2023.4.30ミーティング 1:07:24から
カット:様々なやり方でやってくる最も明らかな問いは、マンジュが言ったように、依然として自分は人であるかのように感じるというものです。あるいは、私たちがよく耳にするように、「知的には理解したが、そうは感じない」というものです。それは、何かを感じる必要がある「私」がいるという推定なのですが、その想像上の「私」は何を感じる必要があるのでしょうか。
「こうじゃない。何かこれとは違うもっと別のものだ。これは良くない」というものです。生はこの瞬間を完全なものとして創造していますが、そこには想像上の「私」がいて、「いいや、生が間違っている。もっと違っているべきだ。それが何かはわからないけど、こんな風じゃない」というものです。それが、「そうは感じない」「知的には理解したけど」「理解はしたけど体現していない」という質問となります。
こうした質問を揶揄するつもりはありません。というのも、この質問は私の人生においてもいつもあったものだからです。依然として収縮を感じる、分離していると感じるのは本当のことです。何度聞いても、何度自分に言い聞かせても、そんな風には感じないというのは、今この瞬間における体験です。でも、真実はそうではないのです。それは信念です。それは体験していることではありません。それは信念です。
参加者A:マンジュに言いたいのです。分離の感覚は完全なものです。そして、その分離から抜け出して、我が家へ帰るべきだという感覚もまた完全なものです。それはそのように展開すべきものなのです。
カット:そのとおりです。
参加者B:知的には理解した、そんな風には体験しないというのは、認識の問題、考え方の問題で、そこには何か手に入れなくてはいけないことや達成しなくてはいけないことがあると考えてしまいます。そうではなくて、ボブがいつも言うように、思考なしで今この瞬間、存在として生きることだと思います。信じていることを飛び越えること、自分がいるとかいないとか、それを手に入れようとか見つけようとかを飛び越えることだと思います。他の人がどう表現するのかわかりませんが。
ジェーン:思考は敵ではありません。思考は単なるナレーションです。ボブが言うように、言葉を学んでからずっと続いています。そして今言われたように、思考の「私」もまた完全なものです。でも、大切なのは、あなたはその「私」ではないということです。つまり、あなたはナレーションではないということです。それは、あなたである存在の上の上に現れています。その存在意識が本当のあなたです。そこには分離はなく、一つのもの(oneness)があるだけです。でも私たちはナレーションと同化します。
私たちはナレーションではないのですが、ナレーションが続いていても問題ではありません。でも、思考が悪いものだと考えると、抵抗が生まれます。「自分は手に入れてない」とかなんとか。でも、それでいいのです。それはそう起きるべくして起こっているのです。私はポール・ヘダーマン(Paul Hedderman)のポインターが好きです。彼は例え話をします。
そこには鉄道駅があって、電車がやって来ては去っていきます。思考はそうした電車であり、やって来ては去っていきます。あなたという存在は鉄道駅です。鉄道駅は動きません。それはいつもそこにあって動きません。電車はやって来ては去っていきます。それでいいのです。
問題は、その思考の一つにしがみついたり、電車に止まれと言ったりする時に起こります。それが問題です。もしそのことを考えなかったら何も問題はないのです。たとえ思考が続いていたとしてもそれもオーケーです。それも問題ではありません。分離した存在がいると考えて自己同化することが問題なのです。抵抗しさえしなければ、思考がやって来て去っていくことに問題はありません。思考は減っていきます。