブに会いに行けば、そうした楽しかった思い出が全部消えてしまうような気がしたし、もう一度ボブに会いに行っても、どうなるものでもなかった。

メッセージはもう十分すぎるほど受け取っている。ボブに会うことで、絶対的な確信が得られるのなら、もうとっくにそうなっているはずだ。

アプローチを変えようと思った。
私はボブ以外の非二元の師、マスターの本は全く読んだことがなかったが、そういう人たちの本を読んでみようと思った。

「全く」という表現は適切ではないかもしれない。ラマナ・マハリシ や ダグラス・ハーディング などの本は昔読んだことがある。でも当時は、アドヴァイタ、非二元などという分類はなく、そういう言葉で書店に並びだしたのはここ10年ぐらいのことではないかと思う。

読んだ当時も、彼らが何のことを言っているのかさっぱりわからないままだったので、アドヴァイタ、非二元の本として読んだとは言えない。

私の住む町には精神世界のコーナーがあるような大きな書店はないので、アマゾンでまとめてアドヴァイタ、非二元関連の本を買うことにした。

ボブの先生であるニサルガダッタ・マハラジの「アイ・アム・ザット」「意識に先立って」、ラメッシ・バルセカール「意識は語る」、その他評判の良さそうな非二元関連の本を4冊、合計7冊買った。

全部を新品で買ったわけではないが、全部で18000円もした。ニサルガダッタやラメッシの本が高いのには驚いた。そんなに売れる本ではないのでしょうがないのかもしれない。

本が届いて、「アイ・アム・ザット」を読み始めたが、数ページで挫折。文章を目で追っても、頭に入ってこない。何を言っているのかよくわからない。こんなに難しくて分厚い本を我慢して最後まで読んだら心の病が再発する。数ページ拾い読みして挫折。

続いて「意識は語る」。これはもっと難しい。過去世や覚醒の話が出てきて、ボブの言わないようなことも言っている。これも数ページで挫折。

「意識に先立って」は比較的読みやすいように思われたが、続けて読む気にならず、数ページを拾い読みしてやめた。

その他の4冊の本は、それほど難しい本ではなかったが、覚醒や目覚めのことばかり書いてあって、ボブの教えとは相容れないものばかりで読む気にならず、どれも数ページを拾い読みしただけでやめた。

18000円も出したのに、たった半日で全部要らないものになってしまった。気に入らないものが視界に入ると神経症がうずく断捨離マニアの私は、すぐに全部をアマゾンの宅配買取サービスに出した。

全部で5400円で売れた。半分は中古だったとしても、状態の良いものばかりだったせいもある。それにしても買取価格が高くてうれしかった。
でも実際には12000円ほど損したわけで、それでも喜んでいるという自分がおかしかった。
ボブ以外の本を読んでもボブを理解する役には立たないということがわかっただけでもよかった。

本棚の隅にまとめて置いてあったボブの本を順番に読み直すと同時にYou-Tubeでボブのミーティングをせっせと見た。驚いたのはYou-Tubeの自動字幕表示機能。知らない間にものすごく進化していて、ボブの聞き取りづらい英語をかなり上手に拾うようになっていた。それを使って何度か聞けば、聞き取れないところはほぼ無いと判明。

ミーティングではカタリーナがボブに頼まれて半分ぐらい喋る形式に変わり、彼女の英語はとても聞き取りやすくて助かったが、ボブの英語はますます聞き取りづらくなった。

ギルバートの書いた本も読む一方で、彼の Facebook も読んだ。
毎日、セイラーボブの世界にどっぷりとつかる日々が3か月ほど続き、理解の浅かった部分が少しずつ解消されていった。ああ、そういうことだったのかと思う瞬間が何度かあった。

まるでセイラーボブの教えという大きなジグソーパズルの欠けていたピースが一つづつはまっていくように理解が深まった。そしてとうとう欠けている部分が一つもなくなった地点に到達した。

覚醒が起こったわけでも、何か特別な理解が起こったわけでもない。ボブのいくつかの言葉、ギルバートの本の一節、彼のFacebookのいくつかの書き込み、カタリーナの説明など、いくつかのきっかけで、理解の浅かったところがなくなり、完全な理解に到達した。

私は、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを、「実感を伴うあたりまえの現実として確信」できなければダメだと思い、それを探し求めた。でもその必要すらなかった。一体誰がその実感を求めているというのか。

「私」が確信していようがいまいが、何の違いもない。「私は確信してない」「私は確信した」と言ったとたんに、いるはずのない「私」がやってきて、マインドの仕掛けた轍(わだち)にはまってしまう。

もし、「実感を伴うあたりまえの現実として確信したい」と探し求めるなら、エンライトメント(覚醒)を求めて12年修行する人と同じ過ちを犯すことになる。

ボブの教えていることは「私は理解した」「私は確信していない」というマインド(思考)の外にあること。

答えはマインド(思考)の中にはない。答え(本当の理解)はマインドが静かになった時、そこにある。答えはマインドの外にある。

マインドの外にあるのは意識(アウエアネス)。それが私であり、世界はそこに現れる。そこには理解している私も理解していない私もいない。あるのは意識だけ。Full Stop!

私が「私」だと思ってきたものは、単に記憶の集積にすぎず、そこには実体のあるものは何もないということを完全に理解した。
「私」は体でも思考でもないということを完全に理解した。

すべては概念であり、その概念を取り去ると、そこには何もなく、「私」はいないということを完全に理解した。

前2回のミーティングの時も完全に理解できたと思っていたが、疑問が湧いてきて理解が揺らいだ。
マインドは疑問を作り出すのが仕事だから、今後また疑問が湧いてくることがあるかもしれないが、もうこの理解が揺らぐことはないと思う。

ボブの教えをもっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになった。
最初に、ボブの講話集「What's wrong with right now?」を翻訳させてもらえないかと考えたがやめた。薄い本で英語もそれほど難しくはないが、素人の私が出版するのはそれほど簡単ではなく、どこかの出版社が出版してくれる見込みはかなり低い。

ボブの本は人気がない。ジェームズ・ブラハの本に出てくる話によれば、ボブの本は全米でおそらく1000部ほどしか売れてないではないかという。
またYouTubeでボブのミーティングが配信されてもせいぜい300アクセスあればいい方。世界中でそれだけの人しか見ていない。これがエックハルト・トールだったら、世界中で何百万という人たちが月々19.95ドルの会費を払って彼のサイトにアクセスしている。

「私は覚醒した」とか「あなたはもうすぐ目覚める」というタイプの本は売れるが、ボブのように「あなたはもともとそれだ」「覚醒なんてない」という本は売れない。
みんな何かになりたくてしかたがないからだ。

e-bookという方法も考えたが、版権や技術的な問題もあるし、ボブの教えを売って対価を得るというのも嫌だなと思って断念した。

次に、ボブのYouTubeに日本語字幕をつけたらどうかと考えた。ちょっと試しに活字に起こす作業をやってみたところ、活字に起こすには膨大な時間がかかるとわかった。

一番手っ取り早い方法を考えたところ、ボブの教えをネット上で説明する方法以外にないと思い、このブログを作った。

みんなが気軽に読んでもらえるようにと、Sailor Bob's Cafe という名前にした。最初はBob's Cafe にしたが、そういう名前の喫茶店が日本中にたくさんあるとわかったので、今の名前に変更。

手始めに、「拓の世界一周旅日記」の中で書いたセイラーボブ関連の連載二つを加筆・修正してわかりやすくし、タイトルを「セイラーボブ・ミーティング・2015、同2016」としてこのブログに移記した。

ボブの直接の言葉ではないが、私なりにボブの教えのダイジェスト版のようなものとして、「はじめに」を書いて公開した。セイラーボブのホームページも翻訳掲載した。
そして今、新しいシリーズとして、「セイラーボブの教え(詳しく)」を書いている。
本当はボブ関連の本からたくさん抜粋して翻訳して載せたいが、引用は著作権上許されるであろう最小の範囲にとどめる予定です。

セイラーボブのことを学ぶなら、以下の三冊がお勧め。
Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition)
What's Wrong With Right Now? 
Presence-awareness: Just This And Nothing Else 

もし辞書片手にでも英語で読めるなら、ぜひ上記の三冊のうちどれかを読むことをお勧めします。(上から順におすすめ順)

2018/11/23

セイラー・ボブ・アダムソンのホームページから

セイラー・ボブ・アダムソンのホームページはこちらから

Sailor Bob Adamson - Nonduality (非二元)
その道は言語を超越している

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Pointer and Quotes (ポインターと引用)

「利己的執着なしに生きることを学びなさい。そのためには、あなたは自分の本質が不屈の恐れを知らない永遠の勝利者でありことを知らなければならない。あなたの想像以外に何もあなたを悩ますものなどないと絶対の確信をもっていったん知ったなら、あなたは欲望や恐れ、概念や思考にとらわれることはなく、真実のみに生きる」
Sri Nisargadatta Maharaj

「あなたはあなたが世界と呼ぶものの夢を見ているということを理解して、出口を探すのをやめなさい。夢があなたにとって問題なのではありません。問題はあなたが夢のある部分が好きである部分が嫌いだということです。全体を好きになるか全部を嫌うかして、不平を言うのをやめなさい。あなたがその夢を夢だと理解する時、あなたのすべきことは終わります」
Sri Nisargadatta Maharaj

「二元的な思考を信ずることは問題です。非二元の意識に二元性はそのように現れるしかありません。一体、非二元の中にどんな二元性があるというのでしょうか?」
Sailor Bob Adamson

「私は体に話かけているわけでもなければ、
マインド(思考)に話しかけているわけでもありません。
私はあの"I am"(私はいる)に話しかけているのであり、それが私です。
マインドを通して、"I am"(私はいる)という思考となって現れる今ここにある意識に話しかけています」
Bob Adamson

「鏡に映った像は鏡の中にはありませんが、鏡に映っています。あなたは、それがそこにあるとも無いとも言うことはできません。できると思うなら行って掴んでみてください」
Bob Adamson

あなたはマインドの中に答えを見つけることは決してありません。マインドは物事を理解するためのものですが、無(no thing)を理解することはできません。
Bob Adamson

エゴは死んだイメージです。それは命とは相容れません。川から汲んだ水のごとく淀んでいます。そのままにしておいてください。
Bob Adamson

私が無である時、それは知恵です。
私がすべてである時、それは愛です。
そしてその二つの間を命は動いていきます。
Nisargadatta Maharaj

雲の後ろには空がいつもそこにある。そして太陽はいつも空にある。たとえ一時的に見えなくても。
Bob Adamson

「知る働き」は私が知性と呼ぶもののことです。それは知識ではなく、知性。それは知る働き、知性エネルギー。知る働きとは、この瞬間の直接性の中で起こっている何らかの活動です。どんな活動もエネルギーの動きです。それは、知る働きの内容物のことではありません。私はこれを知っている、あれを知っているというのは獲得し、概念化して言葉に
なったものです。今起こっている何かが、知る働きの基本的な活動です。それはエネルギーすなわち生命力、貼り付けたければどんなラベルを貼ってもかまいませんが、それはこの瞬間の直接性の中で機能しています。それがあなたです。
Bob Adamson

「主体、客体という思考は自然な状態(awareness)を覆い隠します。アウエアネス(意識)無くして思考は起きません。というのも、思考は意識の中に現れるからです(雲が空に現れるように)。思考も本質はアウエアネス(意識)だということを理解してください。これを理解すれば、思考がアウエアネス(意識)を覆い隠すことはなくなります」
Bob Adamson

「今ここにある意識以外のどんなものに変わろうと、概念化されようと、抵抗するには及びません。純粋な知性エネルギーが他のものとなって現れたにすぎず、それは常にそうであり、ただそれだけで、この先もそうであるとあるがままに認識してください。そのことを理解すれば、概念化は崩れ落ち、思考にとらわれない剥き出しのアウエアネスが残ります。努力のいらない本質。ただそれだけ」
Bob Adamson

真理や真実は蓄えたり、蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできません。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。昨日理解したことは少しも役にたちません。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)、すなわち知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません」
Sailor Bob Adamson

「知性(knowing)で満ちた空(くう)というのは有効なポインターや説明になりえます。しかし覚えておいてください。説明は決して説明そのものではありません。このポインターは、そこにこの自然な空が実際に認識できるかを探したり見たりする時にのみ有効です。すべてのものがこの自然な空からやってきて現われ、戻っていきます。やってきては去っていくものは一時的なものですが、この認識する空、空なる存在は来たり去ったりしません。空なる存在はそれ自体がものではありません。それは決してもので満たされたり空になったりしません。なぜなら、空に現れたものはそれ自身独立した実体あるものではないからです。そしてまた実在の世界では物もまた空であり、物として現れているだけです。認識できるものはすべて空です。この自然な状態以外に、いわゆる(見る人)を含めて何かがいると信じた場合にのみ問題は起きます」
Sailor Bob Adamson

「思い出し、再認識し、思い起こしてください。私がその(私はいる)であるということを。それがアウエアネス(意識)です。どんな活動、思考、出来事、事件が起きると、誰にとっての問題ですか。出来事や活動は草がひとりで生えるように起こってきます。優れているとか劣っているとかは何もありません。ただそれがあるだけです。そのことを理解してください。自ら機能する知性エネルギー、ただそれだけ、それ以外ではありません」
Bob Adamson

「アウエアネスは独立的に存在していて、それは努力を必要とせず、誰かが手に入れたり失ったりできるものではありません。自然の状態は決して失われません。それは見せかけのものではなく、それゆえ消えることもありません。それは常に同じです。それは実在する物ではありません。概念上の考える人と概念上の思考が、概念化されない自然の状態を不鮮明にするということを理解してください。たとえ一瞬でも思考を止めると、自然の状態は完全に明白です。停止して見てください。見る働きの中で純粋なアウエアネスが明確になります」
Bob Adamson

欲望とは快楽の記憶である。そして恐れは苦痛の記憶である。どちらもマインドを落ち着かせない。
Nisargadatte

マインドの平和というようなものはありません。平和はマインドがない時にあります。
これがいにしえの人々が言う「平和はすべての理解を超えたところにある」です。そしてそれがあなたの自然の状態です。
Bob Adamson

「今ここにある意識を認識する時、そこに見えるものは何もありません。単に自然な概念化されない見る働きがあるだけです。そこには主体も客体もありません。これを調べる時、理解は即時です。それにはアウエアネス、コンシャスネスというラベルが貼られます。そうでなければ、マインドは主体、客体として見ることができないからです。主体も客体もない空(くう)なる存在。空が見ています。それは認識する空です。空(くう)は空(くう)によって空(から)になることもなければ、空(くう)によって満たされることもありません。その概念が打ち消されることによって、言葉も無く、思考も無い、言い表すことができない空(くう)だけが残ります。それは真空でもなければ、空虚でもない。それは生き生きとして自ら輝き、自らを知り、自らを意識している空です。それは光に満ちた晴れ渡った空(そら)のようなものです。自分で調べてみてください。誰もあなたのかわりにそれをすることはできません。目前にある明快さ。見る働きは続いているということを見続けてください。疑い、疑問、議論、概念上の探求者がうわべ上ではふたたび現れます。それでも、見る働きの中では概念化されない空(くう)は乱されることなく、そのままです」
Bob Adamson

「(あなた)が存在するというのは幻想です。(あなた)という存在は想像の産物です。分離した存在としての何か、もしくは誰かがいると想像することは、認識した物事を受け入れたり、拒絶したりする原因となります。自らを欺くストーリーを語っているのは幻影です。知る人と知られるものは単に概念であり、概念化されない知る働きをうわべ上で分割しています。(私はいる)という思考を信じることは、絶えず変化する客体としての世界に見せかけのリアリティを与えます。それでも、すべての本質は変化することのない自然な知る働きです。それ以外ではありえません」
Bob Adamson

「自ら輝く今ここにある意識は努力を必要としません。意識が突然ここに現れるという期待を抱いて何かをしようとする必要はありません。認識されていようが、うわべ上見失われていようが、今ここにある意識はいつも今ここにあります。それは創造したり破壊したりする何かではありません。概念上の思考は太陽を遮っているように見える雲のようなものです。概念化されない自然な状態でくつろぐのは、今ここにある意識です。それはもうすでに今ここにあります。何度も何度も何度も再認識してください。何が現れようが消えようが、知る働きは常にそうであり、不変です。自ら認識し、自ら輝く。ただそれだけ。それ以外ではありえません。
Bob Adamson

「本当のあなたの自然な状態を再認識してください。純粋で、すべてに広がった、空間のような、表現し続ける、自然な、今ここにある意識。基準点を持たず、いかなる実体も独立した性質も持たない。自然さ(顕現と空の統合、空とその内容物の統合)を認識しそこなえば、錯覚が起こり、顕現への執着が起きます。それは、私と他者、うわべ上の二元性です。その執着が無い時、そこには自然な自由があります。錯覚が消えるとそこには平静さが残ります。それが自然な状態。ただそれだけ。他には何もありません。自然さ(平静さ)として自然の残るのは、自然な(努力の要らない)瞑想です。瞑想する人も何かに瞑想することもなく、何かを得ようとすることも、何かを避けようとすることもなく、ただ単に努力なくあること。それはいつもそうです。このことを何度も何度も再認識してください」
Bob Adamson

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Questions for contemplation (深く考えるための問い)

1・あなたはここへ何かを学ぶためか、何かを得るために来ましたか? それは何か新しいもの、ワクワクするようなもの、愉快なものですか? それはまだあなたが持っていないものですか? それとも、何者かになることですか?

2・ヒンズー教ではそれをサット・チット・アナンダと呼んでいます。それは存在(本質)、意識(知る働き)、至福(存在する喜び、平静さ)です。その場合、

3・自身の存在を否定できますか?(存在しないでいることができますか!)

4・あなたは目覚めていないのですか?(無意識ですか?)

5・あなたは死んでいるも同然なのですか?

6・あなたは、もうそれ(サット・チット・アナンダ)なのではありませんか?

7・マハーバキャの大格言、「我はそれなり」が真実であるなら、「それ」が何を表すかを知ることが重要ではありませんか?

8・私たちの言語で言うと、「それ」とは何ですか?

9・「それ」ではないものは何ですか?

10・つまるところ、言葉とは結局何ですか?

11・「私」という言葉は何ですか?

12・生まれた時から言葉を知っていましたか?

13・どうやって言葉を習得しましたか?

14・仏教ではそのことを、「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識、他には何もない、ただそれだけ」と言います。あなたは今この瞬間、その存在に気づいていませんか?

15・「ただそれだけ。他には何もない」という時、他に何があると思いますか?

16・キリスト教では、偏在、全能、全知と言います。それはどういう意味ですか?

17・全能とは完全な力という意味ではありませんか? 高次の力、思考の力、何らかの存在が何かをする余地はありますか?

18・あなたの体や宇宙を機能させている何か他の力がありますか?

19・あなたは消化したり、髪の毛を伸ばしたりしていますか? (あなたにそれをする力がありますか?)

20・あなたが見ることや考えることをやっていますか?(どうやって?)

21・偏在とは完全な存在のことではありませんか? (あなた)を分割したり、除外したりすることができますか?

22・全能とは完全な認識ではありませんか?

23.今まで信じられてきたことは本当でしたか?(例:地球は平である。サンタクロースは実在する)それが調べられた時、それは真実でしたか?

24・私たちが完全で完璧を求める時、私たちが解放を求める時、私たちは解放を求めていますが、それは誰のためですか? 「私たち」とは誰のことですか? 人格を備えた個人が存在していますか?

25・今まで、人は実在しましたか? 「人・person」という単語の由来は何ですか? それはラテン語でマスクという意味ではありませんか? それは概念上のイメージのマスクという意味ではありませんか?

26・概念上のイメージは、過去に信じていたことに基づいていませんか? それはもう死んだものではありませんか? そこに新鮮や新しさはありますか?

27・間違ったイメージに関して、あなたが自身を何から解放しようとしているのですか? 

28・解放されるのは何ですか?

29・誰のために、何から解放されるのですか?

30・まだ答えはマインドの中にあると信じていますか?

31・マインドの平和を達成できると思いますか?

32・マインドの性質は何ですか? それが反対の極に動くのを止めることができますか? それ以外の動きをしますか?

33・ヴァイブレーションが無くなった時、もしくはそれに注意を払わない時、そこには何がありますか?

34・もし思考の中に答えがあるとしたら、どれだけ長く有効ですか? 

35・どうして誰もそれをそこで見つけられないのですか?

36・言葉は現実の物ですか? 水という言葉は、あなたを濡らすことができますか? 火という言葉でやけどしますか?

37・顕現の中のその他の言葉とはどんな違いがありますか? それらは実在のものですか?それとも、単に象徴としての表現ですか?

38・この「私」という言葉は本当に私のことですか?

39・それは信じるエネルギー(注意)によって投影された夢のような幻影なのではありませんか?

40・顕現の中に、何か永遠もしくは不動のものはありますか? 何か確かなものですか?

41・あなたの体は生まれた時と同じ体ですか?

42・精子と卵子が胎児となった最初の細胞は今どこにありますか?

43・その体は、その時始まったのですか?それとも、もっと前ですか?あなたの両親が食べ物を食べ、プラーナを呼吸してこの細胞作った時に始まったのですか? それともそれはもっと前ですか?始まりまでさかのぼることができますか?

44・結局、体とは何ですか? それは何でできていますか?

45・体の構成要素〔空気、成分(土)、火(体温)、水、空間〕を全体から分離できますか?

46・あなたは自身を水(体の大半は水です)、空気、熱、空間から分離する(取り除く)ことができますか?

47・そうした構成要素なしで生きることができますか?地球や空間の外に出ることはできますか?

48・周囲から構成要素を補充することなしに生きられますか?

49・体は単にエネルギーの振動パターンなのではありませんか? 

50・それを分解して構成要素に、さらに小さな粒子、エネルギーの波にすると、それは、いわゆる無ではありませんか? 

51・それは現象となって現れている顕現の中のすべての物と同じものではありませんか?

52・「現象」とは何ですか? 辞書はどう説明していますか? それは、「単にそのように現れるもの」ではありませんか?

53・あなたは体ですか?

54・あなたは、「私のコート、車」と言うように、「私の体」と言いませんか?

55・体はコートや車のようなものですか?

56・あなたが、あなたは体やコートや車の所有者であると言う時、言葉がそれを暗示しているのではありませんか?

57・その所有者は誰ですか?

58・あなたはマインドですか?

59・同様に、「私のマインド」と言いませんか?

60・あなたのマインドを見せてください。

61・それは思考とは別のものですか?

62・思考とは何ですか? それは精妙な音、もしくはエネルギーの振動ではありませんか?

63・それは赤ちゃんが生まれてから、どのように始まるのですか?

64・考える能力と記憶を留める能力が発達する以前に、言葉無しで何を覚えておくことができますか?

65・あなたは、自分が人であるということをどうやって学びましたか? 誰がそう言いましたか?

66・彼らは他に、あなたが何であると言いましたか?

67・あなたはそれに何を付け足しましたか? 

68・あなたは今この瞬間、「私」を何と関連付けていますか?

69・それはすべて過去の出来事に関連しているのではありませんか? でなければ、どうしてあなたは、好きとか嫌いとか知っているのですか?

70・その基準点は二元性ではありませんか?

71・非二元の中に二元性はありますか?

72・もしエゴが問題なら、あなたはそれを取り除くことができますか? エゴ自身以外で、誰が取り除こうとしますか?

73・エゴというようなものはありますか?

74・良いとか悪いとか、良いことを留めておきたい、悪いことを押しのけたいということに関して、私たちは今葛藤しているのではありませんか? それは抵抗ではありませんか?

75・葛藤はあなたを心配、落胆、不安にさせませんか?

76・心配(un-easiness)は病(disease)ではありませんか?

77・すべての心理的な苦悩は葛藤は病ではありませんか?

78・もしあなたが物事を基準点「私」に関係付けなかったら、どうなりますか? それはどこへ行きますか?

79・自然はどうですか? それは何かと何かを関連付けしますか? 

80・それはどんな葛藤もなく、昼と夜、夏と冬、反対の極へと振動するのではないですか?

81・ 沈黙は音と戦いますか?

82・あなたは自然以外の何かですか?

83・調査はどうやってやるのですか? 見てください。あなたは今見ていますか?

84・あなたは今朝、見ることを始めようと決心しましたか? それともそれは他の機能と同じように、もうすでにそこにありましたか?

85・それは今あなたにある見る働きを同じものですか? 内容は違うものですが、見る能力は変わりましたか?

86・聞くことも同じではありませんか?

87・私の目が私に、「私は見る」と言いますか? 「これを見て、あれを見て」と言いますか?

88・「私は見る」という思考は、一体である見る働き中で、単にマインドが主体、客体の分離を作り出したのではありませんか?

89・「私は見る」という思考が実際に見ることができますか? 目を閉じてやってみてください。

90・もし目が単なる道具で思考が単に翻訳しているのなら、見ることとは何ですか?

91・同様に、「私は聞く」という思考が実際に聞くことができますか?

92・「私は意識(aware)している」という思考はアウエアネスですか? 

93・「私は選択する」という思考は選択者ですか?

94・あなたは思考を選ぶことができますか? 

95・あなたが選ぶことができるなら、いままでは不幸な思考ばかりを選んできたのですか?

96・死体はどれだけの思考を持つことができますか? 死体はどれほど見て聞くことができますか?

97・もし電源がオンになっていなかったら、コンピューターからどれだけの情報を得ることができますか?

98・どれほど長い間探求していますか? 間違った場所を探しているのではありませんか?

99・あなたはそれを将来見つけられると思いますか? 

100・もし考えなかったら、将来はありますか?想像してみてください。

101・あなたは何かになろうとしていますか?

102・何かになること(becoming)はbeing(在ること・本質)ですか? 

103 ・もしそれが時間の中で見つかったら、それを信頼できますか? 

104・もしそれに始まりがあるならそれは過ぎて行く現象、経験に過ぎないのではないですか?

105・始まりがあるのなら、終わりがあるのではありませんか?

106・時間はマインドではありませんか? あなたが考えなかったら、過去や今以外の時間はありますか?

107・そのことを考えなかったら、あなたは誰ですか?

108・ あなたの過去無しで、あなたは誰ですか?

109・ 概念的な答えはあなたを満足させますか?どれほど長く?

110・もしあなたがそのことを考えなかったら、何が問題ですか?

111・思考を一時止めて、思考なしで、それでも自分が存在しているか試してみる気はありますか?それは何を意味していますか?

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Sailor Bob – The Spiel
30th December 2018 – Only Self(ただ本質だけ)

(ビートルズの歌の歌詞を変えて、「言葉を見抜けば、あなたは自由になる」と言うこともできます)

ここで私が話すことは何も新しいことではありません。もしあなたが詳しく調べれば、それはあらゆる伝承の根底となっていることです。それは人々が付け加えたあらゆる概念によって不鮮明になり、完全性から分化してしまいした。ヒンズー教ではそれを非二元といいます。最近あなたは、非二元とは何か、二元性とは何かと耳にするでしょうけど、もしそれが非二元であるなら、あなたが何かを分割することができますか? いずれにせよ、それではないものに、どんなラベルを貼ることができるでしょうか?

そういうわけで、私はあなたに何も伝えはしないし、何も教えはしないと言っています。あなたに私が指し示したことをあなたが自分で調べるようにと求めているにすぎません。たいていの人は間違った方向を調べるように条件付けされています。あなたが言葉を身に着ける前は、あなたは自然に努力なく機能していました。言葉を身に着けていく中で、私たちが何か分離したものであるというイメージを受け入れました。

私が、私はどんな体にもマインドにも話しかけてはいない、と言う時、それは、あなたがあなた自身だと思っているものにではないという意味です。私はマインドに「私はいる」という思考を通して現れている存在に話しかけています。ただそれだけ。他には何もない。存在する感覚。本質のアウエアネス。アウエアネス、それがあなた。それが自然な状態。

あなたは今意識が無いということはできません。ということは意識があるに違いありません。それが、私たちが間違えてしまうところです。私たちはアウエアネス(意識)を見つけなくてはいけないと考えてしまいます。この概念、すなわち言葉を手に入れなければいけないと考えます。あるいは、私たちは自分の意識(Consciousness)に気づかなくてはいけないと考えます。しかし、意識は存在を意味します。そしてあなたたち全員が今この瞬間、存在しています。存在していることに完全に気づいている存在です。そうではありませんか? あなたは「私は存在しない」と言うことはできません。

あなたは自分のbeingness(本質・存在)を否定することはできません。あなたは自分の存在(existence)を否定することはできません。そして、思考はすべて知る働きを通して現れます。でも、思考が知る働きを妨げたことがあるでしょうか?

あなたは完全に自身の存在、知る働きを意識しています。

あなたが調査してみると、あなたがあなただと思っているパターンと形は、実在ではないとわかります。あなたはその体とマインドではありません。体とマインドは個人的な存在です。それはアウエアネスではありません。アウエアネスは個人的なものではありません。一つの非個人的な本質です。私たちは自身に個人的な自己というラベルを貼り、その自己が解放か達成を必要とします。でもそれはあなたが貼り付けた間違った自己です。あなたは非個人的なものです。エゴは初めから存在していません。

あなたが、あなたは一つの本質がパターンとなり形となって現れたものであると理解する時、それがどうやって異なる形やパターンに振動したり、動いたりしていくのかを理解する時、それはその本質以外ではありえません。パターンや姿形が無ければ、一つの本質です。

あなたは言葉を現実のものと思い込みました。「あなたはいい子だね。ジョニー」などと。子宮の中で形になった時、あなたはどれだけの言葉を知っていましたか? あなたが脳さえ持っていなかった時に。脳はまだ形成段階でした。

精子と卵子はエネルギーの振動パターンです。肉眼では見えない小さなエネルギーの粒子は内在する知性に満ちていました。知る働きと本質、存在の喜びに満ちていました。もしそれが単なる小さな粒で知性を持たなかったら、何もすることができなかったでしょう。空気とあなたの両親が食べた食べ物によって、胎児は今日のあなたになりました。でもそのことについてあなたは何をしましたか? あなたがあなただと思っている体はあなたではありません。

あなたが自分だと思っている自己は非個人的なものであり、一つの本質です。あるのは一つの本質です。でも、私たちは個人だと思っています。私、ボブ、呼びたければ何と呼んでもかまいませんが。

あなたの人生の最初の二年間、あなたが言葉を覚える前のことで、あなたは何を覚えていますか?

初めに言葉ありき。そして言葉は神であった。それは単に神は言葉であると言っています。それは何か偉大な存在が雲の上にいるということではありません。一つの本質がすべてとなって現れています。二つではありません。私たちが神にささげているすべての言葉は単なる言葉です。神によって創造されたすべてのものは言葉によって作られました。言葉によって作られなかったら、何も作られることはありませんでした。

この部屋の中のすべてを見回してください。すべての異なる形、パターンを。そして外の木々、空間。それらすべてにはラベル、言葉が張り付いています。私たちは、すべてが「それ」であると知っています。それは鳥、それは木。私たちは、すべてが「それ」であると知っていますが、それにラベルを貼りつけています。あなたは、どんな言葉とも一緒に生まれてきませんでした。あなたに考える能力が発達する二歳か二歳半まで、あなたはどんな言葉も知りませんでした。そしてあなたは、あなたの周りで両親が言うことを理解し始めました。両親は言葉を話していました。あなたは考える能力を使って言葉の意味を理解して、言葉は物であると思い込みました。純粋な今ここにある意識をそのままにしないで、それをマインドを通して、「私はいる」という言葉に翻訳しました。

今まであなたが話したすべての言葉、これから話すであろうすべての言葉は、あなたが今までに学んで身に着けたものです。

もう指摘したように、あなたはどんな言葉とも一緒に生まれていませんでした。

アダムとイブは天国にいて、言葉を学びました。彼らは善悪の知識の木の実を食べました。それが言葉です。そのため彼らは天国を追放されました。彼らは言葉を学んだのです。それが私たちのやっていることです。

言葉は有害なものではありません。言葉は思考や感情などの働きの一部です。言葉が知る働き(knowingness)を妨げることはありません。顕現は実在ではないということを理解してください。それゆえ仏教徒はそれをマーヤー、幻影と言います。それは錯覚に基づく顕現であり、束の間のものです。それは常に変化しているという意味です。それはまったく留まっていません。彼らは、この宇宙には変化しないものは何もなく、どんな独立した存在もいないということを指摘しています。仏教ではこのことを、概念化されない意識と言います。

言葉が物だと言うならその言葉を見せてください。私たちは言葉を実在だと思い込み、それを調べることをしませんでした。私たちは人という観念を受け入れています。人(person)というのは言葉だということを理解してください。それはpersona(仮面)、マスクという言葉から来ています。私たちはこの概念上のイメージ、マスクを被りました。私はボブ、オーストラリア人、いいやつ、彼らは私が好きではない。これらの思考はすべて、「私」という思考に付け足されましたが、それはヴァイブレーションです。そして私たちはそれに何等かのリアリティを与えようとします。ヴァイブレーション。この概念上のイメージは死んだイメージであるということを理解してください。なぜなら、あなたがそれに付け足したもの、名前、形、観念、あなたの歴史、不遇な子供の頃、憂鬱だったこと、こういったことは過去の出来事や経験に基づいています。もしあなたがそのことを考えなかったら、何が問題ですか? あなたが得たどんなイメージを語ることができますか? それは単にあるがままです。そうではありませんか?

「あるがまま」という意味は、変えることなく、修正することなく、正すことをしないということです。好みや、ひいきや比較が無いということです。あなたは何をしていますか? 言葉を受け入れ、ラベルを貼ろうとしています。

『ボブはここで今一度、私たちの生涯に渡る見る働き、聞く働き、考える働きはいつも自然に起こっていて、それが今や概念上の自己となり、それがすべてを行っていると信じているということを続けて示し、そのことによって、なぜ主体と客体が実在ではないのかということを明確にします』

今や、「見る人」が主体となり、見られるものが客体となりました。でも、見る働き無くして見る人が存在するでしょうか? 主体と客体は単に概念です。実際の機能は見る働きの中にあります。聞く働き、味わう働き、考える働きも同様です。考える働きなくして考える人が存在できるでしょうか? この概念上の考える人がすべてを行っていると考えています。ではどうしてマントラや本や瞑想が少しも役に立たないのでしょうか? 真実は昔から指摘されてきました。でも私たちは決して理解しませんでした。なぜなら私たちはマインドでそれをやろうとしてきたからです。マインドなどというものがありますか? あるいは体は?

私たちのすべての苦悩は、すべてをこの概念上の自己(非実在)に関連付けるために起こります。でも実在は常に一つです。二つではありません。完全な全能の力です。そして今この瞬間、そして今までずっと、あなたはその完全性であり、その同じ力が太陽や月、潮を動かしています。それを認識することで、大きなやすらぎを感じませんか? それはすべてを多様な形で現す力を持っています。もしそれが無かったら、何も現れません。それには内在する知性があります。認識する空(くう)です。認識するのは私たちではなく、この認識する空です。空がそれをやっています。それが認識します。私たちが悲しい時でさえ、この空は完全なものであると私たちは知っています。

私たちの思考は、実体も何もないイメージにすぎません。思考は全く何もすることができません。内在する知性があなたを通して現れ、あなたに向かってかすかに語りかけます。「私はいる」と。私はその本質です。この体ではありません。「空(くう)は形である」と仏陀は言いました。形は空に他なりません。どんな災難、津波もあなたの本質を損なうことはありません。

このスクリーンの上にやって来る像を、やって来ては去るに任せてください。それが起きることを許してください。抵抗したり、改めたり、修正したりしようとしないでください。それはあなたの人生においていつも自然に変化してゆきます。あなたの人生で過去に起こった悲惨な出来事を調べてみてください。そこへ戻らないで、そのままにしておけば、それは去っていきます。

これからあなたが解放される唯一のことは、あなたがそれ以外の何かであるという考えです。

あなたはこの先ただ単に究極のものです。なぜなら、それがあるだけだからです。仏教ではそれを「大いなる完成」と呼びます。あなたは完成に何かを付け足すことができますか? あなたはそれから何かを取り去ることができますか?

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「エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)すなわち、知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではないということです」– Sailor Bob Adamson

認めるべきことは認めてください– Sailor Bob Adamson

もし生命の本質、知性エネルギーがなかったら・・・。死体がどれだけ思考を持つことができるでしょうか?– Sailor Bob Adamson

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About(概略)

1976年、ボブはボンベイのニサルガダッタ・マハラジのもとで12か月間過ごしました。以来何年も何年もの間、数千にも上る探求者が世界中からオーストラリア、メルボルンの彼の家へ、小さなグループミーティングか個人面談のために訪れています。40年に渡りボブは休むことなく電話にも(最近ではスカイプが主ですが)答え続けています。

わずかなポインターで理解して苦悩から逃れる人もいれば、質問が消えて質問者がいなくなるまで何度でもやって来る人もいます。

数えられないほど多くの人が、自分は分離した存在であるという信念の悪夢から覚めて、もう助けが要らない地点を超えて行きました。その多くの人の中には本を書いて自分の言葉で指摘する人もいれば、どこにいようと、他の人と交わって、静かに自分自身でいる人もいます。この明快な今ここにある意識を認識する可能性は今ここにあります。それはまさに私たちの目前にあります。変わることのないベール、過ぎていく思考の下に・・・。それもまた、一つの本質がそれ自身で現れ表現している別のやり方です。

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もしあなたがそのことを考えなかったら、何が問題ですか?-Sailor Bob Adamson

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Meetings

Tuesday evenings – 7:20 pm to 9 pm
Thursday evenings – 7.20 pm to 9 pm
Sunday mornings – 10 am to 11.30 am

「あなたがこの部屋に入る時は、靴と一緒に概念をドアの外に置いてきてください」
-Sailor Bob

自身の本質は何かということを簡単ではあるが効果的なポインターで「(私)だれか」を使って見つけることに興味ある人。40年に渡って、私は心理的な苦悩から解放されていますが、それは調べようとする人なら誰でもできることです。

私は、もうすでにあなたは「それ」であるという事実から始めます。もしあなたが今それを経験できなければ、何がそれを不鮮明にしているかを指摘します。私は、あなたが自分だと思っている概念上の自己(エゴ)を指摘し、それが実在であるかを尋ねます。あなたは自分が誰であるか、もしくは何であるかを知らないかもしれませんが、あなたは自分に意識があるということを知っています。これがあなたが絶対に確かだと思っている唯一のことです。それ以外は単なる信じ込みです。もしそのことを考えなかったら、何が問題ですか?

ボブの家での一対一の個人面談、電話、スカイプの面談も可能です。通常は60ドルのドネーションです。

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contact(連絡先)

もしあなたが一対一の個人面談、電話、スカイプを希望なら、ボブに連絡してください。(Emailボタン)

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ボブ、あなたは今あなたのエゴを使っていますか?

エゴやその他の何かを使う「私」はいません。

エゴは観念、過去の経験や条件付けや記憶から作られた概念上のイメージです。それは存在せず、存在したことも、これから存在することもありません。

自己の中心、あなたがエゴ、「私」と呼ぶものを見つけることができるか調べてみてください。

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あなたは、自分は存在していると信じていますか?
それとも、自分は存在していると知っていますか?

この存在の感覚だけが否定することのできない真実です。その他のことは信じているにすぎません。
– Sailor Bob Adamson

思考には何も悪いことはありません。それはとても役に立つ能力です。しかしそれは二元的に振動します。すべての物事は良いか悪いか、あるいはその間の・・・

問題は思考の内容を受け入れて、私は十分ではない、劣っている、価値がない・・・と信じてしまうことから起こります。

「見解を抱いてはならない」信心銘
それは思考がやって来ないという意味ではありません。
それに執着しないで通り過ぎさせなさいという意味です。
– Sailor Bob Adamson

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Videos(ビデオ)

最新の日曜日のミーティングのFacebookでのライブ放送の録画が、直接参加できない人のためにYouTubeチャンネルにあります。Bob's YouTube チャンネルはこちら

それでも、直接のやりとり、並外れたポンターの波に浸ること以上のものはありません。

最近のビデオ(画像)

「あなたは決してマインドの中に答えを見つけることはありません。マインドにとって、今ここにある意識は無です。それにはどんな形も姿も、始まりも終わりもありません。何か探すものがある、誰か探す人がいるという考えは時間を意味します。時間はマインドです。あなたはマインドの中に答えを見つけることはありません」
Sailor Bob Adamson

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Books

多くのライターがボブの教えに触発されて、それぞれ独自のやり方で教えを紹介しています。また、ある人たちは彼の話しを書き起こして世界中の人々に提供しています。

ここにあるのはそのうちのいくつかで、著者には著作権が与えられています。

本             キンドル          
   

本             キンドル
  

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改定前のセイラー・ボブ・アダムソンのホームページから

引用元は2019年2月改定以前の(現在閲覧不可)セイラー・ボブ・アダムソンホームページです。

ここには何も新しいものはありません。ここにあるポインターは昔と変わらない古くからのものばかりです。それでもあなたがしっかり理解すれば十分に役に立つでしょう。
                              -Sailor Bob Adamson

入門講話

真実、実在、神、何と呼んでもいいが、もしあなたがそれを探しているのなら、あなたが確信している唯一の事実から始めることを勧めます。それはあなた自身の存在です。ここに座っている人で、「私はいない」と言える人はいません。我々は皆、(私はいる)と知っていますが、(私はいる)という思考は実在ではありません。その思考は、あなたがマインドを使ってそれに近づくことができる一番近い場所です。

その(私はいる)は、それが実在するという感覚、実在する意識(アウエアネス)、その意識(アウエアネス)の実在をマインドが、翻訳したものにすぎません。それが、私たちが確信している唯一確かなことです。誰もどんな状況でも「私はいない」とは言えません。その感覚はいつも私たちとともにある。それゆえ、あなたはもうあなたが探しているものなのだと言えます。

ここで話す事は古くから語り継がれていることに基づいています。アドヴァイタでは、例えばそれを非二元、他には何もない一つのものといいます。他には何もない一つのものという表現は、一つでさえ、他に何かあることを暗示しかねないからです。ゾクチェンの聖典ではそれを、概念化されない、自ら輝く、永遠に新鮮な今ここにある意識、ただそれだけといいます。そしてあなたが彼らの言うことを調べてみれば、それはあなた、私、すべてのことを言っているとわかるでしょう。

その、今ここにある意識は概念化されません。あなたはそれに対して概念を持たない。それには始めもなければ終わりもないがゆえに、常に新鮮です。それは太陽のごとく、自ら輝く。それは自ら光を放つ。それは(私は光っている)というために光を必要としません。それがここにあるものであり、あなたが逃げ出すことができないものです。あなたは今ここにある意識から抜け出すことはできません。
あらゆる伝統によれば、それは偏在、全知、全能です。それはすべての存在、すべての知、すべての力です。これは時代を超えて常に指し示されてきたことで、何も新しいことではありません。これは明白で明快、単純そのものです。一つのものということほどわかりやすいものはないのですが、それでも私たちは見逃してしまう。私たちは答えをマインドの中に探してしまうために、ただ単順に見逃してしまう。
 マインドの中を探してみれば、マインドとは時間のことであり、時間は決して偏在ではないとわかるでしょう。(今ここにある)という概念さえ、そのもの、つまりは実際のそのものではありません。今ここにあるという概念は時間であり、過去、現在、未来に属するからです。
何か見つけるものがある、誰か見つける人がいるという考えそのものが時間を意味しています。時間はマインドです。それゆえあなたはマインドの中に答え見つけることができません。それはいかなる形もいかなる姿も持たず、いかなる時間も空間も持たず、始まりも終わりもない。それゆえ、それは物ではありません。それは「空」と呼ばれています。
マインドは物ではないものを理解できません。それは物ではないものを嫌う。マインドはそれ自体が物であり、二元的です。マインドはいつも物事を反対の物に分割する。それは物ではないものを把握したり理解したりすることはできません。実際のところは、あなたたちが間違った方向を探してきたということでしょう。あなたたちは皆知性的な人たちですが、何年もかかって探してきたに違いありません。

あなたはマインド中のたくさんのことに働きかけてきたに違いないが、それでも見つけることができないでいます。なぜならあなたはそれを何か本で読んだり、人から聞いたりした感覚や概念、考えのようなものだと思っているからです。人々は何か似ているものを探して、何もない状態を見逃します。
  あなたは自分で調べなければなりません。それを調べて理解しなくてはいけません。例えば、私とはこの体のことだろうか? この体は何でできているのか? 調べて考えてみると、それは基本元素のかたまりにすぎないとわかります。その80%は水です。そして空気、空間、成分、火。それは基本元素にすぎません。

そしてその基本元素を分解すると素粒子となり、さらには何もないところまで分解できます。さらに調べてみるとあなたは基本元素から切り離せないとわかります。この体は基本元素です。体は基本元素から分離できません。空気無しでどこまで行けるでしょうか。水無しで、空間や体温(火)や成分無しでどこまで行けるでしょうか。
私は「神」や「至高の」という言葉を使いたくありません。ただ単に神が何であるか、何ではないかについて皆さんが異なる概念を抱いているからです。不可知論者や無神論者ならまた別の概念を抱いているでしょう。私は「知性エネルギー」という言葉を使います。しかし私が言っているのはあなたの知性のことではありません。なぜなら人の知性には様々な異なる度合いがあるからです。
私が話しているのは宇宙を機能させている知性のことです。惑星が地球の周りの軌道を回り、ガスから作られ形状を保っているという事実そのものが知性を暗示しています。季節がやってきては去ることはそこに知性を暗示させます。詳しく調べてみてください。それが今あなたの心臓を鼓動させ、髪や爪を成長させ、食べ物を消化し、体の細胞を入れ替えています。
この体の様式や機能は、驚くべき知性が体を通してそれを表現していることを暗示させます。そしてそれが実はあなたであり、あなたはその知性エネルギーなのです。それがあなたを形作り成長させ続けている。それがあなたの体の細胞を置き換え、宇宙と同じように他のことも極めて自然に行っています。しかし、その自然な状態はマインドの理由付けや機能によって見かけ上は雲に覆われています。
体を調べて分析してみてください。この体の中には「これが私だ」と言えるような中心はありません。精子と卵子が結合してそれは始まりました。もしこの体に中心があるのなら、きっとそれが最初の細胞でしょう。でももう長く時が経っています。今この瞬間にもこの体の中でたくさんの細胞が死に、生まれ変わっています。
もう一つの疑問は「私はマインドなのだろうか? その実在の感覚がマインドを通して表現している原初の思考(私はいる)が私なのだろろうか?」ということです。思考を調べてみてください。思考とは別にマインドがあるでしょうか。マインドは思考です。

思考とは何でしょうか? 精妙なレベルでは思考は非常に精妙な振動です。話し言葉のレベルではそれは音です。音は振動であり、振動はエネルギーの動きです。それは同じものです。あなたの知性エネルギーに対する分析はまだ十分ではない。もう一度調べてみると、それは常に相互に関連する反対の極へと振動するのが真実だとわかるでしょう。

もしそれが過去、すなわち記憶でないなら、それは期待であり想像、すなわち未来です。その範囲内で、それはいつも反対の極へと振動しています。善と悪、快と不快、幸福と不幸、愛と憎しみなどすべてにおいて。あなたのマインドを調べてみてください。それは常にそのパターンで振動しています。それ以外の動きをするかどうか見ていてごらんなさい。

思考はそれを利用する時には素晴らしい道具であるとわかるでしょう。その動きは非常に機械的です。生まれたばかりの子供はまだ自然な状態にあり、自然の機能が働いています。お腹が空けば泣く。気持良ければ喉を鳴らす。何の心配もせず排便や排尿をする。それは食べ物が消化されるのと同じで、自然に起こっていることです。
体を動かし、手や腕を動かし、あらゆる動きをする。この段階ではそれが自分に起因する(自分があれやこれやをやっている)とは考えていません。考える力はまだありません。体が成長するにつれて、それが働き始めます。親は言います。「おまえの名前はジョニー、お前はいい子だ、おまえは悪い子だ。おまえはあれこれだ」と。
子供はそれを聞いて理解し始めます。言葉の意味や思考とは何なのかを学び始めます。教えられたことを解釈してラベル貼りをします。やがて、親が話しているのは私、(「これが私。私はジョニーだ」)のことだと理解するようになります。それまではただ「かわいいジョニー」だったのに。
「私」「自分」という概念がわかるようになると、マインドは当然反対の極へと働きます。「私や自分の反対は何だろう? 私の他に自分以外の誰かがいるのだろうか?」と。以前はまったく区別なく見ていたものを区別して見るようになる。それはかっては単に見る行為そのもの、聞く行為そのものだったものが今や、「私」や「自分」という考えが浮かぶようになり、「私ではない」「自分以外」ということを理解し始め、分離を感じ始めます。
分離の感覚とともに、不安や弱さが生まれ、この時から人々の探求が始まります。なぜなら不安や弱さは幸福ではないからです。それは完全でも一体でもない。自分を完全で完璧なもの、もっと安全で傷つかないものにしようと探求が始まります。当然、親たちはそれを調べようとも理解しようともせず、社会も国家も同様なので、探求は「どこか遠くへと」向かいます。

思考の雲が形作られる前の自然な状態、それがあなたなのですが、誰もあなたに対して「内側を見ろ」「あなたの本質の自然な状態に留まれ」とは言いません。
私たちの問題はすべて、不安と弱さから来るとわかるでしょう。分離すなわち自分が分離していると感じるかもしくはそうであると信じる以前の幼いこどもは不安も弱さも感じることもありませんでした。

今子供はそれを感じ、自分の周りに暖かくて愛情深い家族が欲しくなった。もし暖かくて愛情深い家族がいれば、もっと安全で傷つきにくくなるだろうと感じます。かつて家族は部族を形成していました。自分の部族が大きければ大きいほど、より安全で傷つきにくいと感じていました。今日では、ただ単に隣国の支配を受けるのではないか、財産などを奪われのではないかという不安や恐れから国家間どうしで戦争をしています。

そうでなければ、「自分は不安で弱いから先に攻撃して相手を支配することで強くなろうと、先にやっつける」ということになります。これはすべて自己中心によるものです。しかし、自己の中心というものはありません。自己の中心、すなわちエゴは私たちのあらゆる問題の元凶ですが、それはフィクションです。

幼い子供は「私」という思考にあらゆる出来事や経験、条件付けを結びつけます。それは観念的な概念にすぎないのですが、自分自身の像をその概念の上に築いてしまいます。自分は幼いジョニーで、ずっといい子にしていたとか、悪い子だったとか、誰かに何かを言われて恥ずかしかったとか罪悪感を覚えたとか怖かったとか考える。これらの概念はすべて具体化するように感じられます。
 それは現実となり、すべての物事が関係する基準点(「私」すなわちエゴ)となります。何かが、自分自身に抱いているイメージであるこの基準点に触れ、それが自身のイメージと合わないと、それを嫌うことになります。また、別のものがそのイメージに触れ、それが自分のイメージ通りなら、それが好きになり、もっと欲しくなります。

嫌いなものは拒否して逃げ出そうとするために葛藤が生まれます。私たちのすべての問題は自己の中心という存在を信じることから始まります。すべては自分たちが信じ込んでしまった間違ったイメージと関係しています。信じるエネルギーがそれに流れ込み、習慣的に信じることでそれを見かけ上現実的で強固なものにします。

しかしそれは現実ではなく、力も持っていないために強固なものではありません。それを調べて、体の中に「これが私だ」と自分で言える場所などないことを理解してください。自分自身に抱いているイメージが実体のないものだということを理解してください。それはまったく強固なものではないが、見かけ上は確かなものに見えます。

あなたは決してしっかりとそれをつかまえることはできません。思考をつかまえようとしてみてください。何より重要なことは、それには独立した実体がないということです。もし知性エネルギーすなわち意識の存在がなかったら、その思考もイメージも存在できません。

私はこれを知性エネルギー、アウエアネス(意識)コンシャスネス(意識)もしくはスピリットと呼びます。それは私が貼り付けたラベルです。しかし、ラベルはそのものではありません。私は様々な名前、すなわちラベルでそれを呼びますが、そのどれもが完全には合致しません。

あなたはその知性の働きなしに、ひとかけらの思考を持つこともできない。それゆえ思考は独立したものではなく、それ自身では何の力も持ちません。それが、私たちがとらえられてきたものです。(実体のある独立した自己の中心、すなわちエゴという間違った考え)それは何か実在しない見せかけのようなものです。

なすべきことは指摘されたことを調べてみることです。自分で自問して調べて確かめてください。調べてみて、実体のある独立した何かが見つかるか確かめてください。そうすればこれには20年、10年、5年とはかからないとわかるでしょう。時間は全くかかりません。見る(seeing)のは今ここです。即時です。それは今までもそうだったし、これからもそうです。なぜならまったく時間など存在しないからです。
探求そのものが罠だということを理解してください。なぜなら探求するということは、そこに何者かになる存在がいるということを意味するからです。何かになるということは、いつか未来の時を意味します。それは実在(being)ではありません。私たちは我々のことを人間(human beings)と呼び、神のことを(Supreme Being)と呼びます。

その二つのラベル(human and Supreme)取って、その実在(beingness)を分割しようとしてみてください。私はここにいるこの実在(being)をボブと呼び、そこにいる実在をジョアンと呼ぶでしょう。みんなが座っているものを椅子と呼ぶ。しかし、そのラベル全部を取り去ったら何が残るでしょうか。
根底すなわち土台は実在(being)であり、それが形作られ現われてパターンや形となります。しかし、パターンや形は見せかけにすぎません。その本質はやはりエネルギー(pure being)が振動してパターンとなったものです。どこへも行く必要はないし、どこかへ行く誰かがいるわけでもありません。得るべきものも、それを得る人もいないのです。
これを理解した時に最初に起こる疑問は、「でも、どうやって生きていけばいいのか」です。あなたは以前と同じように生きていけばいい。いかなる実体も独立した個人もいないと理解した今、どうしてかつて一個の存在だったと言えるでしょうか。いかなる実体も独立した個人もいないと理解した今、ずっと信じてきたものが実体ある独立した個人だったといえるでしょうか。
また精子と卵子に戻りましょう。あなたはそれ以前の、父親と母親の食べた食べ物のエッセンス本質)にまで遡ることができます。そしてまたその食べ物が育ったエッセンスにまで遡ることができます。それには始まりがありません。精子と卵子が一緒になり、細胞が二つに分裂し、再分裂を繰り返し、小さな胚となり胎児へと成長して幼い子供となります。

そこにはそのどれかをやっている誰かがいたわけではありません。生まれて最初の呼吸をした時も、そこには誰もいませんでした。論理的思考がやってくるまでは、そのような誰かはいませんでした。論理的思考がやってきた後でも、誰もいないこともありました。だとしたら、それはフィクションであるにちがいありません。

いいですか、命は生かされています。今ここにある意識がエネルギーのパターンとなって現れています。それは今ここにある意識、本質、多様性です。私たちそれぞれ皆の人生で、誰も自分で人生を生きてきた人はいません。命は自らそのように生き現れています。

それは私たちを表面上間違った考えに導いているように見えるかもしれません。しかし、それを調べてみることによって、それが簡単に私たちを間違った考えに導いたように、今度はそれが間違った考えであると導くことができます。私たちは実在すなわち本質、何と呼んでもいいが、それが投影されたものと自分を取り違えています。
 その間違った考え(一人の私)のせいで、いわゆる人間の苦悩があります。恐れを抱くのは「私」だけです。心配するのは「私」だけです。怒ったり、ひどく自己憐憫になったり、不安やストレスで疲れ切ってしまうのも、この「私」だけです。絶えずそれを信じ続けることで、それは雪だるま式に大きくなり圧倒的なります。

しかし、その苦しみは必要ではありません。「私」がすべての問題の原因であることを理解してください。それゆえに、ストレス、心配、自己憐憫、後悔、罪悪感、恥ずかしさが起こってきます。それを克服しようと、何かをしたり、何とかしてそれを取り除こうとしたりします。

でももし、その原因がフィクションであると理解したら、そうなれば原因がなければ結果はない。そうなれば信じるエネルギーは現実や、何か実在や独立した個人がいると信じる私には向かいません。すべての現われがエネルギーで、そのエネルギーがもはやあるパターンに注がれないなら、そのパターンはどうなりますか?そのパターンは自然に消えていくのではないですか?
ここでの経験がそれを裏付けています。私は自己中心的で感情的で心理的恐怖や心配やストレスでいっぱいでした。しかし今日、そしてもうずいぶんと長い年月そうではありません。それは私が感情や思考のないゾンビだという意味ではありません。他のあらゆる活動や機能はそのままで、見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐこと、考えること、感じること、肯定的否定的思考も対極的に働いています。

感情も問題もあるがそれにとらわれることはありません。悩まされることもない。雲が空に留まることがないように、それはやってきて、役目を終えたら去っていきます。雲は空に現われ、役目を終えたら去っていく。雲は空に貼りついてはおらず、太陽も決して落ちてはこない。それはいつも、そしてこれからも自ら輝き続けています。

太陽が雲を起こし、太陽が雲を吹き飛ばしています。同様に、あなたは思考が知性エネルギーの働きに他ならないということを理解するでしょう。思考は何物にも付着していません。その事実を知れば、思考は立ち去るでしょう。命は自己の中心なしで機能し続けています。
                          – Sailor Bob Adamson

引用

「自らの自然な状態を思い出してください。基準点(自己の中心)を持たず、いかなる実体も独立した存在形式も持たない、純粋で、偏在、空間のような、現われ続ける、自然な今ここにある意識を。自然な状態(顕現と空、空間と内容物の統一体)を思い出さなければ、錯覚が起き、見せかけへの執拗な固着、私と他者、うわべの二元性、が起きます。固着がなければそこには自然な状態としての自由があり、錯覚は消え均等性(非二元)が残ります。それは自然な状態であり、それがあるだけで、他には何もありません。自然さ(平静)として自然に残るのは、誰にも何に対しても瞑想することのない自然な(努力の要らない)瞑想です。何かを得ようとしたり避けようとしたりすることのない、今までもずっとそうであった努力の必要のない実在。それを何度も何度も繰り返し思い出してください」
                               Sailor Bob Adamson

「いまここにある意識を調べてみる時、見る「物」はなく、ただ自然な概念化されない見る行為そのもの(seeing)だけがあり、実際そこには主体も客体もありません。これを調べてみるとき、 awareness(意識)、consciousness(意識)、マインドとラベルが貼られているものには、主体も客体も現われないということはすぐに理解できます。主体も客体も空(くう)であり、空が見ているのです(認識する空)。空は空によって空(から)になることもなければ、空で満たされることもない。その概念を取り去ると、言葉も思考もない、形容することのできない空が残ります。真空でも空白でもなく、まるで晴れ渡った空いっぱいの光のような、生き生きとして自ら輝く、自らを認識する空。それを自分で確かめてください。あなたの他には誰もそれはできません。それは自明のことです。見ること(seeing)は絶え間のないことだということを理解し続けてください。あらゆる疑い、疑問や議論、概念上の探求者がまたやってくるでしょう。それでも概念化されない空は平穏なままだということを理解してください」
Sailor Bob Adamson

「二元的な思考を信ずることは問題です。非二元の意識に二元性はそのように現れるしかありません。一体、非二元の中にどんな二元性があるというのでしょうか?」
Sailor Bob Adamson

「(あなた)が考える(あなた)という存在は幻影です。何か、もしくは分離した誰かとしての(あなた)がいるという考えは、何か周知のことを受け入れたり拒絶したりする原因となります。幻影が自らを欺く話をする。知る人と知ることというのは、自然な概念化されない知る行為そのもの(knowing)を見かけ上分割した概念にすぎません。(私はいる)という思考を信じることは、絶えず変化し続ける客体としての世界に見せかけの現実味を与えますが、それでもすべては本質においては変化することのない自然な知る行為そのもの(knowing)に他なりません。思い起こし、思い出し、さらに思い出してください。私はそれであり、それが私です( I am That I am.)。それは意識。誰に対してどんな活動、思考、出来事や事件が起こるというのでしょうか。出来事や活動はあたかも草が自然に生えるように、誰が優っているとか劣っているかではなく、そういうふうにしか起こりようがないということを理解してください。自ら働きかける知性エネルギー、まさにそのもの、それ以外のものではありません。自ら輝く今ここにある意識は努力の結果ではありません。その意識が突然そこにあることを期待して何かをする必要があるわけではありません。今ここにある意識はあなたが気づいていなくても、うわべ上見えなくても、いつも今ここにあります。それは作り出したり破壊したりする何かではありません。概念上の思考は雲のようなもので、見かけ上では太陽を見えなくします。概念化されない自然な状態でくつろぐのはいつも今ここにある意識です。何度も何度も何度も思い出してください。何が現われようが消えようが、それを認識することはいつもそうなのです。自ら認識し、自ら輝く。ただそれだけ、他には何もありません」
Sailor Bob Adamson

「意識(awareness)は、それ自身で存在するものであり、それを手に入れたり無くしたりするための努力や誰かを必要としません。自然な状態は決して失われない。それは見せかけではないので消えたりしません。それはいつも変わらない。それは物ではない。概念上の考える人や概念上の思考は概念化されない自然な状態を見かけ上で見えにくくしてしまうということを理解してください。ほんの一瞬でも思考を止めてみれば自然な状態は全く明白です。止まって見てください。その見ることの中で純粋な意識が姿を現します」
Sailor Bob Adamson

「知性(knowing)で満ちた空というのは有効なポインターや説明になりえます。しかし覚えておいてください。説明は決して説明そのものではありません。このポインターは、そこにこの自然な空が実際に認識できるかを探したり見たりする時にのみ有効です。すべてのものがこの自然な空からやってきて現われ、戻っていく。やってきては去っていくものは一時的なものですが、この認識する空、空なる存在は来たり去ったりしません。空なる存在はそれ自体がものではありません。それは決してもので満たされたり空になったりしません。なぜなら、空に現れたものはそれ自身独立した実体あるものではないからです。そしてまた実在の世界では物もまた空であり、物として現れているだけです。認識できるものはすべて空です。この自然な状態以外に、いわゆる(見る人)を含めて何かがいると信じた場合にのみ問題は起きます」
Sailor Bob Adamson

「主体、客体という思考は自然な状態(awareness)を覆い隠します。アウエアネス(意識)無くして思考は起きません。というのも、思考は意識の中に現れるからです(雲が空に現れるように)。思考も本質はアウエアネス(意識)だということを理解してください。これを理解すれば、思考がアウエアネス(意識)を覆い隠すことはなくなります」
Sailor Bob Adamson

真理や真実は蓄えたり、蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできない。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。昨日理解したことは少しも役にたちません。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)、すなわち知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません」
Sailor Bob Adamson

「あなたはあなたが世界と呼ぶものの夢を見ているということを理解して、出口を探すのをやめなさい。夢があなたにとって問題なのではありません。問題はあなたが夢のある部分が好きである部分が嫌いだということです。全体を好きになるか全部を嫌うかして、不平を言うのをやめなさい。あなたがその夢を夢だと理解する時、あなたのすべきことは終わります」
Sri Nisargadatta Maharaj

「利己的執着なしに生きることを学びなさい。そのためには、あなたは自分の本質が不屈の恐れを知らない永遠の勝利者でありことを知らなければならない。あなたの想像以外に何もあなたを悩ますものなどないと絶対の確信をもっていったん知ったなら、あなたは欲望や恐れ、概念や思考にとらわれることはなく、真実のみに生きる」

Sri Nisargadatta Maharaj

このパンフレットは2014年11月にセイラーボブの家を訪問した時にもらったパンフレットです。同じ内容がセイラー・ボブ・アダムソンのホームページにもありましたが、2019年1月にホームページのデザインが変わって内容が変わりました。今はここにある文章は一部しかホームページにありません。

Sailor Bob Adamson
セイラー・ボブ・アダムソンは世界で最も重要な非二元の指導者の一人と言われています。簡潔、明瞭、直接的な教えで知られ、暖かく慈愛をもって直接ハートに話かけます。

ボブ自身の探求は、1976年に、彼の最後の師であるシュリ・ニサルガダッタ・マハラジ(I am that)のもとで終わりました。以来、オーストラリアや国際的に人々に教え続け、現代の非二元の発現に対する彼の影響は広く知られるところです。

ボブは、多くの書籍、DVD、CD、YouTubeやポッドキャストを用意して、メルボルンの自宅で開かれる週三回のミーティングで世界中からの訪問者を引き寄せています。

ミーティング
※季節や状況によって変更になる場合がありますので、セイラーボブのHPで確認してください。
Tuesday 7:30 pm to 9 pm
Thursday 7.30 pm to 9 pm
Sunday 10 am to 11.30 am
Unit 4,
950 Burke Road,
Deepdene, Victoria 3103

真理真実を蓄えておくことはできない
真理や真実は蓄えたり、蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできません。
どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。

昨日理解したことは少しも役にたちません。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。

エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。

理解する行為そのもの(understand-ING)すなわち、知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではないということです。

自然な状態は全く明白である
概念上の思考する人や思考が非概念的な自然の状態を不鮮明にすることを理解してください。考えることをやめると、たとえそれが一瞬であっても、自然な状態が明らかになります。停止して見てください。その見る行為そのもの(see-ING)の中で、むき出しの意識がはっきりします。


あなたは、私は理解したと考えているのは誰かという謎を解くまでは、理解したとは言えない。
                       シュリ・ニサルガダッタ・マハラジ

すべてをそのまま認識しなさい
その本質(エッセンス)がすべてをそのまま理解、認識しています。概念、思考、活動、何が現れようと。 
ボブ・アダムソン

「あなた」という存在は想像の産物である
「あなた」が存在するというのは錯覚です。
「あなた」という存在は想像の産物です。
知る人と知られる者は単なる概念にすぎず、それが自然な概念化されない知る行為そのもの(know-ING)を見かけ上で分割しているものです。

"I am"「私はいる」という考えを信じることは、常に変化し続ける対象としての世界に見せかけの現実味を与えます。
それでも本質においてすべては変化することのない知る行為そのもの(know-ING)なのです。

あらゆる概念や思考も含めて、すべてはエネルギーの振動にすぎません。

概念もまた、ただそれが概念として現れたものにすぎません。
体もまた、ただそれが体として現れたものにすぎません。

あなたは非二元の明快さから逃れることはできません。
それがすべてです。
ただそれだけです。
ボブ・アダムソン

今ここにある意識
私は体に話かけているわけでもなければ、
マインド(思考)に話しかけているわけでもありません。
私はあの"I am"(私はいる)に話しかけているのであり、それは私でもあります。
マインドを通して、"I am"(私はいる)という思考となって現れる今ここにある意識に話しかけているのです。
ボブ・アダムソン

これがその現実です
これがその現実です。それはいつもこの瞬間の現実であり、その他のものはフィクションです。私たちが付け足したり、取り除こうとしたりするものが、それを過去や未来のことのように見せかけるかもしれませんが、現実の生(living-ness)は今ここです。
ボブ・アダムソン

すべては純粋なエッセンスの中に現れる
すべてはそのむき出しの意識の中に現れる。
それには姿形がなく、境界も体積もないが、真空や空虚というわけではありません。それは、そこからすべての見せかけや可能な事柄が振動して顕現となる究極の潜在性です。それらすべてが見せかけである一方で、本質においてはそれらの本質は決して変化しません。
ボブ・アダムソン

参考:ここに掲載したもののいくつかは、前の前のセイラーボブのHPにあります。

2018/11/22

セイラー・ボブ・アダムソン 資料室

セイラーボブ最新情報
  セイラーボブのホームページ
  セイラーボブの YouYube
  セイラーボブの Facebook
2021年1月までの経緯
・2020年3月末から Facebook経由にて無観客ミーティング配信(毎週日曜日)。
・2020年初め カタリーナがセイラーボブのパートナーとなる。
・2020年末  サビーナのYouTubeからセイラーボブ関連の動画が削除された。(当サイトのSpielのYouTubeが消えたままになっているのはそのためです。)
・2019.2.18      セイラーボブのHP全面改訂。本の販売はアマゾンにリンク。
・2019.1.23  セイラーボブのHPの写真やデザインが一部変更された。写真が最近のものになり、推薦文ができた。ミーティング日時は以前と変わらず。
・2018.12.23  カリヤニからメール。カリヤニが自宅と町でやっていたミーティングを終了し、不定期とする旨。
・2018.12.21  セイラーボブのサイトで販売されていた本とDVDの販売がなくなった。(カリヤニのFacebookから)現在のサイトの管理者は不明。販売停止の理由も不明。
・2018.7     カタリーナの補助でミーティング再開。
・2018年6月頃 人口股関節手術のためミーティングを一時期休止。

動画
ミーティング
・2018年8月以降はこちらのサイト(Sailor Bob Adamson)で見てください。現在は週一回、日曜日のミーティングがYouTubeで配信されています。
2019.12.7追記:ミーティングの動画の配信は、ミーティングの参加者が8人以上いないと、配信しないことになったそうです。ミーティングに来ないで動画を見て終わらせる人が増えたのですが、セイラーボブは出来れば直接みんなに来てもらって直に話しかけたいからだそうです。
・2018年7月以前のミーティング動画
・2018.7.31 ボブspiel90分☆☆
・2018.7.28 ボブspiel90分☆☆
・2018.7.27 質疑応答分90
2018.7.27 ボブspiel90分☆☆☆
・2018.7.25 ボブspiel90分・病気明けミーティング再開☆☆

・2018年6月ごろ、ボブが休んでいた時はカタリーナがミーティングを開いた時期があります。その動画は Sailor Kat(YouTube)もしくは、カタリーナのFacebook の動画の最初のころにあります。カタリーナは2018年6月頃からFacebookでミーティングのライブ配信を始め、翌日にはカタリーナのYouTubeチャンネルで動画を公開しています。YouTubeには自動字幕機能がありますが、Facebookにはありません。

・2016年~2017年ごろのミーティングは、サビーナがFacebook で不定期に生中継配信していました。サビーナの Facebook では45本(90分)のミーティング動画を見ることができます。そこではまだまだ元気旺盛なセイラーボブを見られます。
また、サビーナのYouTubeチャンネルには、音声だけのものもあります。
2020年6月追記:サビーナのサイトからセイラーボブ関連の動画が削除されたため、現在は閲覧不可。

・2016.4.7 高画質高音質 67分(2019年2月に公開された)
・2015.3.12 ボブspiel 30分☆☆☆

・2014年11月から2015年3月(私が一回目に行った頃)は、ギルバートがICレコーダーに録音してボブ宅のパソコンに保存していましたが、公開されていないと思います。

・2012.2.29 ボブ、ジョン・ウィーラー90分☆☆☆
・2012.2.6 ボブspiel 90分☆☆☆
・2008.9.2 spiel 33分 字幕なし

その他
1998年アムステルダム、TVインタビュー(日本語翻訳付き)
セイラーボブ80歳の誕生日

関連サイト
セイラーボブのサイト
Sailor Bob Adamson-YouTube(Katargyna主催・ミーティング翌日に配信)
Sailor Bob - Nonduality Melbourne(facebook)
カリヤニとピーターのサイト(NONDUALITY AUSTARALIA) 
・ピーターのYouTubeチャンネル
・カリヤニのYouTubeチャンネル
ギルバート・シュルツのサイトSEEING-KNOWING
ギルバート・シュルツのサイトthe urban guru's cafe(非二元論関連) 
You Are Dreaming (Randall Friend)
マーク・ウエストのサイト
SabineのYouTubeチャンネル(ボブや他のアドヴァイタ関連あり
Sabineのfacebook
Kataryna のfacebook(2018年10月現在、毎週ボブのミーティングをライブ中継) 
resonanz360塩人間の海底探検 (セイラー・ボブ・アダムソン入門講座)
セイラーボブの古いHP(linkが参考になる)
ジェームズ・ブラハのサイト
高木悠鼓さんのサイト(シンプル堂へようこそ)
高木悠鼓さんのブログ(シンプル道の日々)
アセンション通信館(パリトーショさんのサイト) (Living Realityの紹介翻訳ありNo.442~520)
Advaita通信(アドヴァイタの概略を学べる)
・ニサルガダッタ・マハラジの弟子の系図
Advaita Vision(アドヴァイタのあれこれがわかる)
非二元とは

書籍(ネット上で購入可能なボブの本)
 セイラーボブの本では繰り返し同じ内容が語られているので、たくさん読むよりも、どれか一冊をしっかり理解して読んだほうがよいと思います。
What's Wrong With Right Now?(ギルバート・シュルツ編纂 講話集) ボブの最初の講話集。2001年出版。
Presence-awareness: Just This And Nothing Else(ジョン・ウィーラー編纂講和集)  ボブの二冊目の講話集。2004年出版。
Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition) 2004年にジェームズ・ブラハがセイラーボブを5週間アメリカに招き、その様子を書いたもの。2006年出版。ボブとの対話が正確に記載されていて、ボブの教えを詳しく知ることができるうえ、ブラハ自身の解説もあり、読み物としてもおもしろい。ボブの教えの全体を理解するにはこの本がベスト。
Only That: The Life and Teaching of Sailor Bob Adamson(日本語版は「ただそれだけ」)2010年出版。
ただそれだけ―セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え 前半がボブの伝記。後半は教えになっている。2011年出版。
A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Laery編纂 ボブの言ったフレーズ(ポンター)集。ボブや家の周りの写真集にもなっている。2013年出版。
SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality 2021年9月出版。ボブのポインターにカットが説明文をつけたもの。ボブの教えがぎっしり詰まっている。感想はこちら

アドヴァイタ・仏教関係の参考文献

2018/11/21

セイラー・ボブ・アダムソン 用語集

awareness(アウエアネス・意識)
 それは私たちの意識。日常に普通にある意識のこと。思考や記憶の背景にある意識のこと。私たちは、それを個人の意識だと思っているが、個人の意識というものはない。そのアウエアネス(意識)の中に世界が現われる。あなた、私、机、椅子、太陽、星、銀河、すべてのものが現れる。
「意識」という日本語を英語に訳すと、consciousnessもしくはawareness です。「意識を失う」「意識が戻る」などという場合は英語ではconsciousnessなので、日本語の「意識」はconsciousnessに近い。一方awareness とぴったりと同じ日本語はないが、意味としては、何か外的なものに気づいているような状態のこと。ボブが使っている意味としては、「主体のいない気づき」「意識している人のいない気づいている意識」というような意味。私はこれを「気づき」と訳してしまうと、どうしてもそこに気づいている人がいるような誤解を与えてしまうので、「意識」と言ったほうがわかりやすいと思っています。
consciousness 
 意識。英語では「気を失う」「意識がある」の場合はconsciousnessを使い、外的な物に気づいているような場合にはawarenessを使うが、 セイラーボブは awareness (意識)とほぼ同じ意味で使う。2019.1.20のミーティングで(37分ぐらいから最初の質問に答えて)ボブは、「二歳になる頃言葉を学ぶとconsciuosness が言葉とともにやってくるが、それまでは awareness があるだけ」と言っているので、人が言葉を介して使う意識を consciuoness と呼び、宇宙に偏在する意識をawarenessと呼んでいる。言い方を変えると、ものごとすべてが現象となって現れる空間をawarenessと呼び、その空間に現れる私たちの意識をconsciuoness と呼んでいる。ただし、人を基準点にして考えると、awareness=consciuosness=言葉。
セイラーボブがawareness(アウエアネス・意識) を呼ぶ、別の呼び方
・intelligence energy(知性エネルギー)
・cognizing emptiness(認識する空)
・space もしくは space-like awareness(空間のような意識)
・nothing(「無」あるいは「空」)
presence-awareness(いまここにある意識)ゾクチェンの言葉。さらに付け加えて、non-conceptual, ever present, self-shining, one without a second, just this nothing else(概念化されず、永続で、自ら輝き、他に何もない、ただ何もないもの)という時もある。
・omnipresence, omniscience, omnipotence(偏在、全知全能のもの)聖書から
Advaita(ヒンズー教)ad=not, vaita=two 二つではないもの
non-duality(非二元)advaitの英語訳
・one without a second アドヴァイタ(他に何もない一つのもの・mahavakyasより)
・not two
sat-chit-ananda =being存在-awareness意識-loving愛(ヒンズー教)
・刀でも切れず、火でも燃やせず、風でも干からびさせず、水でも溺れさせることができないもの(ヒンドゥー教の聖典バガヴァッド・ギーターから)
シバのダンス
 (ヒンズー教)この世に現れるものはすべて神の遊び、気晴らし。神が無知を装って様々な形となって現われ、ふたたび自分を再認識する様子を言う。実際には何も起こっていない。エネルギーのパターンが現れているだけ。
・non-conceptual awareness(概念化されない意識)
・naked awareness(むきだしの意識)
・seeing(見ること)五感はすべて自然に起こるアウエアネスの現われ。
・hearing(聞くこと)そこには見る人も聞く人もいない。
・smelling(かぐこと)
・touching(触れること)
・tasting(味わうこと)
・being(本性・本質)もしくはbeingness 我々の本性は意識(アウエアネス)
・wakefulness(起きている状態)
・timeless spaceless bodiless mindless birthless deathless pure presence awareness(時間もなく空間もなく体もなく思考もなく死もない純粋な今ある意識)
・natural state(自然な状態)
・screen(映画のスクリーンがアウエアネス(思考)で映し出される映画が世界の例えで使う)
・mirror(鏡がアウエアネス(意識)、映し出されるものが世界の例えで使う)
・sun(太陽がアウエアネス(意識)、雲が思考の例えで使う)
・クンダリーニ(クンダリーニエネルギーもアウエアネスの現われ)
以下は「ただそれだけ」中で使われている表現
・それ
・偉大なる完全さ
・非概念的意識
・思考が現れ、それ自身を信じ始める前の空っぽさ
・穢れのない原初のもの
・偏在、全能、全知であるもの
・思考によって分断されない単一なるもの
・二番目のない一なるもの
・一つでさえないもの
・空間的意識
・認識する空
・純粋な気づき
・意識
・非概念的
・永遠に新鮮
・自ら輝くもの
・存在意識
・まさにこれであり、それ以外の何物でもないもの
・不生の仏心
・ブラフマー(ヒンドゥー教の創造神)から草むらまで(ギータ)
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(advaita vedanta)
 不二一元論Wkipedia(不二元)
reference point
  物事を見たり判断したりする起点となる位置のこと。参照点、基準点。
mind 
 セイラーボブが使う場合は、思考(thought)、感覚(feeling)、感情(emotion)を含めたものを指す。日本語の「心」とは必ずしも同じではなく、一番近い意味の日本語は「思考」。
enlightenment
 覚醒。ある時何かが起こって、別の意識状態になり、幸福感、至福感が永続する状態。発音は正確にはエンライトゥンメントであるが、真ん中の en はほとんど発音されない場合が多いので、当ブログではエンライトメントと表記。セイラーボブの世界にはエンライトメントはない。
I am.
 「私は在る」という訳が定訳。自分が存在するという感覚。思考がawareness を一番近くで感じられる感覚。実際には「私」は実在ではないが、この「私は在る」という感覚に様々なもの(出来事、経験、条件付け、自己イメージ)を付け加えて、分離した個人がいると思い込んでいる。
ニサルガダッタ・マハラジ
 ボブの師。ボブは1976年から1977年にかけての一年間、ボンベイのマハラジのもとに断続的に通い、教えを学んだ。
ギルバート・シュルツ
 ボブの最初の本"What's wrong with right now unless you think about it."編纂。非二元関連の様々な師にインタビューしたサイトthe urban guru's cafeを運営。
ジョン・ウィーラー
 ボブの二冊目の本"Presence Awareness"編纂
 参考:resonanz360から
ジェームズ・ブラハ
 インド系アメリカ人。ヒンズー占星術師。2004年にセイラーボブを5週間アメリカに招き、その様子を"living Reality"に書いた。ブラハのサイト
カリヤニ・ローリー、ピーター・ローリー
 メルボルン在住。ボブとは長年の交友関係。NONDUALITY AUSTRALIA主催。
バーバラ
 セイラーボブの奥さん。故人。
カタリーナ・モニカ(愛称カット)
 セイラーボブの現在のパートナー。2015年からボブを訪問。2018年11月17日結婚。ポーランド出身。
サビーナ
 2014年頃ボブのもとで教えを学ぶ。メルボルン在住。今はセイラーボブを離れている。
ネイサン・ギル
 Living Reality の中でジェームズが「clarity」を読んだといったところ、ボブがそれは良いと言った。ボブが2018.9.23のミーティングでも言及した。故人。
レオ・ハートン
 Living Reality の中でジェームズが「Awakening To The Dream」を読んだといったところ、ボブが良い本だと言った。
ジョーン・トリフソン  
 Living Reality の中に、ボブがアメリカで会う予定だと書いてある。実際に会ったかどうかは書いてないが Living Realty の推薦文を書いている。
グレッグ・グッド
 Living Reality の推薦文を書いている。
鈴木大拙
 「Zen Buddhism」の話がLiving Realityの中で関係者から。彼は優れているとギルバートからも聞いたことがある。
Douglas Harding(ダグラス・ハーディング)
 ボブが"Presence Awareness"の中で(33.Everything is Reflectedから)、脳から物を見ているのではなく、空っぽの空間から見ているという説明した時、「ダグラス・ハーディングは頭さえないと言っている」と引用。ダグラス・ハーディングの「頭がない方法」がとても参考になったのでリンクを貼っておきます。
What's wrong with right now unless you think about it.もしくは
What's wrong with right now if you don't think about it.
(今そのことを考えなかったら、何も問題ないじゃないか)
 ギルバート・シュルツが編纂したボブの最初の本2001年出版。思考がすべての問題のもとであるということ。
Presence Awareness
 ジョン・ウィーラーが編纂したボブの二冊目の本。2004年出版。「存在意識」(自分が存在するという感覚)この意識こそがボブの言う知性エネルギーのこと。
present awareness
 今ここにある意識。
Living Reality
 2004年のBobの五週間にわたるアメリカでのミーティングついてジェームズ・ブラハが書いた本。2006年出版。ボブとの対話を中心に、ボブの教えについて詳しく学ぶことができる。
Only that
「ただそれだけ」の原書。2010年出版。that は知性エネルギー、意識のこと。
Nothing in this world can trouble you except your own imagination.
 (この世ではあなたの想像以外、何もあなたを傷つけはしない)ニサルガダッタ・マハラジの言葉。思考がすべての問題のもとだということを言う時に引用する。
Can you hear the tram?
Are you aware the tram?
 アウエアネスとは何ですかとボブに聞くとこう答える。あなたの思考が働いていなくてもトラムの音は聞こえている。聞くこと、気づくことは思考とは関係なく自然に起こっている。つまり、思考はあなたではなく、アウエアネス(意識)こそがあなたであると説く。
The answer is not in the mind.
   (答えは思考の中にはない)アウエアネス(意識)を思考で理解しようとしても無駄である。なぜなら、それは思考の外にあるから。
質問者が消えれば質問も消える
 質問を発し続ければ「私」は消えない。質問をやめると、質問が消え、私も消え、理解が起きる。
Know the truth and the truth will set you free.
  (真実を知ればあなたは解放される) 聖書から。私は実在ではないと知れば、問題の根が消え、解放されるという時に使う。
The only fact you are absolutely certain of is the fact of you own being.
 (あなたが絶対的に確かだと思う事実はあなたが実在であるということ)このbeingは意識のこと。この意識だけは否定のしようがない事実であり、それだけが真実。
青い海の水をバケツ一杯汲んでこいといってもできない。あなたは海の水が青くないことを知っている。
 私が実在ではないと理解したあとも私がいるように見えることの例え。同類のたとえとして、
空が本当は青くないことはあなたはよく知っているが、それでも空は青く見える。
悟りを開く前は薪を割り水を運び、悟りを開いた後も薪を割り水を運ぶ。
 真理を理解しても何かが起こるわけではなく、表面上は何も変わらないという例え。
あなたの目が「私は見る」というのか?あなたの耳が「私は聞く」と言うのか?
 思考には見る力も聞く力もないということの例え。実際に見て聞いているのは意識。
地面に落ちた種のうち、少ししか芽を出さないものもあればたくさん芽を出すものもある。またまったく芽を出さないものもある。
 聖書から。ボブの教えを理解する人もあれば理解しない人もいるという例え。
Thou Art That.
  (汝それなり)ヒンドゥーのことわざ。同類の表現としてはI am that.
You are that.
 エンライトメントは無いのですか?と聞かれてボブが言う決まり文句。
他には、What you are seeking, you already are.
もともとはウパニシャッド哲学でウッダーラカ・アールニが語った格言 “I am That, thou art That, all of this is That”(我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり)。ヴェーダ(ヒンズー教の聖典の四つのマハーヴァキヤ(大格言)の中の一つ)
There is no right or wrong, good or bad, but thinking makes it so.
 (正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとかいうのは人間が勝手に考えていること)シェイクスピアの言葉。善悪は単にマインドの産物であるという例えでボブがよく使う表現。
Hear, O Israel: The LORD our God, the LORD is one.
 旧約聖書聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である)ボブによればこの言葉は一つしかないものを教えているという。
I am the father of one.
 (聖書)ボブによればこの言葉は一つしかないものを教えているという。
Great perfection is non conceptual awareness.(大いなる完成は非観念的意識である)
 ゾクチェンの言葉。
unborn Buddha mind「不生の仏心」
 「不生の仏心」とは、思考が起きる前のマインドのこと。また、禅の学問的には後天的に新たに生み出されたものではなく、もともと具わっているもののことをいう。もともと人は仏陀の心を持っているという意味。盤珪の言葉。
盤珪 永琢(ばんけい ようたく/えいたく)
If you see the Buddha on the road, Kill him.
 (ブッダに道で会ったらブッダを殺せ)メッセンジャーではなく、自分の中に真実があるという意味。
Start from the fact that you already are.
  (あなたはもうそれなのだという事実から始めなさい)何かになろうとすること、覚醒や目覚めを求めることこそが問題を作り出しているという時に使うフレーズ。
Stop talking, stop thinking and there is nothing you will not be able to know.
 (話しをやめ、考えるのをやめるとそこにあなたのわからないことは何もない)
 信心銘からの引用。思考が治まれば、そこには理解(アウエアネス・意識)があるという例え。
大いなる道は難しくない。選り好みをせず、愛することも憎むこともなければ、すべてははっきりと明らかになる。だがわずかでも分別をすれば、天と地は遙かに隔たる。
 信心銘からの引用。講話で時々引用する。思考が葛藤を作り出しているという例え。
信心銘(しんじんめい)Hsing Hsing Ming
The word person came from persona, the mask.
 (人person の語源は仮面persona,マスクからきている)個人というものが実在ではなく、概念にすぎないという時に使う。
Act spontaneously and natural.
  (起こるに任せて自然にふるまいなさい)日常の諸問題にどう対処したらよいかと聞かれると、ボブはたいていこう答える。マインド(思考)ではなく、その背景にある意識はいつでも答えを知っている。
Whichever direction you go in, you are still in the mind. There is only one way to get out of that. Full stop!
 どの方角を探しても、あなたは依然マインドの中にいる。マインドを超えていく方法はただ一つ。フルストップ!
Being utterly awake with five senses wide open.
 (五感を十分に開いて注意深くありなさい)ゾクチェン(仏教)からの引用。思考ではなく、五感に注意を向けて、今ここにいることを説く。
sat-chit-ananda nama rupa (サット・チッタ・アナンダ・ナーマ・ルーパ)
 ヒンズー教。五つの要素。sat=being存在、chit=意識、ananda=愛・幸福。 nama=名(心的要素)、rupa=形 (肉体)ヒンズーの教えでは、たった一つのものをsat-chit-anandaで表し、それが名namaとなり形rupaとなって現れるが、それはmaya(マーヤー・幻影)であると説く。
“A thousand shall fall on your left side, ten thousand will fall on your right side. But it doesn’t come nigh your dwelling place.”旧約聖書詩篇91:7-16
千人があなたの右で倒れ、万人があなたの左で倒れても、災いがあなたの家に近づくことはない。(思考を受け取りさえしなければ災難「悩み」にあうことはないという例えでボブが引用する)
Acknowledge Him in all thy ways, and He will direct thy path.箴言3:5ー6
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(自分自身の内側の声を聴くようにという意味でボブが使う)
金の装飾品に価値があるのではなく、金そのものに価値がある。
(ヴェーダンタから。うわべのものではなく、その本質が尊いという例え)
海、波、水蒸気、氷はどれも水である。
(ヴェーダンタから。うわべ上は様々なものとなって現れているが、その本質は一つのものであるという例え)