2021/11/27

部派仏教(アビダルマ)倶舎論②

心(しん)と心所(しんじょ)

五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。

五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に不随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)

ここまでは前回のブログに書きました。心と心所について、もう少し詳しく書きます。五根(眼・耳・鼻・舌・身)が、認識対象である五境(色・声・香・味・触)と触れ合うと、そこに反応が起こって認識が生じる。その認識そのものを心(しん)といいます。

例えば、レモンを見ると、その色(いろ)や形が認識される。それが心(しん)。それに付随して、(すっぱいかも)(食べたい)(新鮮そうだ)というように、心に付随して起こってくる反応を心所(しんじょ)という。

心所は大きく分けて六つのカテゴリーがあり、その中に46の構成要素がある。どんなものがあるかは、Wikipedia 五位 を参照してください。全部は説明できないので一つだけ説明すると、例えば夏の暑い日に冷たいかき氷を食べると、受(じゅ:感受作用)という心所が起きる。

受には三種類(楽・苦・不苦不楽)の三種類があり、この場合は楽という受が起きる。なぜなら、かき氷を食べることは好ましいことだから。もし、かき氷を大嫌いな人が、人から無理やり食べさせられた場合は、苦という受が生じる。

では、心と心所は、私たちの体のどこあるのか。現代人なら脳の中にあると考えるでしょうし、昔の人なら心臓の中と考えるかもしれません。でも、倶舎論では、心と心所は特定の空間には存在しないと考えます。あえて言うなら、体全体に遍満しているということになります。

心所は心(しん)から起こり、心(しん)は五根によっておきます。五根は色(しき:物質)であると書きました。でも、物質ではない、もう一つの根があります。それは意根といって、心のことです。

私たちが、何かを思い出したり、何かを考えたりして、その結果として心所が起きる場合、具体的な根(原因)なしで起きるのは、おかしいということになり、倶舎論では物質ではない根があるはずだと考えました。

でも、その根は物質ではない。その根はどこにあるかというと、一刹那前の心が根として働くのだという理論づけをしました。

「私」とは、肉体を構成する色法と、そこに遍満する心・心所を合わせた全体の仮称であり、私などという実体はもともとどこにも存在しないということが重要です。この世で生きる生命すべてが無我であり、それは諸要素の集合体としてのみ機能しているということ。諸法無我です。

刹那滅

仏教では、あらゆるものの存在を刹那滅(せつなめつ)という考え方でとらえます。刹那とはきわめて短い時間のこと。あらゆるものは、無数の基本的要素が法(ダルマ、縁起)によって因果関係を結び、存在を構成します。ただし、その存在は一瞬間(刹那)だけだというのです。瞬間的に物事は起こり、瞬間的に消滅する。そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また瞬間に起こり、また消滅する。

私たちにとって、持続して存在しているように見えているものは、瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものであるという考え方を、刹那滅といいます。

私たちは通常、現在だけが実在であり、過去や未来は実在しないと考えています。例えば今、音楽を聴いているとする。音楽は音の連続なので、ある瞬間に音が聞こえる。その音を聞いているのはその刹那だけ。次の瞬間になれば、その音は消滅して別の音が現れるため、前の音はもう存在しない。また、未来の音はまだ現れてはいない。あるのは、この刹那に現れている音だけ。これが一般的な考えかたです。

しかし、倶舎論の刹那滅では、「現在の法が実在しているのと同様に、未来の法も過去の法も実在している」と考えます。その理由は三つ。一つは、煩悩の発生要件。私たちは様々のものを対象として煩悩を起こす。過去のものや未来のものを対象として煩悩を起こすこともある。ということは、過去や未来のものも実在であると考えざるえない。

二つめは、「認識できるものは実在する」というインドで承認されている考え方。「私たちは、実在するものしか認識できない」という理屈。過去や未来のものでも、認識している以上は実在していると考える。

三つめは、業の因果法則。今現在作っている業が、遠い将来、その結果を生むとするなら、その時間的に隔たった未来の法が実在すると考える。現在行っている業が、未来の法に信号を送り、因果則が成立すると考える。

これを説明するのには、映画のフィルム映写機を使うと理解しやすい。映写機は、上下二つのリールとその中間にある投射装置でできている。上のリールには、今から上映されるフィルムが巻かれていて、投射済みのフィルムは下のリールへと巻きとられていく。

フィルムというのは、アニメーション映画かパラパラ漫画を想像してもらえばわかるように、登場人物を一コマ一コマ、少しずつ移動させることで動いているように見える。コマの中の登場人物は静止している。倶舎論では、私たちの世界がそうなっているという。

もし世界が、一コマずつ一刹那に生じては消えていくものだというなら、あらゆる存在物は静止したものであるということになる。ところが、私たちの認識能力は、それが連続したものとしか認識しないため、世界が変化しているような錯覚をする。「私」という存在についても同様に、そこに「私」がいて、時間とともに変化しているように思ってしまう。

ただし、この映写機の例えには一つ問題がある。映写機の未投射のフィルムは順番が決まっているが、私たちが経験する世界では、未来は確定していない。そのため、未投影のフィルムの並びは決まっていない。これが、倶舎論の説く時間論。

五位七十五法では、この世を構成する要素は七十五種類の法(要素)でした。しかし、その法の中に時間は含まれていない。つまり、時間は実在ではなく、実体のない仮設のものということになる。実際には時間などというものはなく、私たちがそう錯覚しているにすぎない。

フィルムの説明で、倶舎論の説く刹那滅はわかったと思うのですが、では、どうして前の一コマと同じような一コマが次に現れるのかという疑問がわいてきます。一コマ一コマ生じては消えているのであれば、どうしてまったく別のシーンが登場しないのでしょうか。

実際問題として、前のコマと全く関係がないコマが次に現れたら、映像はつながらず、無茶苦茶になって、何が何だかわからなくなると思うのですが、それが連続しているかのごとくに、似たような景色が現れるのはどうしてでしょうか。

それは因果(いんが)によってです。倶舎論では「六因(ろくいん)、五果(ごか)」という因果の法則で説明します。六つの因(げんいん)によって、五つの果(結果)をもたらすというものです。その因の一つに同類因(どうるいいん)というものがあります。

同類因とは、法(構成要素)が未来から現在へ、現在から過去へと変移する際に、「未来に存在している法の中から、現在とよく似た法」を引っ張ってこようとする傾向をもっているというものです。

ある法(構成要素)が現在に現れてなんらかの作用を行うと、それはおのずから、あとに自分と似た法を引っ張ってこようとする一種の継続力を生む。したがってもし特別な事情がなければ、その直後には、それと同類の法が現れることになる。

このプロセスが連続すれば、「同じ法がずっと連続して現れ続ける」ように見えるという状態になります。しかし実際には別の因果則の影響を受け、連続性が断たれる場合も多い。

例えば、テーブルの上に一個のリンゴがあったとする。それは色法でできている。細かく言えば、色・香・味・触の各法でできている。もし、他の因が作用しなければ、そのリンゴはずっとそのままということになるが、実際にはそうならない。

一見、何の変化もないように見えるリンゴでも、半年も置いておけば、やがて腐ってしまう。あらゆるものが実際には少しずつ変化していき、年月とともに姿を変えてゆく。花瓶や石でさえ、長い年月の間に姿を変える。

アビダルマの世界にも、永遠に変化しないものはない。諸行無常である。

初期仏教では、こんな複雑な理論を展開することはなかったのに、部派仏教では複雑な理論を発展させました。二千年前に、これほど難しい理論を発展させたというのは驚きです。

この記事は 仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫) を参考、拝借して書いております。興味のある方はぜひご一読を。

参考文献
仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) 

2021/11/20

部派仏教(アビダルマ)倶舎論①

釈尊のもともとの教えは対機説法(悩みを持つ個人に対して個別に説いた教え)であり、決まった聖典というものはありませんでした。釈尊の死後、弟子たちによって、釈尊が語った教えが口頭で伝承され、それがのちに、ニカーヤ(阿含経:あごんきょう・アーガマ)という一連の経典となりました。阿含経はそうした断片的な教えの総称のことです。弟子たちは、そうした断片的な教え(ニカーヤ:阿含経)をたよりに修行をしていました。

釈尊の死後100年ほどたつと、教団が分裂を始めます。最初は大きく二つに分裂し、その後さらに20ほどへと分裂して、たくさんの部派が生まれます。それを部派仏教といいます。

部派仏教は、のちに起こった大乗仏教(乗は乗り物、教義を意味する。偉大な教義の意)側から、小乗仏教(劣った教義)と呼ばれました。大乗仏教は北伝といって、中国やチベット、朝鮮半島、日本に伝わりました。小乗仏教はスリランカを経由して東南アジアに伝わり、現在もタイなどで存在します。そこでは今でも釈尊存命時と同じように、出家した僧は結婚することなく、托鉢によって生計を立て、修行に専念しています。彼らは、自分たちの仏教をテーラワーダと呼び、それこそが釈尊以来の正統であると自認していて、日本の仏教(大乗仏教)を、僧侶たちの生活も含めて、堕落したものと見なしているそうです。

釈尊が亡くなって300年から900年後、部派仏教ではさかんに阿含経の解釈研究がなされ、解説書が作られました。そうした営み、文献研究をアビダルマ(法:ダルマについての研究という意味)といいます。そのため部派仏教はまた、アビダルマ仏教とも言われています。

なぜそのような研究、解説書が必要だったかというと、断片的な教えではなく、体系化された一つの解釈書を必要としていたからです。

部派仏教の教えは、大半の原典が残っていないのですが、後世になって部派仏教の教えを解説した解説書がいくつか残っています。部派仏教の中でも特に有力だった部派の一つに説一切有部(せついっさいうぶ)という部派があり、その教えを解説した注釈書の一つが、世親(せしん:ヴァスバンドゥ 400~480年)の倶舎論(くしゃろん:阿毘逹磨倶舎論:あびだるまくしゃろん)です。

僧侶や学者の間では、「唯識三年、俱舎八年」と言われていて、もし仏教の唯識(ゆいしき)の教えを習得しようとするなら、その前に俱舎論を八年間学ばないと習得できないというのが一般論だそうです。それも、漢文やサンスクリッドなどの古代インド語が読めることが前提での話ではないかと思われます。

原典や、それを翻訳したものは、とても私の手におえるものではありません。私でも理解できるものはないかと探して、佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を見つけました。この本は倶舎論の入門書として、とてもわかりやすい説明がされています。私がこれから書くことは、この本をもとにしています。この本はアビダルマの世界観を知ることができ、とても有益な本なので、興味のある方は、ぜひ一読されることをおすすめします。

般若心経をはじめとする日本の仏教(大乗仏教)では、「すべてが空である」ということが強調されますが、倶舎論ではそうではありません。「この世の多くの存在は虚構だが、その奥には間違いなく実在するものがある」と言います。

このブログの初期仏教の回、五蘊のところで、「私」は実在ではないと書きました。その思想が発展して、物も実在ではないと説くようになりました。ミリンダ王の問いのところで出てきたように、例えば車は実在か? 車輪が車なのか? 荷台が車なのか? そうした様々な部材の集合体を車と呼んでいるだけで、車という存在は実在ではないと説きます。

ほとんどすべての物は、私たちが勝手に名前をつけてそう呼んでいるだけで、実在ではありません。では、そこには何もないかというと、そうではありません。そこには、その物を構成する要素があると説きます。仏教では、その構成要素のことを法(ほう)と言います。また、法には原理、法則という意味もあります。その法によって世界は構成されている。それが倶舎論のおおもとの世界観です。

釈尊は、無我、無常を説きました。私はおらず、不変なる物(常なる物)は存在しないと説きました。では、私たちが、そこにあると思う人や物は一体何なのか、どうしてそう思うのかということを定義する必要があります。そこにあるのは、実在としての私や物ではなく、構成要素、法則、原理(法:ダルマ)であり、その理論的裏付けとして、部派仏教では五位七十五法が生まれました。これは、五蘊とは別の分類法です。(この他にもいくつかの分類法があるのですが、仏教は時代によって、解釈する人たちよって変化して、様々な分類法が生まれました)

五位七十五法

説一切有部の世界観では、我(が)や実在としての物の存在は否定されます。ただし、個々の法(自性を維持するための法則・原理、構成要素)は有るという立場をとります。それゆえに、説一切有部と呼ばれています。説一切有部では、あらゆる存在を五つに大別し、それをさらに七十五に分けて定義しています。これを五位七十五法と言います。

要するに、現象としての世界のすべては、七十五の構成要素(法則・原理)に分けることができるというもの。

そうして分類することで何を言おうとしているかというと、この世界を構成する人も物も実在ではなく、それを構成する構成要素(法則、原理)のみがあるということを言おうとしています。五位七十五法の全体を説明するのは私の手に負えないし、このブログの趣旨でもないので、概略だけ書きます。

五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。

五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に付随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)

これでは何のことかわからないと思います。Wikipedia 五位 を読んでも、やっぱりわからない。佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を読んでもらうのが一番いいと思うのですが、それでは先へ進めないので、私なりの勝手な要約で説明させていただきます。

例えば、レモンがテーブルのあったとします。物質であるレモンが色(しき)。レモンを見て、こころ(意識、脳)の中に映像として現れるものが心(しん)。その、こころに現れた映像(心)に不随して起きる(すっぱそう)(かじりたい)という心(こころ)の反応が心所(しんじょ)。

そうした色、心、心所がバラバラにならないように結びつけておく一種のエネルギーを心不相応行の一つの得(とく)という。他にも心不相応行は13あるが、説明は省略。それらは、物質でも心でも心所でもない、一種のエネルギーのようなもの。

無為法(むいほう)とは、物が存在する場所としての空間(虚空:こくう)や、煩悩が消えた状態(択滅:ちゃくめつ)など、因果関係によって生滅する可能性のない法のこと。有違法(ういほう)とは、因果関係によって生滅する可能性のある法のこと。色・心・心所・心不相応行の四つは、因果関係によって生滅する可能性のある法なので、有為法と呼ばれる。

「物は存在するのか?」という、このブログのテーマに関係するのは色(しき)なので、色(しき)について説明します。色(しき)は物質的なもの、と書きました。

例えば、石を見た場合、常識的な考え方として、そこに石があるから石の色や形が見えるのであり、手に持てば石の肌触りや重さを感じるため、そこに石があると考えます。ところが、倶舎論の場合は、その逆です。

実在するのは、色や形、肌触りや重さだけです。それを五感を使って認識し、その色や形、肌触りや重さという要素から、石を意識の中で想定しているにすぎません。実在するのは、その構成要素である色、形、肌触り、重さだけです。その構成要素のことを色(しき)と言います。

色(しき)は11あります。そのうち、無表色(むひょうしき)は、説明が難しいのと、このブログに関連していないので省略。(仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) p122参照)。残りの10の色(しき)について説明します。

眼・耳・鼻・舌・身(げん・に・び・ぜつ・しん)…この五つを五根(ごこん)と言う。認識する側の物質。

色・声・香・味・触(しき・しょう・こう・み・そく)…この五つを五境(ごきょう)と言う。認識される側の物質。ここに出てくる色(しき)は、色(いろ)と形と言う意味。

五根は、五感をつかさどる感覚器官。その五根によって認識される物が五境です。眼で何かを見た時の、いろや形を色(しき)と言い、耳で聞いた音を声(しょう)、鼻で嗅いだものを香(こう)、舌で味わったものを味(み)、身(しん:体)で触れたものを触(そく)と言う。

なぜ物質を五根と五境に分けているかというと、根は心とつながっているからです。例えば、眼で何かを見ると、その認識は心の中で起きる。眼は物質でありながら、心とつながっている。眼は他の物質とは異なる。石は心とは結びついていない。同様に、耳・鼻・舌・身も心と結びついている。心に結びついている法(根)と結びついていない法(境)で物質を分類しています。

ここで重要なことは、倶舎論では、五境を物質として分類しているということ。例えば、石を手に取った場合、石があるのではなく、手が感じる肌触りと重さという触だけが実在だということ。レモンを見た時、レモンがあるのではなく、眼が認識する黄色とレモンの形だけが実在だということ。色(いろ)や形を物質として分類しています。

石やレモンは心の中で勝手に想像したものであり、実在ではなく、仮想の存在であり、法ではない。実在するのは、石の肌触りやレモンの色形だけと説く。

倶舎論では、色(しき)を認識する物質(根)と、認識される物質(境)を分けて分類している。でも、眼は認識される物質でもあるのではないか、という疑問がわくかもしれませんが、倶舎論では、眼が物を見ているのではなく、眼の奥にある眼根(げんこん)という物質が物を見ていると説きます。

同様に、耳の奥にある耳根(にこん)が聞き、鼻の奥にある鼻根(びこん)が臭いをかいでいます。眼そのものは眼を守るための単なる土台であり、物を見る能力がないと説きます。そのため、眼が見えない時は、眼に何か問題があるのではなく、眼根に問題があるのだといいます。

では、その眼根を見ることができるのかというと、それは眼の奥に細かく点在する物質であり、決して見ることができないと説きます。他の五感の構造も同じです。

まとめるとこうなります。倶舎論では物質世界を、「認識する物質」と「認識される物質」に厳密に分ける。両方を兼ねるものはない。認識する物質とは、肉体に備わる五種の感覚器官、(五根:眼・耳・鼻・舌・身:げん・に・び・ぜつ・しん)。それは「認識されることがない」から、肉体上に備わっていても、私たちがそれを認識することはできない。

「認識される物質」とは何かといえば、その五根以外のすべての物質。石を見る時、石は「認識される物質」ではなく、石の「いろとかたち」が眼によって「認識される物質」。石そのものは仮想のものであり、実在ではない。

では、その「認識する物質」と「認識される物質」は何でできているか。それは、極微(ごくみ)という粒子でできている。粒子は、四大種(しだいしゅ:地・水・火・風)と呼ばれる基本粒子と、所造色(しょぞうしき:眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触)と呼ばれる可変粒子の組み合わせでできている。詳しい説明は省略しますが、要するに、色(しき=物質)はすべて粒子でできていると説いています。

参考文献
仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) 

参考サイト

2021/11/13

物は実在か?

セイラーボブは、「物は実在ではない」と言いました。その理由を列挙すると、だいたい以下のようなものでした。

1 「実在」の定義は、「永遠に変化しないもの」であり、永遠に変化しないものなどない。どんなものでも、時とともに形を変え、やがては消えていく(見えなくなる)。

2 現代の量子力学において、極微の粒子は質量を計測することもできないようなものであり、物が存在するとは言えない。私たちはスカスカの空間を見て物だと思っている。

3 物は言葉によって概念化されたものであり、実在とは言えない。

では、仏教では物の実在についてはどう言っているのかというと、上記の三つと同じようなことを言います。それは、時代によって、様々に変化する仏教の中で、いろんな説かれ方をします。

釈尊の直接の教えである初期仏教では、五蘊(ごうん)が説かれ、それによって、「私」というものは要素の集まりにすぎないと説明されました。それがのちに「私」だけではなく、あらゆる物がそうであると説かれるようになりました。

そして、あらゆる物も要素の集まりであり、物としては存在するけれども、永遠に変化しないものではなく、時とともに変化して消えていくため、実在ではないと説きます。これは諸行無常と言われ、上記の 1 と同じことを言っています。

この時点での仏教では、物は存在するけれども、実在ではないという解釈です。ここまでは、これまでのブログで書きました。やがて仏教は時代とともに変化していき、大乗仏教にいたっては、物は存在しない。一切は空(くう)であるという空の理論へと変化していきます。

その変化した仏教について書く前に、一般論として、私たちがどういうふうに物を認識しているのかについて考えてみます。これは、唯識の本を読むと出てくる話で、これから書く内容は、そういう本をもとにして書いています。

私たちが物を視覚によって認識する場合、どういうしくみで認識するのか考えてみます。

例えば、台所のテーブルの上に一個のレモンがあったとします。それを私たちが見た時、そのレモンに反射した光(電磁波の波長)が、眼の角膜、水晶体を通り、網膜へと届き、網膜上にレモンの像が映ります。

網膜には識別機能がないので、何らかの形で脳へと伝達されて、脳がレモンを識別しているとされています。しかし、レモンの像がそのまま脳に伝達されているわけではないようです。というのも、脳には像を映し出す装置がないからです。脳にはスクリーンもディスプレイもなく、神経、タンパク質、脂肪の塊です。

網膜から脳へは、像が映像として伝達されるのではなく、なんらかの形で信号化されて、神経経由で脳へ伝達され、脳はその信号を読み取って、何らかの形で、レモンという像を再生しているはずです。そして、脳はその像を見て、過去の学習体験と結びつけ、「あ、レモンだ」と思います。場合によっては、酸味が想起され、口の中に唾液が出てくるかもしれません。レモンが好きな人は、手に取ってかじってみようと思うかもしれません。

さてここで問題なのは、そのレモンが本当に存在していると言えるかということです。レモンに反射した光は信号に変えられて脳に届き、脳はその信号をレモンというものに作り替えて映像化します。その映像を脳がレモンだと認識しています。

つまり、私たちは、実際のレモンを見ているのではなく、脳の中で再生されたレモンを見て、過去の記憶に照らしてレモンだと認識しているということになります。仏教的に言うならば、心が作り出した像を心が見ているということになります。

言い方を変えると、私たちは心が作り出した世界を見ていることになり、心がなかったら世界は存在しないことになります。

何をバカなことを言っているんだ、実際にレモンがあるからレモンが見えているんだろ、と言われるかもしれません。

でも、例えばそのレモンをかじろうとして手に取って見たら、それがロウで作られた食品サンプルだったとわかったらどうですか? 「本当のレモンじゃないのか、ちぇ!」となります。つまり、本物のレモンを見てはおらず、脳の中で再生された架空のレモンを見ていたことになります。もし、直接そのレモンとおぼしき物を認識できていたなら、食品サンプルだとわかったはずです。

長野県の燕岳(つばくろだけ)の山小屋から、満天の星空を眺めて感動したことがあります。空を埋め尽くす星々は実在するのでしょうか? 私たちが肉眼で見ている星の光は、何万光年も昔に星から放たれた光を見ているのであって、今この瞬間の光ではありません。ひょっとすると、もう消滅して存在していない星を見ているのかもしれません。

私たちは、自分の外にあるものが実在であるかどうかを認識する機能を持っていません。脳の中で再生された像を見て判断しているにすぎません。言い方を変えると、世界は脳の中にある、脳の中にしかないということになります。

また、バカなことをいうな、と言われそうです。では触覚はどうなんだ。例えば、石は実在か。石を手に取ってみれば、手が石の肌触りを感じ、石の重さを感じるから、石は実在するではないかと言われるかもしれません。

でも、手が感じているのは、石に触れている肌触りと重さという情報にすぎません。それを石たらしめているのは、私たちの脳です。脳が肌触りと重さという信号を石だと認識しているにすぎません。正確な言い方をするなら、「私は私の手の感触、感じた重さを私の脳内の情報に照らしてみて、これは石だと推定しています」ということにすぎません。

私たちは、五感でしか世界を認識することができません。そして、五感で受け取った情報を脳で再構築して、それを認識しています。世界は脳の中にあるにすぎないということになりませんか? 世界は外側にちゃんとある、そう言っておかないと、病院に連れていかれるかもしれないので、世界が実在だということを否定はしません。でも、正確に言うなら、「私たちは世界を直接認識する方法、機能を持ち合わせていない。経験から、そこに世界があると思っている」ということになりませんか?

もし五感を失くしたら、どうやって世界を認識することができますか? そこに世界はあると、どうやって知ることができますか? 五感を使わずに世界を知るためには、体の外に出なくてはなりません。そんなことができる人がいるとは思えません。

確かにそこには何かがある。
でもその何かが単なるエネルギーや波動のようなもので、それを脳が再構築しているとしたらどうでしょう。

イルカやコウモリは人間が聞くことのできない超音波を聞くことができます。ボア科やニシキヘビ科の蛇は、人間が感知することができない赤外線を感知する器官を持っています。鳥や一部の昆虫は、人間には見えない紫外線を見ることができます。逆に、猫や犬は人間と違って、二色しか見えないと言われています。彼らは、私たちとは違う世界を見ています。

物は本当に実在するのでしょうか?
私たちは、それを確かめるすべを持ち合わせていません。
仏教は様々な説き方で、「物は実在ではない」と説いています。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム

2021/11/06

悟り

釈尊が説いた悟りとは一体どんなものだったのでしょうか? 実際には、釈尊以外には知りえないことだと思います。でも、仏典から、それがどんなものだったのかを、おぼろげながら知ることは可能だと思います。

中村元先生、佐々木閑先生の本やYouTube、その他何人かの仏教学者の本を読むかぎり、仏教でいうところの悟りとは、エンライトメントや覚醒のようなものではないようです。中村元先生は初期仏教(釈尊の直接の教えであるニカーヤ・阿含経)の専門家であり、佐々木閑先生は律(仏伝と僧侶が守るべきルール)の専門家です。どちらも、釈尊の直接の教えである初期仏教の研究者です。

釈尊が亡くなった後すぐに、釈尊の教えを正しく伝承するために、500人の阿羅漢(悟った弟子)たちが集まって、第一結集(だいいちけつじゅう)という仏典編纂会議(五百犍度:ごひゃくけんど)が開かれました。(参考:佐々木YouTube4-3)

つまり、釈尊が亡くなった時点で、少なくとも500人の弟子が悟りをえていたということです。また、ヤサの出家の時の話では、釈尊の話を聞いただけで61人の人がすぐに悟ったと出てきます。(参考:佐々木YouTube2-24

もし釈尊の説く悟りが、どこかのインチキマスターたちが説くような、特別な人に偶発的にしか起きないようなものであるなら、これほど多くの人たちが悟るということはありえないと思います。
また、悟った人たちが、たちどころに悩みが消えて、あとは至福に包まれて暮らしたというたぐいの話はどこにも出てきません。

中村先生は、悟りとは到達するものではなく、日々の不断の努力だとおっしゃっています。(前半60分まで参照)


佐々木閑先生による仏の悟りの内容

 

 佐々木閑先生は、努力によって自分を変えていくことも悟りだと言ってみえます。


仏教の悟りは突然の啓示ではなく、学びだと言ってみえます。


仏教の本をあれこれ読んでも、釈尊に突然のエンライトメント、覚醒のような出来事が起こって、あとは至福に包まれて暮らしたという話は出てきません。

初期仏教(釈尊の直接の教え)で説く「悟り」とは、修養、修行による煩悩の克服であり、自己鍛錬によって心の内側を変えていくという教えであり、神秘的な要素は何もありません。ましてや、ある時突然起きるエンライトメントや覚醒のことではありません。

私のこれまでの半生は、ありもしないエンライトメント、覚醒を手に入れることがその主要な目的でした。なんと愚かな囚われだったことでしょうか。もっと早くセイラーボブに出会っていたなら、もっと早くちゃんと仏教を学んでいたなら、もっとマシな人生だったと思います。

そして今も、多くの人が、エンライトメント、覚醒を目指して、怪しい宗教やセミナー、本へと惹きつけられ、その犠牲になっています。彼らの多くは、かつての私と同じように、様々な解決しようのない悩みや不安を抱えていて、エンライトメント、覚醒に救いを求めるのです。

私にとって、エンライトメント、覚醒は、逆転満塁さよならホームランか、トランンプのジョーカーのようなものに思えました。それさえ手に入れれば、あとは何の悩みもなく幸せに生きていけるものだと思い込んでいました。

それが、いかに稚拙なおとぎ話であるかということに、セイラーボブに会うまで気づきませんでした。エンライトメント、覚醒という言葉は時代とともに新しい言葉へと置き換わり、現在では、目覚め、変容、癒しという表看板をかかげています。目覚める「私」、変容する「私」、癒される「私」が果たして実在するのでしょうか? 釈尊もセイラーボブも、そんな「私」はいないと言っています。

悩みや問題から逃避して、稚拙なおとぎ話に救いを求めるのではなく、自分自身で悩みや問題と真正面から向き合って、心の在り方に気づいていく以外に救いの道はないのではないでしょうか。エンライトメント、覚醒などというお手軽な方法はどこにもないことなど、普通に考えればわかることです。

これは、自分自身に自戒の意味を込めて書いています。私は自分が幼稚で、誤ったものの見方にいかに簡単に染まりやすい人間であるかということをよく知っています。
しっかりしないと、またフラフラと精神世界コーナーへ行って、くだらない本に影響されてしまいます。

アカデミックな仏教の本を読むかぎり、エンライトメントや覚醒は仏教の世界にはありません。そこにあるのは、釈尊が定めた法による修行の世界です。

仏教の悟りはエンライトメントではありません。
もし仏教の悟りがエンライトメントであるなら、このブログに仏教のことを書く意味はまったくありません。
このブログは、そこに悟る「私」はいないということを書いているのですから。

ボブ:エンライトメントなどというものはありません。それを達成するあなたもいなければ、時間も未来も存在しません。そしてもしあなたが、静かに座ることに心が動かされるなら、ぜひとも静かに座ってください。「私は在る」とともにいてください。でも、どんな期待もしてはいけません。瞑想している瞑想者を作り出さないでください。静かなマインドとはノーマインドのことです。ノーマインドの中では、分離した自己も他者も存在しません。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp249より)

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参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) ☆
唯識の思想 (講談社学術文庫) (「やさしい唯識」の新装版)☆
唯識入門(「唯識十章」の改訂版)
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム☆ 『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)
般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)コスモロジーの創造: 禅・唯識・トランスパーソナル 龍樹・親鸞ノート空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)
仏陀のいいたかったこと (講談社学術文庫)
お経の意味がわかる本 (仏教を学ぶ) 
仏教入門 (岩波新書) 
ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門
鈴木大拙 (講談社学術文庫)
一休―狂雲集 (禅入門7)
名僧列伝(二) (講談社学術文庫)